目の前に、青い機関車に牽かれた客車列車が滑り込んできた。私はそれに乗り込んだ。手には黒い大きな手提鞄。人は私を、帰宅途中の町工場の工員とでも見るか。一見してごく普通の中小企業の従業員だ。後ろに二人、似たような身なりの、手提鞄を提げた三十くらいの男がいる。私の部下、頼りになる男達だ。
　腕時計を見る。時刻は午後十一時二三分。ここは大宮駅の東北本線ホーム、私と二人の男が乗ったのは青森行夜行鈍行四二一列車だ。一号車の中程の向い合わせの席に三人で坐る。
　遠く機関車の汽笛が聞こえてくると、列車は動き出した。実に古い車両で、背ずりに綿が入っていない。少々寝にくい車両だが我慢する。今列車は蓮田を発車した。目を閉じて眠るよう努力する。次第に睡気が忍び寄ってきた。 　……私の脳裡に、二年前のあの日のことが浮かび上がってきた。忘れえもせぬ、あの日のことが。あの日、それまでの私は消え失せ、今の私が現れたのだ。
　私は、東京墨田区、両国にほど近い所で、従業員五人の小さな町工場を経営していた。生活はごく普通なもので、同い年の妻、高校生の息子、中学生の娘がいる、ごく普通の家庭を営んでいた、その日までは。
　昭和四○年三月二一日、未明であった。まだ暗い午前五時、私は目を覚ました。妙な音がする。何か妙な臭いもする。いわゆる「きな臭い」というあの臭いである。何だろうか。床から起き上がった。私の部屋は工場の中にあり、家族のいる母屋に隣り合っている。寒い。綿入れを羽織り、窓から母屋の様子を見た。
　息を呑んだ。母屋が燃え上がっている。階段を駆け降り、母屋に飛び込んだ。
　火勢は激しい。煙でよく見えない。
「文子！　信一！　由香理！」
　声を嗄らして叫ぶ。答えはない。床に這うようにして電話台に近づく。受話器を取る。一一九番を回す。通じない。電話線が切られている。何者かがペンチか何かで切ったのだ。歯ぎしりする。外へ行くしかない。玄関に着く。錠を開ける。戸を開けると消防車のサイレンが聞こえた。消防車が二台やってくる。
　外へ出る。二階が激しく燃えている。消防車が放水を始めた。年配の消防士が車から降りて来て訊く。
「誰かいますか!?」
「家族が！　家族がいる！」
　何年来なかったほど私は興奮していた。野次馬が集まり始めた。私は殴りつけたいほど腹が立った。家が燃えている者の身になってみろ。
　パトカーがやって来た。
　……やがて鎮火した。私はまだ煙のたちのぼる焼け跡に立っていた。警察官が現場検証を始めた。野次馬は三々五々去りはじめた。
　私の足は軟かい物に触れた。私の目に入ったのは変わり果てた息子の姿であった。私はくずおれて慟哭した。親に似ず頭が良く、この春大学に進学が決まっていた。私と妻の期待をうけ、まわりからも期待されていた前途有為な息子の信一。その未来ある命をここに散らそうとは。あとからあとから涙があふれる。今は哀惜の念よりない。息子よ。
　妻と娘も、屍となって発見された。元来私は涙もろい方ではないが、この時ばかりは心の底から泣いた。若い命を火魔に散らした子供達が哀れでならなかったからだ。 　私は家族を失ってしまった。家も失った。残ったのは工場と、それに付いている私の部屋だけだ。その日私は、一日中部屋で何するともなく寝転がっていた。空しさ、寂しさ、悲しさ……。
　夕方、新聞を開くと、記事に目が止まった。


　不意に頭に血が上るのを感じた。何者かわからぬ、その男に対し、言葉に表せない程の怒りを感じた。私は猛然と新聞を引き裂き、床に叩きつけた。いつの日か殺してやる。その男を呪った。 　私は目を覚ました。怒りに身が震えている。列車は小山駅に滑り込むところだ。心が落ち着いてきた。今まで何度この夢を見たろう。目がうるんできた。部下も寝ている。目を閉じる。 　あの日から三日後、犯人は逮捕された。その男は左翼団体「新日本革命軍」構成員、佐藤博之（三八）で、調べに対し「右翼団体『忠誠会』の者に事務所に投石された報復に放火した」と自供した。この右翼団体事務所というのは私の家と通りを隔てた所にある。間違いだろうが、その間違いが無辜の三人の命を奪ったことを知っているのか。猛烈に立腹した。
