岩倉宮物語

第十二章
 夜になった。亥の刻(午後十時)頃、退出しようとした私は、はっとある事に思い至って立ち止まった。
 晴子は既に、桐壷に会っているのではないか? いや、会っているのに違いない。大后の宮は今日の朝のうちに、桐壷に会っていたような事を言っていた。その時、晴子も淑景舎に行っていた可能性はある。それに、直接桐壷に会っていなければ、あれ程感情的に桐壷の肩を持てるものではなかろう。そうだとすると、それに、あの行動力に溢れる晴子の事だ、私との直接対決で撃破できなかったからと云って黙って引き退りはすまい、何らかの手を使って搦手から攻めようとするに違いない。そうした場合、桐壷に接触して何らかの策を持ち出す可能性はある。そのような動きに出られた場合、私としては可能な限り早くかつ的確に、晴子の動向を把握しなければならない。よし、決めた。
 私は一人、人目を忍びつつ淑景舎へ向かった。人目に付かない東面の妻戸を、二回、三回軽く叩くと、掛金を外す音がした。
「大弐」
 私は妻戸を少し開け、囁くように言った。
「帥宮様」
 大弐が答える。私は小声で言った。
「大切な話がある。入るよ」
 大弐は妻戸を押し開けた。私は音もなく身を滑り込ませた。
「こちらへ」
 薄暗い室内、しかも私は妻戸より中へ入るのは初めてだ。大弐は片手に紙燭を持ち、もう片手で私の手を取って、塗籠へと導いた。
「何ですの、大切なお話とは」
 塗籠に閂を差してから、大弐は私と差し向かいに坐った。
「今朝、大后の宮がこちらへお越しになられたそうだね」
「はい、大后の宮様と、宮様お付きの女房の二条様と高倉様、それにもうお一人、私の存じ上げない女房の方と」
 私は大弐の言葉を遮った。
「そのもう一人の女房というのは、どんな人だった? 背格好とか、年の頃とか」
 大弐は少時、思い出そうとするように考え込んだ。
「……割と小柄な方でした。私より若い位でしたと思います」
 やっぱりそうだ。今朝晴子は、桐壷に会っていたのだ。私は厳粛な口調で、
「その女房こそ、私達の計画の最大の敵だ」
「え」
 予想しなかったであろう事を言われてまごつく大弐に、私は憎々しげに言った。
「その女房、右近という名で後宮に入り込んでいるが、その正体は、烏丸内大臣の娘、晴姫だ。前から私をつけ狙い、私が東宮を位から降ろさせるための計画に加担していると知るや、私を失脚させてでも、その計画を阻止しようと企んでいる、不遜な女だ」
 こうまで言っておけば、もし晴子が大弐に接触を持ってきたとしても、甘言に惑わされる事はないだろう。
「そんな方だったのですか」
 大弐は驚いたように言った。
「今日の昼間、ひょんな事から、晴姫がこんな世迷い事を言ったのを聞いたんだ。『我が父内大臣が、喜んで東宮大夫の後任に就く、私もいずれ必ず姫を産んで、東宮と婚約させ、命賭けで東宮を守ってみせる』などとね。そんな事をされては堪らないよ、桐壷様も私も。だから、晴姫がどんな事を言ってきても、決して……」
 私が言い終わらぬうちに、外から女房の声がした。
「大弐さん、大弐さん」
 大弐は慌てて、
「しばしお待ちを」
 私をそこに残して、塗籠の閂を外しながら、
「私はここですよ」
 私は塗籠の奥で、息を殺して大弐が戻って来るのを待った。程なく大弐は戻ってきた。
「噂をすれば、ですわ。たった今、大后の宮様お付きの、右近と申す女房から、文が参りました」
 私は唇を歪めた。
「ふむ、早速余計な事を始めおったか。どれ、見せてくれ、どんな世迷い事が書いてあるか」
 大弐は私に文を差し出すと、燭台の芯をかき上げて明るくした。私は文を開いた。晴子の直筆という物は、私は見るのは初めてだ。お世辞にも達筆とは言えない字で、その癖勢いだけは良くて、勢い余って書き損じた所や、墨が飛んだ所もあり、やはり性格が良く表れるものである。
 内容は、まず自分は烏丸内大臣の娘の晴子であると名乗り、桐壷には深く深く心から同情していると、身構えて読まなければついほろりとさせられそうな言辞を陳列し、その同情の余り、源大納言が東宮大夫を辞任したいと言っていたと聞いて激怒して、我が父内大臣が東宮大夫を受けると言ってしまったが、その結果まずい事態が起こりそうになってしまった、その事で色々な相談があるから、桐壷が大切と思うなら会いに来て欲しい、という事であった。私は大弐にも文を読ませてから、
「そういう事だ。だから、まずこの文を桐壷様にお見せして、それから、お前は麗景殿へ行って、晴姫をこっちへ引きずり出して来てくれ。あの女が何を考えているのか、私の耳で直に聞く必要がある。桐壷様が晴姫にお会いしたいと仰言っている、とでも言えば、後先考えないあの女の事だ、すぐ出て来るだろう」
 はっきり敵だと認識しているせいか、言葉がすっかり悪くなっているが、大弐はそれを気にしている風もない。
「わかりました」
 大弐は文を持って、塗籠を出て行った。暫くして戻ってきた大弐は、
「これから私は、晴姫を呼びに参ります。帥宮様はその間に、女御様の御帳台の横の、几帳の陰にお隠れになっていて下さい。灯は暗くしておきますから、晴姫に気付かれはしないと思いますわ」
 私は頷いた。大弐が出て行って少し経ってから、私は足音を忍ばせて塗籠を出、桐壷のいる帳台の横の、几帳の陰に、桐壷にも聞き取れない位静かに坐り込んだ。薄暗い光の中に、桐壷の姿が見える。桐壷は、私が来たのに気付いて振り向くと、既に大弐から事情を聞いているのか、黙って頷いた。
