岩倉宮物語

第五章
 それから数日間の帝の動きは、私も驚く程素早かった。桐壷が男子を出産して僅か十日目に、その男子は東宮に儲立され、同時に東宮坊の人事が発表された。東宮大夫は誰もが納得するであろう、桐壷の後見についている大納言源雅賢であった。亮はその長男、権左中弁晴賢が任ぜられた。そして桐壷は、女御に陞った。
 この人事を喜ばないのは、他でもない土御門派である。東宮坊人事発表の翌日、宮中で私に出会った権少将は、私を手荒に物陰へ引っ張り込むと、小声で、しかし厳しい口調で言った。
「どういう事なんです、帥宮殿! 私達との約束、お忘れではないでしょうな?」
 私は、弁解がましくならないように気を付けつつ嘯いた。
「こんなに早く、東宮が儲立されるとは思わなかったのです。先例を幾ら探しても、十日というのはありませんから」
 権少将は不快そうな声で、
「弁解をお聞きしたいのではありませんよ」
 私は努めて平然と言った。
「急いては事をし損ずる、と言うでしょう、余り性急になさらずに。じっくりとやってみせます。今誰が東宮に立たれようとも、最終的に帝が一の宮に御譲位遊ばされれば、それで良いのですから」
 権少将は去り際に、一言捨て台詞を残して行った。
「貴方の命運を左右する鍵を、私が握っている事、お忘れなく」
 権少将の後ろ姿に向かって私は、思い切り舌を出したくなるのを抑えた。私が弱味を握られて、恐れ入って唯々諾々と従う人間に見えるか。私を甘く見ると身を滅ぼすぞ。……という事は、もし私が誰かを手先に使おうと思ったとして、その人物の弱味を握って脅すという方法は、余り上策ではないという事だな。弱味を握られた人間というのは、弱味を握っている人間に対して、強い憎悪の念を抱き、面従腹背の態度を取る、今の私がそうだ。私が手先として使おうとする人間が、私に対してそういう態度を取るというのは、作戦の遂行上大いに問題だ。これは十分、心しておかなければならない。
 さて、土御門派というのは宮中では反主流派だ。今上の世になってからはすっかり頽勢で、発言権も強くない。そんな斜陽派閥と組むというのは、余り上手なやり方とは言えないだろう。土御門派は土御門派として、もっと有力な近衛派と組む、というのも考えた方がよい。但し、どちらの派にも、私が二股をかけている事は気付かれてはならない。二股をかけるような男だと知られたら、一挙に両派の信頼を失って、孤立無援となりかねない。それどころか、例えば近衛派の誰かが私と組んで現東宮を降ろそうと企てているのに土御門派が気付いたら、土御門派は、私とその誰かの陰謀を暴露する事によって近衛派に痛撃を与え、土御門派が巻き返す千載一遇の好機として利用しようとするかも知れない。逆に近衛派が、私と土御門派の陰謀に気付いたら、これを暴露する事によって一気に土御門派の息の根を止めようとするだろう。どちらに転んでも、私は捨て駒だ。もっとも私だって、黙って捨て駒にはならない。近衛派と組んだのに土御門派が気付いたら、暴露するならしてみろ、あの書状を帝に突きつけて、右大臣以下揃って道連れだ、と開き直る手がある。約束の書状というものは、こんな武器にもなるのだ。
 二月の十七日に、臨時の除目が発表された。例によって近衛派の昇進が多く、左大臣の長男、三条中納言信道は大納言に、次男春日参議右大弁信廉は中納言に昇進し、蔵人少将信孝は昇進はなかったものの左少弁を兼帯した。二十日の夕方、私は室町殿へ行ったついでに、そのすぐ近く、三条北壬生東にある信道の邸へ行った。ここへ来るのは、帥宮に任ぜられて挨拶回りに来てから、一年振りである。
 私が、大納言昇進を祝う通り一遍の決まり文句を述べると、大納言は余り嬉しそうでもない様子で、
「貴方がここへ来られるとは、どうした風の吹き回しですかな」
 私はぐっと憤りを抑えて答えた。
「弁少将殿とは親しくさせて頂いていますから、その兄君であられる大納言殿にも……」
 言い終わらないうちに大納言は、やにわに不快そうな顔をすると、
「ああっ、信孝、あいつの事は言うな、言わないでくれ」
 私は首を傾げた。好奇心に満ちた声で、
「弁少将殿の事で、何かお気に障る事でも?」
 大納言は不機嫌そのものの顔で、ぶつぶつと呟き始めた。
「どこの誰も、皆揃ってあいつを褒める。室町家の長子であるこの私を差し措いて、十三も歳下の弟ばかりがもてはやされる。あいつはほんの餓鬼の頃から、今上の御心に留まっていた、いつかは私は、きっとあいつに官位を越される、室町家の長子で、十三も年上の私が、だ」
 何でお祝言上に来て、愚痴を聞かされなきゃならんのだ。私が黙って聞いているうちに、大納言はいよいよ顔を歪めた。
「それでも今迄は、まだ良かった。倫子が皇子さえお産み下されば、その後見は長兄の私が致す事になる、必ず東宮位にお据え申し、東宮大夫となって傳き申す、そうなれば私は、末は摂関だ、そう思えば希望もあった、そして事実、倫子は懐妊した。ところがどうだ、倫子は流産したばかりか、二度と御子は産めないとまで言われてしまった。私がどれ程がっかりしたか、帥宮殿、貴方ならおわかりだろう、梅壷の従弟だった貴方なら」
 私の胸の奥から、ぐっとこみ上げてくるものがあった。澄子は、帝の子を身籠って、そのために死んだのだ。ああ、澄子……!
「これでもう、私が後見申し上げられる皇子の望みは断たれたのだ。桐壷腹の皇子に、妃として差し上げるべき娘も、私には一人もいない、息子が何人いたところで、帝の外戚にはなれないのだ。それは信廉も同じだ、何故か私達兄弟には、息子ばかりで娘は一人も生まれていないのだ」
 大納言の子供達と言えば、今年九歳になる長男が、童殿上していた筈である。
「うう、それなのに信孝は……。あいつは実に計算高い奴だ、烏丸殿と手を組むために、あの悪名高い晴姫との結婚を決して諦めていない。もし信孝と晴姫の間に、姫が生まれたらどうなる。その姫には、父上と烏丸殿が後見につく。しかも信孝は、帝の御信任の厚さでは当代一だ。間違いなくその姫は、桐壷腹の皇子に妃として差し出され、その後押しによって桐壷腹の皇子は、東宮の地位を不動にする。そうなれば信孝は新東宮の岳父だ、十年後二十年後には、摂関の座はあいつの物だ、私はあいつの長兄でありながら、それを指を咥えて見ていなければならんのか。父上や祖父上はいい、私達兄弟の誰が、娘を東宮妃に差し上げようが、新東宮の岳祖父、岳曾祖父だ、その地位は安泰だ。しかし、私はどうなるのだ、私の出る幕は、どこにもないではないか……」
 大納言の口調は、口惜しさで一杯である。
「私は、どうしたら良いのだ……」
 そこで私は、ついと進み出て言った。
「大納言殿の妹君は、確か御三方でしたね」
「えっ?」
 驚いて目を見開いた大納言に、私は尚も進み出て小声で言った。
「一番下の妹君、佳姫は確か、今年十六歳の筈、入内には丁度良いお年頃ではありませんか」
 大納言は、突然顔を輝かせた。
「そうか、佳子がいたんだ! どうして今迄、思いつかなかったろう!? いや、帥宮殿、よくぞ仰言ってくれた、感謝致しますぞ」
 これくらいの事は、私でなくとも考えつくと思うのだが。私としては、桐壷の産んだ男子が東宮に儲立されないように、されてもすぐ降りられるように、と考えて、到達した結論がここなのだった。健康で入内するに相応しい年頃の姫君の、父か兄で、しかも家柄として、皇子が生まれれば先に生まれていた皇子を差し措いて東宮に儲立しうるに十分な権門である人物、となると、都広しと言えどもそうそういるものではない。そのような男を見つけて、その姫を入内させるよう唆す、というのが私の考えなのだった。
「帝と私は、帝と弁少将よりもっと親しい仲です。佳姫が入内なさって、皇子がお生まれになったら、もしその時桐壷腹や他の女御腹の皇子が東宮に立たれていたとしても、必ず東宮位を降ろさせ、貴方の甥の皇子を新東宮に立てて下さるよう、私から帝に働きかけ申し上げます。遠からず貴方は、新帝の伯父として、摂関の地位に就けるでしょう」
 私の甘い囁きに、大納言は天にも舞い上がらんばかりの嬉しがりようだ。顔が緩み、口元から涎さえ垂れている。その様子を見ていると、不意に嫌悪感がこみ上げてきた。
 こんな男と手を組んで、大丈夫なんだろうか。幾ら桐壷を安心させるためとは言え、こんな男と。まあいい、目的のためには手段は選ばず、だ。もし見込みがなくなったら、この男を見捨てて、右大臣と組めばいい。右大臣の方は、向こうから組んで来たのだから、私の方が立場は強い。あの権少将さえ、うまく口を塞いでしまえばいいのだ。
 甘い夢に浸り切っていたような大納言は、ふと目を見開いた。首を少し傾げて私の顔を覗き込むようにして、
「帥宮殿、何故貴方が、そんな事を私に持ちかけるのです」
