岩倉宮物語

 東宮は、教仁親王を無事落飾させおおせた事で、少しは気が楽になったらしい。信孝を退らせた後、私を近く招き寄せた。
「これはそなただけに打ち明けるんだが」
 私は胸を押えた。信孝にも打ち明けられないような事を、東宮は私に打ち明けようとしている。次に東宮が何を言うか、私は固唾を呑んだ。
 しかし東宮の、次に発した言葉を聞いて、私は正直言ってずっこけそうになった。
「晴姫が、好きになった」
 ちょっと、ちょっと待ってくれ、それが今、この私に言う台詞か!? 一体全体、どういう積りで、こんな事を口に出したんだろう? それに、一つ重要な事がある。
「恐れ入りますが、晴姫は信孝と、既に婚約された仲です。東宮も御存知でしょう。それを御承知の上で、そう仰せられるのですか?」
 東宮は苦笑した。
「それは勿論承知の上だ。しかしね、人を好きになるって事は、そういった理窟で律せられるものじゃないよ」
「それは、そうですが……」
 私だって、同い腹の姉と知らずに澄子に恋をして、そうと知った後も、どうしても諦め切れないのだから、他人にとやかく言える筋合いでもないのだが。しかしこれは、それとは事情が違う。
「と、ともかく、それは些か問題があるんではないでしょうか」
 私が心を落ち着けようと努力しながら言うと、東宮は俄に顔を歪め、
「何だ、反対するのか。もしかして、そなたの方が先に目をつけた、とでも思ってるのか」
 なっ、何を言い出すんだ。私は毅然と答えた。
「東宮、今のお言葉は、どういうお積りで仰せられたのでしょうか。私はあくまで、社会通念に基づいて申した迄です。私が晴姫に横恋慕しているなどとは、誤解も甚しい。率直に申せば、私は晴姫のようなお転婆姫は、好きではありません。ですから、晴姫をめぐって東宮と争うような事をする積りは、毛頭ありません。これだけは、はっきり申し上げましょう」
 私が変に力まず、淡々と、しかし毅然と言ったのが功を奏したのか、東宮は表情を和らげた。
「わかった。そなたが晴姫を好きでないというのは、信じよう。退ってよろしい」
「は。それでは、晴姫に横恋慕なさらないという事は」
 東宮は幾分不快そうに、
「それはそなたには、関係のない事だ」
・ ・ ・
 だが、私の懸念は現実になった。東宮は、事件の経過報告というような形を取りながら、晴子に何度も文を書いているらしい。正式に結婚していないとは云え、信孝と晴子は、かなり前から婚約しているし、一度は信孝が、烏丸邸で晴子との、初夜を迎えようとしていたという仲だ。信孝が忙しくなって、仕切り直しになったとは云え、こうまでなった晴子に、恋文紛いの文を贈るとは、横恋慕でなくて何だと言うのだろう。
 また、よく注意して見ていると、東宮は事件の後始末の細々した事を、何かというと信孝に押しつけているような様子がある。東宮が信孝を信頼していると言えば聞こえはいいが、東宮が晴子に横恋慕している事を知っている者が見れば、権力と地位を笠に着て恋敵をいびっているとしか見えない。これが次代の帝王の座を約束された、十九歳の男のする事だろうか。そうとは知らず、毎日残業に次ぐ残業に明け暮れている信孝こそ、いい面の皮だ。と言って、何しろ向こうは東宮、こちらはしがない五位の侍従では、表立って諌言する事もできない。
 そのうちに四月にもなって、とんでもない事件が起こった。信孝と晴子が、仕切り直して初夜を迎えようというその日その晩になって、東宮が狙いすましたかのように文、それもかなり熱烈な恋文を晴子に贈ったというのである。信孝は晴子の父、烏丸大納言公通と話し合って、東宮の意向がはっきりする迄は結婚は延期という事になったらしい。信孝と晴子の心中は、察するに余りある。信孝との新婚生活のために、と張り切りまくっていた晴子にしてみれば、事件に関わったばかりによりによって東宮から横恋慕されて、信孝との結婚がまたしても仕切り直し、いや、仕切り直す目途も立たなくなってしまって、どんな気持だろう。私もこの時ばかりは、晴子に心から同情した。
 私は、今度という今度は東宮を諌めようと思いもしたが、私が言っても効き目はないだろう。そこで、桜宮に内々に対面を申し入れた。
 二条東洞院の邸に久し振りに参上した私は、初対面(表向きはそういう事になっている)の桜宮にそれ相応の挨拶をしてから、用件を切り出した。
「東宮におかせられては、烏丸権大納言様の御息女晴姫様に、頻りと御文を遣わしておられる由」
 桜宮は微笑んだ。
「ええ、左様の噂は耳にしております」
 私は腹に力を入れた。
「されど晴姫様は、左衛門佐信孝殿と、久しく婚約された御方です。そのような御方に、恋文と紛う御文を遣わされるは、人倫の道に悖る御振舞、侍臣として甚だ見苦しく存じます。そこでこの岩倉宮正良、恐れながら東宮の御姉宮にあらせられる桜宮様に、東宮をお諌め頂き奉るよう、非礼を顧みず御願い申し上げる次第にございます」
 不意に桜宮は、扇で顔を覆って笑った。
「岩倉宮殿、それはまた、いかなるお積りなのでしょう。もし岩倉宮殿が、晴姫様に懸想なさっていて、東宮に手を引かせて欲しいと仰言るのなら、お断り致しますわ」
 全く、あの弟にしてこの姉あり、だ。私は腹立ちをぐっと抑えて、冷静に、毅然として言った。
「これはお戯れを。桜宮様のお言葉とも思えませぬ。臣下の許婚者に御懸想なさる事は、未来の帝王たるに相応しからぬ御振舞、東宮御自身の御為に芳しからぬと存ずればこそ、こうしてお願いに参ったのでございます。もし私岩倉宮正良が、左衛門佐殿の御許婚者たる晴姫様に懸想仕るなどという事があれば、どうして桜宮様に、東宮が左衛門佐殿の御許嫁に御懸想なさる事をお諌め奉り給うよう、お願いになど参りましょうか。自分の致す事と同じ事を、他人にするな、させるなと申すような自分勝手な者と思われ奉りたる事、この岩倉宮正良、一生の不覚にございます!」
 私の気迫に圧されたのか、桜宮の顔からは笑いが消えた。ややあって、
「わかりました。貴方が晴姫様に懸想なさっていると申したのは、ほんの戯れです。ですからそう、お怒りにならないで下さいな。
 実はね、さる折に私から晴姫様に申したのですが、私は東宮の姉として、晴姫様ほど東宮に相応しい御方はおられぬと思っております。勇敢で、行動力があって、お優しい御方、あの子供っぽい所のお有りになる東宮には、晴姫様のような御方が側にいて守って差し上げるべきなのです。身分から言っても、東宮妃たるに相応しい、と」
 私は、がっくりと肩を落とした。何でよりによって桜宮が、東宮の、臣下の許婚者への横恋慕を後押ししなきゃならんのだ。本当に、あの弟にしてこの姉あり、だ。私はもう、腹を立てる気にもならなかった。
「わかりました。では、失礼致します」
 内心では、見損なったぞーっ! と罵倒したい位だったが、一介の五位が内親王に向かって、そんな事は言えない。私は深く一礼すると、すたすたと退出した。
 翌日、東宮は私を呼びつけた。何を言われるかは大方見当がついたが、何、ここで臆する私ではない。向こうに地位と権力があれば、こちらには大義名分と人倫の道がある。私は胸を張って参上した。
 東宮は、参上した私を見るなり、
「昨日、二条東洞院へ参ったそうだな」
と、怒りに満ちた声で言う。私は、はったと東宮を見上げ、堂々と応じた。
「参りました」
「姉上に、何を申し上げに参ったのだ」
「それは私が申し上げなくても、東宮は御存じではないのですか」
 部屋にいる殿上人や、東宮坊の者達は、固唾を呑んで見守っている。
 東宮は声を荒らげた。
「何を申し上げに参ったのか、答えよ!」
「東宮が、左衛門佐信孝殿の御許婚者、権大納言公通卿の御息女晴姫様に横恋慕なさる事を、お諌め頂き奉るよう、申し上げに参ったのでございます」
 東宮は吐き捨てるように、
「女々しい奴め! 申したい事があるなら、直に申せば良いものを、姉上に申させようとは」
「私は以前、この事を直に東宮にお諌め申した事があります。その時東宮は、『わかった』と仰せられました。しかるにその後、四月の初めに、晴姫様に御恋文をお遣わしになりました。私の諌言は、東宮には何ら、御心に留められなかったと私は判断致しました。一度申して御心に留められなかった事を、二度三度申すのは徒労と存じます」
 私はあくまで冷静に、自らの所存を述べる。
「もし私の申し上げる事が誤っておりますれば、如何ようにも御処罰なされますよう。私は如何なる罪をも、甘んじて受け奉ります。その代り、身命に代えてもこれだけは申し上げます。左衛門佐殿を、これが為に些かなりとも疎んぜられますな」
 怒りに蒼ざめ、ぶるぶると震えていた東宮は、握り固めた拳で力一杯脇息を叩くと、
「退れ!」
と、後宮中に響くような声で荒々しく怒鳴った。私は額が床に突くほど平伏すると、傲然と立ち上がり、ゆっくりと退出した。侍従局に戻ると、何事もなかったかのようにどっかと腰を下ろし、悠然と扇を使い始めた。
 そのうちに、同僚の侍従達や、私と親しい仲間達が、青くなって侍従局に集まってきた。私が東宮に諌言し、東宮の勘気を蒙った事は、あっと言う間に大内中に広まったらしい。私は動ずる事なく、事の経過を説明した。
「とにかく、今すぐお詫びを申し上げに参った方が」
 同僚の一人が言うのを、私は一笑に付した。
「何で私が詫びなきゃならんのです。諌言を申した舌の根も乾かぬうちに詫びを申したのでは、却って逆効果です」
 別の同僚で、少納言を兼ねている者が、
「私が参って、お取りなし申し上げて」
 私は遮った。
「私は正論を申したのです。それが東宮の御不興を買ったからとて、少納言殿が取りなしに参るとは筋違い。少納言殿、貴方は、許婚者を東宮妃に差し出せと命じられたら、黙ってその通りになさいますか? 君主が人倫の道に悖る御振舞をなさろうとする時、それを諌め、匡し参らせるは、臣下たる我等の務めではありませんか」
 私が毅然として言い切ると、他の者達は声も出ない。そのうち、侍従以外の者達は、一人去り二人去りして姿を消し、侍従達も、何となく私を避けるような態度を見せ始めた。
 これだから下っ端貴族は嫌だ。小心翼々、上の者――その頂点の次に東宮がいる訳だが――の顔色を伺って、御機嫌取りの為なら白を黒とも、鹿を馬とも言うような連中ばかりだ。私が詫びを入れそうにないとなると、私に関わり合うと上に睨まれる、という露骨な損得勘定を始める。東宮の鬚の塵を払ってまで、御機嫌取りに励みたいものかね。私だって廷臣の一人である前に人間として、いや、廷臣の一人であればこそ、東宮に対しても、帝に対しても、是を是と言い、非を非と言う、その一線だけは譲りたくない。
 夕方、退出しようとする所へ、信孝がやって来た。困惑した顔で、
「正良殿、ちょっと話があるのですが」
 何でこんな顔をするんだろう?
