釧路戦記

第二章
 釧路に着いた。寒い。十五年前の冬はこれが大して応えなかったものだが、久し振りに来てみると寒さが身にしみる。
 私は北大通を幣舞橋へ向かった。民兵軍本部があったと微かに憶えている辺りへ来てみたが、当時を偲ぶよすがは殆ど無い。木造の建物はコンクリートに変わってしまったものもあり、街の景観は一変してしまっている。
 どんどん進んで幣舞橋を渡った。幣舞橋は十五年前と変わらず、濁った釧路川に架かっている。橋の南詰にあった建物は、辺りの建物が大部分建て替えられたのを見ていると古さが目立つ。十五年前から変わっていない。
 浦見地区の丘の上に登った。崖の上から下を見下すと、崖は昔と同じ、剥き出しの土の斜面に木が生えている。南大通へ降り、宮崎の家があったと憶えている所へ行ってみると、新しい家が建てられている。家の裏へ回ってみると、辺りの状況は幾分変わっているが、あの晩の光景を思い出すことはできる。
 この日一日、私は大楽毛から遠矢まで、市内を広く歩き回った。場所によって、十五年前と変わらない所も、すっかり変わってしまった所もある。釧路駅の裏手に入っていた雄別炭鉱鉄道は今はない。そして、釧路駅にも蒸気機関車の姿はない。
 私は、投宿した市内の旅館で考えた。明日から数日、根釧原野に「兵共が夢の跡」を求めに行こう。野営するための天幕や寝袋は持っている。食糧は今日、市内で買い込んできた。悠々自適の身の特権として、時間は有り余るほどある。
 翌朝七時、私は、十五年前にトラックやバスで度々往復した道を、根釧原野を指して歩き始めた。日頃から速歩には慣れているから、道行く人々を次々に抜いてゆける。曇っていて暖かい。
 九時半頃、別保の集落の北で国道四四号から分かれると、車通りは急に減り、道路を歩く人は全くいなくなる。辺りは急に静かになった。
 広い谷底に広がる牧草地の中に農家が互いに隔たって散っている、上別保の集落を抜けると、いよいよ道は無人の山林の中をゆくようになる。十一時半頃、阿歴内の十字路に着いた。右へ折れると上尾幌の町、左へ折れると阿歴内の集落に到る。この少し先にジープがやっと通れる小道が右へ分かれる所があり、この道をゆくと阿歴内兵站基地があった地域に到る。私はここで一休みし、釧路で買ってきた弁当を開いた。
 十字路からは沿道が開け、農家が見える。しかし暫くゆくうちにその農家も疎らになり、チョクベツ川の沢に下って来ると、一軒の人家もなくなった。
 登り下りを繰り返しながら道は続き、午後三時頃私は雷別の集落に着いた。集落と言っても、見渡す限り人家は三軒しか見えない。
 北海道の日没は早い。もう太陽は、南西の地平線に近づいている。この集落の北方、一一○メートルの小高い丘の上に、標茶第三要塞がかつて存在した。その遺構を今夜の宿としよう。
 丘の上に、林に包まれて要塞の遺構はあった。半地下式の兵舎の上に、かつて砲塔が載っていた台座の名残りがある。兵舎へ降りる上げ蓋を外して、私は中へ入った。私は黙々と晩飯を作り、一人黙々と食べた。今朝旅館を出てから、一言も口を聞いていないのだった。
 蝋燭の光で地図を見ながら私は考えた。ここから矢臼別兵站基地までは三十六キロある。七時間かかるから、日没までに着くという条件だと、八時には出なければならない。
 夜になると、辺りは全くの静寂に包まれた。静寂と闇の中に体を横たえていると、辺りの暗闇が私に四方八方から迫ってくるようだ。静けさの余り私の耳は幻聴を感じ始めた。
 翌朝、まだ暗いうちに私は目を覚ました。時刻は午前五時だ。私は暗い中で飯を炊き始めた。焚火の暖かさが何よりだ。気温は氷点下十度前後だろうか。
