岩倉宮物語

第二章
 翌日、伯父は早速、女房達に命じて倉から、冬物の装束を山のように持って来させた。直衣と狩衣のそれぞれを、上から下まで一式、十揃いほども持ってきて、どれでも好きなのを選んでくれ、と言ってくる。装束を納める唐櫃も、漆塗りに蒔絵を施した物を二つ、倉から持ってきた。
 更に次の日、東の対の北側に私の部屋が整った、と知らせに来た。私は泰家の部屋を引き払って、私にと言って与えられた部屋に移った。部屋中に畳が敷かれ、火桶、几帳、燭台、鏡台、文机、二階厨子、屏風といった調度品が置いてある。どれ一つ取っても、財産だけはあると広言している伯父が、金に糸目をつけずに買い求めたといった感じである。好意は有難いのだが、……どうもこういう感覚の人とはねえ……。それでも型通りに礼を述べに参上すると、
「礼には及ばんよ、身内として当然の事をした迄じゃ。それより正良、明日の夜この邸に、左大臣様がお忍びでおいでになる。そなたにも目通りを許すとの仰せじゃ、その積りでな」
 私のような無冠無位――要するに貴族であっても、官位を持っていなければ庶民と同じということだ――の者が貴族社会に出るためには、左大臣のような有力な貴族の後押しが必要なのである。そのための準備の一つとして、私自身を左大臣の目に入れておく必要があるという事なのだろう。
 翌日、夕暮れ近くなると、私は先日貰った衣の中から、渋い色合いの直衣を選び、伏籠に掛けて香を薫きしめた。薫香などという物も、ここへ来て初めて知った物の一つである。それで、香の配合や香炉の使い方などは、熟練した女房に教わることになった。教えてくれたのは、例によって美濃である。私専属の女房を雇い入れるまで、少し日数がかかるので、それまでの間は泰家付きの女房の美濃が、私の身の回りの世話をすることになったのだった。それは伯母が言い出した事らしいが、泰家はそれに賛成したらしい。当の美濃の方は、私の側近くにいられる事に浮かれ上がっている様子が見え見えである。暫くの間私付きになると決まった日、女房部屋で美濃が同僚に、
「私、小太郎君様のお付きになったのよ!」
と得意気に吹聴しているのを、偶然近くを通りがかった折に耳にしたのだ。思わず立ち止まって聞き耳を立てていると、他の女房達の声も聞こえてきたが、それときた日には、
「小太郎君様って、あの、すっごい美男の御方でしょ?」
「羨ましいわぁ! あんな綺麗な御方のお付きですって」
「あの方、本当に美男よねぇ。一目見ただけで、クラクラっときちゃう」
 いやはや、泰家の言った通りだ。こんな噂話より他に、する事がないのかね。
 さて夕暮れ時、私が新調の直衣を着終わって、身支度を整えた頃、一人の女房が来た。
「大殿様が、お呼びでございます」
 私は言った。
「わかった。すぐ参ると申し上げてくれ。
 美濃、手燭はあるか。先導を頼む」
 美濃は、嬉々として燭台の火を手燭に移した。こんな事もあろうと思ってか、いつも以上に盛装しているのが、何となくわざとらしくて、今一つ好感が持てないのだが、今のところは、馴れ馴れしくならない程度には親しくしておこう。
 私は、美濃の先導で寝殿へ向かった。寝殿へ来てみると、もう台盤が並べられていて、下座の方に伯父が坐っている。
「おう、来たか。そなたの席はここじゃ」
 伯父は私を見ると、自分の隣の席を指した。私は会釈して、そこに伯父と並んで坐った。
 そのうちに、廊下を人が歩いてくる気配がして、手燭を持った女房の先導で、二人の貴族が入ってきた。私は、伯父よりも早く床に手を突き、深々と頭を下げた。
 上座の席に、二人の貴族が坐った気配がした。伯父が頭を下げたまま、口上を述べる。
「左大臣様には御健勝にあらせられ、祝着至極に存じ奉ります。某の勝手なお願い事にて、わざわざ拙宅へ御光来を賜り、恐れ入る次第にございます」
 左大臣の声が聞こえる。
「いやいや、今宵はお忍びじゃ、そう固苦しくされては肩が凝る。面を上げよ」
