近江物語

第三章 近江の君
 さて、二の宮の母麗景殿女御の兄である権大納言雅経は、今年三三歳になる。摂関家の長男である権大納言としては、早く娘を二の宮の妃として、外戚の地位を確保したいところである。と言うのも、今年十四歳の東宮には既に十七才の長女徳子を妃としてあるのだが、肝心の東宮が体が虚弱のうえ知能が低く、帝を務められるかどうか疑問で、右大臣家は早くも二の宮を次期東宮に立てようと運動しているからであった。権大納言には子供が五人いる。長女を頭に、十五歳の次女徽子、十三歳の長男、十一歳の次男、九歳の三男である。ところが一昨年裳着を済ませた徽子はひどく病弱で、入内させても子を産めるかどうか甚だ心許ない有様である。権大納言にとって、これは一番の悩みの種であった。こうなるのなら徳子を二の宮に取っておけば良かった、と思っても後の祭りである。さりとて、徽子が入内させられないからもう一人娘を産ませようと言っても、今からではもう遅い。
 三条邸で、いつもながら思い沈んでいると、北の方が嫌味たっぷりに言う。
「貴方は若い頃、相当あちこちの女に手を出してらしたわね。結構、御落胤がいるんじゃありませんこと?」
 いつもなら聞き流してしまう北の方の皮肉だが、これを聞いた権大納言、はたと扇で掌を打った。
「そうか」
 権大納言は、今ではもう北の方一人に身を固めているが、若い頃はかなり放埒な漁色をやった男であった。若い頃あちこちに蒔いた種が、実っているとすれば、十何歳かになっている娘がいるだろう。そういうのを手分けして捜し出し、器量の良いのがいたら、娘と認知して迎え取り、入内させるべく教育しよう、と考えついたのだった。ただ、三条の本邸では、何と言っても本妻の通子がうるさい。二条邸で、母北の方に預けようと考えた。
 翌日権大納言が、二条邸でそれとなく口に出したのを、耳ざとい小近江は早速聞きつけた。時々千代に書き送る手紙の中に、それとなく仄めかして書いてやった。
 その頃千代は、永らく病床に臥していた。桜は長ずるに従い、いよいよ美貌に秀でてきて、近郷でも評判になるほどだったが、病床の母を一心不乱に看病し続け、周りの男共には目もくれなかった。
 小近江からの手紙を読んだ千代は、桜を懐妊した時からの念願が、いよいよ成就しそうになってきたと思うと、騒ぐ心をとり鎮めて桜に言った。
「桜、よくお聞き。貴女の父は、今まで誰だとも言わなかったけれど、今、都で大層栄えている立派な公卿です。その父が、貴女を尋ね、迎え取ろうとお考えになっていると、乳母から手紙が来ました」
「私の、お父様?」
 桜が訝るのも無理はない。自分は生まれた時からずっと、父なる人の顔も知らずに近江の田舎に暮らしてきたのだ。都の立派な公卿が父だと言われて、驚くより前に不思議がるのも尤もである。
「そうです。母は貴女を産む前に、宮中にお仕えしていたと言いましたね。その時分に、若い公達と夢のような契りを結び、そして近江へ帰ってから、貴女を産んだのです」
 遠い昔を懐しむような目で、中空を見上げながら語る千代は、内心では全く別の思いに胸を締めつけられていた。
〈ああ、私は何という嘘を言っているのでしょう! 桜のためと思う余り、全くの嘘を。桜の父は、公達なんかではない、一介の武士だったというのに! 神様仏様、嘘言の罰を、どうか私だけにお与え下さい、私は今すぐ死んでも構いません、ですからどうか、桜に罰をお与えにならないで……〉
 千代が、心を苛まれる余り、不覚にも涙を滲ませたのを、桜は錯覚したらしい。
「お母様、私は決してお母様の側を離れません。だから、私が都へ行くと思って悲しまないで」