 朝飯を食べ、昼飯の弁当を作った私は、七時に出発した。東南東の丘から、太陽が昇ってきた。
 雷別川の谷を下ってゆき、中チャンベツの集落を過ぎる。ここからまた、登り下りを繰り返して道は続く。中チャンベツより先には人家は全くない。
 十一時過ぎ、原野の中の十字路に着いた。この辺まで来ると、土地が痩せているのか木は少なく、草地が主になる。冬枯れの草地というものは、葉を落とした林に比べて何と荒涼たるものか。一キロほど北に人家があるのが見える。ここからは右に折れて一車線道をゆく。この道は自衛隊の道路で、一般車は通行禁止である。やがて左手に矢臼別第八要塞の遺構が見えた。ここで一休みして昼飯を食べた。目につくのは、川と無関係に作られた低い土堤だ。何の為に作られたのだろうか。
 午後二時、兵站基地への分岐点に着いた。道端に立てられた道標は、まだ残ってはいたが、すっかり朽ちて書かれた文字も判らない。あと十年もすれば、自然に帰してしまうだろう。ここからは沢の道をゆく。しかしその道は、十五年の間に草が生い茂り、かすかな跡さえも殆ど残っていない。十五年前の地図をもとに、記憶を辿りながら歩く。
 やがて木々の間に、古い針金がからまった杭が立っているのを見た。兵站基地を囲う鉄条網の残骸だ。針金は錆び、杭は朽ちている。
 午後四時、崖下の兵舎に着いた。日は暮れかかっていた。兵舎前の空地に火をおこし、晩飯を作った。鉄条網の杭を引き抜いてきて薪にした。薄暗い中に焚火の炎だけが煌々と輝き、木の燃える音以外は何の物音もしない中で、手を焙りながら焚火を見つめていると、この原野に散っていった仲間達の事が思い出されるのだった。
 私は兵舎の扉をこじ開け、中に入って眠った。歩き続けた疲れで私はすぐ眠りに落ちた。
 翌朝は晴れて寒い朝だった。六時に起きた私は、朝飯を食べ、昼飯を作って八時に出発した。
 東西二キロにわたる兵站基地を歩き回ってみると、どこも十五年間に廃墟と化していた。風呂や、川べりに作られた水汲場などはもはや自然に帰していた。川は凍って、白い氷の帯のようになっている。
 九時半に私は、十五年前に私がいた矢臼別第一要塞を指して出発した。風蓮川河谷から丘に登り、ごく緩やかに起伏する丘陵地をゆく。微かな記憶と地図をもとに、かつての道の跡を歩くが、今では道は草が茂って、全く消滅してしまっている。辺りの荒涼たる風景は、十五年前と全く変わっていない。小さな川に掛かっていた厚板の橋は、朽ちてしまっている。
 十一時、私は矢臼別第一要塞に着いた。十五年の歳月を感じる。鉄条網は錆びて朽ち、空地には草が茂り、要塞の象徴とも呼べる砲塔は砲と一緒に撤去されている。私は丘の上へ登り、今では地面に開いた穴にすぎない砲塔の跡で昼飯を食べた。
 午後私は、この要塞の南南東二キロにある小高い丘に登った。ここからは、この近辺の広大な原野が一望にもとに見渡せる。北東にはこれと同じような独立した丘があり、その向こうに陸上自衛隊の演習場廠舎が見える。北は、要塞から東へ延びる丘の向こうに、風蓮川北岸の丘が見え隠れする。要塞は丘の北側斜面にあるので、ここからは見えない。北方遥か彼方に、知床の山並みが見える。雪を被って白く輝いている。北西方には、阿寒から大雪にかけての山々が遥かに見える。北北西遠くに、氷結した風蓮川が見える。北西の幾らか高い丘の裏側に、兵站基地はある筈である。辺りの緩やかな丘陵地帯を、幾筋もの川が刻んでいる。西から南にかけては、この丘より幾らか高い丘が連なっていて、その向こうに、もっと高い丘が見え隠れする。南南西ほど遠くない所に、独立した丘が見える。