 やがて、簀子縁を人が渡って来る気配がした。几帳の隙間から覗いていると、微かな明りの中に、二人の女の姿が浮かび上がった。後ろの小柄な方は、晴子に間違いない。大弐は帳台の近くに、晴子は帳台の前から少し離れた所に坐った。
「あの……」
 晴子の声だ。
「晴姫ですか」
 桐壷が口を開いた。大弐がついと立って、帳台の前の簾を巻き上げる。簾が巻かれると、私の目にもはっきりと、晴子の顔が見えた。
 今日の昼間の位置関係と、そっくり逆転しているではないか。きっと晴子も、几帳の隙間から私の姿を覗き見ながら、私の長広舌に腹を立てていたのだろう。そう思うと、不意に笑いがこみ上げてきて、慌てて私は頬を引き締めた。
「本日、大后の宮様のお付きで、いらしたのだそうですね。私、泣いてばかりで、気が付きませんでした。恥しいところをお見せしてしまって……」
 桐壷の声が聞こえる。晴子は、桐壷に見とれているらしい。大弐が後を引き取る。
「晴姫様。姫様の御文を頂き、お優しい御心に感じ入り、私は思わず、涙をこぼしてしまいました。源大納言様が、お役目を辞任したいと申文を参らせ、自邸に閉じ籠っておられるという知らせは、夕刻、こちらにも届いており、私共は泣き暮らしておりましたのですわ」
 いいぞいいぞ、その調子だ。
「確かに、私共が口軽く、愚かな事を洩らしたのが間違いでした。唯一人、お頼りできるのは源大納言様のみ、もう少し配慮すべきだったと悔みも致します。ですけれど、女御様が物怪に悩まされるようになられたのは、皇子様の御誕生からですわ。怪しげな声が聞こえたり、不意に燭台の火がかき消えて、御簾の向こうに人影がゆらめいたり、それはもう、恐ろしくて……」
 大弐は、ふと桐壷の方を見て、慌てて言いさした。やがて、一層声を潜めて、
「だとしたら、やはり、石女のまま亡くなられた女御様の継母、源大納言様の妹君より他、思い当たるお恨みもありませんわ。私はもう、無念で、無念で……」
と、震え声で言う。自分で物怪を出しておいて、大した演技だ。と、不意に、
「その物怪なんですけど」
 晴子が口を挟んだが、桐壷を見上げて、咳払いして言いさした。私は思わず拳を握りしめ、身構えた。
 ややあって晴子は、桐壷にも聞こえるようにという積りだろうか、少し声を上げた。
「私はね、大弐。物怪は、嘘っぱちだと思ってるの」
 さあ、来たぞ。物怪憑きと言われた晴子が、こんな事を言うのは笑止だが、でも見事に正鵠を得ているではないか。
「嘘っぱち……?」
 大弐の声が険しくなった。
「では、私共の作り事、同情を引くための作り事だとでも……!」
 物怪を出している張本人だけに、図星を指されて動揺したのだろうか。
「いいえ、違う。物怪は出たんでしょう、きっと。でも、出した人間がいる筈よ」
 晴子という女、頭は回らなさそうに見えて、妙な所で勘が働くようだ。大弐が拍子抜けした声で、
「出した人間て、あのう、物怪をですか」
「そうよ。桐壷女御様を物怪で脅して、得する人間がいるのよ。そいつらが、物怪を細工してるんだわ、きっと」
「得をする人間……」
 この大弐の空とぼけも大したものだ。
「声や人影なんか、どうとでも細工できるわよ。この淑景舎は人少なだから、人目に付く心配もないしね。しかも、その物怪を源大納言縁の者と思い込ませて、わざと噂を煽り立てたのも、そいつらよ。そんな噂を聞けば、源大納言は老人だし、かっとなって後見を降りてしまう。女御様は、唯一人のお味方まで失い、増々孤立してしまうわ。実際、そうなってるでしょ」
「それは、確かにそうですけど……」
 それを積極的に推進しているのが自分だとは、さすがに言えない大弐は口籠る。
 晴子は力強く言い切った。
「いいこと? 私を信用して。物怪は誰かが細工してるのよ。女御様を怯えさせ、孤立させるための汚い手口なのよ」
「女御様を怯えさせるための手口……」
「女御様が怯えられ、東宮様をお守りする気力もなくなれば、得する人間がいるのよ。今、藤壷様や弘徽殿様に、皇子がお生まれになったら、どうなる? 世論は、後見の強い藤壷様や弘徽殿様の味方よ。増々、淑景舎の皆様は孤立してしまうわ。心弱くなられた女御様が、これ以上の心労、心痛に堪えかねて、東宮様諸共、いっそ後宮を逃げ出してしまいたいなどと思われるかも知れないわ。敵は、それさえ狙ってるのかも知れない」
「それは……」
 大弐が、はっとしたように桐壷の方に視線を走らせた。
「この淑景舎を支えているのは、お前でしょう、大弐。だったらまず、お前がしっかりと、これは陰謀だと腹を括りなさい。私を信じて、守りから攻めに転じるのよ」
 晴子の言葉は、とにかく威勢が良い。ただ、その意気を裏付けする知恵と慎重さに欠けているのが、致命的弱点なのだが。
 大弐は、桐壷を見やる振りをして、几帳の陰、大弐からは見える所にいる私に、指示を仰ぐような目を向けた。私は晴子から見えないように、小さく頷いた。
 大弐は、了解したと言うように小さく頷くと、ゆっくりと晴子に向き直り、はったと晴子を見据えてから、こくんと頷いた。
「晴姫様、私は姫様を御信頼致しますわ」
 そうそう、その調子。大弐は決然とした口調で続けた。
「そのような事を心を籠めて、私共に言って下さる方は、長い間、どなたもいらっしゃいませんでしたわ。私は御信頼致します。私は気を強く持って、女御様をお守り致しますわ。その為なら、どんな事でも致します。晴姫様には、何かお考えがあるのですか」
「うん」
 晴子も頷いた。
