三学期が始まって十日ばかり経った土曜日。ホームルームが終わると、同級生たちは三々五々、教室を後にしていく。私も鞄を手に席を立ち、コートを取りに、教室の後ろに並んでいるロッカーへ向かった。
ロッカーを開けようとした時、不意に冷たい風が襟をなでた。思わず首をすくめながら、風が吹き込んできた方を見ると。
同級生のいずみちゃんが、私に背を向けて、窓際に立っていた。
「いずみちゃん?」
声をかけながら歩み寄っていくと、いずみちゃんは肩を落としながら、
「はぁぁ〜〜……」
私にも聞こえるほどのため息をついた。
いずみちゃんは弓道部の部長で、元気印という言葉がぴったり来るような子だ。少なくとも教室で、みんなのいる場所で、こんなに落ち込んだ様子を見せたことはない。
「……どうしたの?」
私がもう一度声をかけると、
「ああ、友美……」
いずみちゃんは返事はしたものの、私を振り返ろうともしない。顔の幅くらい開けた窓から、うつむき加減に校庭を見つめているいずみちゃんは、いつもよりもっと小さく見えた。
私がいずみちゃんと並んで窓際に立っても、いずみちゃんは一言も口をきかず、校庭を見つめている。私も黙ったまま、いずみちゃんの視線を追った。
視線の先には、一組の男女が校門へ向かって歩いている。女の子が髪に結んでいるチェックのリボンと、ここからでは見えないけれど、あの男の子の顔を知らない人は、八十八学園にはいない。
竜之介君と、唯ちゃん。私の同級生、そして私の……。
「……友美……」
二人の姿が校門の外に見えなくなった頃、いずみちゃんの声が聞こえた。
「なに?」
「私……竜之介の気持ちが、わからなくなってきた」
「竜之介君の気持ち?……」
いずみちゃんを見ると、いずみちゃんは私が振り返ったのにも気づいていないのか、私を見上げようともせず、校庭を見つめている。その大きな瞳には、もう竜之介君も唯ちゃんも見えてはいないに違いないのに、それでもいずみちゃんは、諦めきれないように、目を凝らしている。
「……あいつ、私のこと、どう思ってるんだろう? ……ただの友達なのか、それとも……」
竜之介君が、いずみちゃんをどう思っているのか。それは私も、非常に気になった。二人とも、私にとってかけがえのない大切な人だから。
それにいずみちゃんの、いつになく思い詰めたような様子も気になって、私は声をかけた。
「いずみちゃん」
「うん?」
「私でよかったら、相談に乗るわ。ねえ、何があったのか、話してくれない? 竜之介君と」
「…………」
しばらく躊躇するように口をつぐんでいたいずみちゃんが、私を見上げて、思い切って口を開こうとした時。
何ともこの場にそぐわない音がした。
「……」
「……」
「……あはははははっ」
照れ隠しにか、わざとらしい調子で笑ういずみちゃんに、私も苦笑を抑えられなかった。
「どこかで、何か食べましょ。話を聞くのは、それからね」
「あ、じゃ、コンビニ行こっ、コンビニ」
コンビニの前のベンチに、いずみちゃんと私は並んで座った。湯気の立つ肉まんを二つ食べ終わると、いずみちゃんは話し始めた。
「今だから言うけどさ……。
去年の年末に、竜之介とあきらと洋子と私の四人で、温泉旅行に行ったんだ」
「なんだ、そういう事だったの…」
私の相づちが意外だったのか、いずみちゃんは顔を上げた。
「そういう事だったのって、もしかして知ってたのか?」
「ええ、何かあったとは思ったのよ。二十九日の夜遅く、いずみちゃんのお母さんから、私の家に電話がかかってきて、『うちのいずみが、お宅にお邪魔していませんか』って。私は何も知らなかったから、『いいえ』って、ありのままを答えたけど」
「そうだったのか。…中学の時の友達の家に泊まりに行くことにして、その友達と口裏を合わせたんだけど、なんでかなあ、嘘だってばれちゃってさ。……あの後、大変だったんだ。父さんが怒ったのなんのって……」
「お父さんやお母さんに嘘をつくなら、上手に嘘をつかないとね」
「はははっ、友美、きっついなあ」
私は思わず、唇を噛んだ。
……わかっている。いずみちゃんに、悪意があったのではないことくらい。いずみちゃんは、この言葉が口癖な同級生の一人と、私との間に、この冬休みに何があったのか、何も知らないのだから。
……あの事は、今思い出しても胸が爛れる思いがする。ただ、その思いは、彼に対する憎しみと言うよりは、むしろ私自身に対する……。
「……友美?」
