岩倉宮物語 |
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第十四章
その夜一晩、私は必死で考え抜いた。二十二年の人生の内、この時程頭を絞り上げて考えた事は一度もなく、恐らく今後も一度もないだろう、もう一度こんな事態にならない限り。明け方まで考えに考え抜いた挙句、遂に私は、一つの秘策を考えついた。今度こそ確実に成功させなければならぬ、失敗したら確実に人間としての生命をも断たれるに違いない、危険な賭けではある。しかし私には、それ以外の策は考え付かなかった。ここは腹を括って、乾坤一擲の勝負に出なければならぬ。翌朝私は、三条大納言に書かせた例の書状、今ではもう一片の紙片にすぎぬ、それでもこれをちらつかせれば、もしかすれば信孝を躊躇させられるかも知れぬ、だが晴子に対して無条件降伏の意を見せたからには、先方の手に渡すしかない書状を携えて参内した。牛車に揺られていても、寝不足で頭が痛い。しかし、この書状を信孝に手渡さなければならない。 私が殿上の間に入ってゆくと、帝の声が聞こえた。 「何と! 晴姫は無事であったのか?」 私は思わず櫛形窓に走り寄り、帝の御前を覗き込んだ。内大臣が平伏している。帝は不快感を露わにした声で、 「無事だと聞いて少しは安心した。しかし、何の伝言も残さずに姿を消すとは、晴姫も余りに人騒がせな。病なら病と一言、母宮にでも申し残してゆくべきではないか。不快だと申し伝えよ」 やはり帝は、晴子に対し特別な感情を持っている訳だ。しかし、病とはどういう事か。恐らく、十日程も音信不通だったのを、急病とでも偽ったのだろう。 内大臣が恐縮し切って御前を退ってゆくのを、私はぼんやりと見送った。この人も実際、苦労の絶えない人だ、あんな娘を持ったばかりに。 そのうちに信孝が参内して来た。だが信孝は、私が呼び止めるよりも先に、蔵人に呼ばれて御前へ行ってしまった。私は櫛形窓に陣取って、御前の様子に聞き耳を立てた。 「晴姫が無事だと聞いて、私も少しは安心した。不意の病で後宮を抜け出したなどとはどうも信じられないが、ともかく無事で良かった」 帝の声は、内大臣に対するよりは穏かである。個人的好意の有無の差が、こんな時に出てくるものだ。 「ところで、夫たる少将には、事情がわかっているのだろう」 帝の問いに、信孝は、 「全てその通りでございます。妻は後宮で病を得て、皆様に御迷惑をかけてはと抜け出したのですが、鴛鴦殿にて発病し、暫くは人事不省の重病だったのでございます」 私は意外に思った。信孝ともあろう者が、帝に嘘を言うというのが今一つ信じ難い。 信孝が退って来たところで、私は信孝を呼び止めて囁いた。 「昨夜の事は、全てお聞きになっていたのでしょう。さぞ、驚かれたでしょうね」 私が余りにも穏かに、微笑みさえしながら囁いたのに、信孝は驚きを新たにしたのか、 「あれは、本当だったのですか、帥宮殿」 私は、はっきりと頷いた。 「晴姫の仰言る通りですよ。私にも、色々な野心があった(その野心が本当は何であるのかは、決して言うまいが)。淋しい育ちの者は、ふと夢を見るものです。なまじな現実よりも、もしかしたら……の夢に、全てを賭けてしまう。しかし、私も賭けに負けたのです。晴姫とのお約束は、必ず守りますとお伝え下さい。出家する寺の手配や、財産の処分などが手間取りそうで、あと数日はかかりそうです。しかし、今日を含めて五日後、二十六日には必ず出家して、都を出ます」 私は懐から書状を取り出し、信孝に差し出した。 「これが例の書状です。正真正銘の本物。これさえあれば、貴方は私を如何様にもできる。晴姫にも見せてあげて下さい」 信孝は書状を受け取り、懐に入れて言った。 「わかりました。妻との約束とは別に、私もお約束しましょう。二十六日まで、待ちましょう」 信孝は、複雑な顔をした。五年越しの友情が目の前で壊れていくのを、残念がるような様子でもあった。 「それ迄、貴方の身辺を見張らせて頂きます」 私は笑った。 「さすが少将殿は、晴姫よりは余程現実的だ。そうなさるのが当然です」 本当は、そうされては困るのだが、信孝という人間の性格上、そうせずにはいられないのであろう。 私は別れ際に、そっと囁いた。 「私は晴姫を殺しそこねてしまった、その事はもう、お聞き及びですね」 改まって私の口から聞かされて、さすがに呆然としている信孝を尻目に、私はさっさと退出した。 その日帰邸すると、私の邸の周りの辻々に、何やら余り身分の高くない武士か従者といった感じの男が数人、じっと立っている。信孝が、私の邸を監視させているのだ。しかし今となっては、私だって本気だ。信孝の鼻を明かして、起死回生の大作戦を成功させてみせる、それが私の、将来を見据えた計画だ。晴子に対して、無条件降伏など絶対にするものか。降伏したように見せたのは、韜晦策だ。一発逆転の大作戦を決行する前に、相手を油断させる、それが韜晦術だ。 ・ ・ ・
二十四日、私は早目に帰邸すると、清行と共に、庶民に身をやつして邸を秘かに抜け出した。見張りの男を巧みに巻いて、洛外、桂川の河原へ来た。ここへ来たのは他でもない、ある物を捜すためであった。河原をあちこち歩き回っていた清行が、私を呼んで言った。 「若殿様、これは、如何でしょう」 清行は少し顔を顰めて、足元にある物を指す。私はそれを、裏返してよく検分し、清行に言った。 「うむ。これで良かろう。清行、あれを」 清行は、背中に担いだ袋を下ろし、白い襁褓を取り出した。 ――私が捜していた物、それは、生後半年程度の、男の赤児の死骸であった。これを東宮の襁褓にくるんで、東宮に装う積りであった。赤児の顔なんていうのは、どれも似ている。それだけでない、私はこれを、焼死体に装う積りだったのだ。焼かれてしまえば、顔などわからなくなる。 ――あれは去年の春だった。何者かが、顔に丹の粉を塗って大火傷を負ったように装い、性覚が出現したと見せた事があった。あのように、火に焼かれた人間の顔は、骨灰となってしまわなくても、ちょっと区別の付かない物になるのだ。 襁褓は、大弐を通じて淑景舎から調達させた物である。私の邸では襁褓などという代物は用がないので、誰かに見咎められる危険を冒しても、已むを得なかった。 「しかし若殿様も、凄い事をお考えになりますね」 裸の赤児の死体に襁褓を着せながら、清行が言う。 「そうするしかないんだ」 最上等の襁褓にくるまれた赤児の死体を、清行の袋に入れて、私達は帰邸した。女達に見せると何を言うかわからないから、自室の唐櫃の中に、油紙できちんと包んで隠し、周りには少し香を入れて、臭いが広がらないようにした。 ・ ・ ・
二十五日の夜、大弐が尼に身をやつして来た。ここ数日は私は、綾子がいる事を思うと淑景舎には近寄れないので、大弐を尼姿にして連絡役に使っていた。「これが私の、最後の作戦だ。桐壷様にお見せしたら、すぐ焼き捨ててくれ」 私は大弐に、一通の文を託した。 私の作戦――それは、次のようなものであった。 ――基本的な筋書は、私が、桐壷と幼馴染だった源匡長であると装う事から出発する。つまり、私は孤児同然であった昔、称善寺の尼の一人に託されていた。そして称善寺に出入りしているうちに、そこの庵主が乳母となっていた桐壷と、筒井筒の仲となったのだ。そして歳月は流れ、私は帥宮として脚光を浴びる身になったが、幼馴染の姫は、帝の妃となっていた。私は桐壷に恋した。しかし帝の妃となり、既に皇子まで産んでいた桐壷が私を顧みる事はなかった。私は恋しさ余って憎さ百倍、東宮を誘拐した、とこのように装うのである。 実際の作戦はどうするか。二十六日の昼、大弐の母である称善寺の庵主が淑景舎に来る。その時、行李を一つ持って来させる。帰りにはその行李の中に、東宮を隠して後宮を脱出し、後はひたすら逃亡あるのみ、である。一方私は、夜になったら、東宮に擬した赤児の死体と共に、北山の方のどこかの廃寺にでも入り込んで、東宮を攫いはしたものの逃げ切れぬと観念して、自焚して果てる! と、桐壷宛の文には書いてやった。実際の私の作戦は、そんな物ではない。どこの誰が、これっぽっちも愛していない女のために、むざむざ自焚するか。では、誰か他の男の死体を持ち込んで、私が自焚したように装うか? それとも少し違うんだな、これが……。 ・ ・ ・
