釧路戦記

第二十三章
 十月になった。北海道の早い秋はすでに訪れている筈だが、要塞の中で黙々とトンネル掘りに精出す者にとっては、季節というものは全く実感し得るものではなかった。敵の包囲網も、全く変わる様子がない。しかし、敵からの攻撃は次第に静かになってきた。物資を幾ら投下しても戦果が上がらないので、攻撃は威嚇程度にして兵糧攻めに徹することにしたのだろう。敵が毒ガスを持っていなかったのは私達にとっては幸いであった。これを使われると一発で私達は全滅であるから。
 十月六日、私はトンネル掘りを屋代と交替する時に、他の要員の協力を得て、トンネルの長さを測ってみた。
 驚くべき結果が出た。一日七メートルの割で進むものとして、今日迄に七十五メートルくらいになっている筈であったが、測ってみたところ、六十メートルしかなかった。三日前に測った時には、予定の五十五メートルに対して五十二メートルであり、さほど進度が落ちてもいなかったのに、ここ三日間は毎日、三メートル弱しか掘れなかった計算になる。これは軽視すべからざる事態である。私は、トンネル要員を集めて言った。
「トンネル掘りが非常に遅れている。このままでは食糧が尽きてもトンネルが貫通していない、という事態になるぞ」
「それは、その……」
 古川が言いかけるのを遮って私は言った。
「弁解しなくてもいい。理由は俺にもよくわかっている。三日前に、非常に悪い地層にぶち当った。よりによって泥炭だ。トンネルを掘るには最悪の土質だ。そいつから、一向に抜け出せない訳だ。それともう一つ、これがお前達の本音かも知れんが、飯が少ない。六割五分では腹が持たん。なあ石田」
 石田は細身に似合わず大喰らいなのだ。
「言いたくないけどそうです」
 私は全員を見回して言った。
「さて、どんな対策を立てるか。泥炭層ばっかりは、運を天に任せるしかない。我々の力ではどうしようもない。空腹を克服するというのも、言うは易く行うは難し、だ。となれば、トンネル要員以外の者の飯を、今よりもっと減らすということで」
 辺りにいた、非トンネル要員が一斉に起き上がった。酒井が私の前へ進み出てきて、声高に言った。
「ちょっと待って下さい! 小隊長、本来の配給の六割以下の飯というのが、どんなものかお分りですか?」
 私は答えた。
「三割の飯がどんなものかもわかってる。戦時中フィリピンで喰ってた飯がそれだ」
 本当に私は、フィリピン撤退直前には、木の若枝や根っこ、蛇や虫や、蜘蛛や蛭まで取って食べたのである。
「しかし小隊長、小隊長達のトンネル掘りがどんなに大切かはよく分ってますが、敵と対峙する我々の飯を、そう簡単に減らされては納得できません。我々は、命を張ってやっているんですよ」
「そうだ」「そうだ」
 他の部下達が騒ぎ始めた。
 私は立ち上がって、部下達を見回すと言った。
「それじゃ、命を張って敵と対峙するんでなかったら、飯を減らしてもいいんだな?」
 辺りは、水を打ったように静まり返った。
「戦闘配置に着くか、飯を減らすか、どっちかだ。それでいいか?」
 谷口が立ち上がって言った。
「私は小隊長に協力します。私の食事を減らして下さい」
 部下達は、一人また一人と、食い減らしに協力することを表明した。
「今迄通りの飯を喰いたい者は、それはそれでいいんだぞ。但し、戦闘要員として存分に働いて貰うがな」
 砲台から降りてきた河村達にも、事の次第を説明してから私は言った。
 河村は言った。
「矢板は、その泥炭層が永久に続くとでも思っているのか? そんな根拠のない食い減らしには協力したくない。俺は今迄通りの飯でいい。戦闘要員が俺一人になっても、俺は砲台を守る」
 私と河村の意見が真っ向から対立したのは、この時が初めてであった。
「食い減らしに協力するなら、一日中何もしないで寝ていてもいいんだぞ」
 私が言うのを、河村は正面から撥ねつけた。
「それが討伐隊一線部隊の、要塞守備隊長の言い草か? 俺は戦う」
「わかった。河村は今迄通りの飯で、戦闘要員だ。他に戦闘要員を希望する者はいるか」
