岩倉宮物語

第五章
 年は改まって、一月の末の事であった。五日ほど続けて欠勤していた少将が、久し振りに参内して来た。帝は早速少将を御前に召したが、御前へ向かう少将の足取りは、端目にもわかる程重かった。その理由は、私にはよくわかっているのだった。
「頭痛という事だったけど、もう大丈夫なのか」
 帝の声が聞こえる。この声、少将が出仕したばかりの頃に比べて、随分他所々々しくなっているのに、私は昨年から気付いていた。
「はい。どうやら、この冬の寒さで体調が狂ったようで、申訳ございません」
 少将の返答も、全然気の乗らない声だ。少将がこんな返答をするのも、訳あっての事なのである。
「体調が狂ったのは、そのせいばかりではないだろう。色々と忙しくて、休む間もないようだし」
 帝の声には、明らかな皮肉が感じ取れる。
「顔色が良くないようだが」
「は、恐れ入ります」
「三の君は看病して下さらないのか」
「は、実家で休んでおりまして……」
「成程。病の時位実家に帰らねば、父君もお寂しいだろう。毎日、中御門殿に入り浸りではね」
 そう、帝は、少将と祐子の結婚を皮肉っているのだ。本当に、皮肉さえ言わせれば右に出る者はいない、と思わずにはいられない。
「参内しても、時間が来ると、すぐ退出してしまう。楽器自慢が揃ったので、一曲合わさせようと呼びに行かせても、もういない。人数が揃わないので、もう何度も合奏が流れ、皆々物足りない思いを味わっている」
 確かに少将も、中御門殿と内裏を脇目も振らずに往復するだけの毎日で、端から見れば余りにもこれ見よがしの熱々の新婚生活を送っているように見える。少将の正体を察している私から見れば少将は、絶対かつ永遠に我が子を抱く事のできない定めを負った祐子に対するせめてもの罪滅ぼしに、精一杯の愛情を――光源氏が当初紫上に注いだように――祐子に注いでいるのだろうが。しかしだからと言って、帝がそれに皮肉を言う筋合いはない。それなのに帝は、
「新婚当初は、誰しも公務に身が入らないというが、これ程なのは珍しいのではないか。蔵人少将なども、綺羅は付き合いが悪くなったとこぼしている。結婚は結婚として、親友まで蔑ろにするのは、傍目から見ても気持の良い物ではないね」
 少将は何も答えない。答える気にすらならないのだろう。
「当代一の公達である綺羅を、それ程惹き付けるとは、余程三の君は素晴らしい方らしいね。綺羅がこれ程執心する程の方であれば、やはり、何としても後宮に来て頂くのだった、と後悔している。私は諦めが良すぎたようだ」
 聞き捨てならぬ事を言う。既成事実(本当の「事実」ではないが……)の出来上がっている姫に、まだ性懲りもなく懸想し続けているのか、この「ド腐れ外道」めが!?
 少将は溜息をついたらしい。帝の声が一層他所々々しくなった。
「つまらないようだね、綺羅。それ程、出仕するのは気が進みませんか」
「とんでもありません。どうして、そんな事がありましょう。私は以前に変わらず……」
「そうだろうか。来月の二月と言えば、色々と宮中行事も多く、忙しいというのに、綺羅は休暇を願い出ているだろう」
「それは……い、家の者が、長谷詣を望んでおりまして……」
「家の者とは、誰? 実家の堀川殿の方か」
 帝の追求に、少将は口籠って、
「姫、いえ、妻が……」
 すると帝は、明らかに感興を害した声で、
「二月は行事も多く、忙しい。綺羅も、右近少将として陣に詰めねばならぬ事が多い筈。いつ迄も子供ではないのだ。高官として、公務を優先させる思慮を持ちなさい」
 これは明らかに嫌がらせだ。二月は、それは確かに行事の多い月ではあるが、去年左少将と衛門佐が金峯山へ詣でたのは、二月の末だった。去年の左少将なら良くて、今年の右少将は駄目というのは道理に合わぬ。全く、これが苟くも帝の地位にある者の所業か。
 少将は、昨年の先例を引いて帝に抗議する気にもならないのか、すっかり腐った様子で退って来た。殿上の間にいる気にもならないのか、さっさと出て行こうとする。
「右近少将、どこへ行かれるのです」
 私が呼び止めると、少将は答える。
「藤壷へ参ります」
 私は腰を上げた。
「では、私も」
 少将はこの頃、藤壷によく出入りしているらしい。参内する度に帝に嫌味ばかり言われるので、その憂さ晴らしに、従姉に当たる藤壷女御の許へ通うようになったらしい。
「帥宮殿はどうして、私を綺羅とお呼びにならないのですか」
「既に元服して、ちゃんとした名乗りを持っておられる方を、童名で呼んでは失礼でしょう。そう呼んでくれ、と言われるのならそうお呼びしますが」
 などと話しながら、後涼殿の方から藤壷へ入ってゆくと、既に蔵人少将が来ていた。
「おや、綺羅。それに帥宮殿もお揃いで」
 ま、確かに揃ったな。後宮の人気を集める若手公達三人の揃い踏みだ。私達の到来を聞きつけて、女房達がどっと集まって来るのがわかった。
「今丁度、女御様と君の噂をしていたんだ」
 蔵人少将は、親しく少将に声をかける。
「私の噂など、どうせ悪口でしょう」
 少将はまだ少しふて腐れているのか、拗ねたように言って円座に腰を下ろした。蔵人少将は笑って、
「悪口なんて、とんでもない。君が出仕しないので、ここ数日、主上の御機嫌が悪かった、と話してたのさ」
「たった今、散々苛められて来ました。こんなに憎まれていては、出仕が辛くなりますよ」
 少将は本音を漏らした。蔵人少将は、
「主上は三の君に嫉妬していらっしゃるのさ。ねえ、女御様」
と、簾中の藤壷女御に同意を求める。藤壷は微かに笑って、
「綺羅さんは、これ迄誰よりも熱心にお仕えしていらっしゃった方でしょう。それが、ぱったりと内裏に背を向けて、妹の処にばかりお通いになるんですもの、お寂しいのですよ。女が入ると友情はみるみる遠ざかるという諺通りだと、この前も愚痴をおこぼしになって」
 友情、かねぇ? すると蔵人少将は、
「何せ、君は主上のお気に入りだからな。口の悪い連中は、奇しの恋ではないかと言っている」
 まただ、聞きたくない言葉を聞いてしまった! 私の表情の変化に気付かなかったのか少将は肩を竦め、
「馬鹿々々しい。これ程お美しい女御様がいらっしゃるのに、奇しの恋などと申しては、こちらに対して失礼でしょう」
「おや、一本取られたな」
 蔵人少将は笑い出し、しかし、ふっと真面目な顔つきになった。