二十六日になった。いよいよ今日が、運命の日である。私の一世一代の大作戦が、うまく行くかどうか。もし失敗したとしたら、その時は、――死にはしないぞ! 庶民に身を堕してでも、私は生き延びてやる。ただし、その積りである事は他人には知らせない。夕刻、私は退出すると、襁褓と油紙で包んだ赤児の死体を納めた袋を清行に持たせて、自邸を清行と二人、庶民に身をやつして抜け出した。すぐ近くにある清行の家へ行き、ここで、前以て用意しておいた貴族に相応しい狩衣に着替え、数日前から繋いでおいた私の馬に乗った。邸から直接馬で来たら、見張りの男達に尾行されるに決まっている。私が馬に乗り、清行に馬の口を取らせて、昼のうちから清行の家に待機させておいた武士一人、牛飼二人と共に出発して、行った先は、高辻北高倉東にある桜井宮邸であった。今ではもう住人もなく、荒れ放題である。 私は馬を繋ぐと、清行に言った。 「いいか、来たらすぐ、あっちの牛飼や従者にはこれを飲ますのだ。わかったな」 私は懐から一包みの薬を取り出し、清行に渡した。清行は真顔で、包みを受け取った。 「承知致しました」 「それから、寝殿の灯が消えたらすぐ、来るんだぞ」 「はっ」 夜になった。燭台に油を入れて火を灯し、私は黒い布で、左目に眼帯をした。 やがて、ざわざわと人の気配がして、入って来た男がある。権少将家忠であった。 「ようこそ、権少将殿」 私は権少将を見上げて会釈した。権少将は古びた円座に、横柄に坐ると、 「さすが帥宮殿ですね、こんなボロ邸を、密会の場所に使われるとは」 私は合槌を打つ。 「自邸は、ある者が見張ってますんでね」 権少将は私の顔を見て、不思議そうに尋ねた。 「左目、どうなさったんです?」 私は苦笑いした。 「つい先刻、ここへ来る途中で、木の枝が目に入ってしまいましてね」 「それはそれは」 権少将は形ばかりの同情を見せると、真顔になった。 「さて、本題に入りましょうか。貴方の御作戦が、どうもうまく行かなくなった、という事でしたね」 実は私は、二十三日のうちに、権少将に秘かに文を送っていた。その文には、私の進めている作戦が、うまく行かなくなった、ついては善後策を相談したいから、二十六日の夜、桜井宮邸へ一人だけで来てくれ、と書いてやったのだ。 「ええ、そうなんです。面目ない」 そう言いながら私は、燭台の側へにじり寄った。権少将が身を乗り出す。 「もう少し、こちらへ寄って頂けませんか。余り他人には聞かれたくない話ですから」 私の誘いに、権少将が何の疑問も持たずに身を乗り出したその時、私は素早く燭台の火を吹き消した。 「やっ、帥宮殿!」 権少将が慌てる。私は左目の眼帯をぐいと引きのけ、左目をかっと見開いた。今日は二十六日、月明かりのない夜闇の中では、暫く前から眼帯で覆って暗さに慣れさせた私の左目でも、辛うじて権少将の姿が見える程度だ。まして権少将には、私の姿は全くの闇の中、何も見えない筈。 「灯りは!?」 一層慌てる権少将の頚筋に、私は渾身の力を込めて手刀を叩きつけた。権少将は、声も出さず、どうと崩折れる。私は素早く、懐から縄を取り出し、権少将の両腕を後ろに縛り上げると、眼帯に使った布で猿轡を噛ませた。 縁側を渡って来る足音がした。押し殺したような声がする。 「若殿様」 「清行か。先に行って、牛飼に支度させろ。私はすぐ行く」 「はっ」 清行は去って行く。私は気絶させた権少将を立たせ、脇を支えて車宿へ向かった。 車宿では、既に牛飼が、権少将の乗ってきた車を乗っ取り、出発させる準備を済ませている。私は権少将を抱えて車に乗せ、自分も一緒に乗ると、低い声で言った。 「出せ」 車は動き出した。 夜の大路を、私と権少将を乗せ、私の牛飼が走らせている権少将の牛車は走る。騎馬で随行する清行と武士。 やがて車は都を抜け、北山の麓にある白川大納言の別荘に着いた。ここには権少将は良く出入りしており、私も一度来た事があって、間取りは知っている。普段は門番も少なく、特に裏門からは殆ど出入り自由だという事も。私は裏門から車を入れさせた。 寝殿に車を着け、権少将を降ろした。権少将は、まだ気絶したままだ。寝殿の一室に権少将を運び込み、行李から出した赤児の死体と並べて置く。川から拾い上げて二日もすると、さすがに少し臭ってくる。清行が松明を近づけて、気味悪そうな顔をする。 ・ ・ ・
「さて、あとはここに……!」言いかけた私の脳裏に、突然、閃いた物があった。いや、これは、虫の知らせとでも言った方がいいだろうか。何者かが、私に、今すぐ称善寺へ行け! と強く命じるのだ。 「清行。ここで、暫く待っててくれ。武士や牛飼は、帰していい。私はこれから、称善寺へ行く」 私は清行に命じた。 「称善寺へ? ……私も参ります!」 せがむように言う清行を、私は冷たく突き放した。 「いや、お前は来るな。ここで待つんだ!」 「若殿様!」 「待てと言ったら待て! 来るな!」 私は部屋を飛び出し、清行が乗って来た馬に乗ると、後も見ずに別荘から駈け出した。 称善寺へ来ると、庵の一室に、灯りが点っているのが見える。誰だ、誰が来ているのだ!? 私は門から馬を乗り入れ、近くの木に繋ぐと、簀子縁に登った。妻戸を開けた時、そこに坐っていた女は振り返った。その女こそ、他でもない、桐壷であった。 「桐壷様! 何故貴女が、ここに!?」 桐壷は、今迄見た事がない程熱と光に溢れた目で私を見上げた。見る間にその目には涙が溢れた。桐壷は口走った。 「帥宮様、どうか私も、一緒に! 貴方一人だけに罪を負わせる訳には参りません!」 しかし私は、それを受け容れる訳にはゆかない。それは、私と一緒に桐壷を死なせたくないからでは断じてない。私の大作戦の全貌を、桐壷に知らせたくないからなのだ。だが、そう言う訳にもゆくまい。 「それはいけません! 貴女は東宮の、いや、私と貴女との息子の母として、力の限り生き延びる義務がある。私は良く知っています、貴女も御存じでしょう、実の母の亡い子供というものが、どれ程寂しく、悲しく、辛い日々を送らねばならないかを」 これは私の、偽らざる胸の内であった。母の愛を受けずに育つ子を、これ以上私の周りに見たくない、それが私の思いであった。 「だから桐壷様、貴女には、是非とも生き延びて頂かなくてはなりません。生きていれば、いつの日か必ず、あの子と巡り合う日が来ます。それは貴女の為でもあるし、あの子の為でもあるのです」 「でも……」 「私はあの子の父だとは、誰にも言えない身です。しかし貴女は、あの子の母だと、天下の誰にも憚る事なき身なのです。決して、早まってはいけません。私の分まで、あの子を精一杯、愛してやって下さい。縦え離れ離れになろうとも、この世に生きてある限り、文も通わせられます、いつか巡り合う事もあります、死んでしまってはそれも叶いません。貴女は、強く生き延びなさい」 私は桐壷の前に坐り込んだ。 「もう猶予はなりません。私には時間がない」 まだ何か言いたそうな桐壷を、私は力一杯抱き寄せた。桐壷の目から涙が止めどなく溢れ、私の胸を濡らした。しばしの後、私は意を決して手を振り上げ、桐壷の頚筋に、手刀を打ち下ろした。桐壷は崩折れた。 私の目の前に横たわった桐壷を、私は無言のまま見下ろした。何の因果でか、私との間に子供を儲けてしまったこの桐壷という女に、私はついぞ愛というような情を感じた事はなかったが、今の今になって私は、ふと桐壷に、愛おしさというような情を感じた。 だが、いつ迄もここにはいられない。立ち上がろうとした時、蔀戸が軋んだ。と同時に、 「帥宮……!」 何と、聞こえてきたのは晴子の声であった! ・ ・ ・
