岩倉宮物語

第十三章
 翌日私は、何事もなかったように参内した。参内してみると、殿上の間は妙にざわついている。そのうちに事情は明らかになった。
「晴姫が昨夜、後宮から姿を消したらしい」
 帝は私を召して、不安そうな顔で言った。
「おやおや。しかし、晴姫の事ですから、主上には何も申し上げずに、どこかへ出歩いているのでは」
 わざとらしく驚いた振りをしてから、出任せを言ってやると、帝はそれを遮って、
「私に何も言わなくたって、母宮には申し上げるだろう。それすらなかったから、こうして心配しているのだ」
「心配、ですと」
 私の突っ込みに、帝は慌てて言い直す。
「ん、いや、そうだ、母宮におかれては、今朝からもう、湯水も召し上がれない程心配されておられる」
 大后の宮が心配するのは尤もだ。
「成程、左様でしょう。しかし、私の見受けますところ、殿上の間も妙に騒々しくなっておりますが」
 帝は肩を落とした。
「うむ。……朝早く信孝が、血相を変えて参内してきて、晴姫が消えたと報せが来た、と言って、あの信孝とも思えぬ程大騒ぎして、右近衛府総出で内裏中捜したのだが、影も形もなかったのだ。信孝は今しがた、半病人のようになって退出して行った」
 私が何かをやって、それが誰かにとって良くない結果をもたらす時、済まないな、と思うのは第一に信孝であった。
「左様ですか」
 思わず、声が落ち込むのを感じた。それに気付いてはっとするよりも早く、帝は、
「そなたもやはり、晴姫の事が気になるのか。余り他人の事は言えないぞ」
 などと、何をどう誤解したのか途方もなく的外れな事を言った。
「そ、それは、やはり、全く気にならないと申しては嘘になりましょう」
 慌てて弁解する振りをしながら、内心では舌を出していた。私が晴子に想う所があって、その失踪を気にしていると、そんな具合にでも誤解されていた方が、余程安心というものだ、本当の事を知られるよりは。
 ……それにしても、これが天の配剤であり神慮だとしたら、それらは何と無慈悲なものであろうか。煎じ詰めれば今の事どもは、結局は叶わぬ恋に破れた絶望と、それに煽られた嫉妬と憎悪とがもたらした物ではないのか。嫉妬と憎悪の赴くままに桐壷を奪えば、桐壷は男子を産み、東宮の母となる。桐壷の口から洩れるのを防がんとすれば、東宮妃一番手の誕生を阻止しなければならず、そのための行動に出れば晴子を敵に回す。敵に回った晴子を封じようとすれば、……その結果がこれだ。私は、親友の妻を暗殺した男として、生きてゆかなければならない。これが本当に、私をして帝に対する天罰の代理執行人たらしめ、それを完遂せしめるための天の配剤なのだとしたら、天の配剤とは何と無慈悲なものであろうか。いや、それでも、天の配剤とでも信じなければ、到底やっていられない。自分自身を、天の使者、神意の代理人とでも信じ込ませなければ、到底やり切れない。と同時に、帝の罪はそれに――晴子の死に値する程、重い深い罪なのだ、と思い込まなければ。
 さて今日、殿上の間に三条大納言の姿は見えない。昨日のあの様子では、恐らく今頃、恐怖に震えながら寝込んでいるだろう。これでは、一気に佳子の入内話を具体化し、どころではない。その話の一番の推進者が、参内もできない様子では。と言って、左大臣や中納言信廉の口から入内話が出るのを待ち続けるのももどかしいし、さりとて私から左大臣や中納言に持ちかけるのも具合が悪い。今は自重して待機の時だ、とは思わないでもないが、それでも大納言にも言った通り、一刻の猶予もならぬ、一気に入内に持ち込まなければならぬ時でもあるのだ。
・ ・ ・
 その夜、奈良は帯解寺に参籠していた内大臣の一行が、帰洛したという報せが届いた。だが内大臣は、晴子が失踪したという急報を受けて、旅の疲れと相俟って一挙に寝込んでしまったらしい。これでは帝も、内大臣を新東宮大夫に任ずる訳にもいかず、弱り切った様子である。実は私も、弱り切っていた。内大臣が新東宮大夫になるのでなければ、その交換条件としての佳子の入内も出てこない訳だからである。二人の病人のどちらが先に回復するか、特に三条大納言がいつ参内してくるか、そればかりが気になって仕方がなかった。
 翌日、信孝が参内して来た。晴子が姿を消した心痛の余り、顔は蒼白で、足取りも覚束ない有様だ。それを見ると、さすがに私も胸を締めつけられる思いであった。
 帝は早速信孝を召した。晴子の事で何か聞き出そうというのだろうかと、私は櫛形窓の下で聞き耳を立てていた。すると、聞こえてきたのは意外にも、
「……佳姫が家出したらしいと、ふと耳に挟む事があったのだが」
 私は、さっと緊張した。この大事な時に至って、入内させるべき当の佳子まで姿を消してしまっては、どうにもならぬ。私が歯噛みしていると、帝の声が聞こえてくる。
「もしや佳姫には、既に思う公達がおられたのではないか、と思うのだが、どうかな。もしそのような事があるとしたら、佳姫には気の毒な事になるかも知れない。そうなれば、佳姫に申訳ない事だな」
 うう、これは困った事になったぞ。もし佳子が家出したのが、入内を厭っての事だとしたら、誰もが帝との不和を恐れて佳子に求婚しなくなる、などと帝は考えたのだろうか。信孝がどう答えるか、それ次第だ、と固唾を飲む私の耳に聞こえてきた信孝の答えは、
「そのような事があったのかも知れません。入内の話を聞きつけて、家出する程思いつめるとは、やはり恋心故だと、私には思われます」
 何という事を言ってくれたのだ。もしこれで、帝が、では佳子の入内は考え直そう、などという気を、ちらとでも起こしたら……!
