釧路戦記

第四十五章
 曇り空からは時折月が姿を現し、辺りの地形を照らし出す。月の傾きかけた西の方には、シラルトロエトロ川の幅広い谷の向こうに、低い黒々とした丘の連なりが見える。南西の方向にシラルトロ沼があり、東は川の谷、北にも低い山が連なる。シラルトロエトロの集落にかかったようだ。とは言っても、地図で見ても数軒の人家が、互いに百メートル以上の隔りを持って東西二キロ半、南北一キロ半の中に散在しているに過ぎないのだが。
 やがて道はシラルトロエトロ川を越え、谷の北に連なる丘の鞍部への登りにかかった。登りつめた所は丁字路で、左へ分かれる道をゆくと茅沼の集落に出る。ここを過ぎて尚もゆくと、左に広漠たる釧路湿原が広がる。丘の麓へ下り、鉄道の線路とつかず離れず道は続く。
 十時半、五十石の集落を通過した。集落の外れにある駅は、早々と灯りを消し、もう眠りに入っている。街灯のない集落は、家々の灯りも消え始め、静かな眠りに入ってゆく。私達の行軍はまだ続く。
 集落を外れてから十分ほど行くと丁字路に出た。直進しても、左折しても釧路川を渡って右岸に移り、標茶に至る。ここを私達は左折した。
 左折してすぐ踏切りを渡り、少時進んだ時中隊長から指令があった。
「右折して堤防上を行け」
 一瞬私達は戸惑ったが、すぐに了承した。川の左岸を進撃する必要があるのに違いない。私達は広い道から外れ、トロッコが走るのがやっとの幅しかない、堤防上の草道を進んだ。十時頃、広い道が高い橋で上を横切った。この道が、先刻の丁字路を直進した道だ。
 十時半頃、一旦停止がかかった。中隊長が、私達を集めて言った。
「ここと標茶の中間、ルルラン集落周辺に敵部隊が展開している可能性がある。斥候を出す」
 上村が言った。
「私が行きます」
「では頼んだぞ。概ね線路より西を調べて来い」
 上村は、二、三人の部下を連れて斥候に出て行った。私達は、報告と号令を待つ間、暫く休息することになった。もしかすると夜襲をかける事になるかも知れぬ。
 やがて中隊長が私を呼んで言った。
「上村からの報告によると、ルルラン南方の未開墾地に敵が展開しているらしい。明朝攻撃をかける。○五○○に部下を起こせ。今夜は寝てよろしい」
「了解」
 私は河村、谷口、酒井、古川にこの事を伝えると、林の中に天幕を広げ、背嚢から寝袋を取り出し、その中に入って眠った。
・ ・ ・
 身を切るような寒さに私は目を覚ました。時計を見ると四時半だ。もう暫く眠ろうとしたが、寒くて眠れぬ。私は五時までまんじりともしなかった。
 五時に私達は起き出し、出動準備にかかった。食糧を食べ、顔に炭を塗って出動命令を待つ。
 六時、出動命令が下った。私の小隊は右翼、線路の方からだ。凍った川を渡り、林の中を進んでゆく。林の中では、トロッコはその機動力を全然発揮できない。道路ではすいすい走るトロッコは、林の中ではまるで不具者のようで、手とり足とりといった感じで動いている。
 突然、林の中から激しい銃火が起こった。
「伏せろっ!」
 昨日の仮監峠のようには行かぬものだ。敵は、我々の攻撃に対する防禦を、充分講じているに違いない。私達は、トロッコに少しの兵をつけて残し、匍匐前進で敵に接近した。空が白み始め、辺りは明るくなってきた。敵の銃火に見当をつけて、こちらからも射かける。彼我の間合いは次第に詰まってゆく。
 突然敵は、何を血迷ったか一斉に飛び出してきた。私達は銃で一斉射撃を浴びせる。忽ち敵兵は倒れ始めた。生き残った敵は、我軍に背を向けて逃げ始める。その敵を、一人ずつ銃火が捉える。するとその兵は、地面に倒れて絶命する。
「追撃だー!!」
 私は叫んだ。私達は一斉に追撃に移った。トロッコも追って来る。逃げてゆく敵兵に、次々に銃火を浴びせる。やがて林を抜け、畑の中を伸びる道を敵は逃げてゆく。こうなると狙撃する方が圧倒的に有利だ。片っ端から射倒してゆく。標茶の街が見えてくるより前に、敵は全滅した。
 左の方から、他の小隊の者達も続々とやって来た。兵士達は、口々に敵を嗤っている。
「今度の敵ほど情ない敵は初めてだな」
「戦いもしないうちから逃げ出すんだからな」
「あんな敵ばっかりなら助かるぜ」
 敵の士気の低下は推して知るべしである。敵はもう長くはあるまい。
 私達は細い道を、隊列をなして進んだ。行く手に標茶の街が近づいてきた。釧路を出てから、久し振りに見る街らしい街である。
 街外れの三叉路からは、街に背を向けて二車線の広い道を中チャンベツに向かう。道は標茶の街を見下ろす丘に登ってから、緩やかな下りになる。次第に畑地や牧場が開けて、上チャンベツの集落が見えてくる。道の両側には、赤い屋根のサイロが点々と見える。
 午前八時半、上チャンベツの集落を通過した。鞄を背負った子供達が、列をなして歩いていく。この子供達を戦火に巻き込む事だけは、どうあっても避けねばならない。
 上チャンベツの集落を抜けた頃、前方に一群の敵兵が見えた。敵は、私達を見ても逃げようとしない。私はトロッコに飛び乗った。
「待て! 様子が変だぞ。暫く様子を見よう」
 中隊長が私を制した。私はトロッコから降りた。
 敵をよく見ると、どうも武装していないようである。これは一体どうした事か。
 しかし、武装していないからと言っても敵である事に変わりはない。私は言った。
「何故です?」
 中隊長は言う。
「敵は投降の意志を示している」
「だから殺さないのですか」
「そうだ」
「投降するしないは敵の勝手でしょう。我々には敵を滅ぼす義務があります。革命軍の人間を、一人残らず抹殺する義務が」
「投降の意志を示している以上敵ではない」
「それなら、かつて敵だった者を生かしておく訳ですか。いつまた、新しい革命軍となるかわからない者をですか。なら何のために私達はここまで、戦ってきたのですか。革命軍を滅ぼさないのなら、何のために私達は戦い、何のために傷つき、何のために死んだのですか。今までの私達の費してきた年月は何だったのですか!」
 私は言い募った。中隊長は何も言わない。私は再びトロッコに乗り、重機を敵の群れに向けて乱射した。たちまち十数人の敵兵が倒れた。他の兵は逃げ始めた。すると、部下達は、一斉に追撃を始めた。私もトロッコから飛び降り、銃を持って走り出した。
 走り回っているうちに、私は林の中の幕営地に出た。人気のない幕舎の間に、銃が捨てられている。何人かの敵が倒れているが、それをよく見ると、将校と下士官ばかりである。
 事態の察しがついた。兵の厭戦気分が嵩じて、抗戦を命ずる将校、下士官に対し反乱を起こしたのだろう。これはもう末期的症状である。敵の士気はここまで堕ちているのだ。
 十時頃になって、皆が集まってきた。私は中隊長の前に進み出て言った。
「何なりと処罰して下さい」
 中隊長は言った。
「処罰する理由は無い。気付かなかったかも知れんが、お前が重機の押鉄を押す寸前に射撃命令を下したのだ」
 私は言葉に詰まった。中隊長は言った。
「敵の物資を集めろ。集めたら出発だ」
 この後は戦闘は無く、私達は真っすぐ釧路へ戻ってきた。釧路へ戻ったのは、夜も更けてからであった。
・ ・ ・
 この戦闘は、その後知った事だが、今迄にない大規模なものであった。我が軍の二十一個中隊が六ヵ所の兵站基地と釧路の前線本部から一斉に出動し、根釧原野南西部全域にわたって、一昼夜以上の戦闘を展開したのであった。
・東部戦線
八日○九時−一二時
北陸第二中隊・中京中隊、秩父内付近で敵三百と交戦
同○九時−一五時
九州第二中隊・九州第三中隊、風蓮川南方七九メートル丘付近で敵五百と交戦
同一○時−一二時
関東第一中隊・関東第二中隊、トライベツ丁字路で敵六百と交戦
同一四時−一五時
関東第一中隊・関東第二中隊、フッポウシ川左岸で敵百と交戦
同一六時−二○時
敵百、矢臼別第一要塞を攻撃

