岩倉宮物語

第三部
第一章
 二十日頃のある夜の事だ。事果てた後、快い疲れに身を任せ、うとうととし始めた時、胸元から光子の、くぐもった声が聞こえた。
「ねえ、貴方」
「うん?」
 何度か目を瞬き、光子を見下ろすと、光子は私の腕の中で、私を見上げている。その面ざしに、今迄光子の顔に見た事のなかった微妙な翳りがあるのに気付いて、私は尋ねた。
「どうしたの」
 光子は、幾分躊うようなそぶりを見せた。
「……私……あの……」
 何かありそうな気がする。私は努めてさりげなく畳みかけた。
「何か悩み事でもあるのだったら、何なりと聞かせて欲しいんだ。私と貴女の仲じゃないか、言って御覧」
 光子は少時躊った後、囁くような声で切り出した。
「……変な事を言うみたいだけど、気にしないでね」
 変な事かどうか、聞いてみなけりゃわからないじゃないか。
「気にするものか。言って御覧よ」
 私に再度促されて、光子は言った。
「……うぅんと……私達、これでいいのかしら、って、時々、思うの」
 何を言い出すかと思えば。私は訳がわからず、眉を寄せた。
「これでいいのか、って……?」
 鸚鵡返しに呟きながら、ふと思いついた事がある。
「そうだ、もし何か、私に不満でもあるんなら、遠慮なく言ってくれないか、それなら私にできる限り……」
 早口に言いかけた私を、光子は遮った。
「ううん、そういうんじゃ、ないの」
 いよいよもって訳がわからぬ。すっかり当惑して光子を見つめると、光子は、
「私、貴方に不満なんか、これっぽっちもないわ。今、とっても幸せよ」
 自分で確認し直すように言って、にっこりと笑った。しかしすぐ、微笑みは顔から消えて、
「でも、……私達だけが、こんなに幸せでいいのかしら、って思うのよ。私達だけが、幸せを独り占めにしていて」
 私は諭すように言った。
「光子、そんな事を気にする事ないよ。いいかい、幸せっていうのは、どこかある所にあって、その量が最初から決まってるのを分捕って来るんじゃなくて、皆がそれぞれ、自分達で新しく作り出す物なんだ。碁の地みたいに、自分達が沢山取れば他の人の取り分が減るなんて、そんな物じゃない。自分達が幸せになったから他の人が不幸せになるなんて事はないし、もしそんな事があるとしたら、そんな幸せは偽物だよ。そうじゃないか?」
 光子は、小さく頷いた。
「うん。……でも、私達だけがこんなに幸せだと、申訳ないと思うわ、お姉様の事を思うと……」
 あれっ? 何か今、変な言葉を聞いた気がする。
「ちょっと待って」
 私が鋭く遮った言葉に、
「え? なあに」
 光子は無邪気に聞き返す。私は、余り詰問口調にならないように気をつけながら尋ねた。
「お姉様って、誰の事だい。仲人も誰も、貴女の事を大姫と言ってるから、私は貴女が、一番上の姫だとばかり思ってた。義兄上(光子の兄、右馬頭)が結婚してるって話も聞かないし、誰の事だい、本当に?」
 光子は、あっさりと答えた。
「私、言わなかったかしら? 弘徽殿女御様の事よ」
 弘徽殿女御と言えば、高松権大納言の兄の故内大臣の娘だから、光子から見れば従姉に当たる。
「弘徽殿様か。でも、確か貴女には、父君の方の従姉君に当たる御方だろう? そんなに親しくさせて頂いているの?」
 現代では父方の従姉妹というのは、それ程交際がある訳ではない。まして一方が后妃ともなれば、そんなに軽々しく付き合えるものではない。今一つ腑に落ちないで尋ねると、
「ああ、まだ、よく話してなかったのね。弘徽殿様のお母様は、私のお母様の姉に当たる御方なの。お父様と伯父様(故内大臣)が、兄弟で相婿になったのよ。だから私と弘徽殿様は、このお邸の中で、本当の姉妹のようにずっと一緒に育ってきたの。私と違って弘徽殿様には、御兄弟が一人もいらっしゃらないから、尚更私達を、妹弟のように可愛がって下さったわ」
 二重従姉妹、という関係な訳だ。私は深く納得して頷いた。
「ふーん。それで、お姉様、と言ったんだね」
「そうよ」
 素直に肯ずる光子に、私は内心、深く考えながら言った。
「貴女がそんなに親しくさせて頂いて、姉君ともお慕いする御方なら、私にとっても義理の姉君にも等しい御方だ。知らなかったとは云え、結婚以来殿舎にお伺いした事もなくて、随分な御無礼をしてしまったな。明日にでも早速、殿舎に御挨拶に伺ってみようかな」
 挨拶とは言いじょう、本当の目的は弘徽殿を詳細に観察し、もし次の攻撃目標とするのであれば、その方法を立案するための情報を収集する事であった。その又とない口実を得た、と意気込んで然るべきであったのだが……。
 私の胸の内を何も知らない光子は、
「いいえ、お姉様は明日、里退りなさるわ」
 一層好都合な事を言い出す。私は得たりとばかり、
「里退り、って事は、この邸に? それなら尚更都合がいい。宮中で、他の貴族達の目を気にしながら後宮へ出入りするより……」
 意気込んで言い出したのを、光子は遮った。
「駄目よ、貴方はお会いできないわ」
「何で」
「何でって、物忌のための里退りですもの」
「物忌って、何の?」
 すると光子はやにわに口を尖らせ、
「嫌ぁね、女の口から言わせないでよ、そんな事」
 そういう事か。宮中という、不特定多数の人間の出入りする場所に、血の穢れを持ち込んでは大変な事になる。それを避けるために、宮中を退出させる訳だ。男には無縁な事だけに、つい考えが及ばなかった。
「わかった。それじゃ、物忌が明けてから、殿舎へ御挨拶に上がる事にしよう」
 私の言葉を聞いてか聞かずか、光子は溜息交じりに呟いた。
