釧路戦記(改訂版)

第三部
第一章
 あれから、もう十五年が経ってしまった。今、私は、青森行急行「津軽」に乗っている。窓の外は一面の銀世界だ。この列車も、少々遅れているようだ。
・ ・ ・
 あの日──昭和四十三年一月二十三日。討伐隊解散の後、私達は皆、一つずつ茶封筒を手渡された。討伐隊の収益金を、皆に分配したのだという。荷物を取りに戻ってから開けてみると、中に入っていた金は、しめて十二万五千百三十円だった。私にとって、金などはどうでも良い事だった。革命軍は滅びたという事実、それだけで充分だった。
 軍服の上から古い外套を着込み、手提げ鞄を持って私は港へ向かった。隊は解散したといっても、私達としては東京へ帰らなければ何も始まらない。私と部下三十二人は、揃って東京行の船に乗る事にした。
 中央埠頭には、何隻かの貨物船が横着けになっているが、客船らしい船は一隻もない。まだ来ていないのかと訝っている部下に、私は言った。
「あれに乗って帰るんだろう」
 船の近くには、仮設の幕舎が建ち、その前に行列ができている。乗船手続きをしているのであろう。立看板がある。それによると、東北の太平洋側および関東地方へ帰る者は、一番南側の船に乗ることになっている。私達は、その船の横の幕舎に並んでいる行列の後ろに並んだ。私の番が来た。先刻本部で受け取ってきた、氏名と所属を書いた乗船票を出すと、係員──隊の者だろうが階級はもうわからない──は、乗船票の二箇所にゴム印を捺すと、乗船票を半分に切って、片方を返してよこした。この半分は、下船するまで持っているよう書いてある。
 船に乗り込んでみると、私達の船室とは、窓もない船倉であった。床は鉄板そのままで暖房もなく、照明も暗い。終戦直後、フィリピンから引き揚げてきたときの船倉並だ。だがこれでも、無賃で東京まで送り還してくれるのだから文句は言えまい。
「我々が社会から、どのように見られているか、ということだな」
 不平を言う部下を、河村が諭している。
 午後もかなり遅くなってから、船は動き出した。誰一人として、見送る人はなかった。私は甲板に出て、去りゆく北海道の景色を眺めていた。いつの日か、またこの地を踏むことはあるだろうか。釧路市の東の、根釧原野から続く低い丘陵は、次第に遠ざかってゆく。甲板を吹き渡る冷たい風に、私は外套の襟を立てた。やがて夕闇の中に、北海道の大地は姿を没した。私は狭い階段を、薄暗い船倉へと降りた。
 食事は、携帯食料であった。元来貨物船だから、何百人分の炊事施設などある訳がないが、それでも侘しさは隠せなかった。食事を済ませると、私達は早々に毛布を被った。
・ ・ ・
 翌朝、甲板に出てみると、右舷遠くに山地が見えた。これは本州だ。そう思うと、風も心なしか温かく感じられる。昼過ぎに船は、港に近づいた。船内放送があり、八戸に寄港する旨が伝えられた。ここで下船していくのは東北の部隊であろう。
 八戸を出た船は、海岸まで迫った山地を右に見ながら、岸から余り離れずに南下する。夜更けに宮古に寄港し、さらに南下する。翌日昼頃、石巻に寄港し、夜中には小名浜に寄港し、その都度、少しずつ降ろしていく。船中三泊目になる頃には、船倉はかなり空いていた。
 釧路を出て四日目、二十六日の午後、船は房総沖を通っていた。もう東京は目の前だ。甲板から西の水平線上に目を凝らすと、雪に覆われた富士山が見えた。この時初めて、東京に帰ってきたことを実感した。只今帰って参りました。
 船は北へ転じて東京湾に入り、左右に房総の山、三浦の丘を望みながら進む。夜になって船は東京港に入り、品川埠頭に着岸した。埠頭には幕舎が二つ三つあるだけだ。迎える人は、隊の者が数人いるだけ。凱旋という気分に誰がなろう。私達は言葉少なに下船した。幕舎にいる係員に、乗船票の半分を渡すと、私は少し離れた所に、小隊の部下三十二人を集めた。皆、私の部下として、私を助けて任務を全うしてくれた者達だ。皆を見回しながら私は、この日ここに顔を並べることの叶わなかった者達を思い浮かべた。前任の吉川小隊長以下、その数は何人だろうか。色々なことがあったが、この部下達とも別れる時が来た。
「皆、長い間よくやってくれた。これからの長い人生に、どんな事があるか知らないが、この戦争を戦い抜いたんだ、何事にでも自信を持ってぶつかっていけ。