 そう言って桜が千代を慰め、涙を拭こうとするので、千代はふっと苦笑した。
「桜、貴女が都へ行くと言ったって、母は悲しんでなんかいませんよ。いいえ、嬉しいですよ。貴女は素晴らしい運を持っていると、昔、人相見が言ったことがあります。その運が、いよいよ開けてきたのですよ」
 不意にそこへ、千代の父の郡司が入って来て、妙に媚びるような口調で言った。
「そうだ、桜、お前はそんな優れた運を持っておったのではないか」
 郡司は、今迄はどうも千代と桜を快く思っていなかった様子がある。千代が采女に選ばれて都へ参った時は、家門の名誉と喜んでいたのだが、やがて千代が、大きな腹で帰ってくると、父も知れぬ子を宿して帰ってきた千代には、一転して冷淡になった。やがて桜を産んだ千代が、隣の滋賀郡司の後妻となったのも束の間、四年後に郡司が死ぬと、すぐ出戻ってくるという始末である。それ以来ずっと、実の娘に対するとも思えぬほど冷淡にしてきたのが、いきなり掌を返したように愛想良くするのも、現金なものである。
「公卿の娘だったとは知らなかった。そうと知っておったら、それに恥ずかしくない育て方をしてやったものを。つくづく悔やまれるわ」
 などと郡司が大仰に言いたてるのを、千代は一層心苦しく思っている。桜の本当の父は、名も知れぬ下っ端の武士だなどと、今更言えなくなってしまったのだ。父までも欺く罪深さに、ただ恐れ懼くばかりだった。桜は桜で、母と別れたくない思いで胸が一杯で、祖父が俄に心変りした様子を、何ともやり切れなく思っている。
 郡司が出てゆくと、千代は強いて心を奮い立たせ、桜に言った。
「母の事は心配しなくていいのよ。貴女が都へ上ったら、母は病気を治して、後から行くから。貴女は、目の前に開けてきたこの運を、今すぐ掴み取りなさい」
 全く気休めでしかない。千代は、上京する積りは全くないのだ。上京して仮に権大納言に会ったら、権大納言が千代と契ったことがないのが露見するだろう、そうなったら桜の運勢は潰えてしまう。それなのに心にもない気休めを言う、これも千代の心を苛むのだった。
「でも、お母様……」
 不安気に言いかける桜に、千代は囁いた。
「その立派な公卿のお邸に、大黒丸がいるのよ」
 桜は、思わず頬を赤らめた。
「大黒丸に……会えるの?」
 恥ずかしそうに小声で言う桜に、千代は頷いた。
 その夜更け、罪の意識に心を苛まれたのか、千代の容態が急変した。我が身に代えてもと桜の懸命に祈る甲斐もなく、明け方、千代は不帰の人となった。こうして、桜の出生の真実は、誰にも知られぬ永遠の闇に消えていった。
 実母の死とあっては、五十日は喪に服さなくてはならない。その間にも郡司は、孫娘を公卿の娘として上京させるのにふさわしくしようと、財力に物を言わせて装束やら何やらを整える。その騒ぎを横目で見ている桜の胸の中にも、徐々に決心が固まってきた。
〈今更どうしたって、お母様が帰って来る訳じゃない。それならお母様の言い残した通り、目の前の運を、自分の力で今すぐ、掴み取ろう。それが、あの世のお母様に喜んでもらえる、一番いい事かもしれない〉
 喪が明けた八月、桜は、都から迎えに来た小近江、それに四人の侍女と一緒に、石山寺へ向かって、住み慣れた高島郡司の館を後にした。いきなり入京でなくて、石山寺へ行くことになったのは、権大納言の意を受けた家司がまず面通ししてみて、権大納言の娘と見ても良さそうだったら入京させるという事だと、小近江は言った。
「何か随分、私達を馬鹿にした話じゃないの。もし私が、その家司とかいう人から見て、権大納言様の娘にふさわしくなかったら、そのまま館へ帰れってこと?」
