岩倉宮物語

第二章
 その翌日の事だった。私は例によって殿上の間、櫛形窓の下に席を占め、窓から洩れ聞こえる御座所の物音や話し声に聞き耳を立てていた。この日御前には、左大臣とその弟の内大臣、そのまた弟の権大納言兼右大将信義の三人が召されて、あれこれと話していた。
「……それにしても近頃の若い者は皆、出世にばかり目を血走らせて、見ていて苛々しますな。字も良く書けず、歌も良く詠めず、それでいて金と女の事には夢中になる。とにかく、優秀な人材というのがいない」
 左大臣である。どうしてこう、年寄り臭い事ばかり言うのだろう。大体その近頃の若い者の中に、信孝や私は含まれているのか。幾分面白くない気分で聞いていると、左大臣は続ける。
「徳の高い主上がおわしますのに、その宮廷に華を添えるような、器量も才もある若い者が少ないというのは、寂しい事ですな。帥宮とか源少将辺りは、まあ一応の及第点でしょうが、帥宮は堅物すぎて無風流ですし(悪かったな、と私は内心舌打ちした)、少将は反対に華やかな分、軽薄ですし」
 源少将というのは、式部卿宮の子息右近少将源教経である。今年十八歳、優れた血統を些かも辱める事のない優秀な若手公達である。容姿に優れ風流に長じ、洗練された物腰と人当たりの良さで、後宮における人気は私よりも一段勝っている事を認めざるを得ないが、左大臣の指摘する通り、幾分軽佻浮薄に流れる嫌いがあるのと、女性に受けのいいのを意識したような、女性関係の目を覆いたくなるような乱脈さが、欠点と言えば欠点だ。しかし昨今の貴族社会では、この少将のような漁色漢が、粋人、風流人としてもてはやされる嘆かわしき風潮があり、人は少将を羨みこそすれ、非難する事はない。
 内大臣が相槌を打つ。
「そうですな。漸く世の中も落ち着いて来たところで、宮廷の花と言えるような見目良い若公達、後宮の花と言えるような美々しい女房の余りおられないのは、何やら張り合いに欠けますな」
 すると帝が、やおら口を開いた。
「確かに、宮廷にも後宮にも、これはという人が少なくて、寂しいな。私に面白味がなくて、それが自然、影響してしまうのかも知れない」
 皮肉を言わせれば天下一、と言うより、皮肉を言う位しか能のない帝だ。ところが、帝の片言隻句に一喜一憂するのが貴族の常というもの、
「と、と、とんでもございません! そ、そ、そんな意味で申し上げたのでは、決して」
 内大臣は、すっかり狼狽した声を上げる。
「さ、最近は優秀な人材が少ないという事で、決してそんな……」
 慌てて言い繕う内大臣に、帝は、
「しかし、院となられた父帝の御治世には、貴方達のような優秀な臣下が才を競っていたのだからね。次代を担う若い優秀な臣下が少ないというのは、私の責任だ」
 その次代を担う若い臣下の許婚者に横恋慕したのはどこの誰だ、と言いたい位だ。何なら私が臣籍に降って、帝がいなくても国が成り立つ事を天下に示してやろうか、と思ったその時、
「まあまあ、主上は登極遊ばされて、まだ三年。主上の徳に引かれて、頭角を表す者が出るのは、これからですよ。そんなに急かれては、若い者も却って縮こまってしまいますよ」
 権大納言が言い繕う。この人は仲裁役をやらせれば右に出る者はないのだが、積極的な実のある事を言わせようとするとからきし駄目という、朝廷に一人は必要だが大勢いては却って成り立たない人物の典型である。
 内大臣は、ここぞとばかり窮地を脱しようと、
「そう、本当にこれからですよ。第一、本命が出ていません。大納言の若君にしてからが、元服も済んでいないのですから。ね、兄上」
 左大臣も相槌を打つ。
「そう、そう、その通りですよ。綺羅君、と言いましたな(元服前の呼び名なら、所謂愛称のようなものであろう)。聞けば、見る者が目も眩む思いがする程美しくて、可愛らしい若君という話ではないですか。そういう子を秘蔵しているから、宮廷が寂しいのも道理というもの」
 権大納言の息子と言えば、話にはよく聞く。今年で、何歳になるのだったろうか。
 帝が、興味深そうに言う。
「そう言えば綺羅君の事は、度々耳にする。先日の蹴鞠の会の時も、若い者等が噂をしていた。若い者にも人気のある、美しい子らしいね。幾つかな」
 権大納言は、妙に口籠る。
「は、あの、その……十……七でして……」
 そう、十七歳だった。私も今、思い出した。公晴や信孝も、よく一緒に遊んだと聞いている。十七で元服していないというのは、貴族社会の常識からいくと少々異常である。私も出仕は十九だったが、元服は十三の時だった。帝も不思議に思ったのか、
「十七と言えば、とうに元服して出仕し、侍従にもなろうという歳ではないか。本当に、元服はまだなのか」
「は、はあ……ま、まだ……でございます」
「どうして」
「……」
 権大納言の返事は聞こえない。私も、どうしてと尋ねたい位だ。同世代の者達は、もっと幼いうちから元服し、叙位を受け、出仕しているものなのに。
 内大臣が助け舟を出す。
「弟は子煩悩ですから、いつまでも童姿にしておきたい、と思っているのでしょう。同い歳の姫君の裳着もまだだそうですし」
 おやおや、また新しい話が出て来たぞ。私が耳をそばだてるのと時を同じくして、帝も興味をそそられたらしい。
「そうだ。そう言えば同い歳の姫もいるのだったね。綺羅君そっくりの美女で、慎しみ深い姫君だとか」
 帝がこういう台詞を吐くと、またぞろ悪い虫が動き出したな、と警戒してしまう私であった。