 こうなったら猶予はならぬ。三条大納言を脅迫してでも、佳子の入内を強行突破しなければならぬ。私は昼前に退出し、三条大納言邸へと走った。大納言に面会を乞うと、家司が出て来て言う事には、
「大納言様は昨夜、ここは方角が悪い、鴛鴦殿(鳥羽にある室町家の別荘)へ行くと申されてお出かけになりましたが、今朝鴛鴦殿から文が参りまして、鴛鴦殿も駄目だ、開智寺(洛北にある室町家縁の寺の一つ)へ行くという事で、こちらへはまだ帰っておられません」
 全く、どこまで根性のない男なんだろう。私は苦々しい気持で、ふと一昨日の夜の事を思い出した。あの時の大納言の怯え方は何なのだ。縛られて身動きできず、死が目の前に迫っていた晴子の方が、余程度胸が坐っていた。
「では、開智寺へ参ります。道順を教えて頂けますか」
 私は家司から、開智寺への道順を書いた紙を貰うと、車を急がせた。
 寺に着くと、門を入る前から加持祈祷の声が聞こえてきた。気のせいかそこら中に煙が漂い、抹香臭さが鼻をつく。全く、こんな所で何をやっているのだ。私は腹立たしさを抑えながら、大納言に面会を乞うた。
「帥宮様でしたら、面会は御容赦願いたい、と申しておられます」
 大納言の返事を復命に来た従者に、私は一喝した。
「でしたら、とは何だ! 火急の用事、室町家の浮沈に関わる重大事で、大至急相談しなきゃならんから、と言って来い」
 思わず口を滑らせたのに、従者は一瞬不思議そうな顔をし、
「室町家の……」
「もういい、人伝てじゃ埒が開かない、大納言殿の部屋はどこだ?」
 私は、従者を押しのけて、足音荒く奥へ向かった。追い縋る従者を振り払い、南向きの大部屋へ踏み込むと、そこに大納言はいた。昼日中だというのに床に就き、震える手で数珠を爪繰っている。その枕辺に、私は荒々しく坐り込んだ。大納言は、私が来たのにも気付かない様子だ。
「大納言殿!」
 私に怒鳴りつけられて、はっと我に返った大納言は、私を見上げた途端、
「ヒェ――ッ!」
と喉が裏返ったような叫び声を上げ、衾を撥ね飛ばして、部屋の隅へと飛びすさった。私は鼻を鳴らし、冷厳な声で言った。
「寝込んでいると聞いて、様子を見に来てみれば、そんな大声が出せる程元気じゃないですか。それ位元気なら、どうして早く参内して、あの件を奏上して下さらないのです」
 大納言は、がたがた震えながら、すっかり頭が混乱した様子で、
「あ、あの、件……?」
 私はずいとにじり寄り、低く抑えた声で迫った。
「佳姫の御入内の話ですよ! お忘れか?」
 大納言は首を振る。
「大変な事になりそうですよ。いいですか、実はつい先日、室町殿から佳姫が家出なさったのです。それが、早くも叡聞に達して、帝は、こう仰せられたのですよ。『もしや佳姫には、既に思う公達がおられたのではないか、そうだとしたら、佳姫には申訳ない事だな』と。つまり、いいですか、帝は、佳姫の御入内を考え直されようと思召しかも知れないのですよ。そうなったら、貴方と私の、今迄の努力は水の泡ですよ。ですから貴方には、こんな所で加持祈祷なんかやってないで、今すぐ京へ帰って、参内して、佳姫の御入内を強行突破して頂かなければならんのです、宸襟がお変わりになる前に! おわかりですか!?」
 と詰め寄りながら、大納言の肩を掴もうとした途端、大納言は悲鳴を上げて、私の手を叩き払った。半ば狂乱したとしか思えない様子で、私が掴もうとした左肩を抱え込み、うずくまって震えている。
「どうしたと言うのです!」
 私が大納言の首を絞めるとでも思ったのだろうか。大納言は何も答えず、震えているばかりである。私は舌打ちした。
「では仕方がない。左大臣様か、弟君の中納言殿にでも持ちかけましょう。何にしても、佳姫がおられない事には話にならない。佳姫の捜索は、進めておいででしょうね?」
 すると大納言はうずくまったまま、
「あ、あれは、もう駄目だ、諦めるしかないんだ……」
 私は大納言を鋭く詰問した。
「諦める!? どういう事です? 入内話云々は措いても、貴方の妹御でしょう! その方が家出して行方知れずなのに、捜さずに諦めるとは、どういう事です!?」
 大納言は不意に、おいおいと泣き出した。
「あ……あれは、物怪に、物怪に攫われたんだ……! 昨夜、え、鴛鴦殿に、は、晴姫の物怪が出たんだ、私が、言った通りだ! そ、その物怪が、よ、佳子を、さ、攫ってゆくと……」
 突然大納言は、頓狂な叫び声を上げた。
「あぁっ! 言ってしまったぁ!」
 と思う間もなく、物凄い勢いで撥ね起きると、私や従者が止めようとするよりも早く、足音荒く簀子縁へ駆け出して行った。丁度そこへ通りかかった僧と激突し、転んだ勢い余って、大音響と共に庭へ転がり落ちた。
「大納言様!」
 従者や僧が駆けつけてくる。私も簀子縁へ出た。大納言は庭に無様に倒れ込み、口から泡を吹き、白目を剥いて気絶している。この体たらくでは、もう使い物になるまい。私は音を立てて爪弾き(魔除けにする呪いの一種)をし、騒ぎを聞いて駈けつけてきた私の従者に言った。
「忌ま忌ましい、帰るぞ!」
 所詮三条大納言も、この程度の男でしかなかったのだ。物怪に怯えて、私との協力関係を投げ出すような、そんな根性なしだったのだ。物怪という代物、私は何しろ大弐に命じて物怪を淑景舎に出現させている者だから、それに庶民の間に身を置いて十八年も生きて来る間に培われた根性と、貴族社会に出てから書物を読んで培った、「怪力乱神を語らず」の考え方を以てすれば、物怪など恐るるに値しないものだが、普通の貴族にとってはそうではないらしい。
 開智寺を後にしたものの、今から帰邸するのは面白くない。また参内してみよう。情勢はこの数日、激動に次ぐ激動である。時々刻々変わる情勢を可能な限り把握するには、情報が最も集約される宮中、それも殿上の間に常時詰めて、出入りする貴族達のもたらす情報を収集するのが一番である。
 私は午後、再び参内した。殿上の間には、左大臣と春日中納言信廉の父子もいる。ここで私は、はたと考え込んだ。左大臣も中納言も、佳子の入内には乗り気になっている筈である。就中、中納言は兄大納言が、父左大臣を説得する際に応援する約束を取りつけてあるという事だ。しかし、大納言は中納言に、佳子入内話の裏に私がいる事を話してはいないだろうし、話されても困るのだ、本当の所。そうすると、私から話を切り出す契機が掴めない。だが、この期に及んで躊躇してもいられない。私は意を決して、中納言に切り出した。
「折り入って御相談したい事がありますので、今夜、お時間を頂けますか」
 すると中納言は、