「何でしょう」
 私を局から連れ出した信孝は、小声で、
「実は今しがた東宮に召されたんですがね、東宮は私に、随分皮肉な御顔で、『信孝にはいい友達がいて幸せだな』と仰せられたのです」
 そんな事だろうと思った。私が答えもせず、じっと黙っていると、信孝は、
「私からの頼みです。私が東宮の御不興を買うのを快しと思われないのだったら、東宮の御不興を買うような振舞は慎んで下さい」
と、哀願するような調子で言う。
 所詮信孝も、この程度の男だったか。私は冷たいまなざしを信孝に投げつけ、低い声で呟いた。
「信孝殿、貴方、男として恥ずかしくないんですか。口惜しくないんですか。幼馴染の許婚者を、東宮に横恋慕されて、結婚を延期する破目にまでなって、それで何とも思わないんですか。私は東宮に、未来の帝王たる者、人倫に悖る御振舞はなさるべきではないと、臣下として諌言申し上げたのですよ。理不尽な事を申し上げたのならいざ知らず、人倫の道に叶った事を申し上げたのに、何を憚る事がありましょう。それを何です、東宮に嫌味の一つも言われたからって、人倫の道に叶った諌言をしないでくれと言いに来る、貴方って、その程度の男だったんですか。見損ないましたよ」
「み……見損なった……」
「そうですとも。自分の保身の為に、幼馴染の恋人を、人倫と一緒に権力者に差し出すような、そんな男だとは、今の今迄、思いませんでした」
 私は、自分自身、一世一代の恋仲に陥った澄子を、同じ腹の姉弟であるという冷酷な事実の前に、断腸の思いで諦めざるを得なかった。それだから、親友である信孝には、是非ともその恋を成就させてやりたい、恋破れて苦しむのは私一人で充分だ、という思いが胸にあったのだ。それなのに信孝は、自己保身の為に晴子との恋を捨てようとしている、私にはそんな信孝が、腑甲斐なさそのものにしか見えなかった。
 私が邸へ帰ると、継父が物凄い形相で部屋へやって来た。私を見るなり、震える声で、
「ま、正良、そなた、今日、恐れ多くも東宮の、御不興を買う事を、しでかしたと!?」
と言いもあえず、足腰が立たなくなってへたり込む。私は悠然と答えた。
「東宮が、臣下の許婚者に横恋慕なさるのは人倫の道に悖ると、諌言申し上げただけです」
 継父は、私の返事など聞こえていない様子で、歯の根が合わぬ程震えながら、
「お、恐れがましい事じゃ! と、東宮の、御不興を買ったとあっては、儂等にも、お咎めがあるやも知れぬ。急いで、左大臣様に、お取りなしをお願い申しあげねば……」
 私は声を上げた。
「その為に、幾ら金銀財宝を積む気ですか? そんな事、しないで下さい。人倫の道を踏み外されぬよう諌言申した者が、理不尽な御不興を蒙って、それを解くために金銀財宝を積まれるなど、真っ平御免です! 臣下の諌言に腹を立てる東宮も東宮なら、その東宮を宥めようと金を積む臣下も臣下だ、そんな宮廷社会、こちらから御免蒙ります!」
「ままま正良、な、何という……」
 継父は白目を剥き、泡を吹いて卒倒した。女房達の大騒ぎを横目で見ながら、私は独り、長恨歌を口ずさんでいた。
(筆者註 長恨歌に謳われた楊貴妃は、元来玄宗皇帝の皇子寿王瑁の妃であったものが、玄宗皇帝が懸想し、別れさせて貴妃としたのであった)
・ ・ ・
 やがて帝は譲位し、代わって東宮が登極した。それに伴って臨時の除目が大規模に行われた。法成寺入道の陰謀に責任を感じてか辞表を出していた京極関白太政大臣(法成寺入道の長男)に代わって、信孝の祖父、新帝の大伯父である近衛左大臣信憲が関白太政大臣として位人臣を極め、その長男の室町大納言信時が一挙に左大臣に陞った。その弟の中御門中納言兼左衛門督信康は、大納言に陞って左大将を兼ねた。信孝の長兄参議左中将信道は中納言に、次兄蔵人頭右中弁信廉は右大弁に陞り参議を兼ね、信孝は右近衛少将で蔵人を兼ねた。この一族ばかりでなく、烏丸権大納言公通は内大臣に陞り、他にも大規模な異動があった。そして私はどうだったか。――官職も位階も全く変わらず。以前通りに、殿上を聴許された。私が勇敢な諌言をして、新帝の勘気を蒙った事は誰もが知っているので、殿上を削られるのではと心配していた者は少なくなかったようだ。もし私が法成寺入道の陰謀を暴くのに殊勲甲の働きがあった事を他人が知っていたら、何という冷遇、と私に同情したかも知れない。しかし法成寺入道の件に私が関与していた事は、一切極秘となっている。だから、もし私が新帝の勘気を蒙っていなかったとしても、私の官位を大幅に進めるような事はしなかったに違いない。年功も少なく、これと云った実績もない筈の私が、突然飛躍的な昇進をしたら、逆に怪しまれただろう。新帝が私の官位を全く変えず、殿上聴許も以前の通りだった事は、私にとっては、新帝の理性と良識を確認できたような形で、一安心であった。もし怒りに任せて殿上を削ったり、官位を免じたりといった挙に出られたなら、私は最早新帝に見切りをつけ、裸一貫で貴族社会を後にして、何処ともなく姿を消す積りであった。人間、いざとなれば、五体満足でさえあれば食っていくことはできる。海人山賎、土百姓になろうとも、自分の手足で生きていく自信はあった。
 東宮時代に堂々と諌言した者を、全ての権柄を握った今、罰しようが何しようが思いのまま、でありながら、怒りに任せて官位剥奪や殿上を削るといった挙に出なかったのを、新帝の理性と良識の表れと信じ、安堵もして、私は毎日参内していた。殿上の間の櫛形窓から新帝が殿上の間を覗く時、私と目が合ったりすると、さすがに新帝は気まずいのか、ついと目を外らしてしまう。しかし私は、自分の諌言には絶対の自信を持っていたから、新帝がどんな態度に出ようと、臆する事は微塵もなかった。官職にある者、特別の支障がなければ出仕するのは当然、殿上聴許を得た者が殿上の間に入り浸って何が悪い、という考えであったから、新帝に対して謹慎の意を表するなどという事は毛頭なく、毅然とした態度を取り続けた。そんな私を、初めのうちは公卿も殿上人も、関わり合いになって新帝に睨まれるのを恐れてか敬遠するような雰囲気があったが、時が経つうちに、近頃の若手貴族には珍しい気骨の持主だと、余り表立ってではないが褒めそやす老公卿が出てきた。新帝の勘気と言っても、煙たがっている程度で本気で怒ってはいないとわかってくると、他の若手殿上人達も、従前のように声をかけてくるようになった。
 しかしそれなら、帝の晴子への懸想が消えたかと言うと、全く正反対であった。さすがに表立って帝の名は出さないものの、大内を出て伏見に移り住んだ、帝の生母たる大后の宮の名前や、桜宮の名前を借りて、何とかして晴子を誘い出そうと躍起になっているらしい。三日にあげず送る使者が、毎回毎回空振りで帰って来るので、帝は落ち着かないらしい(私は、帝の御前に召される事はないので)し、その帝の一挙手一投足を伺っている貴族連中も、落ち着かない事夥しい。悲痛な顔でうろうろしている信孝と、傲岸不遜に殿上の間に腰を据えている私との間で、貴族達は帝の顔色を伺いつつ、ひそひそと囁き合っている有様である。只でさえ暑くて鬱陶しい盛夏に、大の男が何十人、帝の顔色を伺いつつごそごそしていては、やり切れない事この上ない。
 貴族達の思っている事は、察しがつくのだ。こう毎日帝が不機嫌なのでは自分達が堪らない、ここは一つ晴姫に折れて欲しいものだ、しかし岩倉宮の言う事は正論だし、何よりも蔵人少将の胸の内を思うと同情に堪えない、というところであろう。
 七月の初め、帝は命婦の一人を使者として烏丸殿へ遣わした。やがて帰ってきた命婦は、床を踏み抜かんばかりに足音荒く参上すると、晴姫の返答を報告した。偶然御前に控えていた信孝は、蒼惶として殿上の間に入って来て、
「……ああ……どうして、そんな事を……」
と、震える声で呟く。殿上人が尋ねる。
「御使者は帝に、何と奏されたのです」
 信孝は床に坐り込み、呟いた。
「晴姫は御使者の目の前で、私宛の恋文をこれ見よがしに書いた、と……」
 並居る殿上人達は、帝を憚ってよくやったとは言えず、信孝を思えば何て事をとも言えず、黙りこくったままだった。私は、眉一つ動かさずに聞いていたが、内心、何てまあ無鉄砲な事を、でもその無鉄砲さが晴子らしいんだ、と思っていた。もしかして私と晴子は、妙な所で気が合うんじゃなかろうか?
