岩倉宮物語 |
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第三章
十月に入った頃の事であった。少将は三日程も続けて参内を休んでおり、そのせいでか殿上の間も些か寂しい。蔵人少将、公晴、平侍従といった十代の若手公達が数人、いつものように談笑している。そのうちに女官が来て、蔵人少将他数人の若公達に、御前へのお召しがあった、と告げた。蔵人少将達が出てゆくと、私は御座所の物音に、全神経を集中した。 「何を騒いでいたのだ。楽しそうだな」 帝の声が聞こえる。すると蔵人少将の声、 「とんでもありません。私一人が、皆にからかわれていたのです。主上のお召しで、助かりました」 「どうしたのだ。蔵人少将がまた、新しい恋人でも作ったのか」 蔵人少将の放埒な漁色ぶりは、宮中では知らぬ者もない。帝の耳を汚して、恥ずかしいと思わないのか、と言ってやりたい位だ。 平侍従が笑って、 「いえ、新しい恋ではないのですが、古いと申す程でもないのです」 帝は少時考えて、咳払いして言った。 「古くもないと言うと、綺羅姫の事か」 少将が綺羅君と呼ばれるのに対応してか、その妹の姫も、誰言うとなく綺羅姫と呼ぶようになっている。 「これはしたり! 主上も御存じであらせられましたか。蔵人少将の御執心は、余程天下に広まっているものと見える」 平侍従が声を上げると、 「いや、あれだけまめに文をお書きになれば、隠していても知れようというもの」 「綺羅姫に贈った文が、先日百に達したそうですよ、主上。今、それを皆で祝っていたのです」 他の公達も次々に言う。 「百? それはまた、熱心な事だな」 帝も感心したらしい。もし蔵人少将が文を贈り始めたのが、姫の裳着からだとしたら、ほぼ毎日二通という計算になる。もしそうだとしたら、これもまた別の意味で、洛陽の紙価を高める話だ。幾ら何でも一日二通というのは多すぎるから、裳着前から贈り続けていたのだろうが。 「御前で、何を下らぬ事を申し上げるのか。幾らでも笑い物にするがいい」 蔵人少将の、ふて腐れたような声がする。帝の声がした。 「蔵人少将は、浮気だという批判もあるけれど、それ程情熱的なのは立派だね」 全く、どこまで本気なんだか。蔵人少将は、困惑したような声で、 「主上まで、おからかいになるのですか」 平侍従は、蔵人少将をあくまでからかう。 「全く、蔵人少将殿の御執心には頭が下がりますよ。綺羅君、いや右近少将が出仕する迄は、堀川殿の綺羅坊や、などと軽んじていて、その癖、一方ならぬ競争心を見せていたのに、綺羅君が出仕した途端、掌を返したような親密ぶり。今では宮中一番の綺羅の親友ですからね。妹君を得んがためとは云え、その行動の素早いこと。将を射んと欲すれば、ですな」 すると扇を鳴らす音がして、中務丞の声が聞こえた。 「さて、果たしてそれだけかどうか、私などは疑っているのですよ。お二人は余りに親しく、綺羅少将の行く処、必ず蔵人少将の姿あり、ですからね。綺羅は馬にしては駿馬、昨今流行りの奇しの恋ではなかろうかと……」 私は思わず顔を顰めた。奇しの恋とは、つまるところ、……考えるだに汚らわしい、男色行為の事だ。世に背徳的な事は多々あれど、これよりも天地自然の摂理に反した、唾棄すべき愚行は他にない、と私は確信している。何のためにこの世に男と女がいるのか、それを思う時、男色をする者は畜生にも劣る――禽獣畜生と言えども雄同士で交わりはせぬ――外道者としか、私には思えないのだった。 私の不快感をよそに、御前では平侍従や中務丞の哄笑が続いている。帝の笑い声が聞こえないのだけが、幸いであった。蔵人少将も、当然ながらいきり立っている。 「御前で、そこ迄愚弄するとは、中務丞殿、平侍従殿、戯言と言うには余りに無遠慮。本気で怒りますよ」 蔵人少将の怒気を感じたのか、慌てて取りなすような声がした。 「いやいや、愚弄したのではありません。お気に障ったのなら、お許しを」 左兵衛佐だ。昨今の若い者の中にも、少しは健全な見識の持ち主がいるものだ、と思っていると、意外な事を言い出した。 「しかし、この場にいなくとも、これだけ噂の的となる綺羅君は、つくづく羨ましい。