 伯父に続いて私も顔を上げた。上座の正面に坐っているのが、左大臣らしい。齢の頃は七十近いか。伯父ほどの恰幅の良さはないものの、貴族社会でも最高に近い顕官にある身と思ってみると、並々ならぬ威厳を備えているように見える。
「泰親には成功や荘園の寄進や、何かと借りがあるからのう、他ならぬ泰親の頼みとあらば、聞き流す訳にもゆくまいて」
 左大臣は言う。
(筆者註 有力貴族が寺社の建立などに際し、財力のある受領に請け負わせ、見返りに官職を斡旋したり位階を上げたりするのを成功という)
 どうもこの左大臣という人、高い地位にある割には言っている事が卑しい。宮家の血を引く私を、貴族社会に出すというのが、こんな取り引きめいた事として行われようとしているのか、私は少し幻滅した。人間、貧すれば鈍すと言うけれど、富めば富んだなりに、こういった事どもに染まってゆくのだろう。
「そこなる若者、名は何と申す」
 左大臣は私を見、扇で指して尋ねる。私は、内心の思いとは別に、ここで左大臣に好印象を与えねば、という計算が働いて、下腹に力を入れ、
「正良と申します。実父の知れざる身故、姓は知りませぬ。縁あって、伯父播磨守泰親殿の掛り人となりたる者にございます」
 一語一語確実に、丁寧に述べ終わると、深々と一礼した。左大臣は扇で掌を叩いて、
「中々の美男じゃの。宮中へ出仕させて、女官達を惑わせてみるのも面白かろう、のう泰朝、ほほほ」
 横の方に坐っている、伯父の弟を見て笑う。私はむっとした。
 一体何を考えてるんだ? そりゃ確かに私は、左大臣から見れば家司の兄の妻の、そのまた甥という、殆どどうだっていい一介の人間にすぎない。宮家の出と言っても、岩倉宮の娘の私生児という、これまた吹けば飛ぶような末端の人間だ。しかし、だからと言ってその人間の一生を左右する重大事を、この程度の認識しか持たずに扱って良いものか。そういう姿勢が、気に入らないのだ。
 大体、伯父も伯父だ。荘園の寄進やら何やらで左大臣に取り入って、と言うか貸しを作っておいて、それで左大臣に、私の出仕の斡旋を頼むとは何事だ。勿論荘園の寄進やら何やらは、私がここへ転げ込んでくる前からやっていたんだろうから、私を出仕させるためにそれをやったとは言えないが、そういう事を私の出仕との、云わば取引材料に使うとは、つまり私の出仕そのものを、荘園の寄進と同程度の事としか考えていない証拠ではないのか。
 すっかり気を腐らせた私をよそに、左大臣と伯父兄弟は、飲みかつ食い、取りとめのない雑談をし、笑いさざめいている。
「正良、だったな」
 不意に左大臣の声。
「は、はい」
 私が慌てて返事すると、
「酒が、注がれたままではないか。飲んでおらんのか」
「は」
「今宵はそちのための宴ぞ。飲まぬという法はあるまい」
 何が法なもんか。しかし、ここで飲まなかったら左大臣の心証を害するだろう。ままよ、とばかり私は杯を取り、生まれて初めての酒を、ぐいと飲み干した。左大臣は上機嫌で、
「中々飲みっぷりも良い。さ、もう一杯」
 正直言ってこれは、何杯も飲みたくなる物ではない。だが控えていた女房が進み出て来て、私の杯になみなみと注いでしまった。やれやれ、だ。
 三杯か四杯ほども飲むと、顔が上気してきて、いよいよ以て変な気分だ。私は隣に坐っている伯父に囁いた。
「どうも気分が悪くて。ちょっと退がらせて下さい」
 只でさえ左大臣や伯父に腹を立てて、気分を害しているところへ、強いられて酒を飲んで、気分の良かろう筈がない。私は立ち上がり、来客二人に軽く会釈して部屋を出た。左大臣は、私が中座した事を特に気に留めてもいないようだ。
 部屋の外は、冬の夜の事とてかなり寒い。だがその位の方が、酒と炭火でぼうっとした頭を冷やすには丁度良い。私は女房もつけず、一人でぶらぶらと廊下を歩き回った。
 ふと気付くと、私は西の対屋に続く廊下に出ていた。何の気なしに西の対屋を眺めた時、女房の声が聞こえた。
「まあ姫様、この寒いのに簀子(母屋の外周、廊下に相当する部分)にお出になって、お風邪を引きなさったら大変ですわ」