 片山が挙手した。小笠原と宮川も手を挙げた。
「よし、決まりだ。河村と他の三人に、戦闘の一切を任せる。あとは、休みだ。
 トンネル要員だがな、六人は少し多いようだ。四人くらいに減らそうと思う。トンネル要員から抜けることを希望する者はいるか」
 五人のうち、誰一人として応じない。トンネル要員を外れたら、即座に飯が減らされること――私は現にそうする積りだが――を懸念しているに違いない。
「いないか。ならいい。
 飯の量は、どれだけ減らすべきか実は見当がつかない。差し当って、休みの者は、本来の量の四割にする。戦闘要員は五割五分、今迄通りだ。それで、トンネル要員は、少し酷だが五割五分に減らす」
 五人の顔色が変わった。
「満腹感だけは味わわせてやろう。全員、一日分の飯を二食に分けて食べることにする。それなら、一食当たりの量は今迄より増える。どうだ? 石炭の消費も減る。
 それでは、分かれ。休みの者は、何もしないで黙って寝てろ」
 山岡にこの事を伝えると、山岡はまたも抗議してきた。
「怪我人の食事を、どこまで減らせば気が済むんですか!? 本来の割り当ての四割だなんて、本当に餓死者が出ますよ!」
 私は答えた。
「負傷者に、お前が言うだけの充分な飯をやる余裕がないって事は分ってるのか? トンネル工事が遅れている分、どうしたって飯を減らさねばならんのだ」
「だからって、四割まで減らさなくたって…」
「負傷者だけではない。トンネル要員、戦闘要員から外れている者は全員、四割の飯となったのだ。
 四割の飯では餓死はせん。それは、俺が請け合う。お前が生まれた頃は、日本中の誰もが、今、普通に食っている飯より遥かに少ない飯で生きていたんだ」
 私は山岡を黙らせてから、食糧の現存量を調べた。晩飯の後で、三一七食残っていた。これを、五割五分が十人、四割が十八人で食うとなると……一日二食として十八回分に少し欠ける。つまり、あと九日持つ計算になる。九日目、つまり十月十五日の夜、食糧は尽きる事になる。果たしてそれで間に合うだろうか?
 七日の朝であった。朝飯の配膳が終わると、山岡は、病室の六人の朝飯を盆に載せて、病室へ運んで行った。私は、その後について一緒に病室へ行った。私は、一日に一回は重傷で寝ている部下の様子を見に行くことにしていたし、山岡の看護振りを見ておこうとも思ったからだった。
 山岡は、一人分ずつの朝飯を小さい盆に分けて、応急の寝台に寝ている六人に配って回った。矢部、高村、大島の三人は自分で身を起こし、箸を取るのだったが、特に重傷の細谷と趙は山岡に起こして貰うのだった。それを矢部や大島は、羨しそうに見るのだった。
 最後に山岡は、両腕に重傷を負っている橋本の寝台の脇へ行った。
「橋本さん、朝御飯」
 橋本は両腕が使えないので、山岡に食べさせて貰うのだとか。何とも羨ましい限りだと、あの真面目な河村が言っていたことがある。
「橋本さん?」
 山岡の声が変わった。橋本が動かないのだ。私は橋本の寝台に歩み寄った。一瞥して私は、何が起こったかを察した。
 山岡は、大声をあげて泣き崩れた。他の五人は、箸を止めて私と山岡を見つめている。兵員室の方から足音がした。何事かと部下が集まってきたらしい。振り返ると、戸口で立ち止まった部下達は、騒ぎの原因を知ろうとしてか病室を見回している。
 程なく、山岡は涙に濡れた顔を上げた。山岡はいきなり立ち上がると、髪を振り乱しながら私を罵った。
「鬼! 人でなし! 矢板さんが、橋本さんを、橋本さんを、殺したんだ!」
 いきなり何を言うかと思ったらこの論理。
「あの時、死なないなんて、言った癖に! 嘘つき! 嘘つき!」
 私はやっと反論の糸口を掴んだ。
「違う、飯を減らしたから死んだ訳じゃない。その証拠に、見ろ、他の五人は生きている」
「嘘! 嘘つき! こんな食事減らしなんかやったから、橋本さんは死んだんだ! 食事減らしなんか、やらなかったら、橋本さんは……」
 河村が入ってきて、私を詰問した。