 俺から皆に、一つだけ頼みがある。いいか、それはだ、戦死した仲間の事を、決して忘れないでくれ、ということだ。今日ここにいない、戦死した仲間達の分も、精一杯生きてくれ。それが俺の、最後の頼みだ。終わり!」
 話しながら私は、目頭が熱くなるのを覚えた。部下達は、一斉に敬礼した。私は、万感の思いを込めて答礼した。
・ ・ ・
 両国の家に帰ってからというもの、私は毎日、虚脱状態で日を送っていた。隊の分配金と、保険金の利息で当分は暮らしていけるものだから、働く気も失せかけて、終日部屋に座り込んでいるような有り様であった。そんな日々が一月も続いたある日、玄関の戸を叩く者があった。私は戸を開けた。
 目の前に、みすぼらしい身なりの、小柄な子供が立っていた。目が合った瞬間、私は愕然とした。
 宮崎、ではないか!? 最後に見た時より、もっとやつれているが、間違いない。
「宮崎……だな?」
 絞り出すような私の問いかけに、宮崎は小声で答えた。
「宮崎浩子です」
 この声は、紛うかたなく宮崎の声だ。私は宮崎を玄関に入れ、手早く戸を閉めた。
 改めて見直してみると、宮崎の身なりは尋常でない。足には靴も履かず、顔も髪も、垢と埃に塗れている。通り一遍の上京という格好ではない。出奔してきたとしても、これ程ではあるまい。私は訊いた。
「その格好からするに、何か深い訳があって上京したんだろう? どういう訳で、上京して来たんだ?」
 宮崎は俯き加減に、
「私が何をしたと言っても、軽蔑したりしない?」
 私は驚いて打ち消した。
「俺が何をしてきたか知ってるだろう!? その俺が、お前が何をしたと言って軽蔑できると言うんだ? さ、訳を話してくれ」
 宮崎は話し始めた。
・ ・ ・
 私(宮崎)は、去年の十二月に札幌の叔母さんの家に引き取られて、暫く札幌に住んで いました。叔母さんには子供がいなくて、私にはそれは優しくしてくれました。学校は、四月までは行けるあてがなくて、私は叔母さんの店を手伝ってました。
(矢板が訊く。──どうして学校へ行けなかったんだ? 学年の途中からでも転入できる筈だが、公立の中学は)
 えっ?……矢板さん、今まで私のこと、中学生だと思ってたの?
(思ってたんだが違ったか? 宮崎、色をなす)
 みんなしてそう言うんだから。私、十六よ。高校二年よ。
 それはともかく。あれは、確か一月二十一日の明け方でした。家から火が出て、それこそあっという間に焼け落ちたのは。私は通帳と判子と、お財布と──これだけは肌身離さず持ってたんです。これだけを持って逃げるのが精一杯でした。朝になって、叔父さんと叔母さんは、逃げ遅れて亡くなったと知らされました。それから二日間は、お葬式とか何とかで大忙しでした。
 私は今度こそ本当に一人ぼっちでした。それで釧路へ行けば、討伐隊の人もいるし、何とかなると思ったんです。この外套と、ズボンと靴を、近所の人がくれました。これを着て、二十三日の夜、釧路行きの夜汽車に乗りました。
 釧路に着いて、町中捜し回ったのに、討伐隊の人は一人もいませんでした。ただ、町の噂で、討伐隊は解散し、内地へ引き揚げたと言っていたんです。
(お前が釧路へ来たのは二十四日だろう。丁度行き違いだったんだな)
 うん。それで私は、その日すぐ、汽車に乗りました。矢板さんは東京第一中隊だから、東京へ行けば何とかなると思って。それで、滝川で夜を明かして、次の日の夜、二十五日ね、函館まで来ました。青函連絡船に乗って、これで明日は内地に行けると思って、つい油断したんでしょう。ところが青森に着いてみたら、切符と通帳と判子とお財布が、すっかり盗られてました。あの時ばかりは、本当に絶望でした。駅の人は、私に只乗りの疑いをかけたりはしないで、見逃して改札を出してくれたけど、駅を出ても私は途方にくれるばかりでした。
 でも私は、本当に思い詰めてました。青森まで来たんだ、ここまで来たからには、何とかして東京へ行こう。釧路で、たった一人で十日間生き延びたんだから、何とかなるだろう。それに私には、他に行くところはなかったんです。
 とにかく私は、青森から東京まで歩き通す決心をしました。本当に一文無しだったけど、何とかなると思って。青森から、国道四号線を毎日、朝から晩まで歩き続けました。
(飯はどうしたんだ?)