「十七になるまで、元服も裳着もさせないのには、何か訳があるの」
 至極当然な帝の下問に、権大納言は、
「と、とんでもありません。何も、訳などございません。ただ姫は大変な内気で、父である私にも、顔も良く見せない恥しがりなのです。新参の女房が近くに来ただけで気が遠くなるような、手のかかる姫でして。き、綺羅も、その、万事に子供じみてまして、そこらの童等と遊んでいるのが一番という、情ない子で……。あんな子が出仕しても、皆さんに迷惑がかかるだけと思うと、元服させるのも良し悪しと……」
 何とかしてこの話を終わらせたい、と躍起になっているかのようだ。どうも解せない。帝は笑いながら、
「おかしな人だね、権大納言は。貴族は誰もが、碌に大人にもならない子供を出仕させたがるものなのに(本来、貴族の子弟は二十一歳になると、父祖の位階に応じた位階が与えられる制度があるのだが、昨今は十三四での出仕が普通である)。出世欲がないのだね。そこが貴方の立派なところだ。そういう人の子供も、出世欲などなく、心一途に仕えてくれるのではないだろうか。今の宮廷は、貴方達の言う通り華やかさに乏しい。人々の注目の的になる若公達が少ないのは、寂しいものだ。後宮の女房達も、物足りないだろう。私も評判の人を見てみたいし、出仕させなさい」
 出た、「綸言汗の如し」。これで権大納言は、綺羅君とか言う息子を、出仕させぬ訳にはいかなくなった。権大納言はそれでも、抗弁を試みる。
「し、しかし……出仕と仰せられても、綺羅は元服前、無位ですから、童姿のお務めという事になります。それでは、あの歳で童殿上と譏られ、一人前に扱われず、辛い事もございますでしょう。出仕させて頂くにしても、今少し、時期を見て……」
 確かに十七で童殿上というのは、聞いた事もない。帝が言う。
「それが親心というものであろう。正式な殿上には五位が必要だ。右大将の子息綺羅君を従五位下に叙す。話しているうちに、急に見たくなった。一日も早く元服を終え、参内させるように」
 これでもう、権大納言は逃げられなくなった。権大納言も諦めたのか、
「有難き御沙汰にございまする」
と言っただけであった。
 程なく三人が、殿上の間へ戻って来た。妙に意気盛んな内大臣、落ち着いている左大臣に比べて、権大納言の方は精根尽き果てた、という顔である。何故権大納言が子息の元服・出仕を渋るのか、私も知りたいが、聞き出せる雰囲気では全然ない。
 噂は素早く広がった。帝のお声がかりによる元服と、内大臣が盛んに吹聴して回り、ついては叔父たる自分に加冠役をと、権大納言をせっついている。翌日になると、加冠役として祖父の関白太政大臣迄もが名乗りを上げた。またその一方で、近衛南堀川西の権大納言邸の東の対では、何の騒ぎかと思う程の大音声が絶え間なく続いている。噂では権大納言の奥方の一人、姫君の母が、姫君の裳着を同時にやってくれと権大納言に頼み、拒まれたために示威行動に出ているという事だ。そうこうするうちに関白太政大臣が、噂では内大臣との籤引きに負けたらしいのだが、かかる上はもう一人の孫、他ならぬ姫君の腰結役を務めたい、それさえ済ませれば、今年七十歳になる事でもあるし、辞職して出家したい、心残りなく出家するためにも、孫を一人前にさせて行末を定かにしたい、と帝に直訴するという事態が発生した。帝はやはり、姫ということで興味があるのだろうか、この際一緒に裳着を済ませるよう、関白太政大臣と権大納言に言い渡した。ほっと安堵した様子の関白に比べ、権大納言の方は一層、心身共に疲れ果てた様子である。一体全体、何故これ程迄に権大納言は、子女の元服や裳着を渋るのであろうか。
 あれやこれやの手続きを経て、権大納言の子息綺羅君を従五位下に叙し、八月十日の元服を期して侍従に補す、という決定がなされた。貴族達は、こうして元服を遅らせたのも、世上の関心、帝の関心を引きつけるための駈け引きであったのかと噂する。同日裳着を執り行うと決まった姫についても、末は后妃、と誰もが噂する。私が見る限り、権大納言はそんな駈引きをしたのではないし、理由はわからないながら、むしろ元服をしたがらない様子の方がありありと見えるのだが。
 ともあれ八月十日、権大納言邸西の対において、綺羅君の元服式は盛大に執り行われた。その大がかりな事は、八年前の帝の元服式にも優るとも劣るまい、とまで言われた。私も勿論招待され、公卿に伍して前列に並んだ。
 式が始まり、まず童姿の綺羅君が登場した。清楚な童水干姿で、身のこなしも洗練され、噂に高い美貌も、男としては相当な高水準だ。何と言っても瞳を見よ。才気煥発、溌溂たる気性をそのまま表しているかのようだ。私は綺羅君を見るのはこれが初めてなのだが、このような若者が宮中に姿を現せば、確かに宮廷の華ともなろう。今、宮廷の華と呼ばれているのは実は私だが、私もそろそろ、その地位を禅譲すべき時のようだ。
 こんな綺羅君であれば、是非とも婿に、と思う者が大勢いても不思議ではない。あちこちで公卿達が、何やら囁き合っている。