「晴姫……」私は驚いて振り返った。そこに立っていたのは、晴子であった。 「貴女は、こんな所にまで……」 驚きの余り声が洩れた。晴子は、桐壷が倒れているのを見ると、 「そ、そ、帥宮。女御様は……」 へたへたと、その場に坐り込んだ。震える声で、 「し、死んでいらっしゃるの……?」 私は静かに笑った。 「つい今しがたまで、口争いをしていたのだが、聞き分けがないので、気絶して頂いただけですよ」 「口争い、て……」 「東宮だけをお連れする筈が、尼君を押し切って、無理矢理一緒に来てしまいましてね。今すぐ戻れば何とかなるから、戻って下さいと言うのに、聞いて下さらなかった。昔は、こんなに我侭な人ではなかったんだが」 私は懸命に嘘を練り上げながら言った。権少将を縛り上げて、一仕事してから来たとは、言わないでおこう。 私は晴子に向き直った。 「晴姫がどうして、ここにいらしたのか、今更問い詰めても意味がないですね。ここにいらしたからには、全てお知りになったようだ」 「ええ……」 「最後まで、手強い人でしたね、貴女は」 私はわざと、しみじみと言ってのけた。それから桐壷に目を落とし、 「この人は変わっていませんね、やつれた以外は……」 晴子も、桐壷に目を落とした。 「最後に会ったのは、私の養母が亡くなった時だから、もう十三年前になるのかな。あの頃は、ふっくらとした、可愛らしい姫だったが」 大弐から聞き出した通りの、源匡長と桐壷の過去であった。私は今や、源匡長に擬しているのだった。 「最後に会ったのが十三年前って、でも、あのう、去年の……」 晴子は大弐から、あの事も聞き出したらしい。私はふと目を上げて、困ったように苦笑した。 「嵐の夜で、灯りもなくてね。触れる事はできても、お顔を見る事もできなかったのですよ」 「顔も……」 晴子が胸を衝かれたように黙り込んだのへ、私は続けた。 「その後はもう、大弐を通じて伝言ばかり、精々が几帳越しで……(これは大嘘、私は先日、何も隔てずに桐壷と対面した)。お声だけでは、こんなにやつれておられるとは分らなかった。毎日が死よりも恐ろしい後宮生活に、東宮のために耐えていらしたんだろう。もっと早く、一日も早く、解放して差し上げるべきだった」 心にもない長広舌を振るってから、私はじっと桐壷の顔を見つめ続けた。私は今、源匡長を演じ切っている。それが晴子に対する、最後の韜晦術なのだ。 「帥宮、私は……」 今にも泣き出しそうな、晴子の声がする。 私は立ち上がり、蔀戸から外を眺めた。そこは、かつて源匡長が歩き回っていた、大して広くない庭であった。 「小さな庭ですね。幼い頃、幸姫や大弐と、ここで遊んだのが夢のようだ。もっと広い、野原のように広い所だと思っていたのに。私達が小さすぎたのだな」 何ともまあ、虚々しい芝居だこと。思わず忍び笑いを洩らした私は、しみじみと言った。 「晴姫には、幼馴染の童がいましたか」 「……一緒に遊ぶ子がいたわ。私、その子が好きだった」 晴子は喉を詰まらせた。 「それは、あの少将殿ですか」 「信孝もそうだけど。でも、違う子よ」 性覚だな。私はかまをかけた。 「今でも、時々、お会いになりますか」 「いいえ……。会いたいけれど、会ってないわ。でも、どっかで元気にやってる筈よ。そう思うだけで、幸せな気持になるわ」 残念ながらそれは、虚しい夢だ。それは私だけが知っている。しかし、性覚を思う心に私は、不覚にも胸を打たれた。私も性覚のために、心の底から泣いた事のある人の一人なのだ。私は頷いた。 「不思議ですね。どうして、子供の頃の事が、こんなに忘れられないのか。今よりも余程寂しく、貧しい暮らしだったのに。私はいつもいつも、昔ばかりを思い出すのです。思い出すだけで、幸せな気持になれる。幸姫は人見知りする姫だった。昔も、今もそうだ。自分からは、心を解けないのです。母宮を早くに亡くして、偏屈な父親や、冷たい継母に育てられたのでね。遊んで欲しくても、こちらから声をかけないうちは、悲しそうに目に涙を一杯に溜めて、木の陰や、乳母尼の後ろに隠れてばかりでね。不器用で、でも、可愛らしい姫だった。幸ちゃん、と声をかけると、小猫のようにぴょんと飛んで来て、にっこり笑うのですよ。あの時のまま、時間が止まっていれば……」 私もそろそろ、芝居に疲れてきた。 「大人になってからも、年に一度か二度、この庭を散歩するだけで良かった。御簾の向こう、几帳を隔てた向こうに、幸姫がいる。その気配を感じるだけで、良かったのに。なのに、一歩を踏み越えたばかりに、私達は苦しみすぎた」 あーあ、何とかしてくれよ、芝居の打ちすぎで顔が引きつりそうだ。とはおくびにも出さず、私はゆっくりと蔀戸を閉めて、晴子を振り返った。今の私は、どんな顔をしているんだろう。 「帝には、お詫びのしようのない罪を犯してしまった。けれど、幸姫は苦しみ続けてきたのです。その歳月に免じて、幸姫を許してやって下さい、晴姫」 「許すも、許さないも……」 「もっと早く、こうすべきだった。何度か考えながら、ここ迄追い詰められないと、私も決心できなかった。その点では、晴姫に感謝すべきですね。やはり、私にも野心があったのですよ。一日でいい、いつか三人で、どこかの寺の庭先ででも、ひっそりと対面したいという野心があった。私の死を賭けて、幸姫と東宮を生かすという決心が、中々つかなかった。私はまだ、一度も御子を見ていないのです」 これも大嘘。私の野心は、こんな事では決してないのだし、東宮も、一度しかと見ている。なのに晴子は、すっかり私の嘘に欺されて、私の袖を掴んで、 「死んじゃ駄目よ、帥宮!」 言われなくてもわかってる! 「罪って言うけど、半分は運命みたいなものよ。誰を責める訳にも行かないわ。恋ばかりは、身分も何も関係ないもの」 「そうです。だから、幸姫を救って差し上げたい。ここに晴姫がいらしたのは、天の助けですね(この時は本当にそう思った)。今すぐ、幸姫をお連れして、なるべく、ここから遠い尼寺に入って下さい。今更、後宮に戻すのは危険だ。貴女の手で、落飾させてあげて下さい」 晴子は、きっぱりと拒絶した。 「何言ってるのよ、嫌よ、そんな!」 「では、仕方がないな。幸姫をこのまま、この寺に置いてゆきます。ここは尼寺だし、幸姫とは縁も深い。無我夢中で、ここ迄駆け込んで来て、髪を切った事にすればいい。その積りで、今迄、最後のお顔を眺めていたところでした」 晴子は喰い下がる。 「待って! あんたはどうするのよっ!」 「私ですか?」 ここが芝居の打ち所。私は顔を引き締めた。 「どこか、そこいらの廃寺に駆け込み、火を着けますよ。既に童の亡骸も用意してある。なるべく、京を抜けた辺りがいいのだが。東宮を誘拐して逃げたものの、逃げ切れないと悟って、廃寺に駆け込んだという形が……」 晴子は叫んだ。 「そういう問題じゃないでしょ! どうしてそう、死ぬ事ばっかり考えるのよ。何か、別の方法があるかも知れないじゃないの!」 「別の……?」 別の方法を一つ、既に私は考えてある。だがそれは言わず、 「晴姫は出家しろと言いましたね。出家も死も、同じような物ですよ」 「違うわよ、全然!」 晴子は一層興奮してきた。 「出家しろって言ったのは、陰謀を忘れてやる条件の積りだったのよ。でも、そんな陰謀なんて無かったんだから、出家もなし(どこからそう判断したんだ?)。勿論、焼死なんて冗談じゃないわ。何とか、生き延びる方法を考えるのよ!」 「生き延びる……?」 勿論私は初めからその積りだが、やはり晴子らしい事を考えるな、と思うと、不意に笑いがこみ上げて来た。 「何を笑ってるのよ! 笑ってる場合じゃないでしょ」 晴子が怒ったように言う。 「いや、失礼。やはり貴女は、川に落ちて溺れかけても、生き返って来るだけの姫ですよ(どうやって生き返ったのか、聞かせてくれんか?)。生きる事だけを考えている」 晴子は、私の目を見ながら言った。 「ええ、生きなきゃならないわ。人間は、どんな事をしても生きていけるわ。簡単に死ねるもんじゃないわ。どんな事があっても生きている筈だと。そう思わなきゃ、残された者は辛すぎるのよ」 この時私は、私と晴子の心が、ぴたりと一致したのを感じた。どんな事をしても生きていける。そう思わないと、残された者は辛すぎる。私は、残された者の一人だ。乳母の、性覚の、そして澄子の……! 「ね、一人残される岑男の気持を考えてやって。自分の息子は焼け死に、女御様は落飾。憎い仇の男も焼け死んでる。これじゃ、岑男には救いがないわ。あんたは、そりゃ、幸姫を妃の一人にしながら、幸福にできなかったって事で、岑男を恨んでるのかも知れないけど……」 桐壷を、ではない、澄子を、だ! 