「お姉様は、本当にお辛いと思うわ。前、こんな事を仰言った事があるの。月に一度の里退りの時だけが、御心の安まる時です、光子と会ってお話ができるし、他のお妃方が近くにいらっしゃらないと思うだけで気が楽になるって。後宮暮らしは、本当に気苦労が絶えないらしいわ。お姉様が主上のお側に上がったのは一昨年だけど、もう何人もお妃方がいらっしゃるところへ、でしょう? 他のお妃方は、表向きはともかく、お心の中では皆、なに新参者が、と思ってらっしゃるに違いないって。特に承香殿様は、あけすけに物を仰言る御方だから、顔を合わせると何を言われるかわからなくてびくびくしている、とか」
 承香殿、という言葉に、私は鋭く耳をそばだてた。さる二月半ばの宮中での宴の折、満座の中で承香殿にけなされた事を、私は忘れてはいない。将来きっと私は、承香殿があの時私をけなした事を、血の涙を流して後悔するような復讐を成し遂げる、そう決意したのだ。その決意は今でも、些かも変わってはいない。
「先頃、貴方が宮中で箏を主上にお聞かせした事があったそうね」
 光子に同意を求められて、私は我に返った。
「え? ああ、そうだよ」
 光子は、くすりと笑った。
「宇津保の尚侍が琴を箏に持ち替えたかと思う程、素晴らしく上手に弾いたんですってね。私にも一度、聞かせて欲しいわ」
「宇津保の尚侍だなんて、そんな……。それに、私は男だよ」
 私は思わず照れ笑いした。
(筆註 尚侍……「宇津保物語」楼上の巻で琴の妙技によって奇瑞を現出した)
 光子はその時の光景を想像しているのか、うっとりとした口調で続ける。
「主上も殊の外御感動遊ばされ、列席の貴族方もお妃方も、袖を絞らない方はなかったんですって。でも、どうしてか承香殿様だけは、余りお気に召さなかったらしいの。それどころか御機嫌を損ねて、お退りになってしまったのを、宴の後でお姉様は、大人気ないお振舞だと言ったのが、承香殿様のお耳に入ったらしいのね。それ以来何かある事に、聞くに堪えないような悪口ばかり言われて、とても居たたまれない、と書いて来たわ」
 光子は唇を歪めた。
「悪口だって? どういうんだろう」
 私が呟くと、光子はやにわに顔を強張らせ、憤懣やる方ないといった声で、
「一番ひどいのは、こんなのよ。……謀叛人の一族、って……」
と言うなり、私の胸に顔を埋め、肩を震わせてしゃくり上げ始めた。
「何て事を!」
 私が思わず口走ったのに、光子は涙交じりに言い募った。
「ひどいわ、あんまりよ、ひいお祖父様が、謀叛人として流されたからって、だからってお姉様が、そんな風に言われるなんて、お姉様が一体、何をしたって言うのよ!」
「うん、その通りだ。法成寺入道が昔何をなさったとしても、女御様がそのような悪口を言われる筋合いはない」
 尚もしゃくり上げる光子を宥めながら、私は胸の内に一つの、断乎たる決意が湧き上がってくるのを感じた。いや、それは従前からある決意を、一層確固不動たるものとする、と言うべきであった。即ち、承香殿をも帝と同じく、心身をずたずたにされる程の苦悩のどん底に突き落とし、生き地獄にのた打ち回らせる、という決意であった。今や承香殿は、私にとっての敵であるばかりではない。弘徽殿の敵でもあり、そして光子の敵でもあった。光子の敵は、即ち私の敵である、と思える程に、私は変わっていたのだった。
 ……しかし、光子の話を聞いている間に、弘徽殿を、帝への復讐を完遂する過程における攻撃目標としようという考えが、雲散霧消していたのに気付いた。それは何故であろうか。弘徽殿の境遇に同情したからか。そうとも言い切れない。
 暫く考えるうちに、ふと思い当った。
 ――私が弘徽殿を攻撃し、帝から奪い去るような事をするならば、それは弘徽殿を実の姉のように慕う光子の心に、何も与えずにはいられまい。弘徽殿が、后妃としての今の自分自身のあり方に満足し、それを幸せと思っているかどうか、それは大いに疑問ではあるが、さりとて弘徽殿が、その后妃たる地位を去るような事が起こったとして、光子がそれを良しとするとは、私には到底思えない。
 翌日、随行する者も少ない簡素な行列が、ひっそりと内裏を出た。参内していた私はその退出を目撃したが、殿上の間へ戻ってみると、誰もその事を話題にしていない。弘徽殿の、現在の後宮での立場を象徴するような状況であった。
 数日後、弘徽殿女御が再び参内した翌日、私は高松権大納言に同行を願って、弘徽殿へ行った。私が一人で弘徽殿へ行っては、帝や他の后妃達のあらぬ猜疑を受けぬとも限らない、そのために弘徽殿女御の叔父にあたり、現在専ら後見役を務めている高松権大納言の同行を頼んだのだった。
「帥宮正良にございます。女御様には御健勝にあらせられ、祝着至極に存じ上げます。従妹君と縁を結びし身、早急に御挨拶言上に参るべき所、かくも遅れました御無礼、どうかお赦し下さい」
 簾越しに弘徽殿女御と対座した私は、深く平伏し、型通りの挨拶を述べた。最初はまず、礼儀が肝心である。
「私こそ、帥宮様と縁続きになり、このような所へおいで頂けるとは、身に余る誉れにございます」
 上品な物腰は、さすが后妃、と思わせる。しかしこれも、周囲は敵ばかりの後宮で生きていく間に、他の后妃に付け入る隙を与えまいがために身に着けた術かも知れないと思うと、そんな術を使わずに済み、心長閑に暮らしている光子に引き比べて、弘徽殿女御は気の毒だと思わずにはいられない。昔桐壷も、承香殿に気兼ねしながら、こうして肩身の狭い後宮暮らしを送っていたのだ。派閥とも呼べない位の弱小派閥の出であった桐壷に比べると、弘徽殿の方がまだ京極前関白太政大臣の孫という、そこそこに有力な派閥に属してはいるが、それでも近衛派直系の承香殿に比べれば後見の弱さは否み難い。それに加えて弘徽殿は、一昨年の九月に入内したばかりで、后妃の中では一番の新参者だ。帝が東宮だった時分からの妃である承香殿や藤壷から見れば、後から来たというだけで苛めの対象である。そうでなかったら、謀叛人の一族などという、聞くに堪えない暴言が吐かれはすまい。