 だが、しかし、綺羅君の姿を上から下までじっと見つめているうちに、何か、あれっ、と思うようなものを感じていた。十七歳という事だが、その割には大分小柄だし、体つきも華奢だ。それはまあ、十七歳の男と言ったって様々だから、と思わないでもないが、それとは少し違う。何と言おうか、十七歳位の男という物が本源的に持っていて、程度の差こそあれ誰でもその五体から発散させているところの、「男の臭い」とでも言うようなものが、この綺羅君からは、全くと言ってよい程感じられないのだ。概して貴族の男性というのは、百姓や商人、武士の男性に比べるとこの「男の臭い」が薄いのだが(そうしてみると私など、高級貴族の鼻が曲がるような男の臭いをぷんぷんさせているのだろうが)、この綺羅君は特別である。どういうのだろうか。十七歳と言ってはいるが、本当は十二三歳なのだろうか。或いは、十二三歳並の晩生なのだろうか。本当に十二三歳なら、出仕を渋る権大納言が、十七歳などと偽る筈がないが……。
 今一度、しかと見極めようと綺羅君を凝視すると、不思議な事に綺羅君は、急に顔から血の気が失せ、何やら震えているようでもある。先刻迄の元気はどこへやら、だ。加冠役の内大臣が、何やら耳打ちしている。
 ともあれ元服式は無事に終わり、私達は皆それぞれに引出物を貰って帰途に就いた。邸に帰る道すがら、帰ってからも、私は綺羅君の、もとい、元服と同時に名を改めた、従五位下侍従雅信の、一種不可解な雰囲気が頭から離れなかった。
 翌日、朝から出仕した私は、侍従局に顔を出した。二年半前までは、私も一介の侍従としてここに勤めていたのであり、それ故顔見知りの者達も多く、帝が物忌に服していたりして殿上の間が人少なな折には、大概ここに入り浸っているのだが、今日ここへ来た目的は、言わずと知れた、新侍従である。
 私が入ってゆくと、侍従達は一斉に私に注目する。それを一渡り見回してみても、昨日のあの顔はない。私は近くにいた少納言に尋ねた。
「少納言殿、雅信侍従はどちらですか」
 少納言は首を傾げ、
「雅信侍従……?」
 幾ら新顔だからって、名前を知らんという事はなかろうが。
「昨日元服された、右大将殿の……」
 私が重ねて言うと少納言は膝を打ち、
「ああ、綺羅侍従ですか。お生憎様でしたね、つい今しがた出て行かれましたよ」
 私は拍子抜けした。
「そうですか。ではそのうち、また来ます」
 清涼殿へ戻り、殿上の間に入ってゆくと、頭中将が歩み寄って来て、
「丁度良い時にお戻りで。主上のお召しにございます」
「わかりました。すぐ参上仕ります」
 頭中将に続いて御座所前に参上した私を、帝は近く招き寄せて言った。
「これから後宮へ行く。そなたも一緒に、どうだ」
 この朝っぱらから? 私が首を傾げたのを見て帝は、悪戯っぽく笑って囁いた。
「綺羅君との非公式対面だよ」
 帝の考えそうな事だ。ともあれ私も、雅信新侍従との対面が肩透かしを喰わされた後だったから、帝の供をしてでも新侍従に会えるのなら、それは好都合というものだ。
「承知致しました。御一緒仕ります」
「うむ」
 帝と私は、連れ立って御座所を出た。黒戸を出る時、帝は尋ねた。
「そなたは昨日、綺羅君を見たのだろう。どうだった」
 私は、昨日感じた事を思い出しながら答えた。
「なかなか才気溢れる、という感じでしたよ。挙動も洗練されていましたし、ただ少し、線の細い感じはしましたね」
 すると帝は笑って、
「そなた、私が一番知りたい事に、わざと知らん振りをしているな。顔容はどうだった、と訊いたのだがな」
 これだ、帝は。やれやれと思っていると、
「もしかしてそなた、自分より見目良い公達が宮廷に現れるのを嫉妬しているのではあるまいな。そういう嫉妬は醜いぞ」
 どうしてこんな見当外れの事しか言えんのだ。私は諌言する気にもならず、
「私が嫉妬するに値するかどうかは、主上御自ら御覧になって御判断下さい」
と、素気なく答えただけだった。
 飛香舎(藤壷の正式名称)の近くに、二人の男が立っている。一人は内大臣だ。今一人は背の低い、華奢な体格の若そうな男で、五位の束帯を着ている。これこそかの新侍従だ。
「おや内大臣、女御の御機嫌伺いかね」
 帝が、予め示し合わせておいたのであろうか、幾分わざとらしい声をかける。内大臣は素早く振り返り、廊下に膝を突いた。新侍従も、それに倣う。私も一歩退って膝を突く。
「見慣れない者がいるね。誰?」
 帝の尋ねに、内大臣が答える。
「はっ、本日より出仕致しました侍従でございます。藤壷女御に御挨拶に参るところで……」
 内大臣が新侍従の略歴などを喋っている間、私は俯いている新侍従を、鋭く観察していた。……どうも新侍従は、何かに動揺しているようだ。いや、動揺というより、単なる緊張であろうか。私の初出仕の日を、思い出してみよう。
「侍従の君、初出仕御苦労」
 帝の声を聞いた新侍従の顔が、さぁっと蒼白になってゆくのが、私にもはっきりとわかった。内大臣にせっつかれて、不承不承といった感じで顔を上げた時、
「あっ……」
 意外な所から声が上がった。帝が扇を取り落とし、二三歩も後ずさりしたのであった。新侍従は新侍従で、透き通る程蒼くなって、見開いた目には、恐怖にも似た感情が現れている。これはもう、初出仕の緊張なんていう代物ではない。帝の声を聞き、顔を見た事に、驚愕し、恐怖をすら覚えている事は間違いない。
 しかし、何故? 何故新侍従は帝に会って、顔面蒼白になる程驚愕し、恐怖したのか。私には解せない。さらに不可解な事は、帝の反応である。帝が新侍従の顔を見て、扇を取り落とす程驚いたというのは、新侍従の美貌が噂に聞く以上の物だったから、なんていうのではまずあり得ない。では何故?
