釧路戦記 |
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第二章
何事もなく朝が来た。六月十六日だ。外を見てみると深い霧である。太陽は見えず、川向こうの崖も淡い影として見えるだけである。「この霧を利用すれば不意討ちは相当やり易いだろうな」 朝飯後、歯を磨きに川へ行った時も、まだ霧はあたりを包んでいた。 私達は、小銃や拳銃の手入れに精を出した。ドライバーで分解して布で磨き上げ、銃身の内部は石鹸を溶かした湯を入れ、槊杖で洗う。百発以上の弾丸を射った銃身は煤で一杯になっていて、いくら湯を注いでも出てくる水は黒ずんでいた。 さらに私達は、川へ行って銃剣を研いだ。骨は硬いから、銃剣はかなり刃こぼれしていた。それを丹念に研いで、一点の欠け、曇りも残らぬようにする。 石田がナイフの先で、銃の台尻に何やら刻んでいる。私は声をかけた。 「何やってるんだ?」 「あの銃撃戦で殺した敵の数を刻んでるんです。戦闘機乗りが昔やっていたでしょう」 「ふうん」 「班長もやってみたらどうです?」 「俺は止めとくよ。何人殺ったか忘れちまった。……三十人くらいかな。手榴弾でぶっ飛ばしたのを入れると……」 「へえ」 石塚班が昼飯を作り、いざ食べ始めようという時、秋山参謀が来て言った。 「矢板、作戦指令だ。中隊長室に来い」 私は食器を置くと、秋山参謀に続いて、階下の中隊長室に入った。中隊長以下、太刀川、上村、大原小隊長も来ている。私達は机を囲んで坐った。中隊長が話し始めた。 「まず矢板に言うことがある。昨夜、吉川小隊長が、急病で野戦病院に入院した。かなり具合が悪いらしい。そこで、今日の作戦では、お前を吉川小隊長の代理に任命する」 降って湧いたような大役だ。 「吉川の希望だ。暫くの間、頼んだぞ」 「はい、小隊長代理をお受けします」 声が震えた。 中隊長は皆を見回して、話し始めた。 「昨日からの作戦会議で決まった、今日の作戦だ。敵の兵力は、三十三番川(このへんは人跡稀な土地なので無名川が多く、作戦上不便なため風蓮川を中心として通し番号をつけてある)の南、三号幹線――この三股から来る道だ。この道の東にある。本中隊は、左翼部隊に属することになった。東京第二中隊が一緒だ」 「わかりました」 「四個小隊のうち、一個ないし一個半を遊撃隊として、十八番川南方に進出させる。この辺りにも、トーチカや敵兵陣地があるらしい。なに大した兵力ではない。遊撃隊は吉川小隊にする。状況によっては、他の三個小隊の一部を割くかも知れん」 「わかりました」「了解」 「他の三個小隊は左翼の本隊だ」 「わかりました」 「それで、各々の援護火器は、中隊全体で迫撃砲が十一門、重機は十二挺だ。各小隊に両方を各々三−四門ずつ配備する。小隊の中での分担は各々で決めろ。運搬用に、各小隊二台ずつトロッコがある」 トロッコというのは鉄道のトロッコと同じ仕組みで動く鉄製の平たい車で、三輪になっている。一台に約八百キログラムの物資が積め、動かすには三−四人要する。 私は小隊長三人と話し合った。その結果、 「矢板の所は人員が少ないから迫撃砲は二門でいいだろう」 と押し切られてしまった。二十九人という戦力は実質三個班である。 中隊長が言った。 「今は……一一三○か。それでは、一三三○に出発だ。食糧は二食分ずつだ。それから、矢板には小隊用の無線機を持たせる。使い方は他の小隊長に訊いてくれ。以上」 私は総務部へ行って無線機を受け取った。赤電話ほどもある機械で、発信用のチャンネルが九チャンネルもあり、携帯無線用とこの機械同士用とに分かれている。 「関東大隊用のチャンネルは、このTと書いてあるチャンネルだ。他の大隊に属する部隊を呼ぶ時は、それぞれのチャンネルに合わせる。班長用のを呼ぶ時は、左端のチャンネル。電波を受信すると、このランプのどれかが点くから、ダイヤルを合わせて受信するんだ」 太刀川小隊長に、無線機の使い方を教わった。 私は部屋に戻って、部下達に告げた。 「皆よく聞け。早速任務だ。円朱別原野に敵の勢力がある。これを攻撃に行く。本日一三三○に出発するから、それまでに昼飯を済ますこと。それから、小隊長が急病で入院したそうだ。それで、暫くの間、俺が小隊長代理をやることになった。 三木。今日の晩飯は三木の班だったな。携帯食料を六十食分、烹炊部で支給を受けて来てくれ」 「わかった」 三木と六人の部下はすぐ飛び出して行った。 