「どういう事なんだ?」
 私は、河村の語気に常ならぬ物を感じた。私は落ち着き払って答えた。
「橋本が死んだ。山岡が、その原因は暫く前からやってる食い減らしだと言って、俺に責任を被せようとしているだけの事だ」
 河村は言った。
「それで、矢板は、原因は戦傷だと言いたい訳だ」
 何か、河村も私に責任を帰したいような口調だ。自分自身食い減らしで飯を減らされているうえに、自分の部下が死んだとあって気が立っているのだろうか。
 不意に山岡が叫んだ。
「矢板さんが殺したんです! 食事減らしなんかやったから……それも、自分だけ沢山食べて……」
 これには私も腹が立った。
「黙れ!!」
 一喝すると同時に私は山岡の横っ面を張り飛ばした。山岡は床に転がった。私は山岡が泣き喚くのには目もくれず、がやがや騒ぎ始めた部下達を睨みつけて怒鳴った。
「いいか、よく聞け。ここ暫くの食い減らしに文句のある者もいるだろうがな、もし食い減らしをやらなかったらどうなってたか考えてみろ。五日前に、一粒の米もなくなってた筈なんだぞ。もしそうなっていたら、今頃全員餓死してる筈だ。それでも文句があるか!?」
 部下達は静まり返った。私は続けた。
「お前達は戦争に行った事が無い。だから、重傷を負って寝てる奴を生き延びさせようとする。そいつは、考えが甘いぞ。出来る限り多くの負傷者を生かすと言うのは、食糧も医薬品も充分ある時、つまり平時の、或いは銃後での考え方だ。そんな考え方は、戦場じゃ通用しないんだ。物資に限りがある時に、差し当って役に立たん事にその物資を使ったら、それはつまり無駄になる訳だ。戦場では、無駄を出してはならないのだ。
 俺だって、無闇やたらと部下を殺したくはない。だが、今我々が置かれている状況を考えろ。包囲されて、物資はどんどん減ってくる。食糧は日に日に減る。ところが生き延びるために続けてるトンネル掘りは、まだ何日も続く。何日間か、絶対に食糧を持たせなければならん。そうなったら、トンネル掘りに役立たん者の食糧を減らす以外に、何が出来ると言うんだ?
 もしトンネルが完成しないうちに、食糧が底をついてきたら、その時は俺は、ここの五人を殺す事も考えてる。それ以外に手段が無いからだ」
 誰も何も言わなかった。
 要塞の中の様子はどうか。これは三つに分かれていたと言ってよい。希望に燃えて切り羽に挑むトンネル要員と、食事の差を不満の種とする戦闘要員及び休みの者と、病室で寝ている重傷者と。トンネル要員は、自分が掘り進むことが皆を救うという使命感、切り羽の先に「生」の世界があるという希望に奮い立ち、日夜活気に満ち溢れている。戦闘要員は、実り無き、しかも危険な任務に就かされているという空しさ、休みの者は食事の少なさからくる不満に、常に心を苛立たせている。兵員室は明暗を分けている。ある日気が付くと、トンネル要員と戦闘要員は部屋の両隅に分れて固まって寝ている。大体寝場所は決まっているのだが、私がトンネル要員と戦闘要員を決めた時には、寝場所など考慮する訳がないから、当然混じって寝ていた。それが二つに分かれて固まっているのだ。私は愕然とした。
 七日の夜、重傷者の一人、趙が死んだ。これで二十六人になった。
 趙が死んだと知った時、また山岡は私に喰ってかかってきた。
「怪我で寝てる人が死なないなんて言ってから、もう二人も死んだじゃないですか!」
 私はトンネル掘りで疲れていたので、適当にあしらっておこうという気になった。
「だから、あの二人が死んだのは、決して餓死ではないと言ってるだろう」
「餓死じゃないって! そんなの、言い逃れです! 橋本さんは餓死じゃなかったのは認めます。背中の傷が、床ずれと一緒になって敗血症を起こしたのが原因でした。でも、趙さんは餓死です! あの人は、命取りになるような傷はどこにもなかったんです!」
「そうか?」
「矢板さん、矢板さんは、私が生まれる前にフィリピンで戦ってきました、ですから戦場のことについては良く知ってます。でも、病気の事に関しては、私の方が良く知ってます!」