 私は簾越しに、弘徽殿の全てを観察しようと目を凝らした。後宮暮らしの気苦労が絶えぬと光子に話していたというが、それが本当なら、雰囲気に必ず現れる筈である。それを簾越しにでも察知できない私ではない。五感の全てを研ぎ澄まして、弘徽殿の様子を探っていると、不意に弘徽殿は、ふっと微苦笑を浮かべ、
「そんなに、見つめないで下さいませな」
 私は扇で掌を打った。
「これは失礼。これ程間近に拝見致すのが初めてなものですから、つい見とれてしまいまして」
 と言ってわざとらしく笑うと、弘徽殿も、
「見とれてしまうのは私の方ですわ」
と言いつつ扇で口許を隠す。と見ているうちに弘徽殿の顔から笑いが消え、何とも気疲れしたような溜息が聞こえた。さては、と目を凝らすと、弘徽殿は、
「……光子が羨ましいですわ、本当に」
と、妙にしみじみと言った。
「こんな美男の婿殿を、毎日でも眺めていられるから、などという戯言はいけませんぞ」
 権大納言が、真面目くさっているのか冗談なのかわからないような口調で言うと、弘徽殿はまた微苦笑を洩らした。
「それもございますけど」
 それからまた、翳りのある顔に戻って、
「でも私、近頃よく思いますの。帥宮様ほど立派な御方でなくても、主上という至尊の御方でなくとも、一人の殿方の心を独り占めできれば、女にとってそれが一番幸せなのではないかしら、と。蜻蛉日記を綴った人の気持、今になって良くわかりますわ」
 一夫多妻制の下、夫の愛情を独り占めにできない妻の苦悩を綴った蜻蛉日記は、私も読んだ事がある。男として、何人もの女を妻とし、それぞれから満たされぬ恨みを買うような事はしてはならないと、強く心に戒めたものだ。私が深く頷いていると、
「のう、余り、差し障りのある事は仰言らないように、お気を付けて下され」
 権大納言の、妙に辺りを憚るような声がする。言いたい事も思うように言えないのでは、気苦労もする訳だ。私は弘徽殿を、同情を籠めた目で見やりながら言った。
「そうですね。前からおられるお妃方を相手に回して、主上の寵を争われるのは、さぞかし気苦労の多い事と拝察致します。そんな気苦労と無縁でいられる光子が羨ましいと、そう仰言ったのでしょう」
「ええ……」
 弘徽殿は、僅かに頷きながら微笑んだ。
 辞去しようと立ち上がった時、弘徽殿は私を見上げて、訴えかけるように言った。
「帥宮様、毎日でも、いらして下さいね」
 私は、びくっとして立ち竦んだ。この言葉の熱と力、溢るるばかりの情感は何なのだ。単なる儀礼的な挨拶とは、明らかに異なる。一体どうしたと言うのだ。私は当惑を振り払いつつ、
「毎日とはお約束できかねますが、時々は参りましょう。光子と女御様の文遣いなども、何なりとさせて頂きます。では、失礼」
 丁重に頭を下げて、権大納言と共に弘徽殿を後にした。清涼殿へ戻る道すがら、承香殿の前を通りかかると、既に女房達が注進に及んでいるのか、険悪な雰囲気が漂っている。そんな雰囲気は気にも留めず、廂の間に伺候している貴族達にも一瞥をくれただけで通り過ぎようとすると、呼び止める声がある。
「おや、帥宮と高松権大納言ではありませんか」
 承香殿女御だ。私達は立ち止まった。高松権大納言を見ると、やれやれという顔をしている。承香殿の声がした。
「お二人とも、こちらへおいでなさいな」
 私達を呼び込んで、どうする積りだろう。私は権大納言の顔を見た。権大納言は、仕方がない、という顔をする。私は、廂の間に足を運んだ。女房が差し出した円座に坐り、悠然と構えながらも目は鋭く簾中を凝視した。
「女御様にはお変りもなく、祝着至極に存じ上げます」
 紋切り型の口上を述べて、形式通りに頭を下げてから、はったと簾中を見据えて、
「さて女御様、私と義父に、何か御用でしょうか。女御様御自らお呼び止めになるとは、よくよく火急の大事かと拝察致しましたが」
 こういう事を直言するのは、私の得意とするところだ。相手が帝でも、言うべき事は些かも臆する所なく言ってのける、それが私の取り柄だと思っている。
 承香殿も勝気な性分そのままに、些かも動ぜぬ私の直言にさほど怯んだ様子も見せず、
「特に用はありません。ただ、私の殿舎の前を、何の挨拶もなく素通りしてゆくのは、些か無礼ではございませんこと?」
 さもそれが当然の事であるかのように言う。私は、むっとして承香殿を睨み返した。そんな馬鹿な言い草があるか。承香殿の前を通る時は、必ず女御に挨拶しろなどと、一体何様の積りで言ってるのだろう。
「はて、それはまた、いかなる事なのか、私にはとんとわかりかねます。ここの渡殿に、いつから関所が設けられたのでしょうか」
 横に坐った権大納言が、頻りと袖を引っ張るのを、私は意に介せずに言い続けた。
「そもそも、三品の親王と権大納言とを、さしたる用もなく呼び止めて、殿舎へ呼び込み、他の貴族方の面前で、名指しでその行いを咎めるとは、如何に女御の位にあられる御方のお振舞としても、些か軽率、無礼の譏りを免れ得ないと思われますが、如何ですかな。そしてその咎めを聞けば、殿舎の前を素通りするとは無礼ではないかとは、甚だ以て不可解千万。女御様には、何が無礼にあたるのかを、今一度初めから学び直されては如何かと、恐れながら存じますが」
 きつい皮肉を利かせて言い終わる頃には、辺りの雰囲気は騒然としていた。高松権大納言はぶるぶる震えているし、春日大納言を初め前からいた貴族達は、承香殿の気色を窺いつつ顔を見合わせている。
「……こ、この私に、何て事を……」
 承香殿の声は擦れている。屈辱と憤怒に猛り狂っている承香殿の顔が、目の前に見えるようだ。
「お、お退りなさいっ! に、二度とここに、顔を出すんじゃありませんよっ!」
 承香殿は、内裏中に響き渡るような金切り声で喚いた。私は眉一つ動かさず、平然と応じた。