 私は我知らず、一歩踏み出した。西の対屋の南側の簀子に、坐っている女がいる。その時、人の気配を感じたのか女は振り返った。月明かりに照らされた女の顔は、それ迄私が見た何物よりも鮮明に、私の瞳に灼き付いた……。
・ ・ ・
 その女の貌が、私の心に深く刻まれたのは、飲み食いしながら碌でもない事どもを喋り合っている、上品とは言いかねる男三人――どれ程の権門にもせよ、私という人間を決して本気で考えてなどいない左大臣、その左大臣の顔色を伺い、媚び諂うより他に能の無さそうな伯父の弟、財力を恃んで左大臣に取り入り、その貸しに対する取引材料としてしか私を見ていない伯父。お偉方、幇間、金の亡者――に囲まれた私の心が、善なるもの美なるものを、我知らず渇望していたからかも知れない。だが、それを差し引いても、その女の貌は、一目見た私の心を捉えて離れない美しさに満ちていた。細面に端正な面立ち、そこはかとなく漂う涼やかさを、冬の月光が一段と引き立たせ、この世のものとも思えぬ凄味をすら醸し出していた。
 気が付くと、女の姿は簀子から消えていた。ほんの一刹那だったのか、それとも一刻(二時間)ほども経っていたのか、それすらもわからない。今や西の対屋は森閑として、人の気配も感じられない。
 果たしてあの女は、現身の人間だったのだろうか。月の光は人の心を惑わすという、惑わされた私の心が造り出した、幻影ではなかっただろうか。現実に存在している、生身の人間であると納得するには、あの女は余りにも繊細すぎ、余りにも清楚すぎ、余りにも美しすぎた。
「……ふえぇくしゅ!」
 いきなり静寂を破った嚔に、私は我に返った。冷たい夜風が頬を撫でてゆく。廊下に落ちる私の影は、かなり移ったようだ。どれ位の時間が経っていたのだろう。
「まあ小太郎君様、こんな所においででしたの?」
 背後から美濃の声がして、早足の足音が近づいてきた。振り返ると美濃が、手燭を手に歩み寄ってくる。
「探しておりましたのよ。この寒いのに、お風邪でもお引きなさったらいけませんわ」
 美濃は手燭を置き、一番上に着ていた唐衣を脱ぐと、私の肩に着せかけた。
「あ、有難う」
 私は口籠った。
「大殿様がお呼びですわ」
 美濃は手燭を持ち、先に立って歩いてゆく。私もその後に続いて、寝殿へ戻った。
 寝殿では伯父一人が、黙々と酒を飲み、箸を動かしている。私が入って来たのを見ると、黙って箸で、私を招き寄せた。
「左大臣様は、先程お帰りになった。そなたは存外、酒が弱いな」
 伯父は、いつもよりは暗い声で言う。
「初めてなものですから。私が中座しました事、左大臣様のお気に障らなければ良いのですが」
「案ずるには及ばん。左大臣様は、そういう事には鷹揚な御方だ。そなたの出仕の件、悪いようにはせぬと仰せになった」
「有難うございます」
「儂に礼を言わなくともよい」
 伯父は瓶子の酒を、最後の一滴まで杯に注ぐと、ゆっくりと飲み干してから言った。
「ただな正良、宮中に出て人と交わる事になれば、酒宴の機会も増えようぞ。三杯や四杯飲んだくらいで中座するようだと、見くびられて損をするかも知れん。酒は飲めるようになっておいた方がいいぞ」
 と言った伯父の声は、いつもの陽気な、親分肌の伯父の声であった。
・ ・ ・
 冬の夜更けに、一刻ばかりも廊下で夜風に吹かれていた私が、風邪を引かなかったかと、伯父も伯母も、泰家までもが気にして、翌朝早くから様子を見に来た。しかし私は、自慢じゃないが九条の家で、衣一枚衾一枚で十八回冬を過ごした身だ。ちょっとやそっとの事で風邪を引くような体ではない。それよりも私としては、昨夜見た夢か幻のような女の俤が一瞬たりとも目の前を離れず、そのために一睡もできなかった事の方が、心身共に応えていた。勿論、あの女が誰なのかということは、誰に問い質す迄もなく、伯母の話した事ではっきりと分かっていた。伯母の娘、私の従姉その人である。姫と呼ばれるべき人も、この邸には従姉を措いて他にいる筈がない。