・中部戦線
八日○七時−○八時
近畿第二中隊・大阪中隊、別寒辺台南東方の敵百を攻撃
同○八時−一四時
東北第一中隊・東北第二中隊・近畿第一中隊、西風蓮川南岸で敵六百と交戦
同○九時−一○時
近畿第二中隊・大阪中隊、タッカルウシ川十字路で敵百と交戦
同一二時−一四時
近畿第二中隊・大阪中隊、中チャンベツで敵二百と交戦

・西部戦線
八日○六時−○七時
北海道第二中隊、オビラシケで敵百を攻撃
同○八時−一○時
東京第一中隊・東京第二中隊・東海中隊・甲信中隊、仮監峠で敵五百と交戦
同○九時−一○時
北海道第二中隊、東遠野で敵百と交戦
同一○時
北海道第一中隊・北海道第二中隊、阿歴内で敵百と交戦
同一二時−一三時
北海道第一中隊・北海道第二中隊・中国第三中隊・四国中隊、片無去で敵百と交戦
同一二時
東海中隊・甲信中隊、バルマイで敵百を攻撃
同一四時
東海中隊・甲信中隊、塘路東方沼ノ上で敵百と交戦、この敵は塘路で一五時、東京第一・第二中隊に攻撃される
同一五時
北海道第一中隊・北海道第二中隊・中国第三中隊・四国中隊、中チャンベツ南方で敵百と交戦(この敵は中部戦線中チャンベツの戦闘の敗残兵)
同一六時−二○時
東京第一中隊・東京第二中隊・東海中隊・甲信中隊、シラルトロ沼岸で敵百と交戦
九日○六時
東京第一中隊・東京第二中隊、ルルランで敵百と交戦
同○九時−一○時
東京第一中隊、上チャンベツ南方で敵百を攻撃
 この戦闘に参加した敵の全兵力は四千以上にも達する。まさに空前の大戦闘であった。そして参加した敵兵力は殆ど壊滅し、釧路地方の敵は一掃されたのであった。
(2001.2.12)

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