釧路戦記

第二十二章
 皆トンネル掘りに、生存の希望を見出している。トンネル掘りに向かう者の顔は溌溂として、働き終えた後も快い疲れに深く睡っているようである。今までの籠城戦に、皆は何か空しさを感じていたのではないだろうか。「どうせ全滅して終わりだ」というような一種諦めに似た捨鉢な感情が皆の心の片隅にあったろうことは否めない。ところがここへ来て、脱出の為のトンネル掘りである。脱出の望みが、皆の心に活気を与えたのは疑いのない事実だ。真っ暗なトンネルの切り羽――と呼んでおこう――が、皆には輝かしい「生」の世界への扉に思われたのではないだろうか。トンネルは、一日七メートルというかなりの速さで掘り進んでいった。竪穴の下には続々と土屑が落ちて来る。この土屑は、副小隊長室を埋めるのに使われた。小隊長室の方が広くて環境が良いので、小隊長室を病室に充てることにしたのだ。従って、敵の目には一片の土屑さえも見せてはいないのだった。私は河村に言った。
「あの小隊長も、一つだけいい物を残してくれたよ。土の捨て場さ」
 河村も、我が意を得たりとばかり頷いた。
 軽傷を負ってトンネル掘りから外され、銃を持って砲台に登っている兵達は、自分がトンネル掘りに加われないのをやや不満に思っているらしい。軽傷の兵のうち料理が一応出来るのは片山と及川で、二人は浅野、早川、山田に代って炊事を受け持つようになった。
 二十七日の朝、私がトンネルから出てくると、及川が怯えた声で私を呼ぶのが聞こえた。
「小隊長! 来て下さい! 早く!」
 私は梯子を降り、及川に続いて倉庫へ走った。戸を開けると、そこには鈴木が死んでいた。頭を垂れ、胸から腹までを血に染めて。口から吐血している。足元に、猿ぐつわとして噛ませた手拭が丸まって落ちてあり、口を開けてみると肉片があった。私は事情を理解した。舌を噛み切ったのに違いない。
 さて処置はどうする。私は工具を竪穴に戻してから考えた。このまま晒しておく訳にはいかない。荼毘に付すか埋めるかどっちかにしなければならない。……荼毘に? そんな事をしたら兵員室が臭くなってたまらない。どこかに埋めることにするか。
 騒ぎを聞きつけて倉庫へ入ってきた部下達は鈴木が死んでいるのを見て驚き、騒ぎ始めた。私はともかく皆を鎮まらせ、事態を説明してから片山と及川に言った。
「飯の後で鈴木をどこかに埋めてやれ」
 朝飯の後、私と片山は副小隊長室の片隅に鈴木を埋める穴を掘った。数人の手で、縄を解かれた鈴木の体から武器弾薬が取り去られた。山岡が濡雑巾を持ってきて、血に塗れた鈴木の顎や喉を拭き清めた。私と及川、片山、それに谷口は、鈴木の亡骸を副小隊長室の床に掘った穴に納め、埋葬した。それを見届けてから私は眠った。
 籠城戦は二十四日目となったが状況は変わらず、周りは全て敵である。通信も途絶している。本部、いや友軍との接触も不可能に近い。しかし私は、仲間を一人失い、物資も次第に逼迫しつつある中でも、皆は希望と活気を、以前にも増して強く持っていることを心の支えとしている。この日私が掘り始めた時、横穴の奥行きは約十メートルあった。
 物資の逼迫は否めない。この日の朝、弾薬の在庫は
 ・加農砲弾 二○四発
 ・迫撃砲弾 三二二発
 ・バズーカ弾 三○五発
 ・重機弾 一二二本
 ・小銃弾 三五九個
 ・手榴弾 二八七発
 九月三日から今日までの消費のペースからすると、加農砲弾はあと五七日、迫撃砲弾は七五日、重機弾はあと十日、小銃弾は十五日、手榴弾は十四日で底をつく。食糧も七一六食、二十八人で食べて十一日分である。あと十一日でトンネルがどの程度掘れるか。七十メートル前後。その程度では、もし遅れたら敵陣の向こうまでは掘れない。私は肚を決めた。昼飯前、片山を呼びつけて告げた。
「また食い減らしをやる。昼飯から、トンネル掘り要員以外の十七人は、飯とおかずを本来の配給の六割に減らせ」
