岩倉宮物語

第六章
 翌日参内すると、信孝が私を呼び止め、嬉しそうな声で言った。
「吉野の晴姫から、初めて文が届きましてね。もうすっかり良くなったそうです」
 私は一応、相槌は打つ。
「それは良かったですね」
 それから声を低めて、
「初めて、というのはどういう事でしょう。今迄何度も、文を出してらしたのでしょうに」
 すると信孝は、やや当惑した顔になった。
「実は……文を扱ってる家司が、私と晴姫の間の文を握り潰していたんです」
 私は大袈裟に驚いてみせた。
「それは怪しからん。そんな家司がいるとは」
 そんな事をやりそうなのは、あの守実だろうな、と察しはついた。
「それでその家司をきつく叱って、私に関する文は一切、別の従者に任せる事にしたんです。そうしたら早速、文ですからね」
 さて問題は、晴子がいつ帰ってくるか、という事だ。帰ってきたら、信孝の事だから、半ば強行突破的に結婚するだろう。そうなると私も、行動に出なければならない。しかし、ではどういう行動に出るか、となると、すぐには考えつかない。自己保身の為とは云え、親友と許婚者の仲を裂くというのは、なかなか心苦しいものがあるのだ。と言って何もしないという訳にもいかない。三条大納言はまだしも、右大臣派には、権少将という厄介者がいる。本当なら、あの男を最初に口封じしてしまいたい位なのだが。それにもう一人、綾子というのもいる。東宮妃の一言が見事に決まって、一挙に私の味方になったが、私が何もしないでいてもし守実の方にでも寝返られたら、これも非常に由々しき事態を惹き起こすに違いない。
 その五、六日後の夜、管絃の宴が終わって退出しようとした私は、参内してきた権中将為信とばったり会った。
「や、帥宮殿。お帰りですか」
 権中将は昨日今日と顔を見かけなかったのに、こんな夜遅くなってから参内してきたのは何か変だ。
「貴方こそ、こんなに遅く、参内ですか」
 私が問い返すと、権中将は妙にどぎまぎした様子で、
「ええ、帝の、お召しがございましたので」
と言って、そそくさと清涼殿へ向かう。私は一層不審に思って、そっと後を追けた。
 人気のなくなった清涼殿から、蔵人の声がする。
「左近権中将のお成りにございます」
 私は、素早く殿上の間に忍び込んだ。権中将は、帝の御前に召されているらしい。私は櫛形窓の側に立って、息を殺して御座所を窺った。帝の声が聞こえる。
「……吉野への遣い、大儀であった」
 吉野だと!? 吉野に今、誰がいるか。他にも誰かいるかも知れないが、まず第一に私の念頭に浮かんだのは晴子であった。すると何だ、帝は、晴子に文を贈っていたのか? 男が女に文を贈ると言えば、十中八九は懸想である。帝はまだ、晴子に懸想しているのか?
 鳴板敷が鳴ったと思うと、御前から退ってきた権中将が、殿上の間に入ってきた。私と目が合った途端、権中将は妙にうろたえたような表情を見せた。
「そ、帥宮殿、まだ、いらしたんですか」
 声まで上ずっている。二年前の夏、帝が晴子に懸想、いや、横恋慕していた時、それに苦言を呈する最先鋒に立っていたのが私であった事を思えば無理もない。私の方がむしろ堂々として、少しも悪びれず、
「忘れ物をしましてね。取りに戻ったのです」
と嘯いてやると、
「あ、そ、そうですか、では、失礼します」
 すっかりうろたえたまま、そそくさと退出していく。後ろ姿を、片頬に薄笑いを浮かべながら見送った私は、蔵人を呼んだ。
「突然で恐縮ではあるが、帝に拝謁仕りたい」
 私が言うと、蔵人は困惑したような顔をしたが、すぐに、
「少々お待ち下さい」
と言って御座所へ向かった。
「……明日にしろと言っても、聞かんだろう」
 帝の声が漏れてくる。程なく蔵人は戻ってきた。
 蔵人に先導されて、私は御前に参上した。
「突然の拝謁をお許し頂き、恐惶至極に存じます」
 型通りの口上を述べると、帝も型通りに、
「苦しうない。申す次第があれば、申してみよ」
 そこで私は、単刀直入に申す次第を申した。
「吉野へ権中将をお遣わしになった由、先程殿上の間にて漏れ聞き奉りましたが」
 帝がバツの悪そうな顔をするのにも構わず、
「権中将をお遣わしになった、お相手はどなたでございますか」
 帝が困惑した面持ちで、居づらそうにして黙っているのを見て、私は虚々しい出任せを言った。
「もしあの、弟宮の御消息が掴めたというのでもあれば、私としても知らぬ顔でいるのは気が引けますから」
 性覚が吉野へ逃げ延びているなどという事が、絶対にあり得ない事だと誰よりも確信しているのは、他ならぬこの私だ。それでも、こういうあからさまな出鱈目を言うのは、誘導尋問の一戦術である。案の定、帝は、
「いや、そうではない。あれは、公にはまだ追捕されている者だ。そこへ、権中将のような、公の立場の者を遣わす訳にはゆかぬ」
 自ら術中に嵌まっているのに、全然気付いていない。私は畳みかけた。
「では、どなたなのでしょうか」
 帝はいよいよ困惑した顔で、もじもじしながら黙っていたが、やがて、言いにくそうに、
「……晴姫だ」
 そんな事だろうと思った。私がじっと帝を見上げていると、帝は早口に、ややぶっきら棒に言った。
「それで何だ、また諌言しに来たのか!?」
 やはり帝は、晴子との件に関しては私を煙たく思っているようだ。私はわざとはぐらかすように、にこやかな顔を作って言った。
「諌言申し上げに参ったのではございません。主上が吉野へ権中将をお遣わしになったのは、今更御懸想じみた事とは思いません。むしろ、早く晴姫に御帰京なさり、信孝殿を安心させて差し上げるようにと、お勧めになっているものと思いました。信孝殿は何度も晴姫に文を贈っているようですが、一向に晴姫は帰京の意を示されません。それで主上御自身から、帰京をお勧めになったと」
