量子力学から考えること(前)

今回の話題は、量子力学と自然観と錬金術です。
──いきなり、引く人が続出しそうな話題だと、私も思います。普通の方にとっては完全に理解の範囲を超えているに違いない量子力学に、オカルト趣味の範疇に属しているような錬金術では。自然観はさらに広く「哲学」にもつながると思うのですが、これも一般の方には言葉遊びにしか見えないかもしれません。
系統的な論述ではなくて、思いつくままに打鍵しているので、なおさらついてこられない文章になるかもしれませんが、なるべくわかりやすい書き方をするつもりです。

量子力学の基礎となる原理の一つは、ハイゼンベルクによって提唱された「不確定性原理」です。これを簡単に言うと、量子力学が扱う対象であるところの、物体を構成している素粒子のレベルでは、その位置と運動速度の両方を一定以上の精度で測定し記述することはできない、ということです。なぜそうなるのかという理由は、直感的にはこう理解しておいてください。
「素粒子の位置を測るには物差しを当てる必要があるが、その物差し自体が素粒子でできているから」と。
ですから量子力学の世界では、ある1個の素粒子が今どこに存在してどのように運動しているかは、確実な記述は不可能で(精密な測定が不可能なのですから)、確率でしか表現できません。
こうして量子力学の基礎が置かれるまでの経緯を辿ってみると、それは古典力学の行き詰まりにあります。
18世紀にニュートンが万有引力の法則を提唱し、その後マクスウェルが電磁気学を体系化したことによって完成を見た古典力学は、これこそが宇宙の全ての物理現象を説明する法則であると思われていました。万有引力の法則は、「2つの物体の間に働く力は物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する」という1つの式で表現できます。電磁気学の公式はもっと難しいのですが、それでも4つの式で全てを表現しています。
ところが19世紀末になって、古典力学では説明できない物理現象がいくつも発見され、それらを説明するために持ち出された仮定が、次第に量子力学として体系化されてきたのです。
どういう物理現象がそうであるかは、ここでは立ち入らないことにします。
それより、ここからが本題になります。量子力学が自然観に与えた影響です。
最初に戻りますが、古典力学と量子力学の大きな違いは、量子力学には不確定性原理があることです。
古典力学では、現在の時刻における物体の位置と運動速度が、時間の関数である運動方程式として与えられていれば、それを任意の時刻まで積分すれば、未来の任意の時刻における物体の位置と運動速度を、完璧に予測することができます。
私たちの日常生活でそれがどのように応用されているかの例は、日食と月食の予報を挙げておけばよいでしょう。地球を中心にした太陽と月の動きは、極めて高い精度で観測されていますから、それに基づいて何千年も先の日食と月食の時刻を、何時何分の単位まで予報することができます。
ですから、大昔には不吉の前兆とされて恐れられた日食は、ヨーロッパで天体観測の精度が上がった18世紀には予報可能な天文現象となり、同じ頃の日本でも、暦の精度を確認するのに使われたほどでした。
日食よりもっと予報が困難で、かなり後の時代まで不吉の前兆のように言われた彗星の出現も、時代が降るに従って予報できるようになりました。1986年に出現したハレー彗星は、ハレー(1656〜1742)が発見した彗星ではなく、ハレーが過去の観測記録に基づいて軌道を計算し、1758年にまた出現すると予測し、その予測通りに出現したことを記念して名付けられたのです。
さて、かつては予報できなかった天文現象が、精度の高い観測によって予報できるようになると、物体の運動方程式で記述できる自然現象は、物体の位置と運動速度を完璧に観測して運動方程式を完璧に記述できれば、無限の未来に渡って完璧に予測できるはずだ、という理屈になります。
その上で、これが重要だと思うのは、「予測可能な自然現象は、制御できるはずだ」という信念です。
産業革命以後のヨーロッパで自然科学が急速に発達したのは、その背後に科学者たちの、今述べた信念があったからだろうと思います。科学者たちが自然現象の解明に取り組んだのは、純粋な知的好奇心が最初にあったとは思いますが、それだけではなく、自然現象を支配する法則を解明することによって、それを予測し、人間にとって都合が悪いものであれば都合のいいように変える、つまり自然を人間の意のままに制御することを可能にしようという意志があったと思うのです。ですから19世紀頃には、今から見れば荒唐無稽ですが、台風を撃退する方法というのが、大真面目に議論されていたそうです。
あらかじめ見出した法則性に従って、自然を意のままに制御しようとする例を一つ挙げれば、果樹の剪定です。
果樹は剪定しないで放っておくと、際限なく枝が伸びますが、そうなると枝を伸ばすのに養分を費やしてしまって、肝心の実がならなくなります。
それでは農家にとっては都合が悪いので、冬の間に、来年の秋に実がなる枝と実がならずに伸びるだけの枝を見極めて、農家にとって最も都合のいい(=最も収益の上がる)数の実がなるように、それぞれの枝を剪定します。その際に、昔はベテラン農家の勘に頼っていたのかもしれませんが、今はどういう枝をどれだけ切ってどれだけ残せばいいかがマニュアル化されています。このようにベテランの勘に頼っていた部分を誰でもできるマニュアルにすることも科学技術の重要な役割であると思いますが、今はそれは脇に置いておきます。
自然現象を限りなく精密に観測し、完璧に記述し、その法則を完全に解明すれば、全ての自然現象を人間の意のままに制御できる。ヨーロッパの自然観には、このように「人間が自然を支配する」ことを可能とし、肯定する思想があると思います。なぜなら旧約聖書の最初の方に
「神は御自分にかたどって人を創造された。(中略)神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」
(創世記 第1章第27〜28節)
とあるからです。
ところが量子力学では、不確定性原理という形で、自然現象を限りなく精密に観測することが不可能であること、素粒子の位置も運動速度も確率によってしか記述できないことが理論的に導かれているのですから、素粒子レベルの自然現象を人間の意のままに制御することは、その前提からして成り立ちません。
たとえを挙げれば、ピッチャーが投げたボールがコンマ何秒後にストライクゾーンのどこを通過するのかがわからなくては、いかにイチローだってヒットは打てません。古典力学の時代の科学者は、訓練を積めば打率10割のスーパーヒッターになることが可能だという信念を持っていたのに、量子力学の時代になって、それは不可能だということが証明されてしまったのです。
それが何を意味するかというと、行き着くところは「人間が自然を支配することは不可能である」という認識です。
素粒子よりずっと大きな自然現象で、人間が制御どころか予測すらできない、最も身近な物は気象でしょう。台風を撃退するどころか、その発生も予測不可能、進路も「この円の中」という予報が精一杯です。
これは量子力学とは直接関係がないかもしれませんが、気象が「ゆらぎ」に支配されていて、「ゆらぎ」は確率論的な記述しかできないという点で、量子力学と共通します。
いずれにしても、人間が自然現象を全て解明して意のままに制御することは不可能だとわかったということが最近の、西洋文明の行き過ぎを反省する風潮に何らかの影響を与えていると思います。西洋文明が拠って立ってきたところの、「人間が自然を支配することは可能である」という思想が、常に通用するとは限らないことがわかったのですから。
(2001.6.20 2004.12.21改訂)

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