「かしこまりました。では今後は、弘徽殿へ参る折は北廊から参りましょう。その方がお互い、不快な思いをしなくて済むでしょうから。他に何も御用がないのでしたら、私はこれで失礼させて頂きます」
 そう言うと悠然と立ち上がり、貴族達の方を向いて一礼すると、承香殿には目もくれずに廂の間を出た。後からばたばたと出て来た権大納言は、私に追い縋るようにして、
「む、婿殿、何て事を仰言ってくれたのです。今一番、後宮で権勢を振っている承香殿様に、あんな事を申されるとは! 室町殿に睨まれたら、どうしよう……」
と泣き出しそうな声で言う。私は振り返ると権大納言の肩を掴んだ。
「義父上、しっかりして下さい! 幾ら承香殿様が権勢を振っているからと言って、弘徽殿へ参る私達に挨拶して行けなどという、そんな我侭勝手が許されていい筈はありません。私達に非はないのです。私達が恐れ入って下手に出たりしたら、どうなりますか。弘徽殿様のお立場は、一層弱くなってしまうではありませんか。義父上にしっかりして頂かねば、弘徽殿様のお立場さえ悪くなるのです、そうなったら弘徽殿様の亡き父君に、何と申し開きするのです?」
 弘徽殿の父、故内大臣の名を出されると、さすがに権大納言も思う所があるのか、ぐいと顔を上げて私を見返した。ややあって、
「……そうでしたな。私がしっかりしなければ、兄に申訳が立たぬ。婿殿の仰言る通り、私がしっかりしなければ」
「そうですとも」
 私は力強く頷いた。しかし権大納言は、
「……しかし承香殿様、及びその御後見の方々とも、無用の軋轢は避けなければ」
 私も少し、心を鎮めて言った。
「確かに先刻は、少し言い過ぎたような気がします。どうも私は、自分が正しいと思った事は、相手に構わず言ってしまう癖があるようです。この前の殿上停止といい、今度の事といい、何か少し、損な性分のような気がします。少し、改めないと」
 殿上の間へ戻って少時すると、春日大納言と源中納言が連れ立って入って来た。私と高松大納言が並んで坐っている前へ歩み寄って来て、どっかりと坐り込むと、春日大納言は懐から手巾を取り出し、額の汗を拭いながら、
「帥宮殿、私共からお願いする筋合いの事でないのは十分承知ですが」
と妙に困惑した顔で切り出す。何を言いたいのか見当はついたが、さりげなく、
「何ですか、承りましょう」
 春日大納言は言いにくそうに、
「……余り妹を、怒らすような事を仰言らないでくれませんか。妹を宥めるのに苦労するのは、私共なんですから」
 そんな事だろうと思った。言う事が逆じゃないか、と内心思いながらも黙っていると、
「解って下さいませんか。私共としても帥宮殿や、高松殿とは事を構えたくないのです。それに帥宮殿としても、主上の御寵愛深い妹を敵に回したりして、それがために主上の御不興を蒙られるような事になっては、如何かと存じますが……」
 言う事はそれだけか、と余程言ってやりたかったが、春日大納言達と事を構えたくないのは私とて同じだ。私は胸を鎮めて、ゆっくりと深呼吸してから答えた。
「そのようですね。先刻は私も、少し言い過ぎました。言わでもの事を申したのは、行き過ぎだったかも知れません。
 しかし、弘徽殿女御の縁に連なる者として一言だけ言わせて頂きますが、弘徽殿へ参る折に承香殿の前を通る時、承香殿様に挨拶申し上げよ、との仰せには承服致しかねます。例え承香殿様の仰せであっても、これを容れる事はできません」
 私の毅然たる態度に、春日大納言は当惑して、源中納言と顔を見合わせる。すると、
「春日殿、源中納言殿、どうかお気を悪くなさらんで下さい。私共には、承香殿様を蔑ろに致す気持は毛頭ござらんのです。ただ帥宮殿はまだ若い、一本気な性分なものですから、理非曲直を明らかにせずにはいられず、ついかかる御無礼を働いてしまったのです。どうか私に免じて、帥宮殿をお許し下さい」
 高松権大納言が、妙に卑屈な声で割り込んで来る。何でこちらが許しを乞わなきゃならんのだ、と腹立たしく思ったが、口を開こうとした矢先に、春日大納言は、
「高松殿、面をお上げ下さい。高松殿に言われる迄もなく、私共は帥宮殿を咎める積りは毛頭ないのです。帥宮殿の御性分は、それはもう私共も、よく承知しております」
 続いて源中納言が、
「まあまあ、この事はこれで終いにしましょう。お互い、事を構える気はないと、わかったのですから」
 私は今一つすっきりしなかったが、そのうちに帝に召された。帝は私を近く招き寄せると、別段気分を害してもいない声で、
「先程、承香殿と諍いがあったそうだな。承香殿の金切り声が、ここまで聞こえてきたぞ」
 この声なら、いきなり殿上を停められる事はないだろう。私は安心して、型通りの口上を述べた。
「仰せの通りにございます。つまらぬ事で宸襟をお騒がせ奉り、申訳ございません」
 帝は頷いた。
「事情は春日大納言から聞いた。そなたの言い分も尤もだ。承香殿は少し、私の寵を傘に着ている節があるな」
「でしたらその御寵愛を、弘徽殿様にも少しお分け下さいませんか、弘徽殿様が余り肩身の狭い思いをせずに済むように」
 私の言葉に皮肉の匂いを嗅ぎつけられなかったのか、帝は感興を害した様子もなく、
「余りそう、私事に関する諌言はしないでくれないか」
と言っただけだった。
 夜、寝物語に今日の一部始終を話すと、光子は、
「嬉しいわ、貴方がそういう風に、はっきり物を言ってくれて」
と溜飲を下げている。
「私が嬉しかったのはね、帝が承香殿様べったりでないとわかった事だよ。承香殿様の御機嫌を損ねる者は誰彼構わず殿上を停めるような、そんな理不尽な事はなさらないとね」
 帝がそんな暗君であったら、私も宮廷で生き延びるためには、鹿を馬と言わねばなるまいが、そうせずに済むことで、人間としての矜持を保てることが私には心強かったのだ。