「大した自信だな」
「私は看護婦の資格を持ってます! 矢板さんのような素人とは違います!」
 この事についてはこれ以上言っても無駄だ。
「わかった。趙を餓死させた事は認めよう。しかし、山岡、それじゃどうすれば良かったんだ?」
 山岡は声を上げる。
「前から何回も言ってるでしょう! 食事を増やしさえすればいいんです!」
「それは無理だと、俺も前から何回も言ってるぞ。今どれだけの食糧が残ってるか、知ってるのか? トンネルが貫通しないうちに食糧が尽きたら、全員餓死だぞ、間違いなく。それがわかってるのか?」
「そのトンネルを掘るために、私達がこんな目に遭ってるんです!」
 私は声を上げた。
「とうとう、そう言ったな。じゃ山岡、トンネルを掘らないとしたら、どうすれば良かったんだ? 今更遅すぎるが、言ってみろ」
 山岡は黙った。私は畳みかけた。
「もし山岡、お前の考えてる方法で、今病室に寝てる四人が、間違いなく全員助かり、他の二十二人全員が、無事に脱出できる確信があるんだったら、俺はお前に、この小隊の指揮命令権を譲る。お前がこの小隊を指揮して、それで全員助かる確信が――見込みが、じゃなくてだ、確信があると言うのなら、だ」
 山岡は返答に窮したか、いきなり横を向いて声高に言った。
「あーあ、こんな事になるんなら、あの三人と一緒に追ん出されてた方が、余っ程良かった!」
 何と聞き捨てならぬ事を言う。私は山岡の胸倉を掴み、力一杯引き寄せて一喝した。
「何を言うか!」
 山岡は喚く。
「放してよ! 女に手を上げる気!?」
 私は山岡の両頬に平手打ちを見舞った。山岡の目に涙が溢れてくるのを見ながら私は怒鳴った。
「女だろうが何だろうが、俺の部下には変わりはない!」
 谷口が兵員室から出てくると、私と山岡の間に割って入った。
「小隊長、止めて下さい!」
 私は手を放した。啜り泣く山岡に向かって、私は言葉を投げつけた。
「いいか、今、この要塞が必要としているのは、トンネル掘り要員と戦闘要員だ! 泣いてばかりいる女は必要としてないんだ! もし今後、また泣いたり喚いたりして俺に楯突いたら、口減らしをやるぞ! 覚悟しておけ!」
 その時谷口は、冷たい敵意に満ちたまなざしで、私を見つめた。従順な谷口が私に対して初めて見せた、反抗の印であった。
 十日の夕方、遂に、重機の弾帯が一本も無くなった。私はこれを機会に、弾薬の在庫を調べた。
 ・加農砲弾 一六五発
 ・迫撃砲弾 二五五発
 ・小銃弾 五九個
 ・手榴弾 十五発
 何ともお寒い限りだ。梱包一個しかない手榴弾、梱包二個の小銃弾に比べ、山と積まれた加農砲弾や、一発も使った事のないバズーカ弾が恨めしいくらいだ。
 食糧は、食い減らしの結果一八四食分あった。もし食い減らしをやらなかったら十月二日には尽きていた計算になるから、かなり上出来と言えようか。これ以上死なないとしてあと十食分。つまり、……十五日の晩飯が最後の食事となる。水は三二○リットル。これも、これ以上死なないとして六日分と少々。つまり一六日までだ。水の方が少し後まで持つようだ。私は早川を呼んで言った。
「明日から、食事には出来る限り水を使わないようにしろ。塩もだ。他の二人に伝えろ」
「え……」
「水の方が食糧より持ちそうなんだ。だから俺の見通しが外れた場合のために、水と塩を残しておけと言うんだ。水と塩で、三日は生きられるから」
「わかりました」
 トンネルの方は、奥行八十メートルに達した。九日の夜、ようやく泥炭層を抜けた。予定はあと二十メートル。しかし、……考えるのはよそう。成功を前提としているのだ。成功か、さもなくば全滅か。二つに一つである。
 予想していた通り、十五日の晩飯が最後の飯となった。一粒の米も、一片の野菜もなくなり、石油罐五つばかりの水と、一袋の塩だけが残った。この状態では、全員、あと二日が限度であろう。倉庫の入り口に立った私の心は、かつてなかった程の悲壮感に溢れていた。私にとって、二十五人の部下の命がかかった、本当の背水の陣であった。