「帥宮殿が私に、どんな御相談ですか」
 予想通りの反応である。私は声を低めた。
「佳姫に関わる事なのですが……」
 中納言は真顔になった。
「佳子に!?」
 辺りを見回しながら、小声で、
「重大な御用件のようですね。もし人聞きを憚られる話でなかったら、今すぐ話して頂けませんか。もしかすると父とも相談した方が良いかも知れませんから」
 思い切り人聞きを憚る話なのだがな。私は中納言を、殿上の間から誘い出して囁いた。
「佳姫の御入内の話は、中納言殿もよく御存じでしょう」
 中納言は頷いた。
「ええ、それはもう、私と兄が代る代る父に申し上げて、やっと父も重い腰を上げようという所でしたよ。それが……」
 中納言は俄に眉を曇らせた。
「元々あの子は入内に気が進まなかったらしいんですね。それを兄がせっせと説得していたのに、とうとうこれでしょう」
 佳子が入内を厭って家出という挙に走った事は、中納言にとっても衝撃が大きかったらしい。妙にしんみりした声で、
「承香殿と競い合うような事になるのが嫌だ、というのなら、家出まではしないでしょう。やはり、誰か思う公達がいたのではないか、と思いますよ。そうとも知らずに、兄と一緒になって入内話を進めてしまったのは、兄の一人として少し、思いやりが足りなかったと、反省してますよ」
 うううう……。物怪に腰を抜かす兄も兄なら、あるかどうかもわからぬ妹の恋心に迷わされる弟も弟だ。この兄弟、政界の黒幕として暗躍する資質に、根本的に欠けている。こんな手合と手を組むというのは無駄だ。
 私は落胆をひた隠しに隠しながら、
「それでも、家出なさった佳姫の安否は心配でしょう。捜させておいででしょうね」
 中納言は少し明るい顔になった。
「ええ、それはもう、四方八方手を尽くして、捜し回らせていますよ。わが家縁の寺、尼寺、荘園、思い付く所は全部。何、そのうち見つかりますよ」
 しかし、もし中納言が佳子を捜し出したとしても、入内話を再び持ち出すのは相当困難だ。三条大納言はあの有様だし、中納言はこの体たらくだ。そして信孝は、佳子の入内には反対だったから、婿探しの宴など開いたのだ。室町家の風向きは、すっかり逆風になってしまったと考えざるを得ない。
「そうですか。……では、一日も早く見つけ出せる事を、陰ながらお祈りしていますよ」
 私はすっかり気抜けした声で言って、殿上の間へ向かった。
「今夜、何刻頃に」
 後ろから中納言の声が追って来たのに、
「いや、その話はもう済みました。失礼しました」
 私は素気なく答えて、殿上の間へ入った。
 夜の帳が降りてから、私は淑景舎へ忍び込んだ。妻戸を二つ三つ叩いて大弐を呼ぶと、大弐は私を招じ入れた。
「丁度良い時においでになりました。実は先刻、誰とも知らない人から文が参りまして、どう致したものかと思案しておりましたのですわ」
 大弐は私を塗籠に入れ、燭台に火を灯すと言った。
「その文を、見せてくれ」
 私の求めに応じて、大弐は文を取り出した。灯火を引き寄せて文を開いた途端、私は顔色が変わるのを感じた。
〈私は晴姫の縁者ですが、数日前、晴姫より文を頂きました〉
 この流麗達筆な字は、紛れもない、綾子の字ではないか! 私は全身に震えが来るのを感じながら、文を追った。
〈それによれば、晴姫が御心を寄せられている桐壷様では女房も人少なで、大層お寂しいとか。私、晴姫のお言い付けで、それ迄の勤め先を辞めて、すぐにも淑景舎に出仕すべく用意を整えておりました。ところが、ここに来て晴姫からの御連絡が途絶え、心を痛めております。
 晴姫の御命令は、すぐにも淑景舎に出仕して、皆様のお役に立つようにとの事でございました。晴姫からの御連絡が途絶えた今、何はともあれ出仕致したく存じます。よしなに、お取り計らい下さいますよう〉
 晴子が桐壷に心を寄せたと言えば、晴子が初めて桐壷に会ったのが四日前だから、それより後に晴子は、綾子に文を出した筈だ。それを綾子が受け取って、こんな文を書いたのに、何故私は気付かなかったのだ。いやそれより、やはり綾子は晴子に寝返った、それを阻止できなかった事に、言いようのない悔しさがこみ上げてきて、私は思わず文を握り潰した。
「ど、どうかなさいましたか?」
 私の只ならぬ様子に驚いたらしい大弐が、おどおどした様子で尋ねる。私は苦々しい声で答えた。
「晴姫にしてやられたよ。この文をよこして来た女は、私の知ってる女だが、晴姫の奴、その女を手なずけたと見える」
 大弐は一挙に緊張した。
「それでは、どう致しましょうか」
 私はゆっくりと答えた。
「この文に関しては、有難くお受けする、と返事を出してやるんだ。向こうはお前が、私と組んでいるとは気付いていない筈だ、断ったりすると却って不審に思われるだろう」
「わかりました」
「それで、この女が来たら、隅の方の局にでも押し籠めておいて、桐壷と東宮様には、出来るだけ近づけないでおくのだ。晴姫の意を受けた女となると、どんな余計な事をし出かさないとも限らないからな」
「わかりました。では、返事の文は」
「早く出した方がいいな。文面は任せる。晴姫がいなくなって心細く思っていたところだ、早く来てくれ、という感じで、出来るだけ上手く書いてくれ」
 大弐は心得た様子で頷いた。
 淑景舎を後にしながら、私は怒りと悔しさに全身が打ち震えていた。やはり綾子は、晴子に寝返った。そうと知ったからには、黙っている私ではない。かくなる上は、綾子も、だ。今日帰ったら、有無を言わさず綾子を連れ出し、簀巻にして桂川へ沈めてやる。瀬戸内の海の底で、晴子と抱き合って己の不運を嘆くがいい。
「近江!」
 呼ばれて参上した近江は、私の形相から只ならぬ物を感じ取ったか、日頃の落着きとは似ても似つかぬ程びくついている。
「な、何でございますか」
「北の対へ行って綾姫に、話がある、今すぐこっちへ来て頂きたい、と申し上げてくれ」
 近江を怯えさせまいと、いつも通りの言葉遣いで言った積りなのだが、それが声の冷たさと不釣合で、却って近江を不安がらせたらしい。
「で、でも、あの、綾姫様は、当分の間、御物忌と」
 私は苛立たしくなって、
「物忌だぁ!? 物忌に服してる奴が、……」
 大弐に文を出すか、と思わず口走りそうになって、慌てて口を噤んだ。
「……と、それじゃ、私の方から出向く。そう伝えてくれ」
「あの……」
「早く行かないか!」
 私に一喝されて、近江は飛ぶように部屋を走り出て行った。
 私が懐に短刀と荒縄を隠し持ち、いざとなれば北の対で綾子を縛り上げようと準備している所へ、近江が戻って来た。
