近江物語

第二章 二の宮
 翌日の朝方入洛した二人は、次の日の朝、二条邸に参上した。表向きは、新しく仕える女房とその子供ということにしてある。乳母は、その姉が近江という名で仕えているので、小近江という名で仕えることになった。
 近江は大黒丸を見て、小近江に、
「この子があんたの子? 似てないねえ。坊や、名前は何て言うの?」
「大黒丸」
 大黒丸は元気良く答えた。
「大黒丸。それにしちゃ色が白いね」
 近江は少々口の減らないところがある。そんなところも、姉の姉らしさだと小近江は思っているし、大黒丸も天性の屈託のなさで、何を言われても気にしていないが。
 小近江と大黒丸の装束は、郡司の館にいては大して違和感はないが、二条邸へ出てきてみると余りにも田舎臭すぎるのであった。そこで近江が、適当に装束を見つくろってやり、身なりを整えた二人は、女房頭に目通りした。東宮御息所が三人目の出産が近いというので、小近江の他にも数人の女房が新しく奉公するのであった。
 女房頭は、二条という老女房であった。いかにも尊大で、新参女房に対する優しさなど小片ほども持っていなさそうな老女である。小近江が述べる口上を聞きながら、ふっと見せる表情は、田舎者に対する軽蔑そのものであった。
〈何てまあ嫌らしい方なんだろ!〉
 小近江も二条の思いを察知して、内心甚だ不愉快であったが、外見は謙虚に、平静を装っている。その直後、大黒丸を見た二条の顔に、微かな動揺が走ったのに、小近江は気付いた。
〈……似ている! この顔からあばたがなくなったら、二の宮様にそっくりだ!〉
 二条は動揺を隠し切れず、慌てて目を外らした。
・ ・ ・
 大黒丸は利発で快活、よく気がつく子なので、数日のうちに邸の童や下臈女房の間の人気者になった。田舎の出で下臈女房の子という出自にもかかわらず、通りで遊んでいる庶民の童児連中に似ず、貴族の子弟にも一脈通ずるような、不思議に高貴な雰囲気を漂わせているので、邸に出入りする童児連中は一目置いている様子がある。
「ねえ小近江、あの子もしかして、どこかの公達の落し胤なんじゃないの?」
 女房の中には、事ある毎に小近江に問う者もいる。その度に小近江は、
「まさか。あの子の父は、近江の百姓よ。母の私が言うんだから間違いないよ」
と笑って否定するのだった。
 東の対で数日来病気で寝ついていた二の宮が、床を払った。二の宮は、日頃一緒に遊ぶ童児から、大黒丸という童児が最近、この邸に来たことを聞いた。
「へえ、その子、僕に似てるのか。一度会ってみたいな。その子を呼んでよ」
 二の宮は、自分と顔が似ているという大黒丸に興味をそそられて、早速呼びつけた。二の宮の部屋の前庭に来た大黒丸を、周りの童児達が見ると、本当によく似ている。大黒丸は疱瘡を患ったばかりなので、かなりあばた顔になっているが、もしそれがなかったら、まるっきり瓜二つというところである。童児達が驚き騒ぐ中、二の宮は大黒丸を招き寄せて、親近感溢れる声で言った。
「僕は二の宮。仲良くしようよ」
 この時二の宮も、大黒丸も、互いの運命を見通してはいなかったのだろう。周りの童児も、二人がよく似ているという目に見える事実以上の認識には達しなかったようだ。
 物陰から覗いていた女房が触れ回ったのか、二の宮と大黒丸が似ているという噂は、瞬く間に邸中に広がった。だが同時に、大黒丸は誰かの落胤かという噂はかき消えた。今上の落胤などある筈がない、他人の空似にすぎなかったのだと、誰言うとなく口にし、納得するようになったのだった。安心したのは小近江である。
・ ・ ・
 都に出てきて暫く暮らすうちに、大黒丸の胸の内には、微かな失望の兆しが芽生えてきた。近江の田舎にいる間は、桜の母が熱っぽく語る都の、輝かしい華やかさだけを聞いて、それが都の全てだと思い込んでは、自分も都へ行けば、すぐにでも母の語る貴族のような、華やかな暮らしができるものとでも信じ切っていた節がある。ところが実際に都へ出てきてみれば、田舎の貧しい百姓よりももっと惨めな暮しをしている庶民が、都にも大勢いるのだ。自分自身、大きな邸の中にいるとは云え、母代りの小近江も自分も、郡司の館にいた頃と大して暮らし向きが変わった訳ではない。所詮下臈女房の子という待遇しかされないのだ。自分の現在の暮らし向きが、邸の内に大勢の女房に傳かれて掌中の珠とされている二の宮と、勝手口から出入りする町の物売女の子供と、どちらに近いかといえば、文句なしに後者であった。邸の庭で一緒に遊んでいる童児達の父は、邸に住んでいる立派な貴族――二の宮の母の兄だという――の、馬の口取りだったり牛飼いだったり、邸に出入りする鍛冶屋だったり。
