岩倉宮物語

第十七章
 露顕の儀を済ませてしまうと、私は高松権大納言家の一員になり、生活は高松家に丸抱えとなる。そうなると生活の拠点も、自ずと妻の邸の方へ移る訳で、私の周りの既婚者達を見ても、大抵は妻の邸に居ついていて、信孝のように実家にちょくちょく帰るのはむしろ珍しい方である。それで私も、この高松殿に居つく事になるのだが、前触れもない結婚故、私の家の者は何も知らない筈である。そこで一旦自邸へ戻って、家の者皆に周知させなければならない。
 光子と一緒に朝飯を済ませた後、私は権大納言に会って、その旨を申し入れた。私の心証を害する事を最も恐れている権大納言が、否と言おう筈もない。
「それは至極尤も。お邸の方々も、昨夜はいかなる事がと思っておられよう」
 早速、権大納言の指図で、私の車の支度が整えられた。雑舎あたりで寝ていたらしい従者や牛飼達も、皆それぞれに禄を貰っている。禄を貰った事で、何か特別な事が起こったのに気付いているらしく、そんな従者達の視線を集めながら車に乗るのは、幾分面映ゆいものを感じる。
 邸へ帰ると、近江が迎えに出て来た。
「お帰りなさいませ。昨夜は、高松殿にお泊りだったのですか」
「うん。早急に皆に知らせなければならない大事な話があるから、家中の者を皆、寝殿に集めてくれ」
「かしこまりました」
 近江はいつものように、何も詮索せず私の指示を忠実に実行する。寝殿の大部屋に行くと、幾らも待たないうちに女房から門番まで、家中の者が三々五々集まってきた。全員集まったところで、私は一同を見回して言った。
「私はこの度、高松権大納言殿の姫君と結婚した」
 結婚する事になった、と言ったと思ったのだろうか、近江が、
「お日取りは、いつでございますか」
 私は穏かに言った。
「結婚した、と言わなかったか? 昨夜、露顕の儀を済ませてきたところだ」
 近江を始め、他の者達も、余りにも突然の出来事に驚き、当惑し切っている。私は続けた。
「突然の事で意外に思ってるだろうが。それで近日中に、高松殿に引越す事になった。勿論この邸を手放す訳ではないから、留守居の者は残していく積りだが、女房達内働きの者達には、一旦暇を出す事になる。その上で、私に奉公し続けたいと願う者には、高松殿に奉公替え、という事になる。いいかな」
 留守居には、門番を始め数人残しておけばいい。その他の奉公人は、奉公替えするか里に退るか、いずれにしてもこの邸での勤めは止める事になる。
 その日私は、奉公人に一人ずつ会って、今後の身の振り方を聞いた。大体は里に退るか留守居に残るか、すんなりと決まったのだが、一人問題になったのがいる。九条であった。昔私が下京の田舎に沈淪していた折に恩義あった人、という触れ込みで邸に住まわせていた都合上、私が邸を出てゆくからと言って出て行かせる訳にもゆかず、それに邸を出た九条が、万一室町殿にいる甥の守実を頼るような事になったら一大事である。一年余り前に死んだ事になっている九条(守実は外記という名前でしか知らない筈だが)が守実の前に姿を現したら、どうなる事か。もっとも、守実が私を詰問したとしても、外記が死んだと偽ったのは全て綾子のやった事で、私は一切与り知らぬ事、私は綾子に言われるままに、外記を預っていただけだ、と開き直ったら、それで済んでしまわないか。守実が私の言葉の真偽を確かめようにも、問い質すべき当の綾子は、昨年七月末以来、杳としてその行方が知れないのだから――本当の行方を知っているのは私だけだ……。
 九条本人に会って意向を聞いてみると、案の定、
「姉も守実も、私からは何の連絡も取れないのですから、私にとってはもはやいないも同じ事、お縋りできる御方は帥宮様唯御一人ですわ」
 出て行く気はさらさらない、という口調だ。しかし近江達の手前、留守居に残して行くのも不都合だし、私の目の届かない所にいては万一という事がある。
 考えあぐんでいるうちに夜になった。私は女房達に見送られて、牛車で高松殿へ行った。新婚二日目とあって高松殿では、下にも置かぬ歓待ぶりで、車宿に権大納言自ら迎えに出て来た。権大納言は得意満面、私を婿に取った事を誰彼構わず吹聴して回って来た、という顔をしている。