 桜は、思ったままを小近江に言う。
「大体何で、お父様自身で、石山寺なり私達の館なりへ来ようとしないのかしら? 誰かと誰かが親子かどうかなんて、他人が見てわかる筈がないと思うわ」
 小近江は、小声でたしなめる。
「権大納言様は、とても身分のお高い御方なのですよ、そうそう軽々しく、石山寺だの、まして高島だのへ出歩きなされる御方ではないのです」
 桜は尚も不満が残る。
「身分が高くたって、親子には変わりないわ」
「……身分のお高い方々のお考えになることは、私達にはわかりません」
 小近江も、半ば諦めたように言う。
 石山に着いたのは翌日の昼であった。参詣者宿泊施設の一室に、大いに着飾った桜が坐り、家司を待つ。
 家司の兵衛尉と名乗る男が入ってきた。桜の初めて見る、中央の貴族である。とは云っても、卑官なのだが。それでも、洗練された物腰は、祖父や伯父達のような、武骨な田舎豪族とは違うものがある。物珍しさの余り、まじまじと見つめていると、横に坐っている小近江が袖を引っ張る。努めて上品に、しとやかに振舞うよう、よく言い含められていたのだ。桜は少し俯向き、手にした扇を広げて顔を半ば隠す。これも、扇と言えば蝿を追っ払う道具と思い、男も女も青天白日の下互いに平気で顔を見せ合っているのを当然と思っている桜には、可笑しな事をするものよと思われて仕方がない。
 兵衛尉が何か喋っている。この間延びした物言いには、桜はずっこける思いだった。田舎は都より長閑なところだと人は言うけれど、田舎の人は誰一人、こんな間の抜けた物言いはしない。
 小近江が肘で突っつく。
〈何か御返事なさい〉
 桜も、努めてゆっくりと応える。これを聞いて兵衛尉は、上品な姫君だと勘違いしたらしい。満足に思っているようだ。
 面通しを済ませて、兵衛尉は小近江に挨拶を述べると、部屋を出て行った。
「ああ疲れた。肩が凝ったわあ」
 桜は扇を投げ出し、拳で肩を叩いた。
「こっこれ、他人に見られたらどうなさるのです、お止めなさい」
 小近江が慌てて制止するのもわからない。郷里の女達は、稲刈の後など、臆面もなく肩を叩いたり腰を揉んだりしているというのに。
・ ・ ・
 兵衛尉は桜を見て、権大納言と瓜二つとは言わないが、客観的に見て親子だと言える程度には似ていると判断し、また応対の様子から、よく躾けられた姫君だと判断した。これなら、権大納言の姫君だと申し上げても支障はあるまい、と思い込むと、早速都へ帰り、権大納言に報告した。
「うむ、そうか。その姫は、躯は丈夫そうか?」
 権大納言は、姫と云っても所詮、男皇子を産ませるための道具としか考えていないから、これが一番の関心事である。
「はい、それは御心配には及びませぬ。乳母の申すところでは、生まれてこの方、病気らしい病気をした事がないそうで。某の見立てでも、腰つきは丈夫そのものでした」
 権大納言は安心した。
「それなら安心だ。迎えて取らす意があると、先方へ伝えよ」
「承知仕りました」
 兵衛尉はその日のうちに、馬で石山寺へ向かった。
・ ・ ・
「貴族」という種族の人間を初めて見て、立派そうではあるけれど何か妙な人達だと感じた桜は、小近江に言った。
「ねえ、大黒丸も、先刻のあの人みたいになっているのかしら?」
 小近江は考え込んだ。真実を打ち明けると、きっと桜を落胆させるだろう。でも、隠していてもいずれわかってしまうことだ、と肚を決めて話した。
「いいえ、大黒丸は、まだ下働きですよ」
 桜は多少の落胆を、まだ大黒丸も子供なのだから、と強いて抑えつけた。
「……まだ下働きなの。でもいいわ、結婚するまで一緒にいられるんですもの」
