近江物語

第十四章 稲穂
 その夜帝は、女御との寝物語の最中、ふと思いついたように言った。
「そうだ、私も田んぼで米を作ってみたい。今からでも間に合うかな?」
 女御は低い声で笑いながら言った。
「貴方って、本当に型破りな帝ね。自分で田んぼにお米を作りたい、なんて」
「可笑しいだろうな」
 帝がやや自嘲的に言うと、女御は語気を強めた。
「いいえ、とってもいい思いつきよ。貴方、日頃から庶民の暮しを知りたいと思ってたんでしょ? 冬までかかってお米を作れば、もっとよく庶民の暮らしがわかるわ。やりなさいよ、私が知ってる限りの事は教えてあげるから」
 帝は意気込んだ。
「そうか、それじゃ、水の引ける所を見つけて、すぐ始めようか。今日見た神泉苑、あそこはどうかな? 池があるって言うから水はあるし、この頃全然行かないから大部荒れてるらしい。あんな広い土地を遊ばせておくのは勿体ないよ」
 女御は、逸る帝を抑えて言った。
「ちょっと待って。神泉苑って、どれ位の広さがあるの?」
 帝は指折り数えて、
「そうだね……東西が二町、南北が四町だから、八十段、かな?(現在の約十二ヘクタールに相当する)」
 女御は諭すように言う。
「お百姓が一家総出で働いて、作れる田んぼは十段が精一杯よ。まして貴方は他の仕事もあるんだし、一段もできないわ。神泉苑を全部田んぼにするなんて、無茶よ、一つ司を作らなきゃ」
 帝は笑って言う。
「全部田んぼにするなんて誰も言ってないよ。一段は、三十歩の十二歩(五四メートル×二二メートル)だから、南庭の三分の一くらいか。でも南庭を田んぼにしたら、年中行事が何もできなくなるから駄目だな。ここの前庭はどう? 丁度遣水もあるし、五丈四方くらいだから、六十歩(二百平方メートル)位だね。その位なら、一人でできるんじゃないかな」
「そうね。ただ、ここの庭は子供の遊び場にしたいのよ」
「子供の遊び場なら、他にも庭はあるじゃないか。田んぼにできるくらいまとまった広さで、水の引ける庭は、ここと南庭しかないんだよ」
 翌日帝は、公卿会議の後で、雑談に紛らして話を持ち出した。
「この内裏に、田んぼを!?」
 頓狂な声を上げたのは右大臣だ。
「右大臣殿、驚きなさる程の事ではありますまい。この内裏には、桜や梅や橘が、所狭しと植わっております。それらの木や、菊や朝顔といった草花を植えるのと、稲を植えるのと、どちらが是でどちらが非という事はありますまい。しかもただ花を観るだけの木や草に比べ、主上御自らお植えなされた稲の新穀を、新嘗祭にお供えなさるとの仰せ、実に素晴らしい叡慮、感服致しました」
 こう言ったのは按察大納言だ。この人は年長者ながら、左右大臣のような旧弊な考えに捕われていない人で、帝も好感を持っている。結局左右大臣も、この話は帝の気紛れと思って諦めたのか、特に反対はせず、藤壷の前庭、白砂を敷き詰めた庭を掘って田を造ることに決まった。佳日を選んで、三月十日に神祇官を召して地鎮祭を営ませた。内裏に水田を作る宣命の文案作成には、内記達も苦労したらしい。田を造ると言っても、造り方を知っている職人などいよう筈がなく、唐土伝来の農業書を訳させて、それを参考にして造ることになった。人夫が土を掘って畦を造っている傍らに東宮のおむつが干してある情景は、内裏の一角とは到底思えない。帝自ら、水干に指貫の裾を膝まで括り上げて、鍬を担いで慣れぬ手つきで土を盛る。十二の歳までは下仕えの童として、薪割りや水汲みにも従事した帝だったが、数年ぶりに肉体労働をするとやはり体があちこち痛む。
「ああ、疲れた! 肩やら肘やら、腰も痛いな。あんな仕事、初めてだよ」
 その夜、藤壷で帝は長々と寝そべりながら言った。女御は帝の腰を揉みほぐしながら言う。
「こんなのまだまだよ。籾が届いたら、苗代を作るから、それまでに畦塗りをして、水を入れて、ね」
 その時、前庭で何かが倒れる物音がした。
「誰かっ!?」
 帝が跳ね起きながら鋭く誰何すると、
「右近将監平相政にございます」
 夜間警備の者だ。帝が灯を持って簀子縁へ出てみると、今日作ったばかりの畦につまずいて転んだ将監が、土を払いながら起き上がるところだった。帝は軽い口調で言った。