「しかし、君の結婚で、色んな方角に差し障りが出てるのは確かだ。第一に、私だよ。君が滅多に堀川殿に帰らないから、君にかこつけて遊びに行く口実がない。ますます綺羅姫から遠のいてしまった」
「蔵人少将さんは、まだ綺羅姫に御執心ですの」
 藤壷が尋ねると、蔵人少将は身を乗り出し、
「勿論です。唯一筋に思い焦がれているのです。綺羅にも、何度も仲介を頼んでいるのに、友達甲斐のない奴で、全然取り合ってくれない(私が少将だとしても、蔵人少将のような漁色漢に姉妹を委ねようとは思わないぞ)。そのうち、忍び込んで既成事実を作ってしまおうかと、思い詰めている位ですよ」
 そんな事をしたら無事でいられると思うな、と口走りそうになった時、少将が慌てて、
「蔵人少将! 君、そんな事をしたら絶交だからねっ」
 声がかなり上ずった。そうなるのも尤もだ、と思っていると、蔵人少将はからかうように、
「君は妹思いだからね。下手したら、殺されかねないな。しかし、何だってそう、出し惜しみするんだ。このままじゃ、本当に売れ残って尼になるしかないよ。君に瓜二つというのなら、凄い美人だろうに」
「おと(えっ!?)……妹は、朝な夕なに、兄の私を見て育ちましたのでね。理想が高いのです。そこいらの少将風情では、相手にならないと思っているのでしょう」
 少将の片言隻句が耳底に残って、会話に加われずにいる私を他所に、二人は言い合っている。
「言ってくれるね。私と君では、私の方が落ちるとでも言うのか」
「御簾の中の方々に、伺ってみましょうか」
「それは駄目だ。君は新婚だろ。今、宮中の女性の間では、人気が急落しているんだ」
「では、貴方も御同様でしょう。今日はこちらの女性、明日はあちらの女性と、毎日が新婚の連続の筈」
「こりゃ参った!」
 どっと湧き起こる哄笑。しかし何と言っても生真面目な私は、蔵人少将の漁色が冗談の種になったからと言って笑う事はできない。一人で黙り込んでいる私は、いかにも場違いな存在であっただろう。
 少将は先程の鬱憤を晴らそうとするかのように、あれこれと様々な事を喋っている。それを見守りながら、私は一人考えに沈んだ。
 つくづく少将も、辛かろう。参内すればしたで、帝に嫌味は言われる嫌がらせはされる、これが他の貴族だったらまだ何とかなるものの、全貴族の生殺与奪の権を握る帝では、どうしようもない。さりとて中御門殿へ行けば行ったで、本性を暴露すまいとすれば一瞬たりとも気を抜けない筈で、少将が結婚以来めっきり疲れが増し、老け込んだようにすら見えるのは、偏にこの緊張の連続が原因であろう――真相を知らない他の貴族達は、新婚早々連夜の房事のせいと思い込んでいるが。そしてこの中御門殿通いも、帝と競り勝って祐子と結婚した手前、一日たりとも休めない――月の不浄と推察される五日前後の物忌を除いては。本当に、藤壷でも訪れて気晴しをしなければ、到底やっていけない。藤壷女御は、従姉の承香殿と違って穏かな人柄で、権高な所もないし、長姉らしく齢の割に老成していて、少将にしてみれば妻の姉という事もあって気楽に訪ねられるのだろう。同じような感じで、弘徽殿にも足を向けているのに違いない。尤もその結果、少将の秘密を知る人間が一人増えたのだが。
 しかし、これは私の例によって深読みする癖かも知れないが、少将が先刻、「おと」と言いかけて「妹」と言い直したのが、どうも気に懸る。もしかすると、少将の妹と言われ、綺羅姫とも呼ばれている姫も、本当は男なのではないか? 父権大納言が、十七まで裳着をさせなかったというのも、本当は女である少将と全く同じ理由による、と考えられないか。そうだとすれば少将が、蔵人少将が綺羅姫の許へ忍び込むのを極度に恐れるのも、充分な理由あっての事と納得できる。自分が女と結婚する分には、相手が度を越えたネンネであれば何とか誤魔化しも利くが、本身は男である姫の許へ男に忍び込まれたら、覆い隠す術もない。そうさせまいと少将が躍起になるのも、当然の成行きと言えよう。それにしても、あの兄妹、いや姉弟には、まだまだ世人の知らない秘密が隠されているようだ。
 そこへ、女房が慌しく入って来ると、
「女御様、宜しいですか」
 話の腰を折られた少将は黙り、藤壷も少し感興を害した様子で、
「何です、そんなに慌てて」
 女房は手を突いて言った。
「申訳ございません。でも、急いでおりましたので。承香殿女御様が、こちらに御機嫌伺いに参ると仰言っておられるそうです」
「まあ、承香殿様が?」
 藤壷は声を上げた。藤壷と承香殿、性格は大違いだが、やはり血は水よりも濃いと言うべきか、結構親しく付き合っているという。
「喜んで、とお返事したいところですけど……」
 と藤壷は、私を見て言い差した。暗に私に、退去せよと言っているのか。そうと言い立てるのも角が立つが、要らざる波乱は起こさないに越した事はない。
「では私は、また参りますから」
 腰を上げかけると、藤壷は俄に慌てて、
「あら、いいえ、帥宮様、そんな積りではございませんのに。どうかそのまま」
 私は肩を竦めて坐り直した。その間に女房が数人、承香殿を迎えるために几帳や円座を整える。
 程なく、数人の女房に先導されて、承香殿が入って来た。私が来ている事は事前に通報されて知っていたのか、私の座を避けるように迂回して入って来、私には一瞥もくれずに座に着いた。藤壷と挨拶を交わしてから、私達の坐っている廂を見やって、
「これは綺羅さんに蔵人少将さん、お揃いで」
と、私の存在は徹底的に無視している。
「綺羅さんや蔵人少将さんがこちらにいらしているというものですから、お話に加えて頂けないかと思いましたのよ。綺羅さんは、いつもこちらにばかりで、少しも承香殿にいらっしゃらないでしょう。こんな折でもなければ、会えませんものね」
 承香殿は少将ににじり寄って、恨みがましく言う。藤壷にはよく来て、血縁のない弘徽殿にも頻繁に来るというにしては、従姉の承香殿の許へは行かないというのが、私には些か意外であった。
「綺羅さんも蔵人少将さんも、御遠慮なさらず、来て下さっていいのよ。特に綺羅さんは、私とは縁続きなのに、水臭いじゃありませんの」
 承香殿が頻りと少将を誘うのに、少将は、
「はあ……勿体ない事で……」
 妙に気乗りしない拍子抜けした声で、ぼそぼそと口籠る。
「女房達も楽しみにしていますわ。ね、近いうちに必ず来ると、約束して下さいな」
「はあ、いえ、参上したいのは山々ですが、しかし、何かと忙しくて落ち着かぬものですから……」