 小近江は、次に自分が発する言葉が、どれほど深く桜を傷つけるかを思うと、心は鉛のように重くなった。
「ね、そうでしょう?」
 桜が嬉しそうに同意を求めるのに、小近江は重い口を開いた。
「……いいえ、姫様……ええ、この際、はっきり申しましょう。権大納言様は姫様を、主上の二の宮様、将来、帝となられるかも知れぬ御方です、その御方のお妃となさるために、迎え取りなさるのですよ」
 最初桜は、事の意味がわからなかった。だが次第に、自分が大黒丸と結婚できないということがわかってきた。見る間に両の目に涙が溢れ、頬を流れ落ちた。
「ひどい! お前、嘘をついたのね! 大黒丸と結婚できないんなら、私、都へなんか行きたくないわ! 郷里へ帰る! 今すぐ帰る!」
 やはり予想通りの反応である。小近江は肩を落とした。桜は尚も言い募る。
「お前が、大黒丸と一緒になれると言ったから、私、都へ行く気になったのよ! それを今になって、一緒になれないだなんて! お前、お父様がそういう気だって、知ってたんでしょ!? それなのに、よくも私を瞞したわね! 嘘つき! 大っ嫌いっ!」
 桜は身を捩り、髪を振り乱し、甲高い声で喚き、罵り、しまいには声を限りに泣き叫ぶ。小近江や侍女達がなだめようとすると、手を振り払い、足をばたつかせてのた打ち廻り、凄まじい狂乱状態である。特に小近江には激しい敵意を剥き出しにして、襲いかかって打擲しようとさえするので、小近江は表着の袖を引き破られながら、命からがら逃げ出して、牛飼や警護の武士達のいる別室に隠れたくらいである。そのうちに桜は泣き疲れて、盗賊が入ったように荒れた部屋の真中に、うずくまって眠ってしまった。
・ ・ ・
 その頃二条邸では、大黒丸が例によって物思いに耽っていた。それを見咎めた、例の口さがない近江が言う。
「大黒丸、母さんがいなくて寂しいのかい」
〈何て浅薄な物の見方しかできないんだ〉
 半ば近江を軽蔑する気持が大黒丸の胸を占め、大黒丸は返事もしなかった。
「そう寂しがらなくてもいいんだよ。母さんはもうじき、お前の初恋の女を連れてくるんだから」
 大黒丸は、勢いよく振り返って坐り直した。
「え!? 誰を?」
 近江は笑って、
「またまた。お前が郷里の女の子と筒井筒の仲だってこと、邸中の女房が知ってるよ」
 全く女房というもの、こういう噂話だけが娯しみときている。大黒丸は苦り切っている。
 近江は大黒丸の表情に気がつかずに、平然と、同僚と噂話をするような口調で言う。
「でも可哀想なこったね。その子、三条の権大納言様の御落胤だってさ。権大納言様は、その子を立派なお姫様に仕込んで、二の宮様と結婚させなさるんだそうだよ」
〈桜を!? 二の宮と!?〉
 大黒丸は耳を疑った。近江に突っかからんばかりの勢いで、上ずった声で訊く。
「そ、それ、本当!?」
 近江は、まるで他人事だと言わんばかりに、
「やっぱり、気になるかい。そりゃまあ、権大納言様のお心次第だけどね。もし、二の宮様の御妃にふさわしいと思召されたら、まあ、お前には、……あれ、どこへ行くの?」
 大黒丸は激しく打ちのめされて、近江が呼び止めるのも耳に入れず、ふらふらと立ち上がると、跣足のまま庭へ降り、あてどもなく歩き出した。植込みの陰へ来ると、崩折れるように膝を突き、地に蹲った。ともすれば声が洩れそうになるのを、血が滲むほど唇を噛んで怺えた。涙で目の前が霞む。
 大黒丸は夕飯も食べず、絶望に打ちひしがれたまま蹲っていた。二の宮が呼びつけても、微動だにしない。夜になっても、近寄る者の手を振り払い、土に膝を突いたままでいる。
 翌朝、庭に蹲ったままの大黒丸の許へ、二の宮自らやってきた。
