私本落窪物語

あとがき
 「落窪物語」は、平安時代中期(10世紀後半)、「源氏物語」に先立って成立した物語です。作者は明らかになっていませんが、現在の研究では、中流ないし下流の貴族の男性であろうと考えられています。
 物語は、いわゆる「継子いじめ譚」ですが、日本文学史上初の「大衆小説」である、という意見があるように、王朝文学としてはかなりユニークな面があります。
 例えば、北の方の奸計によって窮地に陥った律子姫が窮地を脱するのは、神仏の加護ではなくて、仕える使用人明子の機転です。あるいはその少し後の場面、中納言邸の留守をついて、手下を率いて邸に押し入り、律子姫が閉じこめられている部屋の戸を打ち壊して姫を救出する道頼君の益荒男ぶりは、源氏物語以後の王朝文学にはまず見られないものです。さらに三条邸の登記書をめぐる忠頼卿と道頼君の応酬なんて、とても現代的です。
 こういったところから、「落窪物語」は時代小説に翻案しても充分面白い小説にできると思って、翻案を試みたのが、この「私本落窪物語」です。
 ただ、原作は4巻からなるのですが、忠頼卿と律子姫が親子の対面を成し遂げるクライマックスは第3巻の初めにあります。その後は、道頼君が義父忠頼卿に孝養を尽くし、法会を催したり官職を昇進させてやったり、あるいは道頼君の陰謀によって兵部少輔と結婚させられてしまった四の君を大宰大弐と再婚させてやったり、道頼君自身も出世して位人臣を極め、律子姫との間に儲けた姫が帝の后となって皇子を産む、そんな話が延々と続きます。王朝文学としては、そういう話を事細かに書くのが約束事だったのに違いないのですが、現代小説としてみた場合、そういった後日談的なエピソードは、はっきり言って冗長なばかりです。
 そこで、親子の対面が成ったところで大団円とし、その先はばっさり切ってしまいました。
 その他にも原作から大きく変えたのは、四の君珠子姫をめぐる話です。忠頼卿夫妻にとって掌中の珠であったに違いないのに、夫妻に対する道頼君の復讐のために兵部少輔という最低の婿と結婚させられ、その挙句に原作では子供ができてしまいます。原作者が第4巻で、道頼君が四の君の再婚を斡旋するという話を書いたのは、原作者もさすがに四の君を哀れに思ったからでしょうか。
 それでも私としては承服しがたかったので、珠子姫を人一倍強気なおてんば姫にして、今でいえば披露宴の日に、兵部少輔を罵倒して追い返し、結婚を白紙にしてしまうことにしました。それには、道頼君自身が披露宴に乱入してぶち壊しにする、という創作も加えています。
 そして後に、弁少将との密通が道頼君によって暴露され、忠頼卿に勘当されて邸の離れに軟禁された珠子姫は、自分の運命は自分で切り開く、という何とも現代的な台詞を吐いて、乳飲み子を連れて邸を出奔し、道頼君の邸に転がり込み、そこでなんと道頼君の正妻になっていた律子姫と対面することになるのです。これは全部、私の創作です。
 もっとも、ありふれた王朝文学なら、珠子姫の異腹の姉律子姫を正妻に迎えて夫婦円満である道頼君への、珠子姫の絶望的なそれでも止み難い恋慕を主題にして、もう2000〜3000ラインは綴っているでしょうが、当時の私の筆力では無理でした。
 ただ、弁少将との密通から後の話は、当初の主役は三の君綏子姫でした。原作には、道頼君が自分の妹を三の君の婿である蔵人少将と結婚させて、三の君と蔵人少将の仲を裂くという話もあるのです。それを止めて、四の君珠子姫を主役にしたのは、綏子姫と珠子姫の性格造形の違いをはっきりさせたかったからですが、珠子姫の婿として、原作に登場しない権中将を登場させざるを得なくなったのは、増やさずに済む登場人物を増やしてしまった点、いささか拙劣だったかと思います。
 それと、密通を暴露するくだりの背景に、東宮儲立をめぐる宮廷闘争を持ってきたのは、やらずもがなだったでしょうか。もちろん原作に、こんな宮廷闘争の話はありません。

 さて驚いたことには、「私本落窪物語」を書き終わってしばらく経ってから、プロの作家による落窪物語の翻案を見つけました。
 田辺聖子さんの「舞え舞え蝸牛」(文芸春秋社)と「おちくぼ姫」(新潮文庫、角川文庫)です。前者は大人向き、後者はそれをやや子供向きに書き直した物なのですが、大筋は同じです。
 小説としての完成度を比較するのは止めましょう。翻案のやり方についてだけ少し触れます。
 まず田辺さんの翻案も、三条邸での親子対面の場面で大団円にしていました。
 大きな違いは、四の君の話です。田辺さんの翻案では兵部少輔は原作にあるような愚者ではなく、純朴で誠実な、四の君の愛を勝ち得るに値する好青年とされていました。兵部少輔の至情に心打たれた四の君は、体面を気にする両親の反対を振り切って、兵部少輔と駆け落ちし、道頼君の邸に迎えられるのです。
 このストーリーの作り方の違い、いやもっといえば人間観の違いは、長い人生を経て人間的な円熟の域に達した田辺さんと、人生経験皆無に等しく人間的な円熟の域には程遠い私の違いなのでしょうか。

 蛇足ですが、原作に明記されている人名は、忠頼卿・道頼君・忠頼卿の長男景純・三男景政・惟成だけです。忠頼卿の娘たちの名前は、全て私の創作です。
2000年7月30日
2002年3月5日 改訂
追記:
 田辺さんの「舞え舞え蝸牛」は、2015年に「おちくぼ物語」と改題の上、文春文庫から刊行されています。
2017年8月17日

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