釧路戦記

あとがき
 「釧路戦記」は、今から約15年前、私が初めて書いた本格的な小説です。それ以前にもいくつか、ある程度まとまった量の文章を原稿用紙に書き付けたものが実家に残っていて、執筆時期を確認できる、現存する最古の文章は1978年3月の物ですが、この時期の文章は所詮子供の物真似に過ぎず、成人した私がウェブサイトに公開するに堪える物では到底ありません。
 中学3年から高校1年にかけて執筆した初めての本格的な小説が、自筆原稿で原稿用紙900枚、定職を持つ社会人となった今の私には時間的にとても制作できそうにない長編というのも我ながら驚きですが、これを執筆するきっかけとなったのは、その頃テレビ東京の深夜枠で再放送していた、アメリカのテレビ映画「Combat!」でした。最初の放送は1960年頃だったでしょうか、今でも思い出したようにビデオが発売されている戦争映画の名作です。
 その「Combat!」のある回、捕虜になったサンダース分隊がドイツ軍の捕虜収容所から実に巧妙な方法で脱走する回を観た時、大袈裟に言えば啓示を受けたのです。日本国内のどこか、人里離れた山奥か原野を舞台にして、陸軍歩兵部隊の仮想戦記を書いてみたい、という欲求が湧き起こってきて、しばらくは昼も夜もその事ばかりを考えていました。市街戦を避けて野戦にしようと思ったのは、やはり「Combat!」の影響が大きかったと思います。
 今でもそうですが、この頃の私の制作姿勢は、徹底した考証に基づくリアリズムの追求でした。といっても中学高校生にできる考証などたかが知れていましたが、舞台を根釧原野と決めたら、まず国土地理院の2万5千分の1地形図を買い集めました。その地図の測量時期が昭和42年で、折しもちょうど同じ昭和42年の時刻表を友人から譲り受けた(私は小学生の頃から鉄道マニアでした)ので、部隊の移動に鉄道を使うことを想定して、作品の時間設定を昭和42年としました。すると次は図書館へ行って、新聞の縮刷版を使って昭和42年夏から43年にかけての北海道東部の毎日の天気を調べ上げる、という具合です。もちろん、戦車から小銃に至る陸上自衛隊の装備(昭和40年代の)も調べられる限り調べます。
 こうして、現地取材以外は考えられる限りの考証をしてから執筆にかかりました。全編を執筆するのに1年余りかかりましたが、「Combat!」の、この作品を制作するきっかけとなった回に基づく場面(第二部第二十四、二十五章)は、原稿用紙約40枚を2日で書き上げたと記憶しています。

 そうして書き上げた自筆原稿は今も手許にありますが、執筆中から執筆後数年間、訂正に次ぐ訂正を行い、中には章が1つ丸ごと移動してある箇所もあります。そのうちに本文を書くのに使っていた50枚綴じの原稿用紙の、綴じ目がばらけてきましたし、子供の頃からひどい悪筆のためもあって、汚れたりかすれたりして書いた本人が判読に苦しむ箇所が現れてきました。
 これではいつか、私が少年時代に心血を注いだ作品が私にも読めなくなってしまう、という危機感に駆られて、自宅でパソコン(PC-9801DA2)が使えるようになった1991年頃から、この長大な作品の電子化に取りかかりました。最初の原稿を紙に書いていた頃に比べれば、それなりに知識も人生経験も増えていましたから、原稿用紙と睨めっこしながら一字一句テキストエディタで打ち込んでいく間には、書き直したい部分がいくらでも出てきます。しかし今やっている作業は新しい小説を書くことではなく、古い小説を保存するために行っている作業なのだと、何度となく自分に言い聞かせて、送り仮名や漢字の間違いに至るまで、紙に書かれた通りに電子化することに努めました。

 原稿用紙に書かれ、テキストエディタで電子化された「釧路戦記」は、依然として私以外の誰の目にも触れることはありませんでしたが、ウェブサイトを開設し、王朝三部作を公開してから、この作品もウェブサイトで公開しようと考えるようになりました。そして今、こうして皆さんの前に公開されているわけです。
 王朝三部作よりも前に書かれた作品でありながら公開が後になった理由は、大きく分けると二つです。
 まず第一に、王朝三部作よりもっと前、今の私から見るとちょうど半分しか人生を経験していない時に書いた小説ゆえ、今の私の目から見て至る所稚拙に過ぎ、当サイトを訪れる方に時間と費用の負担を強いてまで読んでいただくに値するだろうかという疑問と躊躇があったこと。
 もう一つは、この作品の内容です。題名からしておわかりのように、これは仮想戦記小説です。しかし私は、作品の主人公たる語り手に、敢えて反戦的・厭戦的思想を持たせませんでした。前線で敵と戦っている最中に「戦争反対」などと唱えている余裕があるはずはありませんし、何よりも主人公は、妻子を奪った敵への復讐という大義のもとに、自らの意志で戦争に身を投じているからです。
 しかしそのこと、つまり戦争を批判的に扱わないだけでなく、何であれ大義のもとに戦争を正当化した文章を書くことが、今の日本にあっては文章を書く者にとっての最大級のタブー、すなわち戦争賛美というタブーを犯したと誤解されるのではないか、という懸念がありました。
 今の日本で、戦争を否定的に扱わずに小説を書こうとする場合、決まってファンタジーかSFか、いずれにしても「現在および歴史上の過去のどちらでもない」という形を取ることで、「これは絵空事なんですよ」と読者に了承を求めることが、一種の免罪符として通用しているように見えます。
 それに対してこの作品は、執筆当時の姿勢として「徹底したリアリズム」というのがありましたから、結果的には、戦争を否定しない文章としては、「絵空事」として読者の了承を得るにはリアルすぎる文章になっていると思うのです。
 執筆後、執筆当時の年齢とほぼ同じ年数を生き、その間には祖父母の死にも立ち会ってきた今の私に、もう一度このような戦記小説──夥しい数の死を書くことを避けて通れない小説が書けるか、と自問すると、首を縦に振るには相当の勇気を要します。
 その意味でも、この「釧路戦記」は、若き日の私の創作活動の証と言えるかもしれません。
2001年2月14日

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