 数日後、七月六日の夕刻、帝は信孝を召した。
「いいな、必ず晴姫を、うんと言わせるのだ」
 帝の重い、厳しい声が聞こえる。私はこれを聞いて、思わず立ち上がった。
 これが心ある人間のする事か!? 確かに帝は、信孝ぐらい顎で使える立場にある人間だ、しかも信孝は蔵人、帝の野暮用を言いつけられて嫌とは言えない職務である。しかし、だからと言って、自分が横恋慕する姫の許婚者に、姫の説得を命じるという法があるものか。そんな命令を、有無を言わさず拝させられる信孝の胸の内、少しでも思ってみた事があったら、そんな命令が出せるか。事ここに至っては、私も頭に来た。世の中には許せる事と許せない事がある。人を恋したことのある一人の男として、帝の所業は断じて許せぬ。かかる上は身命を賭して、帝に諌言するだけだ。
「岩倉侍従、どこへ行かれる!?」
 仁王立ちになった私を見て、蔵人頭が声を上げる。私は憤然と言い放った。
「帝に諌言奉る。容れられずは、一死以て宸襟を匡し奉る迄」
 私は小太刀を握りしめた。殿上人は総立ちになった。大股に落板敷(殿上の間から御座の前の広廂に通じる所)へ向かおうとする私を、殿上人は総出で止めようとする。
「お待ち下され、岩倉殿!」
「ここは一まず、私に」
 私は苛立って叫んだ。
「えい、止めてくれるな! 帝の過ちを匡すは、臣下の務めではないか! 放せ!」
 殿上人達を振り切ろうと、手足を振るって大暴れしていると、突然、
「何を騒いでおる!?」
 帝の、凛とした声が響き渡った。櫛形窓から、帝がこちらを見ている。私の他の殿上人達は、さっと跪いた。私一人、殿上人の中に傲然と立って、正面から帝を睨み据えた。
「岩倉宮か。申す次第があるなら、申してみよ」
 帝の声には威厳がある。私はそれに負けじと、硬い声を張り上げた。
「この度の帝のなさり様は、全く以て人倫の道、君臣の道に外れた行いにございます。蔵人少将殿の御許婚者、晴姫様に御懸想なさる事の、人倫の道に悖る事は、兼ねてより申し奉る事、再び申し奉ろうとは思いませぬ。されど、晴姫様への御使者を、蔵人少将殿に仰せつけられるは、余りにも蔵人少将殿の御心を疎ろにした御仕打ちと存じ奉ります。君臣の義は重しといえども、君も人であり臣も人である以上、人として踰えてはならぬ一線があります。御懸想の御使者を、姫の御許婚者に申し付けられるは、その一線を踰えた御行いにございます。君たる者、臣へのそのような御仕打は、真に已むを得ぬ大義ある時はともかく、今のような時には、人としての君と臣の間に、恨みを残しましょう。君たる者、臣の要らざる恨みを得ては、どうして君臣の義を全うできましょう。君臣の義を全うできなくて、どうして天下を治められましょう。臣の恨みを得る事は、天下の乱れ、国の滅ぶ元となりましょう!」
 私の一世一代の演説が終わると、辺りはしんとなった。私と帝の、男と男の心が激しくぶつかり合って、音もなく火花を散らしている。
 やがて、帝の声が聞こえた。
「今日遣わした信孝が、色良い返事を持って参らなかったら、晴姫を召す件は考え直そう」
 指一本触れれば、音をたてて弾け飛びそうな程張りつめていた私の心が、ふっと緩んだ。周りで固唾を呑んで見守っていた殿上人達も、一斉に溜息をついた。私は床に跪いた。
「ははっ」
 帝も、考え直そうというだけの理性は残していたのだ。私の諌言が、遂に帝を動かしたのだ。信孝の為にも、晴子の為にも、これで良いのだ。そして恐らく、帝の為にも。
 暫く経って、信孝は戻ってきた。帝は待ち兼ねたように信孝を召した。
「返事はいかに!?」
 声が少し上ずっている。私達大勢の公卿、殿上人の前で、色良い返事がなかったら考え直す、と宣言してしまったのだから。世に、「綸言汗の如し」と言う。帝の言葉は、一旦口を出てしまったら取消しはできない、という事だ。ここでもし先刻の、公卿殿上人の前で宣言した事を撤回したら、これこそ君臣の道に悖る振舞だ。
「女楽の件は、今日一日ゆっくり考えさせて頂きたい、明日返事する、との事です」
「う……む」
 今日の返事次第で、と言ってしまった以上、これでは帝も困る訳だ。信孝は、
「明日また、私が御使者として参ります。参って、しかと返事を承って参ります」
と、ここ暫くの鬱屈が幾らか吹っ切れたような声で言った。
「大儀であった」
 帝は言った。それから、蔵人頭を呼んで何やら命じている。すぐに蔵人頭は殿上の間に来て言った。
「侍従岩倉宮、お召しにございます」
 帝の登極から二月以上になるが、御前に召されるのは初めてであった。私はついと立ち上がり、御前に出た。帝は、ゆったりと落ち着いた声で、
「そなたの諌言に、礼を言うぞ」
 私は言葉もなく、深々と平伏した。
「臣の恨みを得ることは天下の乱れ、国の滅ぶ元とは、誠に含蓄ある指摘であった。君たる者、天下を乱し、国を滅ぼしてはならぬ。私は危うく、信孝やそなたの恨みを得る処であった」
「ははっ」
「今度の諌言の事、一切咎めはせぬ。そなたの事だから、咎めを気にしての諌言ではなかったろうが」
 事の成行き上とは云え、容れられなければ自刃する覚悟で諌言に及んだ者が、咎めの有無を気にしていようか。
「大儀であった。退ってよろしい」
 日が暮れた頃、私は邸へ帰った。
・ ・ ・
 その夜更け、時ならぬ騒ぎに私は目を覚ました。起き上がってみると、東の空が赤い。これは、近くで火事が起こっているに違いない。私は妻戸を開け、簀子へ出た。東の方、どの位離れたところか、火の手が上がっている。夜になってから、東風が急に強まったから、延焼を始めたらこの邸も危い。すぐ東に堀川があると言っても、この風ではどれ程飛火するかわからない。私は素早く狩衣に着替え、部屋を出た。
「小太郎君様、どこへおいでです!?」
 出会う女房は、口々に尋ねる。
「火元を確かめに行く」
 私は足早に厩へ向かい、乗り慣れた馬に乗って、三条大路を東へ走った。
 火元は、烏丸殿であった。折からの強風に煽られて火勢は激しく、延焼を喰い止めるのがやっとという状態である。野次馬をかき分けて東の門へ近づくと、柱が影になってよく見えないが、何やら紙が打ちつけられている。もっとよく近寄ってみると、その紙片には――「怨 晴姫」――
 私は、危うく落馬しそうになった。これは放火だ、晴子を怨む何者かが、この夜の強風に乗じて火を放ったのに違いない。晴子が狙われたとなると、下手人は誰か。晴子はお転婆姫だから今迄何をしてきたかわからないが、邸に放火される程怨まれる事と言えば、法成寺入道の陰謀を措いて他にあるまい。しかし、だとすると、あの陰謀を暴くのに晴子が殊勲甲の働きをした事が、どこかから漏泄したのだろうか。表向き、晴子が何かしたと明らかにされている筈はない。そうなると、同じく隠密裡に活躍した私の事も、どこかから漏泄している恐れがある。とすれば、私の邸も危険だ。こうしてはいられない。烏丸殿が炎上した騒ぎに紛れて、時間差攻撃をかけるかも知れぬ。私は馬を走らせて邸へ帰った。
「正良、どこへ行っておったのだ」
 継父が、門を入ってきた私を見咎めるのに、
「火元は烏丸殿でした。この風だし、飛び火するかも知れない。邸中の男を起こして、邸の内外を見回らせて下さい」
 そうこうしているうちに、どこからか騎馬の男がやって来た。私が応対に出ると、その男は言った。
「岩倉宮侍従に、急ぎ参内するようにとの御内意です」
 ここ一番、という時には、やはり帝は私を信頼しているのだ。私は威勢良く返事した。
「承知仕りました!」
 私は自室に直行し、急いで束帯に着替えた。束帯で馬に乗れるかどうか、これは今迄やった事がないからわからない。しかし、牛車を用意させる暇も人手もない。私は下襲の裾を幾重にも畳み込んで石帯に挟み、馬に跨って一路内裏を目指した。
 参内した私を、帝は近く招き寄せた。その顔は険しく、深い憂悩が浮かんでいる。
「正良、私の最も憂えていた事が、起こってしまったよ」
「はあ」
「私達が見出し切れなかった法成寺入道の残党が、あの陰謀を暴き立てるのに殊勲あったのが晴姫だとどうしてか知って、晴姫に復讐を図った、としか考えられぬ」
「私も、そのように考えておりました」
 帝は俯向き加減に、掌を額に当てた。
「晴姫は、行方不明……」
 私は、顔の筋が引きつるのを感じた。男として女として、というのでなくて、共に手を携えてあの大陰謀から帝を救うために戦った同志として、晴子の安否が気遣われた。そこへ、行方不明の報である。私はそっと横を向いて、目頭を押えた。帝は沈痛な声で、
「こんな事が起ころうかと、一抹の不安があったのだ。だから一度、晴姫と忌憚なく話し合いたい、もしできる事ならこの内裏、京洛で一番安全な所で、晴姫を守りたいと思って、前々から参内を勧めていたのだが……もう一日、早ければ……」
 何と、そういう事だったのか! 私はそこには全く思い至らず、知ったような人倫云々を振りかざして諌言している積りになっていたのだ。慚愧の思いに堪えぬとはこの事だ。
「そのような御叡慮とはつゆ知らず、知ったように人倫の道云々と申した私が浅薄でした。恐れ入りました……」
 私が消え入りそうな声で言うと、帝は、
「いや正良、そなたの申した事は正論だ。あれはあれで、心に留めておこう」
と、私を励ますように言う。
「しかし、ならば何故、そうだと晴姫様に仰せにならなかったのですか。あのように何度も何度も、手を替え品を替えて参内を迫られては、意地の張り合いのような格好になってしまうのも無理からぬ事と思われますが」
 私は思いつきを言っただけだが、
「ううむ、それは、そう、入道一派の残党が何をしでかすかわからぬと言えば、あの事件の処理に当たった関白太政大臣始め、左大将、検非違使別当、左衛門督といった公卿達の、仕事ぶりを信用していない、という事になって、そうすると、彼等の責任問題になるから、そういう事は、帝としては避けなければ……」
 帝は妙に歯切れが悪い。私は、
「公に仰せられるには支障があるという事はわかります。※ですから。しかし、私だけにも御心の内を打ち明けて頂けなかったのは残念です。もっと早く打ち明けて頂ければ、知ったような諌言を奉って逆鱗に触れ申す事もなかったでしょうに。私は所詮、主上にとってその程度の者でしかなかったという事でしょうか」