私は、はっと我に返った。
「えっ?」
「どうしたんだよ、ぼーっとして? …あ、牛乳、こぼれてるぞ」
いずみちゃんに言われて初めて、スカートに冷たい液体が染みているのに気がついた。どうやら無意識のうちに、飲みかけの牛乳のパックを握り潰していたらしい。
「えっ、あっ、やだっ、シミになっちゃう」
私が慌てて、ハンカチやウェットティッシュを取り出して拭き始めると、
「しょうがないなぁ……どうしたんだよ、友美らしくもない……」
いずみちゃんは苦笑いしながら、ハンカチを貸してくれた。
「ええと、それで、いずみちゃんと竜之介君が、温泉旅行に行った、って話ね」
ようやくスカートのシミを処置し終えて、いずみちゃんに尋ねると、
「竜之介とあきらと洋子と私の四人だよ。あきらが、あいつってクジ運強いんだよな、商店街の福引きで一等の『冬至温泉一泊二日 四名様』を当てたんだ。あきらはまず、洋子を誘ったんだって。でも洋子が、あきらと二人だけじゃ行かない、四人でなら行く、って言ったから、あきらは竜之介に、誰かもう一人誘って四人で行こう、って言ったんだって、バスの中で洋子から聞いたんだ」
「それで、竜之介君はいずみちゃんを誘った、というわけね」
「うん。……うちは門限だって厳しいし、まして男の子を含む同級生だけのグループで泊まりがけの旅行だなんて、父さんが絶対に許すはずがないって思ったけど、でも……私が竜之介の誘いを断ったら、竜之介はきっと、他の子を誘うに違いないって思ったから……唯か、友美か……」
いずみちゃんは言いづらそうに、語尾を濁らせる。
「……なあ、友美、竜之介は……友美を、誘わなかったのか?」
私は首を振った。
「いいえ、私は、誘われなかったわ」
するといずみちゃんは、妙に落ち着かない様子を見せた。
「そ、そうか、竜之介は、友美を誘わなかったのか……」
「そうよ。もしかしていずみちゃん、竜之介君が私を誘って、私に断られたから、いずみちゃんを誘った、とでも思ったの?」
私はごく気楽に言ったつもりだったのに、口調が挑発的に聞こえたのだろうか。いずみちゃんは、びくっと身をすくませるようにして、目を見開いて私を見上げた。
「いっ、いや、違うよっ、そっ、そんなこと、ないってばぁ」
「つまり竜之介君は、南川さんと一緒に旅行に行こうって川尻君に誘われた時、私よりもいずみちゃんと旅行に行きたい、と思った、ということになるわね。いずみちゃんは竜之介君に誘われたのに、私は誘われなかったんだから」
いずみちゃんは、おどおどしたようなまなざしを私に向ける。
「……な、なあ、友美ぃ、もしかして怒ってるのか?」
何だろう、いずみちゃんらしくもない。私は吹き出しそうになった。
「怒ってなんかいないわよ。うらやましいな、って」
「ほんとに……ほんとに怒ってないのか?」
「怒ってないわよ。いずみちゃんと私、何年前からの友達だと思ってるの」
「そ、そうだよな……」
「いずみちゃん、もっと自信を持ちなさいよ。竜之介君の一番の幼なじみである私より、一歩リードしたんじゃない」
「一歩リード、か。ははっ、友美らしいや」
ようやく、いずみちゃんは顔をほころばせた。
温泉旅行に行った先で何があったのか、それは訊かないことにした。私はそこまで野暮じゃない。それに、いずみちゃんにも言った通り、温泉旅行に誘われなかった時点で、私はもう、いずみちゃんに一歩リードを許したのだ。今大事なのはいずみちゃんの相談に乗ることで、いずみちゃんの心をかき乱すことではない。
「旅行に誘われた時から、私は、竜之介が私を、友達じゃない、それ以上の存在だと思ってくれてる──思っててほしい、と願ってたんだと思う。私は……前からずっと、竜之介のことが、友達としてじゃなく、異性として好きだったから……もうすぐ卒業なのに、こんな中途半端な形で終わりたくなかったんだ。旅行中に、私、思い切って竜之介に言ったんだ、『友達のままじゃいやだ』って。でもその時は、竜之介は何も答えてくれなかった。
年が明けて、五日の日曜日だったかな、学校の屋上にいたら、そこへ竜之介が来たんだ。私は思い切って、それこそ、しみずの舞台から飛び降りるつもりで」
「いずみちゃん、それを言うなら『きよみずの舞台』よ」
私の悪い癖が出た。いずみちゃんは一瞬戸惑ったような顔をすると、色をなして声をあげた。
「えっ、あれ、そうだっけ? ……ど、どっちでもいいじゃないかよ、そんなの!