胸の内に激しく衝き上げて来る怒りをひた隠しに隠しながら、私は言った。 「お恨みしていませんよ。むしろ、申訳なさの余り、何としても、事を静かに進めたかった。私は帝を、やんちゃな弟宮のようにお慕いしていた。いい方だ。うまく佳姫が入内して、皇子をお産み下されば、帝にお苦しみを与える事なく、全てが……」 ここまで私の本音と正反対の事を言ったのは、生まれて初めてだ。私の本音、帝を救いのない悲しみと絶望のどん底に突き落とし、永遠にそこでのた打ち回らせるのが私の宿望だという事と。 晴子は、自分が私怨私恨で余計な動きを取ったばかりに招来された事態に、深い自責の念を感じているのだろうか、涙を浮かべた。 「ねえ、帥宮。何とかするのよ。私も考えるわ。何とか方法がある筈なのよ!」 「いいえ、東宮を連れた尼君は、既に京を出ている頃だ。追手がかからないようにするためには、私が童の死体と一緒に、死んでいなければならない。晴姫、貴女に情があるなら、気が付いたら、幸姫の髪を切ってやって下さい」 「気が付いたらって……」 晴子が鸚鵡返しに呟いた時、私は晴子の肩を掴んで強引に引き寄せ、鳩尾に一撃を放った。 晴子は顔を歪めた。 「帥宮、あんた、最後まで、私を……」 「貴女はいい人だ。だが、幸姫の為なら、何度でも殺せますよ。そう言った筈です」 晴子は一層苦しげに、 「死んじゃ、駄目よ……女御様だって……」 私は穏かに言った。 「気が付いたら、くれぐれも幸姫を頼みます。幸姫をお支えして下さい。幸姫は、貴女を御信頼していた。私もです。貴女は見事な姫だった」 ここ迄言っておけば、もう言い残す台詞はない。私は晴子から身を引いた。晴子は床に崩折れる。私は妻戸を開けた。 その時、 「帥宮殿、お待ちを!」 信孝の声だ! 私が庭に飛び降りると同時に、庭へ入って来た一台の車から、信孝が飛び降りた。 「死んではいけない! 帥宮殿!」 私に真向から組み付こうとしながら、信孝は叫んだ。ここ迄来て、まだ邪魔者が入るか。私は信孝を突き飛ばそうとしたが、信孝は私の腰に縋り付く。私が立ち止まると、信孝は私の前に立ちはだかり、私の両腕を掴んだ。 「信孝殿、貴方が何故、ここへ来た。誰に、何を聞いて」 私は低い声で、鋭く訊いた。信孝は、肩で荒い息をしながら答えた。 「貴方の邸の近くで、火事があった。その現場へ向かう途中、晴子さん、綾姫、佳子、それに大弐という女房を乗せた車と会ったんだ。きっと皆、貴方が自邸に火をかけたと思ったに違いない。私も実は、そう思った。貴方と女御様の事は、大弐から全て聞いた。何としてでも貴方と女御様を助けてくれと言って、大弐は……」 信孝は唾を飲み込んだ。 「大弐は、喉を突いた。佳子は、髪を切った……」 私は、顔が歪むのを感じた。大弐。桐壷を守るために、私との連絡役として、淑景舎の仕切り人として、必死で働いていた大弐。その大弐は、死んでしまった……。 「私は、だから、貴方を、どうあっても助ける積りだ。あの車に、女御様と一緒にお乗せして、和泉の方へと脱出させる積りだ。これは私の、男として、友人としての頼みだ。私の言う通りにしてくれるか」 哀願に近い信孝に、私は言った。 「では、私と桐壷様を逃がした後、どうするのだ。そこ迄、考えてあるのか。それを聞いてからでないと、返事はできない」 信孝は、はっきりと答えた。 「貴方の邸の近くの火事で、逃げ遅れて焼け死んだ下男と女房の死体を、見繕って運んで来た、あの車で。それを貴方と女御様に装う」 ふむ。中々やるではないか。 「では、東宮は。私が東宮と共に自焚したと見せかけるのではないのか」 すると信孝は、言葉に詰まった。 「そ、それは……」 「どうするのだ!?」 信孝はやにわに顔を上げ、 「そうだ、帥宮殿がそう仰言るからには、帥宮殿の方で用意されている筈。それを使わせて頂く」 そう来たか。信孝なりに、大急ぎで考えたにしては上出来だ。 「そうか。だが、残念だが私は、貴方の言う通りにはしない」 信孝は声を上げた。 「それでは帥宮殿は、どうしても死ぬ積りなのか。私がこれ程頼んでいるのに!?」 これ以上ハッタリをかまし続けると、信孝は本気で私の作戦を阻止するだろう。それでは困る。私は目をかっと見開き、信孝を睨み据えて大喝した。 「私が死ぬとでも思ったか!!」 「えっ!?」 信孝は、私も予想しなかった程の驚きを示した。その隙に私は、信孝の両手首を、渾身の力を込めてがっきと掴んだ。 「私は死なない、それに、私にはまだ、京に残ってしなければならぬ事がある。自分が死んだ事にして和泉へなど行けるか!」 「なっ……」 手を上げようとした信孝だが、私の剛腕に押え込まれていて動けない。 「一つだけ訊いておく事がある。綾姫は、どこにいる」 「長岡の畷に、先回りさせてある」 その瞬間、私の脳裏に、恐るべき考えが閃いた。私は冷たい声で言った。 「わかった。いいか、私の言う通りにするんだ。桐壷様をお連れして、あの車で、和泉なりどこへなりと、脱出させるのだ。下男と女房の焼死体は、要らん。私の方でも、私なりに考えて、ちゃんと用意してある。桐壷様と東宮に装った焼死体に関する事は、私が全て取り仕切る。信孝殿、貴方は何も考えず、ただ桐壷様だけを、お逃がしするのだ。それ以上に余計な事をしたら、私は近いうちに必ず、何らかの方法で、貴方を殺す。私は、京の貴族社会で、生き延びてみせる。都落ちなど絶対にしない。今夜私がした事、言った事は、全て忘れるんだ。私は、東宮を誘拐などしなかったし、桐壷様とも心中など決してしないのだ。わかったか!」 「う……」 信孝は、私の気迫に圧されたように黙り込んだ。 「少しだけ、時間が欲しい。失礼!」 私は思いきり、信孝の急所を蹴り上げた。 「うぐぐぐ……!」 信孝が悶絶するのを見極めて、私は手を放した。信孝は庭に倒れ込む。私は素早く簀子へ駈け上がり、部屋へ飛び込んだ。桐壷は気絶したままだし、晴子も苦しそうにうんうん唸っているばかりだ。私は桐壷の衣を、唐衣、表着、五衣の三四枚を剥ぎ取り、脇に抱え込んだ。そのまま部屋を飛び出し、繋いでおいた馬に駈け寄った。馬の綱を外し、腹を蹴ろうとした時、 「帥宮様!」 聞き慣れない声がした。振り返ると、車の後簾を上げて、顔を出している女がいる。その髪は尼殺ぎよりも短い。佳子だ。私は佳子を一瞥すると、馬を出した。 長岡の畷、そこへ行くのだ。そこに、あの綾子がいる。万難を排しても、今、これをやってしまうのが、一番良い方法であろう。初めて桐壷を光の下で見た時、背格好といい顔立ちといい、綾子に似ている、と思ったのだ。私は懐から手巾を出し、手早く覆面をした。 長岡の畷へ来た。車が一台、その周りに従者が三人ばかり、そして女が一人。従者の松明の光で、顔が見える。 「あれは、少将様?」 私が馬を近づけるのを見て、驚いて声を上げたのは、確かに綾子であった。私は無言で馬を近づけ、従者達の虚を突いて、綾子を馬上に攫い上げた。 「あれぇ!」 声を上げた綾子の頚筋を、私は一撃した。 「やっ!」 従者達が声を上げた時には、私は既に馬首を転じ、今来た道を引き返していた。追って来ようにも、徒歩では馬に追いつける筈はない。私はひたすら、馬を走らせた。片脇に気絶させた綾子を抱えて、馬を走らせるのは並大抵の事でない。それでも私は、白川大納言の別荘を目指して、大急ぎで馬を走らせた。 別荘に着いた。馬で走り込んできた私を見て、清行は、 「その女は!?」 私は答えた。 「作戦変更だ。桐壷様も、一緒に焼け死んだように装う事にする」 私は綾子の顔を清行に見せないようにしながら言った。 「雑舎へ行って、油の樽を持って来い」 「はっ」 清行が行ってから、私は綾子を、寝殿に運び込んだ。綾子自身の衣を少し剥ぎ、桐壷の衣を着せ終わって柱に寄りかからせた丁度その時、綾子は目を覚ました。 「う……ん」 私は綾子の両手をしっかと押えた。 「綾姫。貴女はやはり、晴姫に寝返られましたね。裏切られた私が、黙っているとは、よもや思っておられないでしょう。これが、裏切り者に対する、私のやり方です」 私の言葉は、この上もなく冷酷であった。綾子は恐れをなしたように、 「私を、どうなさるお積りです?」 