 言葉とは裏腹に、少将は明らかに承香殿に参上したくない意を匂わせている。少将は承香殿が好きではないのだろうか。確かに承香殿の権高さとアクの強さは、藤壷と違って他人に嫌われやすいし、それに少将の後宮参上の目的が、帝に苛められる憂さ晴らしだとすれば、承香殿へ行っても逆効果だろう。
「あら、その割には、よくこちらにいらっしゃるそうじゃありませんの」
「はあ……」
「こちらにいらっしゃるのは忙しくなくて、私の所に来る時は忙しい、という訳ですの!?」
 承香殿は少将の本心を察したのか、やにわに色をなして少将に詰め寄る。この癇の強さには、また始まった、と思わずにいられない。
「いや、そういう訳では……」
 少将は助けを求めるような目を、簾中の藤壷に向ける。藤壷も、また始まったと思って放ってもおけないのか、
「まあまあ、承香殿様、そうお責めにならないで下さいませな」
と承香殿を宥めにかかる。蔵人少将も、
「そうですよ女御様。綺羅は本当に忙しいのです。今日も、これからは今迄のように余り度々は伺えないと、こちらに申し上げに参っている位なんですよ」
と、嘘も方便とばかりまくし立てる。
「まあ、そんなにお忙しいとは、どういう事です」
 まだ疑わしそうな承香殿に、蔵人少将は意味深長な笑みを浮かべ、
「御存知かと思いますが、綺羅は新婚さんでしてね。しかも、新妻にぞっこんでおられる。もう物狂おしい程の惚れようで、今は他の女も仕事も、目に入らないんですよ。ここ暫くは、中御門殿にしか行きたくない、という事らしいですね」
と、少将に意味あり気なまなざしを送る。少将もそのまなざしの意味を察したか、妙に照れて、
「いや、そう、はっきり言われると、何ですか、つまり、……まあ、そういう次第で……」
 そうかな、本当は違うんじゃないか? とは思ったが、今ここで少将の秘密を満天下に暴露する訳にもいかないし、それに私が何か言ったら、只でさえ気の立っている承香殿に足蹴にされるが関の山だろう。
「んまあ……!」
 承香殿は呆れ返ったように、少将を眺めている。
「な、内大臣様の三の君というのは、そ、それ程に素敵な方ですの? 噂では、まだ人形や貝合わせに夢中になっている、世間にもない程の子供っぽい方だというじゃありませんか」
 承香殿の内心の動揺は、言葉の乱れにも現れている。すると少将は、
「そこが可愛らしいのです。世間の汚い風に当たった事のない、それこそお人形のように清らかな姫です。大切にして上げたいと、そればかりを願っています」
 余りにもあからさまな賞讃に、承香殿は俄に顔を引き痙らせた。男(本当は女だと私は確信しているが)の口から、貴女など自分の目に入らない、自分の妻は(貴女よりも、とは言わないが)とても素敵な女だ、などと言われたら、承香殿ほど権高で唯我独尊的な女でなくても、自尊心をいたく傷付けられるであろう。少将は女なのに、その辺の女性心理がわからないのだろうか!?
「んまっ……たっ、大層な入れ込みようですのねっ、私、綺羅さんはもっと、理想の高い方かと思ってましたわっ」
 怒り狂って言い募る承香殿に藤壷も、自分の妹を貶められたことに抗議する気にもならないらしい。蔵人少将が慌てて、
「綺羅にはお美しい、稀なる妹姫がいらっしゃるから、美人など見飽きて、子供っぽい方に関心を持たれるのかも知れませんよ、ほら、光源氏が若紫を見出したように」
 ところが、これも少将の妹姫を褒めた事で、逆効果であった。案の定承香殿の矛先は妹姫に転じ、
「綺羅さんの妹姫と言えば、大層風変りな方らしゅうございますわね。殿方の文には目もくれず、何とか宗の御題目を唱える毎日だとか」
「御題目を唱えているのは東の御方様で、おとう(そらまた言った!)……妹姫ではありません。妹姫は風変りなのではなく、単に恥ずかしがりなのです」
「何にせよ、結局は売れ残って、折角の美貌も徒ですわね。婚期を逸した女の行末は、例外なく惨めな物だそうですけど」
「それでも、子を産めなくなった後も(おいおいそりゃ禁句だ!)夫の愛を得るために狂奔し、嗜みを失って行く女よりは、余程幸せでしょう」
 少将は凄絶すぎる皮肉を放った。これが承香殿を激怒させまい事か。承香殿は全身を震わせ、怒髪天を衝く勢いで、
「わ、私、失礼しますわっ!」
 ぐいと立ち上がったが、このまま退るのも癪なのか、少将を眼光鋭く睨み据え、
「綺羅少将、主上の御信任が厚いからと言って、余り思い上がった態度は見苦しゅうございますよ。不愉快ですわ」
 少将は一瞬むっとしたが(まだ少し修業が足りないな)、すぐににこやかに笑って、
「成程、思い上がった態度は、確かに見苦しく、人を不愉快に致しますね」
 さらりと受け流した。もう一発決まった痛烈な皮肉に、承香殿は憤激の余り歯を剥き出し、
「主上の御寵愛深い私に、よくも、そんな事が……! 覚えてらっしゃいっ!」
と唾を飛ばして咆哮し、くるりと振り向いた所に私が坐っていたのを見て遂に逆上した。
「そこをのきなさい、邪魔者!」
 荒々しく喚きながら私の肩口を、力任せに蹴飛ばした。私は少しよろけただけですぐ態勢を立て直すと、さっと退いて床に手を突き、慇懃に頭を下げた。承香殿は、私の冠を打ち払おうとでもするかのように荒々しく裾を捌き、床を踏み鳴らしながら去って行く。女房達が、その後を追っていく。
「おい綺羅、まずいんじゃないのか。何と言っても後宮一の勢力を誇られる女御だ」
 蔵人少将が心配そうに言う。
「そうですよ。あの方の御性格は、私が良く知っています。黙って引き退られる御方ではありません。私からも後で、充分お取りなししておきますけど……」
 藤壷も弱り切った様子だ。私も膝を進めて、
「子を産めなくなって、は幾ら何でも禁句ですよ。何であんな事を言ったんです? 火に油を注いだも同然ではないですか」
 少将は苦笑した。
「妹姫の事を悪く言われると、つい興奮してしまうんですよ。それに私は、どうもあの御方が苦手で……」
 やはりそうなのか。私は言った。
「貴方の気持はわかりますよ。私だって先に、主上の御前で弘徽殿女御を罵られた時には、つい罵り返してしまいましたから……。しかし本当に、まずい事にならなければいいが。何しろ先だっては散々ゴネて、終いには私に詫びを入れさせた程の御方ですから。まして今の貴方は、あの時の私よりずっと不利な立場なんですよ」