 しかし、あの女が従姉だとわかったところで、それで安心して、何も考えずに眠りに就けたかと言えば、断じて否であった。どころか、夢でも幻でもない、現実に存在する人間であるとわかると、一層鮮かにその俤が瞼の内に浮かんで、頭の中から振り払おうとしても全く離れず、他の事どもに考えを紛らそうとしても、他の事どもの方が頭の中から吹き払われてしまい、全く如何ともなし難いのであった。夜はどんどん更けてゆくのに、頭は一切の睡魔を寄せつけず、目は異様に冴えて、全く寝付かれない。そうしているうちに、朝になってしまったのだ。
 朝一番に、私の様子を見に来たのは、伯母であった。私が着替えも済まさないうちに、先導の女房を追い越しそうな勢いで、あたふたと部屋へ入ってくると、
「正良、具合は如何です?」
 余りにも唐突だったから、面喰らってしまって落ち着いた返事もできない。
「如何、って……べ、別に、どこも悪くないですけど」
 私の返事を聞いても伯母は、まだ安心できないといった様子で、手を押し揉みながら、
「夕べはお酒を勧められすぎて、気分が悪くなって中座、しかも夜風に当たって、風邪を引いたと……」
 私は苦笑した。
「誰がそんな事を申したんです。酒を飲み過ぎて気分が悪くなったというのは、酒を飲んだのが昨夜が初めてだったから、酔ったのと気分が悪いのと勘違いしただけですよ。夜風に当たったって、それ位で風邪を引くような体じゃありませんから。要らぬ御心配をさせて、申し訳ありませんでした」
 いつもの私に戻って、礼儀正しく詫びると、伯母もようやく安心したのか、
「風邪には、お気をつけて」
と言って部屋を出て行った。と思う間もなく、ドンドンと足音がして、伯父が現れた。
「正良、風邪を引いたと聞いたが、具合はどうだ? 寝とらんでいいのか?」
 朝っぱらから夫婦でお出まし、と来るか。私は内心、やれやれと思いながらも、風邪を引いてはいない、心配させて済まなかった、と答えた。伯父は帰りしなに、
「炭代なんか気にせんでいいぞ」
 同じ事を言うのに、伯父と伯母ではこうも違うものかね。
 朝餉の後で、泰家が来たが、これがまた入ってくるや否や、
「風邪引いたんだって?」
 もうこうなると、きちんと話して、心配させた事を詫びる気にもならないが、不愛想にあしらうのは得策ではないから、伯父に対して言ったように泰家に対しても言い、さっさと追い返した。
 私が悪酔いしたの風邪を引いたのと、邸中に言いふらかしたのは、美濃の他にはいるまい。私は美濃を呼んで言った。
「私のお付きになって嬉しいのはわからなくもないがね、風邪を引いてもいないのに、引いた引いたなどと言いふらさないでくれ」
 多分この時私は、一睡もしていないためもあってか普段よりかなり険しい顔になっていたのだろう。美濃は突然興奮して、
「わっわっ私を、お叱りになるとはあんまりですわっ! 私は、私は、小太郎君様のお為を思って、北の方様に申し上げただけですのに、言いふらしたなんて、あんまりなお言葉、えっえっ」
といきなり顔を覆ってしまう。私の方が弱って、
「叱ってなんかいないって。言いふらしたって言ったのは、私の誤解だ、だからそう、泣かないでくれよ、な、頼むから」
と美濃を宥めつつ、美濃の肩に手をやった途端、只ならぬ気配を感じた。素早く振り返ると、柱や壁代の陰から、何人かの女房が覗いている。一体何なんだこいつらは!?
「見せ物じゃねェ!」
 と怒鳴りたいところだが辛うじて抑え、手を引っ込めて体裁を整え、
「何か用かな」
 まずい、声が上ずっている。女房連中は、衣ずれの音を立てて去ってゆく。あの噂好きな連中の事だ、碌な事になるまい。
 昼頃、廊下で泰家と出会った時、泰家は私の耳に口を寄せ、
「今朝君、部屋の真ん中で美濃と抱き合ったんだって?」
 私はもう少しですっ転ぶところだった。
「君もなかなかやるね、僕はまだ美濃の、手を握った事もないのに」
 本気で頭痛がしてきた。話に尾鰭がつくとは、こういう事を指すのか。肩に手をやったのを、どう見間違えたら抱き合ったと見えるんだ。ああもう、これだからああいう連中は!