「帥宮!?」
 帝の声で、私は我に返った。
「はっ!」
 慌てて平伏すると、帝はかなり取り乱した声で、
「か、帰るぞ」
「ははっ」
 私は立ち上がり、内大臣達に一礼した。新侍従は、私が一礼したのにも気付いていないらしい。私は後ろ髪を引かれる思いで、現場を後に清涼殿へ戻った。
 戻ってからも帝は茫然自失の体で、その尋常ならざる様子に、すわ主上御不例と、侍医が駈けつける有様である。頭中将は私を呼びつけて、
「帥宮殿、一体主上に、何があらせられたのです。帥宮殿は、主上と御一緒だったのでしょう、何かお心当りは」
と只ならぬ面持ちで詰め寄る。
「私にもわからないのです。藤壷へ通ずる渡殿で、内大臣様と新侍従にお会いになられたのですが、その時までは至って御気色麗しく、新侍従との対面を心待ちにしておいでと拝察されました」
「成程、綺羅侍従には主上も殊の他、御関心をお持ちであられましたからな」
 頭中将は頷く。
「しかし、新侍従の顔を御覧になった主上は、『あっ』とお声を上げて扇を取り落とされる程驚かれ、それから、あのような御有様なのです。何故左程に驚かれたのか、お側におりました私にも、皆目見当がつかないのです」
「そうですか……」
 頭中将は腕を組んだ。
「……では綺羅侍従が、主上に何か御無礼を働き申したとか、そういった事はなかったのですね」
 私はきっぱりと断言した。
「そのような事は、決してございません」
 頭中将と向かい合って、腕を組んだまま黙って考え込んでいるうちに、ふと私の脳裏をよぎった考えがあった。
「そう、もしかとは思うのですが、主上は近頃、どこかへ微行されたような事はございましたか」
 私が尋ねたのに、頭中将は怪訝そうな顔で、
「微行?……」
と鸚鵡返しに聞き返す。私は考えをまとめて、
「これは私の独断に基づく臆測なのですが、主上はある時どこかで、新侍従に良く似た人を御覧になって、何となく御心に留めておられたのではないでしょうか。今日出仕した新侍従が、その人と良く似ていた、と言うより瓜二つだったので、意外な事とお思いになって驚かれたのではないか、と拝察されたのですが、如何でしょうか」
 すると頭中将は手を振った。
「ならば何も、微行とは限らないではありませんか。仮にも帝の御位にあられる御方が、微行などという軽々しい御振舞をされる筈がない。帥宮殿の御発想は、少し飛躍し過ぎですよ」
 他人の考えを、そう頭ごなしに否定する考え方からは、新しい考えは生まれて来ないぞ。だが、こんな事で喧嘩してもつまらない。
「なら、公式な行幸としても宜しい。さる一月の伏見行幸の折にでも、そのような事があったのかも知れません」
 今度は頭中将も頷いた。
「そうかも知れませんね。伏見の誰かと瓜二つの人が、侍従として出仕して来たら、私でも驚くでしょうから」
 そのうちに帝は、もう一度新侍従に会いたいと思ったのだろうか、女官を飛香舎に遣わしたのだが、女官が戻って来て言う事には、
「綺羅侍従様は、急に御気分が悪くなった由で、罷り出でました由にございます」
 帝の落胆する顔が目の前に見えるようだ。
 やがて帝は、少し落ち着いたのか、再び私を召した。私が参上すると帝は、蔵人を退らせ、御座所には帝と私、二人だけになった。何やら秘密めいた雰囲気になったところで、帝は小声で言った。
「帥宮、そなたの勘の良さには敬服するぞ」
 何を言い出すのだ? 私が首を傾げると、
「先刻そなた、頭中将に、私があの時あれ程動揺したのは、近頃どこかへ微行でもして、出先で綺羅侍従に瓜二つな人を見かけて心に留めていたからではないか、と言ったそうだな」
「左様です。私の独断に基づく臆測、と前置き致しましたが」
 帝は、思ってもみない事を言い出した。
「うむ、実にその通りなのだ。そなたには話していなかったが、実は私は先月の二十日頃に、嵯峨野へ微行した事があるのだ。暑さ凌ぎと、後宮のごたごたに気晴らしがしたくなってな」
 嵯峨野には、聞く所では大后の宮の母、二位尼と呼ばれる人の庵がある。帝は東宮だった時分から、母方の祖母にあたる二位尼とは親しくしていたが、帝となった今、嵯峨野くんだり迄微行するとは、私自身意外だった。
「そなたに言えば、後宮のごたごたの当事者でもあるし、それにそなたの事だ、軽はずみだ何だと、また諌言すると思ってな、それも鬱陶しいから言わなかったのだが……」
 鬱陶しい、か。言ってくれるではないか。
「ま、それはともかく、だ。微行先で、更に供の者を巻いて、一人で山路を歩いていたのだ。そのうちに水音を聞きつけて、音のする方へ行ってみると、そこに池があって……(帝は少し言い淀んだ)かなり身分のありそうな年若い姫が、今しも岸に泳ぎついたところだったのだ」
 帝はその時の光景を思い出しているのか、妙に上気した顔をしているが、私はまず第一に怪訝に思った。京の貴族の姫が、嵯峨野の池で水練をするという話は聞いた事がない。