 食糧を詳しく調べると、朝飯の終わった時点で六七八食であった。これから計算すると、三四食分、十一日分と十二日目の朝飯の分だけだ。これでは約八○メートルしか掘れぬ。ぎりぎりである。計画の立て直しだ。六七八食を余裕を見て十三日で食うのだから、全員の食事を本来の六割にして辛うじて足りる。大変な減食だ。……トンネル要員は十二人も要るだろうか? 極限まで減らせば三人だ、三人では交代要員がいなくなるが六人ならどうか。すると非トンネル要員が二十三人。トンネル要員を六割五分、他を五割五分にすると? 十四日分になる。これでいいか。私は片山と及川に告げた。
「先刻言った食い減らしでは不充分だ。トンネル要員を六人に減らすから、それには今の六割五分、それ以外のには五割五分にしろ。つまり……米は一食に十六合と五勺だ。他はその都度やってくれ」
 二人は頷いた。ところが、案の定不満が出てきた。病室を預る山岡である。
「私自身は別に減らされても困ることは無いです。でも、病室に寝てる六人はどうなるんですか? あの六人が只寝てるだけだと思ってらっしゃるなら、それは大間違いです! 養生中の怪我人や病人ていうのは、健康な人よりも栄養が要るんですよ! この前から八割になって、病室の六人はすっかり元気をなくしてます! 減らされたからです! それを五割五分まで減らすっていうのは、怪我人の現実を知らない人の考えです!」
「俺は後方へ行ってた事があるから怪我人の現実は知ってる積りだ。しかし、一日中寝てる者に、トンネルで働く者と同じだけの飯が要るとは思わん。現に、後方の飯は前線の飯より少なかった」
「五割五分でしたか?」
「……もっと多かった筈だ」
「そうでしょう!」
「それじゃ訊くが、五割五分に減らした場合どうなるんだ? 餓死する訳は無い。フィリピンで俺は今の飯の半分以下の飯でちゃんと生きてきたんだ」
「回復がもっと遅れます」
「回復を早めて何になる?」
「!?」
「この要塞を守るには、実際のところ七人で充分だ。トンネル掘りも、支保工を入れるのをやめたから三人で充分だ。十人、まともに働けるのがいれば今は充分なんだぞ。限りある飯を重傷者に食わせて六人を戦力にしてみたところで、徒らに遊休人員を増やすだけじゃないか? そうした結果トンネルが貫通しないうちに飯が尽きてみろ、二十九人全員餓死だぞ。先に死んだのの肉を食って生き延びるとしてもたかが知れてる」
「……」
「トンネルの長さは百メートル絶対に必要なんだぞ。百メートル掘ると云っても今はまだ十メートルだ。九十メートル掘るには、今までの結果からして十三日は要る。十三日間、何を食っても生き延びなければならんのだ」
「あの六人を餓死させてもですか?」
「誰が餓死させると言った? 今の飯の五割五分なら充分生きられるぞ。これは俺が請け合う」
「……」
 山岡は黙り込んだ。その表情は反抗であった。私は片山に囁いた。
「山岡にどんなにせがまれても、飯を増やしてはならんぞ。もし増やした事が知れたらお前の飯を減らすからな。及川にもよく言っておけ」
 私は昼飯の前、トンネル要員の十一人を集めた。
「トンネル要員は十二人としてきたが、食糧の関係で六人に減らすことになった。従って六人を選ぶ。他の六人は砲台か銃座にでも登ってくれ。
 まず屋代。お前は銃が下手だからな」
 誰かが失笑した。
「次に古川。宇田川。細谷。石田。そして俺だ。他は外す。浅野と早川と山田、昼飯からはお前達三人が炊事当番だ。片山と及川に代れ」
「あの二人の飯は不味いからな……」
 誰かが呟いたようだった。
「食事の量については、片山と及川に聞いてくれ」
 さて昼飯時。大鍋や釜を覗き込んだ時、
「何だこの飯の少なさは!? これで二十九人分か?」
 誰からともなく声が上がる。私は言った。
「トンネルを掘るのに予想以上に日数がかかりそうでな。食い延ばすために減らすことにした」
 ここまでは何も起こらなかったが、
「トンネル要員の、俺と、古川、屋代、石田、宇田川、細谷は皆より多くなる」
 突然、
「ちょっとそりゃどういう訳です!?」
「誰が決めたんですか!?」