正しく宮中の華、内大臣が三の君の婿にと、熱望されるのも無理はありませんね」 途端に、御座所はしんとした。私も思わず、唾を呑み込んだ。自分の一言で雰囲気が一変したのに驚いたのか、咳払いの音が聞こえた。 「内大臣が綺羅を? それは初耳だが……」 帝の口調が変わった。蔵人少将も、 「私も初耳だぞ! それは本当か、兵衛佐殿!?」 とかなり気色ばんで、兵衛佐に喰ってかかる。 「あ、いや、私は別に、妙なお話を主上のお耳に入れる積りは……」 戸惑っているらしい兵衛佐。だが私から見れば、内大臣が甥に当たる少将を、娘の婿にと所望するのは、考えてみれば至極当然とも言えるのだ。私を婿に取り損なった内大臣としては。 「蔵人少将はどうやら、綺羅姫ばかりか、内大臣の三の君にも執心しているらしい(そんな男は私は好きになれぬ)。気を揉ませるのは可哀想だ。知っている事を話して御覧」 と言って兵衛佐を促した帝だが、本音は自分の方が詳しく聞き出したいのだろう。この帝も、姫君の話になると妙に興味を示す、どうも悪い癖だ。兵衛佐は、 「いや、これは困りましたね。ただ私は、御存じの通り、内大臣の中の君を妻にしておりまして……そこから、あれやこれやと……。何しろ内大臣が御執心で、それに三の君御自身、綺羅君の噂を耳にして、御立派で慕わしい方と頼みに思っている御様子だとかで……」 そうなのだ。内大臣の次女延子と言えば、ついこの五月には、私の妻にという話が出ていたのだったが、私は高松権大納言の婿に収まってしまったし、しかもいつの間にか、兵衛佐が通ってしまって、内大臣は事実を追認するの已むなきに至り、今や唯一人残された三女祐子に全ての期待を集中している、という話だ。 「貴族の姫が、迂闊に公達の噂を耳に入れるなど、はしたない事だ。良い躾を受けているとは思えないね」 帝は、変な事を言い出す。どっちが良い躾を受けていないんだ、と思った事は腹の底にしまい込んでおこう。帝の片言隻句に右往左往するのが習わしの貴族の一員、兵衛佐は慌てて、 「恐れながら、内大臣の大君は藤壷女御様であられます。里内に御退出の折、妹君の三の君と語らう事も多く、女御様から綺羅君の晴れがましい噂を聞く事も多いのでしょう」 そうなるには少し、時間が不足しているような気がしないでもないが。少将が出仕してまだ二月、藤壷の退出は二三度あったかどうかというところだ。幾分強弁の感もないではないが、帝は納得したらしい。 「それは、そうかも知れない」 兵衛佐は調子づいて、 「内大臣の御意向は、既に権大納言を通して綺羅君にも届いていると聞いています。今を時めく綺羅君の正室として、中御門家の姫ほど相応しい人はおりますまい。正直な所、私はこの話がまとまってくれればと願っているのですよ。そうなれば綺羅君と私は相婿として、一緒に中御門殿に通えるというものです」 と言って笑った。これを聞いて私は、何か臭う物を感じた。私自身、内大臣が祐子の婿に少将を所望するという事は容易に想像はできても、そこ迄具体化しているとは初耳であった。兵衛佐の言葉は、単なる事実を述べたというよりは、帝の耳に達せしめる事によって噂の方を先行させてしまう意図を持った発言と取れた。 やがて退ってきた者達を見ると、兵衛佐一人、してやったりという顔をしている。対照的に蔵人少将は、不機嫌な顔で黙り込んでいるし、平侍従や中務丞は、意外な話を聞いたものだと、誰彼なく話したくて堪らないような顔をしている。兵衛佐の目論見通りと言うべきか、その日のうちに噂は相当広まった。御前で貴族が喋る事には、私に限らず誰もが聞き耳を立てているものだから、何か噂を流布しようと思ったら、御前で喋らせるのがいい。私も以前、やった事がある。ただ、第一の目的は違ったが。 翌日、少将は以前参内を休んだままであったが、父権大納言が参内して来た。帝は早速、権大納言を召したが、開口一番、 「少将の結婚というような事は、家柄から言っても身分から言っても、内密に済ませていい物ではない。なのに何故、貴方の口から私に知らせなかったのだ?」 かなり不快感を露わにした声で詰問した。 「はあ……?」 権大納言の様子が少しおかしい。