 成程ね。自分と特に親しくしている訳でもない人物から、いきなりこんなに美味しい話を持ちかけられたら、有難く頂戴する前にまず、下心の有無を疑ってかかるのが、特にこう政治絡みの話では自然というものだろう。ここで、本音の全てを言ってしまう訳にはいかない。そんな事をしたら身の破滅だ。私はふっと皮肉な微笑を浮かべて言った。
「宮廷に生きる貴族というものは、誰でも多かれ少なかれ、野心というか権勢欲を持っているでしょう。現に大納言殿、貴方など野心の塊りと、私には見えますね」
 大納言は、にやりと苦笑した。
「言って下さいますね」
 私は低く笑いながら、言葉を選んだ。
「大納言殿のように、お生まれになった時から既に、将来の権勢が約束されている御方ですら、そうでしょう。まして私は尚更ですよ。父を知らず、母は亡く、都の片隅でひっそりと、庶民と同じような貧しい、侘しい暮らしをしていたのです。伯母を頼って出てきて、私の祖父が故岩倉宮、私自身が宮家の血を引く人間だと知ったのが十八の時でした。宮家の血を引く人間であるというだけで、無官無位の私に、それ迄想像もできなかったような裕福な暮らしが与えられたのです。翌る年には、御祖父君の御力添えで、従五位下侍従の官位を頂いて、貴族社会に足を踏み入れました。そこは、播磨守の邸よりももっと華やかな、光溢れる世界でした。十八の歳まで京の片隅で、名もない庶民そのものの暮らしをしていた私には、分に過ぎるほどの。それでも二年程は、私は王族とは言え従五位の侍従、大納言殿を初め公卿の方々には、相手にもされないような取るに足らぬ存在でした。ところが一年余り前、私自身思ってもみなかった事から、今上の御鴻恩を被り、帥宮と呼ばれる身になりました。私自身、どこも変わってはいないのに、今上の御鴻恩を被っているというだけで、それ迄私には目もくれなかったような公卿の方々までもが、私を褒めそやし、もてはやしてくれます。もし私が従五位の侍従のままだったら、きっと大納言殿は今日、私にお会い下さろうとはなさらなかったでしょう」
 私には目もくれなかったような公卿、というのは三条大納言も含まれる。大納言は極まり悪そうな顔をした。
「私は、私の身には余る程の物、官位、権勢、栄華、名誉を頂きました。十八の歳まで、それらの百分の一、千分の一をも手にするとは思ってもおりませんでしたものを。それらは全て、今上の御鴻恩の賜物です。それ程の物を手にして、二度と手放したくないと思うのは、貴族社会に生きる人なら当然の事だと思いませんか」
「うん、うん」
 大納言は頷く。
「私がそれ程の物を手にしていられるのは、今上の御鴻恩あればこそ、です。父は知らず、母は亡く、伯父は受領風情、そんな私が、もし今上の御恩情を失ったら、また日蔭者に逆戻りです。今上の御恩情は、所詮人の心です。人の心は移ろい易いもの、いつ何時、どんな事があって、私から離れて行かないとも限りません。私と今上を繋ぐ絆であった梅壷更衣は、入内から半年も経たずに、はかなく身罷りました。もし今上の御鴻恩が、私が梅壷更衣の従弟であるという一点だけによるものならば、既に絆は途絶えているのです、いつ日蔭者に逆戻りするか、誰にもわかりません。そうなる前に、もっと確かな、目に見える物、それが欲しくなったのです」
 ここまで言ってしまって、大納言が私をどんな風に見るか、少々気懸りにはなった。しかし大納言は、ふっと苦笑して言った。
「やはり貴方も、私達と同じ貴族ですね。以前貴方が、今上を諌言なさった時は、そんなに殿上を削られたいのか、とも思いましたが、やはり貴方も、権勢は手放したくないのですね」
 この私を、お前等なんかと一緒にするなーっ! と喚きたくなるところをぐっと抑えて、にこやかに私は言った。
「わかって下さいましたか」
 大納言はまた、甘い空想に耽り始めたようだ。うっとりとした顔で、目を半分閉じている。
「……佳子が入内……そうすれば私は、摂関の座に就ける、か……。何て素晴らしい事なんだろう!」
 私は囁いた。
「その暁には、私を、お忘れなく」
 大納言は上機嫌で口走った。
「勿論、忘れはしませんよ、お約束します、二品、いや、一品に、そう、准三宮にも」
 私は、ほんの少し意地悪く喰い下がった。
「口約束だけでは、どうも」
 上機嫌になっている大納言は、少しも意に介する風もなく、
「わかりました。書面にしましょう」
 私は内心ほくそ笑んだ。書状にしてしまえば、もし万一失敗した場合、三条大納言を道連れにできる。
 大納言は筆を取り、書状を認めた。
「この通り、お受け取り下さい」
 私は書状を受け取って読んだ。
〈いずれ佳子がお産み申し上げる皇子が新東宮にお立ちになった暁には、我が室町一門の威勢を以て、帥宮殿を御後見申し上げることを、ここに約束する。一品の親王にお上げ申し上げて、准三宮を賜らせ申し上げ、新東宮の御養育をお任せ申し上げる。いずれは、上皇待遇の院号を以て、その御誠意にお報いする所存である。
信道〉
 大納言は私に、署名しろとも何とも言わない。同文の書状を二部作って、双方署名して交換するという用心深さは、大納言にはないようだ。
「確かに、お約束しました」
 私は書状を畳んだ。これを握ってしまえば、こちらの物だ。土御門派と組んでいる事に三条大納言が気付いて、暴露すると脅してきたら、これを暴露して大納言を道連れにしてやる、と言って黙らせてやればいい。
 夜更けまで私は、大納言邸に逗留していた。酒が入ると大納言はいよいよ上機嫌になり、眠たそうな子供達を席に引き出して来たり、上手でもない琵琶を弾いたりする。そんな大納言を、私がどんなに醒めた目で見ているか、彼自身は恐らく気付いていまい。
 夜も更けたところで、私は退出した。酔い覚ましに外の風に当たろうと、物見窓を開けていると、車は丁度姉小路北西洞院西の、権中将為信の邸の前に差しかかった。ふと好奇心を覚えて、物見窓から邸の門を見ると、今しも一台の車が門を出てくる。この車は知っている。信孝の車だ。
 一声かけていこうかどうしようか、と考えているうちに、信孝の車は動き出したが、それを見て私は、おや、と思った。ここから室町殿へ行くのなら、北へ向かう筈なのに、車は南へ向かっている。信孝も当年十八歳、通う所があってもおかしくない、と思い当たると、俄に好奇心と悪戯っ気が頭をもたげてきた。
 よし、ここは一つ、跡を追けてみよう。私は牛飼に言った。
「あの車の後を追ってくれ」
「承知しやした」
 私の車は、即かず離れず、信孝の車を追っていく。上ったばかりの月明かりで方角を見定め、頭の中に地図を思い浮かべて、窓の外に見える景色と比較し、現在位置の把握に努める。そうしている間にも車は、南へ南へと進み、四条の辺りまで来た。この辺りは、高級貴族の別邸は幾つかあるが、本邸は少なく、庶民の家の方が多い、どちらかと言うと場末の方である。こんな所に、あの権門の御曹司たる信孝が通い所を持っているというのが、私には意外だった。まあ、夕顔の話もない訳ではないが。
(筆註「源氏物語」光源氏の若き日の通い所の一つ、夕顔が垣根に咲く家は、五条にあった)
 ふと、車が停まった。牛飼の声がする。
「若殿様、車が、お邸に入って行きます」
 私は車の前の簾を挙げて、前方を見た。信孝の車は、小さな門を入っていく。
「よし、いいか、私が戻ってくる迄、ここで待ってろ、車は道端に寄せておくんだ」
 私は牛飼に小声で言うと、素早く沓を履き、車から降りた。何か言いたそうな従者にも耳打ちした。
「私が戻ってくるまで、ここで待ってるんだ」
 私は足音を忍ばせて、今しも車が入って行った門に近づいた。見ると、何ともまあ古びた門構えである。もう何年も、手入れなどしていないようだ。門番のいる様子もないし、篝火も焚かれていない。余程人が少ないのか知らぬが、不用心な事である。まあ、そんな具合だから、招かれざる客も侵入できるのだが。
 誰にも咎められずに門を入り、前栽――と言うよりも薮の陰から、母屋の様子を窺った。母屋には殆ど灯りはなく、人の気配も乏しい。一か所だけ、煌々と灯りの点されている一角がある。そこは寝殿の南面で、その前の簀子に、信孝の車が着けられている。目を凝らして見ていると、信孝が従者の一人に支えられて、覚束ない足取りで車を降りてきた。それを、女房と覚しき女が手助けしている。
 どうもこれは、荒れ邸の姫君と人目を忍んでの逢瀬、という雰囲気ではない。権中将邸で飲まされすぎて、酔い醒ましに一息入れようと立ち寄った、という感じだ。しかし、そうだとしてもあの信孝が、こんな荒れ邸に逼息しているような人物と知り合いだったとは、多少意外な感じはする。そう思うと、尚も続けて偵察してみよう、という意欲が、むくむくと頭を抬げてきた。私は音もなく薮の陰から抜け出し、さっと寝殿の床下に潜り込んだ。灯の点いていた一角に見当をつけて、そろそろと這ってゆくと、やがて頭の上から、聞き慣れない男の声がした。