 帝は、些か拍子抜けしたような顔をした。しかし、居心地の悪さは免れられた、という安堵感が見える。
「そなた、変わったな。一昨年の夏は、あれ程大義名分を大上段に振りかざしていたのに」
 ここらで少し、帝をくすぐっておくか。
「私が、変わりましたか。そう思われるのは、主上御自身が、お変わりになられたからです。あれから、もう二年が経とうとしております。主上は、信孝殿と晴姫の御仲に、横車をお押しになるような事はなさらぬ程、こう申しては失礼に当たりましょうが、大人になられた、と私は拝察致しました。ですから、主上が晴姫に文をお遣わしになるとしても、私は大真面目な諌言は申さなくとも良い、と安心していられます」
 何々するな、と言う代りに、何々しない位大人になったと思うぞ、と言うのは、相手によっては却って嫌味に取られることもあるが、私より年下の者に対しては、結構自尊心をくすぐる事ができるものだ。
 帝は、案の定自尊心をくすぐられて、満更でもないといった顔をしている。
「そうか、正良は私を、そういう風に見ていてくれたのか。いや、実はな、正良だけには気どられるまい、と思っていたのだ。そなたに気どられると、そなたの事だ、また何のかのと諌言しに来ると思ってな」
 私は、帝にこのように思われていた訳だ。
「天下の御意見番、とお思いだったのですね、私を」
 帝は、すっかり上機嫌になった。
「そうだな。だがまあ、そなたも私が晴姫に文を遣わすのを、大目に見てくれるようになったか。やはり、そなたも変わったな。以前は、あの信孝に輪をかけた真面目者で、何かこう生硬すぎる位だったが。兵部卿宮が、そなたの生真面目さは先代の岩倉宮にそっくりだ、と言っていた事がある」
 私は相槌を打った。
「祖父がとても真面目な方だったという話は、私も伺いましたよ、兵部卿宮から」
 帝は、ふと思い出したように言った。
「この事は、あくまで内密にな。私とそなたの仲だからこう話したが、他の者には話さないでくれ。話が漏れ広がって、信孝の耳に入ると気まずいから」
 そりゃそうだ。
「承知仕りました。誰にも、決して話しません」
 私が確信を持って答えると、帝は安心した様子で、
「そなたの口の固さは、私も充分信じているからな」
 私は内心、にやりとした。帝は、私の本心が完全な面従腹背になっていることに気付いていない。だからこそ、こんな台詞が出るのだ。以前の私だったら、帝との間の秘密は、誠意を持って守り通そうとしただろう。しかし今の私は、成程帝との間の秘密を、軽々しく口にはするまいが、それは決して帝との友情に満ちた信頼関係からではなく、帝の喉元に突きつけるべき時に至るまで、じっと切り札として温存しておく含みがあるからだ。
「では、私はこれにて失礼させて頂きます。夜分、御無礼を致しました。お寝みなさいませ」
 私はありきたりの切口上を述べて、御前を退出した。
 今握ったこの秘密を、将来どのように利用するか。私の心は早くも、これを武器の一つとして帝を追いつめる事を考え始めた。帝の喉元に突きつけなくとも、ちらつかせるだけでもいい。帝に対して、優位に立てればそれでいいのだ。
 それから五日ほど経ったある日の事だ。参内した私が、清涼殿へ向かって廊下を歩いていくと、向こうの角に信孝の姿が見えた。信孝は私を見るなり、足早に私の方へと向かってきた。
「正良殿」
 声からして、嬉しさに天にも舞い上がらんばかり、という感じだ。
「これは信孝殿。何か嬉しい事がおありのようですね」
 私がかまをかけると、信孝は嬉しそうに、
「ええ、吉野の晴姫が、もうすぐ帰ってくるのですよ。昨夜、文が届いたのです」
「それはそれは」
 信孝にとっては、これで晴子との結婚が、いよいよ現実のものになると思えば、嬉しい事限りなし、なのであろうが、私はそう素直に喜べない。どころか、信孝と晴子の結婚を妨害するよう私に要求している連中の一人に、とんでもない弱味を握られてしまっているとなると、晴子が帰ってくるのは正直言って気が重い。それでも無理に笑顔を作って、信孝を祝福してやる素振りを見せた。
「やっと帰ってくる気になってくれたんです。こうなったら、周りの者にとやかく言う暇を与えず、晴姫本人も気が変わらないうちに、さっさと結婚してしまおうと」
 信孝はすっかり舞い上がっていて、私の表情を察する様子もない。
「長い春も、ようやく終わりそうですね」
 当り障りのない事しか言えない。
 それにしても、つくづく自分の不幸を思う。親友が長い恋の成就を目の前にしている時に、それを素直に祝福してやれない事が、不幸でなくて何であろう。それどころか、その親友の恋の成就を、自らの手で阻止或いは破壊しなければならないのだ。それも全て、身から出た錆、自業自得ではあるのだが。右大臣派がどう考え、何をしようとも、それは直接私の責任ではないが、桐壷が男子を産み、その子が新東宮に儲立された事の、全ての責任は私に帰する。私が桐壷との間に男子を儲けたのは、私が桐壷を籠絡した結果だし、私が桐壷を籠絡した動機は――澄子を、帝に奪われ、殺された事だ!! あの事のために、私は帝に、生涯を賭けた復讐を果たそうと決心し、その第一歩として、桐壷を帝から奪おうとしたのだ。そうなのだ、全ての原因は、帝が澄子を私から奪った事にあるのだ。そうである限り、私は、帝への復讐にのみ生きる。憎悪と瞋恚、そして悲しみ、これを生きる糧として。私のこの不幸、私が二十二年の人生に於て味わってきた全ての不幸、それを私は幾千万倍にもして、帝をその中に突き落とし、そのどん底に沈めてやるのだ。