いや、少将と内大臣の姫との縁談が進展中、というのが、噂を先行させるための虚言だとすれば、権大納言のこの反応はむしろ正当だが。そうだ、よく考えてみよ、少将が男装した女なら(私は最早、十中八九そうであると思っているが)、それを知る父権大納言が、どこの誰との結婚を承諾するであろうか。肌を交わし合う結婚において、男装の女がその正体を見破られずに通しおおせるなどという事は、まずもって不可能である。つまり、少将が内大臣の姫と結婚したら、日を経ずして少将が女であることが露見し、必ず世間に漏泄するであろう。そうなった場合に起こる騒動の大きさを思えば、あの事勿れ権大納言ならずとも、少将の結婚など到底許す筈がない。 権大納言が白ばくれていると思ったのか、帝は少し声を荒げた。 「内大臣の三の君との縁談が、相当進んでいると、専らの噂ではないか。知らぬとは申すまい」 権大納言はしどろもどろで、 「はぁ……実はその、まだ、正式に承諾したという訳ではありませんので……」 苦しげに弁解する。しかしこの弁解も、言い逃れとしか取れなかった筈である。帝は意地の悪そうな口調で、 「そうかな。噂では貴方達両親共々結婚を承諾した、少将本人も異存はないと言ったという事だが……」 「綺羅が!?」 権大納言は、御前をも憚らず頓狂な声を上げた。この噂は少し、尾鰭が付いた感がなきにしもあらずだったが、昨日の次第を知らず、しかも少将の正体を知っている権大納言にとっては、寝耳に水以外の何物でもなかったろう。 やがて御前を退ってきた権大納言は、そのまま退出した。予期せぬ事態の出来に、茫然自失しているのが、端目にもはっきりとわかった。さて、噂がこんなに大きくなってしまった今、権大納言はどう動くだろうか。これ程世上を席捲し、叡聞にまで達した噂というものは、それ自体独り歩きを始め、人々を拘束する力を持つものである。この噂に抗して、一発大逆転の秘策を放つ事が、あの実行力に乏しい権大納言にできるとは到底思えないが、さりとて坐して手を拱いていては、少将の秘密が天下に露見するのは時間の問題である。一体権大納言は、どうする気であろうか、他人事ながら気に懸る。 翌日、五日振りに少将が参内した。少将を取り巻く若公達の態度は、私から見てもはっきりわかる程、以前と変わっていた。蔵人少将は少将を見ると、むすっとして口もきかずに顔を外らしてしまうし、平侍従や中務丞は、にやにや意味あり気に笑っては、 「いや、綺羅もそういう年だよな。元服したてだと思っていたから、今迄考えなかったけど」 などと言う。少将は父から事情は聞いているらしく、固い表情のまま黙っている。渦中の人として、余程うまく切り抜けねば大騒動必至という今の難局に、いかに対処するか、それだけで頭が一杯というのが、端から見てもよくわかった。本人の知らぬ間に縁談が先行しているという状況は、それに似た状況を私も先頃、身を以て体験しているが、今の少将の状況は当事者たる少将に、結婚成立の瞬間にそれを破綻せしめずにはいない重大な秘密があるという点に於いて、その窮状は私の場合の比ではない。 少将が参内したと聞いてすぐ、帝は少将を召した。 「大層久し振りの気がするね。女房達が、放ち紙(勤務表)に綺羅の名がない日が続いて、寂しいと言っていたよ」 少将が四五日にわたって参内を休んだのは、出仕以来二度目、一度目は、九月の初めであった。――これも、少将が女である事の傍証にならないか? 四五日続けて参内を休むというのはつまり、月の不浄のためではないか、と考えられる――。 「長の物忌でしたので」 少将の返事は素気ない。私から見れば少将は、自分を確実に破滅に導くであろう噂の進行を目の当りにして、半ば上の空なのであろうが、帝はどう取ったのか、突然、 「物忌の間中、まさか綺羅姫のように読経三昧だったとも思えないね。何をしていたのだ。恋しい人に歌でも書いていたの」 と、甚だ理解に苦しむ事を言い出した。少将も私と同様、帝の真意を解し得ないのか、少将の返答は聞こえて来ない。私は帝の真意を察しようと必死になった。……恋しい人云々、というのは、祐子の事を指してはいないか。そうだ、そうに違いない。