「若君。私の叔母が、ご挨拶致します」
 声の主は、信孝の従者の一人だ。年の頃は二十過ぎか。しかし、信孝と個人的に親しい私でも、この声は聞いた事がない。誰なのだろうか。
 中年の女の声がする。
「まあ、このような荒ら家に、室町家の少将様のお運びを頂き、アヤ……主人も大層喜んでおります」
 そういう事か。信孝の従者の一人、誰かは知らないが、その男の叔母が、ここの邸の女房なのだ。だが待てよ、ちょっと引っかかるものがある。この邸の主人、名前の上二文字が「アヤ」というようだが、これはちょっと男の名前には相応しくない。私も貴族社会に出て四年目になるが、名前の上二文字を「アヤ」という男は、ついぞ聞いた事がない。とすると、主人、というのは女か。それはまああり得ない事ではないが、そうすると何故、挨拶した女は、主人の名を出しかけて引っ込めたのだろうか。何か少し、腑に落ちない所がある。
 女の声は続く。
「すぐにも御挨拶に参るところ、何分急な事で、お仕度が整わず失礼致しております」
 信孝の声が聞こえた。
「いや、むしろ急な訪れで、御迷惑をおかけして申し訳ない事です」
 信孝の声は、いつもと大部違う。何だか呂律が回らないような、息苦しいような、そんな感じだ。やはり、権中将邸で飲みすぎて悪酔いし、一休みしにこの邸へ来たのだろう。しかし、権中将邸からここまでは、権中将邸から室町殿までの倍はある。何故本邸へ直行しないで、こんな所へ来たのだろう。
「まず、主人が参ります前に、お口休めの一献を」
 女の声に続いて、しずしずと人が歩く気配がした。再び女の声、
「さ、少将様、一献、どうぞ」
「申し訳ないが、とても頂けない。それよりも、白湯でも一杯、頂けませんか」
 信孝の声は、酒はもう結構、という響きが浸み出ている。ここまで来れば、信孝の状況はよくわかる。私は前から信孝とは親しいから、宴席で一緒に飲む事もある。私に比べると、信孝は確かに酒が弱い。私の方は、初めのうちは弱かったが、近頃では大分馴れてきたのか、かなり飲んでも大丈夫だ。
 やがて人の歩いてくる気配がし、信孝が白湯を飲むらしい物音がし、そして人が何人か出ていく気配がして、辺りは静まり返った。こういう時には、私も物音を立てないように努めなければならない。
 暫く経って、信孝の声がした。
「守実。何だか、酒のせいかな。眠い」
 今、私の頭の上にいるのは信孝と、守実と呼ばれた従者の一人らしい。守実という名前は、今迄聞いた事がなかった。道理で私も、声に聞き覚えがなかった訳だ。
「少し、御体を横にしては如何です。一眠りすれば、酒の気も抜けましょう」
 守実の声は、最初に聞こえた男の声と同じだ。
 さらに暫く経った。ふと、守実の声がした。
「綾姫、御用意は宜しいですか」
 私は、あれっと思った。綾姫というのは、もしかするとこの邸の主人ではないのか。主人が、来客が眠りこけた今頃になって登場というのは、何か変だ。しかも、「御用意」と言った。守実と綾姫は、何かを企んでいるのか。もしそうだとしたら、これは少々由々しき問題だ。
 何か重い物を引きずるような音がする。守実が、眠り込んだ信孝を、どこかへ運んでゆく音らしい。程なく人が戻ってくる足音がすると、少しして、
「本当に、これで良いのですかしら、守実」
 若い女の声が聞こえた。実に典雅な、玲瓏たる声だ。だが声音よりも、言っている内容の方が問題だ。声の主綾姫と、守実は、確かに何か企んでいる。
「現実は、こんなに甘い物ではないと思いますわ」
「綾姫、またそれですか」
 守実の声には、少しうんざりしたような響きがある。
「現実はそんなに甘い物ではありませんわ。いざという時のためにも、実際にはっきりと契った方が宜しいのに」
 ええ――っ!? 何なんだこの二人は、信孝を美人局にでもかける気なのか!? 一体、綾姫というのは何者なんだ? 信孝の従者の一人と組んで、信孝を美人局にかけようと謀るこの女は?
「据え膳食わねば男の恥、と申しますでしょう。私が必ず、意地にかけても、そういう雰囲気に持って行きますのに」
 いよいよ確かだ。この綾姫という女、信孝と既成事実を拵えて、何かを企んでいる。何を企んでいるのか。何の為の美人局か。信孝の失脚を目論んでいるのか。だとすればこの女は、誰かの息が掛かっているのか。疑問は次々に膨らんでいく。
「綾姫の御意欲は買いますが、ともかく、ここ迄無事に来たのです。今更、どうこう仰言っても困ります。一度、若君がやってしまったと思い込んで下されば、あとはこっちの物ですから。若君も身に覚えがないとは云え、できてしまった事は仕方がないと腹を括って、その後は一度やるも二度やるも同じと思うでしょう。実際に契る機会もあります」
 説得に努めているらしい守実の声がする。どうやらこの二人、主導権をどちらが握っているかは別として、実行段階では綾姫の方が積極的らしい。一体全体、どういう女なのだろう。こんな女には、私の二十二年の人生でも一度も会った事がない。こんな女の罠に、信孝が陥るのを、友人として黙って看過する訳にはいかない。
 私は、信孝が寝かされていると覚しき方向へ、素早く這って行った。最初の位置から数歩離れた所で、中指の節で床を、コツコツと叩いた。この響きは、上に何か重い物が載っている響きだ。今この辺で、床の上に載っている重い物と言えば、信孝の体以外にあるまい。私は意を決して、拳で床を叩いた。
 私の頭上で、人が体を動かす気配がした。と思う間もなく、
「誰か、いないか」
 信孝の声だ! 私は思わず、会心の笑みを漏らした。もう、すっかり酔いの醒めた声だ。
「誰か」
 信孝が立ち上がって、綾姫と守実がいる部屋へ向かう気配がする。私もすかさず、床下を這って先程までいた場所へ戻った。あの二人の慌てる顔が目に浮かぶ。
 襖障子の開く音に続いて、
「あれ」
 信孝の、驚いたような声がする。信孝は、私の勘が正しければ、綾姫をまだ見ていない筈だ。驚くのも無理はない。
 ややあって信孝の声、
「女房の方か。私の供の者はどうしました」
 守実は、どこかに隠れたらしい。女房と間違われた綾姫が、どんな顔をしているだろう、と私は笑いを噛み殺した。
「お供の者は、退りましたわ。少将様が眠り込まれたので、今夜はお泊りになると思われたのではないでしょうかしら」
 綾姫の声が聞こえる。咄嗟に、予想していなかったであろう事態に対処すべく決心したのだろう。信孝を陥穽に嵌めようとするだけあって、かなりの者と見た。
「そうか。いつの間にか、すっかり寝込んでしまった。守実達も雑舎かどこかで、寝てるのだろうか」
「そうでございましょう、きっと」
「一眠りしたお蔭で、酔いも抜けたが、これから皆を起こして帰るのは、ちょっと気の毒だな」
 こういう気配りが働くのが、信孝なのだ。
「皆さん、お疲れの御様子でしたわ。明け方迄、ごゆっくりなさっては」
「そうだな」
 信孝が坐り込む気配がする。さて、こうやって目を覚まし、素面で腰を落ち着けた信孝に、この得体の知れぬ綾姫が、どう対処するか。
 どこまでも優雅な、綾姫の声がする。
「何か、お酒でも参らせましょうか」
「いや、酒はもう結構。懲り懲りだ。権中将様も、今夜は少し無礼講すぎたな。返盃返盃と仰言って、次々とお勧めになるんだから」
「では何か、お夜食のような物でも」
「いや、お気遣いなく。貴女ももう、退って寝んでいいよ」
「少将様は、如何なさいますの」
「一眠りして、目が冴えてしまった。花待ちの気分で、夜を明かそうかな」
「では、お側に控えておりますわ」
 そのまま、長い沈黙が流れた。信孝にとって、夜更けに人気の少ない邸の一室で女と差し向かい、という状況は、かなり居心地の悪いものがあるに違いない。まして女の方が、美人局にかけようと手ぐすね引いて待っているのでは。しかし私は友人として、信孝にこんな所で人生を誤るような陥穽に嵌まって欲しくない。何としても朝まで、何事もなく持ちこたえてくれ、と手を合わせて祈りたい気分だった。
「しかし、お邸に入る時は気分も悪くて、よく拝見しなかったが、こちらのお邸は寂しい御様子だね。……庭なども、何か寂しいね」
 信孝の声からは、何とかしてこの居づらい雰囲気を打開しようと努めているのが感じられる。と言っても、話題作りにも苦労しているらしい。
「本当に……このような荒れ様のお邸で暮らしておりますと、はかない我が身の行末が思いやられて、何か悲しくなってきますわ。頼るべき方もなく、お縋りする方もなく、心細い毎日ですの」
 綾姫の声は、情緒纏綿、嫋々たる余韻に満ちている。経験豊富な男ならともかく、まだ初心なところのある信孝が、こんな声でなよなよと迫られたら、つい理性を失って、情にほだされないとも限らない。だが、これこそ女の罠という代物、甘い言葉には毒がある、の最たる物だ。