と、わざと拗ねてみせた。もし初めからその積りだったなら、教仁親王を落飾させた後で信孝を退らせて私一人を近く招き寄せたあの時に、そうと言ってくれれば良かったのだ。それをいきなり、「晴姫が好きになった」だの「人を好きになるって事は云々」なんて言うから、私も正論をぶち上げて帝と真向から対決するような事になったのだ。そこまで考えると、先刻帝が言ったのは、烏丸殿が放火されるという事態が出来した今になって捻り出した口実ではないか、という気がして仕方がない。
「その程度の者だなんて、僻まないでくれ」
 帝は明らかに動揺している。まあいいか、この非常時に、帝に突っ込みを入れて動揺を増すのは上策ではない。
「蔵人少将のお成りにございます」
 蔵人頭の声がした。帝は、やれ助かった、という顔で、いやに快活な声を上げる。
「ここへ召せ」
 程なく、信孝が入って来た。
「右近衛少将信孝、お召しにより急ぎ参内仕りました」
 いつも通りの切口上を述べる。
「うむ、御苦労」
 信孝は一歩進み出て、小声で言った。
「吉報にございます。晴姫は、御無事でした」
「何と! して、首尾は如何?」
 帝は、ぱっと顔を輝かせた。私も思わず身を乗り出した。
「桜宮様の御邸に、秘かにお移り頂きました。下手人が晴姫の御命を狙っている事が明らかになりました以上、晴姫は表向きは亡くなられた事にして、当分の間桜宮様の御邸、或いは内裏にお匿い申すべきかと存じます」
 信孝は淡々と述べる。帝は深く頷き、低く、しかし喜ばしい声で言った。
「私も、そうしようと思った。こうなると、烏丸殿の炎上は、災いを転じて福と為しうるかも知れぬ」
「御意」
「では早速、桜宮に参内をお願いする事にしよう。その時に桜宮付きの女房の一人という形で、晴姫を参らせよう。参内の口実は何とでもなる。大儀であった」
 信孝が一礼して退ってゆくと、帝は、今迄私の存在を忘れていたかのように、改めて私を招き寄せた。
「烏丸殿に放火した下手人が入道の残党で、どのようにしてか晴姫が、あの陰謀を暴くのに殊勲あったと知ったのならば、事によるとそなたにも報復を図るかも知れぬ。そこでそなたには、当分の間宿直を命ずる」
「は」
 これを言うのは、信孝を退らせてからでなければならない。信孝は、入道の陰謀を暴くのに晴子が大活躍をした事は知っているが、晴子と帝の他にもう一人、他ならぬ私が活躍していた事は知らないままなのだ。
「私のたった一人の兄であるそなたに、非業の死を遂げさせたくはないからな」
 帝は私の耳に口を寄せて、悪戯っぽく笑って囁いた。
・ ・ ・
 烏丸殿炎上の夜から、日が経つにつれて、様々な状況が明らかになってきた。烏丸殿は全焼。内大臣の一族は、内大臣が重傷を負って辛うじて救出され、北の方は煙のために目を患った。公晴は、全く幸運にもその夜、どこかへ夜歩きに出ていて難を免れたが、火事の報に慌てて帰ってきて焼跡を見、衝撃の余り寝込んだ。女房、雑色の死傷者は、かなりの数に上る。そして晴子は行方不明――表向きは。晴子と腹心の女房一人は、桜宮邸の奥深く、ひっそりと息を殺して、参内の日を待っている。
 あの日から十日余り後の十九日、桜宮は参内と決まった。口実は他愛のないもので、桜宮所蔵の大和絵の屏風――それは桜宮の曾祖父五条帝から、外祖父式部卿宮を経て桜宮に伝領されたという、しかも五条帝の宸筆という、大変由緒ある物で、これを承香殿女御倫子に譲りたいという事だが、女官風情に預けられる品ではない。そこで桜宮自身直々に参内して、屏風を譲る。しかもこのついでだから、歌合をしたいので、桜宮にも暫く逗留して頂きたい、桜宮の方からも、返礼の宴などを催す、という事である。女を一人宮中に入れるとなると、こんな大騒動が起こるのだ。まあ、男を一人宮中に入れるために、受領が権門勢家に荘園を寄進するという生臭い話に比べたら、幾分ましではあるが。
 ところが予定していた参内日の朝になって、よりによって承香殿女御付きの女房が一人、変死しているのが見つかった。このために参内は延期となり、七日日延べと決まった。そんな事はあったが、ともかく桜宮は七日後、数人の女房を引き連れて参内した。その中に晴子が、九条と名を変えて加わっていたのは言う迄もない。
 それから半月ばかり、後宮では毎日のように、歌合やら宴やらがあって、帝も桜宮も相当楽しんでいるようだが、私や信孝には関係ない。しかも信孝は、烏丸殿放火犯の捜索に全力を挙げるという事で、毎日毎日朝から晩まで忙しく飛び回っているが、私は表向きの捜索に関わる事もなく、ただ毎日内裏に寝泊りしているだけである。暇で暇で仕様がない。
 明日は桜宮が退出するという十二日の夜、承香殿で読経が行われる事になって、昼頃何人かの僧が参内し、清涼殿で帝に拝謁した。その様子を殿上の間から覗いていた私は、あっと息を呑んだ。
 一行の中に、あの哀しい目をした、若い僧がいたのだ。広廂に端座したその僧の目に、私の目は釘づけになっていた。あの僧が性覚であるかどうか、私にはわからぬ。だが、妙に気になる。私は櫛形窓の隙間から広廂を見回し、僧の並び方を覚えようと努めた。
 僧達が退出してから、私は急いで蔵人頭を呼び、拝謁を乞うた。程なく、帝は私を呼んだ。
「急に拝謁を乞い奉る事、お許し下さい」
 私が手を突いて言うのに、帝は笑って、
「そなたが拝謁を乞いたがるのは、今に始まった事ではあるまい。何なりと申してみよ」
 私は、僧の並び方を思い出しながら言った。
「先程ここで、帝に拝謁しておりました僧の中に、見覚えのある僧がおりましたのです。老僧の後ろに、横一列に並ばれた僧のうち、帝から御覧になって一番右端の、長身の若い僧、あの僧は何と仰言いますか」
 帝は興味深そうに目を見張った。
「そなた、あの僧に見覚えがあるのか。奇遇だな。あの僧こそ、性覚律師だ」
 あの若い僧、限りなく哀しい目をした美僧が、性覚律師だったのか。私が初めて参内した時に見かけ、その目の余りの哀しさ故に、私の心に深い印象を残した僧。陰謀露見して罪を蒙りそうになった教仁親王を、帝、あの頃はまだ東宮だった、その密命を受けて脱出させ、落飾させた僧。
「あの僧が、性覚律師でしたか。実は私が初めて参内し、昭陽舎へ参上した折に、通りすがりに見かけたのです。あの若さで僧となっていて、しかもあの美貌ですから、あれ以来ずっと、何か心の底に残っていたのです。わかりました」
 帝は笑って言った。
「確かに性覚は美貌だからな。在俗であったら、そなたと後宮の人気を二分したろうに。いや、僧形の今でも、後宮の女房達の中にはあれに惚れ込んでいるのが多くて。困った事だ。
 今夜の読経には、性覚も参じている。どうだ、退屈凌ぎに承香殿前の庭にでも来て、読経を聞いてみないか。性覚は声も、なかなか美しいぞ」
「は。有難く承ります」
 その夜私は、承香殿の周りの庭に、のんびりと佇んでいた。承香殿からは、読経の声が絶え間なく聞こえてくる。
 そのうち私は、ふと、読経とは別の声が、どこからともなく聞こえてくるのに気付いた。一つは女の声、一つは男の声。男の声には、聞き覚えがない。女の声は、聞き覚えが……ある! 晴子だ! 何故今ここに、晴子の声が聞こえてくるのか。私は全神経を耳に集中し、そろりそろりと、声のする方へ歩み寄った。
 勾欄の陰から顔を出した時、見えた! 晴子と性覚が、向かい合って立っている。私は二人に見えぬように体を隠し、耳を一層そば立てた。
「……吉野君は死んじゃったんだもの。死んだと教えられたんだもの。どうして死んだなんて、母君達は嘘ついたの」
 晴子の声は、涙声になっている。
「父君が私に会いたがっていると、使いの者が来たのです。反対する母君や僧都を裏切り、夜を縫って使いの者と京を目指したのは、偏に父君にお目にかかるためでした。お会いできないと、ずっと諦めていた。諦めていたのに、会いたいと願ったのです。全ては、あの時から狂ってしまった。私は会ってはならない人に、会ってしまったのです」
 性覚の声は静かだ。そうか、そうだったのか。何故性覚は、あんなに哀しい目をしていたか、わかった。父を知りたいと欲し、そしてそれが叶わなかったか、或いは、父ではないと拒まれたか。その哀しみは、私には、痛い程よくわかる。私も、父を知ろうとした。そして父を知った。しかし父は、私を子と認めなかった。私が初めて先帝に拝謁した時、先帝、いや、父は、私を父の息子だと知っていただろう。にも拘らず、一瞥も与えず、一言も口を利かなかった。私は同時に、母をも知ろうとした。そして母を知った。しかしその時は、私の、永遠にと誓った恋の、無残にも破れ去る時だった。私の母は、私が生涯に初めて恋し、恋し合った澄子の母でもあったのだ。
「……いずれ、私がこのような鬼になると、わかっておられたのです、多分。母君の危惧は正しかった」
 鬼、とは何だ? もしか、もしかして……。
「あんたは鬼なのに、目が澄んでるわ」
「貴女の目は、赤い。人を愛し、親しむ時、眼は青いと、『晋書』にあります。では、赤い眼は……」
「人を憎む時よ。私は今、あんたを憎んでるもの。何人も関係ない人を焼き殺して、荷葉の女も殺して、あたしはそんな鬼を心底、憎んでるのよ。憎んでて……」
 そうだったのか!! どういう経過でかは知らないが、晴子は、烏丸殿放火犯が、性覚だと知ったのだ! 私は、危うく声を上げそうになった。
 晴子は泣きながら、性覚に飛び付いた。
「逃げてよ、少将が入道の縁の者を洗ってるわ、あの人、見かけと違って有能なのよ、あんたの身元を、きっと突き止めるわ、逃げて! ね、逃げて、吉野かどっかに逃げて、一生、菩提を弔ってよ、そうしてよ。ひどい事したと思ってるでしょ、後悔してるでしょ、そんなら、もういいから逃げて。少将が必ず、あんたを突き止めてしまうわ!」
 冗談じゃない、この期に及んで、何を世迷い言を言っているのだ。父に会って拒まれた悲しみは、私だってわかる、しかし、それとこれとは話が別だ。もし性覚が入道の縁の者で、入道一派を滅ぼした晴子に報復するために烏丸殿を焼いたのなら、晩かれ早かれ私に報いるために、私の邸を焼くに決まっている。そんな事は、私は、断じて阻止してみせる。この期に及んで、情にほだされてはならぬ、晴子、もっと強い理性を持て!