 翌々日の朝、手水を済ませて、桔梗が朝飯を持って来るのを待っていると、妙に足早な足音がして、入ってきたのは近江だった。
「若殿様、お早うございます」
 一応きちんと朝の挨拶はしたものの、どうも少し、いつもと様子が違う。
「何だ近江、朝早くから何かあったのか?」
 近江は跪いた。
「はい。蔵人弁少将様がお見えになりまして、至急、若殿様にお目にかかりたいと仰言っておいでです」
「信孝殿が? わかった。すぐ、お通ししてくれ」
「かしこまりました」
 近江が退ってゆくと、すぐに信孝が入ってきた。一見して、只ならぬ事態が発生したとわかる顔をしている。
「朝早くから、お騒がせして申訳ありません」
 信孝は一礼して言った。
「何か急な事態でも?」
 私が身を乗り出すと、信孝は真剣な顔で、
「公晴殿が、家出したのです」
「家出!? 公晴殿が?」
 私が思わず声を上げると、信孝は話し始めた。
「何でも昨夜、邸を出たまま、今朝になっても戻らず、私室へ女房が行ってみたら、父君と私に宛てた置き文が残されていた、というのです」
 内大臣と信孝に宛てて置き文を認めて、それで姿を消したというのなら、これは覚悟の家出だ。事故や犯罪、そういう類ではない。
「その置き文に、何と書いてあったのです?」
「父君宛の文には、こんな事が書いてありました。……『治部卿様の和姫とは、結婚したくありません。でも、この結婚を断っては父上の面目も立たず、御勘気を蒙るのは目に見えているので、不肖の息子は山中に籠り、一年でも二年でも、お怒りの解けるのを待ちます』と」
 それから信孝は、苦々しげに嘆息した。
「それにしても、あんなに友達甲斐のない男だとは思いませんでした。どんな事であれ、家出する程思い詰めていたのなら、何故その前にこの私に、相談してくれなかったのか、情ないですよ」
 あの公晴に、縁談が、ねえ! そう言えば公晴は、桜宮に対して今も片想いをしているのだろうか。そうだとすれば、内大臣の勧めた縁談に気乗りがしないのも尤もだ。と同時に、信孝に相談しなかったのも、信孝には気の毒だが尤もだと思わざるを得ない。成就する見込みの殆どない片想いと意に染まぬ縁談の板挟みになった男が、長い恋の成就を目の前にして喜び勇んでいる男に、何を相談しようという気になれるか。それどころか、お前のような幸せ者に、私の胸の内がわかってたまるか、と敵意も露わに口を閉ざしてしまいそうな気がする。私自身、生涯最初の熱烈な恋愛が、冷酷な運命のために決して成就し得ないものとされた経験があるから、実りなき恋に苦しむ公晴の心が、信孝よりはわかる気がするのだ。
「そうですね。……それで、私に何を?」
 私が同情を見せつつ尋ねると、
「きっと公晴殿は、誰かある姫君に、父君にも秘めた恋をしていたと思うんです。その誰かについて、何か御心当りはございませんか。正良殿は、以前は公晴殿の同僚でもあった方ですから、もしかすると公晴殿が、何かそれとなく洩らしていたかも知れない、と思ったのです」
 心当りは、ある。しかし……これを言ってしまって良いものだろうか。桜宮に、絶望的な片想いをしていた事があったと。
「という事は、何ですか、その姫君の邸に転がり込んだか、でなければ姫君を攫って逐電したか、とでもお思いなのですか」
 私が切り返すと、信孝は口籠った。
「いや、そういう訳では……」
 やはり公晴と桜宮の事は、秘密のままにしておこう、と私は考えた。私が信孝に言ったとして、信孝がそれを軽々しく言いふらすとは思わないが、それでもどこから漏泄しないとも限らない。そうなった場合、口さがない世間の噂となることに、絶望的な片想いに苦しんでいるであろう公晴が耐えられるだろうか。私にはそうは思えない。
「同僚だったと言っても、一年余りも前の事ですからね。近頃は滅多に顔も見ないし、話もしませんので。特に心当りは、ありませんね、残念ながら」
 信孝は肩を落とした。
「そうですか……。わかりました。私はこれから、他の侍従方や、公晴殿と親しかった方のお邸へ、伺ってみます。それから、吉野にも急使を出しました。まさかとは思いますが、吉野の晴姫の許へ駆け込んだかも、という可能性も否定し切れませんから」
「吉野、ですか」
 信孝は立ち上がると一礼した。
「では、失礼します。朝早くから、お騒がせしました」
 その日参内してみると、宮中は公晴家出の噂で持ち切りであった。公晴の父内大臣は、また心労が増したのであろうか欠勤、縁談の相手方の参議治部卿も欠勤。治部卿の息子の左衛門佐は、妹を辱しめられたと大むくれである。当てつけがましいにも程がある、私の義弟になるのがそんなに嫌か、何様の積りだ、と悪しざまに罵っているので、周りの者は何となく近寄らないようにしている様子がある。
 噂はすぐに帝の耳にも達した。参内して幾らも経たぬうちに、私は帝に召された。
「右少弁(公晴は、この二月に右少弁に昇進したが、私や信孝のように名前で呼ばれる程帝の知遇が深くない)が家出したと、噂になっているようだな」
 帝は私を召すなり、幾分感興を害したような声で言った。
「は。実は今朝早く、私の邸に信孝殿が訪ねて来まして、公晴殿が置き文を残して家出した、と知らせてくれたのです。置き文には、縁談が意に染まないというような意味の事が書いてあったらしくて、それで信孝殿は私に、きっと公晴殿はどこかの姫に、父君にも秘めた恋をしていたに違いない、心当りはないか、と尋ねたのです」
「それで正良、何と答えたのだ?」
「残念ながら心当りはない、と答えました」
 すると帝は、ふっと苦笑を浮かべた。私は即座に、その意味を察した。
 二年前公晴が桜宮に、絶望的な片想いをしていた事は、帝も知っている筈だ。ならば私が、その事が世間に広まって噂となり、公晴を押しひしぐ事を懸念して、信孝に黙っていたという事情を理解するであろう、と私は思った。そして事実、帝は事情を察したと私には見えた。帝は呟いた。