「辛い事も多くて、いっそ尼にと思う事もありますわ」
 くーっ! この女、男を惑わせるコツを、実によく心得てるじゃないか。今迄この手で、何人くらい手玉に取ってきたのか、相当場数を踏んだ悪女だ、そうとしか思えん。
「それは、いけないな、貴女はそんなに若くて、美しいのに、尼になどと言うものではありません」
 案の定信孝は、ころりと引っかかってしまった。信孝のような男の口から、面と向かって「若くて美しいのに」とまで言わせるとは、相当の強者だ。
「美しいなど、お戯れが過ぎますわ」
「いやいや、私もあちこちのお邸に伺って、多くの女房を見ているけど、正直言って、貴女ほど美しい女房は初めてですよ。自信を持っていい」
「本当に、そうお思いですの」
「勿論です」
 なんてはっきり断言する事はないだろうに。信孝は、自分ではそうとは知るまいが、ずるずると自ら深みに嵌まって行っている。
「私、綾子と申しますの」
「いい名前ですね」
 すると綾子の、私にも聞こえる程のやるせない溜息がして、
「名前など良くても……幾ら美しくても、名前など良くても、唯一人の殿方のお気持が掴めなければ、女にとって味気ない物ですわ」
「そういうものかなあ。……でも、貴女を袖にする男などは、いないでしょう」
「あら、おりますわ」
「ふーん、怪しからん奴だ」
「殿方は実のない物。私、もう何を頼りにしていいかもわからず、こうして嘆き暮らすしかないのですわ」
 すると信孝は、一転して熱っぽく、
「そんな風に深く思い悩むのは、良くないですね。恋人と、小さな諍いをしたのを、そうやって悲観しているのではないかなあ。貴女のような美しい人を、袖にする男がいるとは思えない」
「そうでしょうかしら」
「そうですよ」
 何という巧みな話術だ。信孝、こういう女に見えすいたお世辞を言うには純情、初心すぎる信孝は、すっかり話術の虜になってしまっている。
 少時して、先刻よりも一層悩まし気な溜息が聞こえた。
「……少将様は、お優しい方」
「え、そんな事は……」
「本当に、お優しい方ですわ」
 こりゃあまずい、綾子がいよいよ、総攻撃に出てきた。下手をすれば信孝は、一気にこの妖女の虜となってしまう。私は焦った。こうなったらもう一発、床をぶっ叩いて、信孝の目を覚まさせるか、しかし床下の物音に綾子が、恐れをなした振りをして信孝に抱きつきでもしたら、絶対逆効果だ、と逡巡しているうちに、庭の方から物音がした。私は思わず息を呑んだ。
 やがて庭の方から、
「綾姫、綾姫はおられるか」
 中年の男の、粗野な声が響き渡った。
「綾姫? ……姫、というのは……」
 信孝の怪訝そうな声。信孝は今迄、綾子を女房だと思っていたのだから無理もないが。
「少将様、次の間にお入りになっていて下さい、どうかお願いします」
 綾子の声は、すっかり動転して、先刻迄の艶めかしさは微塵もない。綾子が立ち上がる音、信孝が押されてゆくような音が、頭の上で乱れ飛んだ。
 足音荒く階を登る音に続いて、先刻の中年男の声が、今度はずっと近く、
「綾姫、おられますか、儂です。備中介、時方ですぞ」
 綾子が居ずまいを正す気配に続いて、
「誰の許しを得て、邸内に入ったのです」
 綾子の声は一転して厳しくなった。
「許しも何も、門番もおらぬお邸ではありませんかな」
 それはそうだ、私だって無断侵入したのだ。
「お帰り下さい」
「いいや、今日という今日は帰りませんぞ」
 備中介が、どっかと簀子に腰を下ろしたらしい音がした。備中介は言い募る。
「儂の北の方になって下されば、贅沢は思いのままにおさせすると申しておるのに。一向に色良い返事も下さらず、門前払いばかり。それがここ数日、邸内に人が通っているらしいと噂を聞きましてな」
「女房の誰かに、金品を握らせて聞き出したのでしょう」
 綾子の声は、かなり動揺している。それに比べて備中介は、ふてぶてしいと言うか堂々としたと言うか、
「色々、教えてくれる者はおりますのじゃ。それが驚いた事に、乳母の甥っ子、官位もあってないような男だというではありませんかな」
「お黙りなさい。早く帰って!」
 綾子は、今にも泣きそうな声で言う。綾子と、どこかに隠れているに違いない守実と、どんな顔をしている事か。
「聞けば、そ奴、室町家の蔵人弁少将の従者とか(守実が真っ青になったろう、と私は思った)。綾姫。備中介では悪くて、名家の従者なら良いとは、どういう事ですのじゃ」
「備中介殿、お帰り下さい、お願いですから」
 綾子の声は、すっかり哀願になっている。
「蔵人弁少将にお付きしていると言って、うまい事を並べ立てて、姫を瞞しているのに違いないのですぞ。幾ら少将の従者と言っても、所詮は従者、従六位上を頂いている儂の方が、身分も上だ、財もある。目をお覚ましなされ。色良い返事を頂ければ、すぐにもお邸を修理し、調度も運び込ませると申しているではありませんかな」
「時方殿!」
 綾子は悲鳴に近い声を上げた。
「今日という今日は、帰りませんぞ。のんびり構えていたら、鳶に油揚じゃ。綾姫、儂の気持もわかって下され」
 二人のやりとりは、信孝にも丸聞こえに違いない。信孝は果たして、守実と綾子の関係を、どう解釈するだろうか。
 不意に信孝が押し込まれていた方向から、のっしのっしと人の歩く気配がしてきた。簀子へ向かったと思うと、
「備中介と申したな」
 信孝の、凛とした声が響いた。
「や」
「見覚えはなかろうが、私は蔵人弁少将です」
「えっ!」
 時方の声は狼狽している。
「こちらのお邸とは縁があって、何かと往き来している」
「あ、あの……」
「今夜は、私の方違えで、こちらに寄せて頂いている。恋の道を邪魔する積りはないが、私も疲れている。今夜はお引き取り願いたい」
 信孝らしい収拾のつけ方だ。
「あ、は、はいっ」
「備中介殿。こちらの姫に、どなたが通っているにしろ、妙な噂は姫の御為に良くない。おわかりですね。迂闊な事は言い散らさないように」
「はっ」
 ばたばたと階を降りる音がし、備中介は走り去って行ったらしい。信孝は、ゆっくりと部屋に戻ってきた。
「綾姫、と仰言るのですか」
 驚きが抜け切らず、いつになく上ずり、擦れた信孝の声が聞こえる。
「知らぬ事とは云え、女房などに間違えてしまって、申訳ありません」
 突発した事態に驚き慌てていても、こういう所に気が回るのが、信孝の良い所である。綾子はほんの僅か、落着きを取り戻した声で、
「いいえ。このような零落の身で、衣も調いませんもの。少将様がお間違えになるのも、無理はございませんわ」
「お困りのようなので、出過ぎた真似をしましたが」
「いえ、助かりました。備中介殿には、しつこくて困らされておりました」
 困り果てていたのは事実だが、その本当の理由は知らぬが仏というものだ、私は知っているが……。
「備中介か……」
 信孝は呟くと、黙り込んだ。綾子も、守実も、そして勿論私も、黙りこくっている。その沈黙の、何と長かった事か。
 やがて、
「何が何だか、まだ、よくわからないのですが」
 まだ考えがまとまらない、といった当惑した感じの、信孝の声が聞こえた。
「備中介が申していた事は、本当なのですか。私の従者が、姫の許に通っているというのは」
「え、いえ、まさか、そんな……」
 綾子の声は再び、激しい動揺を示した。まさか信孝を美人局にかける陰謀をめぐらすために、守実が通っていたとは言えまい。綾子が身じろぎ、いや、身悶えする気配がする。
「こちらのお邸に縁があると言ったのは、守実だが……もしや……」
 信孝の声は、到底信じられない、という響きに満ちている。
「……あの朴念仁の守実が、よもや、身分違いの姫に通っていたとは……!」
 これが信孝の解釈だ。信孝は、美人局というものがこの世に存在すると知るには、まだ初心すぎるのだ。という事は、先刻綾子が艶めかしく喋っていた不実な恋人というのを、守実の事だと思い込んだかも知れない。もしそうだとしたら、これは見物だ。
 その時、ずりずりと這うような音が聞こえた。続いて信孝の驚いた声、
「守実!? そんな所で、何していたんだ!?」
「わ、若君、今すぐ、お帰りに!」
 荒い息に交じって、絞り出すような守実の声。美人局、破れたり! 私は内心、快哉を叫んでいた。
「何だって? こんな真夜中に?」
「今すぐ、今すぐ帰ります、綾姫、し、失礼!」
「あら……」
「と、とにかく、お暇しますっ!」……
 乱れ飛ぶ三人の声を頭の上に聞き流して、私は素早く床下から這い出し、土塀の崩れ目から脱走した。長居は無用だ。
 小路に停めてあった車の所へ戻ると、起きているのは従者一人、牛飼は眠りこけている。私を見て頭を下げた従者に、私は言った。
「遅くなったな。今からすぐ、邸へ帰ろう。牛飼を起こしてくれ」