「まず、お願いがあるの。源大納言が拗ねて、東宮大夫を辞任すると言ってるけど、辞任されちゃ困るのよ。だから、女御様直筆の御文で、源大納言に詫びて頂きたいの」
 すると大弐は、それだけは承服しかねるといった様子を見せた。
「姫様、それはどのような事でしょう。確かに、私共にも非はありました。ですけれど源大納言様は日頃から、関白太政大臣様の顔色ばかりを伺い、『ここで藤壷様に皇子誕生という事にでもなれば、いっそ私も気が楽になる。病気勝ちの女御様も、幼い東宮様を成人までお支えする心労から逃れられて、良いのではないか。なまじ後見のないまま帝位を望むよりは、院号を頂き、太上天皇に准じた扱いを受けられた方が良い』などとあからさまに申されるような方ですわ。そのような方に……!」
 源大納言が日頃からこうだったとは、私も大弐から聞いたが。こうまで私達にとって好都合な情勢に、何も知らずに単騎立ち向かう晴子は、さながら一匹の蟷螂であった。
「大弐。興奮しないで、ちゃんと聞いて。源大納言が東宮大夫を辞退し続けたら、私の父が後任になるわ。そうなったら……」
「晴姫様、私共にとっては、その方がどれ程有難いでしょう。私共は絶対に、源大納言様に謝る事はできませんわ。女御様の御直筆の謝罪の御文など、考えるだに汚らわしいですわ」
 あれあれ、私はそんな事を言うように指図はしてなかったぞ。だが、事の成行きとは言え、見事に言ってくれたではないか。大弐という女、晴子より余程、「使える」。
 晴子も負けじと、
「私の父が東宮大夫になるのと引換えに、左大臣家の佳姫が入内するかも知れないのよ。そうなったら、増々こちらの女御様のお立場は殆いのよ」
「はあ、佳姫様の入内……」
 大弐は拍子抜けしたように口籠った。と言うより、何も知らない事を言われて戸惑ったと言うべきか。私は佳子の入内の事は、大弐には話していなかったのだ。
「ここで佳姫が入内して、皇子誕生って事になったら、それこそ源大納言の言う通りよ。東宮様は無理にも院号を得て、上皇に准じた扱いになってしまうわ。世論がそうなるように、裏で操る連中がいるのよ。そうなったら、何もかも向こうの思う壷じゃないの!」
 力み返ってまくし立てる晴子に、私は少し不可解な物を感じていた。どうして晴子が、それ程迄に佳子の入内阻止に執念を燃やすのか。東宮と桐壷に対する同情、それだけではないような気さえする。
 不意に桐壷が、脇息から身を起こし、
「晴姫。それでは、いけませんか」
 穏かな声で言った。
「私のような頼りない、心弱い者の腹からお生まれになられた皇子様がお可愛想で、申訳なく、どうやって御成人遊ばされるのかと、将来を考える度に心が絞られるようでした。もし院号を頂き、穏やかなお暮らしができる物なら、その方がどれ程東宮様にとっても良い事か」
 そう、それで桐壷が安心してくれれば、私にとっても好都合だ、とは今は言うまい。
「私もまた、そうなれば心暢かにひっそりと、母子二人の暮しの中に、慰めを見つけられそうな気が致しますわ。元々、東宮をお産み参らせたのが、私には過ぎた運命だったのです」
 桐壷は、穏かながら、きっぱりとした声で言った。晴子は喰い下がる。
「だけど、女御様。佳姫入内という事になれば、佳姫も可哀想ですわ。政治の駈引きで無理矢理入内させられるのは、決して幸せじゃないわ」
 可哀想、だぁ!? この私に、そんな甘ったるい台詞が通じると思ったか、この大甘女が!
「佳姫様は、入内を望まれてはおられぬのですか。女にとっては女御の位は、最高の幸せの筈ですのに」
 穏かに言う桐壷に、晴子は、
「女御様は、お幸せですか」
 とんでもない暴言を吐いてくれた。
 ……そう言えば澄子は、あの時、入内前夜私と二人切りで会った時、入内は嫌だ、国母と称えられても、そんな事は何でもない、と言ったのだった。本当に人に恋し、人を愛する人は、そうも思うものなのだろう。……いや、構うものか、佳子を不幸にしようがどうしようが、私は私が一番大切、私が一番可愛い。
 晴子は言い募った。
「物怪などに怯えてはいけませんわ、女御様。裏で操る奴等を、絶対に突き止めて、失脚させてやりますから。心弱さに負けて、周りの思惑の通りになってしまっては、東宮様の将来はどうなりますの。東宮様の為と言いながら、女御様は、御自分の弱さに負けていらっしゃるわ」
 大弐が慌てて、
「晴姫様、お控え下さいませ、それは余りにも」
 晴子が、さすがに言い過ぎたと思ってか黙り込んだその時だ。静まり返った室内のどこからか、カタン、と音がした。晴子が、ぎょっとしたように中腰になり、私も思わず拳を固めた一刹那の後、音のした方から、赤児の泣き声が聞こえてきた。
「もしや、東宮様が!?」
 大弐が、弾かれたように立ち上がると、あたふたと部屋を飛び出して行った。
 暫く奥の方で、赤児の泣き声やら女達の声やらが聞こえていたと思うと、やがて大弐が、白い襁褓に包まれた赤児を抱いて戻ってきた。大弐に抱かれた赤児、それこそ他ならぬ東宮であり、そして私の息子でもあるのだが、何やらぐずっている。
「大弐」
 桐壷が腰を浮かせた。大弐は帳台の前へ進み出て、桐壷に東宮を抱き取らせる。
「まあ、宮、どうなさいましたの?」
 東宮を鎮まらせようとする桐壷の声音に、私は胸の奥から衝き上げる何かを感じた。慈しみ溢れるこの声、輝くばかりのこの笑顔、これが、子を慈しむ母の姿なのだ。乳母や女房という女達が、どう頑張ったところで、この母の姿の、神々しささえ感じさせる美しさには到底及ばぬ。幼い頃、実の母の慈愛を受ける事なく育った私には、我が子に惜しみない愛情を注ぐ桐壷の姿に、全身が打ち震える程の感動を覚えた。