 まあ、あんな連中には勝手に言わせておくが良かろう。根も葉もない噂なんて物は、放っておけばそのうち消える。ま、一つの教訓ではあったな。私のように女房連中の関心の的になっている男は、迂闊な噂を立てられないよう行動に気をつけなければいけない、という事だ。それよりも……。
 美濃との事が頭の中から去って行くと、またしても従姉の俤が浮かんできた。何故こんなに、あの俤ばかりが私の脳裏から離れないのだろうか。理屈で幾ら考えてもわからない。目を閉じて、周りの物どもを目の中から追い払ってしまうと、従姉の俤は一層鮮明に、目の前に蘇ってくる。初めに見た横顔。彩りに乏しい冬の月光に照らされた膚は、血の通う生身の人間の膚とも思えぬほど白く、耳から項を覆って背中へ流れる髪の、夜の闇のような黒さによって、一層際立っていた。髪は居丈よりも長く、と言って嵩張りすぎるのでもなく、また一筋の乱れもなく、上等の擣衣のような落ち着いた深い艶があった。
 私の気配を感じてか振り返った従姉の顔。涼やかな、切れ長の目。それでいてその瞳は、私を音もなく、優しく包み込むような、温かい光に満ちていた。あの瞳の光は、従姉の心の優しさ、温かさの発露であるに違いない。私はそれ程多くの人を知っている訳ではないが、人の心というものは目に表れると信じている。まなざしの硬い人、瞳の光の冷たい人、目つきの卑しい人、まさに目は口ほどに物を言い、だ。それに照らしてみるところ、従姉の心は、私が今迄に出会った誰よりも、温かく、深く、寛く、そして優しく、清純であるに違いない。そのような心を持つ従姉だからこそ、私の心にその俤を、これ程までに強く灼き付けたのだ。どれ程の美人だと言ったところで、その心が冷たかったり、偏狭だったり、卑しかったりしたら、誰がそんな女を心に留めよう、誰が心を惹かれよう……心を惹かれる? そうか。今の私は、従姉に心を惹かれているのか。だからこそ従姉の俤は、これ程までに私の心から離れないのか。
 こうやって自分の部屋で、じっと火桶の前に坐っているばかりでは何にもならない。元来、何にもしないで坐っているというのは性に合わない。……なのに何故か、では部屋を抜け出して、西の対屋へもう一度従姉の姿を見に行こう、という気にはならない。どうした訳だろう。一人でそっと抜け出して、西の対屋という、つまりは他人の領分へ入り込むというのは、貴族社会のしきたりには反する。貴族社会のしきたりとしては、誰か女房を間に立てて、これからそちらへ伺いたいが宜しいか、と尋ねて、先方の了解が得られてからやおら訪れる、という手順を踏むことになる。親子兄弟でも、だ。しかしそうすると、私としては美濃を先触れに出して、西の対屋の従姉に対面を申し入れなければならない。美濃、か……。朝っぱらからあんな騒ぎを起こした女房に、しかも美濃は、昨夜私が西の対屋の近くにいた事を知っている、その美濃に、西の対屋へ先触れに行ってくれと頼むのは、どうにも気が進まない。あの美濃の事だから、また邸中に言いふらかすだろう。それを思うと、一層気が重くなる。
 それだけか? 私が西の対屋へ行くのを躊躇するのは、美濃を先触れに立てるのが憶劫だからか? どうもそれだけではないような気がする。では何なのだ。伯父や伯母に、私が西の対屋へ、従姉に逢いに……逢いに、だって!? それじゃ、まるっきり、私が従姉に恋慕しているような言い方じゃないか!
 もしかして、もしかすると私は、従姉に、「恋」をしたのか!? これが、「恋」というものなのか!?
 ……ふと気が付いて目を開くと、美濃が私の顔を覗き込んでいる。
「ああ、お気付きになりましたのね! ああ良かった! 私、一時はどうなる事かと思いましたわ! お昼過ぎにお部屋から、妙な物音がしましたから、何事か起こったかしらと思って参りましたら、小太郎君様、お部屋の真中で倒れておいでなんですもの、私、大急ぎで北の方様にお知らせして、薬師を呼んで頂きましたの。やっぱり、お風邪でしたわ。小太郎君様、無理をなさってはいけませんわ」
 美濃はまた例の上ずった声で、得々と喋る。どうにかならんのかね。悪気があるのではないのはわかるし、私に忠実な女房たろうとしているのがはっきりわかるのだが。それだけに却って、手に負いかねるというような所がある。こういう人と一緒にいると、どうも疲れる。
「どうもここの処、少し疲れていたみたいだ。美濃、お前にも心配させて、済まなかった」
 仕えている主人が部屋の真中で、大の字になって倒れていたら、心配しない女房はいるまい。こういう折の気遣いが、人間関係を円満に保つものである。私の言葉に美濃は感激したのか、すっかり上機嫌で、