 従者に叩き起こされて、牛飼は渋々牛の綱を曵く。車は荒れ邸を後にして、私の邸へ向かった。月はもう中天にかかり、明け方が近いことを教えていた。邸に着いて車を降りると、私は従者と牛飼に言った。
「明日は一日、寝ていていいよ。今夜私が付き合わせた分、手当を出すよう、家司に言っておくから」
 私の勝手な好奇心と悪戯心に、一晩付き合わされた使用人には、これくらいの事はしてやるものだ。
 女房達を起こさないように気をつけて、私は自室へ戻った。床下に潜り込んだので、衣は汚れている。汚れた衣を脱ぎ、夜着に着替えて衾を被った。床下で聞いた事の一部始終が、頭の中に浮かんでくる。それにしても、あの綾子という女、何者なのだろう。明日になったら、まずそれを調べてみよう。
 翌日私は、日が高くなってから起きた。遅い朝飯を運んできた桔梗に、朝飯の膳を下げたら、暇そうな従者か家司を一人、私の部屋へ呼ぶように頼んだ。
 桔梗が朝飯の膳を下げて少時すると、簀子にやって来て平伏する者がある。
「お召しですか、若殿様」
 この男は左京少進壬生清行といい、年預の神奈備強の妻の弟という縁で、私の邸によく出入りしている者である。
「清行か。今日、もし暇だったら私に付き合ってくれ」
 私の頼みに、清行は、
「若殿様の御命令なら、何なりと致します」
 家司や奉公人というのでなくて、勝手に入り浸っている者なので、何とかして良い印象を与えようとしているのが可笑しい。
「五条辺りに、行ってみたい場所があるのだ。車は出すに及ばない。馬で行こう」
 私は狩衣に烏帽子の軽装で、帯剣し、清行と轡を並べて門を出た。当節都は治安が悪く、貴族が一人で外出するのは無謀とさえ言われている。それで、従者を付き合わせたのだ。
 昨日の道程を思い出しながら、地図と首っ引きで馬を進めてゆくと、やがて高辻小路と高倉小路の角に来た。東を見ると、間違いない、この邸だ。
「清行、ここは高辻高倉だ。この角の艮にあるあの邸だ」
 私が邸を指すと、清行は感嘆したように、
「随分その……古びたお邸ですね」
 主人の縁故の邸と思うと、荒れ果てた邸、とは言いにくかったのだろう。
「今あの邸を、誰が所有し、住んでいるか、わかるか?」
 私が尋ねると、清行は暫く額に手を当てていたが、やがて首を振った。
「……申訳ございません」
「何だお前、左京職なんだろ、左京の住人を把握するのが仕事だろうが」
 私がせっついてやると、清行は一層困惑した顔をした。漸く、
「……すぐ、調べておきます」
「頼んだぞ」
 翌々日、清行は私の部屋へ来て、
「例のお邸の事ですが、わかりました」
「おっ、わかったか。誰の邸だ?」
 私が意気込んで訊くと、清行は畏まって、
「は。桜井宮の北の方の、伝領されたお邸でございます」
 桜井宮、か。どこかで聞いた事があるような気がする。
「それで、今は、誰が住んでいるのかな」
 重ねて訊くと清行は頭を下げた。
「申訳ございません。そこ迄は」
 どうも京職は頼りにならん。
「まあいい。わかった。御苦労」
「ははっ」
 清行が退ってから、私は、桜井宮という人物に関する記憶を探った。……確か桜井宮は、五条院の遅くなってからの子で、無品で官職もなく、大和の桜井――宮家の名はここに由来する――にある荘園の上がりで暮らしていた親王だったと思った。境遇としては私の祖父、先代岩倉宮に似ている。だが、余り有名な宮ではなかったようだし、私が宮廷に出た四年前には、もう既に亡くなっていたらしい。その宮の北の方が所領していた邸、となると……。
 翌日参内した私は、殿上の間の入口で、兵部卿宮にばったり出会った。この宮は伏見院の異母弟、今上の叔父にあたる宮で、今年四十歳、兵部卿という名誉職にあって、風流を専らとしている宮だが、私は内心、この宮に会う事を期待していた。
「これは兵部卿宮様、いい所でお目にかかりました。一つ、お伺いしたい事があるのですが」
 私が意気込むと、温厚な兵部卿宮は、
「何でしょう、私にお伺いになりたい事とは」
 微笑みながら言って、ゆったりと腰を下ろした。私は差し向かいに坐り、
「桜井宮という御方の事なのですが」
 ――兵部卿宮は、若い頃から政権と無縁な地位にあったので、暇に飽かせて様々な物事を見聞し、知識を蓄え、有職故実から仏教関係、宮廷の人脈や諸芸百般に至る迄、宮中の生き字引と言われる程の該博な宮なのだ。
 兵部卿宮は、昔を懐しむようなまなざしになった。
「桜井宮は、私もよく存じていますよ。私には叔父に当たる御方ですが、父院よりも私や兄院に齢が近くて、若い頃から兄のように慕っておりました」
「はあ」
「惜しい事に、五年程前にお亡くなりになったのですよ、まだ五十にもおなりでなかったのに」
 兵部卿宮は、いかにも残念だ、という顔で言った。私は尋ねた。
「生前の桜井宮は、どこにお住まいだったのですか」
「それは、確か、五条の高辻辺りに、奥方が伝領されたお邸があって、そこに奥方と、御一方の姫君とお住まいでした」
 間違いない、あの荒れ邸だ。となれば、その姫君というのが、あの綾姫に違いない。その姫君の名は、と訊きたくなったが、それはまだ保留だ。
「奥方のお邸ですか」
 兵部卿宮は昔が懐しくなったのか、
「奥方は、世に知られた美しい御方で、私も若い時分、何度も文を差し上げておりましたよ。既に桜井宮の奥方に納まって、姫君まで儲けられても、まだ諦め切れなくて、一度か二度、……と、これは余計な話でした」
などと、私にとってはどうでも良い事を言う。
「兵部卿宮様も、隅に置けませんね」
 私が、ほんの少し冷やかしてやると、兵部卿宮はバツの悪そうな顔をした。
「その事がどう漏れたのか、先代の岩倉宮の御耳に入って、こってり油を絞られましたね。先代の岩倉宮は、何かと生真面目な御方でしたから」
「祖父が?」
 突然祖父の名が出てきたのに、私は驚いて聞き返した。すると兵部卿宮は、
「ご存じなかったんですか。桜井宮の奥方の母君は、先代の岩倉宮の奥方の、姉君だったのですよ。母君が病弱でいらっしゃったので、先代の岩倉宮の奥方、つまり貴方の祖母君は、姪に当たる桜井宮の奥方の面倒を、色々と見てやっておいでだったのです。奥方は、もう七八年前に亡くなりましたが」
 そうか、桜井宮と私には、こんな接点があったのだ。いやしかし、世間とは狭い物だ。
 さて、年は多少いっているとは云え、昔の懸想の話など持ち出して聞かせるような、一人の男――兵部卿宮である以前に――に、例の姫の名前は、とはさすがに口幅ったくて尋ねられない。私は兵部卿宮に礼を言って、櫛形窓の下のいつもの席に坐り込んだ。
 状況はわかった。あの荒れ邸の主人、綾子という女は、桜井宮の娘だ。母が七八年前に亡くなり、五年程前には父桜井宮も亡くなった、となると、待っているのは絶望的な窮乏だ。それは私も、母から聞かされた事がある。……そうか、何故あの綾子が、守実と組んであんな美人局を仕組んだか、やっと分かった。綾子は、絶望的な窮乏の苦しさに堪えかねて、それからの脱出を図ったのだ。綾子の乳母の甥という男が、名門室町家の御曹子、帝の信任も厚い、言ってみれば今一番金蔓として有望な公達である蔵人弁少将信孝の、従者の一人であったのに目を着け、どのようにしてかその従者守実と手を組んで、信孝を籠絡し、生活の安泰を獲得しようと図ったのだ。言い寄ってくる受領はいた――従六位上備中介時方という男だ。この男が綾子に言い寄っていたというのも、納得がいく。昔、母が言っていた――財産はあっても家柄が低くて、その家柄の低さに引け目を感じている者が、家柄に箔をつけようとしたがる、正にそれだ。綾子はそれを拒絶していた、それは恐らく、宮家の誇り、だろう。しかし宮家の誇りは飯のおかずにはならない。誇りで寒さも凌げない。宮家の誇りを守りつつ、生活の安楽を獲得しようと思えば、身分財力を兼ね備えた男と結婚するのが唯一の手段だ。身分財力を兼ね備えた男として、綾子が選んだのが、信孝だったのだ。綾子は綾子なりに、必死だったのだ。
 ……しかし、今一つ腑に落ちない点がある。綾子が守実と組んだ、その事だ。守実は信孝の従者である。その従者に綾子は、どうやって美人局の片棒を担がせたか、つまり、どうやって主人に背かせたか、という事だ。考えられる可能性は幾つかある。第一は、守実を買収したという可能性。一般的にはこれだが、この場合に限っては除外すべきだろう。邸の荒れ具合からも伺える、赤貧洗うが如き綾子が、どうやって、既に充分安楽な、贅沢な生活をかち得ているに違いない守実を買収するのだ。貧しい者が富める者を買収する、こんな話は聞いた事がない。次に、何か守実の致命的な弱味を握った可能性。ではその弱味とは何だろう。……美人局の片棒を担いだ、という事自体、致命的な弱味ではあるが、それは原因と結果が逆だ。今後再び綾子が、守実を服従させようとする場合には、今回美人局の片棒を担いだ事を致命的な弱味として脅しが利くが。そして第三に、あの凄絶な口舌で守実を籠絡した可能性。これは案外、ありそうな気がする。もし二人の謀議を盗み聞きしていなかったら、私だって心を惑わせたかも知れない。