 桐壷が抱いて揺すっているのに、東宮は一向に落ち着かない。そのうちに、すっかり恐慌に陥ったような大弐の声が聞こえた。
「……やはり、これは、物怪の仕業ですわ」
 晴子が口走る。
「大弐、物怪って、まさか東宮様のお側近くにまで出てるの!?」
 大弐は震える声で、
「ここ最近は、そうですわ。だからこそ、女御様もすっかり怯えられて、いっそ院号を頂き、静かなお暮しをなさりたいと洩らされて……」
と言いもあえず、啜り泣き始めた。
「晴姫、物怪は、作り事ですか」
 やがて桐壷が、落ち着いてはいるがひどく張りつめた声で、静かに言った。
「そうですわ、女御様。作り事です。女御様ばかりか、東宮様までも怯えさせ、東宮位辞退を促してしまおうという、許し難い企みですわ」
 晴子が、一層思いつめたように答える。
「では、辞退してはいけませんか。院号を得て、宮廷の醜い争い事から逃れ、ひっそりと母子二人、心穏かに暮らしたいと思うのは、心弱い事ですか」
「心弱い事ですわ。それにつけ込む奴等に、負ける事になりますわ。ひいては佳姫まで不幸にしますわ」
 子供を産んだ事もない晴子に、何がわかると言うのだろう、それに佳子の事も。私は唇を歪めた。
「佳姫様まで……」
 桐壷は呟いた。ふと桐壷は、東宮に目を落とすかに見せて、私を見た。私は黙って、小さく頷いた。桐壷はもっと僅かに頷くと、晴子に向き直った。
「大弐、文の用意を。晴姫の申される通り、源大納言様に、詫びの御文をお届けしましょう。どうか、私達母子をお見捨てにならぬよう、お願い致しましょう」
 と言いながら、私に目配せした。
「女御様、それは……!」
 私と桐壷の了解を知らぬ大弐が声を上げる。
「いいえ、書きましょう。ここは、晴姫にお任せするのです。何か、お考えがお有りなのでしょうから」
 大弐は晴子を振り返り、険しい口調で、
「晴姫様、女御様に詫び状をお書かせして、どうなるというのです。それを伺わなくては、私は墨を硯る事もできませんわ」
 晴子は平然と、
「源大納言を東宮大夫に留まらせて、取り敢えず佳姫入内の話を足止めさせるのよ。何としても、佳姫入内を阻止して、時間を稼がなきゃ」
「でも、源大納言様が、果たして女御様の御文一つで、一度言い出した事を引っ込めるかどうかさえ、怪しい物ですわ。あの方は日頃から、女御様を蔑ろになさっていて……」
 喰い下がる大弐に、晴子は確信に満ちた口調で断言した。
「いえ、絶対に辞任を取り下げるわ、その為の手は打ってある」
「手を……」
 晴子は頷いた。
「うん。源大納言が辞任を取り下げるなら、ちょっと汚い手を使うわ。敵だって汚い手を使ってるんだから、お合い子よ。女御様の詫状は、辞任を取り下げる時の口実、形式を整えるためよ。女御様から、心の籠った詫状が届いたとなれば、一度言い出した事を取り下げても、帝はお許しになる筈よ」
 何をやる気だ、その乏しい頭脳で。私は握りしめた掌に汗が潤むのを感じた。
「源大納言の方はそれで片つけて、こちらの殿舎には、物怪が出た時に押え込めるよう、女ながらに腕も立ち、気丈な女房を潜り込ませるわ。物怪を裏で操ってる連中を、現行犯で一網打尽にしてやる」
 誰を潜り込ませる気だ。もし綾子をとでも言うのなら、岩倉の別邸に叩き込んででも防がなければならぬ。綾子の、万一の心変りを考えると。
「敵の見当は、とっくについてるのよ。後は証拠を掴むだけ。敵だって、皇子誕生にならない事には動きが取れない訳よ。佳姫入内を邪魔して時間を稼いで、敵が焦ってボロを出す所を捕まえてやる。ボロを出さないなら、罠にかけてやるわ!」
 晴子は声高らかに断言した。聞いている私は几帳の陰で、両手の拳に一層力を入れた。
 これは完全に、私に対する宣戦布告だ。だが、私に聞き取られたのが運の尽き、私は晴子の意気込みを、褒めるに吝かではないが、同時にそれを粉砕してやる。今度こそ、晴子が永遠に再起不能となる程、徹底的に。だが、思えば晴子も、味方を選ぶ目が全くない。この前の綾子といい今度の大弐といい、味方に選んだ人間は全て、私に内通している人間ばかりだ。これではどんな作戦も、着手前から潰えたも同然だ。
 晴子が、やや落ち着いた声に戻った。
「それじゃ、女御様に御文をお書き頂くとして、源大納言への文使い、誰に頼むか、だけど」
 すると大弐は首を振った。
「どなたも、お頼みできる者はおりませんわ。今迄なら源大納言様の御子息の左中弁様(東宮亮を兼ねている)や部下の公達に、お願いできましたけれど。大納言様とこういう仲になりましては、文使いを頼める者もいないのですわ」
 晴子はしばし考え込んだ末、意を決したように、
「じゃ、いいわ、私が届けに行く」
 すると桐壷は、眉を顰めて、
「晴姫に、文使いまでおさせするのは、余りにも心苦しい事ですわ」
 晴子はやにわに胸を張った。
「文使いなんか、序の口ですわ。この先、物怪退治だって、しなきゃならないんですから。次から次へと、攻める手を打ちますわ。女御様には思いも寄らないでしょうけれど、私、これでもそれなりの修羅場をくぐってますの。死にかけた事もあるし、怖い物は、そう沢山はないんです。御心配なさらないで」
 それなりの修羅場、か。そんな強がりを言っていられるのも今のうちだ。この私に全て盗み聞きされた以上、今度という今度こそ、本物の地獄を見る事になるぞ。
 不意に桐壷は、その頃にはもう泣き止んでいた東宮を抱いたまま立ち上がると、静かに晴子に歩み寄った。