「いいえ小太郎君様、できる事ならこの私が、身代りに風邪にかかりたい程ですわ」
 私は苦笑した。
「お前が風邪で寝込んだら、私の方が困るよ。それはそうと、もうそろそろ夕餉の時間じゃないのか? 台盤所へ行ってみてくれないか」
「かしこまりました」
 美濃は素早く出てゆく。この美濃という女房、確かに有能そうではある。何か頼めばすぐやるし、何をするにも手慣れていてそつがない。ただ少し感情過多気味なのが玉に疵だ。何かたしなめるような事を言う度に、今朝のようにやられたら堪らない。伯母に報告しただけだというのは、どうも私には素直には信じかねる。一遍、私の事をどんなに吹聴しているかを耳にしてしまうと、なかなかその印象というのは拭い去れないものがあるのだ。
 それにしても私に対する時の美濃の様子。あれは一体どういうものなんだろう。一つ考えられるのは、初めて私と応対した時、私の身元がまだわからず、警戒心を持つ余り――それはまあ、こういった邸の女房としては当然の心構えではあろうが――木で鼻を括ったような応対をした事を、私が根に持っていはすまいかと気にしている、という線だ。だとしたらこれは、早々にその誤解を解いてやらなければならない。或いは……。
 もしかすると美濃は、私に「恋」をしてはいないか? 私が昔、習字の手本に使った古今集には、夥しい数の恋の歌が載っていたが、そういう歌に詠われているところの、恋する者の心というのは、本当に道理の枠に嵌められないものである。「あやめも知らぬ(物事の道理もわからず)」とは言い古された、陳腐な言い回しだ。やたらと舞い上がっていたり、私に一言たしなめられただけであれ程取り乱して騒いだりするのは、そう思ってみると、恋の心理状態の一種――そう言い切ってしまうのはやや早計ではないか? 泰家も言ったように、どうも女房達は、私が世間一般の基準によれば美男子らしいということで、私の顔を見るだけで盛り上がっているような様子がある。美濃も、その程度かも知れない。私という、女房連中の憧れの的――何か背中がむず痒くなるなぁ――のお付き女房になれたのが嬉しくて、それで舞い上がっている段階だとしたら、これは恋などと呼ぶ物ではないだろう。
 そこへ、美濃が台盤を捧げて入って来た。私は病人扱いらしく、強飯ではなくて粥である。だが食べてみると、九条の家で日頃食べていた粥と違って、かなり複雑な味がする。その他に、薬湯である。薬湯を飲むほどの病気だとも思えないのだが。しかし部屋の真中で倒れていたというのだから――いやそれだって、ただ単に昨夜寝ていなかったからだと言った方がいいのではないか?
 その夜は、私の方もやや落ち着いてきたのか、朝まで充分眠った。
 翌朝、朝餉が済んで少時すると、伯母が様子を見に来るとの先触れが来た。
 私は考えた。あの口さがない美濃を間に立てずに、西の対屋の従姉に対面を申し入れるには、これは絶好の機会ではないだろうか。伯母は、私がここへ来たその日、話の端々に従姉の事を上らせていたのだから、私が従姉に挨拶したいと言えば、変に思う理由はないだろう。縁続きなのだし、それに今日は私がここへ来てから、もう六日目である。挨拶言上に行くのは、むしろ遅すぎたくらいだろう。
 程なく伯母が来た。入ってくるなり、
「正良、具合はどうです? 昨日は本当に、心配しましたよ。部屋で倒れていると美濃が言うものですから、貴方にもしもの事があったら、と思うと、心配で心配で……」
 さもさも心配だ、という口ぶりである。そんなに心配する位大切な甥を、何故十二年間放っておいた、などと憎まれ口を叩くのは上策ではない。私は朗かに答えた。
「大分良くなりました。大した風邪じゃなかったんです。心配ばかりおかけして、申訳ありません。
 実は一昨日の晩は、部屋へ戻ってから不思議に目が冴えてしまって、全然寝付けなかったんです。それで、昼頃になったら急に睡くなって、つい昼寝してしまったのです。それを……」
と言いかけたが、美濃が勘違いして、なんて言うとまたあの美濃の事だ、要らぬ騒ぎを起こすかも知れない。
「今日一日じっとしていれば、治りますよ、この位の風邪は」
 私は伯母を安心させるように、努めて快活に言った。伯母が安心したのを見計らって、
「ところで伯母上、私がこちらに参ってから今日で六日目ですが、ついうっかりしていて、従姉上に挨拶言上に参るのをすっかり忘れておりました。出来るだけ早いうちに、挨拶に参りたいのですが……」
 伯母の面に、微かな翳りが差したような気がして、私は言いさした。伯母は黙っている。やがて伯母は口を開いた。
「……貴方はまだ風邪が治っていないのですし、今日は無理ですよ」
 たったそれだけの理由を考えたにしては、今の沈黙は長すぎなかったか?