とにかく、その、舞台から飛び降りるつもりで、竜之介に言ったんだ。『私のこと、どう思ってるのか知りたい、始業式の日に、返事を待ってる』って。あいつのことだから、忘れてるかもしれないって思って、始業式の日に、下駄箱に手紙を入れて、弓道場に呼び出したんだ」
いずみちゃんは口をつぐんでうつむいた。膝の上で組んだ手に、力が入っているのがわかった。
私は、その先を促そうとはしなかった。
手紙まで書いて呼び出したのに、色好い返事が聞けなかったのだろう。
「なのに……なのにあいつ……」
いずみちゃんの肩が、小刻みに震えている。
「呼び出したのに、来てくれなかったの?」
不意にいずみちゃんは顔を上げ、きっと私を睨んだ。
「来なかったんなら、まだいいよ、諦めがつくから…。竜之介は来たよっ、弓道場に。そして、こう言ったんだよっ、『もうちょっと考えさせてくれ』ってなぁ!」
いずみちゃんは再び顔を伏せ、拳を握りしめた。
「……それっきり、十日も、なんの返事も聞けないんだ、あいつから……」
「…………」
それは、呼び出しを無視されるより、もっとむごい仕打ちだろう……。
「……友美ぃ……私、あいつを見損なってたかもしれない。あいつは前から、節操がなくて、へらへらしてて、ちゃらんぽらんなやつだって思ってたけど、でも、ここぞって時には、ちゃんとけじめをつけてくれる男だって思ってたよ。……知らなかった、あんな優柔不断なやつだったなんて……」
「…………」
私には、黙っていずみちゃんの肩を抱いてあげることしかできなかった。
「だいたいあいつ、唯とは、毎日一緒に学校に来て、一緒に帰ってるじゃないかよ、見せつけるみたいに。だったらなんで、私に、はっきり言わないんだよ、『いずみと付き合う気はない』って。これじゃぁまるっきり、蛇の生き殺しじゃないかよ……」
それを言うなら「蛇のなま殺し」よ、と言う気には、もうなれなかった。
「やっぱり……やっぱり、竜之介は、私のことなんか、どうだっていいんだ。私の気持ちなんて、何一つ、わかっちゃいないんだ……!」
いずみちゃんの声は上ずり、しまいには嗚咽が混じり始めた。
・ ・ ・
あくる日曜日の午後、私は受験勉強の気分転換に、ちょっと家の周りを散歩することにした。
年が明けてからは、家の外に出ても、誰かが後を追けてくるような気配はない。それが私の心を、どれほど軽くしたことだろう。
……だが、それを思うと常に、苦い悔恨の想いが胸底を抉る。
私はなぜ、あの時、竜之介君を信じられなかったのだろう。竜之介君とは、十四年前からの付き合いだ。その間、竜之介君は、いじめられっ子を助けたり不良を懲らしめたりするため以外に、決して暴力を振るったことはなかった。それなのに私は、いつもよりさらに顔が膨れ上がった長
岡君を見て、竜之介君が彼に全ての罪を着せようとして、抵抗した長
岡君を暴力で言いなりにしようとした、とまで曲解したのだ。
自分を正当化したいと思ったのも事実だ。あれは、竜之介君にも責任の一端があったのだと。長
岡君のした事を竜之介君が知っていた、と私が誤解するきっかけになった、竜之介君のあの言葉……。
──「胸が見えてたわけじゃないしさ」。
いや、もう忘れよう。忘れなくてはいけない。
あの後、五日に、美佐子さんから話を聞いて、私は誤解を悟った。居ても立ってもいられなくて、その日の夜、竜之介君に電話をかけて、ステーションホテルの隣にある遊園地に来てもらった。
私は自分が誤解していたことを、竜之介君に告げた。竜之介君は、それを受け容れてくれたと、私は信じたかった。
……だが竜之介君は、私のもう一つの告白は、受け容れてはくれなかった。
竜之介君と一緒にいたい、と言った私を、竜之介君は拒んだ。家へ帰ろう、と言ったのだ。
誤解していた私を許していないのか。竜之介君を共犯者呼ばわりしていた私に愛想が尽きたのか。
──もしそうだったなら、私の心はどこまでも乱れ、切り裂かれ、暗闇に塗り潰されていただろう。
あの時の竜之介君はそうではなかった。そのことに気がついていたから、そして竜之介君は私の告白を受け容れないという予感が、わずかに、しかし確かにあったから、一人で電車に乗って八十八町に帰ってくる頃には、それなりに心は落ち着いていた。
竜之介君は私の告白を受け容れないと私が予感した理由、それは……。
……その現場は、すぐ近くにある。