「貴女は大弐宛の文に、桐壷様の為にお役に立ちたい、と書きましたね。お望み通り、桐壷様の為に、お役に立って頂きましょう。幸い貴女は、背格好もお顔も、桐壷様に似ておいでだ。和泉へ逃げられる桐壷様の、身代りになって頂きます」 厳かな死刑宣告であった。 「え? ええーっ!?」 さすがの綾子も、死刑宣告の前には恐れをなした。恐怖の余り、声も上ずっている。 「見苦しいですよ。自ら選ばれた道です、観念なさい」 私は冷たい声で言いながら素早く短刀を抜くと、腰だめにし、全身の力を込めて綾子の胸に深々と突き立てた。綾子の顔は、恐怖と苦悶に凍りついた。致命傷を与え得たと見た私は、短刀を引き抜きながら低い声で言った。 「今度生まれて来て、誰かと手を組む時は、手を組む相手を良く見る事ですね、裏切れる相手かどうか」 綾子は、目をかっと見開いたまま、がっくりと崩折れた。綾子の胸から、短刀が突き抜けた背中から、どくどくと血が溢れ出た。その有様を見ながらも私は、短刀から足が付かないよう、短刀を拭い、回収しておく事を怠らなかった。 私は、部屋の片隅に横たえてあった権少将を抱き起こし、綾子の前に坐らせた。権少将は依然、気絶したままだ。赤児の死体も取って来て、二人の間に横たえると、私は権少将の猿轡と腕を縛った縄を解き、権少将の小太刀を抜いて、右手に(権少将が右利きである事は確認済だ)握らせた。刀身を首に当てて、ぐいと一引き、どっと血が迸った。返り血を浴びないように気を付けて、私は三人の死体から離れた。 丁度その時、清行の声がした。 「若殿様、持って参りました」 「うむ」 私は立ち上がった。綾子の衣を脇に抱え、清行の差し出した油の桶を受け取ると、部屋中に油を撒いた。 「これで良し。行くぞ」 私は油に足を取られぬよう気を付けて簀子へ出、庭へ降りた。 「清行、松明だ」 「はっ」 清行が差し出した松明を、私は寝殿へ投げ込んだ。たちまち油に燃え移る。 「行くぞ! 後ろに乗れ!」 私は馬の縄を解いた。清行を後ろに乗せて、私は馬を出した。門を出しなに振り返ると、寝殿の一室から上がった火の手は、次第に寝殿全体を包んでゆくところであった。燃え盛る炎を見ながら、私は呟いた。 「これが、私のやり方だ。誰が何と言おうと、私は私のやり方で、物事を解決する」 夜も更けてから邸に帰り着くと、近江が迎えに出て来て、ひどく緊張した面持ちで言った。 「どこへ行ってらしたんですか!? 宮中から、至急参内せよとの御使いが、先刻来ましたわ」 私はわざと驚いたように、 「宮中から!? わかった、すぐ参る」 私は大急ぎで冠直衣に着替え、牛車に乗って参内した。 宮中では、東宮と桐壷が行方不明という事で、上を下への大騒動であった。既に大臣以下、大中納言や参議も参内し、近衛・衛門・兵衛各府は総動員態勢にあり、内乱や外寇にも匹敵する厳戒態勢である。こんな事態が起これば真っ先に帝が呼びつける筈の信孝とは連絡が取れず、帝は私を前に怒鳴り散らしている。 「弁少将はどうしたのかっ!? この失態、後で必ず詮議するぞっ!」 そこへ更に次の報告が入った。北山の白川大納言の別荘が、不審火によって焼け落ちたという報であった。それを大真面目に報告する検非違使を見ながら、私はじっと黙っていた。その火事は、私が起こした火事なのだ。きっとそこからは、男と女、それに赤児の焼死体が見つかる。それが誰と誰であるか、いや、誰と誰だと思い込まれるか、そこに全てがかかってくる。 と思っているうちに、意外な報が入った。焼け落ちた別荘で、信孝が、瀕死の大火傷を負って救出され、鴛鴦殿へ送られたというのだ。 「何と! しかし、何故、弁少将が白川大納言の別荘などで、火傷を負ったのか。誰か、報告できる者はおらんのかっ!」 帝はすっかり驚愕している。その頃には、当の白川大納言は、殿上の間で気絶していた。 私は推測した。あの別荘は、称善寺からはそれ程離れていない。きっと信孝は、私が私なりに何とかすると言ったのを気にしていて、丁度近くで起こった火事に、私がとんでもない事をしたのでは、とでも思って、様子を見に行ったのではないだろうか。充分ありうる事だ。だが、もし、ここで……と考えた私は、自分の考えついた事に、ぞっとなった。 もし信孝が、この火傷が元で死んでしまえば、事件の真相を知る者はどこにもいなくなるのではないか? そうなれば、私が謀った起死回生の大作戦を、知る者もいなくなる。そうなってくれれば……と、私は考えたのだ。知らず知らずのうちに、信孝の死を望んでいた自分に気付いた時、私はぞっとすると同時に、激しい自己嫌悪を感じた。 帝は、訳が解らないまま、権侍医や薬師を鴛鴦殿へ派遣した。侍医を差し向けるのだけは、前例がないと公卿連中に反対されて、思い止まったが。 不安と恐慌が渦巻き、緊張が絶頂に達していた所へ、衝撃的な報告がもたらされた。白川大納言の別荘の焼け跡から、男と女、それに赤児の焼死体が発見された、という報であった。それを聞いた帝は、気絶寸前の放心状態に陥った。 朝になって、決定的な報告があった。着衣や面相から、三人の身元が判明したのである。それによると、男は権少将家忠、女は桐壷女御、そして赤児は、襁褓の紋などから、東宮に違いないという事であった。報告に来た検非違使も、足腰が立たぬ状態なら、受けた帝の方は、放心状態を通り越して、とうとう玉座に坐ったまま気絶した。それを横目に見ながら、私は独り、心中高らかに凱歌を上げていた。 遂に私は、帝をして気絶せしめる程の驚愕と苦悩を与える事に成功したのだ。私の作戦が、最初から全て順調に進んでいたら、桐壷と東宮が落飾するだけで済んでいただろう。ところが、晴子の介入という予想外の事態が起こったため、途中ではまあ、色々あったが、最終的にはこういう形で、当初の私の計画よりも遥かに悲惨な結末を迎えたのだった。帝の桐壷に対する愛情がどの程度だったかは、私は知らない。しかし、その桐壷を失い、のみならず、あれ程待ち望んだ東宮、たった一人の男皇子までも失った、その悲嘆は、察するに余りある。それだけの苦痛を帝に与え得た事は、私の作戦の予期せざる成功であり、怪我の功名でもあった。そして私自身にとっても、この最後の大作戦で、二人の人間を抹消する事ができた。一人は、私の弱味を握った積りになって、私に対して何かと強気に出ていた権少将、一人は、当初私と手を組みながら、途中で寝返って晴子の許へ走った綾子。この二人、就中綾子を抹消できたのは、望外の成功であった。もし綾子が、ずっと淑景舎に留まったままであったなら、私は綾子を拉致し、殺害する事はできなかった筈だ。そしてまた、綾子の殺害に成功したと同時に、綾子を桐壷に擬し得た事によって、帝の受ける打撃を一層痛烈な物にし得たのだ。その点では綾子は、最後の最後になって、私の為に大殊勲を上げたと言えない事もない。そう思うと、私が手にかけて殺したという事も含めて、少しは丁重に供養してやろうか、という気にならないでもなかった。 朝、日が高く上ってから私は退出した。夜通し起きていて、しかも格闘したり馬を走らせたりしたから、心身共に疲れ切ってぐったりしていたが、その疲れは、大事を成し遂げた充実感に満たされた、快い疲れであった。澄子の入内が決まったあの日から一年八ヵ月、怒りと憎悪のみに衝き動かされて生きてきた私の、帝への復讐の第一弾が、ここに大きな実を結んだのだ。私の怒りを日の光とし、私の涙を水として育て上げられた復讐の木は巨大な実を結び、固く熟したその実は枝を離れて帝を打ち拉いだ。この木は、私が生きている限り、私の怒りと悲しみを糧として実を結び続け、その実は次々に落ちて帝を押し拉ぐであろう。私が生きている限り、私は帝を責め苛み続ける。復讐が成就する時、それは帝が狂い死にするか、悲嘆の余り自殺する時だ。 車に乗って瞑目した時、目の前に最初に浮かんで来たのは、何故か大弐の俤であった。しかもその顔は、何事かを私に強く訴えかけてくるような色を浮かべていた。私は、子を成した桐壷に対してさえ、毛の先程の愛情をすら感じる事はなかったのだ、まして大弐如きに愛情を抱く筈がない。それなのに何故? と思っているうちに、不意に車が停まった。 「どうしたんだ?」 