 御飯? 御飯は、……恥ずかしいけど、料理屋なんかの裏で、残飯をあさって……。でも私、物貰いとか、盗みとかは、絶対しない積りでした。辛い毎日でした。寒いし、いつもお腹は空いてたし、それに、寂しかった。夜、駅の軒下なんかで、新聞紙を被って寝てると、寒さと、寂しさで、しょっ中目が覚めてばかりいました。
 そのうち、寒さと疲れで、風邪を引いちゃいました。熱っぽくて、だるくて、歩くのがとても辛かった。あれは……仙台でした。風邪が大分ひどくなってきて、やっとの思いで裏通りを、残飯を探して歩き回ってる時、丁度どこかの、小さな料理屋の裏で、残飯を見つけて、食べようとした時、裏の戸が開いて、小母さんが顔を出しました。きっと、野良猫みたいに追い払われる、と思いました。
 ところが小母さんは、私の顔を見ると、どうしたの、入りなさい、と言って、私を台所へ入れてくれました。
 顔が赤いよ、と言って小母さんは、私のおでこに手を当てて、ひどい熱だ、風邪かい、この寒いのに……と……。
 それから小母さんは御飯を出してくれました。ささやかだったけど、十日ぶりの御飯でした。御飯の後、小母さんは、私に薬を飲ませてくれて、私をお蒲団に寝かせてくれました。自分は炬燵で寝るから、と言って。
 三日くらい、小母さんに看病されながら寝ていて、風邪は治りました。小母さんは、私がどこの誰だとか、何であんな事をしていたのか、とか、そういう事は何も訊きませんでした。ただ病気の私を看病してくれて、靴ずれを手当してくれたり、下着を洗濯してくれたり……。そして私がすっかり良くなると、私にはこれ以上何もしてやれないけど、気をつけてお行き、と言って、お守りをくれました。(外套の物入れを探って)これ、これです。世の中って、本当にいい人がいるんですね。
(俺と初めて会ったときの事、覚えてるだろう。あの時のお前も、そうだったんだ)
 ……。それからまた、毎日毎日、残飯をあさって野宿しながら、歩き続けました。靴ずれはまた悪くなってくるし、体力もだんだんなくなってきていました。ただ、行けば行くほど、暖かくなってくるのが、せめてもの救いでした。もう日付は全然わからなくなってました。ただただ来る日も来る日も、歩き続けました。やっと東京に来たのは、昨日でした。それから、電話局へ行って、電話帳で矢板さんの住所を調べて、ここへ来たんです。
・ ・ ・
 宮崎の言葉は淡々たるものだったが、それだけに一層、私の胸を打つものがあった。かつて釧路で、家族を一時に失った次第を語った時の、悲嘆と感傷に身を委ねていた子供はそこにはいなかった。私の眼前には、苛酷な運命をものともせずに、逆境から一人で立ち上がってきた、強靭無比な意志を持った一人の人間がいた。この人間を、どうして見放す事ができよう。宮崎は、私を必要として、遥か北海道から上京して来たのだ。私はそれに報いなければならぬ。
「よし、わかった。俺は二度までも、お前に命を救われた身だ。何物に代えても、お前の面倒を見てやる」
 私は、決然と言い放った。宮崎は、安心したのか、急に力が抜けたようになって、
「ああ、良かった……。もし、矢板さんが、私を助けると言ってくれなかったら……私、きっと、どこかで……」
 何を言い出すのか。
「何を言うんだ! 二度までも命を救われた恩人を、見放す奴がどこにいる! それにだ、もし、もしも万一、俺に見放されるような事があったとしてもだ、絶望の余り取り返しのつかん過ちを犯したら、この世に未練と恨みを残して死んだ親御さんたちに、どうして顔向けができると言うんだ!? 今のお前にできる事、それは、親御さん達や弟妹の分まで、精一杯生きる事、それだけじゃないのか!? 俺だって、あの革命軍のために、妻と子供二人を殺されたんだ。その三人の分も、精一杯生きようと、それだけを支えに、あの戦争に身を投じ、今日まで生き長らえてきたんだ。それが、後に残された者の、唯一つの務めだ。わかるか?」
 宮崎は、張りつめていた糸が切れたように崩折れると、上がり框に突っ伏した。
 次の日から、私と宮崎の新しい生活が始まった。私達二人が食うに困らない程度の財産があったのは助かった。私は宮崎を養子として入籍することに決めた。宮崎も賛成だった。四月からは浩子は公立高校に通い始めた。私は、暫く忘れていた「家庭」を取り戻した気分だった。一緒に生活している誰かがいるということは、何と心を豊かにしてくれることであるか、私はしみじみと感じた。
 ……歳月は流れ、子供は育ち、そして大人は老いてゆく。高校を卒業した浩子は近所の会社に就職し、やがて結婚した。私の家庭は新しい構成員を加えた。昭和五十年、浩子二十四歳、私は既に52歳であった。翌年の秋、孫が生まれた。その孫も、今年の四月には小学生になる。子供が育つことは私達にとって喜ぶべき事であるが、我が身を振り返ってみれば、私は子供が育つと同じ早さで老いていくということに他ならない。私は今年、六十歳になる。
 かつて共に戦った仲間はどうしているだろうか。石田は、昼間働きながら苦学して、四十八年に幹部候補生学校に入った。五十年に任官、今は第一師団勤務の一等陸尉であるという。部下達の中には自衛隊に入った者も何人かいるが、その一人屋代は、四十六年に陸士長になったものの、三曹昇進試験に三回落第したと聞いたことがある。大抵は、民間に就職したらしいが、全く音信不通の者も幾人かはいる。
(2001.2.14)

←第二部第二章へ ↑目次へ戻る 第二章へ→