八十八公園の前を通りかかった。冬の寒さのせいか、日曜日の午後だというのに、公園には子供の姿はなく、閑散としている。
たった一人、街中の児童公園には似つかわしくないような人の姿があった。
赤いコートを着て、髪にチェックのリボンを結んだ女の子。その子の周りだけ夕闇が訪れたと言おうか、気温が下がったと言おうか、そんな雰囲気をまとって、ぽつねんとブランコに座り込んでいる。
私は足早にブランコに歩み寄り、女の子に声をかけた。
「唯ちゃん。どうしたの、こんな所で?」
「……友美ちゃん?」
少しうつむいて、二三歩先の地面に視線を落としていた唯ちゃんは、私の声に顔を上げた。だがまた、徐々に視線が下がっていく。
どうやら唯ちゃんにも、何か心がふさぎ込む原因があるらしい。
それは竜之介君に関わることなのだろうか。そう思った時、昨日いずみちゃんが呻くように言った言葉が、頭の中に流れてきた。
──「だいたいあいつ、唯とは、毎日一緒に学校に来て、一緒に帰ってるじゃないかよ、見せつけるみたいに」
そうなのだ。始業式から毎日、竜之介君は唯ちゃんと一緒に登校しているし、先週の土曜日にそうしたように、特段のことがなければ一緒に下校している。それを見ているいずみちゃんの心を、あれだけかき乱しているというのに、当の唯ちゃんが有頂天になるどころか、こんなにふさぎ込んでいるのでは、私だって気になる。──有頂天になっていたら、それはそれで、私はともかくいずみちゃんは心穏かではいられないだろうけど。
「何か、悩んでることでもあるの?」
もう一つのブランコに腰を下ろしながら尋ねると、唯ちゃんは消え入りそうな声で、
「……うん……」
小さくうなずきながら言った。
「もしかして、竜之介君のこと?」
「えっ……!?」
唯ちゃんは、びくっとしたように顔を上げて、まじまじと私を見返した。
「どうして、わかるの?」
「やっぱり、そうだと思ったわ。三学期が始まってから、唯ちゃんと竜之介君の様子が、冬休み前とすっかり変わったもの。今まで学校の中では、ことさらに唯ちゃんを避けていた竜之介君が、唯ちゃんを避けなくなった。そればかりか、毎日一緒に仲良く登校している。唯ちゃんにしてみれば、念願が叶ったってところでしょ。きっと冬休みの間に、何かあったんだと思ったわよ。
その唯ちゃんが、竜之介君がいないところでは、こんなにしょんぼりしてるんだもの。これはきっと竜之介君には相談できないこと、もっとはっきり言えば竜之介君のことで、何か悩んでるんじゃないか、って思ったのよ」
わかるのだ、私には。竜之介君に相談できなかったあの悩みを抱えていた時、竜之介君の前では、空元気を出して気丈に振る舞っていたつもりだったけど、竜之介君にはすっかり見破られていたのだから。まして竜之介君のいないところで、私がどんな顔をしていたか、今でも容易に想像がつく。
唯ちゃんは、小さなため息をついて言った。
「……友美ちゃんには、隠し事できないなぁ」
私はブランコを心もち傾けて、唯ちゃんの方に身体を向けた。
「ねえ唯ちゃん、よけいなお節介かもしれないけど、私でよかったら、相談に乗るわ。竜之介君のことで、唯ちゃんにどんな悩みがあるのかわからないけど、唯ちゃんがこんなに元気のない顔をしてるの、友達として、見てられないもの。何かあったのか、聞かせてくれないかしら? …いやなら、無理にとは言わないけど」
唯ちゃんはしばし私の顔を、当惑とかすかな期待が交じったような目で見つめていたが、やがて、
「…………うん」
と答えた顔には、わずかな羞じらいの色が浮かんでいた。
「四日の日、土曜日の夜ね、もうだいぶ遅い時間だったけど、公園の──このブランコに座ってたら、変なおじさんが……」
唯ちゃんは言い淀んだ。
まあ、あんな事件は、同性の同級生に対してもあまり口に出したくないだろう。私は急かさず、唯ちゃんの次の言葉を待った。
「その時、おにい…竜之介君が」
「『お兄ちゃん』でいいわよ、唯ちゃん」
言葉を遮られた唯ちゃんは、一瞬頬をふくらませて口をつぐんだ。
……また、私の悪い癖が出てしまった。戒めないと。
幸い、唯ちゃんはそれほど気分を害した様子もなく、すぐに言葉を継いだ。
「…お兄ちゃんが、助けてくれたんだ。西御寺君が通りかかって、変なおじさんが西御寺君に気を取られた隙に、おじさんに飛びかかって、おじさんをこてんぱんにやっつけて」