「ささ、婿殿、こちらへ。夕飯の膳が整っております」
 権大納言は私の手を取って、西の対へ導こうとする。ところが私は、自邸で既に夕飯を食べて来ているので、これは辞退するしかない。
「いや、折角ですが夕飯は、家で済まして来ましたので」
 権大納言は、がっかりした様子を隠そうともしない。私の方が気を遣って、
「どうか悪く取らないで下さい。今日は偶々、家の方で色々と取り込んでまして、こちらへ伺うのが遅くなりそうだったものですから」
 権大納言が少しは機嫌を直したと見たところで、私は切り出した。
「それはそうと義父上(この一言が、抵抗なく出て来たのは我ながら意外だった)、私がこちらに婿入りするに当たって、多少御相談したい事があるのですが、少しお時間を頂けますか」
 義父上、と呼ばれて気を良くしたのか、権大納言はにこにこして、
「私で良ければ、どんな事でも、今すぐ御相談に乗りましょう」
 そこで私達は、寝殿へ行った。
「義父上は御存じと思いますが、私は今の家には独り住まいで、親類とは別居しています。ですから、こちらに婿入りして、毎日こちらで暮らすようになると、今の家は主人がいなくなって空家になりますから、一遍全員に暇を出す事にしました」
 私が話し始めると、権大納言は頷きながら聞いている。
「女房達の中には、今後も私に奉公したいと言う者も何人もおりまして、こちらに奉公替え致したいと申しております。女房達の気持も良くわかりますし、私としても前から使っていた女房の方が気心が知れていますから、こちらで雇って頂いて、私付きにして頂けるよう、良しなに取り計らって頂きたいのですが。こちらでもう、私付きの女房を何人もお雇いになっているとは思うのですが、勝手なお願いとは承知の上で……」
 私が言い終わらないうちに、権大納言は、
「いやいや、御心配には及びません。実は私の方でも、婿殿に付けて差し上げる女房を雇い入れるのは、何となく延び延びになっておりましてな、まだ二人しか内定していないのですよ。家内が、もし婿取りがうまく行かなかったら無駄になる、などと申しまして」
と言って笑った。
「で、婿殿に奉公を続けたいと申しておられる女房方は、何人ですかな」
 私は考え考え答えた。
「はっきりそうしたいと申しているのが三人、それからもう一人、女房として奉公させるにはどうか、と思うのがおります」
 高松殿に奉公替えしたい、とはっきり表明し、私も異存がないのは、近江、桔梗、村雨であり、今一人とは言う迄もなく九条であった。少納言は、伊勢に老いた両親を残しているので、この際京暮しを止めて里へ帰り、親孝行がしたいと言うのだった。
「どうかと思われる方が一人、とは、如何なる事ですかな」
 予想通り権大納言は、答えにくい所を突っ込んで来た。軽々しく口にするのは危険だとは思うが、変に曖昧にすべきでもないだろう。
「……以前私が、下京の方に沈淪しておりました時分に、一方ならずお世話になった人がいるのですが、永い間にその人の方がすっかり零落してしまったので、私の家に住まわせて面倒を見ているのです。元々そこそこに身分のある人で、それに昔お世話になった人ですから、女房勤めをさせるのも気が引けるし、さりとて私が家を出た後に一人で残しておくのもどうかと思うので」
 九条に女房勤めをさせたくないというのは、一つには近江達に対する用心であり、今一つは、女房として働くとなれば邸を訪れる貴族やその従者と接触する機会が多くなる事であった。九条が高松殿に奉公するようになったとして、もし信孝が高松殿に来たら、その時もし守実を伴って来たら、死んだ筈の外記とばったり再会――という事が起こりうる。
「それは、婿殿のお考え次第ですな。私がとやかく申すべき筋合いの事でもありませんし、婿殿のお望みとあらばどのような事でも、出来る限り沿わせて頂くだけですからな」
 権大納言は、さして気にも留めずに言った。
「では、その人の件は二三日中に結論を出す事にして、他の三人については早いうちにこちらで雇って頂くよう、お願いしても宜しいですね」
 私が念を押すと、