「姫の語る所では、意に沿わぬ結婚を勧められ、思い余って身投げしたものの死に切れず、生き延びたのも御仏の思召しと思う、というのだ。私は哀れに思って、もし縁あらば再び相見ゆる事もあろう、その時の証にと、丁度持っていた紫水晶の数珠をその姫に与えたのだ。
 その姫の顔は、今でもはっきり覚えている、絵に描いてみせる事もできる程に。姫は身元を明かしはしなかったが、近くに右大将の別荘がある事から、もしや右大将の娘では、と思ったのだ。右大将は娘の事は不思議な程話題に出さないが、確か十幾つかの娘が一人いた筈だと思っていたから。しかし、だからと言って右大将に、娘の事を尋ねてみるのは躊われた。わかるだろう、もしその姫が身投げする程思い詰めた、意に沿わぬ縁談というのが、入内話だったとしたら、もう一度身投げしかねないから。昨年の七月だったな、信孝の妹の佳姫が入内を嫌って家出し、髪を切ったのは」
 帝も、去年のあの大事件で、少しは成長したと見て良いのだろうか。
「そう思っていた折も折、左大臣達が右大将の息子、綺羅君の話を出した。しかも右大将の娘は、綺羅君そっくりだと。そう聞いたら無性に綺羅君を出仕させたくなってな、それでまあ、こんなに性急に元服・出仕させたのだが」
 そう言って帝は、未だ興奮醒めやらずといった顔で、
「しかし、正直に言って面喰らったな。似ているどころか、瓜二つ、同じ人かと思った程だ。兄妹同士、あんなに顔が似る事があるものかと、不思議に思ったよ」
 そういう事だったのか。それなら、あの時の帝の驚愕ぶりも頷ける。私も何を隠そうこの二月、性覚と瓜二つの死人を発見し、それを使って帝を大いに打ちのめしたのだ。赤の他人であってすら、あれ程酷似した人間がいるのだから、兄妹が生き写しという事も、強ちあり得ないとも言えないであろう。
「不思議な事ですね」
 私も素直に、相槌を打った。
・ ・ ・
 雅信新侍従は、即日殿上を聴許され、殿上の間に出入りする事になった。殿上の間で毎日顔を見るようになると、容貌というような物にはさして興味を示さないように努めている私にも、好ましい印象を与えずにはいないのであった。全体の雰囲気も華やかで濶達、動作のきびきびしたところも、柔弱・鈍重な者の多い貴族の中では一際映える。外見だけでなく、諸々の才もそこそこに優れているのだが、決してそれをひけらかすでなく、万事控え目に、慎ましやかに振舞っているのも、才走って少し出しゃ張る嫌いのある源少将と違って一層人の好意を集める。
「帥宮殿が王侍従でいらした頃を思い出しますね、綺羅侍従を見ていると」
 殿上の間に私と侍従が居合わせた折、頭中将が言った。
「私を? 私と侍従では、大違いでしょう」
 私が聞き返すと、頭中将は言う。
「確かに雰囲気は、大分違いますがね。帥宮殿は背が高く、骨太で線も太く、精悍で、さながら男の中の男、という感じでしたから。御気性も一本気で、主上にでも堂々と諌言して憚る所なく、ちょっと寄り付きにくい、という感じを受けない事もなかったですね。それに比べると綺羅侍従は、いかにも気楽に付き合えるという感じなんですよ」
 すると侍従は、私の機嫌を損ねまいとしてか、
「頭中将殿、帥宮殿のように、主上にでも堂々と諌言奉る事がお出来になるというのは、それは大切な事ではないでしょうか。先頃、帥宮殿が承香殿女御様をお咎めになった時の話には、私は感服しています」
 こういう事を言うその声に、私は聞けば聞く程、一種の違和感を覚えるのであった。初めて聞いた時、随分甲高い声だと思ったものだが、これが地声だとしたら、年の割には随分幼い声の持主だという事に、いや、そうでもない。この声は、高さは同じでも声の質という点において、声変わり前の男児の声とは些か違う。むしろ大人の女の声に似ているのだ。その後、侍従が源少将や公晴と、冗談を言い合って、一層甲高い声で笑っている時、私が何気なく言った時の事だ。
「侍従の声は、随分高いですね。まるで女の声のようだ」
 言った途端、侍従はぴたりと笑い止んだ。どころか、顔から急に血の気が失せ、強張って引き痙ってさえいる。この只ならぬ様子に、私は不思議に思うよりも慌てて、
「どうかしましたか。女の声のようだと申したのが、お気に障りましたか」
 すると侍従は、慌てて平静を取り繕いながら、
「い、いえ、何でもありません。家の者にも、笑い声が甲高いと、よく言われるのです」
と笑いながら答えたのだが、その笑いは先刻とは全く違って、顔の皮一枚だけ無理に動かして拵えたような笑いだった。
 またある日、帝の御前に侍従が召された折、私も同席して、いろいろな話をしていたのであったが、その時、帝が、
「ところで、綺羅侍従の妹君の事なのだが」
と言い出した。
「ある人から聞いた話では……かつて嵯峨野の方で、妹君をお見掛けしたと言うのだが」