「ね、早く逃げて、今なら、まだ大丈夫よ、誰もあんたを疑ってないわ、だけど、烏丸殿に火をかけた事で、帝も怒ってるわ。必ず突き止めると言ってるのよ」
 いいや違う。私はたった今、真相を知った。性覚が、烏丸殿に放火した下手人だと。
「そう。帝も用心し始めている。身辺の警護も厳しくなっています。それも皆、貴女を殺そうとしたからです」
「そうよ」
「貴女はいつも、私の運命を握っている。いつか、貴女は私を滅ぼすかも知れません」
「吉野君、信孝って少将が調べてるのよ!」
 性覚は、不思議な程落ち着いている。
「貴女は誤解している。私は、法成寺入道の縁の者ではない。むしろ憎んでいる者です」
「ええっ!?」
 何だと!? そうか、それなら、私に復讐する恐れはないだろう。しかしそれなら、何故晴子を怨み、邸に火をかけなどしたのか。
 性覚はゆっくりと、呟くように言った。
「――昔、一人の姫に相応しい身分が欲しかった。そのために、我が子と認めて頂きたかった。ひっそりと穏かに暮らしたい私の、それが唯一つの野心と言えば野心でした」
「吉野君、それは……」
「だから、父君に会わせてくれるという法成寺入道の誘いに、乗ってしまったのです」
「法成寺入道が父親なんじゃなかったの!?」
 では、性覚がこれ程の哀しみを負って生きる事を強いられた、父とは誰だったのか。
「全ては七年前、時の東宮であらせられた一の宮――当今が重病に臥してしまったのが始まりです。二の宮がお生まれになるのは一年後、その時はまだ、この世に生まれ出でてはいなかった」
「二の宮って……」
「私は父君にお会いしました。でも、父君は私を御覧になっても、表情一つお変えにならなかった。そのような子は知らぬと仰せられた。忘却は罪です。忘れ去られる身には、血も凍る哀しみと絶望を課してしまう。ただ、心の片隅にでも残っていればという夢を、無惨にも打ち砕く。この七年の間に、私の身に何があったか、どうして出家したのか、何を思ったのか、貴女は決して知り得ないでしょう」
「どうしてよ。教えてよ。知りたいのよ」
「七年の間、どんな時でも、私を支えていたのは、あの吉野の日々の思い出でした。あの姫を思い出すだけで、幸福というものを知る事ができた。その姫が、幼い二の宮を落飾に追いやり、東宮がやがて登極された時には、入内なさるだろうとの噂を耳にした時、私の中の姫は、死んだのです。私は遂に、望む物は一つも得られなかった。我が子を慈しむ父の眼差しも、約束した遠い日の姫も、何一つ」
「入内するなんて、嘘よ。そのために、邸に火をかけたの? 殺そうとしたの?」
「そうであって、欲しいですか」
「違うわ、そんなのは口実よ、あんたは何か、つまらない、些細な事を根に持って、怨んで、岑男の帝を殺そうとしてるのよ。それだけよ」
「その通りです。私はつまらぬ恨みのために、私が持つ唯一の物、この容姿だけを武器に後宮の女を引き入れ、帝の身辺を探らせて隙を狙い、いずれ時期を待っている者です。全てを持っている帝に、一矢報いようとしている、それだけの者なのです」
「そして、役に立たなくなった者は殺すの。あの荷葉の女みたいに」
「そうです」
「本当に殺したの? 薬か何かを使って?」
「そうです」
 今一つ良くわからないが、承香殿の女房が変死した事と関係がありそうだ。
「何故! 殺さないでって言ったじゃない」
「いずれ、貴女が突き止めるからです。貴女は昔から、思った事は必ず通す人だった」
「そうよ。思った事は必ず、やるわ。岑男の帝を殺させやしない。あんたを吉野に戻すわ。鬼から人間に戻してみせるわ」
「無駄です。私の手は、既に血で汚されています」
 晴子が、ぎょっとしたように性覚から飛びすさった。
「じゃ、じゃあ、あんたを信孝に密告するわ。岑男の帝をこのまま狙うなら、密告する。そうさせないで。そうさせないでよ。逃げてよ」
「そうなされば、いい」
 甘いぞ性覚! 晴子はお前に惚れ込んでいた、いや、いる、だからそう言えば、密告できないと思っているな、だが、私は違う、私は男だ、何者にも籠絡されぬ、私は必ず、お前を、信孝なんか通さず、帝に密告してやる。
「何かに強く愛着するのは、良くない事だな。思い切る事のできない執着。愛執の罪は重い。いつか、貴女に止めを刺さなかった事を、私は後悔するでしょうね」
 性覚は、静かに歩き去ってゆく。
「待って! 吉野君、本当の貴方は何者なの? 誰なの?」
「近いうちに、大后の宮が参内なさるとか。宮にお聞きなさい。朝霧を覚えておられるかと」
「朝霧って……」
「二度と、お目にかからないでしょう。最後に一目、お会いしたかった」
「二度とって、どっか行くの? 逃げてくれるの? 二度と宮中に出入りしないわね? 帝を狙わないわね?」
 性覚は振り返り、晴子に一瞥を与えると、音もなく歩き去った。私は晴子に気付かれぬように、清涼殿へ戻った。
 性覚は、父、それが誰かはわからぬが、それに会い、拒まれた。出家した事によって、晴子とも仲を裂かれた。その哀しみは、あの瞳が全てを物語っている。しかし、その性覚、帝の信任厚く、帝が教仁親王を救わんとして託した僧が、帝に刃を向けようとしているのだ。廷臣として私は、帝にそれを密告しなければならない。晴子は、吉野君などと呼んでいたが、性覚への恋に溺れて、理性を失っているが、私は、帝の命を狙わんとする者を、看過する事はできぬ。廷臣として、否、帝の実の兄として!