「晴姫は、不思議な方。どうして、そこ迄お力になって下さるのか」
 晴子は、臆面もなく答えた。
「多分、いろんな事に怒ってるのだと思いますわ。陰険な手を使って野心を遂げようとしている連中にも怒ってるし。岑男、いえ、帝だって、ひどいわ。女御様を、こんな風に頼りない身におさせして、放ったらかしておくなんて。東宮時代に何かと力になって貰った左大臣家に、気配りしなきゃならないのはわかるわ。今、帝位にあるのも、左大臣家のお蔭と言えない事もないもの。でも、政治は政治。情は情なのにさ」
 棘々しい晴子の声を聞きながら、私は苦々しい思いに捕われた。男の世界を何も知らなけりゃ、子供を産んだ事もない女が、何を知ったような事を。私怨私恨で、他人に余計なお節介を焼いて、他人の計画を踏み荒らして、そんな女は私にとって、百害あって一利なしだ。何とかして、女が男に陰謀で勝負を挑むなど、身の程知らずもいいところだという事を、骨の髄までわからせてやる必要がある。そのためには、どうやったらいいか、私は考えをめぐらせた。
 やがて晴子が退ってゆき、晴子を送って行った大弐が帰ってくると、私は几帳の陰から出た。大弐は私を見て、にやりと笑った。
「帥宮様、全て、お聞きの通りですわ」
 私は大弐の手を取って、深く頷いて言った。
「実に上手な芝居だったね。あそこまで晴姫を欺しおおせたのは、大した物だよ」
 それから桐壷を振り返り、
「桐壷様も、大した演技でしたよ。私が何も申さないのに、源大納言様に文をお書きになる事を承知してみせる事、ちゃんとお分りになられた」
 すると大弐が、軽い驚きを含んだ声で、
「え、では、あのお言葉は、帥宮様と示し合わされて……」
「ええ、そうですよ」
 桐壷は可笑しそうに言った。
「しかし、先刻のあの物音と、それに続いて東宮がお泣きになったのは、どうやったんだい。実にいい頃合いだったが」
 私が大弐に尋ねると、大弐は笑った。
「何でもございませんわ。東宮様は毎晩、一度か二度はああやってお泣きになられるのです。それを女御様がお抱きになって、お乳もあげずおむつも替えず、少し手荒くお揺すりになれば、半刻でも一刻でもお泣き続けなさいますわ。ちゃんと、女御様と示し合わせておいたのです。御子を産まれた事のない晴姫には、お分かりにならなかったのですわ」
 これには私は、笑いがこみ上げてくると同時に少し鼻白んだ。あの時の桐壷の、後光が差しているかのような仕草は、東宮を泣かせ続け、大弐に一芝居打たせるための演技だったのか。
「まあ、それはともかく。晴姫があんなに、貴女達の味方になった積りでいるからには、私達も本気で考えないと、まずい事になりますよ」
 私が桐壷と大弐を交互に見ながら言うと、二人は真顔で頷いた。
「まず桐壷様、源大納言様に差し上げる御文を、今夜中に出来るだけ念入りにお書きになって下さい。晴姫に見せても、変な疑いを持たれないように」
「わかりました」
 桐壷は静かに頷く。
「次に大弐、明日の昼頃迄に晴姫に会って、こう言うんだ。源大納言様は、地方からの客人もあり何かと忙しいので、丑の刻(午前二時)でなければ時間が取れない、と。それで、丑の刻になったら晴姫に御文を持たせて、牛車で送り出す。その車は、私が差し向けるから、こちらでは何もしなくていい。わかるか、意味が?」
 大弐は首を傾げた。
「こういう事だ。私の差し向けた車に乗せて、行き着く先は私の邸。そこで私は桐壷様の御文を晴姫から奪い、晴姫は口封じに、……」
 と言って私は首に手刀を当てた。桐壷と大弐の顔色が変わった。
「そ、帥宮様、それは……」
 震える声で口走る大弐に、私は冷酷な声で言った。
「あの女は只者じゃない。並大抵の手段で黙らせられる女じゃないんだ。だから、少々手荒にする事も、この際已むを得ん」
 大弐は黙り込んだ。
「では桐壷様、御文はお任せしますよ」
 私が打ち合わせを済ませて、淑景舎を出たのは、子の三刻(午前一時)頃であった。待ちくたびれて寝ていた牛飼を起こして、邸に帰った。
・ ・ ・
 翌日私は、何事もなかったかのように参内したが、今夜起こるべき事を想像すると、さすがに胸が高鳴って、殿上の間に坐っていても他の者達の雑談も耳に入らず、上の空であった。今夜私は、人を殺す。それも、互いに良く顔見知りで、親友の妻でもある女を。だがそれも、私の遠大なる計画を達成する為に避けて通れない道なのだ。いや、むしろ晴子の方が、そうなるべく私の前途に立ちはだかった、と言った方がいいだろう。私の帝への復讐が、人智の及ばぬ天の配剤であるならば、それへの障害を除くことは、天命に叶ってもいるのだ。そうである以上、何を躊う事があろう。
 私はふと思いついて、三条大納言を呼んで言った。
「今夜、お時間を下さいませんか。晴姫の事で、ちょっと」
 大納言は首を傾げる。
「晴姫?」
「晴姫は、佳姫の入内に反対する最右翼です。私達にとって、あれ程目障りな姫はいません。少々、お灸を据えてやろうと思うのです」
 私が淡々と言うのに、大納言は何も気付かず、
「何だかわからないが、いいでしょう」
「有難うございます。では今夜、子の刻に、そちらへ伺いますから」
「子の刻? ……わかりました」
 大納言は、何の疑問も持っていないらしい。
 さてその夜、私はまず牛車を内裏へ差し向けてから、清行と二人馬を並べて三条大納言邸へ向かった。私の邸で雇っている牛飼四人、武士三人を二手に分け、一半は私の車に付けて内裏へ差し向け、もう一半は私と清行に随伴させた。これも私が一日考え抜いた作戦であった。