 帝はわざと、「ある人から」など婉曲に言っている。その真意は、と思った瞬間、侍従は、がくっと崩折れた。
「侍従!?」
 私は思わず立ち上がり、侍従に駈け寄った。帝も変事に驚いて、
「誰かある!」
と叫びつつ玉座から立ち上がった。私は侍従の肩を掴み、ぐっと引き起こしてみると、何と侍従は失神している。
「侍従、どうなさった!? しっかり!」
 耳元で叫びながら、掴んだ肩を強く揺さぶると、侍従は血の気の失せた顔を上げ、何かに怯えたような目で私を見上げ、震える声で、
「す、済みません、帥宮殿」
「大丈夫ですか」
 と私が尋ねると、まだ恐慌状態から抜け切らぬ様子で、がくがくと頷いた。玉座から駈け寄って来た帝を見ると、平身低頭して失態を詫びた。帝が玉座に戻り、私も横へ退くと、侍従は蒼ざめ、震えながら口走った。
「じ、実は、これは父も知らぬ事なのですが、妹は嵯峨野で、入水しかけた事があるのです」
 帝は、やはりそうだったのか、と得心したような顔をしている。侍従は顔を伏せ、
「父が何気なく見せた公達の文を、大層気に病みまして……。何事にも思いつめる性質の姫で、その人と結婚させられると思い込んだのですね。いえ、父にはその気は毛頭なく、ですから未だに、父は結婚を勧めた覚えもなく、入水の事など、思いも寄らぬ事なのですが……。運良く助かりはしましたが、嵯峨野と聞くと、つい、入水の事が思い出され、今でも胸の潰れる思いが致します」
 帝が以前私に話したあの事と、きっちり符合する。そういう事があってみれば、侍従が妹の身の上に起こった変事を思い出しただけで失神したと言うのも、納得できない事ではない。
「して、妹君は、今は?」
 帝の下問に、侍従は冷汗を流しながら、
「生きる気力は取り戻しまして、今はただ信心一筋、念仏三昧の日々でございます」
 そう言えば帝は、その時紫水晶の数珠を姫に手渡したと言っていた。帝は納得した様子で、侍従の心情を慮ってか、その日はもう侍従の妹の事は何も言い出さなかった。
 ……私はしかし、素直に納得してそれで良しとする事に、ちょっと引っかかる物を感じていた。妹の名を出された折のあの恐慌ぶりは、妹が入水しかけた事があるからという、それだけであろうか。帝と侍従が初めて対面した時の、あの光景をよくよく思い出してみよう。あの時帝が驚倒したのはさておき、侍従も帝を見て、かなりの恐慌に陥ったのは確かだ。あれは何故だったのか。それと先刻の変事と、どんな関係があるのだろうか……?
・ ・ ・
 九月に恒例の秋の除目があった。直接関係はないのだが、時を同じくして近衛関白太政大臣の辞表が受理され、室町左大臣に関白の宣旨が発せられた。除目では、源中納言が大納言に陞り、頭中将が中将のまま参議に陞り、後任には衆目の一致する人物、信孝が頭中将の推挙によって任ぜられた。公晴は右中弁になり、そして注目の侍従雅信は、右近少将になった。源少将は、蔵人を兼帯した。
 除目の後、室町殿で、左大臣の関白就任祝と源大納言の昇進祝を兼ねて、大がかりな宴会が催され、私も招かれた。室町殿の宴会といえば、私が初めて大勢の前で箏を弾いたのがこの二月、室町左大臣(当時)の五十賀であった。私は今日も、自作の箏曲の譜を幾らかと特製の爪を携えて行った。
 宴会も順調に進み、無礼講になってきた頃、源大納言が立ち上がって言った。
「今宵は、近頃都に流行り出した物を一つ、御覧に入れましょう」
 大納言が何やら指図すると、寝殿の前の庭に何人かの雑色が出て来て、筵を敷き始める。筵を敷き終わる頃、どこかから数人の男が現れて、鼓や拍子木などを運び込む。男達が一礼して坐り、鼓や拍子木を奏し始めると、横手の方から、白水干に立烏帽子、朱の袴に白鞘の太刀を佩びた二人の舞人が登場した。舞人は並んで一礼すると、扇を開いて舞い始めたが、朗詠風の詞を朗々と吟ずるその声の、一種異様な響きに、私は耳を疑った。
 これが男の声だろうか。声の高さは全く少年或いは女の声のそれであり、さりとて少年の声とは明らかに異なる色艶、厚みがある。裏声というようなものか。貴族の中にも、裏声を得意とする者がいて、朗詠などの折に奇声を発して他人の耳を驚かすことがあるが、それだろうか。裏声というと、無理に絞り出すことから来る不自然さを免れ得ないものだが、この舞人二人の声には、そのような不自然さが殆ど感じられない。これも鍛錬の賜物であろう。
 貴族達の手拍子に合わせた舞が終わると、舞人は口上を述べたが、この声も甲高い裏声だ。謡が終わったのに地声を出さないのは、どういう事か。舞人が退場してから、私は源大納言に尋ねた。
「先刻の舞は、何というのですか。謡も口上も裏声というのは、初めて聞きましたが」
 すると源大納言は、怺えかねたように吹き出した。口許を扇で覆って、
「いや、失礼。しかし帥宮殿は、白拍子を御存じなかったのですか。あの舞人は、女ですよ」
 女が、男装しているのか!?