「それで良い。無責任な噂は、立てない方が良い」
 やはり帝は、基本的に勘がどうしようもなく鈍いという訳ではない。この程度の事は察せる勘がある。
 私は言った。
「私から一つ、お願いしても宜しいですか」
「何だ」
「公晴殿の振舞が大人気ないとか、弁官としての職務を等閑にして怪しからんとか、そのようにお思いになるとしても至極尤もですが、それがために公晴殿を疎んじるような事はどうかなさらないで下さい。意に染まぬ縁談を迫られて、後先考えずに家出したのは、若気の至りというものです。そんな事で彼に隔てを置きなさるのでは、主上の器量の大きさを疑われます」
 帝は苦笑した。
「そなたは少し気を遣い過ぎだ。そなたに言われずとも、右少弁を疎んずる積りは毛頭ない。若気の至りで家出した公達を疎んずるなど、その方が大人気ない。私はもう、そんな大人気ない事をする齢ではないぞ」
 御前を退出した私の頭には、一つの考えが浮かんできた。こういう騒ぎが起こっている時に、騒ぎと全く無関係な事をやると、普段ならすぐ人に気付かれるような事でも、騒ぎに紛れて気付かれないことがある。
 午後、私は早目に退出すると、三条大納言の邸へ行った。私の顔を見ると、大納言は言った。
「信孝が今朝、真っ先に貴方の邸へ参ったそうだね」
 そんな事どうでもいいだろう? とは言わない。
「ええ、随分早くから来られたもので、何事かと思いましたよ」
 大納言は舌打ちする。
「全くあいつも、世話を焼きすぎるんだ。右少弁が家出したからって、あいつが率先して捜し回る事じゃないのに」
 どうでもいい事ばかり言っている大納言に、私は一歩にじり寄って言った。
「しかし、私達にとっては好都合ではないでしょうか。右少弁が家出した事で、信孝殿が捜索に躍起になり、結婚どころでなくなれば、時間稼ぎができるというものです。二年前、右少弁が辻斬りに遭った時と同じですよ」
 すると大納言は、俄に顔を輝かせた。
「なあるほど、そういう考え方もあったのか。いや、帥宮殿は頭が良い」
 貴方の頭が悪すぎるんだよ、とは口が裂けても言えない。私は小声で言った。
「それに、世間の耳目が右少弁の事件に集まっている間は、多少の事が起こっても、人は気付きません。その間に私達は、私達の目的のために行動するのです」
 大納言は、私の頭脳にすっかり敬服した、という面持ちで頷いている。
「何と言っても、桐壷の後宮での立場を弱くするのが先決です。そこで大納言殿、貴方の方から、源大納言殿に働きかけて頂きたい。『近いうちに我が室町家の佳姫が入内して、皇子がお生まれになる。そうなれば宮中の思惑は一気に室町家に靡いてゆきますぞ。その時の為に、今のうちから、余り東宮に肩入れしない方が御身の為ですよ』という具合に。源大納言殿が東宮大夫を辞任なさるよう仕向ければ、子息の権左中弁も右へならえです。そうなれば桐壷も東宮も、孤立無援ですから」
 すると大納言は何度も深く頷いて言った。
「そうか、東宮大夫から攻めるのか。全然思いつかなかった」
 よくよく頭の回りの悪い男だ。こんな男と組んで、うまくいくのだろうか。愚直というのは、思うままに操る手駒のような人間に求められる資質の一つではあるが、大納言のこれは、愚直、ではない、愚鈍、だ。私は内心やれやれと思いつつも、そんな素振りは全く見せずに言った。
「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ、ですよ」
 それから一息置いて、
「そうそう、佳姫の入内の件、根回しは進んでいますか」
 大納言は、今度は少し胸を張るようにして、
「それは大丈夫。信廉を説得して、父上を説得する時は私に味方すると約束させた。信廉も、倫子の事では大層気に病んでいたから、私の提案に双手を上げて賛成したよ」
「そうですか。それでは一日も早く、御父君を御説得申し上げて下さい」
「わかった」
 私は、含み笑いをしながら大納言に囁いた。
「善は急げ、と申しますからね」
 大納言は私の目を見て、にやりと笑った。
「善、ね」
 それから暫くの間、信孝は大変だったらしい。内大臣家に縁の寺や、各国の荘園に急使を飛ばし、公晴の行方を探ったのだが、杳として手掛りはなし。その間に晴子は帰ってきたが、吉野方面にも公晴の姿はないということで、とても晴子の帰京を喜ぶどころではなかったらしい。暫くの間は毎日参内していたものの、日増しに疲労と憔悴の色を濃くしていくのを見ると、いつ倒れるかと周りの者は心配し通しであった。何事にも真面目で、人一倍責任感も強く、悪く言えば融通の利かない信孝は、蔵人の仕事、左少弁の仕事、右少将の仕事の全てに全力を傾注し、その上本来なら公晴が当たるべき右少弁としての仕事を肩代りし、さらに邸へ帰れば公晴の捜索という、無謀とも見える程の仕事を背負い込んでいる。そう人伝てに聞いた私は、それから毎日信孝を見かける毎に、
「余り無理をしすぎない方が身の為ですよ。公晴殿の家出に、責任を感じているのはわかりますが、無理をしすぎて貴方も倒れたら、元も子もありませんからね」
と忠告してやっているのだが、どこ迄聞き入れただろうか。そう思っているうちに、遂に起こるべき事態が起こってしまった。
 烏丸家縁の寺や荘園、それら全てに、公晴の消息は全くなし、という報がもたらされた。鳥羽の別邸でその報を受けた信孝は、心労の余り寝込んだのだった。その噂は、一気に宮中を席捲した。