「勿論です。出来るだけ早いに越した事はない、今夜のうちに家内と女房頭に申し伝えて、明日にでもここへ来られるように致します」
 権大納言は自信を持って確約した。
 権大納言との相談を済ませてから、私は女房に頼んで湯を使い、汗と垢を洗い落とした。昨日はそうする暇もなかったのだが、光子との夜を迎える前に体を清めて、汗臭さで光子に不快感を与えるような事のないようにしようと、誰に言われるでもなく思い立ったのだった。昨夜光子の髪が、汗でではなくて幾分湿っていたのに私は気付いていたが、それが私に今日、湯を使う事を思い立たせたのだろう。
 事果てて後、私の腕の中で、すやすやと静かな寝息を立てて眠っている光子の、屈託のかけらもない幸せそうな寝顔を見ていると、桐壷を征服しおおせた時の残忍な勝利の快感とは全く異質な、安堵感にも似た物を感じるのだった。二年近く前から、私だけを一途に恋し続けてきたという光子にとって、私への恋を成就せしめる事が、唯一最大の願いだったに違いなく、従って私が、途中経過はどうあれ光子との結婚に踏み切った事によって、光子はその願いを叶えたのであった。光子を幸せにし、その幸せをいつまでも確かな物として保つ事、それは必竟、私にとっても、澄子の追憶という桎梏から離れ、私自身の新たな幸せを見つけ出して、それを光子と共有する事であろう。それこそ、澄子が生前、否、今でも、最も切実に願っている事ではないだろうか。
 翌日私は、高松殿で新調された装束に身を包み、権大納言と同車して参内した。殿上の間に入ってゆくと、居合わせた貴族達の視線が、一斉に私達に集中するのを感じた。痛い程の視線に居づらくなって、ちらと権大納言を見ると、権大納言は皆の注目を集めているのをむしろ晴れがましく思っているようで、少しも怯まず喜色満面である。
「御結婚おめでとうございます、帥宮殿」
 皆口々に祝いの言葉を述べるが、その口調と表情に隠された微妙な動きを、鋭い目を以て観察してみると、素直に喜んでいるとは思えない者が何人もいる。春日大納言や信孝といった辺りが、さしずめその最右翼であろう。就中信孝は、丁度昨年の今頃、妹の佳子を私の妻にと画策していた張本人である。対立派閥という事を抜きにしても、出し抜かれて私を攫われた事に、してやられたと臍を噛む思いに違いない。さりとて、高松権大納言に先手を取られようがどうしようが構わぬ、貴族の一夫多妻は当然の事、負けじと私を婿に取って総力を結集して傳き、高松殿から遠ざけてやろう、その上で父左大臣を動かして、高松権大納言に様々な圧迫を加えさせれば充分だ、などと考える程あこぎではないのが、信孝という人間だ――もし、そんな事を考え、実行に移すような人間だったら、即座に絶交だが。
 席に着いて幾らも経たぬうちに、私は帝に召された。
「帥宮も、とうとう結婚したな。しかし、一昨日露顕を行ったという事は、五日から高松殿へ通っていたのだろう。何故私に、一言も話してくれなかったのだ? 水臭いではないか」
 帝は、幾分怨ずるような声で言う。本気で不快に思っているのではないと思うが、ここで私が事の真相を言うのは、高松権大納言に対する重大な背信行為だ。
「いずれ明らかになる事ですし、それにこんな私事で、宸襟を煩わすには及びますまい」
 私は、当り障りのない事を言った。帝は大して訝る様子もなく、
「去年の今頃、信孝が佳姫の婿探しに宴を催して、そなたを招いたそうだが、信孝はそなたを佳姫の婿にと考えていたらしいな」
 あの宴が佳子の婿探しの宴だとは、表立っては誰も口にしていないのに、帝までが事の内実を知っているというのは意外だった。
「あの後、まあ、色々な事があったが、入内話も立ち消えになった後で、やはりそなたを婿に、と考えていたようだ、最近信孝から聞いたのだが。そなたにも、そうと打ち明けた事があると申していたぞ。それなのに何故、今迄親しくしているとも見えなかった高松大納言と縁組みしたのか、わからないな」
 帝は不思議そうに言う。私は幾分不快になって、黙っていた。
