晩秋の日曜日の朝、俺は独り、ある家の玄関前に立っていた。
玄関に掛かっている表札に書いてあるのは、2つの名前。そしてその下に、もう1つの名前を消した跡が残っている。
今もはっきりと書いてある名前は、
「水瀬 秋子」
「 名雪」
今はかすかにしか読めない、消された名前は、
「相沢 祐一」
俺が水瀬家の門をくぐったのは、何ヶ月ぶりだろう。つい半年前まで住んでいたこの家は、今はもう、俺の住みかではない。
両親の転勤の都合で、母親の妹である秋子さんの厄介になることになり、秋子さんと、秋子さんの娘つまり俺の従妹にあたる名雪と、3人での生活が始まったのは、去年の1月、俺が高校2年の時のことだった。
だがそれから間もなく、転入先の高校で俺は、2人の女の先輩と知り合った。先輩たちは高校を卒業すると、ここからそれほど遠くないアパートで共同生活を始めた。
そして1年後、高校を卒業した俺は、水瀬家を出て、先輩たちのアパートで、3人での生活を始めた。
それが先輩たち──
川澄 舞。俺のかけがえのない、いちばん大切な女性。
倉田 佐祐理。舞の唯一無二の親友。俺にとっても舞の次に大切な女性。
──その2人との約束だったからだ。
──「何か困ったことがあったら、いつでも頼りにしていいんですよ。遠慮なく、うちへ来てくださいね。川澄さんと、倉田さんも」
俺が水瀬家を出る日の朝、俺と、引っ越しの手伝いに来た舞と佐祐理さんに、秋子さんはその前の日までと全く変わらない穏やかな微笑みをたたえながら、そう言ってくれた。
でも俺は、秋子さんの厚意には感謝しながらも、それにはできる限り甘えないことを決意していた。
父親は亡く、母親は身体を悪くして何年も臥せっているという舞。父親と大喧嘩したあげく、親子の縁を切られて家を飛び出してきたという佐祐理さん。実の親にさえ何一つ頼ることができない先輩たちの手前、俺ばかりが母親代わりの秋子さんを頼りにするわけにはいかないじゃないか。
そもそも、未婚のしかも未成年の男女がアパートの同じ部屋で共同生活するなんて、およそアパートの大家と名の付く人だったら、俺が独りで入居するよりもずっと、いやな顔をするに決まっている。舞と佐祐理さんが借りているアパートに俺が同居するという話になった時、さすがの佐祐理さんも大家を説得できなくて、秋子さんに大家を説得してくれるよう、お願いしに来たのだった。
佐祐理さんがその件で水瀬家に来た時、事情を聞いた秋子さんはもちろん1秒で了承したが、それから秋子さんが大家を説得するのには1週間かかったそうだ。どんなに秋子さんに苦労をかけたか、秋子さんにはいくら感謝してもしきれないと、佐祐理さんはいつも言う。
その秋子さんを、これ以上頼りにするのは、たとえ身内であっても遠慮するべきだと俺は信じている。きっと佐祐理さんも、俺と同じ考えだろう。舞は……わからない。
そんな俺が、志を曲げて秋子さんを頼りにすることになったのは……。
俺は呼び鈴を押す前に、もう一度、左手に提げたスーパーのレジ袋に目を落とした。
……この得体の知れない物のせいだ。
「はーい……あら、祐一さん、久しぶりですね」
「おはようございます」
俺がこの家に住んでいた頃と少しも変わらない秋子さんに迎えられて、俺は玄関を入った。
秋子さんに勧められるまま、つい半年前まで毎朝 朝食を食べていた台所の食卓、かつて俺の席だった場所に座った。食卓を見ると、俺がいた頃 名雪の席だった場所には、まだ食器が伏せてある。
「名雪…」(…が起きてるはずがないか、日曜日のこの時間に)
言いかけて飲み込んだ俺の言葉が聞こえたのか、秋子さんはお茶を淹れる手を止めて言った。
「名雪は、いつも通りですよ」
いつも通り、目覚まし時計の鳴り轟く中で、昼まで寝ている、ということか。名雪の朝の弱さは、大学生になっても少しも変わっていないらしい。
「名雪に会いに来たんですか?」
穏やかそのものの秋子さんの口調で、こんなことを言われると、ビクッとしてしまう。
「ち、違いますよっ」
どうして俺の口からこんな声が出るんだ、と驚いたほど、声が上ずってしまった。そんな俺の顔を見ながら、秋子さんはあくまでも穏やかに微笑んでいる。
俺は、提げてきたレジ袋を食卓の上に載せると、クリップで口を留めたポリ袋を取り出した。
「えっと、実は……」