 私は、決然と立ち上がった。晴子がどう思おうが、帝は私の、弟だ。弟を害せんとする者を黙過する事は、人倫の道に悖る。私は既に寝所に入っていた帝に、大急ぎで拝謁を乞うた。夜着のまま出てきた帝に、私は、承香殿の庭で盗み聞きした事を、要点をかいつまんで述べた。
「性覚律師は、隙あらば帝を、害せんと企んでいます。私は廷臣として、これを阻止すべき義務があります。未然に取り押える事ができれば、それに越した事はないのですが」
 「……性覚が、か……」
 帝は、沈痛な声で呟いた。
・ ・ ・
 八月二十二日、帝は私を召した。私は宿直が一月半にもなろうという頃で、もういい加減、事を片付けたい気分だった。性覚が、烏丸殿放火の下手人である事は、晴子は知っている。しかし、晴子を召喚して、公の場で証言させようとしても、無理であろう。晴子は性覚との、蒸し返された古い恋に骨抜きになっていて、理性の片鱗もなくなってしまっている。――私は晴子に対し、何故こんなに醒めた見方をしているのだろう? ともあれ帝は、性覚を現行犯で検挙する方針を固めたらしい。証拠や証言を引き出すことが難しい時には、どんな微罪でも構わない、現行犯で挙げてしまうのが一番有効だ。
 私と一緒に召されたのは、帝の有能なる腹心、蔵人少将信孝であった。帝は思いつめたような顔で、
「今夜、性覚を召す。そなた達二人は、几帳の陰に隠れていよ。性覚が何か、不穏な動きを見せたなら、取り押さえよ」
「承知仕りました!」
 午後、性覚が権別当を務める深草の観珠寺に、性覚を召す使者が立てられた。私達は、日頃使っていない仁寿殿に移った。信孝は動きやすい闕腋袍、私は下襲の裾を、馬に乗って来た時のように幾重にも畳んで帯で締める。やがて、蔵人が性覚の参内を告げた。
「そなた達は、几帳の陰に隠れておれ。よいな」
 帝は、低く重苦しい声で言う。私と信孝は黙って頷いた。
 性覚が来た。孫廂に設けた座に、ゆったりと坐って、深く一礼する。
 その時だ、
「吉野君!」
 晴子の叫び声だ。何故こんな時に、こんな所に、姿を現すのだ!? 性覚が振り返りながら、腰を上げた。
「晴姫、来てはいけないっ!」
 帝の、思いつめたような声が響く。性覚が僧衣の下に隠し持っていた短刀を抜いた。
「駄目、駄目よっ!」
 晴子が性覚に縋りつく。
「晴姫、離して下さい、さもないと」
 性覚は晴子を突き飛ばし、短刀を向けた。
「信孝、出でよ! 抜刀を許す!」
 信孝は右手で太刀を抜き放ちながら、左手で几帳を撥ねのけて躍り出た。私も遅れじと、太刀を抜き放った、が、太刀の切先が几帳に引っかかった。
「止めて! 信孝、止めて!」
 晴子の絶叫が響き渡る。その間に信孝は、性覚に斬りかかり、肩から脇腹へ、袈裟斬りに斬っていた。血汐が迸り、辺りの薄縁に飛び散る。私が二番太刀を引っ提げて、几帳の陰から躍り出た時、事は既に終わっていた。性覚は肩を押えてうずくまり、そのすぐ横に、晴子がへたり込んでいる。
「罠、か。何故、おわかりになった」
 性覚が低く呟く。信孝が、血塗れた太刀を拭いながら、
「御読経の夜、御坊とすれ違った時、私は思わず、晴姫はどちらかと尋ねてしまいました。御坊はすぐに、あちらにおられますと答えた。それで、わかったのです。後宮では、晴姫の名は伏せられ、九条になっている。晴姫の名を知る者は、この事件に関わる者のみ」
 性覚は、血の気の失せた顔で、晴子を顧みた。その顔には、不可解な微笑を浮かべていた。
「晴姫、やはり貴女は、私を滅ぼしましたね。あの夜、一思いに、手に力を込めるべきでした。これは罰です。愛執を断てなかった、罰です」
 一度ならず二度迄も、晴子を殺そうとしたのだな、性覚は。
「謀叛、露見! 明法に照らして宣命下る迄、深草は観珠寺に牢籠すべし。観珠寺は直ちに寺号剥奪。速やかに、いざ。これ、勅諚なり!」
 信孝の声が、夜の闇を破って、冷たく響き渡った。大勢の武士が集まってきて、性覚を引き立ててゆく。
 性覚は、応急手当だけを受けて、深草の観珠寺へ護送される事になった。私は、結局使わなかった太刀を鞘に収めた。
 これで全て、終わったのか。いや、まだ私には、そうは思えない。晴子が、気がかりだ。あの姫は、あの晩性覚に頻りに、逃げて逃げてと言っていた。元から無鉄砲な女、それが恋に盲いたら、何をやらかすか。きっと、性覚を観珠寺から逃がそうと試みるだろう。やりかねない。それを阻止するのが、廷臣としての私の義務だ。だがしかし、性覚を護送し、観珠寺へ牢籠するのは、私の関係できる事ではない。どうするか。
 そのうちに夜は更けた。清涼殿の殿上の間から、南の夜空を眺めていた私は、ふと、南の遠くの空が赤く燃えているのに気が付いた。深草と言えば、京洛の南だ。私は清涼殿を飛び出し、検非違使庁へ走った。ここに一月半前から、帝の特別の許可を得て馬を繋いであるのだ。
 検非違使庁は、大勢の武官でごった返していた。私は六位か七位の武官を捕まえて、
「この騒ぎは何だ?」
 武官は、
「観珠寺から、火が出たという噂が」
 私はすぐに、ピンとくるものがあった。この騒ぎに紛れて、晴子は性覚の救出を図るのではないか。
「わかった」
 私は束帯のまま自分の馬に乗り、深草を目指してひた走った。検非違使や近衛、兵衛府の者も、相前後して馬を走らせている。
 前方に、燃え盛る寺が見える。野次馬や里人を蹴散らしながら、私は寺に近づいた。寺門は閉ざされている。こうなったら、北側の山林からでも突入だ。私は馬を駆って、山林に分け入った。北側から迫ってみると、見よ、燃え盛る堂宇の炎に照らされて、墨染の僧衣を被った小柄な人影と、赤い被衣を被った長身な人影と。と見るうちに、僧衣を被った人影は馬に乗り、東の門を目指して走ってゆく。後に残された人影は、よたよたと歩いて、西側の門へ向かう。あれが性覚だ。女に見せようとしたって、私にはわかる。性覚と晴子は、背丈が一尺も違うのだ。
 野次馬や検非違使は、東の方へと動いていく。晴子が僧を装って、東へ逃げてみせたのに眩惑されたのだ。私だって、もし晴子が僧衣を被って、単騎逃げ出したとしたら、性覚と見間違えたかも知れない。しかし私は、晴子と性覚が一緒にいる所を目撃したのだ。五尺に足りぬ晴子と、六尺近い性覚とを、見間違えようか。
 私は人目に付かぬ山林を突破しつつ、西へ逃げる性覚を、即かず離れず追っていった。少し行ったところに牛車が停まっている。皇太后宮の車だ。何故、こんな所に皇太后宮の車が? 牛飼童は、性覚を牛車に押し込んだ。
 ふむ。晴子は性覚を、伏見の院御所か、或いはどこか別の所へ、逃がす積りらしい。だが私は、そうはさせぬぞ。私は走り出した牛車を、見失わない程度に距離を保ちながら追った。二十日余りの月が、東の山から昇ってくる。車はどんどん進んで、川辺の山荘の前で停まった。これは宇治の別院と呼ばれる離宮だ。門の外に二頭、馬が放してある。そうか、晴子は、謀叛僧にして放火犯性覚と、手に手を取ってここまで車で来、ここから馬で、どこかへ逃げようとしたのだろう。予定が変わって、性覚一人で来たのだが、それは却って好都合だ。晴子の目の前で、性覚を斬らずに済む……!
 牛車は性覚を降ろすと、今来た道を引き返してくる。私は道端の林の中に馬を入れ、牛車をやり過ごした。牛車が去ってから、山荘へ駈けつけると、今しも性覚が、一頭の馬によじ登り、馬を出そうとしている。追うだけだ。しかし私の馬は、内裏から走り続けてきて、すっかり疲れている。仕方がない。私は近くの木に自分の馬を繋いだ。その間に性覚は、一頭の馬に乗って、南へ向かって出発した。私は素早く山荘に駈け寄り、もう一頭の馬に乗ると、性覚の馬の後を追った。馬が悲鳴をあげる程鞭をくれ、ぐんぐんと脚を速めた。性覚は刀傷のためか、追手に目を向ける余裕もない。
 とうとう私は、木津川の川辺で性覚に追いついた。性覚の馬の左側に自分の馬を並べ、太刀を抜き払った。
「謀叛僧性覚、法により追捕致す! 覚悟!」
 固より私には、性覚を捕えて検非違使に引き渡す気はなかった。引き渡せば、何度でも、晴子は逃がそうとするだろう。恋に盲いた晴子には申し訳ないが、私は斬る。性覚を。二度と晴子が、逃がそうなどと思い立たないように。
 その時、性覚の馬は何かに躓いた。手綱を握る力も失せていた性覚は馬から振り落とされ、もんどり打って地面に転がった。被衣がまくれて、剃髪した頭が剥き出しになった。私はすぐさま馬を停め、性覚が落馬した所へ引き返した。私は馬から降りた。
 性覚には最早、立ち上がる力も残されていない。渾身の力を振り絞って顔を上げ、私を見上げた。その目には、私が今迄見てきたのとは違う、不思議な温かい安らぎがあった。
 ……それが何だと言うのだ。私は廷臣として、弟たる帝を害さんとし、烏丸殿に放火し、荷葉の女とかいう女を殺した、この謀叛僧を司直の手に引き渡す義務がある。しかし、司直の手に引き渡せば、必ずまた晴子は、性覚を逃がそうとするだろう。それを阻止するのも、法治国家の廷臣たる私の義務だ。となれば、択る道は一つ、……晴子、許せ!!