 私だって、本命は佳子と思っていたのだ。もう数日早く、左大臣に申し入れていれば、今頃私は室町殿の婿となっていた筈である。それを躊躇しているうちに、まるっきりペテンとしか思えないやり方で、高松殿の婿として披露されてしまったのだ。だが、その事は今更後悔しても始まらないし、光子に会って私の考えは変わった。光子を幸せにする機会が現実に訪れた以上、私の力の限りを尽くして、光子を誰よりも幸せにするよう努めよう、それが澄子への、本当の供養になるであろう、と思い定めたのだ。
「まあ、妻は一人と限られたものではないからな、他の姫と結婚したくなったらすればよい、それに……」
 そういう男が、女を不幸にするんだ、と俄に腹立たしくなったのを顔に出すまいと努めていると、帝は一層さりげなく、
「高松権大納言なら、尹中納言よりはましだ。そなたが土御門派と手を組むような事だけは、黙って見過ごせないからな」
 何なんだ、その言い草は。私は目を見開いて帝を見上げ、きっぱりと言った。
「主上、何なのですか、今のお言葉は。仮にも権中納言兼弾正尹の地位にあり、宣耀殿女御の父君であられる方を、左様に名指しで貶められるようなお言葉を、よもや帝がお口になさるとは思いませんでした」
「なっ……」
 見る見るうちに、帝の顔が強張った。私は些かも臆せず、殿上の間にも聞こえるような声で続けた。
「ここは公の場です。隣の殿上の間には、様々な派閥に属する方々がいます。それらの方々に聞こえるような所で、特定の派閥や人を名指しで貶めるような御振舞は、帝王たる者、厳に戒められるべきと存じます」
 帝は、変な具合に顔を歪めて、
「ふん、帝の傅の言葉とあらば、耳に入れぬ訳にもゆくまい」
と言うや否や、気味悪い声で哄笑した。しかしその笑い声は、場の雰囲気を和ませるどころか、一層険悪にしただけだった。私は頬をぴくりとも動かさず、眉間に皺を刻んで帝を見上げていた。
 やがて帝は笑い止んで、私を見返すと、
「もうよい、退れ」
 私は慇懃に頭を下げながら、傲岸に肩を聳やかして退出した。殿上の間へ戻ると、貴族達は私を、また帝と喧嘩してきた厄介者、というような目で見る。その中にあって尹中納言と高倉権中納言だけは、私を見るまなざしに賞讃の思いが潤み出ている。自分が言ったら即座に殿上停止となるような、それ故に自分からは言い出せない事を、敢然と代弁してくれたと感謝しているような目だ。私は二人に、軽い会釈を返した。それを鋭く見咎めて、隣同士何やら耳打ちし合う者達がいる。このような事で、帝との間に疎隔を生じ、最有力派閥である近衛派にも隔意を持たれる事になるとすると、将来的に見て得策とは言い難いとは思うのだが、それでも帝の理不尽な言動に接すると、それを諌めずにはいられない、それが私の性分なのであった。
 その日私は、昼のうちに自邸へ帰り、目下最大の懸案事項である九条の処遇について、今一度本人と話し合った。
「いつになったら守実と連絡が取れるのか、一向にわからないまま、もう一年にもなりました。もしや守実は、私の事を忘れてしまったのではありますまいか。と申しても、私からは何もできませぬ。私にお指図を下さるべき姫様も、いずこへ行かれたやら」
 九条という人間の、この律儀さは大したものだ。ある筈のない守実からの指図、既にこの世にない綾子からの指図を、何一つ疑いを差し挟む事なく、一年もの間じっと待ち続けているのだ。私が溜息をつきながら黙っていると、
「聞きますれば帥宮様付きの女房方は、皆帥宮様にお従いして、高松殿へ移られるとか」
 私は頷いた。
「うん。だから九条も、決してなおざりにする積りはない。だが九条は、私の客分であって、権大納言殿には何の縁もない人だ。それを、高松殿に預って頂くという訳にも行かない」
「ならば私も、女房の一人として、高松殿に奉公させて頂きとうございます。私は永らく姫様の乳母として、女房勤めには慣れております」
 九条は私の前に手を突いた。私は首を振った。
「その気持はよくわかる。だが……初めに九条をここへ迎え入れる時に、私が昔世話になった人で、そこそこの身分の人だと、家中の者に信じ込ませてしまったから……近江なんかも、九条を客分として接して来ただろう、それが今になって近江達と同列に扱ったんじゃ、近江達が不審に思う筈だ。それは避けたいんだ、私としては」