「ほ、本当ですか? 女が、男の装束で?」
 舌が縺れる私に、大納言は憐れむような目を向けた。
「そんなに驚かれる程、珍しい見物でもないでしょうに。女が男の格好をしている、妙な雰囲気が受けて、近頃急に流行り出したんですよ。退廃的だとか何だとか言う、頭の古い人もいますがね」
 私は辛うじて答えた。
「新し物好きな、大納言殿らしいですね」
 私が、みっともない程うろたえてしまったのは、男装の女の舞というのを見せられたのが初めてだったからでは、勿論ない。ここ暫く頭の一角を占めていた、何かもやもやした物が、すっぱりと解決されたような気がしたから、であった。つまり、……
 ――雅信少将は、女なのではないか?――
 そう考えると、私が今迄、少将に対し事ある毎に感じてきた一種の違和感は、その根拠が完全に覆えされる事によって跡形もなく消滅するし、少将の初出仕以来の様々な事どもにも、実に筋道の通った説明がつけられるのだ。更に想像を逞しくして、深読みしてみると、こんな事にならないであろうか。
 ――七月二十日頃、帝が嵯峨野へ微行した時に偶然出会った、池に身投げを図った姫というのは、本来の女の装束を纏った少将だったのではないだろうか。自殺未遂に終わった将にその時という極限状況だけに、帝も少将も、互いに相手をはっきり覚えていた。帝にしてみれば自殺を図った姫として覚えていたのだが、少将にとっては事情が異なる。つまり少将は嵯峨野で出会った貴族(それが帝だとはまだ知らない)が、自分が本当は女である事を知っている、と理解している。本当は女である事を偽って出仕している少将にとって、その秘密を知っている「嵯峨野で会った貴族」は、最も危険な人物の筈である。もしその貴族の口から、自分の秘密が露になったら、大騒ぎになる事必定であるから。だからその貴族には、極力会いたくなかった筈であるが、あにはからんや出仕第一日に、半ば仕組まれたように会ってしまった。しかもその貴族が、よりによって帝であったのだ。あの出会い(再会と言うべきか)の時の少将の恐慌、その後すぐ退出してしまったという事は、そう考えるとうまく説明がつく。一方帝の驚愕の方も、より自然な説明がつく。帝が嵯峨野で会った姫と少将が似ていたのも道理、同一人物が装束を変えて現れただけだからだ。もし私が帝の立場にいたとしても、同じように驚愕したであろう。ただ帝だったら、私ほどの深読みをするかどうかはわからないが。さらに帝の場合、少将に瓜二つの妹がいるという話を耳にしてしまっているから、嵯峨野で出会った姫は、妹の方だったと考えて納得してしまうだろう。もう少し降って、先日帝が少将の妹を話題に上せた時の事件も、私の深読みが正しければ、より自然な説明がつく。少将が気絶する程の恐慌に陥ったのは、自分が女である事を帝に見破られたと誤解したからだと考えれば。あの時の少将の言葉は、穿って考えれば不自然なところがある。姫が邸を脱出して嵯峨野へ走り、身投げを図ったという椿事が、兄たる少将は充分知っていながら父たる権大納言には全く知らぬ事であるというのは。外聞を憚って箝口令を布いたとしても、親が知らぬという事はないだろう。
 そもそもの発端に至って考えれば、最初に生じた重大な疑問が、私の仮説によって見事に解決するではないか。何故父権大納言が、少将を十七歳まで元服させなかったか、がだ。言う迄もなく、本当は女でありながら、男そのものとして育ってしまったからだ。女らしくなってくれれば裳着をさせられるというのに、そんな様子は微塵もなく十七歳にまでなってしまった。さりとて、本当は女であるのに男として元服させ、出仕させる訳にもいかない。万一にも露見したら、一大醜聞となって家名を傷つける。少将本人よりも、少将が女であると知りながら男として出仕させた権大納言の方が噂の俎上に載せられるだろう。それを考えると、言を左右にして出仕を渋る以外に術はなかった訳だ。
 ただ、深読みに深読みを重ねた私の推測には、一つ重大な弱点がある。あの快活、陽気な少将が、何をどう思い屈じて身投げなどしたのか、という点だ。子供の時分少将の遊び仲間だったという公晴に聞いてみても、少将は昔から天真爛漫、さっぱりした性格だったという。長ずるに従って、女として成熟してゆく肉体と男そのものの精神との乖離に悩み、女としての精神を持ち得ない自分に激しい自己嫌悪を感じると共に自己を持て余し、凡そありうべからざる自殺という以外の解決策を見出し得なかったのだろうか。
 殆ど料理に箸もつけず、祝宴の中で一人考えに沈んでいた私に、関白から声がかかった。私が参加する宴会では定番となった感のある、「箏を一つ」の所望である。大きな考え事が頭を占拠している今の状態では、箏を弾いても上の空になるだろう、それでは関白達にも失礼だし、第一澄子に申訳ない。さりとて辞退するのも失礼だから、私は努めて考え事を頭から払拭し、箏に専念するよう自分に言い聞かせてから、箏に向かった。
 弾いているうちに、ふと頭の中をよぎった思いがある。あの少将は女ながら、男そこのけの性格をしているが、そもそも人間の性格なんて千差万別、男と女にはっきり割り切れるものではない、男の中の男と言われる私だって、こうやって箏など弾いてばかりいるではないか、と。いや違う、私の性格が女性的だから箏を弾くんじゃない、偶々箏を嗜む女性が多いから、と言うより笛や笙を嗜む女性が少ないから、箏が女の楽器とされるだけではないか、などと考えていると、覿面に音を外してしまった。新作の曲だったから、聴く人は私が間違えたとは気付かないだろうが、こんな雑念を交えながら箏を弾いてはいけない、と厳しく反省せずにはいられなかった。
・ ・ ・
