釧路戦記

第二章
 私は目を覚ました。もう朝だ。腕時計を見ると七時二○分。列車は、大沢に停車している。隣に坐っている石田は、まだ睡っている。
 向いに坐っている谷口と目が合った。
「よく睡れたか」
「はい」
 汽笛が聞こえて、列車は動き出した。
「大沢か」
 谷口が呟く。私は言った。
「お前、この辺の出身だってな」
「ええ、この先の赤湯の生まれです。最近南陽市になった町です」
 石田が目を覚ましたと思うと、出し抜けに言った。
「腹が減って寝てられない」
 谷口が苦笑する。
「他の連中はどうしてるかな。見てこよう」
 私は席を立った。私の席は一号車の中程だが、前の方に小笠原と宮川と片山、それに石塚とその部下の鈴木と山村と桐野がいる。二号車に行くと、河村とその部下の貝塚、磯部、西川、橋口、それに三木とその部下の荒木、五十嵐、君塚がいる。三号車には酒井、寺田、林、三木班の古川、細谷、それに石塚班の山本と岸本、三木班の和田がいる。ここまでで二十七人。四号車へ行くと、後ろの方に宮島中隊長と本部班の秋山参謀、宮本参謀、吉野、松本、それに吉川小隊長とその本部班の浅野、小林がいる。
「矢板です。員数確認してきました」
 私は別に員数確認を命じられている訳ではないが、一応こうして報告しておく。
「御苦労。異常なしか?」
「はい。矢板班七名、河村班七名、石塚班六名、三木班七名、以上二十七名、異常ありませんでした」
「よし、わかった」
 私は一号車へ戻った。
「異常なしだ」
 やがて米沢に着いた。二十分停車と車内放送が告げる。石田はいそいそとホームへ降り、立喰そばの屋台へ走る。
「石田の喰い意地は並じゃないな。どれ、俺達も腹ごしらえといくか」
 私と谷口もホームへ降りた。
 七時五八分、私達は再び車中の客となった。列車は坦々と走る。煤けた窓から外の景色を眺めているうちに、いつとはなし眠っていた。
・ ・ ・
「討伐隊」に加わった私には、「一二三一五番」という番号が与えられた。加わった後も、私の生活は激変した訳ではなかった。ただ、私の工場に放置されていた旋盤やプレス盤は、隊の人達によって修理され、五月下旬には使えるようになった。当面の隊の運営資金として、五万円ばかり拠出金が徴収された。「利益が上がるまで」と言うのだが、いつ、何によって利益が上がるのかとその時は思った。
 六月の初めになって、本部兵站部長の長谷川という人が工場を訪ねてきた。
「矢板君、頼みがあるのだが」
「何でしょう?」
「この設計図通りの銃を作って貰いたい」
といきなり設計図を見せられた時は正直言って面喰らった。
「これをですか!?」
「そう。資材はこちらで供給する。是非とも作って貰いたいのだ」
「難かしそうですねえ……何かえらく複雑な仕組みになってますね」
「我が隊では個人武器は機関銃を主とすることを決めたのだ。難かしいかもしれないが頼む。何しろ、機関銃を作れそうな工場は君のところだけなのだ。今年中くらいに作ってくれればいい」
「やってみましょう」
 これは少々面倒なことになるなと思った。何を作っているのかが近所に知れたら最後だ。機密保持に全力を挙げねばならない。だとしても、ここまで私の腕を見込まれたとなれば、これは工場主冥利に尽きる。と同時に、私の所で武器が作れなければ、討伐隊の前途は暗澹たるものになってしまうのだ。私の肩に懸った重責に、私は武者震いする思いだった。
 翌日、トラックがやってきた。荷台には鋼板や鉄管などが積まれている。本部から派遣されてきた倉持、磯部という二人の工員を手伝って、資材を下ろす。私の工場にはない溶接機なども積んである。
 私の工場に活気が戻った。工場に放火されて以来、物音の途絶えていた工場は、旋盤やプレス盤の唸りで賑やかになった。倉持と磯部は私の家に泊まり込んだ。平常を装うため、工場での作業は昼の間だけにした。それにしても、一ヵ月半の間に、機械を動かす感触をかなり失っていたのには閉口した。そこで、初めのうちは弾倉や銃把などの簡単な部分をやり、精度コンマ一ミリの精密さを要する機関部の製作は後回しにした。四十を過ぎた私と違ってまだ二十代の二人は精力が溢れている。私も二人に負けないよう頑張ったがやはり年の差だ。夕方になると二人は元気なのに私はげんなりしてしまう。
 機密漏れを防ぐために、昼間外から見える階下の工場内では、プレスや旋盤加工だけをやり、組み立ては夜になってから部屋で行った。一見特別な物を作っているようには見えないので、あまり不審に思われずに済んだろうと思う。
