私本落窪物語

第十五章 賀茂祭
 今度の賀茂祭は、新帝即位後最初の賀茂祭というので、宮中でも周到に用意して、盛大に営もうとしている。道頼卿も、邸中総出で見に行こうと思い立って、車を新調させ、早くから支度している。前日のうちに、惟成達を遣わして、一条大路に見物の場所を確保するために杭を打たせておいた。
 いよいよ祭の当日になって、道頼卿以下、弟妹達も車を連ねて、一条大路へ繰り出してきた。
「車が多いから、道の向こう側にも並べよう」
 卿の指図で、道の向かい側に車を並べようとすると、古ぼけた車が三両停まっている。
「そこの車、ちょっとどけてくれや」
 卿の従者などが言うが、先方は動かない。
「聞こえてるのか? どけてくれと言ってるだろ?」
 繰り返して言うと、向こうの車の従者が、
「源中納言殿の御車だぞ、どけとは何だ!」
 これを聞きつけた惟成、好機到来とばかり道頼卿に注進に及ぶ。
「源中納言殿か、いい所へ来た、この際、ちょっと恥をかかせてやれ」
 意気込む道頼卿。惟成は忠頼卿一行の車に走り寄り、道頼卿の雑色連中に、
「何をしてるんだ、早くどかしてしまえ!」
 忠頼卿の従者は怒って、
「どくものか! 大体お前等の御主人たって、うちのと同じ中納言だろうが、一体何様の積りだ! それとも何か、一条大路を全部所領にする気か?」
「同じ中納言だあ? うちのお殿様を、お前等の主人と一緒にするな!」
「中納言が中納言の車をどかせていいなんて法があるもんか!」
「うちのお殿様には、院も東宮も御威光を恐れて、道をよけてお通りになるんだぞ!」
 激しい口論になった。周りの市井の人々も、口論と聞いて集まってきて、わいわいと囃したてる。
「ああもう、こんな所で喧嘩をしてどうする。退きなさい、見苦しい」
 しまいには車の中にいた忠頼卿が、従者達に言う。ところが別の車に乗っていた典薬助は、
「いやいやお殿様、先方をつけ上がらせてはなりませんぞ」
と言って車を降りて、のこのこと進み出て、
「お前さん達、車をどけろとは道理に合わぬ。杭を打った側に停めたならいざ知らず、向かい側に停めた車にどけとは何事ぞ。後々の事を考えてやれ」
と嗄れ声で言い立てる。惟成、この爺が姫様に不埒な振舞を仕掛けたと思うと、この場で叩きのめそうという思いにかられて、道頼卿に再度注進に及ぶ。道頼卿も見て取って、目顔で頷く。惟成は、雑色連中に目配せする。すっかり気の立っている雑色連中は、一斉に典薬助を取り囲み、
「後々のことを考えろ、だあ? この爺め、うちのお殿様に何をするというんだ!」
と罵りながら、一人が棒で烏帽子を叩き落とす。烏帽子の下は禿頭で、初夏の日射しを浴びて燦々と光っているので、辺りの野次馬はどっと笑う。典薬助が、烏帽子を拾おうとかがむところを、雑色は押し倒し、散々に殴り、蹴り、踏みつける。
「やっちまえ!」
「しばいたれ!」
 雑色連中も野次馬も大騒ぎである。惟成は後ろの方で、声だけは制止する真似をする。
 散々に叩きのめされて、ぐったりとなった典薬助を、雑色連中は担いで行って、忠頼卿一行の車の轅に投げ落とす。
「さっさとどかんと、お前達もこうなるぞ!」
 雑色連中に脅されて、忠頼卿一行の車は、すごすごと退っていく。
「もう見物は止めだ、帰ろう」
 忠頼卿の一声で、一行は牛を車につけて、大路を引き揚げていく。ところが動き出してすぐ、北の方、綾子姫、紀子姫、綏子姫の乗っていた先頭の車が、すさまじい音と共に崩壊した。雑色の一人が、騒ぎの間に車の下に入り込んで、車軸を鋸で挽いておいたのだ。車の後ろに乗っていた北の方は、もんどり打って車から転げ落ち、尻をしたたか打って、痛さの余り大声で泣き喚く。周りの見物人が、これこそ見物とばかり大笑いするので、三人の姫も恥かしさの余り泣き出す。
「何たる事だ、厄日だったのに違いない」
 従者達は、爪弾きをしながら、おろおろと歩き回っている。
「あの車ではもう駄目だ、こっちの車に乗せなさい」
 忠頼卿も顔から火が出る思いだが、それでも従者達に指図する。しかし車に乗せようにも、典薬助も乗せなければならないので、場所がない。ようやくの事で車に乗せて、窮屈な六人乗りで、ほうほうの体で邸に帰った。
「ああもう、悔しい! 生霊になって、衛門督の一族、皆殺しにしてやる! キーッ!」
 北の方はすっかり怒り狂って、泣きながら喚き散らす。
「お母様、お静かになさいませ」
 紀子姫が、自分も泣きながらなだめる。
・ ・ ・
 祭の後、道信公が道頼卿を呼びつけた。
「お前の従者が、源中納言殿の御一行に乱暴を働いたというのは本当か? 都中で噂しているぞ」
「その事ですか。私達が前の日から、杭を打っておきましたら、そこへ中納言殿の御一行が、御車を停めなさったのです。ですから、他に場所はあるのだからどいて下さいと申しましたら、両方で言い募って、しまいには雑色共が興奮して、あちらの方を殴ってしまったのです。決してこちらから、乱暴しようなどと思ってしたのではありません」
 公は話を聞くと、
「世間の人に、権勢を笠に着て横暴な振舞をしているととられるような事はするなよ。私もお前に、そういう事があると思っているのだ。この際、はっきり言っておこう」
と道頼卿を諭すのだった。
 律子姫も珠子姫も、事の顛末を聞いて、親姉妹が辱しめられたのを気の毒に思っている。明子は律子姫に、
「そうお嘆きなさいますな。典薬助には、いい気味ですわ」
 律子姫は気分を害して、
「明子ったら! どうしてそう、お義母様達を悪く思ったりするの? もう、私付きの女房でなくて、お殿様付きの女房になりなさいよ。貴女の執念深いところ、あの方にそっくりよ」
 明子は悪びれた風もなく、
「では、そう致しましょう。お殿様は、私の思っている事をそのままなさって下さるから、本当によく気がお合いしますわ」
などと言っている。
(2000.7.30)

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