・ ・ ・
一昨日のことだ。夕食の当番だった俺は、食材を買うために、大学の帰りに商店街に寄っていた。
ところがあいにく、行きつけのスーパーは臨時休業だった。アパートの台所を探せば、一食分のおかずを作るくらいの食材は見つかると思うし、そうやって見つけた残り物でそれなりのおかずを作る術は、俺だって食事当番を半年続ける間には、少しは身に着けたつもりだ──佐祐理さんにはまだ全然及ばないが。ちなみに舞は……言わないことにしておこう。
しかし今日は、買って帰らなければならない物がある。朝食の当番だった佐祐理さんに今朝、「お米がなくなりました」と言われたので、俺が米を買って帰ることを引き受けていたからだ。
(俺たち3人は、朝食はときどきパンを食べることもあるが、昼食(弁当)と夕食はご飯と決めていた。それは舞が和食党だったからだが。)
とにかく、あまり遅くまで商店街を買い回っているわけにはいかない。俺より遠くの大学に通っている佐祐理さんがお腹をすかせているだろうし、それよりも、夕食を食べてから夜勤のアルバイトに行く舞が仕事に遅刻してしまう。
ふと俺は、今までほとんど食材を買いに入った覚えのない店の前に、「新米入荷」と書いた のぼりが立っているのを見つけた。
ちょうどよかった。ここで買って帰ろう。
妙に薄暗い店先にはワゴンが出ていて、ワゴンの上に米袋が並べてある。ワゴンに貼ってあるビラには、こう書いてあった。
「うおぬま産コシヒカリ新米 超特価! 5kg1980円」
──今にして思えば、この値段は、“おいしい米”として有名な「魚沼産コシヒカリ」の新米にしては安すぎると、気がつくべきだった。いつもスーパーで買っている米の値段と比べてみればよかったんだ。
その米を買って帰った俺は、夕食に舞の好物である牛丼(もちろん他にも好物はいろいろあるが)を作った。金曜日の夜のアルバイトは特に終業時刻が遅いという舞には、好物をいっぱい食べてアルバイトに精出してほしかったからだ。
俺、舞、佐祐理さんの3人そろって、食卓代わりのこたつのそれぞれの席に着き、「いただきます」と声を合わせる。いつもの食事風景だ。
──真っ先に箸を口に運んだ舞は、
「…………!」
黙りこくったまま、あの日々が終わってからはめったに見せたことのない顔で、音をたてて丼を食卓に置いた。
「……祐一」
「ん?」
舞は顔を上げると、ご飯を含んだままの口を手で押さえもせずに言い放った。
「おいしくない」
「わっ、舞、行儀悪いよ、それに、祐一さんがせっかく作ってくれたのに……」
動揺する佐祐理さん。しかし舞は、丼の上に叩きつけるように箸を置いた。これは「もう食べたくない」のサインだ。舞は「ごちそうさま」も言わず、丼も箸もそこに置いたまま、席を立っていく。
おいしくない? そんなはずはない。牛丼の具は、佐祐理さんが舞のために1年がかりで研究したという特製のレシピ通りに作ったはずだ。それは作りながら味見した俺が保証してもいい。
「はぇ〜……どうしたんだろ、舞……」
佐祐理さんは、席を立とうか夕食を続けようか、少しの間ためらった後、俺に対して申し訳ないという顔で、自分の前の丼を手に取った。が、ご飯を一口 口に運んだとたん、
「……!?」
佐祐理さんの動きが止まった──いや、眉や瞼や唇が不規則に動いて、形容しがたい表情を作っている。
それでもさすがは佐祐理さんと言うべきか、しばらくかかってご飯を呑み下すと、静かに丼を食卓に置き、箸を箸置きに戻してから言った。
「祐一さん……このご飯、何ですか?」
……さすがにこの時ばかりは、佐祐理さんの顔は、笑っていなかった。
いったい、どうしたというんだ。カップ焼きそばの湯を捨てずにソースを入れたことがあるのは昔の話、半年も食事当番をしていれば、ご飯の水加減を間違えないくらいの自信はある。それに米は、おいしい米として有名な魚沼産コシヒカリの新米じゃないか。
「何ですか、って……? 今日買ってきた、魚沼産コシヒカリの新米だけど……?」
佐祐理さんは、もしかすると俺に向かっては初めてじゃないかと思うくらい、語気を荒らげた。
「そんな台詞はっ、食べてみてからっ、言ってくださいねっ!」
どうしたっていうんだろう。俺は佐祐理さんに睨まれながら、ご飯を一口 口に運んだ。
……ナ ン ダ、 コ レ ハ?