 その後、私は足繁く弘徽殿へ出入りした。光子から弘徽殿への文を預って行き、光子の近況などで弘徽殿と話に花を咲かせ、帰りには弘徽殿から光子への文を預って帰る、そんな日々であった。その途次、承香殿の前をこれ見よがしに素通りするような当てつけは、さすがに得策ではないと考えて、専ら清涼殿の北廊から弘徽殿に出入りしていた。それでも、承香殿前の廊下からは私が北廊を渡ってゆくのが見えるので、承香殿女御の癇に触っていた事は間違いない。
 七月十二日の宵の事だった。私は高松権大納言と連れ立って弘徽殿を訪れ、東の空に昇った月を眺めつつ、女御と四方山話に花を咲かせていた。そこへ女官が来て告げる事には、
「間もなく、主上のお渡りにございます」
 たちまち数人の女房が立ち上がって、席を整え始める。私は立ち上がって、
「では私共は、これで」
と一礼しようとすると、女官は、
「いいえ、帥宮様と高松権大納言様には、そのままお待ち頂くようにとの仰せです」
 私が坐り直して幾らも経たぬうち、女官の先導で、西側の北廊の先から帝が姿を現した。私は廂の間に手を突き、深々と平伏した。帝が奥の御座所に坐ったと思われる頃、弘徽殿の声が聞こえた。
「主上におかせられてはお変りもなく、祝着至極に存じます。本日はまた、一段と早いお越しで」
 帝は満足気な声で、
「うむ、そなたも元気そうで何よりだ。今日は帥宮達が、こちらへ参っていると聞いて、私も仲間に入れて貰おうと思ってね」
 私は平伏したまま、
「主上におかせられては……」
と紋切り型の口上を述べにかかったが、帝は軽く遮った。
「いや、そういう口上はよろしい。私とそなたの仲であろう、ましてここは後宮、固苦しい挨拶は抜きに致せ」
 私は顔を上げた。帝は御座所にゆったりと憩いでいる。この風格は、何のかのと言ってもやはり帝だ、と納得させられてしまう。
 帝は弘徽殿を見やって、
「近頃そなた、声に張りが出てきたようだな。もしかすると帥宮が、毎日のようにこちらへ参っているせいかな」
「まあ、主上、お戯れはお止しになって」
 弘徽殿は笑い紛らかすが、私は内心、びくっとする物を感じた。もしかして、万一、そんな事が……?
 と、その時、ざわざわと大勢の人が歩いて来る音と、尋常ならざる気配を感じた。はっとして東側を見ると、何人もの女房が手燭や几帳を持ち、承香殿から通じる廊下を渡って来る。廊下に控えていた女官が慌てて立ち上がり、行列に向かってゆく。行列と行き合った女官は、ばたばたと戻って来ると、廊下に手を突いた。
「申し上げます!」
「何だ」
 興醒めな声で尋ねる帝に、女官は、
「只今、承香殿様が、主上に申し上げたい事がございます故、こちらへ向かっておられます」
「承香殿が?」
 帝と私は、同時に声を上げた。私が慌てて口を噤むと、帝は当惑した様子で、
「承香殿は今日、物忌ではないか。それがここへ出向いて来るとは、何事だ?」
 一刹那の後、
「と、ともかく、殿舎へ退るよう……」
と帝が言い終わらぬうちに、廂の間に承香殿女御が姿を現した。のっけから喧嘩腰で、
「主上、やはりここにおいででしたのね」
 帝は困惑を隠そうともせず、しどろもどろになった。
「こ、これ、承香殿、時と場所を弁えよ、ここは弘徽殿ぞ」
 承香殿は帝の言葉など耳に入れる風もなく、傲然と肩を揺すって辺りを見回した。私を見つけると、足音荒く歩み寄り、甲高い声で、
「おや、こんな所に! さてはこの無礼者、弘徽殿に入り浸って、良からぬ企てでもしていたんでしょう、謀叛人の一族と!」
 殿舎の奥の方から、わっと泣き伏す声が聞こえた。私は怒りに息が止まりそうになり、かっと目を見開いて、承香殿を仰ぎ、睨みつけた。承香殿は負けじと私を睨み返したと思うと、
「何です、その目は! 控えなさい、痴れ者!」
 声高に罵りながら、手にした扇を畳み、びしりと私の額を撃った。ここに至って私も、堪忍袋の緒が切れた。私は荒々しく立ち上がり、力任せに承香殿の手から扇をもぎ取ると、承香殿を見下ろして大喝した。
「何を申すか、この慮外者! 主上の御前にありながら、弘徽殿女御と高松権大納言の両名を、謀叛人の一族などと貶めたる悪口雑言、のみならず親王たる私を痴れ者と罵り、剰え扇で額を撃つとは、これぞ前代未聞の慮外者、苟も女御の位にある者とは到底思えぬ! 私とそこと、いずれが痴れ者と呼ばれるべきか、しかと考えてみよ! そもそも物忌に服せし者の、殿舎より出でてここに踏み入りたる罪、軽からず! 今すぐ退れ! 二度とこの弘徽殿に、足を踏み入れるでない!」
「キィィィィィッ!!」
 承香殿は怒髪天を衝く勢いで、この世の物とも思えぬ金切り声を上げ、髪を振り乱して私に掴みかかって来た。私は少しも慌てず騒がず、素早く扇を懐へ滑り込ませると、承香殿の両手首を、がっしりと掴んだ。自制の利かなくなった承香殿の力でも、私の膂力には敵う筈もない。暴れもがく承香殿は、私に指一本触れる事もできない。
「そこ許達は、何をしている!」
 私は、承香殿に随いて来た女房達を怒鳴りつけた。女房達は慌てて立ち上がり、承香殿に取り付く。
「女御様、お鎮まり遊ばせ!」
「どうか、どうかお止め下さい!」
 女房達の声に交って、別の声が聞こえる。
「何の騒ぎです、これは!?」
 春日大納言、それに信孝もが、騒ぎを聞きつけて駆け付けたのだ。
「帥宮、手を放せ!」
 帝の声がした。私が承香殿の手首を掴んだままでは、女房達も承香殿を引き離しようがない。それに気が付いて手を放すと、女房達は承香殿を、私から引き離した。
「承香殿、退れ」
 帝の声に承香殿は、反抗する元気もなくなったのか、両腕をだらりと垂らしたまま、わあわあと泣き始めた。女房達に支えられて、廂の間を出て行く間も、辺り憚らず泣きじゃくっている。私は女房の一人を呼び止めて、承香殿の扇を返した。