「晴姫にお灸を据えるとは、どうする積りなんです」
 大納言は訝る。私はにこりともせず、
「私が一切、仕切らせて頂きます。大納言殿は、立ち会って頂ければそれで宜しい。まず、車を一台用意して頂けますか」
 子の刻を過ぎた頃、私と大納言は大納言邸の車に同乗し、清行と武士二人を騎馬、牛飼二人を徒歩で随行させて出発した。車の行先は、前以て清行と示し合わせてあるので、私が何も指示を与えなくとも、車は清行の指示で順調に走る。薄暗い車内を、次第に息詰まる雰囲気が支配してくる。
「帥宮殿」
 空気の重さに耐えかねたように、大納言が口を開いた。
「どこへ行くのか、それだけでも」
 私は極めて冷淡に言った。
「どこらだとお思いですか」
 大納言は黙り込んだ。顔は見えなくとも、大納言が次第に恐れ戦いていくのが、空気を通じて感じられた。
 やがて、
「若殿様、着きました」
 清行の声が聞こえた。
「うむ」
 私は後簾を掲げて、ひらりと車から降りた。車中の大納言を振り返り、
「さ、貴方も、ここで降りて下さい」
 私に促されて、重い腰を上げた大納言ではあったが、簀子縁に着けられているのでもなければ、榻も筵道もないのに、妙に躊躇している。
「お、降りろと言っても、沓、履いてないのに」
「そんな事言っている場合ですか、さ、早く」
 私は叱咤しながら、大納言の手を引っ張った。渋々ながら顔を出した大納言は、辺りを見回して不安気な顔をし、尻込みしようとする。
「こ、ここは……」
 ここは五条坊門東大宮の辻である。大納言のような上流貴族にとって、往来の真中で車から降りるなどということは、常識外れも甚しい事なのだった。しかも五条辺りともなれば、貴族の邸宅よりも庶民の小家が多い。そんな場所で車から降ろされる事に、並々ならぬ不安感を感じているのに違いない。しかし、ここ迄来て四の五の言わせている暇はない。私は半ば力ずくで、大納言を車から降ろすと、大納言の従者と牛飼達に言った。
「お前達は、ここから真っすぐ帰れ。大納言殿は、後で私がお送りする」
 不安そうに顔を見合わせる従者と牛飼に、私は重ねて言った。
「今夜中に必ず、私の車でお送りする。何も心配しなくていい、早く帰れ」
 やっと車は去って行った。私は清行と他の四人に言った。
「綾小路の辻へ行って、見張っていてくれ。車が見えたら、すぐ戻って来て私に知らせろ」
「はっ」
 清行と武士は騎馬で、牛飼は徒歩で、一丁北の綾小路の辻へ向かった。後には私と大納言の二人、夜の辻に取り残された。この辺りは人通りも少なく、しんと静まり返っている。私は石のように押し黙って、北の大路に目を凝らしていた。
 不意に、大納言が口を開いた。
「そ、帥宮殿、はっきり説明して下され。こんな所で、何をする積りなのか」
 大納言の声は、不安が高まり、恐慌に近づきつつあるのを如実に示していた。私は徹底的に落ち着き払った冷たい声で、
「晴姫と、待ち合わせをしているのですよ」
「待ち合わせ……?」
 腑に落ちない様子の大納言に、私は言った。
「その待ち合わせにお立ち会い頂くために、大納言殿にも御足労願ったのですよ」
「私を立ち会わせて、それから何を……」
 大納言が尚も言いかけた時、一丁北の辻に見えていた松明が大きく振られた。
「しっ! 来ますよ、晴姫が」
 私は大納言を黙らせ、素早く懐を探った。懐には布と縄、それに短刀が隠してある。
 清行が戻って来た。晴子を乗せた車は、半町ばかりまで近づいた。私は右手に短刀、左手に布と縄を握りしめた。大納言は、私の右手に光る短刀を見て、ぞっとしたような声で、
「そ、帥宮殿……」
「しーっ!」
 清行が、進んで来る牛車の前に騎馬で立ちはだかった。車は停まった。私は三人の武士に目配せした。
「どうしたのよ?」
 間違いない、晴子の声だ! 私は勢い良く後簾を撥ね上げた。はっとして振り返った晴子の顔は、見る間に恐怖に凍りついた。私は榻も使わずに車内に躍り込んだ。
「帥宮……」
 晴子が、恐怖の余り喉が裏返ったような声を出すその時、私は無言のまま晴子に躍りかかり、短刀の鍔を晴子の喉に当てて押し倒しながら、丸めた布を晴子の口に押し込んだ。晴子が怯む間に、私は短刀を口に銜え直し、両手で晴子の躯を裏返した。片膝で背中を押えつつ、晴子の両腕を捻り上げ、後ろ手に縛り上げた。全ては、二息か三息の間の事であった。
 何やら唸り声を上げる晴子に、私は、
「お静かに」
 素気なく言いながら、もう一枚の手巾を使って、晴子に頑丈な猿轡を噛ませた。猿轡を噛ませる手を止めずに、振り返りざま、
「大納言殿、何を躊っておられる。早く、車にお乗りなさい! 通りで車が停まっているのが人目に付いてはまずい。早く!」
 低い、ドスを利かせた声で命じた。大納言は、震えながら車内を覗き込み、私に組み伏せられた晴子を見て、さぁっと蒼ざめた。
「何をぐずぐずしているのか、早く!」
 私は片膝で晴子を組み敷いたまま、大納言の上体を双腕で抱きかかえ、ぐいと車内に引っ張り込んだ。大納言は勢い余って車内に転がり込み、烏帽子が脱げて床に転がった。私は後簾を降ろし、車外にいる清行に命じた。
「出させろ!」
 車は、何事もなかったかのように、ゆるゆると動き出した。
 大納言は震えながら、やっとの事で起き上がった。後ろ手に縛られて目の前に転がっている晴子を、恐ろし気に見下ろしつつ、歯をガチガチと鳴らしながら、
「そ、そ、帥宮殿、こ、これは、い、一体、……ま、待ち合わせどころか……」
 私は泰然と答えた。