物見窓を開けて牛飼に問うと、 「前の方で人だかりがしておりまして、車が通れないのでございます」 「人だかり?」 私はこういう時、前駆の従者を使って人だかりを追い払うのは好きではない。それよりは別の道を通る方を選ぶが、それでも人だかりの原因くらいは知っておきたい。私は武士の一人に言った。 「良助、ちょっと行って、何で人だかりがしているのか聞いて来てくれ」 「はっ」 良助が馬を進める。すぐに良助は戻って来て、馬を降りて言った。 「申し上げます。女房と覚しき女が、道中で殺されているとの事にございます」 はっと思い当たる物があった。 「女房だと!?」 思わず声が鋭くなった。 「は。何でも、屋内の装束で、……」 良助の声を終いまで聞かず、私は車から飛び降りた。 「若殿様!?」 良助や牛飼達が驚くのを尻目に、私は人込みをかき分けて進んだ。 人込みのさ中に、筵を掛けられた女の死体がある。筵の下からはみ出した裳の紋様には、確かに見覚えがある。私は無我夢中で筵をまくり、女の頭を持ち上げた。間違いなく大弐だ。信孝が言った通り、喉を一突きしている。私は唇を噛んだ。 「若殿様、こんな所で穢れにお触れになっては」 私の後を追ってきた良助に、私は強張った声で命じた。 「良助、急いで邸へ行って、荷車をここへ来させるんだ」 「荷車を?」 「そうだ、早く行かないか!」 「はっ!」 良助は慌てて、人込みをかき分けてゆく。私は地面に片膝を突いて、じっと大弐の亡骸を見つめていた。初めて大弐に会った、称善寺のあの夜更けの事から、一昨日、最後に私と桐壷との連絡に来た時の事まで、幾つかの事どもが、私の脳裏に浮かんでは消えた。大弐は、決して怜悧な、賢い女ではなかったが、桐壷を思う至誠の心は、私が今迄会ったどの女よりも優っていたのは確かだ。桐壷を苦境から救うために、多くは私の入れ智恵だが様々な働きをしたし、そして最後には、信孝をして桐壷と私を救う決心をさせるためだけに、自らその命を投げ出したのだ。もし……もし大弐が、私が死ぬと言ったのを真に受けたのだとしたら、いや、そうだとしか思えないが、私は大弐を殺したにも等しいのではないか。そう思うと、急に胸が締め付けられるように痛んできた。不覚にも、目が霞んでくる。 ……「若殿様」 不意に背後から、清行の声がした。振り返ると、荷車の傍らに清行が立っている。 「清行か」 自分で聞いて少し慌てた程、声が沈んでいた。私は殊更に強く、硬い声で、 「この女を、荷車に載せろ。自邸へ運ぶんだ」 「は?」 合点が行かない様子の清行に、私は一層声を強めた。 「桔梗に恨まれたくなかったら、言う通りにするんだ! この女は、桔梗の従姉だ」 効果覿面、清行の態度は一変した。直立不動で大弐に合掌を捧げると、良助に手伝わせ、てきぱきと大弐の骸を荷車に載せた。 「桔梗には私から話す。清行は帰ったら、妙恵寺へ行ってくれるか」 妙恵寺は、祖父岩倉宮が寄進して建立し、出家して余生を送り、私の祖母や叔母、そして澄子と共に眠っている、言わば岩倉宮家の菩提寺である。そこに葬儀を頼もうと思ったのは、他の寺を思い付かなかったからではなく、私のために殉じた大弐を、私の一家に准ずる礼を以て丁重に葬ってやりたい、との思いに衝き動かされたからであった。少なくとも、普通の行き倒れのように、鳥辺山や桂川の川原に骸を曝す事になるのだけは何としても避けたかった。 私は帰邸すると、着替えるよりも先に近江を呼んだ。 「近江、桔梗の従姉は知ってるだろう」 近江は、いつものように極めて落ち着いて、眉一つ動かさずに答える。 「はい、存じております」 「そうだな。それが先刻、帰って来る時、自邸の近くの道端で、倒れているのを見付けた」 倒れて、という一言に込められた微妙な陰から、近江は事態を察したらしい。見る間に顔が強張り、血の気が失せていく。 「……では、……では、亡くなった、と……」 近江は口許を押えて口籠る。私は頷いた。 「桔梗の他には身寄りのない事だから(父は亡いと聞いていたし、母は私と桐壷の子を連れて逐電した筈だから)、この邸の者に准じて葬式を出してやりたい。また何かと近江の手を煩わす事になるが……」 近江はきっと私を見返した。 「いいえ、私の事ならお気遣いは無用ですわ」 それから、少時言葉に詰まって目を瞬いていたが、 「……これも、前世の因縁に違いありませんわ。心を込めて、お弔いして差し上げます」 「そうか。済まないな、毎度毎度、無理難題ばかり持ち込んで」 私がしみじみと呟くと、 「いいえ、どんな事でも、若殿様のお役に立てますのが、私は嬉しゅうございます」 そう言って近江は、にっこりと笑った。私は胸が一杯になり、気が付いた時には近江を力一杯抱きしめていた。 「わ、若殿様、あ、あの、御手を、く、苦しゅうございます!」 近江の喘ぎ声で我に返った。私は手を離すと、照れ隠しに咳払いして言った。 「ん、それじゃ、後は頼んだ。北の対の、前に綾姫の部屋だった所、あそこを使おう。北の対へ行くついでに、私の部屋へ来るよう、桔梗に一声かけてくれないか」 「かしこまりました」 近江が出て行くと、間もなく桔梗が来た。 「お呼びでございますか、若殿様」 「うむ、こちらへ」 私は桔梗を膝を突き合わせて坐らせ、厳粛な声で言った。 「お前にこれを告げなければならないのは辛いが、心して聞いてくれ」 「はい」 桔梗が唾を飲み込む音がした。 「従姉君が、亡くなった」 桔梗の顔から、すうっと血の気が引いていく。私は続けた。 「自邸の近くの道端に倒れていたのだ。 実は、私が昨夜遅く参内したのは、桐壷女御様が後宮から御姿を消される、という事件があったからだ。恐らく従姉君は、その事を私に大至急知らせようと、一人で後宮を抜け出して、ここへ向かっていたのだろう。その途中で、辻斬りにでも襲われたのに違いない」 大きく見開かれた桔梗の目から、涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。唇が僅かに動いたと思うと、 「……う、う……」 私は首を振った。 「私だって、嘘だと思いたい。しかし、本人が実際にそうなっているのをこの目で見てしまったのだ、信じない訳にはいかない」 桔梗は顔を覆った。ひくひくと震えている桔梗の肩に私は手を置いた。 「北の対へ行こう」 桔梗は、黙って頷いた。 北の対では近江が、少納言や村雨に指図して、葬儀の準備に忙しい最中であった。大弐の骸は、綾子の部屋の真中に取られた床に横たえられている。喉の傷は布できちんと巻かれ、血糊も拭い取られている。私に続いて部屋に入って来た桔梗は、私を押しのけるようにして大弐の骸に駈け寄り、枕辺に崩折れた。 「従姉さん、従姉さぁん……!」 大弐に取り縋る桔梗の、身を絞るような声は、聞くに堪えなかった。幾ら私が鉄面皮だと言っても、大弐の死に一番責任を感じているのは私であった。目頭が熱くなってくる。 後ろに人気を感じて振り返ると、少納言が柱に凭れて、袖で顔を覆っている。私は黙って、女達を見守っていた。 やがて来た妙恵寺の僧に、型通りに大弐を受戒させて、葬儀は滞りなく済んだ。私の一族の者に准じて鄭重な葬儀を営んだ事で、ほんの僅かでも大弐に対する罪滅ぼしになろうかと、思わずにはいられなかった。 大弐の事が片付いてしまうと、もう一つしなければならない事後処理がある。和泉の事だ。和泉は綾子が連れて来た者だから、綾子がいなくなった今、この邸に置いておく事はないから、烏丸殿へ返すなり何なりしようと思う。綾子が逃亡した事を私に知られて人事不省に陥った和泉も、あれから十日余りも経って、ようやく回復してきたところだ。私は近江と相談して、和泉を烏丸殿に送り返す事にした。 和泉に祓を受けさせ――和泉は死人の出た家にいたのだから穢れに触れているので―、他の女房達よりも幾分多目の給金をやって、車に乗せて烏丸殿へ送り返したのは、八月朔日の事であった。綾子が逃亡した事を私に知られ、私にどんな仕打を受けるかと、人事不省に陥る程恐れ戦いていた和泉であったが、給金を貰った上に車を仕立てて烏丸殿へ送って貰えると聞いて、やれやれと安心している様子が見える。私としては、綾子に関係する事どもは全て決着済、これ以上何もしたくないという思いであった。 ・ ・ ・