 あの時、承香殿が私と弘徽殿を罵倒した上私を叩くという「前代未聞の慮外」な乱行に及んだ時、誰の目にも明らかに正当な立場にあり、かつ帝の絶対的な信頼をかち得ていたこの私が、理非を曲げて承香殿に詫びを入れる破目になったのだ。まして今、立場としては双方正当性に大差なく、否、正五位下の少将が正三位の承香殿を揶揄した事を考えれば少将の非礼が責められてもおかしくない。更に悪い事には、あの時の私と違ってこの頃の少将は、帝に良い印象を持たれていない。今もし承香殿が、少将を讒訴しようなどという大それた考えを起こしたら、どうなる事か。
 少将は、憮然として呟いた。
「これ以上主上に苛められては、それこそ柏木のように、死ぬしかありませんね」
「死ぬだなんて、馬鹿な事を言うなよ」
 蔵人少将は一笑に付す。
「そこ迄思い詰めなくとも、大丈夫ですよ。私も蔵人少将も、貴方の味方ですよ」
 私も気休めを言ったが、しかし、どうだろうか。私は帝の異母兄だし、長い庶民暮らしで培ったド根性があるから、「帝何するものぞ」の心意気はあるが(でなけりゃ弘徽殿を盗めるか)、生まれついての貴族のボンボンであり、しかも帝に対して本性を偽っているという弱味のある少将が、帝に睨まれてそれに耐えられるか、一抹の不安なしとしない。昨今の貴族が帝に対していかに小心翼々としているかを見知っていると、柏木の話も強ち絵空事とは思えないのだ。
(筆註 柏木……「源氏物語」光源氏の正室女三の宮との密通の後、源氏の目を恐れて神経衰弱になり病死する)
 今の大騒ぎで、藤壷は心底疲れてしまって、私達の相手をする余裕はなくなってしまった。女房からそうと聞くと、私は内心期する所あって二人に言った。
「ゲン直しに、弘徽殿にでも参りませんか」
 蔵人少将は喜んで飛びついてきた。
「そうですね、私も今、そう申し出ようと思っていたんですよ。綺羅、どうする?」
「いや……私は……」
 少将は気乗り薄だ。蔵人少将は肩を竦めて、
「今からもう、新妻の許へお帰りか。本当に付き合いが悪くなったな」
と聞こえよがしの嫌味を言う。これではあの帝と大差ないではないか。私は蔵人少将をたしなめた。
「そう言うものじゃありませんよ。私達だけで、参りましょう」
 弘徽殿へ向かう途中で私は蔵人少将に、
「弘徽殿様は女御方の中では一番お若いけれど、変な気を起こしてはいけませんよ」
 何しろ弘徽殿は私の子を身籠っている、大切な大切な体なんだからな、とは言わないが。蔵人少将は口を尖らせ、
「ひどいですよ帥宮殿、帥宮殿が私の色好みを快からず思っておられるのは私も重々承知してますがね、幾ら私でもそこ迄大それた事はしませんよ。そんな事をしかねない男だと思ってらしたんですか、ひどいな」
と気色ばんでまくし立てるが、本気ではあるまい。
「先程から藤壷様や承香殿様のお方から、承香殿様の只ならぬお声が聞こえてきますわ。一体、何事ですの」
 挨拶を済ますや否や、弘徽殿は尋ねて来る。
「は、実は先程、藤壷様のお方へ雅信少将と一緒に参りましたら、そこへ承香殿様がお見えになったのです。ところが……」
 私は、騒動の顛末をかいつまんで述べた。弘徽殿は聞き終わると、深く溜息をついて、
「綺羅少将の事、私も気懸りですわ。こう申しては何ですけど、あの承香殿様を怒らせ参らせた、とあっては」
 私も沈んだ声で言った。
「そう、しかも非常にまずい事に、近頃少将は幾分主上の御心証を害し奉っているように見受けられる。もし万一、というような事があっては……」
 と言いさして承香殿を振り返ると、数人の女官の姿が見える。さては、と思った丁度その時、
「綺羅の少将の事ですわ。私、今迄、これ程口惜しい思いをした事はございません」
と、今にも泣き出さんばかりの承香殿女御の声がした。
「何でしょう、あれは」
「シ――ッ!」
 呟いた蔵人少将を鋭く制し、私は承香殿から聞こえる声に聞き耳を立てた。私が藤壷を辞してここへ来た第一の目的はこれ、承香殿の動静を把握する事であったのだ。
「綺羅少将は、新妻の方が大事なので、これからは後宮には顔を出さない、と言いふらしているのですわっ」
「えっ!?」
 承香殿の声に続いて聞こえたのは、疑いもなく帝の声であった。
「本当ですわ。出仕していても、三の君ばかりが気になって、何も手に着かない程だなどと、ぬけぬけと申したのですわ。何という体たらく、何という驕りでしょう! 主上一筋にお仕え参らせる事こそ、殿上人の誉れという物ではありませんか。それなのに、妻の為、内裏のお務めを疎かにすると公言して憚らぬとは、主上への裏切りですわっ!」
 言い募る承香殿の声に、弘徽殿内はしんとなった。蔵人少将も緊張の面持ちで、じっと耳に手を当てている。
「三の君の事を、世間の汚い風に染まらぬ、人形のような人だなどと、臆面もなく申す図々しさですのよっ! 大切にしたい、幸せにしたいなどと、思い上がりも甚しいですわ。一体、自分を何者だと思っているのですか。主上よりも、たった一人のつまらぬ女(藤壷の妹に向かって、そりゃないぞ)の方を大切にしたいと申す不埒者を、捨て置く事はできませんわ。これは侮辱です、私に対する、いえ、宮廷に対して、主上に対しての許されざる侮辱、冒涜ですわっ! そんなに都のお務めが嫌ならば、大宰府の門番でもしているが良いのですっ。   に、人形のような三の君を飾り立て、毎日眺め暮らすが良いのです。ええ、そうですわ。主上、そうなさって下さいませ、綺羅少将を大宰府へなりと、左遷なさって下さいませ。あのような思い上がり者には、懲らしめが必要なのですわっ! 主上、聞いてらっしゃいますの!? 主上!」
 調子に乗る承香殿、とうとう讒言に走ってしまった。あとは唯一つ、吠え立てる承香殿に対して帝が、「承香殿にも困ったものだ」と受け流せるだけの平静心を保っていてくれる事、これに望みを托すしかない。その望みとて、こと少将に関しては、甚だ心許ないのだが……。
 突然、承香殿の声が変わった。
「ま、も、尤も、妻をそれだけ大切にする、愛情細やかなお人柄なら、お務めを蔑ろにする筈はないですわ、ね、ほほ……ほ……」
 私と蔵人少将の間に、さっと緊張が走ったのを感じた。これは極めて由々しき事態ではないのか、蔵人少将を横目で窺うと、蔵人少将も不安の余り、幾分血の気が失せている。
「そなたの申したい事は、よく分った。私も、色々考えてみよう」
 帝の冷厳な声! かねてから少将に対する心証の悪かった所へ、承香殿の讒言で油を注がれて、瞋恚の炎が一挙に燃え上がったかのようだ。