「やはり、厳重な御物忌ですので、お会いできません、と申されておいでです」
 私は構わず手燭を取って立ち上がった。
「どんな厳重な物忌より、もっと大切な話だ! 今から行く!」
「若殿様!」
 追い縋る近江を振り払いつつ、私は大股に北の対へ乗り込んだ。北の対は蔀戸が下ろされ、物忌札が下がっている。私の足音を聞きつけて、北面の方から村雨と和泉が駈けつけてきた。
「帥宮様、姫様は今日、御物忌ですから」
 和泉がいきなり、私の前に立ちはだかった。
「どけ! 物忌が何だ、火急の用事だ!」
 私は和泉を突き飛ばし、妻戸に手をかけた。錠が差してある。私は妻戸を荒々しく叩いた。
「綾姫、話がある、今すぐお開けなさい!」
 返事はない。私は和泉と村雨を振り払いつつ、南面へ回った。上の蔀戸を引き上げると、女達が止める間もあらばこそ、下の蔀戸を蹴倒して、部屋へ躍り込んだ。手燭の明りで室内を見回すと、これはしたり、誰もいない。私は素早く、几帳を払い、壁代を引きのけ、塗籠を開けた。しまいには唐櫃を床にぶちまけてもみたが、どこにも綾子の姿はない。
「村雨! 和泉! こっちへ来い!」
 私は妻戸を蹴り開けながら怒鳴った。恐る恐る入って来た村雨に、私は手燭を突き付けた。
「綾姫がいない。どこへ行ったんだ、知らんか」
「ええっ!? 姫様が!?」
 村雨は、私に言われて初めて気が付いた、という様子で、驚いて室内を見回す。綾子の姿がどこにも見えないのに気付くと、戸口を振り返って、
「和泉さん、これは、どういう事なの!?」
 声高に言いながら出て行こうとするのを、私は素早く裳の裾を踏み付け、低く、しかし鋭い声で、
「下手な芝居は無駄だぞ」
 村雨はきっとなって振り返ると、いつになく激しい、燃えるような目で私を見返した。
「お芝居なんかじゃありませんわ! 私、本当に今の今まで、姫様は御物忌でお籠りになっていらっしゃるとばかり、信じていたんです! 和泉さんが、御膳の事なんかは全部私がするから、と言ってたから、任せっ切りにしてたんです。それは、私の手落ちですわ、でも、姫様がいらっしゃらないのは、本当に、今の今迄知らなかったんです!」
 しまいには涙を浮かべんばかりに言い募る。私は、村雨の裳裾を踏み付けた足を上げ、
「そうか。なら、和泉だ。
 和泉! ここへ来い!」
 返事はない。私は村雨に言った。
「村雨、和泉を連れて来てくれ」
 連れて来い、と言わなかった事に、村雨は少し安心したらしい。
「はいっ」
 急ぎ足に簀子へ出て行く。
 簀子では近江と村雨が、和泉を立たせようとしているらしい声や物音がする。しかし和泉は、頑として立とうとしないらしい。私は業を煮やして、大股に妻戸へ向かった。戸口に蹲っている和泉の前に私は立ちはだかった。
「和泉、面を上げろ」
 和泉は蹲ったまま顔を上げようともしない。両手で頭を抱えたまま、声も出さずに震えている。
「和泉!」
 私がしゃがみ込んで、和泉の肩を掴んだ途端、和泉の体から力が抜けて、ぺたりと平たくなった。村雨の後ろで見守っていた近江が、恐る恐る手を伸ばし、和泉の体を揺すったが、和泉はぴくりとも動かない。近江は慌てて和泉の手首を握り、脈を取ってから、少し安心したように私を見上げて言った。
「気を失っているだけですわ」
 私は鼻を鳴らした。
「仕方がない、今夜はこれ位にしといてやる。近江、村雨、和泉を介抱してやれ。綾姫の行き先を喋らす前に死なれては困る」
 私は自室に帰った。この頃になると、綾子の寝返りと逃亡という事態に逆上していた私も、幾らかは理性と落着きを取り戻していた。よく考えてみれば、今慌てて綾子の行方を探す事はないのだ。何となれば、あと数日の内には綾子は、私が綾子の寝返りと脱走に気付いた事にさえ気付いていなければ、何喰わぬ顔で淑景舎へ来る筈だからだ。綾子に対する仕置は、それから考えても遅くはない。それよりも今は、情勢が明らかに私にとって逆風に転じ始めた事と、それへの対策と打開策を考える事の方が大切だ。であるとしても、私が綾子の寝返りと逃亡に気付いた事を、綾子に悟られてはならない。そのためには和泉をどこかに監禁して、外部の者との接触を一切断たなければならぬ。
 私は夕飯の後で村雨を呼び、そっと言い含めた。
「綾姫は、晴姫に寝返ったのだ。つまり私とお前にとっては、敵となったのだ。私がそれに気付いた事が、和泉から綾姫に洩れると、非常にまずい。だから村雨、和泉を徹底的に見張って、誰か宛の文を書いているような事があったら、殴り倒してでも阻止しろ。北の対から、一歩たりとも外へ出してはならんぞ。わかったな」
「わかりました」
 村雨は、綾子が自分と私を裏切った事、しかも自分を差し措いて和泉と手を組んでいた事に含む所があるのか、いつになく力強く断言した。
「頼むぞ。綾姫が逃げた以上、私が手を組めるのはお前が第一なんだからな」
「有難うございます。綾姫様の見張りを怠りました過ちは、必ず取り戻して御覧に入れますわ!」
 村雨は、自分が綾子の見張りを怠った事に一方ならず責任を感じているらしい。それは至極尤もな事だ。
「うむ。そうそう、明日、和泉をもう一度訊問するから、その積りでいるよう、和泉に言っといてくれ」
「かしこまりました」
 翌朝、朝飯を済ませると私はすぐ、和泉を連れて来るよう村雨に命じた。しかし村雨は一人で戻って来た。
「和泉さんはすっかり怯えていて、私の声も聞こえない様子です。とても、起こしてこちらへ参らせられる状態ではございませんわ」
「起こせないのなら、私が行こう。和泉の局へ案内してくれ」
 私が腰を上げかけると、村雨は押し止めようとするかのように、
「若殿様がお出でになっても、多分何もお訊きになれないと思いますわ。もう、人事不省と申すのですか、そんな具合ですので」
 人事不省になる程怯えるというのが、どうも私にはわからないのだが。ここは村雨の言葉を信じよう。
「そんなか。それじゃ仕方がない。ただ、もしかすると仮病を使ってるかも知れんから、見張りは決して怠るんじゃないぞ」
「はい」
・ ・ ・
 それから数日というもの、私は焦燥のうちに時を過ごした。佳子は行方不明、三条大納言は人事不省、春日中納言は佳子の入内に消極的、内大臣は病と称して出仕せず、従って東宮大夫任命の話も進まず、そして綾子の寝返りと逃亡、行方を知っているに違いない和泉も人事不省と、万事私にとって不利な方へ不利な方へと事態は進み、一向に好転の兆しが見えない。