しかし帝は、何故その事をこんな風に、嫌味たらしく言わねばならないのか。私が光子と結婚した事を事後報告された時には、こんな風には言わなかったのに。 帝の声が聞こえた。 「実は、これは全く内密の私個人の考えで、まだ関白にも、内大臣にも洩らしてはいなかったが……」 口調が険しい。何を言い出すのだろう。私も思わず聞き耳を立てた。帝の声は続く。 「かねがね、内大臣の三の君を女御に迎えたいと、思っていたのだ」 「ええっ!?」 少将は頓狂な叫び声を上げた。私も、もう少しで声を上げるところだった。 「さ、三の君を新女御に……」 到底信じ難い、という感じで少将は呟く。私とて、信じられぬ。そんな話、帝は私にだって話した事はない。私すら初耳の話、しかも内容が内容だ。臣下との縁談が進んでいる(かなり強引な、噂を先行させてからというやり方ではあるが)姫に、帝の地位を傘に着て横車を押すというのは、三年前のあの話の再現ではないか。帝がこの三年間で、人間的に成長したと思ったのは、やはり思い違いだったのだろうか、そうは思いたくないのだが。 「し、しかしですね、恐れ多くも主上におかれては、承香殿女御様、藤壷女御様、弘徽殿女御様、宣耀殿女御様の御四方様が妍を競っておられます」 少将は抗弁する。少将としてはどういう積りで言っているのだろうか。祐子との結婚を妨害されそうなのに、抗おうとしているのか。 「だからと云って、五人いて悪いという事はなかろう」 「そ、それはそうですが……。しかし、三の君は藤壷女御様と御同腹の妹君、姉妹で寵を争われるのは……」 「前例がなかった訳ではない」 「それは……」 帝の真意もさる事ながら、少将の真意も今一つ測りかねる。私としては確かに、帝の言い出した事は言語道断であると思うから、少将が帝を諌言してくれるのならそれはそれで好ましい事、廷臣の良識ここに在り、と思わないでもないが、しかし……。 「つまり、東宮の問題もあるしね」 「東宮の……?」 「つまり、今は妹宮の郁子が東宮に立っている。しかし本人は十四になっても、全く子供っぽいし、東宮を嫌がっている事に変わりない。余り前例のない事と、貴族達も心配している。やはり、私の血筋の皇子が立つべきだろう。しかし、四人の女御達は、どなたも男皇子を産んでくれない」 「つまり、男皇子の誕生を願われる余りの新女御なのですか」 つくづく呆れ返った、と言わんばかりの少将の声がした。私も全く同感だ。いや違う、私には帝のこの言葉が、無理押しを正当化するための言い逃れとしか取れなかった。男皇子が生まれないと言うが、子供の産めない体になった承香殿はともかく、弘徽殿はまだ二十歳だし、入内してからまだ二年だ、男皇子が生まれないと言って次の妃を物色するのは早計というものだ。そう思うと、帝に対する不快感はいや増しに増した。 ややあって少将は、怒気を含んだ声で言い出した。 「恐れながら、三の君の入内の御意向は、内大臣にお伝えなのでしょうか。実は私と三の君との縁談は、かなり前から(!?)ありまして、双方合意のもとに、既に互いの文も交わしている次第なのです」 私は我が耳を疑った。双方合意のもとに!? そりゃどういう意味だ!? 少将は女の身で、祐子との結婚に合意しているというのか!? 成立した次の瞬間に破綻し、少将と祐子、更には父権大納言や内大臣をも大醜聞の渦中に突き落とさずにはいない結婚にか!? 暫くして、帝は苦渋に満ちた声で、 「内大臣には、まだ何も言っていない。焦る必要もないだろうと、ゆっくり構えていたのだ。綺羅と三の君の噂を聞き、すっかり慌ててしまったが……。私も、近い将来朝廷の重鎮となるであろう信頼する臣下の正室を、権力で奪う事は本意ではない(それを三年前にやろうとしたのは誰だ?)。後世への悪い前例を残しては、私の名にも関わる(既に前例を作っているくせに何を言うか)。しかし、今一度、聞く。綺羅は三の君との結婚を、心から望んでいるのか」 少将は、きっぱりと、 「心から望んでおります。幸せにして差し上げたいと、心から思っております」 おい! おい!! おい!!! 結婚した瞬間に正体が露見して大破綻、少将のみならず相手の祐子も父の内大臣も、二度と世間に顔向けできなくなるのが、「幸せにして差し上げ」る事か!? 