 春日大納言や信孝も出て行ってしまうと、帝は心底疲れ切った声で言った。
「いやはや、承香殿にも困ったものだ。年甲斐もなく。帥宮、大丈夫か」
 私は坐り直し、深く平伏して答えた。
「私にはお構いなく。それより弘徽殿様を、慰めて差し上げて下さい。些か聞き苦しいお言葉をお耳にして、心乱れておいでのようですから」
 奥の方からは、まだ、さめざめと泣く声が聞こえる。
「ううむ、確かに、聞くに堪えぬ悪口雑言であった。高松権大納言も、気分を害したであろう。私に免じて、許してくれ」
 帝の言葉に高松権大納言は、
「許せとは、余りにも恐れ多いお言葉にございます。むしろ私の方が、帥宮殿をお許し頂くよう、伏して冀い奉ります」
 どうしてこう卑屈なんだろう。
 翌日になると、殿上の間は大騒ぎであった。承香殿が、私に面罵された悔しさと屈辱の余り、帝の許しも得ずに室町殿へ退出し、出家すると言って泣き騒いでいるのだという。両親は勿論、兄弟姉妹、従妹の藤壷女御迄もが説得に躍起になっているそうだし、帝も放っておけなくて、命婦を遣わして必死の説得を試みているのであった。私と一緒に参内した高松権大納言は、その様子を聞くや否や、今すぐ左大臣に詫びを入れに行くと言い出す。
「何故義父上が、詫びを入れなきゃならんのです。昨日帝の仰せられた事を、もうお忘れになったのですか」
 私が強く詰問するのにも、
「婿殿、そなたは何もお分りでない」
 権大納言は聞き入れず、さっさと出て行く。一体何が正しくて何が正しくないのか、全然解っていないとしか思えない。或いは大派閥に阿っているのか。どちらにしても、私から見れば到底肯んじ得ない事であった。
 十八日の夕方、信孝が高松殿を訪れた。恐縮し切る権大納言と対照的に、私は悠然と構えていた。信孝は西の対へ来て私と対面すると、言いにくそうに切り出した。
「承香殿女御の事では、帥宮殿の仰言る事は至極ご尤もです。まして姉が、帥宮殿を扇で撃ったというのは、言語道断の御無礼を働いたと、父も兄達も申しておりますが」
 ならばそれでいいではないか、と思っていると、信孝は一層困惑した様子で、
「誠に申し上げにくいのですが……どうか帥宮殿、口頭ででも結構ですから、姉にお詫びを仰言って下さいませんか」
 そんな馬鹿な話があるか。私は不快感をひた隠しに隠しながら尋ねた。
「何故私が、詫びを入れなければならないのですか。父君も兄君達も、私に理があるとお認め下さっているのでしょう。それなのに何故? 納得するに足る理由を聞く迄は、縦え信孝殿のお願いでも、聞き容れる訳には参りませんよ。私は自慢じゃないが帝をお諌めして、殿上停止を受けた事もある身、理非曲直をきちんとしない限り、何人たりとも私を動かせはしませんよ」
 高姿勢に出てやると、信孝は何とも言いにくそうに口籠っていたが、
「……実は、今日になって姉が、漸く態度を和げたのです。出家はしない、宮中にもお戻りする、しかし一つだけ条件がある、と。その条件というのが」
「私に詫びを入れさせる、というのでしょう」
 私は不快感を言葉に表わすまいとした。困り切った顔で頷く信孝に、私はゆっくりと言った。
「一体承香殿様は、御自分が何をなさったかお分りなのですか。信孝殿は御存じかどうか知りませんが、帝の御前で、弘徽殿様を謀叛人の一族、と罵られたのですよ。それはまあ、系図を見ればその通りですけど、世の中には、幾ら事実だからと云っても言っていい事と悪い事がある、そう思いませんか? あの一言が弘徽殿様の御心を、どれ程傷付けたか、承香殿様は御存知ないのでしょうか。そして私を、扇で撃った、よりによって額を。正気の沙汰とも思えませんよ。それだけ御乱行なさっておきながら、御自分が詫びるどころか私に詫びよとは、本末転倒も甚しい。こんな事では、参内なさった承香殿様と私や弘徽殿様が再び諍うのは時間の問題です。承香殿様の御心を、根本から叩き直さない限り、同じ事の繰り返しとなるだけなのは目に見えています」
 信孝は黙っている。
「とまあ、私は思うのですが、しかしここで私が貴方の申し出を蹴ったら、承香殿様の弟君としての貴方の立場もない。それで一つ、提案があるのですが」
 私が言うと、信孝は救いを求めるような顔で、声高に詰め寄る。
「どんな御提案ですか!?」
「今回の騒動は、双方に非礼があった事を、私も認める代り、承香殿様にもお認め頂く。その印として、承香殿様にも一言、詫びて頂きたいのです。と言っても、私に詫びてくれと申しても、はいかしこまりましたと仰言るような御方ではないでしょう。実現の見込み皆無な提案をして時間稼ぎをするのは上等とは思えませんから、次善の案を申します。承香殿様には、今回の騒動で一方的に罵られて、一方ならず御心を傷めておられる弘徽殿様に、一言お詫び申し上げて頂きたいのです。私に対しては、一言も仰言らずとも結構。私としては、これ以上の譲歩は、ちょっと無理ですね」
「……わかりました。すぐ帰って、そのように申し伝えます」
 私としては、これでも譲歩し過ぎたと思っている位だ。信孝の顔を立てたいために言い出した譲歩ではあっても、何か釈然としないものがある。
 翌日参内すると、春日大納言が、進退窮まったと言わんばかりの顔をしている。私を見ると、力なく歩み寄って来て、哀願するように言った。
「帥宮殿、昨日の御提案の事なのですが……」
「あれでは不満だ、とでも仰言るのですか」
 私がわざと意地悪く切り込むと、大納言は首を振った。
「今回の騒ぎでは、非は一方的に妹の方にある事は誰の目にも明白、にも拘らず弟の立場を損わないがために、御自分にも非があるとお認めになるという帥宮殿のお言葉には、父も私も感服の極み、申すべき言葉も知りません。ですが妹だけは……帥宮殿にお詫びする位なら出家する、と頑として聞き容れないのです」