 十八日、淑景舎に来た者があった、と大弐が桔梗を通じて文をよこした。どこぞの宮家に勤めていた女房で、桜井と名乗っている者と、その妹だという者の二人だという。文を読んで私は、素早くその者の正体を察した。桜井と名乗っているのは、紛れもなく綾子だ。綾子は何と言っても故桜井宮の一人娘である。私は内心せせら笑った。その者が書いた文を見て、綾子だと瞬時に察し得た私でなくとも、桜井宮の関係者だと察しがついてしまうような名前ではないか。何故もっと一捻りした名前を付けられなかったのか。
 さて、桜井とやらはともかく、その妹とは何者だろう。もし和泉も逃亡しているのであれば、和泉の年格好からして、綾子の妹に擬したという線もありうる。しかし和泉は、あれ以来北の対の自室で、人事不省になって寝込んだきりである。桜井の妹と名乗る者が何者か、それを見極める必要がありそうだ。しかし、大弐はその者に心当りはなさそうだし、さりとて私が面を改めるというのも問題がある。その折に、桜井と偽っている綾子に、私の存在を知られる恐れが大きいからだ。今のところ綾子は、私が綾子の寝返りに気付いた事には気付いていないと判断すべきであろうから、その状況をわざわざこちらから手出しして変える――私自身にとって必ずしも有利とは言えない方向へ――必要はない。私が淑景舎へ乗り込み、私が綾子の寝返りと逃亡に気付いていた事を綾子が悟る時、その時は、綾子の命がこの世から消え去る時だ。その時はまだ先の事だ。
 二十一日、公卿会議の後で帝は私を召した。妙にすっきりした、肩の荷が降りたような顔をしている。何を言い出すかと身構えていると、
「源大納言が、辞表を撤回したよ」
 私は、さっと顔から血の気が引くのを感じた。私の内心を知る由もない帝は、至って朗らかに、
「何でも夢枕に、亡き妹君が立って、継娘の桐壷女御を宜しく頼む、東宮は私には御孫にも当る方だから、心を込めてお仕えしてくれ、と言ったそうだ。そんな夢を見たのも、後見がまだ充分でなかったからだろう、一度は辞表を出した役目ながら、もし許される事なら、引続き勤めさせて欲しい、という事だ。
 しかし、どうした事だろうな。源大納言には少々荷が重いかな、と初めから思わないでもなかったんだが、それが一転してこうだからな。まあ、源大納言の辞表を受理しようにも、後任にと目している内大臣が病と言って出て来ないのでは、如何ともし難かったのだが、一まず、一件落着という所だな」
 ここ迄何事もが、逆向きになるとは。佳子の入内というのは、そもそも内大臣を東宮大夫に任ずる交換条件という意味合いが強い。だからそれを実現するには、源大納言を辞任させる事が大前提となっているのだが、その大前提が覆ってしまっては、私の作戦は根底から崩壊してしまう。
「辞表撤回に、一番強硬に異議を唱えていたのが、右大臣だった。どうせまた、碌でもない事を考えているのだろう」
 帝が呟いたのも、私の耳を素通りしていた。
 事ここに至っては、一から作戦を立て直す必要がある。攻め方を根本から変える事も、検討せねばなるまい。頭を抱えて帰邸した私の許に、意外な所から文が来ていた。佳姫の事で相談したい事があるから、今夜、室町殿に来てくれ、という、信孝からの文であった。佳子の事となれば、私は黙って看過する訳にはいかない。清行を供にして、室町殿へ向かった。
 室町殿の一室で、私は信孝と正対した。信孝はこのところ、半病人のような有様ながら毎日出仕していたが、今日は欠勤していたのだ。だが見たところ、急に容体が変わったという様子はない。
「少将殿、如何なさいましたか。今日はまた、不意の参内お取り止めで、帝も余程御心配遊ばされておりましたよ」
「いや、面目もありません。いざ家を出ようという時、不意に、胃に差し込みが来てしまいまして。何か、宮廷で変わった事は?」
 信孝も私と同じく、可能な限り情報収集に力めているのだ。私は、自分にとって一番の関心事をまず話した。
「あれ程東宮大夫を辞任したいと言っていた源大納言殿が、本日、不意に辞表を撤回なさいましてね」
「ほう? それはまた、どうして?」
 信孝は身を乗り出した。
「何でも……」
 私は、帝から聞いたままを話した。話しながら、声が強張るのを感じた。
「それは良かった。さぞ、桐壷様方も、お心強い事でしょう」
 信孝は私の心中を察する由もなく、心底ほっとしたように言う。私はつい悔しさが前面に出た。
「さあ、どうでしょうか。御老人の気紛れには、困った物ですね。私などは、面喰らっております」
 信孝はどこ迄も明るく、
「そうですか? 私などは余りに心労が重なっているので、そういう朗報は嬉しいですよ。ほっとします」
 どこが朗報だ、どこが! 私は努めて内心の思いを押し隠して言った。
「ああ、御心配でしょうね。晴姫の失踪の事は」
 ここが芝居の打ち所だ。
「大后の宮が、後宮で固く口止めなさっておいでなので、今の所外には洩れておりませんが、私は後宮で晴姫と対面しておりますからね。朝になってみたら、お姿がかき消えていたなど、余りに怪しい事で心配しております」
 信孝は溜息交りに呟いた。
「いや、晴子さんの事も、佳子の事も……。何か今年は、祟られているような気がします」
 やっと本題に入れそうだ。私は身を乗り出した。
「それ、その佳姫の家出の事。私も遇々、三条大納言殿のお見舞に参りました折に、ふと洩れ聞きまして、すっかり驚いております。
 ところで少将殿。佳姫の事で御相談というのは何事でしょう。家出なさった先が、わかったのですか?」
 これも私にとっての重大な関心事だから、尋ねる言葉にも力が入る。
「え、いえ。実は……実は先日、恐れ多くも佳子の家出が、帝の御耳を汚してしまいましてね。私にも御下問があったのです。佳姫には、既に思う公達がおられたのではないかと」
 この事は、私もしっかり盗み聞きした事だが、そうではないように装うのが上策。
「帝がそのような事を……? 馬鹿な。そのような事を、どうして帝は仰せになるのか。御入内を厭われたとなれば、佳姫の御将来は……」
 驚きを隠し切れないように言ってやると、
「そうでしょうね。どなたも、帝の逆鱗に触れるのを恐れて、求婚しなくなるでしょう。もしそうなれば、佳姫に申訳ない事だと、恐れ多くも帝は仰せられました」
「少将殿ははっきり申し上げたのでしょうね、そのような事はないと」
 そうでないと知りながら、こんな突っ込みを入れる苦しさを、信孝にも分けてやりたい。
「いや、そのような事があったのかも知れませんと申し上げました。私も気が付かなかったが、入内の話を聞きつけて、すぐに家出する程の激しさは、やはり恋心故だとしか思えませんからね」