幾ら帝の発案が理不尽で、私とて不快に思っている事で、少将が帝を諌める気なら全幅の支援を惜しむまいとは思っていても、だからと言って女の身で女と結婚してどうする気だ、一体全体!? 帝の声がする。 「ならば、この話はこれで止めよう。私は誰にも話さない。綺羅も他言無用に……」 「はい」 「退ってくれ。疲れた。一人になりたい」 帝の声は、心底疲れたという感じがする。何で疲れたのだ? 祐子の入内話が立ち消えになったから? 疲れる程執心していた話なら、何故この私に対して今迄、おくびにも出さなかったのだ? 少将との縁談が急進展したから、慌てて持ち出した、というのが見え見えだ。では何故、帝は突然、そんな話を持ち出したのだ? 臣下の誰かに縁談が持ち上がると、それに横槍を入れて断念させるのが楽しみだなどと、そこ迄ねじくれた根性の持ち主ではないと思いたいのだが(もしそうだったら、こんな暗君愚主は天下国家の大害毒、神託の一つも捏造して退位させた方が世の為人の為だ。そして私が後釜になってやろう)。 少々が御前を退ってきた。殿上の間にいた貴族達の中には、御座所での帝と少将のやりとりを聞きつけていた者もいるようで、賞讃のまなざしを向けているが、私には到底そんな目で少将を見る事はできぬ。それどころか少将に、祐子と結婚すると本気で、正気で言っているのかどうか、問い質したい位だ。必ず、即座に破綻し、少将のみならず祐子と内大臣をも世間の嘲笑の的とせずにはおかない結婚を、する気なのかと。 ……少将が、あそこまではっきりと、何の躊いもなく、祐子と結婚すると断言するからには、もしかすると私の思い込みを、疑ってかかる必要があるのではないだろうか。つまり少将は、心身共に本物の男なのではないか、と。そうでなかったら、女との結婚を承諾する筈がないではないか。しかし少将の元服以来、この私の観察する限りにおける様々な状況事項は、少将が女であることを積極的に否定し、或いは男であることを積極的に肯定する物は何一つない。逆に少将が女であることを消極的にせよ肯定する物は、幾らでもある。そうすると一体、これは、どういう事なのであろうか。この私の洞察力を以てしても、少将の真意は全く測りかねる。今の私にとっては、この少将の奇怪な挙動が不可解な余り、帝が祐子の入内話を突然持ち出した真意を詮索する余裕はなかった。 少将が帝の面前で、祐子と結婚すると断言したという話は、急速に広まった。三日後、死人のような顔で――この一事を以てしても、やはり少将は本当は男ではないのだ、との確信を強める事ができたのだが――権大納言が参内して来ると、公卿達は口々に、 「当代一の組み合わせですな。それにつけても、内大臣殿が羨ましい」 「後宮中の女房という女房が、嘆き悲しんでいるそうですよ。あれだけ誠実なお人柄、正室をお迎えになったら、決して蔵人少将のように遊び回らないでしょうと」 「何にしても、内大臣様の大金星ですな」 と、祝言とも出し抜かれた恨みともつかぬ事を言うし、内大臣は権大納言そっちのけで、皆に何を言われても意に介せず狂喜乱舞している。関白や春日大納言は、 「今度という今度ばかりは、完全に後手に回ってしまった、祐子の婿にと無理押しして万一また家出されてはと躊躇したばかりに」 と愚痴り合う。 蒼惶たる権大納言を、帝は御前に召して、 「まだ出仕したばかりだと思っていたが、考えてみれば十七歳、妻を持ってもおかしくない齢なのだからね。結婚は、早くするが良い。こういう騒ぎが長引くのは、本人の出仕にも関わる。こんなに知れ渡っては、今更勿体ぶって婚約期間を置くのも、却って嫌味だろう」 すっかり納得したように言った。この感じなら、祐子の入内を無理押しするとも思えない。それはそれで一安心、とは思うものの、祐子と少将の結婚の行手に立ちはだかる物を思うと、どうにも不安で仕様がないのだった。 内大臣と兵衛佐は、 「兵衛佐殿、よくやってくれた。貴方のお蔭だ、綺羅君を婿に迎えられるのは、貴方のお蔭。