 私は太刀を振り上げた。しかし、私が太刀を振り下ろそうとして、一瞬ためらったその刹那、性覚は持ち上げた頭を、がくりと落とした。私は太刀を置き、性覚の頚に手を触れた。脈も、息もない。性覚は、死んだ。
 合掌した私の胸の内に、様々な思いが去来した。初めて性覚を見た時の、あの哀しい目の印象。晴子への告白を盗み聞きした事。帝を害せんとして果たせず、捕縛された事。晴子の希望が、私の目の前で潰えていった事……。
 さて、骸をどうするか。埋めるか。川へ沈めるか。放り出したまま、山犬や烏の餌とするのは些かためらわれる。穴を掘る道具はない。川だ。私は性覚の骸を抱え上げた。骸には力はなく、手足はだらりとしていた。ぐっと力を入れて抱え上げた時、懐から落ちた物があった。
 何だろう? 私は性覚の骸を地面に降ろし、懐から落ちた物を拾い上げた。黒ずんだ色の、小さな守袋である。金糸の刺繍は、皇室の象徴、菊花紋であった。私の胸の中に、雷霆の轟くように響き渡ったものがあった。
 伏見の院御所の車が差し向けられた事。その車が宇治の別院に入り、性覚は別院の門外に放されていた馬に乗って逃亡を図った事。これは、帝の父、伏見御所に移り住んでいる伏見院か、或いは大后の宮が、性覚の逃亡に手を貸しているのではないかとの推測を生ぜしめるものだったが、性覚が菊花紋の守袋を持っていた事で、推測は確信となった。性覚は、皇室と深い縁を持った身なのだ。そうに違いない。
 私は守袋の紐を解いた。中には、一束の、乾いて縮れた髪が入っていた。それだけでない、小さな結び文も。私は息づまる思いで、結び文を取り出し、広げた。月明りに照らされた文を見た瞬間、私は目が眩んだかと思った。文の筆蹟は、あの、左開きの蝙蝠に書かれていたのと全く同じ、私の父、伏見院の筆蹟だったからだ。
〈この文を開く時そなたは、そなたの父たりながら父たり得なかった私が、片時もそなたを忘れなかったことを知るだろう〉
 私の躯は激しく打ち震えた。性覚の父とは、帝の父、と同時に私の父でもある、伏見院だったのだ!! 性覚は、私の、血の繋がった弟だったのだ。その弟は、今こうして私の目の前で、謀叛人として、帰らぬ人となっている。知らなかったとは云え私は、その弟に生前、何一つ兄らしい事をしてやらなかったばかりか、一度ならず二度までも、太刀を振り上げさえしたのだ。今となっては、私の太刀が弟の体に触れなかったのが、唯一つの救いだ。
 私は弟の骸に縋り付いた。後から後から、止めどなく涙が溢れた。私は泣いた。最後の瞬間まで、弟である事を知り得なかった、今は亡き弟のために。
 次第に心が落ち着いてくると、私の思いはもう一人の弟、帝の上に及んだ。いずれ晩かれ早かれ、帝は院から、性覚が帝の弟であった事を聞くだろう。もし私が今すぐ京へ帰って、性覚が死んだと告げたら、帝は、性覚が弟であると知ると同時に、その弟がこの世に亡い事を悟らされるだろう。それは帝にとって、余りにも辛すぎる。それより、性覚が弟だと知らぬ帝に、私が性覚の死を報告すれば、それは必ず、院の耳に入る。それは性覚を片時も忘れず、性覚が無事逃げ延びるよう手を打った院には、余りにも酷すぎる。
 私は考えを決めた。性覚の死は、私一人だけの胸の内に秘めておこう。弟が、息子が死んだと知る悲しみを味わうのは、私一人だけで充分だ。帝にも、院にも、知らせるまい。そう、知られまい。そのためには、検非違使の誰もが見つけ出せないように、性覚の骸を隠してしまうしかない。どうするか。再び問題だ。埋めるか、川か。埋める道具はない。しかし川では、どこで浮き上がって、川岸に漂い着くかわからない。埋めよう。
 私は先刻通りがかりに見た、小さな民家へ行った。家の外に、鍬が立てかけてある。私はそれを持ち出し、川辺の現場へ戻った。道端に穴を掘り、性覚の骸を横たえた。院の文はきちんと元通りに結び、髪と一緒に守袋に入れ、守袋は性覚の手に握らせた。最後の最後まで、父に認められなかった性覚への、せめてもの心遣いだった。性覚も、わかってくれるだろう。まだ開いたままの性覚の瞳は、私が最初に見た時の冷たい哀しみではなく、死人の目である事を忘れさせるような温かい優しさに満ちていた。私はその瞼を閉じた。もう二度と見る事のない弟の死に顔を、私は墓穴の傍らに跪いたまま、じっと見つめていた。どうかこの弟が、極楽往生できますように。帝を害せんと企てた謀叛人であり、烏丸殿に放火した重罪人ではあっても、私はそう願わずにはいられなかった。兄として……。
 埋めてしまう前に、何か遺品のような物を取り分けておきたいと私は思った。俗体にある人なら、髪を一束切って持って行きたいところだが、僧体の性覚ではそうもいかない。私は、性覚が被っていた赤い袿の裾を一尺ばかり切り取って、懐に入れた。それから私は、鍬を取った。
 私は性覚の骸を埋め終わると、その低い土饅頭に今一度の合掌を捧げた。私の弟性覚は、誰からも忘れ去られたまま、この木津川のほとりで、永遠の眠りに就くのだ。
・ ・ ・
 私は一頭だけになった山荘の馬に乗って、別院へ戻った。馬を門外に残し、自分の馬に乗り換えて、北へ北へと進んだ。
 夜半もとうに過ぎ、月が西空に傾く頃、私は疲れ果てた馬に乗って、大内へ帰り着いた。大内では、観珠寺炎上、性覚逃亡という大事件のため、まだあちこちに灯が点き、検非違使庁は大騒ぎであった。
 帰り着いてすぐ、私は帝に召された。
「検非違使庁の者が、五位の束帯を着た騎馬の者が観珠寺へ駈けつけたと申しておるが、そなたではないのか」
 私は、最低限の事だけは話そうと決心した。
「いかにもその通り、私です」
「何故そのような事をした」
「観珠寺が炎上したとの報を聞き、これは何か変事が起こったに相違ない、それならば私でも、何かの役に立てるかも知れぬと思ったのでございます」
 帝は溜息をついた。
「そなたは侍従ぞ。検非違使に立ち交じって駈け回るべき身ではないのだ」
 これは確かに私の越権行為だ。
「恐れ入ります」
 帝は少時、黙って私の顔を見つめていたが、やがて苦笑を洩らした。
「まあ良い。それで何か、私に報告するような事はないか」
「は。今迄のところ、どのような報告が入っているのでしょうか」
「うむ。観珠寺炎上に続いて、謀叛僧が馬に乗り、東の門から駆け出した、との報が入っておる」
 私はこの報の真相を知っている。
「次に、その馬から振り落とされたのが、僧衣を着てはいたが、実は先頃烏丸殿炎上以来行方不明となっていた晴姫だったという報だ。何故、晴姫が観珠寺から馬に乗って駆け出してきたのか、私には全くわからぬ。今のところ、これだけだ。他に付け加えるような報告はあるか」
 そこで私は進み出た。夜の事とて小声で、
「主上、これは公式報告ではありません。しかし、先に仰せられた報告など、これから私が奏す報告に比べれは取るに足りません」
 帝は目を輝かせた。
「何と、それ程の重大な事か」
「は。私が観珠寺に近づきますと、西の門は閉ざされておりました。そこで、北側の山林に分け入って境内に近寄ってみますと、堂宇の陰になって南側からは見えぬ所に、二人の人影が見えたのでございます」
「二人の人影、とは、誰と誰か」
「一人は僧衣を被り、一人は女物の赤い被衣を被っておりました。これを見て私は、晴姫と性覚であると、直ちに悟りました。僧衣を被った方は五尺に満たぬ小柄な者、被衣を被った方は六尺近い長身の者でした。僧衣を被った方が、性覚を装った晴姫であった事は、申す迄もありますまい」
「げにも」
 帝は深く頷いた。
「僧衣を被り、性覚を装った晴姫は、馬に乗り、東の門へ向かわれました。これはつまり、御自分が性覚であるかのように装って、追捕の者の目を東へ引きつけ、その隙に性覚を逃がそうとなさったと、私には思われます」
「ちょっと待て。何故晴姫は、性覚を逃がそうとしたのだ? 謀叛人の逃亡を助ければ、自身にも罪が及ぶ事を、知らぬとは思われぬが」
 帝の突っ込みは、私とて同じ事を考えていた事である。私にはその動機はわかったが、しかし、その程度は理解の域を越えていた。
「これは臆測ですが、晴姫は性覚に、恋をなさっていたのではないでしょうか。ただそれだけの理由で、謀叛人の脱走に手を貸すか、というのが、私にはどうも理解できないのですが」
「……げに恐ろしきは、恋する女の心よ」
 帝は深く慨嘆した。私も同感である。
「後に残された、被衣を被った性覚は、西の門を出て、近くに停めてあった、伏見御所の車に乗りました」
 帝はいきなり遮った。
「伏見御所か!?」
「左様です」
「……そうであろう。晴姫は一旦、伏見御所へ帰ったのだからな。そして再び車を出し、その車に性覚を乗せ、いずこへか逃がす積りだったのであろう」
「御意にございます。私は騎馬で、車を追ってゆきました。やがて車は宇治の別院に着きました。性覚はここで車を降り、別院の門外に繋ぎ忘れたままになっていた二頭の馬のうち一頭に乗り、さらに南へと進みました」
「ちょっと。車といい、二頭の馬といい、どうも引っかかる。まるで父院か母宮が、性覚の逃亡に手をお貸しになっているようだ」
 帝の感想は極めて鋭い。私は廷臣として、ありきたりの事を言った。
「これはしたり。縦え院、大后の宮と言えど、謀叛人の逃亡に加担なされば、罪は免れ得ませぬ。そのような事をなさるとは思えませぬが。
 ともあれ私は、大内から乗って参った馬がすっかり疲れておりましたので、そのもう一頭の馬に乗り、性覚を追いました。しかし、私の乗った馬は足の遅い馬でした。走れども走れども性覚には追いつけず、木津辺りまで追って、諦めて引き返しました」
 最後の所だけは嘘を言った。
「そうか。性覚は、南へ逃げたのか」
 帝は呟くように言った。
「もうよい。退ってよろしい。大儀であった」
 私は深々と一礼して退出した。
・ ・ ・
 性覚追捕の指揮を執ったのは、信孝であった。しかし、東の門から逃げ出した僧形の者を追うのに全勢力を集中し、私から見れば当然ながら、追捕は空振りに終わったのであった。すると帝は、もっと四方八方に追捕の手を広げようと、六衛府に総動員をかける姿勢を示した。その一方で私を召して、私の見聞した事は全て他言無用、と固く釘を刺したのだった。
 それから五日後、伏見御所で静養中だった伏見院が、突然参内した。帝は、信孝と私を伴って、院に対面した。何のために院が参内したのか、私にはわかった。
「敦仁。ここ数日、性覚の追捕を大々的に進めているようだな」
 病躯を押して参内した院の言葉は弱い。
「はい」
「私は性覚の事について、そなたの知らぬ事を知っている。今迄、話さずに来たが、今こそ全てを話そう。心して聞くが良い。岩倉宮正良、右近少将信孝、そなた等は敦仁の側近、なればこそ、そなた等にも聞かせよう。軽々しく他言するでない」