「大黒丸、どうしたの」
 この子供っぽい物言いを聞いた途端、絶望の闇に閉ざされていた大黒丸の胸の中に、烈火の如き憤怒が湧き起こってきた。大黒丸は、紅に血走った目で二の宮を睨み据え、低く重い、しかし深い怒りに満ちた声で言った。
「僕に構わないで下さい」
 大黒丸の燃えるような眸に真向から睨み据えられて、動作緩慢な二の宮が思わず、三尺ほども飛びすさった。二の宮を見る人々の目は、父帝や母女御の愛情に満ちた目、童達の親しみを込めた目、女房達や廷臣達の半分媚び諂う目――それが媚び諂いだとわかるほど成長してはいないが――ばかりで、このような怒りと悲しみに満ちた目で真向から睨まれた事は一度もないのだ。大黒丸が何を感じているのかさえさっぱり見当がつかず、その目に涙の跡があるのを見つけて、恐る恐る、
「どうして泣いてるの? どこか痛いの?」
 大黒丸はもはや二の宮を、主君と思う心は微塵もなくなり、一人の幼稚な子供、自分の初恋の人を奪おうとしている同性としか見ていなかった。もしもう少し自制心が働かなかったら、大黒丸は二の宮を、ぼろ布のようになるまで叩きのめしていただろう。周りに女房や、他の童もいるのを見て、辛うじて思い留まり、冷たい皮肉を放った。
「どこも。どこも痛くなくたって、泣くことがあるんですよ、二の宮様にはわからないでしょうがね」
 周りの女房が色をなす。
「これ、大黒丸、二の宮様に何を申すのです」
 当の二の宮は、不思議そうな顔で、
「変なの。痛くないのに、泣くんだって」
〈これだから幼稚だってんだよ!〉
 大黒丸は心の中で、二の宮を激しく罵っていた。
・ ・ ・
 その日の夕方、二両の車が、二条邸の門を入った。前の、立派な方の車に乗っているのは、桜と三人の侍女である。この朝桜は、都に迎えられることに決まったと聞いて、絶対行かない、今すぐ郷里へ帰る、と散々駄々をこね、屈強な侍女と牛飼、警護の武士が総出で暴れる桜を車に押し込め、やっとの事で連れて来たのだった。小近江は、一緒の車に乗ったら車中で殺される、と怖れをなして、もう一両の車に乗ってきたのだ。
 何と云っても外腹の娘なので、権大納言自身は迎えに出ず、家司や女房を迎えに出させ、西の対の隅に車を着けさせた。車から降ろされる頃には、桜は泣き疲れてぐったりしており、暴れ騒ぐ気力もない。
 四人の侍女は、小近江と違って都へ出るのが初めてなので、都の大邸宅の華美さに目を瞠り、他の女房に比べて自分達の田舎臭い様にすっかり気後れしている。すぐ帰る牛飼や武士達は酒肴を振舞われて、一生の名誉だなどと得意がっている。
 与えられた曹司に落ち着いた頃を見計らって、二条が小近江に、権大納言が御目通りを許す旨を伝えに来た。
「いいですか姫様、もうここまで来てしまったからには、帰るなんて我侭は仰言ってはいけませんよ。上品に、おしとやかに振舞いなさいね。さ、参りましょう」
 小近江に言われて、桜は小近江が拍子抜けするほど素直に頷いた。小近江の先導で、桜は侍女に支えられ、しずしずと寝殿へ向かった。扇で顔を半ば隠し、郡司が精一杯整えてやった衣の裾を長く曵いて、廊下を歩いていく様子は、どれほど野卑な娘かと想像していた女房連中の鼻を明かすに充分であった。
 権大納言の前に参上すると、まず小近江が、これこれの次第でと口上を述べる。それが終わると、権大納言は言った。
「姫、もっとこちらへ」
 桜はゆるゆると膝行して権大納言の前へ進み出、顔を扇で覆って俯向いた。
「面を上げなさい。そう恥ずかしがらずに」