弟はなしの礫、綺羅君もすっとぼけて、一向に話が進まんと、さすがの私も苛々していたけれど、これで溜飲が下がったよ」 「いえ、何と言っても私も内大臣様の婿の一人、こういう時にはお役に立てなくてどうしますか」 「延子は、良い婿殿を通わせたものだ。これは祐子に、綺羅君を下さるための天の配剤、神の啓示、仏の御心だったんだ。主上も、一日も早く結婚をと仰せられた。かくなる上は広隆寺、金峯山、一日も早く御子を頂かねば」 噂では、身分不相応な婿、家門の恥として冷遇されていた兵衛佐が、御前及び殿上の間で少将と祐子の縁談を吹聴する事を内大臣に持ちかけ、見返りに人並みの婿として待遇させることで利害が一致したのだとか。言われてみれば、大方そんな事だろう、と思わせる話だ。 ・ ・ ・
その日私は、清涼殿の西面の方から、弘徽殿へ行った。高松大納言は物忌で欠勤なので、私一人で行くのは初めてであったが、要らざる猜疑を惹き起こさぬよう、帝に一声かけて了承を得てから行ったのだった。光子の近況や、安産祈願のために私も妙恵寺に祈祷を頼んだ事などを話しているうちに、弘徽殿女御は、 「それはそうと、綺羅少将が近いうちに結婚なさるそうですね。お相手の方は、藤壷様の三の妹君なのですって?」 「女御様のお耳にも、入りましたか」 私が空とぼけると、弘徽殿は笑った。 「目と鼻の先に、藤壷様がいらっしゃいますもの。この狭い後宮では、どなた様のどんな噂も、たちどころに耳に入りますわ」 それから急に声を潜め、辺りを憚るように、 「でも……もう少し、こちらへおいでになって」 何を言おうというのだろう。女房が退ってゆく気配を感じながら、私は簾ににじり寄った。弘徽殿は低い声で言った。 「綺羅少将と藤壷様の妹君との御縁談が御前で出された翌る日、参内なさった綺羅少将に主上は、その三の君の御入内をお考えになっておられたと、仰せになったらしいですね」 そんな事まで聞き及んでいたのか、と私は意外に思いながら相槌を打った。 「ええ、そうです。少将と三の君の縁談が急に本格化してきてから、そんな話を持ち出すなんて、どういうものでしょう、と些か心苦しく思わないでもないし、それに三の君と藤壷様は御同腹の御姉妹、御姉妹で主上の寵を争われるのは、どちらにとっても余り芳しくない事と思いますが」 立ち消えになった話でもあるし、そんなに立ち入った事までは言わずとも良かろうと思っていたのだが、弘徽殿は妙に含む所あるような声で言った。 「何でも主上はその時、東宮にはやはり主上の血筋の若宮が立つべきだ、しかし女御達は誰も若宮を産んでくれない、と仰せになったそうではありませんか」 「は、はあ……」 私が弘徽殿の口調に面喰らって、曖昧な相槌を打っていると、 「私は今年で二十歳、主上のお側に上がってまだ二年ですわ。承香殿様は二十五歳、それは先年、あのような事がおありになったとしても、藤壷様は二十四歳、宣耀殿様は二十三歳、どなたもまだ充分、御子の産める齢ではございませんか。現に承香殿様は女一宮様(久子)を、藤壷様は女二宮様(文子)をお産みなさったではありませんか。私、こう申しては何ですけれど、本当に誠心誠意愛して頂けるなら、御子の二人や三人、産んで差し上げる自信はございます。その私を差し措いて、年若い姫を入内させられては、私の、女としての立場がございませんわ」 弘徽殿は、かなり強い口調で言い放った。 「女としての立場、ですか……」 私が首を傾げて呟くと、弘徽殿は尚も、 「帥宮様には、お分り頂けないかも知れません。ですけれど私は、女御である前に一人の女です。誰であれ殿方と結婚し、その方の御子を産み、立派に育て上げること、女子一生の本懐、これに過ぐるはございません。今日お帰りになったら、光子に尋ねて御覧なさい。きっと私と同じ事を申すでしょうから」 「は、はあ……そのように、尋ねてみます」 私は弘徽殿の気迫に、すっかり呑まれてしまった。女子一生の本懐、これに過ぐるはなし、か……。 弘徽殿は更に声を低めたが、逆にその声には一層の力が漲っていた。 「それに、私は、二の宮様(教仁親王)御落飾、女院様(伏見院の生母待賢門院)崩御の後、お祖父様、叔父様方々の御期待を一身に担って、父亡き身で後宮に参った者です。