その後、宮廷は大騒ぎが続いた。何と言っても帝の打撃は大きく、怒りと悲しみの余り、半ば正気を失ってしまった。そのために、宮廷行事も中止が相次ぎ、それだけが楽しみの貴族達をがっかりさせている。自然貴族達も、私邸での宴や遊びは自粛するようになり、まるで都は諒闇のようだ。多くの人が、宮廷を去った。桐壷を後見していた源大納言は、東宮大夫だけでなく大納言の官職も辞して出家した。息子の東宮亮兼権左中弁も後を追った。権少将の関連では、自分の別荘が変事の場となり、そこで自分の息子が桐壷と心中した白川大納言が、恐縮の意を表してか出家。権少将の祖父右大臣も、老齢のためもあって辞職、出家した。この二人の辞職に、帝は一言の慰留もしなかった。そんな事に紛れるかのように、北山の開智寺に籠り切りだった三条大納言の訃報が都にもたらされた。物怪の恐怖に夜も寝られなくなり、食物も喉を通らず、最後は狂い死にに等しかったという。 そんな報せばかりの中にも、僅かな光明はあった。鴛鴦殿で療養中だった信孝は、次第に快方に向かっているという。だがしかし私は、それを素直に喜ぶ訳にはいかなかった。信孝が回復すれば、私が出家の約束を反故にした事、それよりも何よりも、綾子の行方が知れない事に関して、きっとあれこれと問い質されるだろう。晴子も、「出家はなし」などと言ってはいたが、私が都落ちするでもなく、涼しい顔で宮中に出入りしていると知ったら、そして綾子がいないと知ったら、どんな顔をするだろうか。これが、将来禍根とならなければ良いが、と私が秘かに願う事であった。 ・ ・ ・
初冬の十月、除目が行われた。右大臣と正官権官合せて五人いる大納言のうち三人が職を去って空席が沢山発生したのと、史上稀な大事件の後で人心一新を図るため、例年になく大規模な異動があった。上から見ていくと、烏丸内大臣公通が在職二年にして右大臣に陞り、左大臣の弟の中御門大納言兼左大将信康が左大将を兼ねたまま内大臣になった。左大臣の次男の春日中納言信廉が、兄の後を補って大納言になった他、高松師実、堀川右大将信義、勅別当公廉の権中納言三人が権大納言に陞り、按察大納言を除いて大納言は総入れ替えとなった。正官権官合せて四つできた中納言の空席には、参議八人のうち右中将満が中納言、治部卿と左兵衛督の二人が権中納言になり、三位中将が参議を経ずに権中納言に陞った他、頭中将と頭弁、右大弁の三人が参議に陞って台閣に列した。頭中将は後任に信孝を指名したが、何しろ信孝は鴛鴦殿で療養中であり、蔵人頭の職務を果たせるようになるには暫くかかるという事で、蔵人頭の後任には権中将がなり、同時に左中将に昇進した。病床の信孝にも、右中将への昇進が伝えられた。 東宮が道連れとなって死んだことで、帝の血を引く男皇子が一人もいないという状況が再び出現し、次期東宮を誰にするかという問題が再び浮上してきた。東宮位というものはそうそう空位にしておいていいものでないという点では皆認識は一致しており、さまざまな折衝の結果、帝の異母妹で当年十三歳の郁子内親王が十一月、東宮に儲立された。東宮の母方の祖父は故人となったが、近衛関白太政大臣の弟にあたり、この線から働きかけがあったようである。新東宮大夫には、新内大臣が任ぜられた。しかし、あくまでも帝が皇子を儲けるまでの急場凌ぎという感じは拭えなかった。 年が改まった正月五日の叙位でも、先の大規模な除目と軌を一にするように、大勢の者が昇叙に浴したが、除目と叙位の両方に共通して言える事は、土御門派の徹底的な疎外であった。帝が土御門派を疎外するのは今に始まった事ではないが、今回は特に露骨である。桐壷と東宮を殺害した犯人(と帝は信じている筈だ)が権少将家忠、つまり土御門派の若手だというのだから、帝の怒りは凄まじいものがある。しかも十一月頃、ちょっと信じ難い、しかし誠しやかな噂が発生していたのである。その噂とは、 ――烏丸内大臣(当時)が東宮大夫に就くと、東宮(当時)の後見は一挙に鞏固な物になって、高仁親王の出る幕はなくなる。土御門派は焦慮の余り、源大納言(当時)を東宮大夫に留任させようと恫喝する等の非常手段に出ていたが、その中でも最も尖鋭化したのが、白川大納言の庶長子、散位従六位下家冬であった。彼は異腹の弟権少将を以前から憎んでいたが、土御門派の危機の中で、東宮を不自然でなく暗殺し、同時に権少将を抹殺する方法を考え出し、権少将と桐壷が東宮を道連れに心中したように偽装した―― この噂を捏造したのは、私ではない。しかしこの突飛な噂は、落ち着いてよく考えれば、土御門派の若手公達が東宮を、体裁はどうあれ暗殺する事は、土御門派に対する帝の心証を害するに決まっている事、従って土御門派の戦略としては下策も下策である事が明らかであるにも拘らず、驚く程の勢いで世上を席捲していった。割を喰ったのは全然無関係な家冬である。慌てて出家したものの帝の怒りは収まらず、還俗のうえ佐渡へ遠流となった。厳寒の北陸路を配所へ護送されていったのは、私が噂を耳にしてから半月も経たない頃だった。 さて、こうなってしまうと、私の長期的戦略は多少の修正を要する。今迄土御門派は、曲りなりにも宮廷の第二乃至第三派閥であった、だからこそ私も、利用価値を見出していたのだが(権少将に弱味を握られていたのとは別に)、右大臣と白川大納言と、大物二人が辞職した事で、以前からの頽勢に一層拍車がかかり、今では全くの弱小派閥に成り下がってしまった。こうなってしまった派閥に、どれ程の利用価値があるだろうか。権少将に握られた弱味も、当の権少将を口封じしてしまった事で闇に消えた。近衛派との提携も、提携当事者の三条大納言が悶死した事で自然消滅の形だ、ここらで腐れ縁を清算してしまうか。 白川大納言の別荘の炎上で、瀕死の大火傷を負った信孝が、傷癒えて出仕してきたのは、幾分遡るが十二月に入った頃であった。私の顔を見ても、大して驚いた顔もしない。私自身は一度も信孝の見舞には行っていないが、他の見舞客の口から、私が涼しい顔で宮中に出入りしている事を聞いていたのだろう。ただ、真顔でこう言っただけだった。 「今夜、お時間を頂けますか」 信孝の言わんとするところは、即座に了解できた。 「宜しいですよ。今夜、室町殿へ伺いましょう」 すると信孝は、首を振った。 「いや、烏丸殿へおいで下さい」 烏丸殿、と来たか。晴子と再度対決せねばならない。私は腹を括った。 「わかりました」 夜になって私は、宮中を退出して烏丸殿へ向かった。信孝は既に来ていて、私を迎えに出て来た。 「晴姫に会わせよう、というのでしょう」 私が水を向けても、信孝は何も答えなかった。信孝と女房に先導されて、東の対屋へ通された。 簾の向こうには、晴子が坐っている。私が円座に腰を下ろすか下ろさぬかのうちに、晴子の声が聞こえた。 「帥宮、やっぱりあんた、生きてたのね」 私は笑ってやり返した。 「お蔭様で。思った程驚いておられませんね」 晴子は明るい声で、 「信孝から聞いたもの。それにね、あんたが生きてるって聞いて、私、嬉しかったわ」 私はひたすらとぼけて、かまをかける。 「嬉しかった。何故です? 貴女の御説得が効を奏したと、お思いになったからですか?」 「初めはそう思ったわよ。でもね」 晴子の顔に、僅かな影が差した。 「信孝によく聞いたら、あんた信孝に、『私が死ぬとでも思ったか!?』って言ったそうじゃない」 私はとぼけて、隣に坐っている信孝に言った。 「信孝殿も、よく覚えておいででしたね」 晴子は少し、むっとしたような声で、 「あんた、初めっから、死ぬ気なんかなかったんでしょ」 私はゆっくりと晴子に向き直った。顔を引き締め、声も真摯に、 「そうです。生きる事への私の執着は、恐らく晴姫、桂川の川底から生き返ってきた貴女にも、優るとも劣るまいと思っていますよ」 「じゃあ何で、あそこ迄来て皆に嘘をついたの」 晴子の声が上ずった。私は落ち着き払って、 「韜晦術ですよ」 「トウカイ術?」 私は、ふっと溜息をついて言った。 「一発逆転の秘策を持っている時には、最後の瞬間まで、それを持っている事を悟られないように、敵の目を欺き続けるのです。