〈僕が大人になっても、牛飼いや鍛冶屋じゃあ、偉くなったなんて言えないなあ。それじゃ、桜ちゃんとの約束を守れないや〉
 ある夕方、いつになく屈託した思いを抱いて、東北の比叡山を眺めていると、知らぬ間に近江が背後に歩み寄ってきた。
「大黒丸、どうしたの」
 大黒丸は、はっと我に返った。
「ううん、何でもないよ」
 努めて平静を装う大黒丸に、近江は悪戯っぽく畳みかける。
「無理しちゃって。母さんから聞いたよ、お前、近江に初恋の子がいるんだって?」
「え……?」
「あ、赤くなった。隠したって無駄だよ。
 お前、偉くなって、その子を都に迎えると約束したんだってね。偉くなるって、どうする積りなんだい」
 大黒丸は顔を一層赤らめて、黙り込んでいる。
「まあ頑張りなさいな。子供のうちは、夢は大きすぎるくらいが丁度いいんだよ」
 近江は笑いながら立ち去る。
〈何を! いつかきっと、牛飼いや鍛冶屋なんかじゃなくて、もっとずっと立派になって、皆を見返してやるんだい!〉
 大黒丸の胸の内に、初めて激しく燃え上がった野心であった。だが、ではどうやって、ということになると、何も有効な手段は思いつかないのだった。それに気付くと、燃え立った野心は、俄にしぼんでゆくのだった。
 一層屈託して重い心を抱きながら寝た夜、ふと気付くと、大黒丸は立派な衣を着て、大勢の女房に傳かれているのだった。あたかも二の宮がそうであるように。自分の顔を見る誰もが、自分を「二の宮様」と呼ぶ。自分が大黒丸であることに、誰も気付いていないのだろうか。でも、何かとても愉快な気分だ。偉くなるって、こんな事なんだろうか。嬉しさがこみ上げてきた。これは夢か、夢なら覚めないで欲しい、……と思った時目が覚めた。現実の自分は、昨日と同じ衣を着て、板張りの床に、小近江の隣に寝ている。がっかり。
 だがしかし、今の夢を思い返しているうちに、自分が二の宮によく似ているということが、急に現実的なものになってきた。皆がよく言うように、自分が二の宮によく似ているなら、自分が二の宮に為り代って、邸中の人に大切にされることもできるのじゃないか? それもあながちできないことでもないかもしれない。
〈……駄目だ。二の宮は僕みたいなあばた顔じゃない。それより、僕が二の宮に為り代わったら、二の宮は誰になるの?〉
 それでも、「偉くなる」望みが僅かながら出てきたことに、大黒丸は勇気づけられた。
 翌朝から大黒丸は、暇さえあれば二の宮の部屋に出入りしては、二の宮の一挙手一投足、僅かな癖までも自分の物にしようと、一瞬の隙もなく二の宮を観察するようになった。二の宮の方は、大黒丸の真意までは到底見抜くことができず、大黒丸が自分を好いている、と無邪気に思い込んでいた。それで、二の宮の方からも大黒丸に親近感を持って、女房連中がうるさく言わない程度に大黒丸を呼びつけては、習字や笛などを教えてやり、大黒丸が上手に真似すると、素直に手を叩いて喜ぶのだった。二の宮は、その育ちの良さがなせる業で、人の心の底を見抜くといった能力には全く欠け、また自分自身が、他人を利用し尽くすなどという事は思いも寄らないので、他人も皆そうだと信じ込んでしまうほどの人の良さに生まれついていたのだ。一方大黒丸は、いつか機会あらば二の宮に為り代り、栄華を恣にしようという、深く暗い決意の虜になっていたためもあり、二の宮の全てを自分の身に着けることに、異様なまでの情熱を傾注し、天性の呑み込みの早さ器用さと相俟って、一年ほどの間に、二の宮のごく些少な癖までも自分のものとした。
「小侍従はいるか。大黒丸を呼んで」
 几帳の中から声がする。
「はい、二の宮様。すぐ呼んで参ります」
 二の宮付きの若い女房、小侍従が返事して、立ってゆこうとすると、几帳の中から別の声がする。