 七月末には、トラックで搬入された資材は無くなった。機関銃は、七十二挺できた。私の軽トラックに、分解して麻袋に入れた機関銃を積み込み、上から布を被せて外から見えないようにした。私が運転し、磯部が助手席に、倉持は荷台に乗った。
 本部に着いた。「○○産業」という表札が出ている。勿論、全くの偽名だ。駐車場に車を入れ、二人に荷を卸させて、私は長谷川兵站部長を呼んで言った。
「例の物はできました」
 部長は、車から卸された麻袋の中身を見て、満足気に頷いた。私は銃を一挺建物の中へ持って行って、部長の前で組み立てた。
「ドライバー一つで、五分で分解も組み立てもできます」
「うむ、良くできてる。明日当り試射してみよう」
「どこでやるんですか? 河原なんかじゃ無理ですよ。すぐ見つかってしまう」
「そこらの山の狩猟区だ。連射しなければ猟銃と同じ音だ。誰にもわかるまい」
「今は禁猟期だったと思いますが……」
 兵隊時代の戦友で、時々猟をしている人から聞いた話を思い出した。
「そうだったか。……考えておこう」
 私は先頃から気になっていた事を言った。
「この材料費はどこから出てるんですか? 私の見積だと一挺で二千円くらいになると思うんですが……」
「それは機密だ」
「……」
「絶対に口外しないと言うのなら教えても良い。……革命軍のだ、麻薬取引現場を襲って強奪してきたのだ」
 私は息を呑んだ。想像だにしなかった資金調達法である。
「そ、それじゃ、いつ警察が……」
「その心配はない。考えてもみろ、革命軍は警察に被害届など出せないのだ。麻薬密売で得た金だぞ。革命軍の方が先に捕まる」
「……」
「決して犯罪によって得た金ではないのだから安心しろ」
 実際その通りだ。警察が密売組織を摘発するのと同じ事を、民間人がやっただけなのだから。
「その麻薬は……?」
「全て海に捨てた。我々は社会浄化に貢献したのだ。決して犯罪ではない」
 我々は正しいのだ、少なくとも麻薬の流通をいくらかなりとも抑えたことは。そして、革命軍の跳梁跋扈に対し、ある程度の打撃を与え得たことは。金を奪ったことは、それ自体は悪であるとしても、その金が革命軍撲滅のために使われるなら、決して悪ではないのだ。この事は、機関銃についても言える。機関銃を作れば犯罪とされることを知らない訳ではない。しかし、作っている間は、後ろめたさどころか興奮をさえ覚えていた。「俺が作っているこれが、愛しい文子を、未来ある信一を、由香理を殺した奴を殺すのだ!」というような。いや、それよりも、「これがこの世の悪を根絶するのだ!」という強い正義感に燃えていたと言った方がいい。
・ ・ ・
 新庄で目を覚ました。十一時二十分だ。昼飯時には幾らか早いが、朝から寝ているので全然腹が空いてない。他の二人はと見ると、石田は駅弁売の声で目を覚まして窓から身を乗り出して弁当を買い、谷口がそれをからかう。
「石田、喰って寝てばかりいるのにどうして肥らないんだ?」
「肥らないから喰ってるんだよ」
 そう言い合いながらも、谷口も弁当を買って広げている。
「石田、弁当喰ったら窓閉めろよ。ここらは蒸気機関車だから」
 谷口が言う。駅のあちこちに蒸気機関車が煙を噴き上げている。
 新庄を発車した列車は尚も北へ北へとひた走り、やがて窓の外は夜になった。吉川小隊長が来て、私に言った。
「青森で、零時一○分の船に乗る。この列車を降りたら、ホームの駅寄りに集まれと」
 石田が小隊長に尋ねる。
「船を待つ間に、夕飯食べられますか?」
 谷口が石田を突っつく。小隊長は笑いながら答えた。
「もう遅すぎるな。弘前あたりで何か喰っといた方がいいぞ」
 石田が弘前で駅弁を買ったのは言う迄もない。私は車内を巡って員数確認をし、朝と同じように中隊長に報告した。
 午後十時、列車は青森に着いた。大宮から一昼夜近い汽車旅であった。
 私は部下を集め、五番ホームの駅寄りへ行った。全員揃っていることを確認した後、中隊長は言った。
「二三三○に、第一乗船口だ。それまで、飯を喰いに行っていい。ただし、単独行動はいかん」
 私は、中隊長達が話しているのを立ち聞きしていた。
「矢板が員数確認してくれて、手間が省けて助かったよ。何しろ、儂には全隊員はとても覚え切れんからな」
 中隊長の声だ。
「あんな点数稼ぎ、褒めてやる事ないですよ」
 これは宮本参謀。彼は中隊の中では余り人気がないようだ。直属の部下というのはいないから何とも言えないが。