 権大納言が親しみを込めて言うと、桜は少時ためらうようにして、ようやく顔を上げ、それでも顔の下半分を扇で隠した。権大納言と同席している母北の方が見るところ、額や頬のあたりは、権大納言にかなり似ている。ただ、目は赤く、泣き腫らしたようである。実のところは、眼の赤さは泣いたというよりは、怒りに燃えていると言った方がよいが、幸か不幸か少し離れたところにいる権大納言や母北の方には、そこまではわからない。
 権大納言が何か問うと、それに対して穏かに、丁寧に応える声の調子も、女房連中の案に相違して上品であり、十二歳という年齢の割に大人びた落着きさえ感じさせる。物陰から覗き見している女房連中は、意外に思った。
「案外じゃないの。近江の田舎娘だと思って高をくくってたら、大違いだったわ」
「歩き方も喋り方も、大君様や中の君様に決して引けを取らないわ」
「源氏物語の近江の君とは大違いね」
「同じ近江の田舎娘でも、ね」
「侍女はどう? 五節の君みたいかしら?」
「どうだか。もう二、三日しないと」
 几帳や柱の陰で、囁き合っている。それに気付いて、小近江は得意満面である。
 目通りを済ませて曹司へ戻ってきた桜は、いつもの口調に戻って小近江をせっつく。
「大黒丸はどこ? 早く逢わせて」
 小近江は辺りを憚って、桜をなだめる。
「まあまあ姫様、もう少しお待ちなさいませ」
 と、そこへ、従姉妹にあたる姫が来たと聞きつけて、好奇心一杯の二の宮が、足音を忍ばせてやってきて、前触れもなく曹司を覗いた。桜は扇を置いていたので、二の宮をまともに正視した。覗いた少年が、あばたがない点以外は大黒丸にそっくりな顔なので、桜は驚いて、
「あら!? 大黒丸!?」
 同時に小近江が、慌てて、
「まあ二の宮様、姫様の御曹司を覗きなさるなんて、はしたない事でございます」
と言いながら手にした扇で、桜の顔を隠す。二の宮は、ぱたぱたと走り去っていく。
「あの子が二の宮なの?」
 桜は驚きを隠し切れない口調で、小近江に尋ねた。小近江は几帳を巡らしながら、
「二の宮、なんて仰言ってはいけません。仮にも、主上の御息子の君でいらっしゃる方です」
 桜は言葉を改めた。
「あの方が、二の宮様なのですか」
 小近江は言った。
「ええ、左様でございます。本当に不思議な事ですけれど、二の宮様は大黒丸に、疱瘡のあばたがお有りでないこと以外は、本当にそっくりでいらっしゃるのでございますよ。何か、前世の因縁でもお有りなのですかねえ」
 さもさも珍しい事のように小近江が言うと、桜も頷いた。
「親も間違えるほど良く似た双子、って話は聞いたことがあるけど……全然血の繋がってない人同士でも、よく似てる人っているものねえ」
「世の中には、瓜二つの顔の人が三人はいる、って言いますからね」
「それじゃあ、大黒丸と瓜二つの顔の人は、あと一人、どこにいるのかしらね」
 などと言って笑いながら、桜の心の底に、恐るべき陰謀の芽が萌え出てきたのに、誰が気付いただろうか。
・ ・ ・
 大黒丸は依然、激しい絶望に打ちひしがれたまま、物も食べずに部屋で衾を引き被っている。そこへ小近江がやって来た。
「大黒丸、大黒丸」
 小近江の声を聞きつけると、大黒丸は勢いよく上体を起こした。小近江を見るなり、
「桜を連れてきたの!?」
 目をぎらぎらと輝かせ、険しい顔で詰め寄る大黒丸に、小近江は気圧された。
「そ、そうだよ」
 大黒丸は力なく天井を仰ぎ、深く歎息して呟いた。
「ああ……それじゃあもう、桜は二の宮のものだ。もう駄目だ……」
 言い終わるより先に、仰向けに倒れた。小近江は慰めるように、
「そうがっかりしなさんな。今夜、姫様に逢わせてあげるよ」
 だが大黒丸は素気なく呟いた。
