番外日記
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2001年2月25日(日)
あゆシナリオを終えることで、名雪シナリオを終えても皆目わからなかった7年前の冬の出来事、それを経験した祐一が全てに絶望し、全てを拒絶し、全てに対して心を閉ざし、この街にかかわる全ての記憶を抹消するに至った出来事が何であったのかがようやくわかりました──わかったと思いました。
しかしエンディングの最後の部分は、どんでん返しと言うのは不適切です。7年前に巨木から墜ちたあゆがエピローグの季節すなわち春のある日まで記憶を失っていたのだとしたら、ゲーム本編の季節に祐一に会っていたあゆは何だったのでしょうか?
これこそ、私がずっと昔から事ある毎に批判して已まなかったところの、御都合主義的ハッピーエンドを演出するために濫用される「死んでいたはずの人物が生きていた」という deus ex machina の典型ではないでしょうか。
あゆシナリオをエンディング直前までプレイした普通のプレイヤーなら誰でも思うように(そしてゲーム中に祐一が言っているように)、あゆは7年前に墜死したのであって、今はこの世の存在ではない。そしてそのあゆの魂が、祐一への想いのために現世への執着を断ち切れず、祐一が7年を経てこの街に戻ってきた時に実体化して、年相応に成長したあゆの形を取って祐一の前に現れた。そうした方が、「奇跡」を主題としたこのゲームの世界観にも合致すると思いますし、それに舞シナリオや栞シナリオで実現する、舞なり栞なりが生き延びる奇跡(この奇跡も先ほどの「死んだはずの人物が生きている」に属してしまうわけですが)、あるいは名雪シナリオが暗示している奇跡(交通事故で危篤に陥った秋子が2ヶ月後に快復しているという)を実現する主体があゆであるならば(私はそう解釈しますが)、そのあゆは記憶喪失になったまま生きていた生身の人間よりも、「愛する人を失う悲しみ(かつて自分が祐一の前から消え去った時のような)を、祐一にはもう味わわせたくない」という思いだけで現世に留まっていた魂であるとした方が、奇跡を実現する主体にはふさわしいと思います。
それに──こうなると悪しきリアリズム尊重主義に毒された揚げ足取りでしかないかもしれませんが──学校にも行かずに商店街に出没するあゆは、生身の人間であり本人が言う通りに母親がいなくて天涯孤独なのであれば、当然後見人の監督下にあるはずで、それにしてはその挙動のみならず存在自体が、妖狐なる人外の存在の化身である真琴を別にして、他の人物、名雪、秋子、栞、香里、美汐、舞、佐祐理と比べた時、あまりにも現実感が希薄すぎると思うのです。
と、このようにエンディングに対して批判的な感想を持ったのも、少し考えてみるに、こういったやや非現実的な世界観に立脚したゲーム(というと否定的なニュアンスがありますが、私はそのこと自体を特に否定的に捉えてはいません)では、「死んだはずの人物が生きている」というのと並んで、あるいはもっと頻繁かつ安易に、「記憶喪失」を持ち出す傾向があることへの不快感があるからではないかと思います。
Kanonの主人公である祐一にしたところで、シナリオライターの都合のいいように、パッチ状の記憶喪失になっているように見えたのです、あゆシナリオを終えるまでは。
(2月26日アップ 11月8日分離)

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