「僕を呼んだの? 僕はここにいるよ」
と言って几帳から顔を出すのは、大黒丸である。小侍従は驚いて坐り直す。
「まあ、大黒丸はそこにいるじゃありませんか。二の宮様、お戯れはお止め下さいな」
 几帳の中では、二の宮はにやにやしている。実は最初の声の主は、大黒丸だったのだ。
 庭の前栽から声がする。
「つばくら丸」
 二の宮の遊び相手の一人、つばくら丸は不思議がって、
「あれ、宮様、どこにいるの?」
 つばくら丸の目の前の、前栽の中から立ち上がるのは、これも大黒丸である。本物の二の宮は、部屋の中から簀子縁へ出てくる。
「なあんだ大黒丸か。声が似てるから、宮様かと思っちゃったよ」
 つばくら丸は驚いて頭を掻く。
「そんなに似てるかい?」
 大黒丸、今度は地声でとぼける。
「似てるよ。顔が似てると、声も似るんだね」
 何の疑念も持たずに、つばくら丸は感心している。素直に笑う二の宮。大黒丸も一緒に笑っているが、その顔に一瞬、陰険な影が差したのに気付いた者はいない。
 二の宮も、大黒丸も十二歳になった。もう今では、顔のあばたと、二の宮が病弱なのに対し、大黒丸の方が強健であることを除けば、本当に大黒丸は二の宮に、言葉遣いから立居振舞いまでそっくりになっていた。そうなるまでに、大黒丸の多大な努力と熱意があったのだが。今では大黒丸自身、一人でいる折には、自分が大黒丸で二の宮が二の宮なのか、自分が二の宮で二の宮が誰か他人なのか、ふとわからなくなる時があった。小近江や、他の女房に呼びつけられる時には、強いて二の宮と違う様子を拵えて、自分が二の宮に為り代わろうとしている底意を察知されないように努力していたが。
 だが時たま、大黒丸自身、ふと現実に引き戻される思いがして、言いようのない虚しさに捉われることがあった。幾ら自分を二の宮に似せてみせたところで、二の宮が二の宮である以上、自分は二の宮になれる訳がないのだ。自分と二の宮の双方の了承の上で、一時的に入れ替わることはできるかも知れない。だが顔のあばたは、どうにもならない。それに一時的に入れ替って、女房連中をからかうくらいはできても、すぐ元に戻らなければならない。元に戻ったら、結局は一層虚しくなるだけだろう。こんな事をしていて、自分を見失ってしまうことへの、微かな不安が萌え始める年頃にもなっていた。一人寝る夜には、何となく物思いに沈むようになった。昼間も、その顔に、微かな憂愁を浮かべる時が増えた。二の宮と一緒にいる時に、知らず知らずのうちに重い溜息が出て、
「それ、誰の真似?」
などと二の宮に笑われることもあった。二の宮は、本当に屈託なく、日々を楽しく愉快に生きている。物思いに沈んだり、溜息をついたりするのを、ついぞ大黒丸は見たことがない。
〈貴族の子って、どこまでおめでたいんだろう。自分を見失うことへの不安なんて、これっぽっちも持ってないみたいだ。いや、そもそも見失うべき自分を持つほど、ちゃんと心が成長してるのかしらん〉
 時にはこう、二の宮に対して批判的な目を向けることもあった。そう思ってみると、二の宮といい、その弟の、十歳の三の宮といい、時々、東宮の母の兄の権大納言だという人の連れて来る男児達、上は十三歳、下は十一歳だというけれど、この二人といい、自分や、出入りしている男児達に比べて、何とまあ子供っぽいことか。出入りする友達の一人、鍛冶屋の息子の鉄男は十三歳だが、父の仕事を手伝って、水を汲んだり炭を運んだりしていると、得意になって話す様子は、着替えも女房にさせて貰っている二の宮と一歳違いだとはとても思えない。つばくら丸は十一歳だが、二の宮を馬に乗せて自分は馬の轡を取る様子を見ていると、二の宮の方が年下に見える。そして、自分は馬の心がわかると、時々言うが、大黒丸自身には馬の心はわからないものの、人間が馬の心をわかることができる、ということは理解できる。ところが二の宮ときた日には、それすらも理解している様子がない。馬に心があるのか、と冗談が本気かわからない顔でつばくら丸を問い質したりしている。どうなってるんだろう?
(2000.8.20)

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