「やっぱり……そういう事だったのね」
「……えっ」
唯ちゃんは、昨日のいずみちゃんと同じような反応をした。
「やっぱりって……友美ちゃん、知ってたの、あの時のこと!?」
声を上げた唯ちゃんの顔が、見る間に赤くなった。
……失敗だったかもしれない。こうなってしまったら仕方がない、私の知っている事を、正直に話した方がいいだろう。
「少しだけ、ね」
唯ちゃんは今度ははっきりと、頬をふくらませた。
「ん、もぅ……知ってるんなら、唯に言わせなくたっていいじゃない。恥ずかしいよ、あんなとこを友美ちゃんに見られてたなんて……」
「だから、少しだけだけど……うん、ごめんね」
唯ちゃんの機嫌が落ち着いてくるのを待って、私は話し始めた。
「あの日ね、私、入試問題のわからないところを教えてもらいに、瀬潟先輩の家へ行ってたのよ」
「瀬潟先輩?」
「そうか、唯ちゃんは去年の春に転入したから知らないのね。私たちより一学年上で、去年、帝大の理科三類に現役で合格した人よ」
瀬潟先輩は、八十八学園始まって以来の秀才と呼ばれた人だった。私は一年の時から図書委員を務めていたから、放課後図書館でしばしば勉強や調べ物をしていた先輩とは、いつとはなしに顔見知りになっていた。そして先輩が帝大に進学し、私の受験勉強が本格化してきてからは、たまにこう、入試問題の解き方を教えてもらいに行ったりするようになっていた。そうそう、先輩は、西御寺君のお父さんに頼まれて、西御寺君の家庭教師をしているとも言っていた。
「夜遅くなったから、先輩が私を家まで送ってくれることになって、公園のそばを通りかかった時、唯ちゃんと竜之介君、それに西御寺君の声が聞こえたの」
「唯とお兄ちゃんと、西御寺君の…」
「そう、それも何か、大声で言い争っているような声がね。私がそう思った時、先輩も竜之介君と西御寺君の声には聞き覚えがあったから、『何が起こっているのかわからないけど、ちょっと様子を見に行ってみよう』って言って、私と二人で、公園に入っていったのよ」
「えぇー……」
「先輩と一緒に公園に入っていくと、ブランコのそばで、唯ちゃんと竜之介君が抱き合っているのが見えたわ。薄暗い灯りの中だったけど、唯ちゃんのそのリボンが見えたし、それに私が竜之介君を、見間違えるはずがないから。西御寺君の姿は、見当たらなかったけど」
「とっ、友美ちゃんってばぁ! ……うぅっ、もう、恥ずかしいぃ……!」
唯ちゃんの顔は、着ているコートみたいに真っ赤になった──というのは大袈裟だけれど、ブランコの上で身をよじり、恥ずかしさをこらえようとしている唯ちゃんの様子を見ていると、ちょっと言い過ぎた、と思わずにはいられなかった。
でも私だって、好きこのんであの光景を目撃したのではない。そんな趣味は、私にはない。
私があの光景を忘れられないのは──あの光景が、身を挺して唯ちゃんを変質者から救った竜之介君が、隔てる物なく唯ちゃんを抱きしめているあの光景が、有無を言わせず私に、重い事実を突きつけたからだ。あの時あの瞬間まで、私が認めたくなかった事実を。
──竜之介君の心の中にいる人は、唯ちゃんだということ……私ではなく。
やがて唯ちゃんは、ため息混じりに言った。
「はぁ〜……。もう、いいよ、友美ちゃん」
「え?」
唯ちゃんが気分を害して、話を止めて立ち去るのかと思って、私はびくっとした。ところが唯ちゃんは、私の予想に反してブランコの上で居ずまいを正すと、
「そんなとこまで見られてたんなら、友美ちゃんに言われる前に、唯から言うね。きっと、あの時お兄ちゃんが唯に言ってくれたことも、唯がお兄ちゃんに言ったことも、みんな聞かれてたんだと思うから」
開き直ったというか、拗ねたというか、いやはや。
「あ、あのね唯ちゃん、私には、あの時、唯ちゃんと竜之介君が言ってたことの全部が聞こえてたわけじゃないから……」
フォローしようとした私に唯ちゃんは耳を貸さず、
「いいから友美ちゃん、黙って聞いて!」
唯ちゃんがこんなに強い口調で物を言うことは、めったにない。
「……わかったわ。聞かせてちょうだい。私はもう、よけいなことは言わないようにするから」
「うん」
唯ちゃんは表情を和らげた。
「あの時、お兄ちゃんは唯のことを、大事な人って言ってくれた。唯の身体に傷が付いたら、お兄ちゃんが責任を取る、とも言ってくれた」