 さあこうなると、公晴の家出で信孝と晴子の結婚が延びた、と言ってもいられない。信孝と晴子の結婚を妨害するという事と、これとは別だ。信孝と公晴の、共通の知己の一人として、公晴は失踪、信孝は倒れた、というこの状況を黙って見過ごす訳にはいかない。しかし、だからと言って私が、何ができるであろうか。まさかとは思うが、公晴が桜宮に片想いをしていることを私が黙っていたのが、全くの盲点となっていた、という事はないだろうか。つまり――公晴が桜宮に片想いをしていると、桜宮は知っている。知っているから、前触れもなく家出を決行して自邸なり縁の寺なりに転げ込んできた公晴を、秘かに匿っている、という事は。桜宮が公晴を匿う動機、となると少し弱いのだが……。何しろ桜宮は、こう言っては語弊があるが、公晴などまるっきり相手にしていないのだ。家出を決行して、自邸なり何なりに転げ込んできた公晴の、至情に打たれて匿ってやる、などという事は全くと言っていい程考えられない。しかし、だからと言って、転げ込んできた公晴を塩を撒いて追っ払うほど冷淡でもないのが、桜宮だ。何日も何日もかけて、諄々と諭し、改心させようと努力するだろう。そうだとすれば、公晴の消息が杳として知れないのも頷ける。公晴が桜宮の邸に転がり込んだなどと表沙汰になれば、公晴が意に染まぬ縁談を嫌って出奔したことは周知の事実なのだから、必ず、公晴は桜宮に恋していると噂される。そうなったら公晴は、身の程知らずと嘲弄されるか、そうでなくとも好奇心の的になり、まあ、あの性格からして世間に顔向けできなくなってしまうだろう。だからこそ私も、公晴の片想いが漏れ広がる事を恐れて、信孝に言わなかったのだ。桜宮も、思いは同じだろう。自分に身分不相応な恋をした、七つも年下の若者が、世間の噂の種になって押しひしがれるのを良しとするような、そんな女性ではない。
 その日私は、桜宮を訪ねた。桜宮邸へは、帝に随って来ることはたまにあるが、一人で来たのは一昨年の夏、私がまだ五位の侍従だった時分に、帝を諌めてくれるよう頼みに来た時以来だ。
「お一人でお越しとは、珍しいですわね、帥宮様」
 私は礼儀正しく一礼してから、膝を進めた。
「今日、私一人でこちらへ参ったのは、訳があります」
「あら」
 桜宮は、明らかに興味を示した。
「何ですの、また主上をお諌め申してほしいと仰言るのですか」
 私は手を振った。
「いや、そうではございません。折り入ってお伺い致したい事がございます」
 桜宮は、周りの女房達に目配せした。周りの女房達は、衣擦れの音をさせて退っていく。
「何ですの、私に伺いたい事とは」
 桜宮は、簾の近くへにじり出てきた。桜宮に、単刀直入に「公晴を匿っていないか」と問い質すのは、さすがに気が引けて、事実をまず述べる事にした。
「宮中では専らの噂となっておりますが、右少弁殿が家出したのです。御存知でしたか」
 桜宮は、驚きと訝りが混ざったような声で、
「右少弁と申しますと」
「烏丸内大臣の子息、晴姫の弟君公晴殿です」
 不意に桜宮は、可笑しそうな声を上げた。
「ああ、思い出しました。公晴殿ですね」
 桜宮は尚も、思い出し笑いをしている。これは何かあるに違いない。私は顔を引き締め、更に膝を進めて尋ねた。
「何か、可笑しな事でもございましたか」
 桜宮は口元を覆って、くぐもった声で、
「ええ、実は春先から、毎晩のように邸の周りを回っている車がありましたの。女房達の間で、結構噂になっておりましたのよ。私は特に気に留めてもおりませんでしたけれど、今、貴方が仰言ったので、ふと思い当たったのですよ。一昨年でしたかしらね、公晴殿が邸の周りを回っていて、貴方と、もめ事を起こしたのは」
 そうか。やはり思った通りだ。
「多分その車に、公晴殿が乗っていたのでしょう」
 桜宮は頷いた。
「ええ、私もそう思いましたわ、たった今」
「それで、その車は、最近はどうですか。信孝殿によると、公晴殿は三月十二日の夜、邸を出たまま、姿をくらましたのだそうですが」
 私が尋ねると、桜宮は、
「十二日? ……詳しい日付はわかりませんが、半月余り前から、ぱったり見かけなくなった、と女房や門番は噂しておりますわ」
 半月余り前と言えば、今日は四月一日だ、時期的にぴったり符合する。ここが核心だ。私は慎重に言葉を選んだ。
「すると、公晴殿の車が見えなくなったのと、公晴殿が家出したのと、丁度同じ頃ですね」
「そうですわね」
 私は居ずまいを正した。
「信孝殿によると、烏丸殿縁の寺や各国の荘園、それらのどこにも、公晴殿の消息は全くないそうです。さりとて私が思うに、公晴殿のような貴族の御曹子は、庶民の間に身を隠すのは無理です。こう申しては何ですが、生活能力が皆無ですから」
「……何を仰言りたいんですの?」
 桜宮の声が、低くなった。
「これは私の、独断に基づいた憶測です。もしお気に障る事がございましたら、御容赦下さい」
 私は前置きしてから、思い切って言った。
「桜宮様、もしやとは思いますが、公晴殿は桜宮様のお邸か、縁の寺か、荘園か、そのような所に、転がり込んで来たのではございませんか」
 言いながら、簾の向こうにいる桜宮の様子を、私は鋭く観察していた。
「そのような事は、ございません」
 桜宮は、きっぱりと言い切った。口調にも態度にも、動揺した様子も、気色ばんだ様子も、片鱗すら見られない。動揺も見せず、気色ばみもせず、故意に空とぼけた様子も見せず、このようにはっきりと嘘を言い切れる人間というのは、殆どいないと言っていい。
「本当ですか」
 今一度念を押してみると、桜宮は、
「本当です。私の邸や寺や荘園に、転がり込んできたなどという事は、決してございません」
 全く気色ばんだ様子も見せず、落ち着いて答えた。これ程迄に落ち着いて、嘘を言える人間は、まずいないと言っていいだろう。どうやら私の憶測は、外れだったようだ。