「それは変ですね。私は次善の案として、私には一言も仰言らなくて結構ですから、弘徽殿様にお詫びして頂きたい、と信孝殿に申し上げたのですよ。その事を承香殿様に、しかと申し上げたのですか」
「はぁ……それが……」
 言い淀む大納言に、私は苛立ちを隠しながら重ねて尋ねた。
「どうなのですか。承香殿様に、しかと申し上げたのですか」
「……一応申したのですが……妹は、帥宮殿の申される事など聞くだに汚らわしいと、全く……」
 私は肩を竦めた。
「私からの提案、では、聞き容れて頂けないのなら、残る手段は唯一つ、ですね。拝謁をお願いしましょう。大納言殿も御一緒に」
 私と大納言は帝に拝謁を乞うた。私から事の次第を逐一話すと、帝は、
「帥宮、そこ迄譲歩してくれるのか。承香殿の我侭のために、帥宮には苦労ばかりさせるな……」
と感慨深げに溜息をつく。
「しかし、私にも面目という物がございます。これでも、二百歩は譲った積りです。これ以上はもう、一歩たりとも譲れません。もしもっと譲らねば、承香殿様の御機嫌が直らぬと仰言るのならば、私の一分が立ちません、承香殿様の代りに、私が……」
 と言いつつ私は、扇で髻を切る仕草をしてみせた。私の脅しは効果覿面、
「ま、待て、帥宮! 早まるでない!」
「そ、帥宮殿!」
 帝と大納言は、同時に叫んだ。私は扇を持ち直し、姿勢を正した。帝は、苦渋に満ちた声で呟く。
「承香殿には何としても、機嫌を直して欲しいが、そのために帥宮に髻を切らせては、私も一生悔いるだろうし、世の譏りも免れ得まい。何とかならぬものか……」
 私は手を突いて言った。
「そこで私、恐れながら申し上げます。今しがた申しました私の提案のうち、次善の案として申しました方を、主上の叡慮になる御仲裁として、承香殿様にお示しになられたら如何かと存じます。私からの提案ということで承香殿様が頑なになっておられるのでしたら、主上の御仲裁という体裁を取られれば、さしも頑なな承香殿様もお受けなさるのではと、それに恐れ多くも主上御自らの仰せとあらば、承香殿様とて無下にお断りはできますまい」
 大納言が、待っていたとばかり、
「それは名案! 主上、私からも申し上げます、帥宮殿の申される通り、畏くも主上御自らの叡慮による御仲裁として、女御に賜るよう、伏してお願い申しあげます」
と早口で言って、額を床に着けて平伏する。帝も、それがいいと思ったのだろう、漸く愁眉を開いた様子で言った。
「宜しい、帥宮の申す通りにしよう。春日大納言、承香殿に申し伝えよ。帥宮の申した次善の案、即ち承香殿は弘徽殿に、聞き苦しい言動のあった事を詫びる事、帥宮は非を認め承香殿に詫びる事、これが私の仲裁案であるとな。その他の事は何も言わぬ、私の許しなく後宮を退出した事も不問に付すと」
「ははっ、承知仕りましてございます」
 大納言は再び平伏した。
 御前を退るが早いか、大納言は早速退出した。大納言にとっても、これが最後の瀬戸際であったろう。説得に失敗したら、帝の仲裁を不成功に終わらせた事になり、成行き次第では大納言が出家する破目に陥らないとも限らない。私と承香殿、大納言の三人もが揃って出家するような事になっては、帝の権威も失墜する。そうなると事は天下の大事である。
 私から言い広めた訳ではないが、その日のうちに話は広がった。特に私が、これ以上譲歩させられるなら出家する、と脅し文句を吐いたのは、私の決意の程を天下に明らかにしたものと受け取られたらしい。会う人会う人、皆私に同情的で、中にはこんな事を言う人もいる。
「ここで帥宮殿に出家されては、承香殿をつけ上がらせるだけですぞ。私共の為にも、帥宮殿には宮中に留まって頂かないと」
 こう言ったのは、誰あろう尹中納言であった。私は唇を歪めて囁いた。
「たかが女と喧嘩した位で、出家なんか出来ますか。そうとでも言わなければ、春日大納言を本気にさせられそうにないからですよ」
 高松権大納言は話を耳にすると、顔色を変え、場所もあろうに殿上の間で私を拝み倒さんばかりに、
「帥宮殿に出家などされたら、私はどうすれば良いのです、結婚して一月しか経たない娘は」
と、今にも泣き出しそうな声でかき口説いて、他の公卿の失笑を買っている。公卿達の手前、あれは春日大納言を本気にさせるための出任せだったとも言えなくなって、返答に窮した私であった。
 高松殿へ帰った私が、光子の部屋へ入ってゆくと、帳台の中に臥せっていた光子は、がばと撥ね起きて帳台を飛び出し、私に抱き付いてきた。泣き腫らした目で私を見上げて、
「貴方、出家なんか、しちゃ嫌よ、絶対、しないで、ね、お願い、ね!」
と言いもあえず、私の胸に顔を埋めて、さめざめと泣く。
「私が出家するなんて、誰が言ったの」
 承香殿と大激突して以来の騒動を、私は光子には何も知らせていなかったし、今日も高松権大納言は私と一緒に帰って来たのだから、光子に今日の事を知らせる暇はない筈だ。不思議に思って尋ねると、光子は私の胸に顔を伏せたまま、しゃくり上げながら、
「昼間……お姉様から、お手紙があったの……。お姉様も、とっても心配してらっしゃるわ……」
 弘徽殿は恐らく、高松権大納言から聞いたのであろう。何と言って慰めたものかと思案しながら、光子の髪を撫でていると、光子は不意に顔を上げ、血走った目で私を凝視し、思い詰めたように口走った。
「どうしても出家するって言うんなら、私も出家する! 出家して、熊野で修行して、女修験者になって、承香殿、承香殿に味方する人達、一人残らず呪い殺してやる!」
 それ程迄に私を、と、ほろりとさせられそうになったが、そもそも私自身、出家の意図など毛頭ない以上、要らざる興奮はさせない方がいい。私は微笑んで言った。