 九条は顔を曇らせた。ややあって、
「元は如何程の身分でもあれ、今は帥宮様のお邸に食客となっている身ですわ。村雨が奉公致している事ですし、私が女房として奉公致すのに、何の不都合がございましょう。今の世の中、身の浮き沈み、有為転変はありふれた事ですわ」
 私は腕を組んだ。不安気に、上目遣いに私の顔色を窺う九条に、私は思い切って言った。
「わかった。九条の言う通り、女房の一人として高松殿に奉公させよう。九条自身がそうしたいと言い出したのだから、と言えば近江達も納得するだろう」
「有難うございます!」
 九条は深々と平伏した。
 私は早速近江と村雨を呼び、九条の処遇について話した。近江の顔には、何故九条が今頃になってそんな事を言い出したのか、と訝る色が見える。口には出さず、顔にも出さない、それが近江という女房なのだが、その近江の顔に僅かに現れる表情の変化を、近年の私は読み取れるようになってきた。
 私は日のあるうちに高松殿へ行き、九条の処遇が決定した事を権大納言に告げた。
「すると婿殿にお付きしてこちらへ奉公替えする女房方は、四人ですな。私共の方で雇い入れたのが二人で、合せて六人。まあ、もう少し多くても良い位でしょうな」
 話はすんなりとまとまって、女房達の引越しは十一日と決まった。
 結婚から三日目に当たるこの夜、灯籠の火を竈に移す、火合せの儀が行われた。この灯籠の火は、一昨日の夕刻、私の邸に取りにやらせた松明に点してきたのを、二日二晩焚き続けてきたのだという。あの時、日が暮れるのを待つかのように私の邸へ松明を取りにやらせたのは、私にそうと気付かせず、ごく自然に私の邸から火を持って来させるためであったのだ、と私は今になって悟った。
「全く大した策士ですよ、義父上は」
 私が感心半分に言うと、権大納言はにやりと笑った。
「馬齢を重ねた甲斐もなく、こんな事にしか賢くなれませんで」
 勿論今の私には、そんな権大納言を恨むような気持は全く消え失せていた。事の経過はどうであれ、光子を幸せにする機会が私に与えられた事、光子が満身に受け止めようとしている幸せを、より確かな、実りあるものとする責任そして権利が私に与えられた事、それだけであった。
 その夜更け、ふと目を覚ますと、隣で眠っている筈の光子とは異なる気配を感じた。微かな明りの中で目を凝らすと、臥している光子の向こう側に、澄子が坐っている。
 これは夢だ。私は心の中ではっきりと悟りながら、ゆっくりと身を起こした。
「正良、この女が、貴方と結婚した女ですか」
 澄子はそっと手を伸ばし、眠っている澄子の胸の上に置いた。私は突如、光子が連れ去られるのでは、という不安にかられ、無我夢中で澄子の手を叩き払った。
「光子に手を触れるな!」
 澄子の顔に、さっと翳りがさした。私は言い募った。
「成程私は、光子にはこれっぽっちも恋してなどいなかったし、光子と結婚する気もなかった、一昨日までは。しかし今は違う、確かに今でも私が、本当に恋しているのは澄子、貴女一人だけだが、でも私は、光子を、私を誰よりも恋している光子を、力の限り幸せにする、貴女がこの世で幸せになれなかった分まで、幸せにすると、一昨日の夜、決心したんだ。だから、澄子、貴女であろうとも私を邪魔させはしない、死霊に手など、触れさせてたまるか!」
 澄子は、穏かな笑顔に戻って、私をたしなめるように言った。
「何を怒っているのです、正良。私が光姫を、攫ってゆくとでも思ったのですか」
「この女」から「光姫」と、澄子の言葉が変わったのに私は気付いた。澄子は再び手を差し延べ、光子の胸の上に置いた。私が黙って見つめていると、澄子は光子の安らかな寝顔を見下ろし、しみじみと溜息をついて言った。
「……何て安らかな、お顔でしょう」
 それから顔を上げて私を見つめた。
「正良、貴方は光姫を、力の限り幸せにすると言いましたね。そう決心した時の心を、決して忘れないようにしなさい。何故ならそれが、光姫を、いえ、人を愛する事だからです。貴方は遂に、人を愛する事を知りましたね。