南方遠くにも丘が連なっているのが見える。南東にはやや低い独立した丘が見える。東には高い丘はなく、低い緩やかな丘がそのまま起伏しながら海へ続く。東北東には、国後の山が見える。ここから見える唯一の外国領土だ。こうして辺りを見渡した時に見える独立した丘は、戦争中には大抵陣地となっていた。この丘にも、トーチカの廃墟がある。コンクリート片の散らばる廃墟に立ち、無人の山野を眺めていると、何とも言えぬ寂莫感が胸にこみ上げてくる。この荒涼たる山野にその命を散らした仲間達の姿が、虚空に現れては消える。いつしか私は、あてどもなく歩き出していた。川に沿って歩き回っていた。
 ふと私は、辺りが薄暗くなった事に気付いた。空を見上げると、日が暮れていたのではなかった。空は雨雲に覆われていたのだ。私は現実に引き戻された。雨が降り出す前に要塞へ戻らねばならない。私は地図を取り出し、今いる場所を見極めにかかった。今いる場所は、トーチカの真南二キロにある川の合流点らしい。私は真北を見定め、要塞へ向かって真っすぐ歩いていった。
 要塞へ戻って間もなく、霙混じりの雨が降り始めた。今夜はここに寝よう。
 翌朝、雨は止んだ。私は南へ向かって出発した。道のない原野であるから歩く所は自由だ。私は丘を越えて小さな川の谷に出ると、その谷をつめて行った。行く手に昨日南南西に見た独立した丘が見えた所で、私は左手の丘を越えた。ここは小川の上流で、小さな湿原になっている。湿原の縁に沿って暫く歩き、湿原の東の端まで行ってから私は、湿原に別れを告げて丘を越えにかかった。行くうちに、前方やや左に小さな独立した丘が見えてくる。私はその辺りで、右手の沢に沿って下って行った。
 やがて、その沢と川の合流する所に着いた。近くに農家がある。草の生い茂っていない径がある。久し振りに見る物だ。ここから私は、この川――この辺りでは珍しく、三郎川という名前を持っている――に沿って下って行った。自然のままに川は曲りくねって流れている。一キロ余り行った所で、自動車の通れる道に行き当たった。地図によると西十七線だ。私は尚も川に沿って進むことにした。
 やがて川は、凍った湿地の中を流れるようになる。凍った湿原は、雪原と凍った川面の中間のようなもので、気をつけて歩かないと足が落ち込む。歩きにくさに閉口して川べりから離れ、しっかりした地面を歩く。この辺の地図を見ると、丘の上は農地や牧草地に利用されているが沢は全く利用されていない。この理由がわかるような気がする。
 十一時頃、再び自動車道に行き当たった。この道は地図によると十九号だ。これより先では、ノコベリベツ川の広い湿原が広がり、歩いて行くことはできそうにない。そこで私は十九号道路を、二キロ北の開南集落を目指して歩くことにした。
 十九号道路の左右には牧草地が広がる。開南集落が前方に見えてきた。
 さて開南集落に着き、十五年前に私が、ここから中円朱別までその上を走った村営軌道を探してみた。ところが、十五年前に確かにあったと覚えている所には、レールを剥がされた枕木が並んでいるだけで、あの小さな気動車は影も形もない。軌道跡の荒れ具合からするとかなり以前に廃止されたようだ。私は一抹の寂しさを覚えながら開南集落を後にした。
 午後三時半頃に私は茶内の駅に着いた。途中数か所、村営軌道の遺構を目にすることができた。私の思い出の一部をなしていた村営軌道も、過去の物となってしまったのだ。
 茶内の駅は街の方に面してあり、この辺の路線によくある木造平屋の建物である。釧路迄の切符を買って駅に入る。線路を横断してホームに登り列車を待つ。駅の裏手は人家も殆ど見当らず、原野と牧草地が広がっている。