「貴女に言われなくとも、私には出家する気など全然ないよ。貴女を残して、出家など出来るものか。出家すると言ったのはね、そうとでも言わないと、承香殿様の兄君や父君が、承香殿様の説得に本気にならないと思ったからだよ」
「……そうなの?」
 小首を傾げて私を見上げる光子に、私は優しく言った。
「そうだよ。だからもう、心配しないで。悪かったね、余計な心配をさせて」
 翌日、夕方になる迄、春日大納言も信孝も参内して来なかった。それでも、大して気を揉んでもいなかったのだが、出家すると言い出した私の真意を知らない多くの貴族達は、気が気でないらしい。
 夕方になって、二人が揃って参内してきた様子を見て、私は事態を察した。二人とも、漸く愁眉を開いた安堵感に、体中の力が抜け切ったような有様だったからだ。
「やっと妹も、折れましたよ」
 春日大納言は、ほっと溜息をつきながら言う。何のかのと言っても、やはり帝の名前の威力は大きい。あの承香殿も、帝の名前での仲裁は、受け容れない訳には行かなかったのだ。
「つきましては、今夜室町殿に、御足労願いたいのですが、宜しいでしょうか」
 大納言は切り出す。私から承香殿に詫びるという体裁を取る以上、私が出向くのが順当なところだ。私は快諾した。
 夜になって私は、室町殿へ行った。まず寝殿へ通され、左大臣と対面した。大納言、源中納言、信孝も同席している。
「この度の事では、私共皆、帥宮殿には頭が上がりません。漸くこう決着を迎えられたのも、偏に帥宮殿が、御自身のお立場を無にして譲歩して下さった御蔭です。本当に申訳ござらん。倫子に代って、お詫び申し上げます」
 左大臣は深々と平伏する。
「左大臣様、どうかお顔をお上げ下さい。承香殿様と諍い、諍った挙句に承香殿様を御出家させ申すような事は、私とて不本意なのです。何と申しても、帝がお気の毒です。私が譲る事で、承香殿様に御機嫌麗しく参内なさる事が叶い、帝も御安堵なされるのなら、それでいいと思っております」
 私の言葉に、左大臣以下揃って平伏した。
「はぁ……何とも勿体ないお言葉で……」
 それから承香殿に詫びるために、西の対へ案内された。左大臣や大納言達と並んで廂の間に入り、口上を述べようとすると、女房が言うには、
「帥宮様には廂の間にはお入りにならず、簀子へお入り願いたい、との事にございます」
 何だそれは。しかし、ここまで来て承香殿と諍っては帝や左大臣達の立場がない。今日この場限りは、どこ迄も卑屈になってやろう。
「わかりました。建物に上せて頂いただけでも、良しとしなければ」
 顔を曇らす左大臣達に、私は何でもないように言って、簀子へ退った。しかしここからでは、余程大声を上げなければ承香殿には聞こえない。私は簀子に手を突き、声を張り上げた。
「この度は恐れ多くも主上御自ら御仲裁遊ばせられ、女御様には御仲裁をお受け容れなされたる由、祝着至極に存じ奉ります。……」
 内心、この高慢ちき、私に詫びさせてさぞかし溜飲を下げた事だろうよ、と思いながらも、丁重に言葉を選んで、綿々と詫びた。
 詫び終わっても承香殿からは、何の反応もない。やがて女房が現れて言った。
「承香殿様は、帥宮様のお詫びを、確かにお聞きになりました。ただ、御気分が優れない故、弘徽殿様へのお詫びは、後日改めて申し上げる故、本日はお引き取り願いたい、と申しておられます」
 そう言っておきながら、明日になったら弘徽殿に詫びる約束など反故にするのでは、と思いはしたが、それを言う訳にもゆかぬ。私は黙って引き退った。平身低頭しっ放しの左大臣達に送られて、私は室町殿を後にした。
 承香殿が参内したのは、翌々日の事であった。私の予想に反して、と言おうか、参内するや否や弘徽殿に、女房を通じてではあったが詫びたらしい。承香殿が誠意を見せたのか、或いはそれとも、帝の名前での仲裁による約束を反故にしたら帝の心証を著しく害すると計算したからであろうか。ともあれ、後宮から発した大騒動は、十日ばかりで一応の決着を見た。
 しかし、と私は考えた。結局、事の成行き上私が著しく譲歩して、承香殿の参内を見た訳だったが、もし私が一歩たりとも譲歩せず、承香殿の出家にまで突き進んでいたとしたら、どうであっただろうか。承香殿の出家こそ、澄子を見看った時に私が決意した、帝への復讐の、最も大きな成就と言えるのではなかっただろうか。そう考えると今回の私の行動は、労せずして帝への復讐を成就する道を、自ら進んで閉ざしてしまったのではないか。私とした事が、どうしたのだろう?
 いや、こう考える事にしよう。私が帝の后妃を公然と辱しめ、出家に至らしめたとしたら、それは私の立場・世評、帝の私への心証を悪くせずにはいるまい。帝も貴族達も、私の言い分と承香殿の振舞を見れば、私に理があると頭では判断しても、実際にそれで承香殿が出家してしまったら、若い身空で妃の地位を擲って出家した承香殿に同情するに違いない。承香殿への同情は、私への反感と表裏一体である。本当に後宮から承香殿がいなくなり、その契機が私にあるとなれば、帝の私に対する心証は間違いなく悪化するし、他の貴族も、我を通し続けて女を出家させた私を大人気ないと見るであろう。そういった状況を想像してみれば、今の状態の方が明らかに私にとって有利である。誰の目にも正当性が明らかな自分の立場を、敢えて貶めてまで和解案を出し、帝を動かして和解に漕ぎつけた私を、貴族達はこぞって褒め、同情し、私の評判は上がる一方である。帝の私に対する心証も、大分良くなった筈である。もっとも考えようによっては、私は帝と、左大臣を初めとする承香殿の周りの貴族達に、大きな貸しを作る事に成功した、とも言えない事はない。そこまで計算ずくで、一連の行動を取った訳ではないのだが。
(2000.12.26)

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