「待ち伏せ、誘拐だと仰言りたいのでしょう」
「う、う……」
 大納言は暫く口籠った。
「く、車ごと、攫うとは、し、しかし、従者や、牛飼は……」
 私は内心こみ上げてくる笑いを押し殺して、徹底的に冷淡に答えた。
「何の為に武士を二人も連れて来たか、お分りではないのか。車ごと攫うには、従者や牛飼は邪魔です。あの武士達が全員、きちんと後始末をしています。人目に付く事はありませんよ」
 大納言は、たちまち蒼白になった。
「あ、あ、あ、後始末とは、そそ、そ、そ……」
 私は、ぴしゃりと叱りつけた。
「落ち着きなさい、大納言殿、見苦しい! 死体が道端に転がっていれば、騒ぎになるでしょう。死体の影もなく、車も消えてしまっているとなれば、晴姫は神隠しに遭ったような物、物怪に怯えている淑景舎の女達等は、物怪に襲われてしまったと信じ込みますよ。好都合というものです」
 これは嘘八百である。二手に分けた武士と牛飼の一方は、淑景舎から五条坊門東大宮までが受け持ちで、そこで他の一方に車と晴子を引き継いだ、というのが真相だ。その際、後半担当の二人の武士に、前半担当武士一人と牛飼二人を襲撃する振りをするよう、出発前に全員に言い含めておいたのだった。何故こんな事をしたか、それは勿論、内裏に車を差し向けて晴子を乗らせたのが私の差し金である事を、晴子と大納言に悟られないためであった。
「しし、し、しかし、帥宮殿、私はまさか、そんな手荒な事をするとは思ってもいなかったぞ。目障りな晴姫に、お灸を据えると言うから……」
「そうですよ。この姫は危険すぎる。突飛な事をなさりすぎるし、馬鹿気た正義感で、私達が秘やかに積み上げてきた物を、一瞬の内にぶち壊してしまう。愚かしくて、目障りな姫だ。邪魔です。目障りで苛立たしい」
「そ、それはわかる。それはその通りだが、し、しかし、あのような手荒な真似をして、ど、どうする積りなのだ」
 私は、可能な限り冷酷な笑みを浮かべた。
「今更、知らぬ存ぜぬはないでしょう、大納言殿。貴方も、晴姫誘拐に加わったのだ。一人、涼しい顔をしようとは思わぬ事ですね。この事が洩れたら、私も破滅だが、貴方も破滅だ」
 私は晴子の頭を軽く撫でた。
「この姫は今上のお気に入りです。賊に襲われた形跡を残したりすれば、京中を虱潰しにされてしまう。神隠しのように、煙のように消え失せて頂くしかないのですよ」
 大納言の声は上ずっている。
「消え失せるとは言っても、一体、どこに隠す積りだ。恐れ多くも今上のお気に入りというなら、晩かれ早かれ、隠し場所も突き止められてしまう。そうなったら……!」
 どうもこの男は察しが悪すぎる。私は軽い侮蔑を含めた声で言った。
「隠し場所?」
 それから余裕綽々の笑みを顔一杯に湛えて、朗詠でもするような声音で、組み伏せられている晴子にもよく聞き取れるように言ってやった。
「隠し場所など、必要ないでしょう。首を一捻りして、このまま宇治川にでも放り込んでしまえばよい。そのうち淀川から、やがて瀬戸内の海にでも、漂い出て行きます。死体は清らかな川の水に洗われて、川魚が腐り落ちる肉を喰ってくれる。海に注ぎ込む頃には、白く砕けた骨の粉が、海の底に無数に散らばってゆく。晴姫に相応しい、雄大な死に方でしょう。感謝して頂きたい程ですよ」
 大納言の顔は、見る見るどす黒くなり、いつも半ば寝ぼけたような眼は、飛び出しそうな程に見開かれていた。喉が痙攣したような声が、紫色になった唇から洩れた。
「そそそそそ、そそ、帥宮殿、貴方は、は、晴姫を、こ、殺す気か……!?」
 私は愚鈍な大納言を幾分憐れむように、
「今頃お気付きになりましたか。その積りがなくて、こう迄手荒な真似ができますか。そのために、貴方に御同道を願ったのですよ。貴方も御同罪だ、お忘れなきように」
 大納言は白目を剥き、泡を吹いたと思うと、座ったまま失神し、ぐらりと倒れ込んだ。
「何もこんな狭い所で、気を失わずとも良いのに……」
 やれやれといった思いで呟きながら、引き痙って歪んだ顔に目を落とした時、首を捩りながら私を睨み上げている晴子と目が合った。目を血走らせ、凄まじい形相で睨む晴子に、私はにこやかに笑ってみせた。
「昨日は、不意の御登場でしたね。私を驚かせたお積りでしょう。でも今度は、私が驚かせました。これで貸し借りなし、いや、烏丸殿で一回驚かせましたか」
 身動きできず、声も出せない晴子は、せめてもの意地か、あらん限りの憎悪を込めた目で私を見上げた。私はその目を見つめ返しながら、諭すように言った。
「晴姫は勘はお宜しいが、頭がお悪いですね。姫を産み分けてみせるなどと、出来もしない大見得を切っておきながら、私が黙っていると思いましたか。後先をお考えにならないのは、頭のお悪い証拠ですよ。お気をつけなさい。
 昨夜、貴女の局を、淑景舎の一の女房が訪ねましたね。その後貴女は淑景舎に行かれた。床下にいるのは、猫や鼠ばかりとは限りませんよ。清行のような利巧な男が潜り込んでいるかも知れない。これからはお気をつける事ですね」
 それから、ふっと眉を上げて、にやりと笑って言った。
「いや、『これから』という事は、現世ではもうあり得ないのだった。来生もし人間に生まれて、宮廷陰謀に首を突っ込まれる事があったら、でしたね。訂正します」
 やがて、車は停まった。川波の騒ぐ音が、車を包む。物見窓から外を見ると、今しも西の山並に沈まんとする月の光が、滔々たる川面にゆらめいていた。ここは橋の上だ。
「清行、灯を持て」