「それでは、明日か明後日にでも、治ったらすぐ参りたいと、伯母上の方からお言伝てを願えますか」
 私は内心の疑念を押し隠して、至極落ち着いた声で言った。すると伯母は、
「何故、私の方から、なのです?」
 これはもう明らかに、この件に関わり合うのを嫌っている言い方である。伯母はこんな感じだし、すぐ近くに美濃もいるのだから、本当の理由――美濃は口さがないから先触れに立てたくない、などと言ったらまた一悶着起こすに決まっている。
「伯母上に知らさずに、差し出がましい事はしたくないので。それに、その……何ですか、変に誤解されたりすると、従姉上の為にも、余り良くないでしょうから……」
 一体全体私は、何を喋っているのだ? すっかりしどろもどろになって、何を考えながら何を言っているのか、自分でもよくわからない。
 伯母は低い声で言った。
「おかしな事を言いますね」
 私は既に、この話題は切り上げるのが得策と判断していた。そこで咄嗟に、
「何かまだ少し、熱っぽいような気がするので、もう暫く寝かせて下さい」
 伯母も、やっと関わりたくない話題から解放された、という思いが見えすいた声で、
「そう、風邪は治りかけた頃が大切なのですから。お大事に」
と言うが早いか、さっさと出て行った。
 はぁ。ここへ来てからというもの、周り中の人間に、気配りまた気配りの連続で、気の休まる時がない。初めのうちは、何しろこれから貴族社会に単身乗り込んでゆくという事で、大いに身構えていたのが、そのままずっと続いているような気がする。少なくともこの邸の中では、私はもう客分ではなくて家族の一員なのだから、もう少し気楽に構えた方が良いかも知れない。あの程度の事でこの私が風邪を引いたなんていうのも、気配りの連続で気疲れしていたからだろうか。
 私の溜息を聞き咎めて、美濃がいやに棘のある声で、
「小太郎君様、随分姫様に御執心ですのね」
 こうも思い切り図星を指されるとは思わなかった。全然そんな素振りを見せた覚えはないのに。私は、一気に高鳴り始めた胸をひたすら抑え込み、極力平静を装って、
「何だよ、御執心ってのは」
 美濃は一層つんけんした声で、
「おとぼけは御無用ですわ! 姫様に会いたいと、北の方様にしつこくおせがみになって、色良い御返事がなかったら大きな溜息、しかも一昨日の夜、全然お寝みになれなかったなんて!」
 こりゃ下手すると、昨日の朝の再現か?
「何か勘違いしてるよ、美濃は。従姉上は私の、血の繋がった親類だよ、その親類が同じ邸の中に住んでいるのに、その邸の掛り人になった私が、挨拶しに行くのを、そんな風に言われるとは心外だ。美濃の従姉妹が、いるとすればだけど、新しくここの邸に奉公してきて、従姉上付きの女房になったら、一日も早く会いに行きたくなるだろう? 私だって同じだよ。血は水よりも濃いって言うじゃないか。それを恋だ何だみたいに言われちゃかなわない」
 美濃はやおら私に向き直り、
「それじゃ伺いますけど、一昨日の夜、全然お寝みになれなかったのは、どうしてですの? 先刻の御溜息は?」
 一々耳ざとい女だな、この女は。
「一昨日の夜はだね、左大臣様が私を、宮中に出仕させて下さるという事を聞いてだね、どんな官位を頂けるのか、宮中ってのはどんな所なのか、あれこれと考えて寝られなかったんだよ」
 これはかなり苦しい弁解だ。案の定美濃は、
「いつ御出仕なされるかもおわかりでないのに、ですか」
 私の弁解を全く信じていない。私もだんだん腹が立ってきて、
「女に何がわかる!? 官位を頂いて、宮中に出仕して、それで初めて一人前の男になるんだ、一生無官無位でどこぞの邸に奉公してても構わない女とは違うんだ、男は!」
 美濃は一層いきり立ち、私の前に仁王立ちになって、
「あぁあ、とうとう仰言いましたね、殿方はすぐ、男と女は違うと仰言るんですわ! ええ、わかりました、どうせ私は、一生無官無位でも構わない女ですわ! 私が馬鹿でした、小太郎君様は、世の殿方と違う、私を女だと思って馬鹿になさったりしない御方だと思っておりましたのは、大間違いでしたわっ」
 甲高い声で喚きながら、しまいには顔を覆って、足音も荒く部屋を出て行こうとする。と思う間もなく、袴の裾を踏んづけたのか、前のめりにどうと転んだ。一瞬、助け起こしてやろうかと思ったが、ここで手を出したら、昨日のあの状況が「抱き合った」になってしまうのだから、それこそ「押し倒した」になりかねない。わざと顔を横に向けて坐っていると、美濃の半べそ声が聞こえる。
「私が転んでも、御手を貸しても下さらないんですのね、もっとお優しい御方だと思ってましたのにぃ」
 私は黙って、振り返りもしない。そのうち、ずりずりと這うような音がして、やがて荒い足音に変わり、それも遠ざかってゆく。私はむしゃくしゃした気分のまま、脇息を倒して枕にし、衾を引き被った。
