『幸せを求めて』
幸せを求めて
『うたわれるもの』より「クーヤ」「ハクオロ(主人公)」です。
18禁CGを公開するために、当サイトが さくらウェブに移転してから満3年を迎えるのを機に制作した絵です。
題材に選んだゲーム「うたわれるもの」は、時代劇を思わせる世界を舞台にして、身元不明のさすらい人から一国の皇にまで登りつめた主人公ハクオロを中心に、いくつもの国と民族の激動の歴史を描いた、雄渾壮大なゲームです。
三十路半ばにもなり、ありふれた学園物ゲームの主人公たちの2倍くらいも生きてきて、彼らが憂き身をやつしている「子供の恋愛ごっこ」にはいい加減物足りなくなってきた私は、新たに出たDVD版を2004年にプレイして、このゲームが大いに気に入りました。
特に主人公ハクオロは、私の十数年にわたるゲーム遍歴の中で、最も感情移入できた主人公と言えます。それはゲームのシナリオが単なる英雄譚ではなく、現実の君主の姿を、特に外交・戦争に際しての君主の苦悩を、エロゲーのシナリオとは思えないほど深く丹念に描ききっていたことが大きな理由だと思います。
そのようにシナリオを高く評価しているゲームであればこそ、たった1つ、シナリオで充分に描ききれていない、そればかりか安易な結末に逃げてしまったとしか言えないエピソードがあることを、プレイした時からずっと不満に思っていました。
それは、ゲームの後半で大きな役割を果たす、クンネカムン國の女皇クーヤの「その後」です。
このゲームでは、国名につけられる「国」を旧字体で「國」と表記しています。
クーヤが生まれたシャクコポル族は、トウカが生まれたエヴェンクルガ族とは反対に、武人としての資質には全く恵まれず、永らく他の種族に迫害されてきた不遇な種族でしたが、クーヤの父の代にアヴ・カムゥという、SFに出てくるモビルスーツのような強力無比な武器を手に入れたことから、シャクコポル族は一代でクンネカムン國を建国し、クンネカムン國は3大強国の1つに数えられるほどの繁栄を謳歌します。
しかし永らく被支配種族だったシャクコポル族が建てた新興国に対する妬みと、建国の際にクンネカムン國を「シャクコポル族だけの国にした」とあって、他種族を無理やり追放して建国したと推測されることから、クンネカムン國には他国からの侵攻が絶えません。そのことに対する国民の不満を悪用した奸臣ハウエンクアを、年端も行かずに皇位に即いたクーヤは抑えきれなかったばかりか、重臣ゲンジマルの諫言を聞かず、アヴ・カムゥの力を過信したかのように「シャクコポル族による大陸全土の平定」、実質は「他種族全てを敵に回した侵略戦争」でしかない暴挙に踏み切ってしまいます。
その結果、アヴ・カムゥだけが頼りだったクーヤは、「反クンネカムン連合軍」を結成することに成功したハクオロの戦略に敗れ、大陸全土に多大な戦禍をもたらした末に、父から受け継いだクンネカムン國を滅ぼしてしまいます。
そして落城の際、敗戦のショック、目の前で重臣ゲンジマルが死んだこと、ハウエンクアだけでなく股肱の臣と信じていたヒエンにも裏切られたことなどが重なって、クーヤは精神崩壊して廃人になってしまう──というのがゲーム本編のシナリオです。

しかし私は、クーヤのこの結末には大いに不満です。
初陣の後、戦士として自らの手で他人を殺すことの嫌さ、皇として将兵の命を駒のように操ることの責任の重さを痛感して、ハクオロに「戦は嫌だと言ったハクオロの気持ちがようやくわかった」と言い、戦争の最後に追い詰められたクンネカムン皇城でハクオロに降伏を勧められた時には「余(クーヤの一人称)が負けを認めたら、クンネカムンの民は、シャクコポル族はどうなってしまうのか(侵略戦争を起こして敗れた種族ですから、そのままでは建国前よりひどい迫害を受けるのは避けられないでしょう)」と言って降伏を拒み、そして「余はどうなってもいい、民のこと(安全の保証)だけは(約束してほしい)」と言って降伏を受け容れるクーヤは、年は若いのですが、ハクオロと並んで、このゲームに登場する皇たちの中では最も、真っ当な君主としての心、人としての心を持っている人物だと思います。
そんなクーヤには、戦争が終わった後も生き続けるのならば、皇として自らが惹き起こした戦争がもたらした惨禍の責任、皇たる身に担わされた十字架の重みを、真っ当な心を保ったまま負い続ける義務があると思うのです。それがどれほど辛いことであろうとも。
そしてまた、落城の際に忠臣ゲンジマルがクーヤのために自らの命を犠牲にした時、クーヤに「これからはただ一人の女としての幸せを掴んで下され」と言い残していったのを、後に残されたクーヤは受け止める責任があるはずです。それこそがゲンジマルの至誠に報いる唯一の道のはず、そうでなかったらゲンジマルは浮かばれません。
ですから、クーヤが精神崩壊して廃人になってしまうなんていう結末ではなく、自らの戦争責任の重さに一度は打ち拉がれたクーヤが、長い精神的苦闘を経ていつか、戦争責任を真っ向から受け止めることができるまでに立ち直り、それと同時にゲンジマルの遺志を受け止めて、ただ一人の女としての幸せを掴むために新たな一歩を踏み出す、そういうシナリオを書いてほしかったと切に思うのです。クンネカムン瓦解の後、ハクオロの皇城に庇護されたクーヤの世話をすることになった侍女のサクヤ(ゲンジマルの孫娘であり、クーヤに幼い時から仕えていて、クーヤにとっては唯一「友」と呼べる人物)が、廃人と化したクーヤを指して「このまま辛いことを何も思い出さない方が幸せなんじゃないでしょうか」などと言いますが、それがゲンジマルがクーヤに望んだ「ただ一人の女としての幸せ」であったとは、私にはとうてい思えません。