「何という愚かな事を。妹姫の御将来を、闇で閉ざすような御振舞ではありませんか」
 つい本音が洩れてしまった。信孝は不思議そうな声で、
「そのように佳子の将来を考えて下さっていたのですか? 私は今だから、本心を明かしますが、佳子の婿君には、帥宮殿をと思っていたのですが……」
「私が? そのような戯言を……」
 私は正直言って面喰らっていた。こんな話を聞いている暇はない。私は立ち上がった。
「佳姫の事で御相談があるとは、その事でしたか。それなら私は、帰らせて頂きます。入内の話まで出た姫を、私のような者が……」
「お待ちを、帥宮殿!」
 信孝は慌てて声を上げ、私の袖を掴んだ。
「佳子は家出したままですが、思いもかけない人が現れましてね。どうしても、貴方に会いたいと言うものですから」
「思いもかけない……?」
 誰だと言うのだ。私が座り直した時、襖障子を開け放つ音がした。振り返った私の目に映った姿、それこそ、誰あろう、私が十日前の夜、手を縛り首に縄を掛けて桂川に投げ落とした、晴子だったのだ!
・ ・ ・
「お久し振りね、帥宮。私、川の底から、生き返っちゃった」
 何度も耳にした、晴子の声が、私の耳に流れ込んできた。私は目をかっと見開き、晴子を凝視した。
 そんな筈はない! 首を折るのには失敗したとは云え、手を縛って川に投げ込んだ者が、生きている筈がない! しかし現実に、晴子は私の目の前に立ち、私に向かって不敵に笑ってさえいる。
「じゃあ、僕はここで席を外すよ」
 信孝が立ち上がった。私は振り返った。
「少将殿、お待ちを! これは一体……」
 信孝は私の声から、私が晴子の暗殺に失敗した事を感じ取ったのか、いつになく緊張し青ざめた顔で、
「行方不明になっていた妻が、不意に現れましてね。私も事情は知らないのです。ただ、貴方と対面したいとだけ言うものですから」
 素っ気なく言い残すと、部屋を出て行った。
 こうなったら私も男だ。ここで動揺してなるものか。私は悠然と坐り直し、何度も深呼吸して息を整えた。
 晴子が、私の前に坐った。私はその晴子に、にこりと笑ってみせた。晴子は溜息を漏らし、
「あんたって、あんたって、本当に根性が坐っているのね。殺した筈の私が生き返って来ても、ちょっと顔色を変えて、それでお終いなのね。さすがよ。余程腹を括ってるのね」
「腹を括っている訳ではありませんよ、晴姫。私は今、全てを悟ったのです」
「悟った?」
「貴女が生きていた。成程、そうだったのか、とね」
 ここ数日の情勢の逆転は、全て、晴子が生きていて、裏で糸を引いていた、と考えてみれば辻褄の合う事なのだ。
「何が、成程、なのよ」
 私は静かに言った。
「例えば、三条大納言殿は、あれ以来、廃人同様でしてね。北山に籠り切りで、加持祈祷三昧の日々ですよ。佳姫の家出の事で幾ら叱りつけても、腰を上げない。佳姫の行方を探そうともしない。あれは物怪に攫われたのだから、諦めるしかないのだ、などと譫言を言っている。そうか、物怪というのは貴女の細工であったのかと、今、漸く気が付きました」
「ま、そうね。物怪が細工だとわかる辺り、お互い様ってとこよね」
 晴子は皮肉な口調で言った。私は少し眉を寄せたものの、何も言わずに黙っていた。
「それに、今日、源大納言の爺さんが態度を変えたそうね。あれも、私の細工なんだと知ったら、あんたは驚くかしら」
 そう来るか。私は余裕を見せようと、先刻取り落とした扇を拾い上げ、ゆっくりと吐息した。
「貴女なら、それ位の事は、おやりになるでしょうね」
 晴子は勝ち誇ったように、
「そうなの。それに佳姫も、私の許しがない限り、絶対に、姿を現さないわ。だって、私が佳姫を匿ってるんだもん」
「――成程ね」
 そうか、桜井の妹とは、佳子だったのか。そこに思い至った瞬間、目から鱗が落ちた気がした。私は目をかっと見開き、晴子を睨み据えた。
 その時、妻戸が揺れる音がした。私の殺意を感じて身を竦ませていた晴子は、はっと振り返った。私も視野の端に、太刀の柄に手を掛けて身構えている信孝の姿を捉えた。
 幾ら私でも、ここで信孝と刺し違える気はない。私はゆったりと坐り直し、晴子に微笑みかけた。
「貴女は、何もかも知っている訳ですね。どうしてか生き返り、三条殿を脅して、何もかも聞き出した訳だ。あの男、生まれには恵まれているものの、才気の片鱗もない男だ。さぞ、ぺらぺらと喋った事でしょう」
「うん。ぺらぺら喋ったわよ」
 私は思わず歯ぎしりした。
「愚かな奴……!」
 やはり私の失敗は、あの愚鈍な男と組んだ事だった。
「元々あの男には不安があったのだ。だが、奴と手を組むしかなかったのだ。今すぐに入内させられる妹姫を持ち、しかも皇子が生まれれば、家柄からして東宮位を望める――そんな奴は、あの男だけだった。全て、生まれだ。あんな男でも、知恵をめぐらせれば、幾らでも権力を握れる。私があれ程知恵を授けてやったのに、あと一歩という時に、どうして覚悟を決められなかったのか……!」
「無理よ。家柄に恵まれてる男って、性根がふらふらしてるのよ。あんたとは違うわ。東宮廃位の陰謀に堪えられるタマじゃなかったのよ」
「陰謀……?」
 私はわざと笑った。陰謀、には違いないが、普通の言葉の意味するところとは全く違うのだ。その勘違いが可笑しかった。私は穏かに言った。
「どこに陰謀があったと言うのです。あの東宮の御生母は、頼りない身を恥じておられた風だ。私が細工などしなくても、そのうち院号を願って、東宮諸共落飾していたかも知れませんよ。その方が、承香殿や藤壷に気遣いながら、この先十年以上東宮の成長を待つより、余程幸福かも知れない」
「ええ、そうね」
 晴子は頷いた。
「あんたの陰謀は見事だったわ。誰も傷付かないんだもの。桐壷様も、自分の息子が東宮なんだから性根据えて(それが出来るなら私がこんなに苦労するか!)あと十数年後には私は国母だ、負けるもんかって頑張ってりゃいいのに、その御気概がない。元々、そういう御性格じゃないのね。あんたが細工しなくても、佳姫あたりが入内して、二の宮が生まれればすぐにも御隠居だったかも知れないわ。大后の宮も、東宮は後見のしっかりした皇子の方が宮廷は落ち着くと思ってらっしゃる風だわ。あの岑男だって、桐壷様には同情してるけど、でも東宮問題では不安があるみたいだった」
 私は笑った。
「貴女はやはり、お利巧だ。たった二三日、後宮にいらしただけで、物事を見ておられる。他に皇子がいないから、一の宮を東宮に立てたものの、一の宮にとっても荷が重いのではないか、と、親心故のお悩みを洩らされる事もおありでしたよ」