 いずれにしても、まだ不審な点は残る。弱味を握るにせよ籠絡するにせよ、その契機をどうやって得たか、という事だ。常識的に考えて、綾子はあの荒れ邸の真中に、じっと坐っている。綾子の方から、守実を利用しようと積極的に行動するという事は、どうも常識的に言って少しあり得ないような気がする。いやしかし、美人局をやってでも窮乏生活から脱却しようとするくらいの人間なら、やるかも知れない。人間、本当に肚を決めてかかると、余人の想像を絶するような事でもやってのける事がままある、少なくとも一人、そういう人間を知っている――晴子だ。私と晴子の初めての出会いは、綾小路南壬生西の法成寺入道の別邸の、寝殿の縁の下だった。名門家の姫君との出会いの場としては、凡そ最も相応しからぬ場所だった。あの姫との出会いからして、晴子が、余人の想像を絶する行動に走った事が契機だった。その動機と言えば、そう、公晴が何者かに腕を斬られて、信孝が昭陽舎の警護を命じられ、信孝との新婚生活が流れそうになったもので、身動きの取れない信孝に代わって、自分で事件を解決せんとしたのだった。
 ――そう言えば、信孝と晴子の結婚、という話はどうなったのだろう。先日白川大納言が言っていたところでは、性覚の事件の時に起こった怪異、烏丸殿炎上以来行方不明だった晴子が、炎上する観珠寺から馬に乗り、僧衣を被って逃げ出してくるという奇怪な出来事のために、物の怪憑きという悪評が一気に立って、左大臣家の方から婚約破棄を告げてよこしたという事だ。当の晴子は、あの後吉野に療養に――ほとぼりが冷める迄都落ちする、と言った方が適切か――行ったきり、もう一年半にもなる。そう思うと、何か急に、晴子が懐しくなってきた。あの、私が見る限り常軌を逸したお転婆で、勝気で、私の好みではない、しかし瞳の純真さだけは、今迄出会ったどの女性よりも勝っていた姫。私でさえそう思うくらいだから、あの純情一途な信孝はいかばかりか。
・ ・ ・
 その翌日、宮中で花見の宴が催され、私も出席した。宴そのものは、別にどうと言う事もなかったが、散会になった後、私は帝に召された。
 多少酔いの回った帝は、至極上機嫌で、
「東宮が生まれて、今日で丁度一月だ。久子の時より丈夫で、よく育ってるよ」
 ほろ酔い加減だった私は、はっと我に返った。東宮、他ならぬ私の子だ。
 私が顔色を変えたのに、帝は気付かず、
「しかし東宮も、母は桐壷だし、後見が源大納言ではどうも不足だな。室町家あたりに姫が生まれたら、早く婚約させて、後見をしっかりさせておかないと、土御門派につけ入る隙を与える事になるな」
 私はすっかり酔いも醒めて、考え込んでいた。そうなのだ。ここ暫く、綾姫の事ばかり考えていてすっかり失念していたが、私の遠大なる計画の完遂のために第一にしなければならぬ事は、桐壷と大弐を安心させるために、東宮を東宮位から降ろす事だったのだ。そのためには、東宮を孤立せしめ、東宮の立場を弱くする事が必要である。そのためには――信孝と晴子の結婚を、阻止しなければならないと、右大臣に言われたのだ。四年越しの仲である信孝と晴子の仲を、裂くのは忍びない、しかし私は、それをやらねばならぬ。右大臣との約束、そんな事ではない、私自身の壮大な計画を、支障なく完遂するために。
 翌日参内した私は、信孝に会った。会うなり私は、小声で切り出した。
「信孝殿、吉野の晴姫との話は、その後どうなっているんですか」
 信孝は、薮から棒に晴子の話を持ち出されて面喰らったのか、どぎまぎしている。
「え? 晴姫との話……?」
 私は嘯いた。
「昨夜誰かが、吉野の桜も今が見頃だろうか、などと言ったものですから、吉野、そう言えば晴姫が、療養に行ったきりだ、と思い出しましてね」
「……」
「信孝殿と晴姫は、大分前から婚約なさっていた御仲ですよね」
 すると信孝は、幾分気色ばんで喋り始めた。
「そうですとも。一昨年、ああいう事があったものですから、母や乳兄弟は大反対で、婚約破棄だと息まいてますがね。でも最後に決めるのは私です、私は必ず、晴姫と結婚しますよ。私は純粋に、晴姫が好きなんです」
 随分力み返っているなぁ。この純情さが、信孝のいい所でもあるのだが、しかし今の私にとっては、そうも言っていられない。
「もう二度目の春ですから、怪我も完治した筈、と思って、吉野へも何度も文を出して、帰京を勧めているんです」
「そうですか。ところで」
 乳兄弟、と聞いてピンときた私は、同情するような口振りで言った。
「貴方の乳兄弟ってのは、貴方の御結婚に反対なんですか。乳兄弟なのに、無理解な人ですね」
 話がかなり私的な領分に及んできた、と察したのか、信孝は一層声をひそめた。
「乳兄弟と申しますか、本当の乳兄弟の、兄に当たる者なんですがね。五つ年上で、子供の頃から私の邸で一緒に育って、今ではまあ腹心の従者というか、わが家の家司のような立場で、父や母の信頼も篤いのです。それが、どうも煙ったいんですよ」
 左大臣家の家司、か。そうなると、従者と言っても、信孝の外出に随伴する事もない訳で、私が見知らぬ可能性は大いにある。と、なると……。
「その従者、何という名前なんですか」
 ちょっと突っ込みが深かったか。信孝は一瞬、怪訝そうな顔をしたが、すぐ普段の顔に戻った。
「守実と言います。姓は大江、だったと思います」
 私の頭の中で、様々な事どもが、ピタリと音を立てて噛み合った。大江守実、信孝と晴子の結婚に頑強に反対しているこの男に、綾子は美人局の片棒を担がせたのだ。主人の結婚に頑強に反対している従者であれば、主人を裏切らせるのにそれ程の苦労はない筈だ。どんな折にか、守実が信孝と晴子の結婚に、頑強に反対していると知りさえすれば、一言、「信孝と晴子の仲を裂くのに協力せよ」と言うだけで、守実を全面協力させる事ができる。
 ――いや、別の可能性が出てきた。信孝と晴子の結婚に頑強に反対している守実が、どこのどんな姫でもいい、信孝を美人局に嵌めてしまおうと考え、その相手として、洗うが如き赤貧に喘ぎ、それからの脱却を図って齷齪している、そして守実とも満更知らぬ仲でもないかも知れない綾子を選んだ、という可能性だ。これならどうだ。綾子が信孝を美人局にかけ、生活の安楽を獲得しようと図ったと考えるよりは、守実が生活の安楽を餌に綾子を釣って、美人局の主役を演じさせたと考える方が、より現実的な気がする。
 さて、あの美人局に関わった二人の素姓と、陰謀の背景がわかった。そこで次に私の考えた事は、――信孝には絶対に言えない事であった。つまり、信孝と晴子が結婚し、女子を儲けて、その子が東宮と婚約し、よって関白太政大臣家と内大臣家が東宮を支援する事を断乎として阻止するために、あの二人が利用できないか、という事である。左大臣夫妻も信孝も深く信頼している守実と、赤貧から脱却するためになりふり構わず美人局を決行する行動力、予定外の事態にもそれなりに対処できる頭の切れ、初対面の男にあれだけ艶麗な弁舌を振るえる度胸を兼ね備えた綾子と、うまく利用すれば極めて有力な懐刀として使えるだろう。こういう人間を放っておく手はない。
 と言って、守実は信孝を裏切ったとは言え信孝の腹心の従者な訳だから、いきなり私が、「私の言う通りに、信孝を裏切れ」と言っても、おいそれと従いはしないだろう。それよりも、私とも、信孝とも、そして系図を繙いてみれば帝とも高仁親王とも離れた所にいる、言うなれば完全中立の位置にあるような綾子の方が、味方につけやすいに違いない。宮家の誇りに凝り固まっているようにも見える綾子には、同じ宮家の出である私は、近づき易いだろう。
 さて、それでは早速あの荒れ邸に、という訳にはいかない。守実と違って私には、あの邸を訪れる直接の接点はないのだ。綾子とは再従兄妹の関係にある訳だが、それだけでいきなり訪問できるか、となると、それは無理というものだ。だが、やると決めたからには私はやる。多少の無理は承知だ。
 ところが、私が綾子をどうやって接触しようかと考え始めるや否や、私に声をかけてきた者がある。顔を上げると、中務大輔義澄という男だ。
「明後日、中務卿宮のお邸で花見の宴が開かれます。つきましては帥宮殿にも、御来臨を賜りたいと、中務卿宮は申されておいでです」
 中務卿宮、か。毎年今頃は、毎晩のようにどこかで花見をやっている。一々付き合っていたら体が持たない。それで私は、特に親しい人に誘われた場合でなければ、余り積極的には参加しない事にしていた。しかし今日は、受ける事にした。内心、僅かに期待するところがあったのだ。