「でも、あの、ね、主上、微笑ましい夫婦愛ですわ。夫婦とは、元来そうあるべきで……主上! 主上! お鎮まり遊ばして!」
 慌てふためき、おろおろして取りなそうとする承香殿をよそに、帝は無言のまま、ずんずんと殿舎から出て来た。足音荒く清涼殿へ向かう帝には、明らかな怒りが漲っていた。
「ど、どうしよう……」
 哀れっぽい声を出した蔵人少将に、私は首を振って呟いた。
「残念ながら縦え私でも、今すぐ、主上をお諌め申す自信はありません。明日、明日になれば、何とか……しかしもしそれ迄に、もしもの事があったら、最早私には如何ともできません……」
「おいたわしい、綺羅少将……」
 簾中の弘徽殿も、痛切な声で呟く。
 私は素早く立ち上がった。
「ともかく、こうしてはいられません。女御様、もし今夜お召しがあったら、逆効果にならないように注意して、お取りなし申し上げて下さいませんか。私は今すぐ、藤壷に参って、藤壷様からもお取りなしして頂くよう申し上げます。関白様、内大臣様、右大将様、春日大納言殿、源大納言殿、頭中将殿、私の持っている限りの人脈を使って、勿論私も、主上にお取りなし申し上げます。それから女御様、もし主上が一層御不興にあらせられたなら、その責は独断専行した私が全て負う、と申し上げて下さい」
 こうなると有力な武器になるのが、蔵人少将など比べ物にならぬ、公卿達に対する私の顔の広さであった。私の素早い立ち直りに、弘徽殿も気力を取り戻したのか、はっきりとした声で答えた。
「わかりました。皆様のために」
 それから少し声を落とし、
「でも帥宮様、また一人で泥をお被りになるのですか」
 私は決然と言った。
「承香殿様ですら主上をお取りなしできなさらなかったのですよ、主上の格別の御信任ある私を措いて、誰が本当に左遷される惧れなしに泥を被れますか。例えばこの蔵人少将が言い出した事になどしたら、なに若輩のさかしらがと、雅信少将と二人揃って左遷ですよ。では、失礼」
 私は弘徽殿を後にして飛香舎へ行き、事の顛末を藤壷女御に知らせた。
「承香殿様にお取りなしするより先に、主上にお取りなし申し上げて下さい。承香殿様の方は、少将を讒言申し上げた事を、既に反省しておいでのようですから」
 私が頼み込むのにも、藤壷は、
「ああ……何という事に……おいたわしい」
と、半ば茫然自失の体であった。私はすぐに殿上の間へ行き、丁度居合わせた春日大納言と信孝に、事の次第を告げた。
「それはまた、えらい事になりましたな。元はと言えば妹の讒言のせい、いやもう、妹にも困ったものです」
 春日大納言は大袈裟に肩を竦め、溜息をつく。
「それでもし、主上が一層御不興にあらせられるような事になったら、それは独断専行でお節介を焼いた私が一切の責を負うと、主上に申し上げて下さい」
 私が弘徽殿、藤壷に言ったと同じ事を言うと、大納言は驚いて、
「えぇ? 帥宮殿が、責を負われると?」
「私の他に誰が、本当に少将と一緒に左遷される恐れなしに、こんな役をやれますか。それに私は、泥を被るのには慣れていますから、去年一年で二度もあった事です」
 大納言はすっかり恐縮の面持ちで、
「はぁ……いやもう、帥宮殿には、何と申したらよいか……」
 あちこちに根回しをやって、そろそろ帝の頭も少しは冷えたろうと思う夕刻、帝に拝謁を乞うと、帝は私を召して言った。
「帥宮、そなた、昼間からあちこちの者達に、綺羅少将の左遷は思い止まるよう私を取りなしてくれと頼んで回っているそうだな。もし私が一層腹を立てるような事になったら、その責はそなたが一切負うと言ったとも、聞いているぞ」
 まだ幾分、機嫌が悪いような声だ。私は平伏して答えた。
「仰せの通りにございます。しかし、主上……」
「まあ、待て」
 殿上停止位は覚悟の上で思う所存を言おうとした私を遮って、帝は言った。
「帥宮に言われる迄もなく、少将を大宰府くんだりへ飛ばす積りはない。承香殿の申す事を、全て真に受けるとでも思ったか? これだけは約束する、少将については今のまま、殿上停止も左遷もせぬ、大宰府など以ての外だ。安心するがいい」
 それなら安心、と思っていいものだろうか。一抹の不安は残らないでもなかったが、
「そう伺って安心致しました」
 ほっと溜息をついて言うと、帝は笑ったが、その笑顔の中に一瞬、兇悪としか表現しようのないような表情が見えた気がして、私は眼球が凍りついたかと思った。
・ ・ ・
 それから幾日も経たぬある日の事だった。少将は物忌と称して欠勤していた。これを、出仕しても帝に嫌味ばかり言われるからと狡休みを決め込んでいると見るのは穿ち過ぎか。それはさておき、公卿を集めての御前会議が開かれ、夏から秋にかけての諸行事の上卿(実行委員長)を決めたり諸国からの申請を議論したりした。私は公卿ではないので公卿会議には参加も傍聴もできないが、例によって殿上の間にいて、御前会議の一部始終を聞き取っていた。
 初めに出された議題が皆片付いて、今日の会議の上卿である右大臣が閉会を宣しようとした時、帝が口を開いた。
「これは議題として出してはいなかったが、是非とも今この場で諸卿等に伝えなければならぬ」
 私は、さっと全身に緊張が走るのを感じた。さあ帝が、何を言い出すか。もし少将を左遷する話だったら、御前に暴れ込んででも諌止せねばならぬと身構えた途端、
「右大将の姫君を、尚侍として出仕させたいと思う」
 御前の公卿達が、一斉にどよめくのが聞こえた。私も中腰になったまま、今しがた耳に飛び込んで来た帝の言葉の真意を解し切れず、一瞬思考停止状態に陥った。
 尚侍とは何か。詔書の伝宣宮中の礼式等を司る内侍司の長官。いや、それは建前、実際は藤原薬子以来、尚侍と言えば妃の称号の一つとなっている。以前帝が晴子に横恋慕していた頃、信孝に万一の事があったら晴子を尚侍として出仕させようなどと、冗談交じり――と言い切れないのがこの帝なのだ――に言っていた事がある。その線に沿って行けば、この発言の真意は言う迄もなく、世に綺羅姫と呼ばれるところの姫を妃として入内させたいということだ。やれやれ、また悪い癖が出た。
 付き合い切れないな、と思いながら御前の動向に耳を傾けていると、帝はかなり乗り気になっているらしい。程なく散会となったが、退下して来る公卿達は誰も、驚きを隠そうともしない。その中にあって右大将兼権大納言一人、顔は幽鬼のように蒼白、足元も覚束ない有様で退って来ると、挨拶もせずに逃げ帰って行った。その様子に呆気に取られて見送っていると、内大臣が感極まったように言う。