「とうとう食糧が尽きたな」
 私の後ろから河村が言った。その声が持っていたものは、抗議でもあり、いやむしろ侮蔑でさえあった。
「あと何日、食糧なしで生きなきゃならないんだ?」
 重ねて言う河村に、私は振り返り、決然と言い放った。
「水がある」
 その夜更けであった。私はいつものように金鎚と鏨を揮って、切り羽に挑んでいた。ただ、いつもと違うのは、小銃を背負い、鉄兜を被り、手榴弾を持ち、銃剣を腰に差し、つまり武装していたことである。これが私の決意であった。この私の決意はトンネル要員の皆に伝わったであろう。
 午前一時三十四分。私が打ち込んだ鏨は、一センチ程岩の中へ入ったかと思うと、すっと元まで入ってしまった。空洞に突き当たったのに間違いない。私は身震いした。喜びよりも、恐れの方が先に立った。もしこの空間が敵の塹壕であったら、私達の今までの苦労は水泡に帰し、私達は全滅するのである。地面に出たにしては不自然だから、むしろその可能性の方が高いといえよう。私は懐中電灯を取り出し、その穴から外を覗いた。そこはやはり、人間によって掘られた空間だった。私は、全身の力が一気に抜けるのを感じた。もし私が立っていたら、まさにへたり込んだであろう。私は気をとり直し、指先で、その穴を広げた。掌くらいに広がった所で、もう一度穴を覗き込んだ。
 二人か三人入れば一杯になるような小さな塹壕――いや、蛸壷と呼んだ方が良いだろう。そこには敵はいなかった。私は、やや希望を取り戻した。これで、第一段階は終わったのだ。
 次に私は何をすべきか。私は考えた。ふとある作戦が浮かんだ。私は手早く穴を埋めると、急いで後ずさりした。後ろから石田の声がした。
「小隊長? まだ交代じゃありませんよ」
 私は小声で答えた。
「作業中断だ。黙って下へ行け」
 さらに後ろには屋代がいた。
「何か出たんですか?」
「いいから下へ行け」
 私は下へ降りると二人に小声で言った。
「トンネルを掘った土屑を、持てるだけ、袋に入れて持って来い。シャベルもだ。二本だ」
「一体何があったんですか?」
 訝る二人には答えなかった。
 土屑とシャベルを持ってきた二人に、私は小声で言った。
「トンネルが貫通した。俺が行く。誰にも口外するな。平静を守るんだ。絶対に騒いだりするな。敵にさとられたら終わりだ」
 二人は目を輝かせた。私は銃剣以外の武装を解除しながら、二人に言った。
「シャベルは俺が持つ。二人、土を持ってついて来い。
 俺が外へ出たら、二人で、大急ぎで穴の出口を埋め戻すんだ。わかったか」
「はい」
 そして三人でトンネルに入った。
 切り羽に着いた。蛸壷には敵はいない。私は鏨で、慎重に穴を広げた。辺りは静かだ。二人の動悸が伝わってくるようだ。穴は、人が通れるくらいに広がった。私は穴から這い出した。シャベルを一本中の二人に渡し、小声で言った。
「大急ぎで、穴を埋めろ。俺も外から埋める」
 二人は袋の土を穴の口にあけ、穴を埋め始めた。私は辺りを警戒しながら蛸壷をシャベルで崩し、穴を埋めにかかった。穴が小さくなった。私は中にいる石田に声をかけた。
「俺はきっと上手くやる。安心して待ってろ」
 次の一すくいの土で、穴は埋まった。私は土を叩いて圧しつけると、シャベルを脇に置き、銃剣を抜いた。
 敵は通りかからない。不思議なくらいだ。私は外の様子を窺った。と、一人の敵兵が歩いてくる。その兵は仲間からはぐれたのか。この辺には兵力は少ないようだ。その兵は私のいる蛸壷に向かってきた。私は身構えた。敵兵が私の脇を通り過ぎようとした時、私はすかさずその足を掴み、蛸壷に引きずり込んだ。私はその兵の頚筋に手刀を叩きつけた。敵兵は気絶した。私は大急ぎでその兵の上衣とズボンをむしり取り、戦闘服の上から着た。私より少し体格の大きい兵だったので、服は丁度良かった。服の裏を見ると、「松本」と縫い込んであった。階級は曹長であった。私は松本の小銃と拳銃を持ち、鉄兜を被った。一人の偽革命軍兵士が誕生した。私は松本を銃剣で殺してから、蛸壷から出た。