 翌々日の夕刻、私は中務卿宮の邸へ行った。中務卿宮は齢は六十余り、奥方とは死別して子供もなく、二品中務卿という官位のお蔭で生活の不安はないものの、寂しい老後を送っている宮である。邸の庭には名樹と言われた桜の木が多く、人を集めての花見だけが娯しみというような暮らしであるらしい。
 集まったのは中務大輔を始め、中務少輔、中務丞、侍従など、どうも余りぱっとしない人々ばかりである。そこへ当代一の若手皇親、帝の信任厚い帥宮の私が来たのだから、周りの視線が痛い位だ。私は上席、中務卿宮の隣に坐った。
 宴も酣わとなってきた頃、中務卿宮は私に、上機嫌な声で言った。
「帥宮殿。やはり、花は桜が一番じゃのう」
 私は作り笑いをしながら相槌を打つ。
「見事な桜ですね、ここのお庭の桜は」
 それから、本当にさりげなく、
「桜と言えば……桜井宮、という御方がおられたと、今ふと思い出しました」
 ちょっとこれは強引過ぎたかな? 案の定、近くにいた中務大輔は、怪訝な顔をしている。しかし中務卿宮は、少しも怪しむ様子はなく、しみじみとした口調で、
「桜井宮か……宮が亡くなってから、何年になるかのう」
と呟いた後、俄に振り返って、側に控えていた中務少丞に、
「政文、お前確か、桜井宮のお邸に縁があったような事、言っておったな」
「は」
 中務少丞政文は、ついと膝を進めた。
「実は、私の母は以前、桜井宮のお邸に御奉公致しておりましたのです。宮がお亡くなりになってから、唯御一人残された姫君は、すっかり落魄しておしまいになって、今では日々の暮らしにも事欠く御有様だそうで……」
 洗うが如き赤貧のどん底で、頼りになる者も殆どなく、そんな中でも言い寄る受領を撥ねつけて、誇り高く暮らしている、等々と話した。私は内心、知らぬが仏よ、と思いながらも、いかにも深く同情した、という顔をして耳を傾けていた。
「何ともはや、聞くに忍びない話ですね。宮家の姫君が、落魄した暮らしを強いられているという話は、時々耳にしないでもないですけれど、それ程とは……」
 わざと深く嘆息してみせてから、思わせぶりに、
「竹園の連枝(皇族の意)として、このような話を伺って、黙って聞き流すには忍びません。私も昔は、ひどく窮乏した暮らしを強いられた身、身につまされる話です。何とか、救いの手を差し伸べてやりたいものです」
 少丞の目が、俄に光を増した。私はそれを見すまして、
「政文って言ったね」
「はいっ」
 返事まで威勢良くなっている。
「ちょっと話がある。後でまた」
 思わせぶりに言っておいて、私はまた宴会に没入したふりを見せた。
 散会になった後、私は少丞を呼んだ。人気の少ない部屋へ行き、
「先刻の話だが、一度その姫君に、お目にかかりたいのだ。余りに唐突な、と思うかも知れないが、文使いを頼まれてくれないか」
と囁いた。少丞は感激の面持ちで口走る。
「何と有難きお言葉。承知致しました」
 そこで私は少丞に、硯箱を持って来させた。
 と言って、今から書き始める訳ではない。一昨日、綾子を利用しようと思い立って以来、ずっと考え、練り上げてきた文がある。これをそのまま包んで、少丞に託すだけだ。ただ、余り早すぎると疑われるから、半刻位考えて書いたように装った。
「じゃこれを、母君を通じてその姫君にお届けしてくれ」
 私が包んだ文を手渡すと、少丞は喜んで、
「承知致しました!」
 少丞と別れてから、私は一人ほくそ笑んだ。私の方から苦労しなくても、予期せぬ所から機会が転がり込んできたではないか。
 翌日の午後、少丞が私の邸へ来た。丸一日も経たぬうちに返事とは、余程、私のような者を待ち焦がれていたのだろうか。少丞の差し出す文を受け取って、開いてみると、
〈帥宮様
 御文拝見致しました。思いもかけぬ帥宮様の御好意の有難さに、御礼の言葉もございません……〉
 紙は古ぼけて黄ばんでいるが、筆蹟は流麗で、気品に満ち、いかにも優れた教養を身に着けた姫君の文である。筆跡は人品性格を映す鏡と言われているから、普通の人が見れば、文の主はさぞかし優美な性格の人物だろうと思うに違いない。私は何しろ、この文の主が先日、誰と組んで何を企んでいたか知っているから、この優雅な文を見ても、一歩退って身構えずにはいられない。
〈……是非近いうちに、お目もじ致しとうございます。
かしこ〉
 向こうから、会いたいと来た。これで私の手間は省ける。こうまですらすらと、思い通りに事が運ぶとは思わなかった。
 文を畳んで顔を上げると、少丞は依然、簀子に平伏したままである。私は声をかけた。
「政文」
「はっ」
「今夜、桜井宮のお邸へ参ろうと思う。お前は今からすぐお邸へ参って、その旨、申し上げてくれるか」
「承知致しました!」
「うむ、有難う」
 少丞が足早に退っていくと、私は近江を呼んで言った。
「今夜、桜井宮のお邸に参る。夜のうちに帰ってくる積りだから」
「桜井宮?」
 近江は怪訝そうな顔をする。
「何だ? 言いたい事があるんだったら、隠さずに言ってみろ、叱らないから」
 近江の言いたい事はわかっているのだ。案の定近江は、
「桜井宮様は、既にお亡くなりになられた筈、確かお邸には、姫君が御一人でお住まいでは……」
 私は真顔で言った。
「言うと思った。いいかね、これだけははっきり言っておくが、その姫君に懸想しているという訳では、絶対にない。天地神明に誓っていい」
 懸想よりもっと不埒な考えを持っているのだが。
「……わかりました」
 近江は落ち着いた声で言う。近江がこう言ったからには、決して口出しはしない、それが近江という女房なのだ。
 日暮れ時になると私は、清行と二人で、轡を並べて邸を出た。この件に関しては、清行以外の者は関与させない事にする。車を出すのは人目に着くし、牛飼など関与する人間も多くなるから、敢えて避けたのである。
 辺りが薄暗くなる頃、私達は高辻北高倉東の邸に着いた。門番もいない門を入ろうとすると、少丞が松明を持って現れた。
「……帥宮様ですね」
「そうだ。この者は、私の従者、左京少進だ」
 私は清行を指しながら答えた。
「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
 少丞は敬々しく、私の馬の轡を取る。
 身丈に余る枯れ薮に覆われた、荒廃した庭を横に見て、出居に着いた。厩もないらしく、少丞は庭木に馬を繋いだ。通された部屋も、一応掃除はしてあるが、薄縁もなく灯も暗く、よくよく生活に逼迫していることを思わせる。
 程なく中年の女房が来た。女房の衣も、洗い晒したような古い衣で、継ぎが当たっている。このような窮迫した暮らしを送っている邸の人達が、私の申し出をどのように受けとめたか、それを想像すると、利用するだけ利用し尽くすというのはどんなものだろうか、という心の迷いが生じないでもなかった。
 女房に案内されて、私は寝殿へ来た。幾つかの部屋は数年来閉め切ったままのようで、勾欄も所々欠けているし、廊下は板が腐って抜けている所もある。簾も日に焼け、破れている所もある。邸の荒れ具合は、この前侵入した時に少しは見ているから、ある程度は予想していたとは云え、間近に見るとやはり胸に迫るものがある。
 寝殿へ通され、擦り切れた円座に私は坐った。日に焼けた几帳に、綾子の姿が浮かび上がっている。
「こんなに早く、お目もじが叶うとは、思っておりませんでしたわ」
 綾子の、玲瓏たる声が聞こえる。信孝を籠絡せんとしていた時のような妖艶さはないが、守実と密談していた時の声とも違う。この声は、地声ではなさそうだ。客用の声、という感じがする。私は内心、警戒を怠るまいぞ、と自分に言い聞かせた。
「善は急げ、と申しますからね」
 私は腕に縒りをかけて、とうとうと美辞麗句を並べ立てた。普通の姫が聞いたら、一遍で心を奪われてしまうような虚々しい台詞を、縷々流してやった。
 私の長広舌を聞き終わると、綾子は妙に醒めた口調で言った。
「有難いお言葉、大変忝う頂戴致しました。でも帥宮様、私の申す事もお聞き下さい」
 さあ来たぞ。守実と組んで信孝を美人局にかけようとする女が、私に向かってどんな言葉を発するか。私は身構えた。
「私はこの何年というもの、貧しい生活を強いられて参りました。貧しい生活、苦しい生活を生き抜いて参りますうちに、人の世の真実とでも申しましょうか、そのような物が、私にも見えて参りました。人の世の真実――それは、世の中の人は、善人ばかりではない、いいえむしろ、悪人ばかりだという事です」
 悪人ばかりだ、と来たか。
「父が亡くなって後、荘園の地券は皆、家司共に詐し取られました。装束を持ち逃げした女房もおり、家財道具を売り払い、売ったお金を着服して逃げた女房もおりました。宮家の姫を妻に得たいと不埒な望みを抱く、成り上がり者の受領に金品を掴まされ、手引きしようとした女房もおりました。そうした人の世の真実を、嫌という程見て参った私には、座右の銘が二つございます」