「いや、あの嬉しそうな様子! 綺羅君に続いて綺羅姫も、主上の御目に止まったとは、つくづく弟は、子に恵まれてる。弟の誉れは天井知らずだなぁ」
 あんたの目は節穴か? あれが子女二人が帝の目に止まった栄誉に狂喜している顔か、赤の他人の私にだって、あれがそんなのでない事は一目瞭然だ、と口走りそうになったのを辛うじて抑えたその時、つい先日考え至った事が、突然脳裏に蘇った。少将の妹という姫は、本当は男なのではないか、という事だ。そうだ、そう考えると、権大納言の反応は極めて自然に理解できる。本当は男である者を女装させて入内させたら、何が起こるか、それは想像するだけで肌に粟が生ずる。精薄でもネンネでもない帝が、尚侍の正体に気付かぬ筈はなく、権大納言、尚侍の破滅のみならず、末代迄の大醜聞となる事は必定である。そればかりか、こんな空前絶後の不祥事ばかりが続くのは――この五年程の間に、東宮廃立の陰謀、性覚による弑逆未遂、前東宮と桐壷の焼死と、前代未聞の事が三件も起こっている――帝に徳がないからだ、かかる上は帝をして正統の高仁親王に譲位せしめるべきだ、などという論調が出て来ないとも限らない。帝の後釜が私というのだったら、それもいいかな、などと言ってもいられない。帝位をめぐる事態になれば、事はいよいよ大きくなり、人心動揺、社会不安をもたらすであろう、それは次代の帝の候補者としてでなく一廷臣として、何としても避けたいところである。というのは建前で、本音は、大騒ぎの末に帝が位を放り出し、私が帝位に即いたとしても、人心が動揺し社会不安の高まった国を押し付けられてはかなわない、というところなのだが。
 しかし、だからと言って今から私が、帝を説得して尚侍出仕を思い止まらせるのは無理だ。私が尚侍の出仕に反対する、説得力ある理由が見当らないから。むしろ、今では高松権大納言の縁戚に連なる私が、近衛派に連なる姫の尚侍出仕に反対する事は、皆から要らざる邪推をされる事になる。曰く、弘徽殿が男子を産んでその子が東宮になったとしても、尚侍が男子を産めば東宮位はそちらへ渡る、帥宮はそれが怖いのだ、と。その論法で行けば、帝はやはり近衛派から迎えた妃に男子を産ませ、その子に帝位を嗣がせたくて、懐妊している(誰の子を、かは措いといて)弘徽殿を差し措いて尚侍の出仕に乗り気なのだ、と言えなくもないが、表向きそれを言う者はいない。
 少時経ってから弘徽殿を訪れると、案の定弘徽殿女御は不機嫌で、
「やはり主上は、私の一族に敵意を抱いていらっしゃるのですわ。私が若宮をお産み申しても、その若宮に御位をお譲り遊ばしたくないから、左様な事を仰せられるのです。そんなにしてまで、近衛入道様の御一族から若宮をお挙げになって、御位をお譲り遊ばしたいのですか!?」
と棘々しい口調で言い募る。そう思い込むのも無理はないのだが、弘徽殿と一緒になって怪気炎を上げるのも支障があるから、
「余りそう不機嫌になられては、お腹の御子に障りますよ」
と幾分的外れな事を言うと、弘徽殿は一層不機嫌になって、低く暗い声で、
「帥宮様。貴方は、主上の御兄宮でありながら、あのような主上にお代り申し上げて御自分で帝の御位に即かれよう、という位の気概はお持ちでないのですか」
 私は、どっと冷汗が奔るのを感じた。
「女御様、何という事を仰言るのです。他のお妃方に付け入る隙を与えない、これこそ後宮に生きる者の要諦と、前から御自分で仰言っていながら、今のお言葉は余りにも危険、軽率ではありませんか」
 そりゃ私だって、あの帝よりは人倫を弁えている積りだし、民情にも通じているから、自分が帝位に即けばもっと襟を正した政治をやれる自信はある、帝と伏見院さえ合意するなら、帝位に即くのに吝かではない、それ位の気概はある。しかし、今ここでそれを言ってはいけない、それこそ承香殿に、弘徽殿と帥宮が語らって帝位を奪おうとしている、と讒言されるだけだ。
「……そうですわね。この後宮で生き延びるには、慎重でなければなりません」
 弘徽殿は静かに、それでもまだ怒りが収まらぬ、といった面持ちで呟いた。
 そうすると次に気になるのは、少将の出方だ。実行力のまるでない父権大納言と違って、少将はこの睫前に迫った破局に対し、何らかの対策を考え出すかも知れない。翌朝私は、一番乗りで参内し、少将の参内を待った。
 案に違わず、少将も早々と参内して来たが、その顔を見ると、明らかに怒りを漲らせている。目が赤いのは怒りのせいもあろうし、昨夜一夜眠らずに考え抜いたせいでもあろうか。参内するや否や少将は拝謁を乞い、蔵人が呼びに来るのを待ちかねたように御前に参上した。私は櫛形窓の前に立って、御前の少将のいかなる挙動をも見逃すまいとした。
 少将は参上するなり、はったと帝を見上げて、じっと黙り込んでいる。
「随分と、機嫌が悪いようだな」
 少将の只ならぬ様子に、帝は不審そうに声をかけた。尚も不気味な沈黙が流れた後、少将は激しい怒りを露わにした声で言い放った。
「突然ですが、私、出家致しとうございます」
 出家、だと? それが睫前に迫った破局を回避する、少将なりの方策なのか。それがどうして、最悪の場合天下国家を揺るがすかも知れぬ大破局を回避する手段たりうるのか。
「俗世の縁も、それで全て絶てましょう。三の君も、最初は寂しい思いをなさるでしょうが、周りの者も力づけ、主上のお優しい心で、慰む時も来るでしょう。畏れ多くも主上の思し召し深い姫を妻とした、我が身の程を知らぬ振舞を、今は充分に悔いております」
 少将の弁舌は激越だが、何故それが、という肝心の点がまだわからない。
「これにて、妹を尚侍にという思し召しも、その意義を失いましょう。どうか今すぐ、このお話を白紙に戻して頂きとうございます。罪もないおと(また言ったぞ!)……、いえ妹に、気苦労ばかり多い後宮生活だけは、させたくはありません。あの人は、不幸な生い立ちをしまして、それで人並みでない苦しみを味わっている人なのです。人々には奇妙に見える程の内気さも、全てはあの人の苦しみから来る事です。思い詰める性質の人で、すぐに人事不省に陥る人を、後宮に召して、それで私を困らせようなどとは、余りに浅ましい御心ではありませんか。幾ら、幾ら、三の君が忘れられないからと言って、私を憎く思し召しだからと言って……!」
 感情の昂ぶりそのままに、顔を真赤にし、今にも泣き出さんばかりに上ずった声を詰まらせたそのさまは、さながら女であった。