「そりゃ不公平だ!!」
「俺達はどうなるんだ!?」
「病室の六人を見殺しにするんですか!?」
「俺達はお前達を救ける役割を負ってんだからそのくらい当り前だろ!」
「危険の多い仕事して飯は少ないんじゃ引き合わないぞ!」
 収拾のつかない大騒ぎになってしまった。中には、
「結局自分が沢山食べたいだけじゃないか!」
と語気荒く詰め寄ってくる者もいた。
 このような重大な時に、上官に対する反目や仲間割れを起こすことは愚かしい。しかし、今に限って言うならばトンネル掘りは敵と交戦するのより重要な仕事である。トンネル要員の食事を減らす訳にはいかないが非トンネル要員が衆を頼んでの行為に出てきたらどうする。
 いつの間にか騒ぎは収拾されていた。皆黙って食べ始めたが、トンネル要員と非トンネル要員の間には明らかに反目が芽生えつつあった。
 トンネルの工事は日に日に進んだ。一人が一時間ずつ一日四回切り羽で掘り進め、他の五人は土屑運びが主な仕事ではあるが切り羽の一人に比べたら閑なものだ。そのような時に様子を見て回ると、非トンネル要員の中にはかなり怠惰なのもいる。私に対する反感が、任務放棄となって出てくるのに違いない。それでも私は、食糧配分を変える積りは無かった。任務放棄している者に食事を与える必要は無い、という考えも頭の中にちらついた。
 九月二九日の昼過ぎ、私は竪穴の下で、桶に積もっていく土屑を眺めながら鞴を踏んでいた。と言うのは、トンネルが延びるにつれて、先の方の換気が悪くなるということに数日前、気付いたことによる。トンネル掘りは重労働だ。狭い切り羽の先で重労働をすれば、すぐに酸欠で息苦しくなる。それを防ぐために、足踏み式の簡単な鞴を作って、ゴム管で切り羽へ風を送り込むようにしたのだ。これは切り羽の息苦しさを和らげると同時に、土屑を幾らかは吹き飛ばす効果もあった。この頃トンネルの長さは二十メートルを越え、トンネルの中には切り羽の他にも二人いて、土屑を中継して竪穴まで送っている。
 不意に砲台から、三人ばかりが争う声が聞こえてきた。不穏な雰囲気だ。仲間割れの喧嘩か? 耳を澄ましてみると、全く筋の通っていない、錯乱したような声が一つと、それを押えつけようとする声が二つある。錯乱しているような声の主は山口だ。
 また狂ったのか。塹壕病か。私は鞴を石田に任せ、綱を探しに走った。銃と綱を掴んで竪穴に駆け寄り、梯子段に取りついた時、小銃を乱射する音が降ってきた。私の背中に、冷たい物が走った。山口が狂って乱射したか、でなかったら誰かが山口を射ったか、どちらかだ。と思った瞬間、上から山口が落ちてきた。私は体を壁に張りつかせた。山口の体は私をかすめて落ちてゆき、土屑の山の上に落ちた。落ちた時山口は全く声を立てなかった。これは変だ。私は梯子から飛び降りた。土屑に半ば埋もれた山口の顔は、小銃の弾丸を数発浴びて血を噴いていた。私は山口の喉に手を当てた。脈は無かった。
 私は銃と綱を持ち直し、梯子段を駆け上がった。砲台には酒井と荒木がいた。私は二人を怒鳴りつけた。
「誰が山口を射ったんだ!!?」
 荒木が答えた。
「山口が、自分で、射ったんです」
 酒井が続けた。
「三人で並んで射ってたら突然暴れ始めて、押えつけようとしたら、いきなり小銃で自分の顔を射ってそのまま落っこってったんです。あっという間でした」
 私は足どりも重く梯子段を降りた。山口の血は岩屑に滲み、次第に広がってゆく。私は浅野と早川と山田を呼んだ。
「浅野、早川、山田。鶴嘴とシャベルだ。山口が死んだ。どこかに埋めるんだ」
 やがて副小隊長室に穴が掘られた。私と浅野が山口の遺体を運び、穴に納めた。酒井が降りてきて、山口の遺体を埋めた。
 これで二人、狂死してしまった。二人とも、ここに来た時は全くの新兵であった。二人がここに来た時からの私の懸念が現実のものとなってしまったのだ。
(2001.2.6)

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