　逮捕の翌日、私は新日本革命軍を訴えた。損害賠償と慰謝料とを。実際、ああいう団体を訴えたところでどうなるものでもないとは思ったが。案の定、私の家に対していやがらせが始まった。まず電線が切られた。次には無人車が突っ込んできた。私自身も何度か襲われた。私は空手二段の腕があるからその度に追っ払い、怪我したことはなかったが。そして一ヵ月ばかり経ったある日、また放火された。この時は工場の機械を焼かれ、操業不能になり、工場は閉鎖に追い込まれた。
　うち続くいやがらせに私はついに思いつめた。こうなったら力には力で対抗するしかない、と。勿論相手は超大規模な無法集団だ。広域暴力団数個分と、並の左翼団体数十個分を合せたくらいの勢力はある。私一人でどうなるものではないということは知っていた。そこで考えた、「団結あるのみ」と。
　翌日、私は封書を受け取った。差出人は書いてない。
　封を切ってみると便箋が一枚入っていた。


　私は嬉しくなった。私と同じように悲しみ、そして怒る人がいることを知ったのだ。
　私はすぐさま、トラックを運転して八王子へ向かった。河村という人の家はすぐ見つかった。河村は三十くらいの、聡明そうな男であった。
「矢板です。お手紙頂きました」
「ようこそ、おあがり下さい」
　私を迎え入れると、河村は切り出した。
「私に賛同してくれる人が一人でも増えて幸いです」
「増えて、と言いますと？」
「実はですね、私と同じ趣旨の人が、約一万人集まって組織を作ってるんですよ。私はその組織の、東京支部員というわけで」
「一万人！　…そんなにですか」
「そうです。何しろあの革命軍て奴は全国組織のうえ図体がバカでかく、年がら年中どこかで抗争やってるバカ団体なもんで、いや失礼。とにかく私や矢板さんのような巻きぞえの市民が跡を絶たないんですよ」
「その組織の名前は何て言うんですか？」
「ずばり、『討伐隊』です。あの革命軍の奴を討伐する思いを込めて名付けたんです」
　彼は革命軍の名を口にする時は露骨に嫌な顔をし、憎々しげに言う。もし私が全く何でもない者なら、彼を過激派だと思ってそれだけかもしれないが、今の私にはこのことに対する「公正な」判断力なぞは失くなっていた。だから彼には心から同調したのであった。
「そりゃいいですね。その心意気ですよ」
　彼は私を見つめて言った。
「矢板さん、隊に加わってくれますか？」
　私は反射的に叫んだ。
「加わります！」
　この時、私は普通の一市民の私、放火の被害者の私から脱却し、復讐者の私と化したのだった。
「ありがとう！」
　彼は私の手を握った。
「私の家は鉄工場です。機械は放火された時に焼けて使えなくなったんですが、修理できると思います」
「それは助かった！　今の隊にはそういう機械が少ないから何も作れないんですよ。矢板さんが加わってくれて大助かりです。早速本部に知らせましょう」
　この日――昭和四○年四月二九日は私の生涯に残る日となろう。私はこの日から新しい私となったのだ。次の日、私は依頼していた弁護士に、訴えを取り下げることを告げた。弁護士は驚いたようだった。
「あなた、泣き寝入りするんですか!?」
「いやがらせがひどすぎるんです。また放火されるくらいじゃ済みませんよ」
「あなたはそれじゃ、悪に迎合するんですか。訴えを取り下げたって、必ずやりますよ。やられ損じゃ何にもならないでしょう」
「とにかくやめたんです」
　勿論私は、泣き寝入りなどしたのではなかった。法から離れ、法によらずに戦う決意の表明であった。