 やっと私にも、事情が飲み込めた。少将は帝が、祐子を少将に取られた腹いせに、少将を苦しめようとして妹姫の尚侍出仕――これは入内とほぼ同義語――を持ち出したのだと思い込んでいるに違いない。私とした事が、そのまま推移すれば必ず発生するであろうところの大破局を想像する余り、帝がこんな事を薮から棒に言い出した真意を推し測ろうとする努力を、すっかり忘れていた。
 帝の声が聞こえる。
「綺羅、そなたは誤解している。私はもう、三の君の事はきっぱり諦めているのだ」
 少将は疑わしそうに、
「そうでしょうか」
 私も全く同感だ。晴子に、祐子に、横恋慕した帝の所業を存分に見知っている私には、帝の言葉を素直に受け止める事は到底できない。
「いや、これ迄色々と言ってきたのは、とどのつまり、余りに夫婦仲の良い若い者への嫉妬だったのだ。私の方は、夫婦仲が良いとは言えぬし……」
 それもあるかもな。承香殿は扱いかね、弘徽殿には面従腹背され、そして多分宣耀殿にも、秘かな孤閨の恨みを買っているに違いない帝。「人あまた持たるは嘆き負うなり」だ。
 そんな私の思いを知る由もなく、帝は少将の説得に躍起になっている。
「蔵人少将も、そなたに愚痴をこぼしているそうではないか。綺羅も仲の良い友人が、妻ばかりを大切にして自分を顧ない事があれば、やはり気を悪くして嫌味の一つも言いたくなるだろう」
 私は信孝や左衛門佐に対して、そう思った事はないがな、独身だった時分でも。つまりそれが、帝の狭量さなのだ。まあ私も、信孝と晴子の結婚を素直に祝福できなかったが、それはそれ、事情が事情だったから……。
「はあ……。そう……かも、知れません」
 少将の曖昧な返事に、帝は気を強くしたのか、
「そうであろう、それだけの事なのだ。決して、三の君への執心の為ではない。まして今回の綺羅姫尚侍に関しては、私は三の君の事など、ちらとも考えなかったのだ。全ては東宮、郁宮の為である」
 また変な事を言い出したぞ。
「東宮様の?」
 思いがけない話に、少将も驚いた。
「東宮様が、どうかなさったのですか」
「うむ。……綺羅も知っての通り、郁宮は東宮を嫌がっている。受けるべき東宮としての学問も教育も嫌がって逃げ回り、未だ充分な教養もない。しかも東宮であるために、周囲は腫れ物に触るように接してしまい、我侭放題に育っているのだ。東宮には、博士や養育係の女房達より、姉のような威厳のある存在の女性が必要だと、日頃から思っていたのだよ」
「姉のような存在……」
「それには身分卑しい者であってはならない。東宮自身、蔑ろにはできぬ身分の姫でなければならないのだ。今の京中で、身分と言い教養と言い、綺羅姫を措いてそのような方はいないではないか」
 成程それは道理、という気もする。だがしかし、それ程日頃から考えていた事なら、何故この私に言わなかったのだ? 私は帝にとって、その程度の存在だったのか? 大体、郁子内親王がそんなに帝の器でないのなら、右大将の姫を無理に尚侍として出仕させてまで帝の器に仕立て上げなくたって、学識深く民情に通じ苦労を積んだ、立派な東宮候補がいるじゃないか、そう、ここに! 父院は昨年からその気だったのだから、帝さえ了承すれば、私が東宮に立って何の不都合があると言うのだろう、とそこまで考えると、不意に弘徽殿の言葉が、その意味は多少異なるが頭の中に蘇って来た。やはり帝は、近衛派以外に皇統を伝えたくないのだ、と。(郁子内親王の外祖父は、近衛入道の弟である)
 むらむらと湧き上がって来た不快感を、顔に表わすまいと努めているうちに、少将は言った。
「恐れながら、主上の叡慮は良くわかりました。今回の事が三の君に絡んでの御仕打と考えた私が愚かでした」
 そう素直に納得されては……。
「そうか、わかってくれたか。では……」
 帝の声を遮って少将は、
「いえ、しかし、やはりこのお話は酷うございます。お忘れですか? 姫は以前、意に染まぬ結婚を強いられ、入水しかけた程でございます。幾ら女東宮様のお遊び相手として(と言うと、帝は尚侍を東宮の遊び相手として、とでも言ったのか、聞き落としてしまったが)出仕致しましても、万が一主上の御目に叶う事になれば、結局は妃の一人として遇される事になりましょう。主上の御心に抗う事など、出来る者は一人としておりません。そうなれば妹は再び思い詰めて、今度こそ、死んでしまうかも知れません」
 そうだ、その手があったぞ。嵯峨野の池で入水未遂を帝に発見された姫というのは、実は少将なのではないかと私は確信しているが、当の帝はそうとは考え至らず、少将の妹だったのだと信じ込まされているから、この手が通用する。案の定帝はすっかり虚を突かれた様子で、少時黙り込んでいたが、
「綺羅の心配も尤もだ。あのか弱い姫を……(おいおい馬脚を現すな!)いや、その、噂に聞く内気なたおやかな姫を、再び入水させたくはないと思う。しかし私が綺羅姫出仕を願うは、ただ偏に東宮のためだ。決して、怪しい気持からではない」
「――そうは仰せられても、もし主上があの人を御覧になる事があれば、お考えを変える事もありましょう(そう、それが帝という男なのだ)」
「一目見たら忘れられぬ程に、それ程に美しい方なのか!?」
 帝は感嘆の叫びを洩らした。やっぱり。だが、ここは何としても少将を説得せねばと考え直したのか、
「私は決して、決して、そのような邪念は抱かない。約束する」
 それでも少将は不安を拭い切れないのか、
「――と仰せられても、人の心は移ろい易く……」
 そう、この帝という男、恋に盲いたら幾らでも食言しかねないのだ。「綸言汗の如し」という言葉の重みを理解していないのだ。
「ならば、私は決して、姫と会わない!」
 帝にしては思い切った台詞じゃないか。
「決して、姫を見ようとは思わない。尚侍は普通温明殿に詰めるが、綺羅尚侍は清涼殿から最も遠い桐壷に住まうがいい。東宮は梨壷にいるから、その方が近いし、よいだろう。綺羅姫出仕はあくまで東宮の為という、私の気持もそれでわかる筈だ」
「え、あの……」
 少将は驚いたのか口籠る。
「私が綺羅姫と会う時は、――会う時があるとすればだが、綺羅が同席している時に限ると約束しよう。もし綺羅のいない時、私が尚侍に無理な伺候を強いたなら、その時は綺羅の思う通りにするがいい」
「え、でも……、でも……」
 少将は動揺している。逃げ道の一つが目の前で閉ざされていく事に、困窮しているのか。その動揺の隙を突くように、帝は傘にかかって言い募る。