ご飯の水加減を間違えたんじゃない。その失敗は、俺は何度かやっている。そんな時も、こんなご飯になったことはなかった。
変なのは米そのものだ。魚沼産コシヒカリなんかではない、それどころか米ですらない何かを、米と間違えて炊飯器で炊いた、としか表現できない、奇怪な舌触り。
それとも、もしかしたら炊飯器が壊れたのかもしれない。
あの店のビラに書いてあったのは、何だったのか。これは魚沼産コシヒカリなんかでは、絶対にない。
秋子さんのあのジャムとは違う意味で──あれは舌触りは普通のジャムで、その代わり味が、形容しがたい味、材料を推測できない味だった。これは味は普通のご飯とそう変わらない、その代わり舌触りが、少なくとも俺が18年以上生きてきた間に食べたことのある食べ物の舌触りではない──これは人間の食べ物ではない、と俺は確信した。
「舞、今日だけは、お仕事の前に、コンビニで何か買って食べていって、ね」
洗面所で、一口しか食べていないのに律儀にも歯を磨いている舞に、佐祐理さんが小銭入れを渡している。
佐祐理さんは食卓に戻ってくると、強いて作ったような笑顔で言った。
「祐一さん、今日のこのご飯は……そうですねー、お粥にすれば食べられますよ、きっと。明日のお昼は佐祐理が当番ですから、その前に佐祐理が、お米を買ってきますねー」
なんとかして俺の失敗をフォローしようとしてくれる佐祐理さんに、俺はただただ、謝るしかなかった。
「ごめん、佐祐理さん……。明日大学休みだから、俺が買ってくるよ」
すると佐祐理さんは軽く挙げた右手をひらひらと振りながら、
「あははーっ、お米を買ってくるのは、これからは佐祐理に任せてくださいねーっ」
……そう言って笑った顔が、いつもの笑顔とは全く異質な顔だったような気がして、俺にはその時の佐祐理さんが、ご飯を一口食べて顔をしかめた時の舞よりも怖かった。
あくる土曜日の朝、行きつけのスーパーが開くのを待って、佐祐理さんは米を買ってきた。5kg4980円の「魚沼産コシヒカリ」の新米を。佐祐理さんが炊いたその日の昼食のご飯は、間違いなく、金曜日の朝まで俺が食べ慣れていたご飯だった。特別においしいかどうかは、残念ながら俺の舌ではよくわからなかったが。
・ ・ ・
「……そんな事があったんですか……」
俺が話している間、ときおり左の頬に指をやりながら聞いていた秋子さんは、俺の話が終わると、
「……それにしても、祐一さん」
湯呑みを食卓に戻して、わずかに目を上げて俺の顔を見つめた。
「はい」
思わず居住まいを正した俺に、ゾッとするような微笑みを浮かべて秋子さんは言った。
「人間の食べ物ではない物の例として、私のあのジャムを思い出したとは、聞き捨てなりませんね…。
……もしよかったら、いつでも思い出せるように、今ここであのジャムを、心ゆくまで食べていきませんか?」
俺の脳裏を、舞と初めて出会った時から今朝までの、舞と佐祐理さんの面影が駆けめぐった。
秋子さんは顔をほころばせた。
「冗談ですよ」
脱力の余り食卓に突っ伏しそうになった俺は、あわてて顔を上げた。
「……それで、これがそのお店で売っていた、『魚沼産コシヒカリ』というお米なのね」
秋子さんは、俺が食卓の上に置いたポリ袋を、手元に引き寄せた。
「ええ。ちゃんと『魚沼産コシヒカリ』って……」
……改めてその米の袋を見た俺は、ある違和感を感じた。
思い出そう、昨日佐祐理さんが買ってきた、正真正銘の「魚沼産コシヒカリ」の袋には、何と書いてあったか。それを、目の前にあるこの袋と比べてみるんだ。……
俺は、違和感の正体を突き止めるために、秋子さんに尋ねた。
「秋子さん」
「何ですか?」
「『魚沼』って、『魚』に『沼』って字を書くんですよね?」
「そうですよ」
「だったら、わざわざひらがなで書かないと読めないほど難しい字じゃないですね」
「ええ、たいていの人は読めるでしょうね。コシヒカリで有名だからでしょうけど……。
……祐一さん、袋を開けていいかしら。お米そのものを、もっとよく見てみたいから」
「あ、いいですよ」