「矢板、無線の調子を確かめておこう。出撃してみて故障してたら困る」 河村が言った。 「そうだ、忘れてた。三木が帰ってきたら、やってみよう。俺はここにいて、この無線でやる。河村と石塚は、一キロぐらい離れたところへ行ってくれ」 三木達が六十食分の携帯食糧を抱えて戻ってくると、三木にもハンディトーキーを持たせて外へ行かせた。 三人が出てゆくと、私は無線を抱えて窓際へ行き、無線機のアンテナを伸ばした。 少時すると、音が鳴って左端のランプが点いた。ダイヤルを左へ回すと、 〈TYY、こちらTYK、応答願う〉 河村だ。私はボタンを押して応答した。 「こちらTYY、どうぞ」 〈こちらTYK。感度良好。以上〉 「了解」 続いて石塚とも交信してから、三木を呼んだ。 「TYM、こちらTYY。応答願う。 TYM、こちらTYY。応答願う。 TYM、TYM、こちらTYY。応答願う」 やっと来た応答は、 〈こちら……TY、M……〉 これはどうした事だ。 「TYM、どうした!? どうぞ!」 応答なし。不吉な予感がした。私はすぐさま、河村を呼んだ。 「TYK、こちらTYY、応答願う」 〈こちらTYK。TYMから、応答があったか? どうぞ〉 「あったにはあったが、途絶えた。それっきりだ。そっちはどうだ? どうぞ」 〈先刻から呼んでるんだが、まるで応答なし。狙撃されたか、地雷を踏んだかだ。どうぞ〉 「わかった。TYIに連絡して、そっちからも救援に行け、俺もすぐ行く! 以上!」 〈了解!〉 私は振り返り、部下達に言った。 「三木の様子がおかしい。今すぐ、救援に行く。西川、荒木、救急袋持って、一緒に来い!」 私は自分のハンディトーキーと銃を持ち、二人は銃と救急袋を持って、三木が行った方角へ向かって走った。小さい橋のあたりで、東の方から走ってくる二人と会った。河村と石塚だ。担架を持っている。 「俺達は川の南側を探す。お前達二人は川の北側を探してくれ」 二人に頼んで、私と西川、荒木は林の中を歩き回った。 前方に人影が見える。味方ではない。私は木の陰に隠れた。敵はまだ気付いていない。私はそっと敵に近づき、背後に回り込んだ。一メートルくらいに近づいてから、敵の首筋に銃口を当て、 「動くな! 武器を捨てろ!」 敵は振り返りざま拳銃を抜いたが、私の銃が一瞬早く、敵の右肘目がけて火を噴いた。敵は拳銃を落とした。私はそれを踏みつけ、敵の胸元に銃口を突きつけた。 銃声を聞きつけて、西川と荒木が飛んできた。二人は状況を見てとると、敵兵のポケットなどを素早く検査し、両手を後ろに縛った。 「お前は革命軍の狙撃兵だな!?」 「そ、そうだ」 「つい先刻一人撃った筈だ。そこへ案内しろ」 私達三人は、捕虜に案内させて狙撃現場へ向かった。 三木は崖下に倒れていた。ハンディトーキーを握っている。腕と胸から出血している。意識がない。重体だ。脈はある。呼吸もある。私達は応急手当を施した。 林の中から、河村と石塚が現れた。 「矢板!」 私は二人を振り返った。 「その担架に三木を載せて、急いで野戦病院へ行ってくれ。出血しているぞ」 私はハンディトーキーを取った。 「野戦病院、野戦病院、こちらTYY」 〈こちら野戦病院、どうぞ〉 「TYMが狙撃されました。重体です。至急手術の手配お願いします。どうぞ」 〈了解〉 「敵狙撃兵一人、捕虜にしました。以上」 〈了解〉 私と西川、荒木、それに捕虜は、急いで兵舎へ帰った。捕虜を本部に引き渡して病院へ行った。三木は軽傷であった。私を見ると、些かバツの悪そうな顔で言った。 「済まんな、心配させて。大した傷じゃない。今日の任務には就けるよ」 私は笑って言った。 「弾丸が当たったのが生まれて初めてだったんだろう。よくあることだ」 三木は私の助けを借りずに、一人で歩いて兵舎へ戻った。 私は中隊長に報告した。 「基地の目の前を狙撃兵がうろつくとは、敵も相当なものだな」 中隊長は考え込む様子を見せた。 「早急に、基地の周りに地雷原を設けるべきです。せめて鉄条網を、もっと頑丈に」 私は上申した。 「それもそうだがな、それより、出発準備はできてるのか? もう出発時刻だぞ」 というようなごたごたがあったため、私達の小隊の出発は少々遅れ、一時四十分になった。 (2001.1.30) |
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