「そうですか。私の見込み違いだったようですね。
 私は、こう考えたのです。烏丸殿縁の寺や各国の荘園、そのどこにも公晴殿の消息が全くない。同僚や友人の邸に転がり込んだり、縁の寺や荘園に行った形跡もない。もしそうなら、信孝殿が過労の余り倒れる程心を傷めているのに、自分の所に公晴殿がいると知りながら黙っているとは思えません、余程の事情がない限り」
「余程の事情……?」
 桜宮が呟くのに、私は続けた。
「もし桜宮様のお邸や縁の寺や、或いは荘園に、公晴殿が転がり込んできたとします。その時、桜宮様なら、信孝殿に公晴殿の事を黙っておいでになるに違いない、と私は考えました」
「どういう事ですの?」
 桜宮の声が、俄に険しくなった。私は些かも臆せず続けた。
「もし公晴殿が、桜宮様の御許に身を寄せていると世間に知られれば、世間は必ず、桜宮様と公晴殿の仲を疑うでしょう。何故なら、公晴殿が家出したのは、治部卿殿の姫君との縁談が、意に染まなかったからだと、宮中では周知の事実になっているからです。桜宮様は御存知かどうか、存じませんが」
「そうでしたの」
 案外桜宮は、世間の情勢に疎いようだ。桜宮の追及が緩んだのを幸い、私は言葉を継いだ。
「それで、桜宮様と公晴殿の仲を疑った世間は、きっと公晴殿を、身の程知らずと嘲笑すると思います。そんな風に嘲笑される事に、公晴殿は耐えられるでしょうか。今度こそ本当に、奥山にでも姿を消すしかなくなるでしょう。桜宮様は、そんな具合に公晴殿を追いつめる事はなさらないと、私は思ったのです。決して桜宮様が、信孝殿に含む所がお有りになるとか、公晴殿との仲を疑われるのを迷惑がって自己保身を図られたとか、或いは公晴殿と、その、両想いの仲になられたとか、そう思った訳ではございません」
「まあ、私が公晴殿と?」
 桜宮は、声をあげて笑った。この様子なら、桜宮の不興も解けただろう。私は咳払いした。
「それでは結局、公晴殿が家出して、今日まで杳として消息が掴めないのは、桜宮様とは全く無関係だったと、そういう事ですね。どうも私は、深読みし過ぎる癖があるようで。どうも、お騒がせしました。ではこれで、失礼致します」
 そう言い終わって、立ち上がろうとした時、女房の声がした。
「桜宮様、宜しゅうございますか」
 私は立ち上がりかけた腰を落とした。桜宮は、私にはさして気を止めずに、
「何です」
 女房の声がする。
「宰相中将様が、お見えになりました」
 桜宮は、ほんの一刹那思案していた様子だったが、すぐに、
「こちらへ、お通ししなさい」
 宰相中将と言えば、参議右中将源満、信孝の長姉の夫ではないか。何故その男が、ここに来るのだろう。だが、そこまで詮索する程悪趣味ではない。
「来客のようですね。私は失礼致します」
 私が立ち上がろうとすると、不意に桜宮は声を上げた。
「待って」
 私は驚いて坐り直した。桜宮は口走った。
「宰相中将様は、きっと何か、公晴殿の事を御存知だと思います。丁度いい折です、お会いなさっては」
 私はいよいよ驚いて、居ずまいを正した。
「宰相中将殿が?」
 私が思わず聞き返したその時、
「おや、先客がおいででしたか」
 中将の声がした。振り返ると、中将が簾をくぐって部屋へ入ってくる。
「これはこれは、帥宮殿ではございませんか」
 中将は、陽気に笑いかけてくる。私も愛想笑いしながら、会釈した。
「これは宰相中将殿」
 中将は、私と桜宮を見ながら、好奇心を覗かせたような声で言った。
「桜宮様は、帥宮殿にも何か、御指南願っておられるのですか」
 何の話だ。私が答えるより先に、桜宮の声がした。
「いいえ、帥宮様は、右少弁殿の事で、私にお尋ねに来られたのですのよ」
「ほう? 右少弁殿の」
 中将が腰を下ろしながら、興味深そうに声を上げた。
「右少弁殿が家出して、半月余りになりますが、全く消息が掴めないらしいのです。それで弁少将殿が、心労の余り寝込まれたと聞いて、二人の共通の友人として見過ごせなくなって、桜宮様にお伺いに参ったのです」
 私が説明すると、中将は頷きながら、
「義弟は本当に、責任感の塊ですからね。何も体を壊す程、責任を背負い込まなくてもいいものを」
 私は中将に向き直った。
「時に宰相中将殿、右少弁殿の事で、何か御存知ではありませんか」
 中将は首を傾げる。
「はて、右少弁殿の事とは? 私は彼の、顔も知りませんよ」
 これでは何の役にも立たん。すると簾の中から桜宮の声、
「中将様、あの事を、お話しなさっては」
「あの事を、ですか?」
 桜宮と中将は、私の知らぬ何かある出来事を知っているのだ。私は意気込んだ。
「あの事、とは何です。何か、右少弁殿に関する事なのですか」
 中将は、妙な照れ笑いを見せた。
「いやぁ、帥宮殿のような真面目な御方に、こういう話をして宜しいものかどうか……。桜宮様が仰言るのなら、申しましょうか。随分変な話なんで、それにちょっと不体裁な事もあるものですから、帥宮殿、私の申す事を、軽々しく口外なさらないで下さい」
 妙に勿体ぶって、どういう話なのだ。ともあれ、聞き出しておいて損はない。
「承知しました。私は、口は固いですよ」
 私が応ずると、中将は話し始めた。
「ええ……私は、この一月から、桜宮様に笛を御指南申し上げる事になりまして、頻々こちらへ参っております。今日参ったのも、実はその為なので」
 言われてみれば中将は、笛が入っていると覚しい錦の細長い袋を携えている。
「その頃から、お邸の近くの道によく、網代車が停まっているのに気が付いていました。それがいつも、同じ車なのですね。(公晴だな、と私は直感した。)ある時、こちらのお邸を辞し申してから、右京の方の賎の家へ、女と逢引に行ったのです」