ゲーム本編のシナリオに代わる「クーヤのその後」として、私が考えているプロットはこうです。
旧クンネカムンでは自国を滅ぼした暗君と嘲られ、他の土地では戦禍をもたらした侵略者と恨まれ、居場所のなくなったクーヤは、ハクオロの庇護のもとトゥスクルの皇城で元クンネカムン皇として相応の待遇を受けることになりますが、他国に多大な戦禍をもたらし祖国を滅ぼした自責の念に耐えかねて、自害を企てます。
一命を取り留めたクーヤはハクオロに「そんな死に方をするのは、自らの命を犠牲にしてクーヤが一人の女としての幸せを掴むことを望んだ、ゲンジマルに対する裏切りではないか」と諭されます。
一人の女としての幸せとは何なのか、答えを求めて考え込むクーヤ。クーヤの話し相手になってやってくれとハクオロが頼んだのは、
オンカミヤムカイの皇となることを約束されながら、フミルィルとの日々に母としての幸せを一度だけ夢見たウルトリィ、
ラルマニオヌの皇女としての身分を失って剣奴にまで身を落とし、流転の末に雇兵となりながら、今の暮らしに幸せを満喫しているカルラ、
栄誉も富も望まず、貧しくとも心暖かな辺境の暮らしに幸せを見出していたエルルゥ、
クーヤと同じように、女としての幸せを模索している最中の(だと私は思います)トウカ。
彼女たちの生き様を知り、そして彼女たちに共通するのは、みなハクオロを愛すると同時にハクオロに愛されていると信じていることであるのを知って、やがてクーヤがハクオロに願うのは
「ハクオロ、余を抱いてくれ」。
そしてHシーンの後、クーヤは生まれて初めて、元クンネカムン皇ではなく一人の女として、トゥスクル皇ではない一人の男としてのハクオロに愛されていることを実感し、自分もまたハクオロを愛していることに気付いて、「男に愛され男を愛すること、女としてこれ以上の幸せはない」「余はハクオロに愛されていると信じられるから、これから先、どんな辛い過去の記憶にも、どんな苦しい未来にも耐えてゆける」と言います。
──まぁ、王道中の王道と言うしかないプロットですから、腕に覚えのあるSS作家の方々によって、似たような筋書きのSSが何本も書かれていそうですが。

私の現況では、このプロットをSSの形に結実させて当サイトで公開できるのはいつになるか目処も立ちませんが、筐底に埋めてしまうにはあまりにも惜しいプロットなので、プロットの中心となるHシーンだけでも絵に描いてみることにしました。
SSのプロットということを別にしても、うたわれるもの というゲームは、ゲーム全体のボリュームの割には18禁シーンが少ないと感じられるゲームで、年若い女皇という美味しい女性キャラであるにもかかわらず、ゲーム本編にクーヤの18禁シーンはありません。
しかし、どういう事情にせよゲーム本編に18禁シーンがないのなら、それを自分で補完することこそファンの特権と言えるわけです。
その意味で今回の作品も、前作の来栖川綾香と同じ路線に乗っている作品ですが、「ゲーム本編のシナリオを補完するSS、そのプロットの中心となる18禁シーン」を考えて描いた今回の作品は、「ゲーム本編のシナリオをいじらずに18禁シーンを挿入するとしたら、どこにどんなシチュエーションで入れてみたいか」を考えてみた前作より、さらに一歩踏み出した作品と言えるかもしれないと思います。
(2005.10.2)

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