「そう悪く言うなよ」
 秋山参謀の声だ。
 改札口を出てはみたが、夜の十時では駅弁売もいないし、立喰そば屋も閉まっている。やはり小隊長の言った通りだった。
 十一時半になった。私は改札口を入って、連絡船待合室へ行った。仲間がもう何人も集まっている。やがて乗船口が開いた。私達はタラップを渡って、連絡船に乗り込んだ。私は大型船に乗るのは実に引揚以来だし、北海道へ渡るのは生まれて初めてだが、ここまで来ても、浮ついた気分には全くならない。それどころか強い緊張感に身が引き締まる思いがする。
 この船は函館に四時二○分に着く夜行便なので、食堂も何もやっていない。私は座敷席へ直行し、手提鞄を傍らに置き、寝転がって備え付けの毛布にくるまった。終戦直後に乗った引揚船の船底船室と比べると、船旅も楽になったものだ。エンジンの音が床下から響いてくる。
・ ・ ・
 四十年の八月から、私の工場は軍需工場さながらとなった。常時五人から七人の工員――むろん私もだ――が立ち働き、機関銃の機関部を作っている。他の部分、銃身や弾倉などは別の工場で作っているらしい。機関銃の機関部というのは、数ある武器の中でも特に精密な工作を要する部分である。この精密部分の生産を、私の工場は一手に引き受けているのだ。私の工場が討伐隊の死命を制するのだと、兵站部長は繰り返し私を激励してくれた。自ずと作業にも熱が入る。三日に一度はトラックが来て、材料を置いていき、製品を持ってゆく。四十年中に私の工場で生産したもの。口径十二・七ミリの大型機関銃――これは本で調べてみたところ、アメリカ陸軍のブローニングM二という重機関銃だった―六百五十挺、ただし、機関部だけである。他の部分は全て、他所の工場で作って、それをまとめて組み立てているらしい。口径七・六二ミリの機関銃――私が最初に作って納入したもの―二千三百五十挺、これも機関部だけである。私が工場で、総力を挙げて機関部の生産に取り組んでいる時、他の工場でも同様に、銃身や弾倉の生産にいそしんでいるのであろう。私は他の工場の所在を知らないから詳しいことは知らない。部長に訊いても「重要機密だ」と言って教えてくれない。
 年が明けて四十一年になると、一層生産は活発さを増した。一年間で十二・七ミリ重機二千五十五挺、七・七ミリ短機六千五百挺を生産した。週に二回、段ボール箱に詰められてトラックで運ばれていく機関銃――一回に百挺近い数だ――を見ていると、近代戦争というのは消耗戦、物資の戦争であることを実感する。長谷川部長に訊いてみたところでは、夏になって機関部を作る工場が一ヵ所操業を開始し、銃身や銃把の工場が三ヵ所、メッキ工場が一ヵ所、弾倉工場が十ヵ所、弾丸工場が三ヵ所、他に薬莢工場が十ヵ所、火薬工場が二ヵ所、火薬を薬莢に詰める工場が六ヵ所、雷管工場が十ヵ所、手榴弾工場が十ヵ所、手榴弾に爆薬を詰める工場が三ヵ所、迫撃砲工場が一ヵ所、被服工場が三ヵ所、銃剣工場が二ヵ所、合計六十六ヵ所に工場があり、本州と北海道に散らばっているのだという。
「革命軍の工場は、大きいのが二、三ヵ所あって、火薬から銃の本体まで一貫して作っているらしい。そうすると君、我々が襲撃するとしたら、当然工場を叩くね?」
「そうでしょう。一ヵ所を叩けば大幅に生産力が下がりますから」
「そうだ。つまり敵も同じことを考えているわけだ。だから、小さい工場をたくさん作り、うんと分散させておくわけだ。君の所ぐらいの規模の工場は数ヵ所しかないよ。他はそれこそ六畳一間くらいの工場だ」
 一月のある日、本部に呼ばれた。部長は私を別室に連れて行った。やや機嫌が良くないようだ。
「先月末に納入された製品が、どうもおかしいぞ。時々、連射にすると弾が引っかかるのだ。非常に危険だ。重大な問題だぞ」
 私の製品に限って……と言おうと思ったが止した。
「確かに君のところの工場は、生産のペースは非常に早い。兵站部の予定を大幅に上回るくらいだ。それは勿論褒めるべき事ではあるがな、いつ故障するかわからん銃を、どんなに沢山生産しても使い物にならんのだ。引っかかる銃は返すから、徹底的に再加工してみてくれ」
 私は二百挺余りの銃をトラックに積み込んで工場へ帰り、事の次第を工員達に話した。
「そういう訳だから、今後はより慎重に作業に当たって貰いたい。まずは、機械をよく調べる。機械が狂っているといい製品はできないからな」