 少し歩くと、ジープが止まっていた。伍長が乗っている。伍長は私を見るなり敬礼して言った。
「あ、曹長殿」
 私は答礼して言った。
「本部へ行くんなら乗せてってくれ」
「はい」
 伍長は、私が偽兵士であることに気付いていないようだ。私はジープの後部座席に乗り、伍長の後ろに坐った。
 ジープが走り出した。辺りに敵兵がいなくなったのを見届けると、私は運転している伍長の後頭部を、拳銃の台尻で力任せに殴った。伍長は気絶した。私は助手席に乗り込み、ブレーキを引いてジープを停めると、伍長の小銃と拳銃を奪ってから銃剣で刺殺し、車の外に放り出した。そして、革命軍兵士の軍服を脱いで助手席に置くと、ジープを発進させた。第二段階は終わった。
 午前二時過ぎ、基地の近くにジープを止め、歩いて中隊本部へ行った。衛兵が銃を向けた。
「東京第一中隊の矢板だ。中隊長に会わせろ」
 私は中へ入った。中隊長はそこにいた。私を見るなり立ち上がった。
「矢板か! 今までどうしていたんだ?」
 私は単刀直入に言った。
「大至急、二個中隊を要塞に向けるよう上申して下さい」
「どうしたんだ?」
「敵の大勢力に包囲されてるんです!」
「要塞がか。わかった」
 午前二時三○分、九州大隊の三個中隊、総勢約四○○が出動した。私は九州大隊に従いて行った。
 十七番川と十八番川の間の丘で、三つの中隊は分れた。第一、第二中隊は丘の上を、要塞の北まで行き、第三中隊は十八番川を渡って南方の丘の上を要塞の南まで行く。
 午前四時、第一、第二中隊は要塞の北の丘の上で止まった。ここからは八個小隊が散開し、攻撃する。私は最右翼、川を渡った所から行くことにした。ここで私は一計を案じ、先刻奪った敵の軍服を着た。そして敵兵になり済まし、何気なく敵の陣地へ入って行った。敵兵に何気なく接近しては、後ろから刺殺する。これを十人ばかりやってから、私は前方に、軽機を持った敵兵がいるのに気付いた。私はその兵に後ろから接近して刺殺し、軽機と弾丸を奪った。私のポケットは、殺した敵兵から奪った、小銃の挿弾子で一杯になっている。私は少し退いてから、軽機で敵兵を次々に薙ぎ倒した。この銃火が契機となって、味方の火器は次々に火を吹き、敵は一挙に撹乱されてしまった。敵の陣地は、後方からの攻撃に次々と崩されてゆき、味方の包囲網は次第に狭まってゆく。私も、敵の軍服を脱ぎ、軽機を持って前進していった。
 午前四時半、敵陣は総崩れとなり、敵兵は包囲されて次々に斃れてゆく。四時五十分、敵部隊は潰滅した。私は空地に入った。銃座には人の姿は無い。私は入口の扉の錠を外した。二重扉を開け、兵員室の扉を開けて叫んだ。
「帰って来たぞ! 敵は全滅した!」
 皆は立ち上がった。いや、飛び上がったと言った方が良かろう。皆は、歓声を上げながら要塞から飛び出した。そこには敵兵の姿は無く、友軍の姿があった。
 皆の歓喜の中でも、私は冷静に、すべき事を考えていた。まずトラックを手配して、四人の重傷者を衛戍病院へ送らなければならない。そして、食糧その他の物資も運び込まなければならない。私は九州大隊の大隊長を通じて基地と交渉し、トラックを手配した。
 五時半、トラックが来た。私はこのトラックに便乗して基地へ行き、物資を運んでくる積りだった。
 事は予定通りに運んだ。四人の重傷者は基地でマイクロバスに乗り換えて衛戍病院へ向かい、基地からはトラック三台が物資を満載して基地へやって来た。運んだ物資は、
 ・重機弾 三○○本
 ・小銃弾 七五○個
 ・手榴弾 九○○発
 ・食糧 二五○○食分
 ・その他 石炭、無線機、ハンディトーキー四台、地雷三○○発など
 何と言っても籠城戦に必要不可欠なのは重機弾であるから、一挙に三万発補給しておいた。これでも充分でないことはわかっているから、更に補給しなければならないが。
(2001.2.6)

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