 そう言えば中将は、かなりの浮気者で、結構あちこちに通い所があるらしい。そういう事だから、「真面目な」私に話すのをためらったのか。
「女の許を出たら、まあ、すぐ近くにその車がいたんですよ。どうやらその車の主は、私を桜宮様の恋人と勘違いして、身元を突き止めようとしたらしいですね」
 公晴のやりそうな事だ。私も二年前、桜宮の恋人と誤解され、太刀を向けられた事がある。今回は、いきなり太刀を抜いたりせず、まず尾行して身元を掴もうとした点、公晴も成長した、と見るべきか。
「半月程前でしたかね。このお邸の近く迄来た時、不意に牛車が近寄ってくる音がしたので、何だろうと思っていますと、寄ってきたのはその例の車で、物見窓を開けて、妙に子供っぽい声で、早口に何やら妙な事を言いかけて、私が何も言わぬうちに、さっさと走り去って行ったのですよ。何とも訳がわからなくて。こちらのお邸に参って、桜宮様とお会いした折、四方山話のように、その事を話したのです。『そこの御門前で、女の事で嫌味を言われましたよ』などと。女房達にも余興で話したら、面白がっていましたよ」
 公晴が中将に、何を言ったのか。
「何と言われたのです、その車の主に」
 私が突っ込むと、中将は顎に手を当て、
「何だったかな……『僕は当分、――どこだかに行くからね。その間に、ちゃんと別れ話を済ませてよね。何姫――何と言ったか――を悲しませないでよね』とか、何かそのような事を、薮から棒に言われたのですよ。身に覚えが――ないと言えないのが辛いですな(と言って中将は笑った)、そんな事をいきなり、早口で言われたもので、呆気に取られて聞き返せませんでしたよ」
 私は、笑うどころではない。公晴が、どこに行くと言ったのか、それを聞き出せば、公晴を捜す目途が立つ。私は勢い込んだ。
「その男、どこに行く、と言ったのです!?」
 思わず声が上ずった。中将は意外そうに、
「おや、どうなさいました?」
 まだ察しがつかないのか、この男は? 私はじれったくなって、声を上げた。
「その男が、弁少将殿が寝込む程心配して行方を追っている、右少弁殿なんですよ、その男が、どこへ行くと言ったかがわかれば、右少弁殿を捜す目途が立つんですよ!」
 私にはっきり言われて、中将もさすがに事態を悟ったらしく、顔をさっと強張らせた。中将は額に手を当て、目を閉じて、思い出そうと必死になっている。途切れ途切れに、
「……うーん……何と言ったかな……イ……そう、イ何とか、と言ったような気が……」
 私は、がっくりした。多分、国の名を言ったのであろうが、イで始まる名前の国は、東は伊豆から西は壱岐まで、九ヶ国もあるのだ。
(註 伊豆、伊勢、伊賀、和泉、因幡、出雲、石見、伊予、壱岐の九ヶ国)
「桜宮様は、御存知ではありませんか」
 困惑して桜宮の方を見ると、桜宮は首を振った。やがて、
「……駄目だ。どうしても思い出せない」
 中将は、苦しそうに呟いた。
「そうですか。でも、それだけでもわかれば、右少弁殿を捜す目途が、少しは立ちますよ。どうも、有難うございました」
 私は中将に礼を述べて、席を立った。
 桜宮邸を辞去して帰る道すがら、私は中将の話を反芻していた。公晴の行方は、九ヶ国のうちどこかだが、壱岐という事はないだろう。伊予も、海を渡るとなると行きにくいのではないか。陸続きの七ヶ国の中では、和泉、伊賀、伊勢といったところが近い。伊豆は遠すぎる。六十六ヶ国のうち、七ヶ国まで絞れただけでも、大収穫ではあった。次はこれを、信孝に知らせることだ。信孝は、桜宮と公晴の関係を恐らく知るまい。だから信孝にとって、桜宮と中将、それに公晴の絡んだこの話は、全く盲点に隠れていたに違いない。
 だが、困った事に信孝は、鳥羽の別荘で臥せっている。容態がどの程度なのか、それもわからずに押しかけて、下手に信孝を煽らない方が良いかも知れない。もう少し待って、信孝の回復具合を見てから、知らせてやる事にしようか。
 四日後、私は鳥羽にある左大臣家の別荘へ赴いた。信孝はもう大分疲れが取れた様子で、床を払っていた。
 公晴の行方について、イで始まる国に行っているらしいと、中将の話のうち、中将にとって不体裁な部分を除いて、うまく取り繕って述べた。しかし信孝は、私の言う事に興味を示す様子も見せず、むしろ、そんな話は既に聞いた、とでも言い出しそうな顔をしている。私が話し終わると、信孝は少しためらってから、意外な事を口にした。
「折角こちらまでおいで下さった御好意を、無にするのは気が引けますが……公晴殿の行方は、既に見当がついているのです」
「えぇ!? どこです、それは」
 私が思わず、頓狂な声を上げると、信孝は私を抑えるような声で言った。
「イで始まる国、伊予ですよ」
 伊予と言えば、海を渡らなければならないという理由で、壱岐の次に私が除外した国ではないか。私はすっかり鼻白んで、肩をすくめた。
「部外者が余計な事、言わなくても良かったようですね」
 嘆息交じりに、半ば自嘲気味に呟くと、信孝は言った。
「いえいえ、決してそんな事はありませんよ。公晴殿の行方の見当がついたのは、正良殿が中将殿から伺って来られた話とは、全然別の線からなのです。もしその件がなかったら、六十六ヶ国どこへ行ったか全く見当もつかず、途方に暮れていた筈ですから。九ヶ国に絞り込んで下さったのは、大変有難いですよ」
 別の線、という言葉に私は興味をそそられた。
「別の線?」