 私の声に応えて、清行が短くなった松明をかざす。私は晴子を抱きかかえた。晴子は、さすがに死の恐怖の余りか失神している。これならばやりやすい。両手を縛って猿轡を噛ませた、この状態で川に投げ込んでも、確実に溺死するであろうが、念には念を入れる必要がある。そのために私は、もう一本の縄を持って来たのだ。
 晴子を車から抱え降ろそうとした時、大納言の衣に晴子の足が引っかかった。私は特に気にせず、橋板の上に横たえた晴子の首に縄を二重に巻いた。このまま絞め上げてもいいが、もっと確実にやるのは、晴子の躯を投げ落とし、その勢いで首の骨を折ってしまう事だ。私は縄の片端を口に銜え、晴子の躯を抱え上げて欄干の向こうへ投げ落とそうとした。
 その時、不意に背後からむしゃぶり付いてきた者がある。半狂乱の大納言の声がする。
「そ、帥宮殿、待って下され、せめて命だけは助けてやって下され、この姫は、絶対、物怪になって祟りますぞ、絶対、祟りますぞーっ!」
「大納言様!」
 清行が、大納言を私から引き離そうとしているらしい。私は縄の一端を口に銜えたまま、空いている左手で大納言を突き放した。この期に及んで、共犯者に擬した者に妨害されてはならぬ。
「そ、そんな事をされたら、信孝に合わせる顔がない、もしバレたら、殺される、きっと殺される、私も、帥宮殿も!」
 必死で思い止まらせようとする大納言に、私は耳を貸さなかった。晴子を橋板の端に立たせるようにし、縄の一端を左手に持ち直した。ここで晴子を蹴飛ばせば、晴子自身の躯の重みで首の骨が折れ、溺死や窒息よりずっと迅速な死がもたらされる。
 いざ、と足を上げ、晴子の躯を一蹴りしたその時、再び大納言がむしゃぶり付いてきた。片足立ちになっていた私は弾みで体勢を崩し、思わず片手を離してしまった。もう一方の手で晴子の体を引き上げようとするより先に、晴子の体は川面へと落ちて行った。あっと思った時には、一際高い水音を立てて晴子の体は、川の流れに呑み込まれていた。
「あああ……」
 私の腰の辺りの高さから、大納言の上ずった声が聞こえた。私は振り返り、橋板に膝を突いて川面を覗き込もうとしている大納言を見下ろした。
「貴方のせいだ。貴方が余計な事をするから、確実に止めを刺せなかったではないですか」
 私の恫喝も、大納言の耳には入っていなかっただろう。橋の上を這って、川下の方を覗き込もうとする大納言の、両腋を抱え上げて立たせると、私は低い声で囁いた。
「本当なら貴方も御一緒させたい位だが、貴方にはまだ働いて頂かなければならない。さあ、長居は無用、早く車へお戻り下さい」
 私が大納言に殺意を抱いていると感じた大納言は、力なくへたり込んだ。私は清行に手伝わせて、大納言を車に押し込んだ。
「さ、早く車を出せ。夜のうちに帰るんだ」
 私は牛飼や武士を急かした。車は間もなく、ゆるゆると動き出した。
 歯の根も合わぬ様子で坐り込んでいる大納言に、私は言った。
「あの姫さえいなくなれば、もう少しで、万事うまく片付きます。桐壷女御の怯えは、最早最高潮に達しておられる。あと一押しで、必ず東宮位を辞退奉りなさいます。ですから、一刻も早く、佳姫を入内させるのです。晴姫を殺してしまったからには、もう一刻の猶予もなりません。今日明日にでも、入内のために働きかけるのです」
 大納言は、糸の切れた傀儡のように首をがくがくと振りながら、震える声で、
「わ、わ、私は、もう、こ、今夜限り、この件から、この件からは手を引く! 今迄の事は、全部なかった事にしてくれ!」
 しまいには私を拝み倒すようにして叫んだ。私はこの上なく冷たい声で、
「何を仰言るのです。もう貴方はこの件に、首までどっぷり浸ってしまっておいでです。晴姫殺しにも、手を貸してしまわれた。私と手を組まれたという証拠の書状もある。今更、逃げ出そうなどと、思われても無駄ですよ。それに……」
 がたがたと震える大納言に、私は言った。
「貴方に取り乱されては、事が露顕する恐れがあります。事が露顕すれば、謀叛も同然。もし事が露顕したら、どうなりますか、よく考えて御覧なさい。私は幸か不幸か父母も兄弟も妻子もなく、失う物とて高が知れています。何もかも失っても、庶民に身を落とす気になれば何でもありません。しかし、名門関白太政大臣家の長男、弟妹妻子もおられる貴方には、失う物が多すぎませんか。無官無位に落とされて、果たして貴方、生きてゆけますか。よく考えて御覧なさい」
「うう……」
 大納言は、脂汗を潤ませて、言葉もなく震えている。
 三条の大納言邸で大納言を降ろし、明け方近くなって私は帰邸した。雑舎を覗いてみると、大納言の目の前で私の従者に斬り伏せられた筈の武士と牛飼は、高鼾で寝ている。彼等には臨時手当を弾んで、変な事を喋らないよう厳重に口止めしなければなるまい。
 晴子が携えていた、桐壷から源大納言宛の文を、私は文箱から取り出した。晴子が好奇心の余り開いて見たとしても、不審に思われないよう、それらしい文を書いてくれと頼んだのであったが、今読んでみると中々の名文である。本当にこれが源大納言の目に触れたら、もしかすると辞表を取り下げる気になるかも知れない。だがこの文は、永久に源大納言の目に触れる事はない。私は、半ば灰になった篝火に文をくべた。晴子の目の前で、清行の松明ででも焼いてしまった方が、より効果的だったろうか。めらめらと燃え上がる文を見ながら、私はふと思った。
(2000.12.8)

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