「そう……」
「あの時のお兄ちゃんの目は、嘘をついてる目じゃなかった。唯、お兄ちゃんとはもう十年も一緒にいるんだから、お兄ちゃんが嘘を言った時ぐらい、すぐわかるもん」
「そうね……竜之介君は、あんな時に出任せを言う人じゃないわ。それは私も信じるわ」
私は竜之介君とは、唯ちゃんよりもっと長い付き合いだから……という言葉が喉元まで出かかったけど、それは言わなかった。今私がそれを言ったら、唯ちゃんの心を逆撫でするだけだろうから。
「だから、お兄ちゃんが唯を大事な人だって言ってくれた時、唯はすごく嬉しかった。もしあのまま死んでも、唯はきっと後悔しなかったと思った。唯はずっと、お兄ちゃんのことが好きだった。昔から……ずっと好きだった」
……まるで自分の言葉に酔っているかのような唯ちゃんに、ごちそうさま、とは口が裂けても言えない。
「だから唯は、お兄ちゃんにこう言ったんだ。『お兄ちゃんだって、唯の気持ちには気づいてるはずだよ。唯を大事な人だって言ってくれたんだもん。さっき言ったことは本当だって言って。言ってくれるまで、唯はここを動かないからね』って。
でも……結局お兄ちゃんは、本当だとは言ってくれなかった。その代わり、唯に……キス……してくれた……」
ある程度は覚悟していたとはいえ、顔を赤らめた唯ちゃんの口からこの言葉を聞くのは、さすがにやりきれなかった。思わず唯ちゃんの顔から目を逸らした時、咎めるような唯ちゃんの声がした。
「友美ちゃん。目を逸らさないで。ちゃんと聞いて」
「え、ええ……」
渋々、唯ちゃんの顔に目を向けると、唯ちゃんは、不敵な笑みとでも形容できそうな表情を浮かべていた。
「聞かせてって言ったの、友美ちゃんだよ。最後まで、ちゃんと聞いてもらうからね」
勝ちを収めた人間の強さというのだろうか、そんなものが唯ちゃんには感じられた。
「それでね、もう夜遅かったから、お兄ちゃんと一緒に、家へ帰ったんだ、お兄ちゃんと腕を組んで。その日は、それだけ」
と唯ちゃんが話を切り上げるように言ったのを聞いて、私は一つ気になったことがあった。
「唯ちゃん、ちょっといい?」
「なあに?」
「西御寺君のことなんだけど」
「西御寺君? 知らないよ、唯は」
その場に居合わせた同級生に対する言い方とは思えないほど、そっけない唯ちゃんの口調に、私は面喰らったが、
「さっき言ったけど、瀬潟先輩と私が唯ちゃんと竜之介君を見た時には、西御寺君の姿は見当たらなかったのよ。後で先輩から聞いたんだけど、先輩は私を家まで送ってきた後で、西御寺君のことが気になって、また公園へ戻ったの。そうしたら、さっきまで唯ちゃんと竜之介君がいたところに、西御寺君が倒れていたから、救急車を呼んだんですって」
「ふーん……」
「ふーんって……唯ちゃん、西御寺君のこと、心配じゃなかったの?」
「どうして唯が、西御寺君のことを心配するの?」
唯ちゃんの冷淡な口調は、西御寺君があの時の変質者と同じ、憎んだり蔑んだりするにも値しない人物であるかのようだった。
「西御寺君なんか、どうでもいいもん。唯は、お兄ちゃんのことだけしか、頭になかったんだから」
「……。西御寺君は、救急車が来てもまだ、気を失っていたそうよ。先輩が見た限りでは、目立った怪我はなかったみたいだけど……まさかと思うけど、竜之介君が西御寺君に何かした、なんてことはないの?」
唯ちゃんは突然、怒りを露わにした。
「ひどいよ友美ちゃんっ! お兄ちゃんは、そんなことしないよっ!」
唯ちゃんの怒気の激しさに、謝る言葉も出せないうちに、唯ちゃんは私から少し目を逸らすようにして言い放った。
「唯がね、『もう西御寺君なんかどうでもいいよ』って言ったら、西御寺君が勝手に倒れたんだよ。だから友美ちゃんも、もう唯に西御寺君のことなんか言わないで」
「……わかったわ。ごめんね、もう西御寺君のことは、話題にしないから」
私は唯ちゃんに謝るしかなかった。
唯ちゃんの話はずいぶん長くなってきたけれど、肝心の、竜之介君のことで悩んでいることが、いっこうにわからない。
「ねえ唯ちゃん。危ないところを竜之介君に助けられて、竜之介君が唯ちゃんのことを大事な人って言ってくれたんでしょ? なんで唯ちゃんが悩んでるのか、私にはわからないんだけど」
怒りを収めた唯ちゃんは、一転して顔に苦渋を滲ませた。