「誰かやると思った。水を入れてなくて良かったな。明日早速、田んぼの周りに縄を張ろう。将監、警備は御苦労、だが足元にもう少し気をつけるように」
 将監は装束を整えると、深々と敬礼してから去っていった。
 数日後、苗代にするために田の一隅を区切り、水を入れて土をよくならす作業があった。帝は膝まで泥に浸り、いかにも初心者らしい手つき腰ぶりで、苗代を作っていく。女御付の女房連中は簾の内に集まり、殿上人達は渡殿や簀子に集まって、奇行とも見える帝の一挙手一投足を見守っている。
「しかし主上も、不思議な事をなさいますな」
「泥田に膝までお浸りになって、賎しい者共の真似事をなさるとは、憑物でもあるのでは」
「泥に足を踏み入れるなど、私共には想像も及ばぬわ。むくつけき事よ」
 殿上人連中の陰口が、女御には聞こえる。女御は内心、こんな連中を軽蔑している。
〈あんた達に、主上の考えがわかるもんですか! 民の営みを知り、民と苦楽を共にするというのが〉
「東宮、貴方も、主上のように、民の生き様をよく知って、民の営みを実践するような帝になるのよ、頭の古い殿上人達が何を言おうが構わずにね」
 女御が東宮を抱き上げて聞こえよがしに言うのを、簀子にいた殿上人連中は聞きつけた。聞こえよがしに、
「東宮まで主上のようにお成り遊ばされたら、この国はどうなるやら」
 あんたが帝になるよりはましな国になるわ、と言いたいのを我慢する女御であった。
 苗代を作ると、次はそこに籾を播く作業がある。これは農業書にも載っていない微妙な量の加減を要するので、女御自身が簀子まで出てきて、帝に指図する。初めて籾を手に取った帝は、それがいつも食べる白米と大違いなのを不思議がっている。
「これが本当に、米の種なのかなあ?」
 帝自ら播いた稲は、幾日か後には芽を吹き、細い葉を伸ばし始める。帝は毎日暇を見つけて藤壷へ来ては、日一日と育つ稲苗を、喰い入るように見守っているのだった。そんな帝を、女御も微笑ましく思って見ている。帝は手先が器用で絵心も少しはあるので、毎日稲の観察記録をつけている。絵を嗜む公卿、殿上人は少なくないが、科学者の目を持って稲の観察をし、それを詳細な図絵にした人というのは、帝としては神武天皇以来初めて、臣下としても日本史上前例がなかったに違いない。
 五月には田植えがある。民間では田植えの時に、郷村を挙げて祭を行うが、宮中にはその前例はない。女御の発案で、近江高島郡で行われている田植祭をやる事になり、帝は人を派遣して近江高島の田植祭を調べさせる。女御の外祖父である高島郡前司三尾武麻は、一世一代の名誉と大感激で、祭に使う様々な祭具一式、豪勢に拵えて献上する。祭具に添えて、前郡司の手紙がある。
「……郷里を出てから、六年になるんだ。……お祖父様も、齢を取られただろうな……」
 女御は手紙を読みながら呟いた。夜、女御は帝に手紙の事を話した。
「ねえ、竹生島への行幸って、いつできるの」
 女御が待ち遠そうに言うと、帝は、
「行幸ねえ。貴女がそう言う気持はよくわかるよ。でも、行幸、それも隣国へということになると、何かと準備が大変なんだよ。日がどうとか方角がどうとか、それに、私だって政務の忙しい時期というのはあるし、いつでも行けるという訳じゃないんだ。できるだけ早く、とは私も思ってるけどね」
 帝に説得されて、女御は頷いた。
 田植えのさ中のある夜、帝は女御に言った。
「折敷みたいな物を被って、田んぼの中で屈んだり反ったり、何やってるかわからんなんて、漢詩を知ってるから何でも知ってるって訳じゃ全然ないんだな」
 女御も相槌を打つ。
「香炉峰がどうこうより、自分達が食べるお米の事の方が、余程大切な事よね」
 夏から秋にかけて、帝は政務に田仕事に、多忙な日を送った。この頃女御は再び懐妊した。今度は誰にも懐妊を憚る必要がないと思うと気が楽なのか、悪阻も軽く、体調も上々であった。八月に、女御は二条邸へ里退りした。