 列車が来た。私と数人の客を乗せた列車は動き出した。私は窓外に移り行く景色を眺めた。疲れが出てきた。訳もなく溜息が出た。
 宿に着く頃には私は疲労困憊していた。五日間に歩いた距離は、地図で調べてみると約百二十キロであった。六十の体には苛すぎたのか。
 明日は釧路から標茶まで歩く積りだったが、こう疲れていては出来るかどうか。それに、標茶まで歩くとなるとここにもう二日滞在するような事になる。その間の食糧費は大丈夫だろうか、財布がかなり心細くなってきたのだ。明日は、塘路から茅沼までだけ歩くことにしよう。
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 翌朝私は七時に宿を出、市内を歩いた。
 十時に私は釧路駅へ行った。網走行六四四列車が入線している。十五年前には駅構内のそこここに屯し、黒煙を吹き上げていた蒸気機関車は今はなく、朱と白塗りのディーゼル機関車が構内に色を添えている。十五年前と変わらないのは、くすんだ青色に塗られた古い客車である。手開きの扉、油と埃が染み込んだ床、壁、背ずり。白熱灯。私はその一両に乗った。
 一○時一四分、定刻に列車は釧路を発車した。東釧路までは根室本線を走り、そこから左へ曲がって釧網本線に入る。左に湿原、右に丘陵を見て列車は走る。
 一○時三一分遠矢。右手の遠矢川の谷が真っすぐに見通せる。あの奥に仮監峠はある。
 列車はゆっくりと走る。丘の先端を右へ大きく回って走り、一○時四三分細岡。発車後左へ大きく曲がる。この時、右手遠くに達古武沼が、太陽の光を照り返しているのが見えた。
 左右に曲がりながら走って一○時五三分塘路。私はここで降りることにした。塘路の街は十五年前と殆ど変わっていない。私は街を抜けて、十五年前に通ったと同じ道をシラルトロ沼に向かって進んだ。右手には氷結した塘路湖が広がっている。十五年前と同じ景色だ。違うのは、道を行くのが私一人であることだ。私は辺りの景色を眺めながら、黙々と歩いた。
 峠を越えて下って行くと、左にシラルトロ沼が見え隠れし始めた。尚も下ってゆくと小さな川を越え、山を回って沼岸に出た。沼の面は真っ白に氷結している。
 やがて、普通の人にはそれと分らないようなトーチカの残骸に差しかかった。少し先には、大原が戦死した橋がある。私はトーチカの残骸に佇み、十五年前のあの日の光景を思い浮かべた。あの時の大原の目を、私は忘れられない。私は、白く氷結したシラルトロ沼を見渡した。この沼の底に、大原が眠っているような気がしてならない。
 午後一時過ぎ、私は腰を上げた。後ろ髪を引かれる思いで私はそこを立ち去り、茅沼の駅へ向かった。やがて沼は尽きて、左には湿原が広がる。シラルトロエトロ川を渡り、向う岸へ登って、丁字路を左折して下ってゆくと、茅沼の集落に着いた。時刻は二時半。網走行き六四六列車は一五時○六分の発車だ。私は、今は無人となった駅舎に入り、ホームに出た。駅の裏手は、湿原より幾らか高い牧草地である。大らかな景色だ。
 ふと、ホームに立っている標識に目が止まった。
「タンチョウの来る駅」
 釧路湿原にだけ棲むという丹頂鶴だ。私は湿原の方に注意を向けた。
 その時、駅のすぐ近くの枯草地に、番と思われる二羽の丹頂鶴が舞い降りた。白と茶色ばかりの地味な草地の中で、二羽の鶴の頭の赤が一際映えた。十五年前、この根釧原野に流された私達の血の色のような赤が。
(完)
(2001.2.14)

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