「だってお兄ちゃんは、あれからずいぶん経つのに、あの時言ったことが本当だって言ってくれないんだもん。唯の気持ちはもう変わらないんだし、唯の気持ちにお兄ちゃんも気づいてるはずだから、ちゃんとそれに答えて、って、毎日、そう、毎日お兄ちゃんに言ってるのに。
それだけじゃないよ。……始業式の日にね、唯、お兄ちゃんに、片桐先生と話が終わってから、屋上へ来てもらったんだ。お兄ちゃんに……告白……しようと思って……」
「告…白……」
なんだか、昨日のいずみちゃんの話と、同じような経過をたどっている気がする。
「うん……お兄ちゃんが屋上へ来たから、思い切って『唯の恋人になって下さい』って言ったんだ。唯の気持ちに気づいてるんなら、本当に唯を大事な人だって思ってるんなら、唯の気持ちにきちんと答えて。って」
「それで……」
言いかけて私は止めた。竜之介君が唯ちゃんにきちんと答えていたのなら、たとえその答えが唯ちゃんにとってつらい答えだったとしても、唯ちゃんがここまで悩んでいるはずがないだろう。
「うん? それで、なに?」
意外にも、唯ちゃんは私を促す。いずみちゃんとのやりとりを思い出しながら、私は言葉を継いだ。
「それで、竜之介君は……きちんと答えてくれなかったのね、きっと」
唯ちゃんは、つらそうに目を伏せながらうなずいた。
「うん……。お兄ちゃんは『そんなことは、口で言わなくってもわかるだろ?』なんて言ったけど。……そうじゃないよね、友美ちゃん?」
「そ、そうね。口で言ってもらいたいことって、あるわね」
「だから唯は言ったんだ、お兄ちゃんに。『女の子はね、きちんと言ってほしい言葉があるんだよ』って。だけど……」
唯ちゃんは口をつぐんだ。ややあって、ぼそぼそと、
「……だけど、お兄ちゃんは……、何も答えてくれないんだ、あれからずっと……」
「…………ふぅ」
私は思わず、声に出るほどのため息をついた。
まるっきり、昨日のいずみちゃんの話と同じではないか。
「ねえ、友美ちゃん……唯、どうしたらいいの?」
唯ちゃんは顔を上げて、すがりつくような目で私を見た。
「唯、お兄ちゃんの気持ちが知りたいのに。もしかしたら……もしかしたら、唯よりも好きな人がいるのかもしれないけど、でも、もしそうだとしても、それならそうだって、お兄ちゃんの口から、きちんと聞きたいのに……」
うかつなことは言うまい。いずみちゃんも唯ちゃんと同じ状態にある、なんて事は。
「ねえ友美ちゃん、何か言ってよぉ……」
私が黙っていると、唯ちゃんは喰い下がる。私は努めて、唯ちゃんの顔から目を逸らさないようにした。
「そうね……私が、どれくらい唯ちゃんの力になってあげられるか、わからないけど……。
でも一つだけ、これだけは言えるわ。もし、竜之介君に、唯ちゃんよりも好きな人がいるとしても、それは確実に、私じゃないから」
唯ちゃんは怪訝そうな顔をした。
「え? ……それ、どういうこと?」
私は無理に、そっけなく答えた。
「だから言った通りよ。もし竜之介君に、唯ちゃんよりも好きな人がいるとしても、それは私じゃない、ってこと」
「…………」
唯ちゃんは、幾分不満そうな顔で黙り込んでしまった。
・ ・ ・
そして、あくる月曜日。
「竜之介君」
五時間目の後の休み時間に、私は竜之介君の席へ行った。
「なんだ、友美?」
「今日の放課後、付き合ってもらえるかしら。話したいことがあるの」
「話したいこと? ……今ここじゃ、だめなのか?}
竜之介君の席からは、いずみちゃんの席も唯ちゃんの席も、三メートルと離れていない。こうして竜之介君の席の前に立っていても、眼鏡の外の視野の隅にいずみちゃんの顔が見えるし、背中に唯ちゃんの視線を感じる。
「そうね、今ここじゃ話せないわ。あまり人に聞かれたくない話だから」
「ちぇ、もったいぶるなぁ……。ま、いいぜ、他ならぬ友美の頼みだもんな」
“他ならぬ”──引っかかるというか、むっとさせる言い方だ。それが顔に出そうになる前に、
「じゃ、また後でね」
そっけなく言って、私は自分の席に戻った。
そして放課後。私は竜之介君の先に立って、口数少なく、足早に駅前商店街へと向かっていた。
「なあ友美、喫茶店へ行くんだったら、うちでいいんじゃないのか?」
幾分不服そうな竜之介君に、私はぴしゃりと言った。
「いいから、私についてきて」