「座右の銘、ですか」
 綾子は、毅然とした声で言い切った。
「一つ、『旨い話には裏がある』。二つ、『人を見たら泥棒と思え』」
 私は呆気にとられた。これが、仮にも宮家の姫の台詞だろうか。
 すぐには言葉が出ない私を尻目に、綾子は語り始めた。
「先頃、私の乳母の甥で、さる名門の若公達の従者と名乗る者が、こんな話を持ち込んで参りました。お仕えしている若公達が、私に懸想なさっていると。ですから一度でも通われれば、私は安楽な暮らしを送れると。余りにも旨すぎる話ではありませんこと? 私はその従者を召して、真意を問い質しました。そうしましたら何と、私に美人局の主役を演じさせ、その若公達と恋仲にある性悪な姫とを別れさせる、という話でしたのよ。旨い話などと申すのは、この程度の浅ましい思惑が裏にあるのですわ」
 それから、私を真向から見据えて、
「帥宮様。貴方様のお申し出には、裏に何がございますの?」
と、明らかに挑戦的な口調で言った。
 こうなったら私も、綺麗事はかなぐり捨てて本音で勝負、といこうじゃないか。
「姫。お人払いを」
 私は低い声で言った。私の後ろに坐っていた清行が、立ち上がって出てゆく気配がする。
 女房と清行の気配が失せると、私は膝を進めた。
「では私の真意を申しましょうか。蔵人弁少将信孝と、烏丸内大臣様の息女晴姫が結婚し、姫君を儲け、その姫君を東宮と婚約せしめる事になると、母方の権勢の弱い現東宮に、室町左大臣様と内大臣様が後見につく事になります。それに強い危機感を抱く一派がありまして、その一派は弘安帝の遺された一の宮を次の東宮に、と強く推しているのです。私はその一派の意を受けております。おわかりですか」
 いきなり政治の話をぶちかまして、一般的に政治向きの話には弱い女性を眩惑するというのも、私が考えた作戦だ。案の定綾子は、頷きも肯定の返事もしない。
「つまり、蔵人弁少将と晴姫の仲を裂くのに、貴方に協力して頂きたい、そう考えている訳です」
 綾子は疑り深そうに、
「一月程のうちに二つも、同じような話が持ち込まれるなんて、どうした事かしら」
 私は構わず、
「こういう政治絡みの事に、協力して頂けるような姫というのは、そうどこにでもいるという訳でもありませんのでね。洗うが如き赤貧で、それから脱出するためと言ってやれば多少の冒険はお出来になる行動力をお持ちで、かつまた相当に優れた血筋で、そして現東宮とも蔵人弁少将とも晴姫とも、一の宮とも近い縁続きでない姫、そんな姫を探しておりましたら、貴女が丁度それに適った訳ですよ」
 綾子は、くっくっと笑いながら言った。
「初めに仰言った事と、全然違いますわね」
 私も負けじと、笑いながら応じた。
「世の中、建前と本音ですよ。もし今言った本音を、最初の文に書いて差し上げたら、貴女は多分、私に会って下さらなかったでしょう。それでは始まりませんからね」
 すると綾子は、深く納得したような声で、
「漸く、話を信じる事ができましたわ。この世の中に、本当に何の裏もない旨い話があるとは、信じられませんもの。帥宮様の、例の従者の話に負けず劣らず旨いお話には、負けず劣らず大きな裏がございましたのですわね」
 声は溌溂として熱と力が加わり、守実に喰い下がっていた時の声そのものである。これが綾子の地声なのだ。
 話に裏があると聞いて、信じる気になったという発想が、どうも私の理解の域を超えている。まあ何はともあれ、あと一押しで、私に協力させられるという所まで来た。こういう局面に至ったら、使う手は一つ。
「当面の目標としては、蔵人弁少将の恋人であるところの晴姫の嫉妬心を煽り立てて、蔵人弁少将から離れさせる、という事になりますね、私も」
 最後の一言に、私は力を入れた。
「帥宮様、も?」
 綾子の声音が変わった。すかさず私は、もっと重い声で言った。
「最終目標は、もっと遠い所にありますがね、大江守実よりも(と、わざと姓名で言ってやった)」
 綾子が、「あっ……」と小さな叫び声を飲み込んだのが聞こえた。かなり動揺している事は間違いない。
 私は畳みかけた。
「綾姫。私に協力して頂けますか」
 綾子は、態勢を立て直そうとするかのように、少時居ずまいを正してから、低い声で言った。
「……私を脅迫なさるお積りですの」
 私はいつもの声に戻って嘯いた。
「脅迫とは無粋なお言葉。そんな積りは、毛頭ありませんよ。協力なさるなさらないは、全て姫の御心次第です。ただ、損得勘定でいけば、どうですかね、もう一度大江守実と組んで、成功の見込み薄な美人局をやるよりは、私と組んだ方が得だと思いますよ。もし守実と組んでうまく行ったとしても、臣下の愛人止まりでしょうね」
「臣下の……?」
 綾子は、私の言葉に明らかな興味を示した。私はそっと、囁くように言った。
「貴女は桜井宮の御息女、つまり近衛派とも烏丸派とも無縁ですね。もし全てが成功して、弘安帝の遺子一の宮が立坊された暁には、貴女、東宮妃も夢ではありませんよ、立坊に功あった、二世の女王ですからね……」
 皇族の一員である事だけが誇りのような綾子には、この一言は天上の福音のように聞こえたに違いない。
「……協力しますわ! 東宮妃になれるのなら!」
 綾子の言葉は熱を帯びて弾んだ。几帳の向こうではきっと、目をらんらんと輝かせているに違いない。
「御協力頂けますか。やはり、私が見込んだだけの事はある」
 私は言った。
 綾子は私の言葉も耳に入らぬ様子で、すっかり浮かれ上がっている。
「お父様が亡くなってから五年、やっと私にも、日の当たる地位をものにする機会が巡って来たんだわ……。東宮妃、ですって、何て素晴らしい……」
 どうもまだ少し、甘いようだな。東宮妃、の一言でころりと参ってしまった、という感じだ。こういうのは、少し困る。どんな状況下でも、決して理性を失わないでいられること、これを私は綾子に限らず、私に与する全ての者に望む、いや、課す。
 私は少し声を低めた。
「綾姫。誰も貴女を、東宮妃にとお約束した訳ではありませんよ。首尾良く行ったら、その時は東宮妃も夢ではない、と申し上げただけですよ。まあ、貴女のお働き次第ですね、貴女が東宮妃になれるかどうかは」
 綾子は我に返った。
「わかっておりますわ。私、必ず帥宮様の為に、蔵人弁少将と晴子の仲を裂いてみせますわ! 東宮妃になれるのなら、何だってやりますわ!」
 それから一層熱っぽい口調で、
「帥宮様、私にどんなやり方で、蔵人弁少将と晴姫の仲を裂けと仰言るのですの?」
 私は手を上げて綾子を制した。
「それはこれから、私と貴女とで知恵を出し合って考えましょう。宴席で飲みすぎて車の揺れで気分を悪くした少将に、睡り薬入りの白湯を飲ませて眠らせ、美人局にかけるというのは、二度は使えませんからね」
 私が、お前等の悪企みは全てお見通しだぞ、と言わんばかりの口調で言ってやると、
「……どうして、そこまで……」
 綾子の顔が引きつるのが見えたような気がした。私は平然と続けた。
「さし当たって今日のところは、この辺迄にしておきましょう。一つだけ申し上げておきますが、宜しいですか、私と貴女が組んでいる事を、他の者には絶対に気付かれないように、くれぐれも御注意下さいよ。特に大江守実には。まあ、あの男と手を組み続けているふりをなさるのは一向に構いませんし、むしろ歓迎しますがね」
 綾子は、やっと落ち着きを取り戻したようだ。
「何故ですの?」
 私は諭すように、
「考えて御覧なさい。貴女はこの、洗うが如き赤貧から脱出なさろうとして、守実と手をお組みになったのでしょう。その貴女が守実と手を切ると仰言ったら、どうなりますか? 守実の考えそうな事は二つ、一つは、貴女は今のままの赤貧に甘んずるお積りだ。もう一つは、他の誰かと手を組まれた。この二つです。そして、恐らく八対二か九対一で、後の方だと思うに違いありません。それでは私も困るし、貴女も困る。ですから守実には、こんな具合に言っておやりなさい。『私は諦めない、何としても少将様の愛人の座をかち取ってみせる、だから守実も私に協力しなさい』という具合に。もし守実が、この前の失敗に懲りて、貴女と手を切りたいなどと言ってきたら、その時は、おわかりですね?」
 綾子が、にやりと笑ったような気がした。
「守実を少将様はとても信頼なさっておいでのようですけれど、その少将様に、守実があんな汚い罠を仕掛けたなどと知られては困りますでしょう?」
 私は口元を覆った。含み笑いしながら、
「貴女も相当のワルですね。私が見込んだだけの事はありますよ」
 綾子は、くぐもった声で、
「お互い様じゃありませんこと?」
と言うと、優雅な笑い声を漏らした。
(2000.11.25)

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