 十月、藤壷前の水田の稲は熟した。この年は天候が順調で、適度に照り適度に降り、暑過ぎず寒過ぎなかったので、稲の実りも順調で、収穫後に量ってみると二斗もあった。(反収籾一石。当時の技術水準では反収籾一石半が最高であった)収穫祭は、大嘗祭として一世一代の盛儀として営まれることが決まっていて、悠紀田を近江、主基田を丹波に卜定してあったのだが、内裏で穫れたこの米を、新穀として供したいと帝の強い意向であった。当然ながら公卿や神祇官は反対する。
「天照大神の末裔たる私が作った米が、神意に反するというのなら、所詮その程度の神意でしかないのだ。私の代の大嘗祭は、私の米も用いて営む。神慮の如何なるかを、しかと確かめてみよう」
 帝の傲岸な自信は、迷信深い貴族連中を圧倒するに充分だった。
〈私は二の宮に為り代わったことで、皇位を盗み、桜さんとの間の一の宮を東宮に立てて、皇統をすら簒奪しようとしているんだ。その私の治世が一年経って、飢饉もなければ疫癘もない、私自身も東宮も健勝そのものだ、神譴なんてどこにあると言うのだ? 迷信に虜われてる連中に、私の一生を以て目に物見せてやろうじゃないか〉
 帝が作った米を供えて大嘗祭が行われた翌朝、京洛の空に彩雲が現われた。天文博士は二十年ぶりの瑞兆と喜び、陰陽師や神祇官も大騒ぎする。帝は幾分得意気に、
「私の行いが神意に反するなら、こんな瑞兆が現れるだろうか」
と神祇伯や公卿に言う。本心では、神意など意にも介していなかったから、彩雲が出たのが本当に自分の行動を神が嘉したとは思わず、自分の行動を正当化してくれたと思っている。帝がその少し後、二条邸へ微行した折に女御に話すと、女御も、
「そうでしょう。神意だ何だって、そんな事気にする事ないわ。私だってあんな事をしたのに、具合の悪い事なんて何も起こっていないもの。祟りなんてのは、それを気にするから、些少な事でも気になって、余計悪い事が起こったり、起こったと思い込んだりするのよ。平将門の話、聞いた事あるでしょ? 坂東で叛乱を起こした逆賊と言われているのに、坂東では豪族も農民もこぞって讃え、祀っているそうよ。逆賊とされた平将門を祀っている人達に何の祟りもなく、平将門の墓に無礼を働いた人に祟りがあると言われてるの。話が逆よね」
「そうだね」
「だから、その程度なのよ、祟りなんて」
 女御は自信満々に断言する。帝も、女御の気強さに安心したが、一本釘を差すのを忘れない。
「ただね、今後何か具合の悪い事が起こったら必ず、それ見た事か、あの時ああやったのが神慮に反したのだ、と言われるからね。それは気をつけないと」
・ ・ ・
 近江への行幸の方は、帝も何かと忙しいのと、女御が身重で旅はできないということで、一向に実現しない。行幸と言っても日帰りで行ける両賀茂神社や石清水と違って、竹生島となると片道三日はかかる。しかも恒例行事ではないから優先順位が低く、余程まとまった暇がないと無理である。
 そのうちに年が明けて、一月五日の朝、女御は男児を出産した。二人目となると女御も落ち着いたもので、帝の方が気を揉んでいるのに、しっかりした字で、
「私は一人で大丈夫。私の為に、正月の叙位を疎かになさいますな」
と手紙をよこした程である。
「何てまあ、しっかりしたと言うか、気が強いと言うか。心配していたのが馬鹿らしくなってしまう」
 帝は手紙を読み終わると、側に控えていた蔵人左少弁橘長時に苦笑しながら言った。
「そのうち中宮に冊立したら、貴方を中宮亮にでも任じてあげようと思ってたんだが、中宮職なんか要らないな、これだけしっかりしていれば」
 長時も笑いながら、
「そのような事を仰言ると、またうるさいですよ、公卿方が」
 この男は橘氏であることからわかるように、当時の貴族としては全く中流以下で、鳴かず飛ばず受領にでもなれれば上出来という家柄の出だったが、頭が切れて事務処理の腕が立つので蔵人に登用された。側へ置いてみると物の見方考え方も柔軟で、在来の慣習に虜われすぎず、さりとて帝のイエスマンでもない、自分なりの思想をしっかり持っているので、帝も高く買っているのだった。帝の治世も一年を過ぎて、弁官局や蔵人所に、帝が見出した有能の士が次々にその才能を発揮し始めていた。優れた才能を持つ部下を見出し、その才能を遺憾なく発揮せしめること、これは上に立つ者の条件として、古今東西変わらぬものである。