「そうよね。あんたの陰謀の見事さは、そこよ。誰も彼もが、二の宮の誕生を願っていた。あんたはそこに、ちょっと手を加えれば良かっただけよ。唯一、はっきりと被害者なのは佳姫くらいだった。入内を嫌がってるからね。これが陰謀かと思うくらい、あんたの企みは見事だった」
 やはり晴子は、通り一遍の宮廷陰謀だと思い込んでいるのだ。ならば、そう思わせておくが良かろう。私はあっさりと言った。
「ええ、そのように考えたのですよ。なるべくなら、どなたも傷付けたくなかったのです(これは大嘘だ、私の本音の奥底からすれば)。貴女の腹を蹴り上げたのは、万が一を恐れていたからです。貴女に姫が生まれたら、何もかも狂ってしまう。しかし、私は一番まずい相手を、敵にしてしまったようだ」
「そうね、あれで、私を敵に回したのが失敗だったのよ。私はお腹を蹴られて、黙ってる女じゃないのよ。ああいう狼藉されて……」
と言いながら晴子は、やにわに咳払いし、
「ああいう事されて、夫の目を気にして、びくびくする女じゃないわ」
「そうだったようですね。私の判断が、甘かった」
 晴子を敵に回したのが、確かに最大の失敗だったかも知れない。
「これからは源大納言の爺さんが、淑景舎の皆様にお仕えするわ。あの爺さんも我が身が可愛いいから、必死になって桐壷様達をお守りするわ」
 そういう事だな。私は苦笑した。
「成程。あの御老人の弱味の一つも、握りましたか」
 晴子は少時たじろいだようだった。やがて、
「それに家から、有能な女房をどんどん送り込んで、淑景舎を守る事もできるしね。二度と、物怪騒ぎなんか起こさせない(それを桐壷が望んでいないと知ってか?)。一方、佳姫は家出したままよ。三条大納言もすっかり腰抜けになってて、今更あんたの役には立たないわ。ねえ、あんたは負けたのよ」
 そう見えるか。なら、そう思わせておくに限る。これが韜晦策だ。
「元々、勝とうとは思っていませんでしたよ。ただ、私は試してみたかっただけです。力の限り、やってみようとね」
 私は淋しそうに笑ってみせた。
「貴女には解らないでしょう、晴姫。私には失う物はなかった。ただ、そこにある物を利用するだけで、全てがうまく行きそうだった。私はそれに賭けたのです。失う物がない人間は、どんな事でもできる物です」
 もう一度庶民に戻って、田畑を耕し木を伐り、塩を焼き魚を獲る暮しをする気になれば、どんな事でもやる気になる。貴族には、わかるまい。生まれながらの貴族、には……。
「人殺しも?」
 晴子は切り込んで来る。私は微かに含み笑いしただけで応じた。
「ええ、人殺しもです。貴女の命など、私の野心の前には、陽炎のような物だった。塵に等しかった」
「塵……」
「今でも残念ですよ。確実に止めを刺しておくべきだった。私が今、ここで貴女に飛びかかって首を絞めないのは、もう勝負が着いてしまったからだ。勝ち目が少しでもあるなら、私は躊わず、今すぐ、貴女を殺しますよ、晴姫。もう一度と言わず、何度でも」
 私の静かな落着きと気迫に気圧されたように、晴子は呟いた。
「そうね。あんたはきっと、そうするわ」
 私の全ての野心が霧のように消えていくのに、私が少しも動揺していないので、感心している、という様子だった。
 晴子は膝を進めた。
「あんたは負けを認めるのね。じゃあ、私と取引きして」
「え?」
 いきなり何を言い出すのだ。私は目を見開き、まじまじと晴子を見つめた。
「もし、この先、二度と桐壷様達が物怪に怯えられる事はないと約束してくれたら、あんたが不意の発心で、すぐにも出家して京を出てくれたら。山奥にでも籠ってくれたら。私は何もかも忘れるわ」
 あと一押しで私を奈落の底に突き落とせる所まで私を押して来ながら、何を言い出すのだろう。私は晴子の真意を測りかねた。
「あんたには、もう勝ち目はないわ、帥宮。なら、せめて、私と取引きしなさい。出家して、都を出奔して、もう一度、誰からも忘れられて暮らすと。そう約束しなさい」
「もう一度、誰からも忘れられて……?」
 どうやら晴子は、私の弱味を握って、私を思いのままに操るのが目的ではないらしい。そうか、それなら、私にも再起を期す余裕ができる。では、向こうからその余裕を与えようと言ってるのだから、それに乗じた振りをするか。
 私は顔を上げ、にこやかに微笑んだ。
「貴女は、何故、私と取引なさろうとするのです。色々御無礼を働いた私に?」
 晴子は大きく息をつき、
「今上も、大后の宮もお悲しみになるでしょ。あんたがとんでもない野心(その野心というのが、単なる官位や金銭のような物だと誤解しているのがよくわかるのだが)を持ってて、陰謀を企んでたと知ったら。一昨年に続いての宮廷騒動に、御代も傷つくわ」
 帝を悲しませる? それこそが私の本当の野心だと知ったら、どんな顔をするだろう。
「成程。貴女は帝に、御親密な愛情を抱いておいででしたね」
「そうね、岑男は御位に即いてから、色々あって、おちおち浮気もしてられなかった筈よね。ちょっぴり、岑男に同情したくなるわ。またも陰謀が公けになったら、世間の目も、岑男に厳しくなるもんね」
 それこそ、私の念願とする所なのだぞ。
「それだけですか?」
 晴子は少し口籠った。
「――佳姫が悲しむわ」
 どこからこんな言葉が出てくるのだ。私は納得できず、
「佳姫? 何故、佳姫が関わるのです。入内を嫌がっておいでだったのだ。これで入内話が潰れれば、本望でしょう」
 晴子は、思いがけぬ事を言い出した。
「でも、初恋の相手が、野心の余り人殺しも厭わない男だったと知ったら、きっと傷つくわ」
「佳姫の初恋の相手……?」
 何と、そういう事だったのか! ……そうだ、これが、女の甘さという代物なのだ。私は目を上げ、
「成程。義妹のために、殺されかけた恨みを忘れようと仰言る訳ですか」
 晴子は、唸るように言った。
「恨みって言っても、生き返ったからね。それは、もういいわよ」
「どうして」
 晴子は、無念極まりないといった口調で、絞り出すように言った。
「これが、一番、誰も傷付かずに済む方法だからよ。私さえ忘れれば、岑男も、大后の宮も、桜宮様も、佳姫も、誰も……」
 誰も傷付かずに済む、だぁ!? どこからそんな世迷い言が出て来るんだろうね、この女の頭の? 私が今迄、どんな思いで、この世に生き永らえてきたか、帝のために、私の初恋の相手だった澄子を奪われ、幸薄いままに殺されて、どれ程深い傷を負わされたか、その復讐のため、私が心に受けた傷を幾千万倍にもして帝に返さずにはいるまいとのこの思いの、千分の一でもこの脳天気な愚か者に解らせてやりたい!