 ――そうか、見当はついた。桜宮に言ったように、貴族なんていう人種は、一人で邸の外へ放り出されては一日たりとも生きてゆけない程、生活能力がない。だから京を離れてどこか他の国へ行ったとすれば、自家或いは親しい他家の荘園、名のある寺社、もし縁故の者が国司をしていればその者の邸や国衙、こういった所に寄寓しなければならない。それで捜す方も、荘園や国衙に寄寓していないか、と使いを出して尋ねる訳だ。そこでだ、もし伊予の荘園の預所か、或いは伊予の国司と公晴が、何か特別な関係にあって、公晴がその者に、京から何を言ってきても絶対にシラを切り続けてくれ、と頼んだとすればどうだ。そして信孝は、伊予にいる誰かと公晴の、その特別な関係に気付いたのだとしたら。
「別の線と言うのは、何ですか、伊予の国司の誰か、或いは伊予にある内大臣家の荘園の預所の誰かと、公晴が、何か特別な関係にあるらしいと、そういう事ですか」
 私は尋ねながら、信孝の表情を注意深く観察した。信孝の頬に、僅かな赤味が差した。どうやら、この線らしい。
「それは……他の家の事ですから、私の口からは何とも申せませんが」
 信孝は曖昧にごまかした。これ以上の詮索は、他家の内々の事に関わるから、無理にする事ではない。それに、信孝が公晴の行方を掴んだからには、遠からず公晴は帰ってくるだろう。となれば、これはもう済んだ事なのだ。
「まあともかく、行方の見当がついた以上は、すぐに帰って来るよう使いを出すだけですね」
 私がさばさばした口調で言うと、
「使いは、もう出してあります。あと十五日もすれば、帰って来るでしょう。無事を祈るだけですよ」
 信孝は朗らかに言った。
 公晴が無事帰って来たのは、それから十五日ばかり後の事だった。帰って来るなり、内大臣に言われぬ先に治部卿の邸に赴き、縁談を辞退する事、家出して治部卿の面目を潰した事を、丁重に詫びたと伝え聞いた。公晴も、一世一代の大冒険で少しは大人になったか、と思わせる話であった。
 四月晦日、帰邸した私の許に、烏丸殿からの使者と名乗る者が来た。差し出す文を受け取って、開いてみると、
〈本日夜、室町左大臣殿令息蔵人左少弁右近衛少将信孝殿と晴子の露顕の儀(結婚三日目の夜に行う披露宴)執り行い候儀に付、貴殿にも御来臨賜り度く候……〉
 内大臣直筆の招待状であった。信孝の親友ということで、招待されたのだろう。内心の思惑からすれば、招待されてのこのこ出かける気には到底ならないのだが、ここはそれ、韜晦術である。信孝とごく親しい仲だと皆に思われている私が、信孝の露顕の儀に出席しなかったら、必ず不審に思われる。それだけは避けたいのだ。
 夜になると私は、車に乗って烏丸殿へ行った。私の他にも権中将や左兵衛佐、左馬頭、式部少輔等々、信孝の同僚や友人、上役が大勢招待されていた。
 やがて登場した信孝の、傍目にも晴れがましそうな様子。晴子との、二年越しの長い春にようやく終止符を打ったという、嬉しさと安堵感が溢れ返っている。迎える側の内大臣と公晴も、嬉しさで一杯という顔をしている。そんな様子を眺めながら、私の心は次第に鬱屈してきた。
 ああ、幸せな信孝。幼馴染の晴子と、遂に結婚に迄漕ぎつける事ができた。それに引き換え、この私はどうだ。一世一代の初恋は、天神地祇の掟の前に、無惨に潰え去った。あれ以来、誰にも恋した事はない。それどころか、初恋の人は私の前から奪い去られ、儚くも世を去った。今では澄子は――その名を思い出す度に、胸が切なく締めつけられる――私の胸の内に、永遠に戻らぬ俤として留まっているだけだ。未だに癒やされぬ深い傷を抱えた心には、親友の幸せも、それを素直に祝福することはできない。否、私は信孝の幸せを、この手で破壊しなければならない。私の永遠の恋人を、私から奪い、私の生きる現世から去らしめた男に、私は生涯を賭けた復讐を誓った。その復讐のために、私はその男の妻、桐壷を盗んだ。その結果は、不義の子の誕生であった。不義の子が東宮に立ち、帝位に即くことに恐れ戦く桐壷のために、私は東宮を孤立無援にしなければならない。その妨げとなるに違いない事態、それは何か。――信孝と晴子が結婚して、女子を産むことなのだ。ゆえに私は、信孝と晴子の仲を、裂かなければならない。こんな事を、自ら進んでしなければならない私の胸の内を、誰も知るまい、知られてはならぬ。
 翌日参内した私は、清涼殿へ向かう途中で権少将とばったり会った。権少将は、私を待ち構えていたような様子で、柱の陰に私を引っ張り込むと、険悪な顔で言った。
「帥宮殿、昨夜、烏丸殿へお越しになりましたね」
 権少将自身は来ていなかったのに、情報網というのは大したものだ。私は平然と答えた。
「参りました」
 権少将は一層顔を顰めた。
「よくまあ、ぬけぬけと……。私達との約束を、すっかりお忘れとしか思えませんな」
 信孝と晴子の仲を裂く、と約束した事を言っているのだ。
「忘れてはいませんよ」
「なら何故!?」
 いきり立つ権少将に、私は静かに言った。
「敵を欺くにはまず味方から、ですよ。私と弁少将の今迄の関係から言ったら、露顕の儀に参らない方が、逆に疑われますよ」
 権少将は尚も納得しない様子で、不快そうに呟いた。
「この前の東宮儲立の件といい、どうも帥宮殿は、御信頼できませんな」
 それから、やにわに顔を歪め、
「貴方を失脚させられる鍵を、私が握っている事、忘れてはなりませんよ」
と捨て台詞を残して立ち去っていった。
 全く、いまいましい奴だ。あの男を何とか、黙らせる方法はないか。……非常にまずい事に、例の誓約書に権少将は署名していないのだ。この前取り出してみて、気が付いて愕然とした。あれをもし天下にバラしても、権少将を失脚させられないのだ。どうやって、あの男を黙らせるか。余り手荒な事は、したくないのだが。
(2000.11.25)

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