「いい。桜はもう、僕の人じゃないんだ」
「そう言わずに」
「もういいよ! 逢わなければ、諦める決心がつく。逢ったら一層、苦しくなるだけだよ! 放っといてよ!」
 そう絞り出すように叫んで、小近江に背を向けてしまったこの様子は、失恋の傷手に苦しむ一人前の男のそれである。小近江は見ていて、憐れみを感じると同時に可笑しくなった。桜と大黒丸は、同じ日に生まれたのに、大黒丸の方が余程年長に見える。
〈「逢わなければ、諦める決心がつく」なんて、いっぱしの若者みたい〉
・ ・ ・
 その夜、邸中寝静まった頃、小近江と桜が、大黒丸の寝ている部屋へ忍び入ってきた。小近江は、同じ部屋に寝起きしている近江と宵のうちに示し合わせてあって、部屋にいるのは大黒丸一人である。桜を部屋に入れると、小近江は燭台を置いて、そっと退出した。
 桜は、衾を被っている大黒丸の傍らに坐った。囁くような小声で、
「大黒丸」
 眠れぬまま悶々としていた大黒丸は、聞き慣れぬ娘の声に、はっと我に返った。もしかして、と思うと、衾をはねのけて振り返った。目の前には、立派に着飾った姫がいる。その顔は、間違いない、夢にも度々見た桜である。
「桜……」
 思わず大黒丸の唇から、溜息に似た言葉が洩れた。だが大黒丸の心には、冷え冷えとした諦めの情が広がってきた。大黒丸は低い声で、ぼそりと呟いた。
「もう逢わないよ。桜さんは、二の宮と結婚するんだろ? 僕はもう、諦めたよ」
 これを聞いて、さめざめと泣き出すのが普通の姫君だろう。ところが桜は違った。寝返りを打って背を向けた大黒丸の、肩をしっかと掴むと、ぐいと向き直らせて囁いた。
「諦める事はないわ。大黒丸、貴方と二の宮は、瓜二つだそうじゃないの。貴方と二の宮が、入れ替わればいいのよ!」
 この奇策を思いついた時、桜は我ながら名案だと思って、暫く自分の考えに陶酔していた程である。語る言葉には、いつにない熱気が籠っていた。
 大黒丸は、熱意のない口調で言った。
「そんなの無理だよ。僕もここへ来てから、そう思ったさ。それから七年近くの間、二の宮のどんな些細な点までも、真似しようと努力してきたよ。でも、二の宮にはこの、醜いあばたが一個もない。それに、もし二の宮が疱瘡に罹って、僕みたいなあばた面になったとしても、僕が幾ら二の宮になりたがったって、二の宮が一生、僕になったままでいたい、なんて思うかい? 二の宮は主上の息子、将来は帝になるかもしれない人だよ。それが僕みたいな、ここにいたら牛飼か物売り、郷里に帰ったって百姓にしかなれない身に、一生なったままで終わろうなんて、思う訳がないじゃないか。馬鹿なこと言うなよ」
 言われてみれば尤もだ。しかし桜は、本当の父である一武士の血を享けたのか、思いを遂げるためには是非も考えず邁進する性質で、そのうえ半ば恋に盲いていたため、大黒丸と結ばれるためには手段を選ばず、とまで思いつめていた節がある。
「二の宮がどう思おうと、そんなの知らないわ。私は邪魔者は、許さないわよ」
 桜が口にする言葉に、大黒丸は驚いて起き上がり、桜に顔を近づけて一層小声で、
「桜さん、何か、とんでもない事を考えてるんじゃないか?」
 桜は平然と微笑んだ。
「私はそれくらい、大黒丸が好きなのよ」
 大黒丸は、背筋がぞっとするのを感じた。
「差し当っては、二の宮があばただらけになるように祈りましょ、一緒に、ね!」
 平然と嘯く桜の端正な顔に、夜叉神の如き猛々しさを見た気がして、大黒丸は答えもせず、衾を引き被った。
(2000.8.20)

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