ドッペルゲンガー

クローンの話から、急速に話がずれていきますが、もう少し続けさせて下さい。
私は一時期、テーブルトークゲームに興味を持っていたことがありました。興味を持ち始めたのが社会人になってからだったので、テーブルトークゲームをやる時間的余裕と、興味を共有する友人とを見つけることができなくて、結局一度も実際にプレイしたことはないままですが。
テーブルトークゲーム、あるいはコンピュータゲームでも、いわゆるファンタジー世界を扱ったゲームには、いろいろな魔法・呪文が登場します。
現実世界を支配する物理法則の下では実現できないことも、架空のゲーム世界では実現したい。という願望を持った時、ファンタジー世界は非常に便利です。魔法の名の下に、何でも実現できますから。というよりも、現実世界では実現できないことを実現する手段としての魔法を使うことができるようにするために、ゲーム世界の舞台としてファンタジー世界が利用されることが多いのではないでしょうか。
コンピュータゲームで使われる魔法というと、もっぱら敵にダメージを与える攻撃魔法と、味方のダメージを解消する治癒魔法ばかりのようですが、テーブルトークゲームではもっと多種多様の魔法が使えるようになっているようです。
しかし私が知っている限り、プレイヤー側が使うことを許されている魔法に「死者を生き返らせる」という、これこそ生命の尊厳に対する最大の冒涜ではないかと思う魔法があるゲームはありますが──これはもしかすると、ファンタジー世界を扱ったコンピュータゲームにおける究極の魔法、「データロード」をテーブルトークゲームでは禁止していることの代償かもしれません──「プレイヤーキャラのクローンを作る」という魔法があるゲームはありません。敵を困惑させるために、プレイヤーキャラの幻影を一時的に出現させる、という程度の魔法はあるらしいですが、最後の敵ボスとの決戦の時に、プレイヤーキャラと同じ戦闘能力を持って独自に行動できる複製をいくらでも作り出すことを可能にしてしまったら、いくら何でもプレイヤー側が有利になりすぎてゲームにならないからでしょう。
いくつかのファンタジー世界には、クローン的な存在として「ドッペルゲンガー(Doppelgänger)」というものがあります。もともとは、本人にしか見ることのできないその人自身の生き霊、それを見ると死が間近いことを知らせる凶兆のような物だったらしいですが、何でも敵にしなければ気が済まないらしいファンタジーゲームの世界では、プレイヤーキャラに経験値を差し出すためだけの存在に矮小化されていることが多いようです。ありがちなケースでは、プレイヤーキャラに敵対する陣営のボスである魔術師が、プレイヤーキャラのグループを混乱させるために送り込んでくる刺客、という位置づけでしょう。
少人数のグループの中に、見かけばかりか精神の内部まで仲間の誰かになりすました、敵の刺客が紛れ込んでいるとしたら、これほど危険な状況はありません。グループ内に疑心暗鬼が生じて、誰もがグループの他のメンバーを信じられなくなることは、グループ行動には致命的です。それゆえにドッペルゲンガーは、本当は存在していなくても、それが存在しているという疑いをプレイヤーキャラたちに抱かせるだけで、充分な脅威たりえるのです。逆に言うと、敵に回したらそれほど危険な存在であるドッペルゲンガーを、プレイヤーキャラの側が敵に対して用いることができるなら、これほど有利なことはない──はずです。
それにもかかわらず、プレイヤーキャラ側が使える魔法の中に「敵のドッペルゲンガーを作る」魔法がない理由は。そこで考え至るのは、ファンタジー世界における“倫理観”に照らして、ドッペルゲンガーを作ることが「反倫理的」とされているからではないか、ということです。
私に言わせれば、理由なき殺戮の一方で「死者の復活」を軽々しく行うことは、どちらも生命の尊厳を冒涜する行為ですが、その両方をなんの疑問も躊躇もなしに当然のごとく是認しているファンタジー世界、あるいは火球のような攻撃魔法を防ぐ術のない敵に対して攻撃魔法を用いることを無制限に是認しているファンタジー世界が、ドッペルゲンガーを作ることを反倫理的として否定するなど、全くもって倫理の基準がずれているとしか言いようがないのですが、このような倫理基準ができた背景に考えをめぐらすと、やはり「クローンについて」の後半で書いたように、自分と見分けのつかない存在に対する嫌悪感があるのではないでしょうか。
──なぜそれが嫌悪感になるのか、どうも私にはよくわからないので、「オチ」のない文章になってしまいました。
よくあるファンタジー世界の世界観に対する批判的な考えは、まだまだいくらでもあるので、気が向いたら雑文にしたいと思います。

ちょっと話を戻します。「クローンについて」で述べたクローン規制法が施行されるに際して、実際にクローン技術を使った研究に従事している研究者からは、法律の早期施行を求める声が多かったらしいですが、これは私も技術職の端くれとして理解できるところです。
つまり法律で、「これこれをやってはいけない」と定められたならば、「それ以外のことはやってもよい」と解釈できるからです。従来のように、クローン技術を使った研究が一から十まで黒魔術(あえて下手な駄洒落を使わせてもらいます)のように視られている状態では、「どこまでやっていいのか」がわかりませんから。研究者、それも国立の研究機関で仕事をしている研究者にとっては、自分がやろうとしている研究が日本の法律に照らして合法か違法かわからないのでは、安心して研究できません。そうしている間に外国ではどんどん研究が進んでいるとあっては、研究者としては心穏かならざるものがあったはずです。
そういうわけで、クローン規制法に限らず、何事にもガイドラインの制定は必要です。
(2001.6.12)

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