秋子さんは、ポリ袋の口を留めたクリップを外し、一つまみの米を手のひらに受けた。
と思う間もなく、それこそ、ほんの一目その米を見ただけで米を袋に戻して、顔を上げると言った。
「祐一さん。このお米、来週の日曜日まで、私が預かってもいいかしら」
俺は反射的に答えていた。
「ええ、いいですよ」
俺は、その米のことはそれ以上何も詮索せず、米を秋子さんに預けて、早々に水瀬家を後にした。
たった一目見ただけで、この米の正体がわかるものだろうか。
と思うのは素人考えだ。秋子さんには、一目でこの米の正体がわかったに違いない。
なぜなら、秋子さんだからだ。
・ ・ ・
そして翌週の、日曜日の夕刻。俺と舞と佐祐理さんは、3人そろって水瀬家を訪れていた。
秋子さんに米を預けた翌日の夜、秋子さんから電話があって、日曜日の夕食に招待されたのだ。
例の米の件もあるから秋子さんに迷惑じゃないか、と恐縮する佐祐理さんには、秋子さんは休日の朝 通りすがりの女の子に朝食をごちそうするような人だから、そういう気遣いは要らない(通りかかった家の人に朝食をごちそうになるあゆもあゆだが……)、と俺が説いたので、佐祐理さんは一転して乗り気になって、今日は筆記用具持参だ。
俺たち3人に秋子さんと名雪を加えて、5人で囲む食卓には、今日のために秋子さんが腕を揮ったに違いない料理が並んだ。
エスニック料理というのだろうか、どの料理も、俺には食べた覚えのない料理ばかりだったが、そんなことはちっとも気にならないほど、文句なしにおいしかった。
秋子さんの料理を心ゆくまで味わいながら、俺は久しぶりに顔を合わせた名雪と(この前の日曜日は結局、俺が帰るまで名雪は起きてこなかった)積もる話をし、舞は時たま秋子さんに何か尋ねられると一言ぼそっと答えるくらいで黙々と食べ続ける。そして佐祐理さんは研究熱心ぶりを発揮して、料理の材料とか香辛料とか料理法とか、秋子さんにいろいろと質問しているようだ。三人三様だが、秋子さんにとっては、舞や佐祐理さんと食卓を囲むことその事が、いちばん嬉しいに違いない。
──夕食が始まってすぐに、俺は気付いていた。
この前の日曜日に、俺が秋子さんに預けたあの米が、今この食卓に上っていることに。
俺たちのアパートにある炊飯器で炊いたのでは、とうてい食べられたものではなかったあの米が、秋子さんの手にかかると、まともに食べられるご飯になっている──いや、それどころか、この料理にはこのご飯がいちばん合う、あの米で炊いたご飯でなければダメだ、とまで思えてきてしまう。
不思議だ……いや、不思議でも何でもないかもしれない。
だって、あの米を料理したのは、秋子さんなんだから。
夜更けて、アパートへ帰る道すがら、
「祐一さん」
俺の横を歩いていた佐祐理さんが言った。
「このあいだ祐一さんが買ってきたお米を、おいしいご飯に炊く方法、おばさまに教えてもらいました。今度のお休みの日にでも、佐祐理がご飯に炊いてみますね。このお米で炊いたご飯に合うお料理も作りますよ、簡単なお料理のレシピをいくつか教えてもらいましたから」
「さすがだな、佐祐理さんは……」
「だって、せっかく買ったお米なんですから、おいしく食べないともったいないじゃないですかー」
例えば自分一人で食べきれないほどのハンバーガーを買って食べ残すという具合に、食べ物を粗末にして平気でいる近頃の若い連中は、佐祐理さんを見習うべきだ。
佐祐理さんは、手に提げた買い物袋をかざしながら首を傾げた。
「祐一さん、このお米、結局、何だったんでしょうね……おばさまから聞いてませんか?」
この米の正体、それは帰る間際に、俺が秋子さんに質問したことだ。
「ああ、聞いたよ……俺も信じられないけど、『うおぬま産のコシヒカリ』だってさ」
「はぁ?」
「秋子さんの知り合いの植物学者が言うには、○○○国の、ウォヌマー地方の奥地で栽培されている、コー・シヒ・カリという品種の米なんだそうだ。その地方では昔から“おいしい米”として知られていて、とても高い値段で取り引きされているんだってさ。日本の、魚沼産のコシヒカリみたいに」
(終)