「私がこれ程の誠意を見せ、また誓いもしているのに、どうして綺羅はそれを信じてくれないのか。心外な思いがする」
「お、主上の御心は良くわかります。し、しかし、縦え主上の御心遣いがありましても、尚侍としての職務上、殿上人に姿を見られる事も多く……」
「尚侍としての実質的な職務は、既に古参の藤典侍が代行している。綺羅姫の尚侍は、あくまで身分に相応しい地位としてであって、姫は桐壷で、東宮の遊び相手として、相談役として、それに専念すれば良いのだ。私ですら会わぬ深窓の姫を、むざむざ無遠慮な男の目に触れさせはしない。安心するがいい」
「有難い仰せですが、姫は、内気な人で……、それはもう内気で、見慣れぬ新参の女房が近くにいるだけで気鬱になり、寝込む人でして……、才気に溢れ、社交的な女房の多い後宮では、気疲れも多く、身が心配で……」
 何とか反撃を続けんと躍起になる少将に、
「それ程に心配なら、綺羅が姫の後見役として、毎日様子を見に来てあげれば良いではないか」
と言った帝の口調に、私は微妙な変化を感じ取った。さてはこれが、本来の目的だったな。
「私が、ですか……?」
「そう、万事にそつなく、心得ているそなただからね、姫を助けてあげるがいい。そうやって徐々に人と交わる事を覚えれば、極端に恥しがりの性格も、直るかも知れないよ。大体、綺羅や右大将が過保護にして、姫をいよいよ内気にしているのではないのか。きっとそうに違いない」
 帝は勝ち誇ったように言い切った。これでも少将は反撃できるか。
「いえ、そんな。姫には、色々と事情が……」
 ひたすら喰い下がる少将を制して、帝はきっぱりと言った。
「ともかく。私は、出来る限りの誠意を見せたのだ。堀川殿でも、誠意を見せて欲しい。これは東宮の為、ひいては後々の帝の為、また天下の為だ」
 本当に天下国家の為を思うんなら、さっさと私に譲位しろ、とだけは口が裂けても言えないが。帝にこう迄大上段に振り被られては、少将としても抗弁し難い。とうとう黙って引き退らざるを得なくなった。少将が御前を退ると、間髪を入れず帝は蔵人に、
「帥宮をこれへ」
 蔵人に続いて参上すると、帝は言った。
「綺羅姫を尚侍にという私の真意は、今そなたが聞いた通りだ。何か、納得の行かぬ点はあるか」
 納得の行かぬ点は、ある。しかしそれを言うと、どうであろうか。
「主上が東宮の事を殊の他お気にかけておられるのは、良くわかりました。しかしその割には、私に御相談下さった覚えが余りないような気がしますのは、私の思い違いでしょうか」
 帝は少し眉を寄せた。
「思い起こせば昨年の七月よりこの方、右近少将をめぐる事どもに関して、主上は私に事前に何もお知らせ下さらずに事を運ばれる事が多いように拝見されます。諸々の事共は全て主上の叡慮に於いてのみ決せられる所、一々私如きに御相談の後に、などという僭越を申す積りは毛頭ございませんが、もしや主上が私に対し、何らかの御隔意をお持ちであられる、などと申すのが私のつまらぬ思い過ごしであれば幸いなのですが」
 幾分恨みがましく言ってやると、
「はは、な、何を言うかと思ったら、隔意だと、はは、そ、そんな事があるものか、それこそ思い過ごしだ、はははは」
 思い切り図星だったのだろう。わざとらしく呵々大笑しながら打ち消した。こんな否定のし方は、その通りだと洗いざらい白状するに等しい。帝は漸く態勢を立て直して、
「私がそなたに隔意を、などと言うがな、そなたはどうなのだ? 昨日私が綺羅姫を尚侍にと言い出した時、いつもなら必ず、その日のうちに私の真意を問い質すなり諌言するなりしに来ただろう。それなのに今回に限って何もしに来ない。てっきりもう、私を見限ってしまったのかと思ったぞ」
 私はとうの昔に帝を見限っていたのに、今更何を言うのだろう。内心大いに斜に構えながら、私は淡々と答えた。
「この私が、主上をお見限り奉るなどという事が、どうしてありましょうか。ただ、私は最早昔の私と同じ立場の者ではありません、それ故に、要らざる誤解を招くような行動は差し控えたいと思う事もございます」
「……そなた、何が言いたいのだ?」
 首を傾げる帝に、私は続けた。
「もし私が近衛派の末に連なる一介の貴族であり、今の私と同じような立場にある帥宮と呼ばれる方が、もう一人おられたとします。主上が綺羅姫を尚侍という話を持ち出された時、間髪を入れずに帥宮が主上の御真意を問い質し奉るべく参らせたとすれば、口さがない私は、きっとこう陰口を申します。曰く、もし弘徽殿様が若宮をお産み参らせれば、弘徽殿様を御後見なさる高松権大納言様の婿であられる帥宮も、その余禄に与って権勢を恣にできよう、しかし主上のお妃の一人である尚侍が若宮をお産み参らせては、それも危い、帥宮はそれが怖いのだと。そのような誤解を受けるのは口惜しき事なれば、誤解を受けるような振舞は慎みたいのです」
 帝は、今度は自然な笑いを洩らした。
「そなた少し、気を遣い過ぎじゃないのか? そんなに周り中に気を遣って、言いたい事の半分も言わずにしまうような事を続けていたら、腹が膨れすぎて長生きできないぞ。もっとこう私のように、言いたい事も言って、気楽に構えたらどうだ?」
 帝のように傍若無人に、言いたい放題の事を言って、権力に抗えない臣下を虐げたり愚弄したり、その挙句には骨髄に徹する恨みを買って、それで長生きするとは笑止千万だ、とは言うまい。
 数日を経ずして、堀川大納言兼右大将信義の娘 子を従三位に叙し、三月二十日を以て尚侍として出仕せしめる宣旨が発せられた。こうなると権大納言も少将も、腹を括ってかかるしか手はない。少将は新尚侍に宮廷百般を教授すべく、連日堀川殿へ通っている。そうなると中御門殿でも神経を尖らす事になり、少将の心労は止む時を知らない。あの一家を、就中少将をこの泥沼状態から救い出す術は、どこかにないものだろうか。個人的に私は少将に、少将が男としても優れた人物であればこそ、その本性により相応しい、全うかつ幸せな人生を歩んで欲しいのだ。これがもし、到底親しむ事もその人格を認める事もできないような愚劣な人間であったなら、宮廷を去って薙髪し、この社会から消え去る事を何とも思わないし、否むしろそうするよう仕向けさえするだろう。
(2001.1.3)

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