新参者と蔑まれ、父亡き身と侮られ、謀叛人の一族(この時ばかりは少し声が上ずった)と罵られても、じっと耐えて参ったのは、偏に家門の誇り、我が身の面目のためです。ここ迄耐えて参った以上、私にも意地がございます。何としても若宮をお産み申し上げて、再び家門の名を高からしめ、いえそれよりも、御後楯の御権勢を鼻にかけ、主上の御寵愛を傘に着て悪口雑言の絶えない承香殿様に、目に物見せて差し上げよう、と思い定めてございます。それなのに主上が、若宮欲しさに三の君を御入内させるとなれば、私は見限られ申したも同然、私の意地は狭霧の如くかき消えてしまいます。そうなってまで、この後宮に留まりとうございません」 いやはや、弘徽殿女御の上品な物腰の裏に、こんなに激しい気性が隠されていたとは。私は弘徽殿の新しい一面を発見した思いであった。 「はあ……承香殿様に目に物見せて差し上げる、と仰言るお気持は、私にもわかります。ですが三の君の入内話は、立ち消えになった事ですし、余り外聞を憚られるような事は、仰言らない方が宜しいかと……」 弘徽殿の気迫に圧されながらも、当り障りのない事を言ってその場を凌ごうとすると、 「ええ、そうですわね。三の君の事は、忘れましょう、帥宮様も、私も」 弘徽殿は、私が拍子抜けする程あっさりと、話を切り上げて穏かな口調に戻った。 弘徽殿を後にして帰邸する間、私は弘徽殿女御の言葉を何度も思い出しては呟いていた。祐子の入内を無理押しする事を、私は君臣の義に悖る事として捉えていたのだが、前からいる妃にとって女としての立場がない、という弘徽殿女御の見方は、私の全く予想しなかった物であり、甚だ斬新、意表を突いた見方でもあった。女という人種、まだまだ男の私には測り知れないものである。 「……お姉様が、そんな風に仰言ったの」 夜、寝物語に今日の顛末を話すと、光子もまた、従姉の意外な一面を発見したように言った。 「家門の誇り、っていうのは私にもわかるけれどね。女としての立場がない、なんて正面切って言われると、どうお答えしていいかわからなくて、面喰らってしまった。女御様が日頃後宮で、あんな風にお考えになっておられるとは、夢にも思わなかったんだ。あの女御様が、あんなに気のお強い御方だったなんて、つくづく、女ってわからないな」 思わず本音を洩らすと、光子は首を振った。 「ううん、そうじゃないわ。お姉様は決してそんな、気の強い御方じゃないの。家の名誉とか、そんな風に仰言って、やっとの事でご自分を励ましてらっしゃるのよ。お可哀想な、お姉様……」 光子の言う弘徽殿像と、私が見聞きして感じた弘徽殿像と、どちらがより実像に近いのだろうか。 口を噤んだままの光子に、私は尋ねた。 「光子、貴女にとって、女の一生で一番大切な事って、何だと思う?」 光子は首を傾げた。 「女の一生で? ……それはやっぱり、好きな男の人と結婚して、その人の子供を産む事に決まってるじゃない。どうしてそんな分り切った事、聞くの?」 「女御様が、光子に尋ねて御覧なさい、と仰言ったんだ。女御様は、『誰であれ殿方と結婚し、その方の御子を産み、立派に育て上げること、女子一生の本懐、これに過ぐるはございません』と仰言ったけれど、やはり光子も同じ事を言ったね」 私が弘徽殿の口調を真似て言うと、光子はくすりと笑った。 「『女子一生の本懐』、なんて、難しい言葉がお好きなのね。でも、……『誰であれ』って、本当にそう仰言ったの? 源氏物語の藤壷女御みたいに、帝でない御方の子を産んじゃっても構わない、って事?」 齢の割には幼稚っぽい喋り方で、随分どぎつい事を言ってくれるではないか。私は一瞬、昔の事を思い出してどきりとしたが、すぐまた平静を取り戻して苦笑いし、 「まさか、変な事を言うものじゃないよ。女御様が『誰であれ』と仰言ったのは、帝のお妃になれなかったとして、誰の北の方になっていらっしゃったとしても、という意味だよ、きっと。光子はちょっと、物語の読み過ぎじゃないか?」 と言って、光子の頬を軽くつついた。光子は首を竦めて上目遣いに私を見上げ、無邪気な微笑みを浮かべた。 ・ ・ ・