 私は信じています。貴方はきっと光姫を、誰よりも幸せにしてあげられると。私には光姫が今、お生まれになってから一番の幸せの只中にいらっしゃるのが、よくわかります。御覧なさい、幸せを存分に味わい、この幸せがいつ迄も続く事に、何の不安も抱いていらっしゃらないこの御顔を……」
 澄子は少し言葉を切り、これ迄になく安らかな声で言った。
「……私はやっと、正良、貴方を心の底から祝福できます。貴方と光姫の幸福が、いつ迄も続くよう、陰ながら、切に願っています。貴方が真実の愛に目覚めてくれた今、私はもう現世に心残りはありません。安心して極楽浄土へ参れます。私は今、とても幸せです。どうか正良、私がもう二度とこの穢土へ戻って来なくてもいいように、そして私の心を乱し、期待を裏切る事のないように、全うな人生を送って下さい。貴方が真実の愛を知った人に相応しい、立派な、幸せな人生を送って、そしていつか、極楽浄土に迎えられ、蓮の花の上に坐る日を、私は待っています。その時まで、私はこの穢土には参りません。極楽浄土でまた会う日まで、さようなら……」
 衣擦れの音をさせて、澄子は立ち上がった。私は思わず、腰を浮かせた。
「待って! 行かないでくれ!」
 口走りながら、澄子の袖を掴もうと差し延べた手から、澄子の袖はするりとすり抜けた。澄子は私に背を向けて、静かに立ち去ってゆく。後を追おうとしても、不思議な事に足腰が全然動かない。精一杯伸ばした手は虚しく空を掴んだだけだ。遠ざかってゆく澄子の後ろ姿に向かって、私は精一杯叫んだ。
「澄子ー……!」
「誰!? 澄子って、誰なの!?」
 かなり気色ばんだ光子の声と、乱暴に肩を掴まれて揺すられたのとで、私は目を覚ました。
「……うーん……」
「ねえ、誰なの、澄子って!?」
 光子は重ねて詰問する。こんな事で、光子に誤解されたり嫉妬されたりしてはつまらない。私は当り障りなく答えた。
「私の従姉だよ」
 すると光子はどう思ったのか、
「本当に? 恋人じゃないの?」
 妙に低い声で突っ込んでくる。実際、従兄弟姉妹で恋人関係にあったり、結婚していたりするのは、私の周囲にも稀ではない。私は真顔で答えた。
「そう、恋人でもあった」
「まっ……」
 怒りを露わにする光子に、私は低い声で、
「従姉は、もう疾うに亡くなったんだ。亡くなった女に嫉妬して、どうなると言うんだ」
 光子の怒りが雲散霧消していくのが、暗がりの中でも感じられた。私は穏かに、
「従姉は生前、私が後に残されたら、失恋の痛手の余り生きる気力を失ってしまうような事にならないかと、心配していたんだ。私が貴女と結婚したのを知って、これでもう現世に心残りはない、と、貴女と私を心から祝福してくれたんだ、今、夢枕に立ってね」
 光子は、すっかり打ちしおれた声で、
「……そうだったの。御免なさい」
「いいんだよ」
 光子は体をすり寄せてきた。私は光子を抱き寄せ、幾分汗ばんだ髪を撫でた。
 翌十日、私の邸から私物が運び込まれ、同時に、高松殿の方で私のためにと新たに雇った二人の女房との対面が行われた。衛門と伊勢という、どちらも三十前後の歳で、かなり年季の入った女房、という面構えをしている。桔梗、村雨、それに九条を加えて、それを近江が束ねるという状況を想像してみた。経験豊富な実力者で固めた、強力無比な実務型布陣と言えなくもないが、華やかさには著しく欠けると言わざるを得ないし、六人中四人が顔馴染みという事もあって、男として心浮き立つという事はなさそう――だからどうした、と私は強くかぶりを振った。私には光子がいる、光子に対する背信行為だけは、決してしてはならないと、固く決心したばかりではないか。
 翌十一日、牛車二台に分乗して、近江達四人の女房が高松殿に移って来た。近江達は、まず高松殿全体を仕切る女房頭の、大納言という老女房に目通りを済ませてから、西の対へ来た。ここで、新たな同僚となる伊勢と衛門にも引き合わせた後、各々の曹司に分れて入らせた。
 こうして、私の新しい生活が始まった。私の生涯において、庶民から貴族社会に出て来た時に次ぐ、二度目の転機であった。
(2000.12.21)

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