 私達は黙って一礼した。
「性覚は、敦仁、そなたの弟ぞ」
 帝の肩が、ぴくりと震えた。
「私は十八年前、東洞院のそなたの母の邸に退っていた折、そなたの母の異母妹と通じた。その女は身籠り、邸から姿を消した。それから十年余り、私はその女の腹に儲けた、顔も見ぬ子の事は、半ば忘れかけていた。七年前、そなたが重病に臥し、万一の場合誰を東宮に立てるかを巡って、宮廷が四分五裂した事があった。その時、法成寺入道が私に、私の子を預り申していると言ってきた。私はその子と、行幸先の寺で会った。その子は十一歳になっていた。吉野の山里で、幸せに暮らしていたであろう。幸せにしたい姫が一人いると言っていた。世の中の事がわかっていない姫なので、身分も官位も考えていないらしい、でも、その姫に相応しい身分であれば嬉しい、と言っていた。私は思った、この子は、宮廷社会で生きるには余りにも無垢すぎる心の子だと。だから私は、その子を子とは認めなかった。我が皇子は敦仁親王だけだ、と。だが法成寺入道は、まだその子を利用できると踏んでいたらしい。そこで私は、この子を吉野へ帰すことを諦め、宮廷の争いと無縁な世界へと導いた。東光寺に於て、落飾させ、覚海僧正に託した。それが、性覚だ。それから七年、私は性覚に、一言の言葉もかけず、一瞥の眼差しも与えなかった。与えることができなかったのだ。それは、性覚のために、良かれと思ってした事であったが、性覚は私を、どれ程か恨んでいたであろう。敦仁、そなたが性覚に、教仁を落飾させるよう命じた夜、性覚は私に、七年目にして初めて言葉を発した。『父上、貴方の御子は最後迄、敦仁親王只一人なのですね。敦仁親王を守るために、また一人、その手で御子を捨てられるのですね』と。性覚はあの時、教仁を我が身に重ね、敦仁を私に重ね、敦仁の為に捨てられる教仁の悲しみを思い、敦仁、そなたを、他の皇子を次々に犠牲にし、全てを一手に得たそなたを、深く恨んだのだ。そなたが即位してすぐ、大后の宮の枕辺にあった、『新帝恨参候』の呪詛状、あれは、性覚の仕業だったのだ。そして先日、一人召された性覚は、仁寿殿に於てそなたを害せんとして果たさず、謀叛人として捕えられたのだ」
 院は口を噤んだ。私達三人は、じっと石のように押し黙ったままだった。
 性覚の目の哀しさは、それが原因だったのだ。原因は私も、既に思い当たってはいたが、このような背景があったのだ。権門に担ぎ出された悲運の皇子、それが性覚であり、教仁親王であった。権門に担ぎ出されたために、十一歳で落飾させられ、父に受け容れられず、ある姫――きっと晴子であろう、その姫をも失った性覚。権門に担ぎ出されたために、僅か七歳で落飾させられ、兄に見捨てられた教仁親王。その二人と、私との運命の差は、どこにあったのだろうか。そう、権門と結びつかなかった事である。私の継父は播磨守であり、権門の末端にも連なる事なき人である。それ故に、権門に担ぎ出される事なく、岩倉宮の孫として、一介の王族として、政界のごく片隅に、小さな安住の場を見出し得たのだ。
 院は続けた。
「性覚が捕えられるとすぐ、晴姫は伏見へ来た。どんな罪を蒙ろうとも性覚を逃がす、と言った。何が晴姫に、そのような決心をさせたのか、私は不思議に思った。すると晴姫は、昔自分が吉野にいた時分、吉野君と呼んでいた少年と、とても仲が良かった、将来を約束し合った、と言ったのだ。それで私は、性覚が初めて私に会った時、幸せにしたい姫がいると言ったのが、晴姫の事だったのだと悟った。私には晴姫の思いの全てがわかったとは思えない、だが私とて、性覚は息子だ。もし出来るものなら、性覚の罪を免じたかった。しかし帝の父であっても、それは叶わぬ。御所の車を一輛盗まれた事にし、宇治の別院の門外に馬を繋ぎ忘れておく事、これが私にできる全てだった。私は観珠寺へ向かうという晴姫に、性覚の髪、落飾せしめた日以来、肌身離さず持っていた一束の髪を託した。性覚がこれを手に取って、私の心中の一端をも察してくれる事を願った。
 次の日別院に使いを出すと、門外に繋ぎ忘れてあった馬が一頭、いなくなっているとの報せを持って帰ってきた。きっと性覚は、その馬に乗って、どこかへ逃げ延びたのであろう。幼い日を過ごした吉野の地へか、或いは私の知らぬ、どこか他の地へか。そこで性覚は、私の皇子としてでもなく、律師性覚としてでもなく、ひっそりと静かに、生きていくであろう。そう願いたい、あの子に、父らしい事は何一つしてやれなかった者として……」
 院は口を噤んだ。帝は肩を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし続けていた。自分に刃を向け、そのために自分の手で処断した謀叛人が、自分の実の弟であった事、自分の弟であったが故に、自分を恨み、自分を害さんとした事、帝にとってそれらは、初めて知る、しかしそれを知ることは余りにも酷すぎる事実であった。しかしながら帝も、院も、もう一つの、もっと酷く悲しい事実は知らない。帝も院も、性覚が既にこの世にない事は知らない。それを知っているのは、私だけだ。私だけが、帝の弟はこの世にない事を知っている。性覚が、帝の弟が、そして、私の弟が。しかしこの事実は、院にも帝にも知らせるまい。院に、性覚の父に、性覚の父たり得なかった事を悔い、性覚が生き延びている事にせめてもの望みを託しているこの人間に告げるには、余りにも酷い、悲しすぎる事実だ。十八年間、父でありながら父たり得ず、今やその目に見えぬ所へ去った息子が、自分の手の届かぬどこかで、ひっそりと生き延びている事に、微かな希望を抱いている人間に、その希望を打ち砕く言葉を聞かせる事が、誰に出来ようか。帝にも、知らせるまい。何もかも恵まれた自分に比べ、何もかも恵まれなかった、自分と余りにも違いすぎる境遇に沈淪し、それ故に自分を、実の兄を深く恨んでいた性覚。その恨みと悲しみの果てに、実の兄である自分に刃を向け、それ故に実の兄によって、謀叛人として処断された性覚。帝はその性覚が、自分の実の弟である事を、権力によって処断した後まで、知らなかった。もし知っていたら、性覚が自分に刃を向け、自分によって処断される前に、何かしてやれたと思っているに違いない。そんな後悔に苛まれている帝は、もし出来る事ならば、性覚を見逃し、どこか自分の知らない場所で、ひっそりと余生を送らせてやりたいと、切に願っているに違いない。それすらも、恐らく叶わないであろう。事がここまで大きくなり、公権力による追捕が進んでいる今。教仁親王が陰謀に担ぎ出された時は、落飾によって罪を免れさせる事ができた。しかし性覚は、僧籍にある者である。どう仕様もない。そんな思いに苦しんでいる帝に、その性覚は既に幽明境を異にしていると告げる事は、私には、帝の兄として、性覚の兄として、到底できない。私だって、性覚の死を信じたくない。私の目の前で性覚が息絶えたのは、夢だったと思いたい。しかしあれは、厳然たる事実なのだ。私の目の前で事切れたこと、私の指先に、脈を触れなかった事、私の掌に息を感じなかった事、私の腕の中で、微動だにしなかった事、そしてその性覚の骸を、木津川のほとりに埋めた事、それら全てが、否定できぬ事実なのだ。私にとって、たった一つ救いがあるとすれば、私の太刀が仁寿殿で性覚を斬ったのでなかった事、私の太刀で瀕死の性覚に引導を渡したのでなかった事、これだけであった。一度は太刀の切先が几帳に引っかかって信孝に一歩出遅れ、今一度は太刀を振り下ろす前に性覚の息が絶えた。結局私の太刀は、二度まで振り上げられながら、一度も性覚に触れる事はなかったのだ。それだけが、私にとっての救いであった。もし私がこの手で、そうと知らずとは云え、実の弟を斬り、実の弟の生命を断ったのだったとしたら……余りにも救われなさすぎる!!
 ――院が帰っていった後で、帝は私と信孝に向き直り、悲痛極まりない声で言った。
「もし出来る事なら、性覚の捜索は打ち切りたい。しかし、兄弟の情だけで、逃亡した謀叛人の捜索を打ち切ることは、帝としてできぬ。そこで、信孝、辛いだろうが申しつける。性覚を取り逃がした責任を取るという形で、暫く謹慎してくれぬか。そして結局、性覚は見つからなかったという事にして、うやむやにしてしまいたい。それが、それが、……父院の御為にも……」
 帝は言葉に詰まって、口を噤んだ。私にはわかる、帝の思いが。実の弟を追捕し、謀叛人として断罪したくないのが。帝の、同時に性覚の兄として。
「承知仕りました。私が謹慎仕って、それで性覚、いいえ、御弟宮が、院の御望み通りどこかで、静かに生き延びられるのなら」
 信孝は深く平伏した。
「……許してくれ……」
 帝は肩を震わせた。
「これは……勿体ない御言葉にございます」
 信孝は、一層深々と平伏した。
 帝は私を見て、ふと寂しそうな微笑を浮かべた。
「正良、これで、うまくすれば性覚は、いや、弟は、追捕の手を免れられるだろう。そして、私の目にも入らず、耳にも聞こえず、手も届かぬどこかで、ひっそりと暮らすことができるだろう、晴姫の思い出を胸に。同じ空の下のどこかで、そうやって生きていてくれれば、私としては充分、嬉しい。縦え二度と会えなくとも……」
 ああ、帝よ、貴方のその願いは、私にも痛いほど良くわかる。しかし、私は、貴方のその願いが、もはや永遠に叶えられぬ空しい願いである事を、知ってしまっている。それを知っていて、その願いの空しい事を黙っているのは辛い。あの事を知らない貴方のその微笑みは、私の胸を鋭く抉る。しかし、貴方のその微笑みを、私の言葉を以て打ち砕き、悲嘆と絶望に変える事は、私にはできない、あの事を貴方に知らせるのは、私にはできない!
「失礼仕りますっ!」
 私は溢れる涙を拭おうともせず、荒々しく立ち上がると、後も見ずに清涼殿を飛び出した。帝の顔の見えない所、紫宸殿であろうか、そこに私は蹲り、男泣きに泣いた。
 性覚、哀れな弟! もし魂魄がまだこの世にあるのなら、私の胸の内を聞いてくれ。私はお前の死を看取った、この世に唯一人の人間だ。私はしかし、その事、お前が既にこの世にない事を、お前の父や、もう一人の兄に告げる事ができない。父も、もう一人の兄も、お前が生きている事を信じ、願っている。その父と兄に、お前が生きてはいない事を告げる事は、私にはできない。したくない。性覚、私は正しいか? 間違っているか? 私はお前の真実を、父にも、兄にも、お前を最後まで恋し続けた晴子にも、決して告げない。世の中には、知らない方がよい真実というものがあるのだ。お前なら、わかってくれるだろう、その事を、そう思った私の心を……。
(2000.11.4)

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