・ ・ ・
 その日、二人の女房が、私付きになった。私がここへ来た日から、伯母が様々なつてを辿って雇い入れた女房である。一人は近江といい、三十を過ぎた年配で、さる宮家の邸に十五年程も奉公していたという古株女房だ。もう一人は桔梗といい、十五六歳の、女房と言うよりは女童といった感じの娘である。近江の方は幾ら女房としては古株だと言っても、この邸では新参者という事になるのだから、もし美濃が私付きの女房として残るのだったら、それより下に立つことになるのだろうが、幸か不幸か美濃は、喧嘩別れ同然に私付きを降りてしまったから、近江は何の気兼ねもなく、私付きの筆頭女房となったのだった。
 その日のうちに私は、近江が気に入った。何しろ長年奉公していただけあって、女房仕事に慣れていて、何を頼んでも安心できる。年の功で性格も落ち着いていて、私の顔を見てのぼせ上がるなどという事もない。近江から見れば、私は少し齢の近い息子のような物だから、若い女房達と一緒になって騒ぐなんて事は、する気にならないのだろう。それでいて、年季の入った女房にありがちな、噂話と他人の悪口が生き甲斐という悪い癖がない。本当に良くできた女房で、甲斐甲斐しく働いているのを見ると、ふと乳母を思い出してしんみりしてしまう事がある。
 だからと言って、桔梗が気に入らなかったという訳ではない。近江の娘のような齢で、まだ女房仕事にも慣れてないが、慣れてないなりに精一杯やっている様子は、なかなか好感が持てる。性格が明るくて、前からいる女房達ともすぐ打ち解けたのも、私としては安心だ。これが誰とも打ち解けないで、一人で孤立しているような女房だと、それにも充分気配りしてやらなければならず、私の気苦労を増す事になるだけだ。
 三日ほど経って、二人が落ち着いてきたところで、私は近江を呼んで言った。
「私はつい最近、ここの邸の掛り人になったのだが」
「はい」
「何だかんだと取り紛れていて、まだ挨拶回りも済ませていないのだ。それで、折り入って頼みがあるんだが」
「何でございますか」
「……西の対へ行って、姫君――私の従姉なんだが、私が挨拶言上に参りたいが宜しいかと、尋ねてきてくれないか」
「承知致しました」
 近江は、ついと立って出てゆく。余計な詮索をせず、主人に頼まれた事をすぐやってくれるのが有難い。近江の後ろ姿を見送った後、何とはなく浮き浮きした気分になってきた。これはどういう事だろう。恋慕の情というような物か?
 やがて近江は戻ってきた。
「姫様は昨日から御物忌におなりですので、御対面は御容赦願いたいと、お付きの者が申しております」
 私は一気に落ち込んだ。とそれに続いて、不快な憤慨が湧き起こってきた。さては伯母の差し金か!? 私は不快の情を顔に出すまいと努めながら訊いた。
「物忌って、いつ迄のだ?」
「いつ迄の、とははっきり申しておりませんでしたが……。何でも、四日ほど前の御夢見が宜しくなかったそうで、夢占に見させましたら、当分の間重い御物忌に服さねばならぬ、と申された由でございます」
 こういう事を、私がそうしろと言わなくても、それとなく探りを入れてくれるのは、相当な年季のなせる業である。
「物忌、か。……ちょっと具注暦、取ってくれないか」
 毎日毎日について、今日は何年生まれの人は物忌の日、今日は何星の人には吉日、といった事を記してある具注暦というものがあって、これは貴族社会では必需品である。勿論これを使うには、自分が何年何月何日、何の刻の生まれかを知っていなければならないが、それは伯母が私に、具注暦の使い方と一緒に教えてくれた。それによると……何、今日は凶会日(大凶の日)ではないか!
「しまった、私も今日は物忌だったんだ、忘れてた! 近江、物忌札、出しといてくれ」
 この物忌という習慣も、貴族社会では重要な物だが、どうも煩わしいものである。何をするにも、今日は何をするに吉の日、凶の日というのを一々暦で調べなければならない。人を訪ねるには、自分の物忌と相手の物忌、さらに相手の邸の方角まで勘案しなければならない。方塞りというのがあって、今日は東が塞がっていると言うと、東に住んでいる人を訪ねることもできないのだ。もっとも、庶民はこういう禁忌を気にしてはいない。農民にとって、今日は畑仕事に凶と出ているから真夏に畑に水を撒かないなんて事を言っていたら生活できないし、大体庶民は暦など読めない。庶民の生活というのも、物質的な意味では貧しく苦しくとも、精神的な面では却って気楽だったのではないかと、近江が簾を下げて回るのを見ながらふと思った。
(2000.11.4)

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