十月二十日過ぎ、堀川権大納言兼右大将嫡男右近少将雅信と、中御門内大臣三女祐子の結婚が執り行われ、中御門殿で盛大な露顕の儀が営まれた。勿論私も招待されて参列したのではあったが、こうして何事もなく露顕の儀が営まれた事が、私には不思議でならなかった。何遍、何十遍見ようとも、少将の体からは「男」が微塵程も感じられないのに、何故初夜、二日目と、少将の正体がバレなかったのだろうか。まさかとは思うが、二日間の夜――本来はこの両日は、婿は夜来て夜明け前に帰ってゆくので、家人も婿に会う事はない。だからこそ兵部少輔のように、露顕の儀になって正体が露見して大騒ぎ、などという話が成立するのだ――は、何者か正真正銘の男が、少将の替玉として中御門殿を訪れたのではないか、などと埒もない考えが、頭の中をよぎったりもした。(筆註 兵部少輔……「落窪物語」中納言一家に復讐を企てる男主人公道頼が、中納言の四の君との結婚を承諾したと偽り、替玉として結婚させた男) しかし、仮にもし、凡そありうべからざる事ではあるが初日と二日目を替玉を仕立てて乗り切ったとしても、今夜からはそうは行かぬ。明日になったら、どんな事が起こるだろうか、それを思うと、澄ました顔で上座に坐っている少将を見ていても、はらはらすると言おうか、憐れみを覚えると言おうか、複雑に綯い交ざった感情に虜われずにはいられないのだった。 しかし翌日になると、何事もなかったかのように少将は、内大臣と一緒に参内して来た。内大臣の様子を見ても、婿の正体を知って愕然とするという様子は微塵もない。私は、こう言うと誤解を招くかも知れないが拍子抜けした。少将と祐子の結婚が破綻して、二人とその親兄弟が世間の笑い物になるのを期待していた訳では、勿論断じてないのだが。 考えられるのは唯一つ、内大臣も祐子も少将の正体に気付いたのだが、家名を憚って厳重な箝口令を布いた、これだけだ。或いは強いてもう一つ考え出すならば、内大臣は気付いていず、気付いているのは祐子唯一人なのだが、祐子は人一倍内気であるか何かして、少将の正体を誰にも話していない、という線もあり得る。 そのうちに、内大臣が珍妙な話を吹聴し始めた。その顛末というのが、新婚早々の祐子が少将に、結婚したら雛遊びをしてはいけないかと言ったところが、少将はその子供っぽさに呆れるどころか、豪華な人形を特注で拵えさせて祐子に贈った、というのであった。内大臣や宰相中将は余り表立って言わなかった事ではあるが、男一人女三人の末っ子である祐子は、十五歳という齢の割に相当子供っぽいところがあって、只でさえ年上の少将に相手にされないのではないかと、無理押しした弱味もあって一方ならず危惧していたらしい。それが愛想を尽かされるどころか、一層気に入られたようだというので、嬉しくなって宮中で吹聴して回ったのだろう。話を聞いた人々の反応は、二つに分かれた。若手貴族達は、 「蔵人少将殿、そんなネンネでも、やはり綺羅少将の物になってしまうと悔しいですか」 「私の妻がそんな事を言い出したら、ちょっと付き合い切れませんね」 などと幾分安心したように言っているし、少将に秘かに思いを寄せる女房達は揃って、 「新床で人形をねだるようなネンネに、憧れの綺羅様を奪われてしまったなんて、悔しいったら!」 と色をなし、地団駄を踏む。 私はと言えば、何日経っても一向に予期されるべき騒動が起こってこない、第三の理由に思い当たった気がした。つまり、新妻の祐子自身すら、少将が女である事に気付いていないのではないか、という事だ。凡そ信じ難い事ではあるが、ネンネを極める祐子は、結婚という事の何たるか、結婚した男女が何をするのか、という事を全く知らないのではあるまいか、二条邸に迎え取られた当時の若紫のように。結婚とは何なのか、結婚した男は女に対してどのような「行為」をするのかを、もし祐子が全く知らなければ、少将がその「行為」を行わない、否、行い得ないとしても、その事実に気付きはすまい。もしかすると少将は、縁談が湧き起こった後で祐子の人となりをどこかから聞いて、この性格なら成算あり(女である事を露見させずに済む)と踏んで結婚に踏み切ったのだろうか。 (2000.12.26) |
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