 私は声高に笑いながら立ち上がった。
「貴女は馬鹿な人だ。どこ迄も強引かと思えば、奇妙な所で甘すぎる」
 そのヘドが出そうな甘さのお蔭で、私は巻き返しの機会を掴めそうなのだが。
 私に釣られるように立ち上がった晴子に、私は静かに尋ねた。
「私は、この先、どうすれば良いのです?」
「まず、三条大納言の書状を、こっちに渡して。その後、なるべく早く落飾して。そしたら、あんたがこっちの条件を呑んだと解釈して、全て忘れるわ」
「そして、後宮は何事もなかったようになる、という訳ですか?」
「ええ、その筈よ」
 そう思っていてくれるなら、それで宜しい。だが私は、そうはならないぞ。ふっと笑いを見せてから、くるりと振り向いて、妻戸へ向かった。
「待って!」
 晴子が呼び止める声がする。
「どうなの? 約束するの? しないの?」
 私は少時考えて言った。
「――時間を下さいませんか。私は長い時間をかけて、この計画に全てをかけて来た。諦めるには(最後の大逆転策を放つには、とは言うまい)時間が必要だ」
「どの位?」
「一ヵ月……」
 晴子が何か言うだろうと思って、私はわざと笑い出した。
「と言いたいところだが、貴女もお気が短いようだ。五日でいいですよ。出家するとなれば、何かと整理したい物がある。それに、」
 もしかすると晴子になら、このハッタリが効くかも知れぬ。私は素早く判断した。
「秘かに愛してきた姫もおりますのでね。別れを言わねばならない。これが一番、辛い事ですが」
 桐壷の積りだ。本当は勿論、私は桐壷の事を、毛の先程も愛してなどいないのだが。
「愛してきた姫……」
 さすがに晴子は、ここが弱点なのか、しばし虚を衝かれたように黙り込んだ。不意に声を荒らげ、
「そんな姫がいたのなら、どうしてもっと、全うな生き方をしようとしなかったのよ。愛する人がいて、それでも、やっぱり、人殺しってできるもんなの!?」
 やはり、晴子は私のハッタリにはまった。私はそれが可笑しくて、ぐっと笑いを噛み殺した。
「その姫って、帥宮の地位だけじゃ、満足してくれない人だったの? だから?」
「いいえ、何も望まない人ですよ。だから、私はせめて……」
 ここまで白々しい嘘を吐ける人間は、そういるものではなかろう。私は感情を乱した振りをして振り返った。晴子は、変な同情を抱いたのか、妙に私を慰めるような声で、
「帥宮。そんな姫なら、きっと出家した貴方にも追いて行く筈よ。深い山奥で、庵を結んででも……」
 私は晴子を諭すように言った。
「自分を殺そうとした者に、そこ迄の情をかけるのはお止めなさい。晴姫、情をかけた事で、全てが駄目になる事もある。私はまだ、後悔しているのですよ。文使いで貴女とお会いした時。あの時に、強盗の仕業と見せかけてでも、貴女を殺しておくべきだったと。腹を蹴っただけだったのは、私の甘さだったと。そしてまた、源大納言邸へ行かれる貴女を襲った時。あの時、血を見たくなさに、太刀で貴女の頚を刎ねなかったのも」
 晴子が黙っているのを見て、私は言った。
「明日、清行を使いにして、三条大納言に書かせた馬鹿げた書状をこちらへお届けします。それがあれば、私と室町家筋との関わりを証明する物もなくなる。貴女はすぐに朝廷に、私の陰謀を訴える事もできる訳です」
「そんな事はしないわ。約束通り、あんたが出家するのを待つわ」
 この底知れぬ甘さは、どこから出てくるのだろうか。私はすっと晴子に歩み寄り、晴子の手を取った。晴子が何を警戒してか振り払おうとした時、
「もっと早く、貴女と出会うべきでした。そうすれば、私にも違う方法があったかも知れない」
 私の放った第二のハッタリに、晴子は当惑した。
「はあ? それはどういう……」
 私は晴子の手を離し、足早に妻戸へ向かった。背後から晴子の声が追って来た。
「帥宮。本当に愛する姫なら、あんたに追いてゆく筈よ。桜宮様も、岑男も、大后の宮だって、陰謀の事さえ知らなきゃ、陰ながらあんた達を援助して下さるわ。物事、暗く考えちゃ駄目よ!」
 物事、暗く考えるな、か。暗く考えなど、してたまるか。一発大逆転の秘中の秘策を、あと五日で考えなければならんのだ。
 車に乗ってから、私は声を限りに叫びたくなるのを抑えるのに苦労した。私は救われた、晴子のあの底無しの、ヘドが出そうな程の甘さに、私は救われたんだ!! あと五日、あと五日の猶予だ……!
(2000.12.16)

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