 私の勘は外れていなかった。旋盤の刃の摩耗や研磨機の各部の緩みで、機関部に十分の一ミリ程度の狂いが増えたためであった。私は早速機械のオーバーホールを行った。翌日からは前にも増して高精度の製品ができるようになった。
 時期は多少遡る。
 四十年十月のある日、製品を届けに行った私は、川崎と名乗る私と同じ年頃の男に呼び止められた。彼は言った。
「この次の月曜日朝九時に、多摩川の丸子橋に来るように。汚れてもいい服装でだ。工員にも伝えてくれ」
 何か仕事でもあるのだろうか。私は半信半疑ながら、工員達と一緒に、月曜日の朝、丸子橋へ行った。
 ここに出頭を命じられたのは私達だけでは無かった。数十人の男達でごった返している。やがて川崎は私達を整列させると、点呼した後、リンゴ箱の上に立って皆を前に話し始めた。
「君達が今、工場で生産している銃や手榴弾は、全て、来たるべき革命軍との戦争のために生産されている物だ。そして、その銃を革命軍に向かって発砲し、手榴弾を革命軍に向かって投ずる者は誰か。君達だ」
 ざわめきが起こった。川崎は話し続けた。
「君達を、革命軍との戦争を遂行し得る立派な兵士たらしめるために、今日から二ヵ月間、基礎訓練を行う。
 まず今日は匍匐前進の訓練を行う。敵に発見されないように接近するために絶対に欠かせない技術だ。あそこの白線の所に、両手間隔六列縦隊に並べ」
 匍匐前進の訓練というのは、ブロックを重ねて三十センチの高さにした上に板を橋渡しにし、その下を這ってくぐるのである。十五メートルばかりの距離を三十秒で通過するというのを、ぶっ続けに三時間やった私達はすっかり疲れてしまった。
「よし止め。五分間休憩」
 この号令の何と有難かった事か。しかし五分間の休憩が終わると、今度は板は無いが片道百メートルを立て続けに十往復。膝がガクガクするというのはこういうのを指すのだろう。
「今度は水曜日にここへ集合。朝九時だ」
 私は疲労困憊の体で工場へ帰り着いた。
 一ヵ月も経つうちには体が慣れてきて、三十キロの荷を背負って十キロ歩くというような訓練も息切れ一つせずできるようになった。この頃からモデルガンを使って射撃訓練を重点的に行うようになった。太平洋戦争に敗れて二十年、私にとっては久し振りの銃である。三年間使っていた三八式歩兵銃に比べて短く、持った感じが全く違う。しかし私はすぐに、この新しい銃に慣れることができた。
「本物の銃に実弾を入れてやるのが一番いいんだかそうもいかないからな。そんな構え方じゃ反動で肩を壊すぞ!」
 プラスチックの弾をバネで飛ばすのだから反動なぞまるで無い。実物は火薬を使うから反動は極めて強く、軽機関銃を、銃身を全く動かさずに連射するなどというのは至難の技である。モデルガンとは言っても鉄製で、重さは本物並みであるから振り回す練習にはなる。私は陸軍時代は、射撃演習の成績が常に班(八人程度)で一番、小隊(三十人)でも五指に入るという腕前で鳴らしていたものだが、二十年経っても腕前にはいささかの衰えも見られなかった。十発撃って十発とも十点満点を射ち抜くという、他の誰もできなかった事をやった時には、川崎にも大層褒められた。
 十二月のある夜、私のもとに電話があった。
「両国工場長の矢板だね。本部の川崎だ。選抜試験をやるから、明日朝九時に多摩川の関戸橋――京王線の中河原駅の近くだ。そこに、モデルガンを持って来るように。工員も 皆一緒だ」
 私は翌日、三人の工員と共に、トラックで関戸橋へ行った。
 行ってみると、私達の他にも何十人もの人々が集まっている。やがて、川崎が皆を前に話し始めた。
「皆モデルガンで射撃練習を積んできた。今日これから、選抜試験を行う。優秀者は実戦部隊に配属される」
 ざわめきが始まった。私は思った。
(俺のような射撃上手は当然実戦部隊だろうが、しかしあの工場は俺が抜けたら生産力がかなり低下するだろうな)
 試験は立射、腰だめ、伏射、連射、それに手榴弾の投擲の五種目が行われた。投擲は歳のせいで少々劣るが、射撃はお手のものだ。いずれも十点満点で十発撃って立射九八点、伏射九七点、腰だめ九二点、連射七九点。連射は兵隊時代にもあまりやらなかったから、いささか劣る。投擲は五点満点で十回投げて四十点。
 射撃四種では総合得点三六六点だったが、集まっている約五十人のうち、三○○点以上は二十人くらい、三五○点以上は数人しかいなかった。これで実戦部隊配属は殆ど決まったものと思う。
(2001.1.26)

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