敵を欺くためには、そうする積りなど毛頭ない事を、やるぞやるぞと匂わせて、敵の目をそこへ引きつけておくというのは常套手段ですよ。これを撹乱戦法、或いは陽動作戦と言います。私はこう見えても、結構、唐の兵法書を読んでいますからね」 「だからって、だからってあんた、大弐にまで嘘をつかなくたって良かったじゃない! 大弐はね、あんたが死ぬ気だと思い込んでたから、自分の命を捨ててまで、あんたを死なせないでって、信孝に頼んだのよ!」 それを言われると、私も慚愧の思いに堪えない。唇を噛んだ私に、晴子は一息おいてから、一転して穏かに言った。 「ま、今更、しょうがないわね。大弐が死んだ事じゃ、幼馴染のあんたの方が、辛い思いをしてるんだろうし、これ以上あんたを責めるのは止めるわ」 大弐と私とは、幼馴染なんかでは全くないが、晴子がこう言っているところからすると、大弐は晴子に、私と桐壷、大弐が、幼馴染であったと、最後に私が申し渡した通りの嘘を言ったのだろう。幼馴染であろうとなかろうと、大弐を死なせた事に一番の責任を感じている私にとって、晴子の言葉は有難かった。この、深く追求せずにさっさと諦めてしまう性格の淡泊さと言うか甘さは、味方にするには頼りないが敵に回すと甚だくみしやすいものだ。晴子の甘さのために、私は一度、正に虎口を脱した事があるのだ。 「それはそうと帥宮」 晴子が少し、身を乗り出す気配がした。 「何でしょう」 穏かに応じながら私は、内心腹を括った。 「綾姫の事、何か御存知ないかしら」 そうら、来たぞ! 私は努めてさりげなく、 「綾姫が、どうかなさいましたか」 信孝が、横から口を出す。 「あの夜私は、綾姫を長岡の畷に先回りさせて、女御様と帥宮殿をお乗せする車を待たせておいたのです。ところが晴子さんが、女御様と一緒に長岡の畷へ行ったら、綾姫はおられなかった。覆面をした男が京の方から馬で来て、無言のまま綾姫を攫って、今来た道を逃げ去って行ったと、従者が申したと言うんです。確か帥宮殿は、称善寺で私と揉み合った時、綾姫はどこにいる、と尋ねられましたね。ですから、もしかしたら帥宮殿が、何か御存知なのではないかと……」 言い方は婉曲だが、確かに私を疑っている。どう言えば疑いを解かせられるか、私は素早く考えをめぐらせた。 「そうですね。今だから申しますが、私はあの時既に、綾姫が私の邸におられず、桜井という名で淑景舎に潜入していた事は知っていました。大弐から、逐一知らせが来ましたから」 晴子が相槌を打つ。 「そうね。綾姫が邸にいないのがバレたんで、和泉は死ぬ程怯えてたらしいわ」 私は頷いた。 「別に私は、和泉をどうこうする積りはありませんでしたよ。私とて、無用な殺生はしたくないのでね。あんな……」 あんな雑魚は殺すだけ手間だ、と言いそうになって、慌てて私は言い直した。 「和泉とやらは、綾姫の、と申しますか、貴女の御指図で動いていただけだったのでしょうから。 それで綾姫ですが、桐壷様も東宮も淑景舎におられない、という事態になって、のうのうと淑景舎で寝ている御方ではないでしょうから、きっと何か行動に出ておられる、と思ったのです。晴姫なら、お分り頂けるでしょう」 晴子は興味深そうに、 「あんた、綾姫の性格、よく知ってるわね」 私は笑った。一度は手を組んでいた仲だという事は、決して知られてはならない。 「一日か二日一緒にいれば、誰だってわかりますよ、あの御方の性格は。 案の定綾姫は、晴姫、佳姫、大弐と一緒に後宮を出て、私の邸へ向かわれたと信孝殿から聞きました。しかし、晴姫と信孝殿が相次いで称善寺へ来られたのに、綾姫は来られない。それで、どこにおられるかと信孝殿に尋ねましたら、長岡の畷で待っている筈、と信孝殿は仰言いました。それで私は、あの御方なら桐壷様を、間違いなく和泉なりどこへなり逃がして差し上げられるに違いない、と思って、桐壷様の事は信孝殿にお任せしたのです。私はてっきり、綾姫が長岡の畷で桐壷様をお待ち受けして、和泉なりどこへなり、付き添っておいでになったと思っていましたよ」 それからわざと、改めて驚いたような顔をした。 「そうだったのですか。綾姫は、桐壷様をお待ち受けしたのではなかったのですか」 長い沈黙の後、信孝が口を開いた。 「……つまり帥宮殿は、綾姫の事を何も御存知ないと、そういう訳ですね」 私は、きっぱりと断言した。 「その通りです。何も知りません」 「……そうですか」 やがて信孝は、不意に厳しい顔になった。 「それからもう一つ。白川大納言殿の別荘が焼けて、焼け跡から女御様と東宮、それに権少将殿の焼死体が見つかりましたね。女御様と東宮は、偽物でしょうが、権少将殿は本物だったようですね」 私は負けじと顔を引き締めた。 「それはどういう事です。私が、権少将を身代りに殺した、とでもお思いか」 「……そうです、恐れながら」 私はわざと、顔を歪めて笑った。 「馬鹿馬鹿しい。私が何故、権少将を殺す必要があるんです。あれは世上に噂している通り、腹違いの弟を妬んだ家冬とやらが、どさくさ紛れに権少将を殺した、それだけの事ですよ」 「でも、それなら……」 何か言いかけた信孝の言葉を、私は遮った。 「もしお疑いなら、あの時私がどう考え、どう行動したのか、全て申しましょう。 いいですか。私はあの前日、称善寺に、まず下人の男の死体を運び込みました。女と赤児の死体は、当日夜、運び込む予定で、近くの別荘に隠しておいたのです。女の死体は、使う予定はなかった。桐壷様は後宮に残っておられる筈だったからです。それでも、もし万一、桐壷様がどうしても、御自分が亡くなられた事にされてでも東宮と御一緒なさりたいと仰言った場合に備えて、用意しておいたのです。この位の用心は、あんな大作戦をやる時には当然ですよ。 それで、当日夜、まず称善寺へ行ったのですが、桐壷様は一緒に来ておしまいになった。それで、称善寺に桐壷様がおられるのに火をかける訳には参りませんから、場所を変えようと思ったのです。丁度その時ですよ、晴姫が称善寺へ来られたのは。続いて信孝殿も。で、桐壷様は信孝殿にお任せする事にし、下人の死体を持って、赤児と、事情が変わって必要になった女の死体を取りに、それらを隠しておいた近くの別荘へ行ったのです。ところが行ってみると、別荘は燃え上がっていた。一体誰が、こんな事をしたのか、あの時は不思議で仕方ありませんでした。しかし朝になってみたら、権少将が桐壷様、東宮と心中したと検非違使が奏上した。それで、わかったのです。誰なのかは知らないが、権少将を殺し、丁度そこに隠してあった、桐壷様と東宮に装った二体の死体を見つけて、それをうまく利用して偽装心中に仕立て上げたのだと。そのうちに下手人は、権少将の異母兄の家冬とやらだという噂が広まって、成程と思ったのです。手段はどうあれ東宮が亡くなられてしまえば、土御門派の擁する一の宮が東宮に立たれる可能性が出てくる、それに家冬とやらは、腹違いの弟を妬んでいたと、実にうまく辻褄が合いますよ、そうじゃありませんか?」 この僅かな時間で、これだけの嘘を練り上げるのは大仕事だった。私の長広舌を聞き終わると、信孝は首を傾げた。 「何か余りにも、うまく出来すぎてるような気がしますが。何で家冬は、自分の父君の別荘で弟を殺し、火をかけなどしたのでしょう」 私は肩をすくめた。 「そんな事、家冬に聞いて下さいよ。私は知りませんよ。まあ、女と赤児の死体を白川大納言殿の別荘に隠したのは、別に他意はなかったんで、ただ、丁度称善寺の近くだったからです。私の別荘は、岩倉の里で少し遠すぎますから。そうしたら丁度そこが、家冬の弟殺しの場所とかち合ったんですね。大した偶然ですよ、本当に」 信孝は、半信半疑な様子ながら、それ以上何も言わずに黙り込んでしまった。どうやら私は、綾子の拉致と権少将の殺害に関し、シロだとの印象を与える事に成功したようだ。それにしても、嘘に次ぐ嘘を、辻褄を合わせながらつき続けるのは頭を疲れさせる仕事だ。精神衛生上も良くない。烏丸殿を辞去した後、車の中で私は、真冬だというのに汗だくになっていた。 (2000.12.16) |
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