 夜更けて邸へ帰ると、私の帰りを待ち兼ねたように権大納言が迎えに出て来て、
「今日という今日この日に、どうしてもっと早くお帰りにならんのです」
と怨ずる。しかしそう言いながらも、湧き上がる笑いを怺え切れないという様子がありありと見えるので、私は訳が分らず面喰らって、
「私にも付き合いという物がありますから」
と適当に受け流しておく。
「まあそれはともかく、大切な話がありますんで、さ、こちらへ」
 権大納言は笑いながら私の手を取って、寝殿へ導く。腰を落ち着けたところへ、女房に命じて酒肴を運ばせる。
「あの……あちらで充分、飲んで来ましたから……」
 私がおずおずと辞退するのにも構わず、
「そう仰言らず、私の気持だけでも」
と強いて杯を取らせ、酒を注ぐ。私が杯を干すと、喜色満面でもう一杯注ぐ。
「一体、何があったんですか。余程良い事があったように見受けられますが」
 権大納言は頬を緩めっ放しである。
「良いも何も、これ以上良い事がありますか。普通こういう事は二条辺りから申し上げるものなんですが、何と言っても嬉しくて嬉しくて、私の口から言わせて貰います」
 二条、と聞いて私はピンときた。権大納言は私の顔を真向から見据えて、
「婿殿、喜んで下され。光子に、御子ができましたぞ」
 私は胸の中に、激しく衝き上げてくる物を感じて、思わず立ち上がった。すぐ我に返って坐り直したのは、取り落とした杯からこぼれた酒の上だった。
「今日医師に診せましたらな、三ヵ月目だという事ですよ。いやはや、こんなに早く御子を授かるとは思わなんだ。それも偏に、婿殿が光子一筋に、御愛情を注いで下さったからですよ。ああ、これでやっと我が一族にも運が向いて来た! 私は都一の果報者、当代一の婿殿の御子を、こんなに早く頂けるとは!」
 目に涙すら浮かべて言い募る権大納言。私は湧き上がる感激を抑えて、
「……私も、嬉しいですよ……」
 すると権大納言は少し顔を顰めた。
「婿殿、初めての御子ですぞ、何でもっと素直に、喜んで下さらんのです。婿殿のその老成ぶりは、私も日頃から気に入っておりましたがな、初めての御子を授かったと知った時位、もっと大袈裟に喜んで下さっても良かろうものを」
 そう言うのも尤もなのだが……私にとって、初めての子供というのは、他でもない前東宮、桐壷との間に儲けた子なのだ。今、私の胸の内を満たしているのは、「光子との間に」その絆の証としての子を儲けられるという喜びもさる事ながら、天下の誰に憚る事もなく、「私の」子を持つ事ができるという安堵感の方が大きかった。
 加持祈祷を頼まねば、寺社への寄進も、と調子に乗って喋りまくる権大納言に面喰らいながら、私は言った。
「光姫に、会わせて下さい。きっと姫も、喜んでいる事でしょう。その喜びを、二人で分ち合いたいのです」
「おう、是非、そうしてやって下さい。こちらに余り長く、お引き止めすべきではなかった」
 権大納言は自ら先に立って、私を西の対へと導いた。二条始め、迎える光子付きの女房達も、仕える主人の一世一代の慶事に、嬉しさを隠そうともせず、口々に祝いの言葉を述べる。女房達に軽く会釈して部屋へ入った私は、光子の臥す帳台へと足を進めた。
 帳台の内に一人臥せっていた光子は、私の訪れを待ち侘びたように身を起こした。私を見上げるその顔には、はち切れんばかりの喜びが溢れている。私は光子の傍らに片膝を突くと、光子を双腕に抱き締めた。
「おめでとう!」
 それきり、言葉が続かなかった。光子も、感情の昂ぶりを言葉に表す程整理し切れていないのか、私の腕の中で黙って打ち震えていた。ややあって、感極まった声で、切れ切れに呟いた。
「……私……嬉しい……貴方の子を、産めるのね……」
 不意に私の脳裏に、澄子の俤が浮かんだ。澄子、思い出す度に追慕と哀惜の思いを新たにせずにいられない澄子は、他でもない帝の子を懐妊したために、その薄幸の生涯を閉じたのだ。私との仲を裂かれ、意に沿わぬ入内を強いられ、四面楚歌の後宮で気苦労を重ねた事が澄子の心身を蝕んでいたとしても、直接その死をもたらしたのは、帝の子を宿した事であった。それを思い出すと、私は矢も楯も堪らなくなって、光子の双肩を掴み、その双眸を見据えて鋭く口走った。
「光子!」
 光子は、私の態度が急変したのを不思議に思ったのだろうか、
「どうしたの?」
 いつもするように、ほんの少し首を傾げて私を見上げ、無邪気な声で聞き返す。私は努めて穏かな声で尋ねた。
「光子、最近、気分が悪くなった事はない?」
 光子は首を振り、
「ううん、全然。どうして?」
 何故私がそんな事を尋ねるのかわからない、といった顔で逆に尋ねてきた。私は肩の力が抜けるのを感じた。
「ならいいんだ。何でもないよ」
 幾ら光子が楽天的な性格だからと言っても、初めての懐妊となればさすがに不安を抱くだろう、その光子に、懐妊が原因で死んだ人の話をする事はない。悪阻は気分的な物だと、近江も言っていた事だ。
「ただね、これから暫くは大切な体だから、丈夫な子が産めるように、病気などしないように気を付けて、と言いたかったんだ」
 光子は、にっこりと微笑んで言った。
「うん、きっと、丈夫な赤ちゃんを産むわ、貴方と私の、ね!」
 この光子の明るさは、私にとっては最大の救いであった。桐壷が私の子を身籠った時と、何という違いだろう。光子の生来の、明朗な性格もさる事ながら、何よりも、天下の誰に憚る事なく、一点の疚しさもなく子を産めるという事が、この明るさをもたらしているのだ。
(2000.12.26)

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