 女御は二月二六日、二の宮の五十日の儀が済んだ翌日参内した。同じ日、女御を中宮に冊立する宣命が発せられた。中宮職は、大夫が中納言源頼時、亮が参議在原孝平、大進は蔵人左少弁橘長時と、帝の腹心で固められた。中宮の異母兄で左大臣の長男雅能は、この春の叙位で従四位上に昇進したのに除目では右近少将から外されて官にありつけず、是非とも中宮亮をと帝に哀訴し、左大臣も後押ししたのだが、帝は首を横に振った。
「義兄の昨年一年間の、近衛少将としての勤務成績は、六人中最低ですよ。私生活でもちゃらんぽらんで、聞き苦しい噂が多い。兄弟と言うだけで、中宮亮という責任ある職には着けられませんね」
 六人いる少将のうち、今春辞職した者は二人であった。一人は中将に昇進した藤原師重で、今一人は散位となった雅能である。現在最も権勢のある左大臣家の長男にこの冷遇と、殿上人達は色めき立った。
「あの少将を散位にしたのは、中宮亮に任ずるためだとばかり思っていましたよ」
「中宮の兄ですからね。それがまあ、蓋を開けてみれば在原の宰相(参議)が亮とは」
「左大臣殿の御威勢も何の役にも立たず、と」
 当の前少将はすっかり落ち込んで出仕せず、左大臣は惑乱して帝に詰め寄るが、帝は平然と答える。
「義兄は中宮亮の器でない、そう私が判断しただけですよ」
 左大臣は半ば泣き顔になって、
「う、器でないと、私の、息子が!?」
 帝は意地悪く言った。
「そうです。伯父上、あの義兄のような公達が他にいたとして、伯父上の娘を、その男に任せたいと思いますか?」
 息子の行状の悪さは、左大臣にも頭痛の種なのだった。赤面する左大臣に、帝は畳みかける。
「そうでしょう。私も、中宮の身の回りの事どもを、あの人に任せたくはないのです。いいですか伯父上、私は確かに貴方の甥であり婿でもある、でも叙位除目には、一切身内だからという手心は加えませんよ! 私の朝廷を支える廷臣として相応しいかどうか、それ以外は一切、考慮しません。もし私の、今度生まれた息子が、皇族たるに相応しくなかったら、すぐ臣籍に降します。臣としても相応しくなかったら、無官無位のまま、洛外で百姓でもやらせますよ」
 完膚無きまでにやり込められて、左大臣は退出した。左大臣の次男で侍従を務める雅康が言うところでは、雅能は毎日、最初に帝の后とされながら入内も叶わなかった姉の徽子と、泣きながら愚痴をこぼし合っているという。帝は鼻で笑って、
「そんな女々しい男だから中宮亮に任じなかったのだ、と兄に言ってやりなさい」
と言い放った。中宮はさすがに聞き咎めて、
「皆のいる所で、その言い方はひど過ぎるわ」
と、閨の中で帝をたしなめる。按察大納言もその翌日、一人で帝に拝謁を乞うた。
「中宮職の任用は成程尤もでございます。しかし、昨日侍従に仰せられたお言葉、些か難がございました。主上は、御自身のなさる事に大変自信を持っておられるのは結構でございますが、自信を持ちすぎた御振舞は、とかく他人の怨みを買うものにございます。私なども、藤原氏ばかりの貴族社会の中、源氏の者として永年勤めて参りますと、この狭い貴族社会では敵を作ることがいかに不都合か、よくわかるのでございます。前少将は左大臣殿の御子息、かような事で左大臣家を敵に回しなさるのは、決して得策とは申せませぬ。老婆心ながら申し上げます」
 弱小派閥に属しながら、上手に立ち回って生き延びてきた按察大納言の言葉には実感があった。帝は反省した。
「わかりました。……しかし、左大臣家を不当に屓贔することとは別でしょう」
「それは勿論です。屓贔はいけません。しかし、皆の前で悪しざまに仰言るのは、公正に評価なさる事とは別です」
 とかく若いうちは、自信過剰でつい放言したりする事が多いものである。
(2000.9.16)

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