唯ちゃんの将来に関わる話、それも竜之介君の決断に全てがかかっている話を、美佐子さんの前でするわけにはいかないではないか。
自分が全ての原因であることがわかっていない竜之介君。彼に対するいらだちが、知らず知らず私の足どりを速めていた。
商店街の一角にある喫茶店に入った私は、私のおごりだから、と言って、竜之介君にブレンドコーヒー、私にはミルクティーを注文した。
竜之介君は、そわそわと落ち着かない様子だ。きょろきょろと店内を見回しては、
「それにしても、友美が俺を喫茶店に誘うなんて、珍しいよな。どうした風の吹き回しだ?」
と、わざとらしい軽口を叩く。そんな様子も私には癪に障った。
でも……怒ってはいけない、怒ってはいけない。私が今ここで怒ったら、ただの嫉妬と取られてしまう。竜之介君に熟考させ、決断を迫るには、まず私が冷静にならなくては……。
注文の品を持ってきたウェイトレスが退ると、私は居ずまいを正して、竜之介君に正対した。
「さて、竜之介君」
「なあ、友美、話したいことって、何なんだ?」
「竜之介君。答えを出すのを一日延ばしにしていることが、あるでしょ」
「答えを、って……? 進路のことだったら…」
まだわからないのか。私はたまりかねて、竜之介君の言葉を遮った。
「いずみちゃんと唯ちゃんのことよ」
竜之介君が、声に出さずに「あっ……!」と言ったのが、私にははっきりとわかった。
「竜之介君に振られた私が、いずみちゃんと唯ちゃんのためにこんな役を買って出るなんて、お節介以外の何物でもないけど。
二人から、一通りのことは聞いてるわよ。いずみちゃんは五日に竜之介君に告白して、始業式の日に返事を聞きたい、って言ったそうね。唯ちゃんは始業式の日に、竜之介君に告白したそうね。
でも竜之介君は、それから十日以上も経つのに、二人に何も答えていないそうじゃない。違うの?」
「……じゃあ、なんでお節介だとわかってて、こんな…」
私の問いに対する答えになっていない、竜之介君の言葉を、私はまた遮った。
「あの二人を、見てられないのよ。竜之介君、わからないの? 竜之介君が答えを出すのを一日延ばしにしてるせいで、二人とも、どんな思いで毎日を過ごしてるか。いずみちゃんは、『蛇の生殺し』って言ってたのよ、わかる、その気持ち? 唯ちゃんは、『唯よりも好きな人がいるのかもしれない』って思い始めてるのよ? 唯ちゃんがどれくらい不安か、わかってるの?」
竜之介君は、渋面を作って黙り込んだ。しばらく経って、いかにも気が進まなさそうに口を開く。
「……だけどなぁ……」
「だけど、なに?」
「俺がさ、唯といずみ、どっちの恋人になるって答えたって、もう一方は絶対に傷つくぜ。それが、いやなんだよ……」
竜之介君の言葉を、私は口の中で繰り返した。
「傷つく……それが、いや」
同じだ、あの時の竜之介君と。
──竜之介君があの写真の存在を知っているということを私が知ったら、私が傷つくから。だから、あの写真のことを知らないと言い張り続けたのだ、竜之介君は。それが竜之介君と私の間に、私にも責任があるけれど、いらない誤解を生んで、事態がよけいにこじれたこと。
あのことから、竜之介君は、何を学んだのだ。何も学んでいないのか。だとしたら竜之介君は、やっぱり──。
「……竜之介君の、馬鹿。すごく優しい、馬鹿よ」
私はわずかに顔を伏せてテーブルに目を落とすと、口に含むような声で、ごく小さくつぶやいた。
「え?」
「……」
聞き返した竜之介君に、私は何も答えず、カップを口に運んだ。
すっかりぬるくなったミルクティーのカップを受皿に戻すと、私は再び顔を上げて竜之介君を見据えた。
「竜之介君は、優しいのよね。誰に対しても」
竜之介君は、わざとらしく首を振った。
「止せよ、俺が優しいなんて」
私はかまわず続けた。
「優しいわよ。あの時は私を、そして今度は、いずみちゃんと唯ちゃんを、傷つけたくない、って言ってるんだもの……。
だけど、これだけは聞いて。
中途半端な優しさは、かえって人を傷つけるのよ。竜之介君が、いずみちゃんか唯ちゃんか、どっちかを吹っ切れさせてあげなかったら、二人とも、いつまでも悩み、苦しみ続けないといけないのよ、竜之介君のせいでね」
私は、努めて静かに椅子を引き、席を立つと、竜之介君に背を向けた。
「あっ、おい……!」
呼び止める竜之介君の声に耳を貸さず、私は喫茶店の外に出た。商店街の雑踏も、私の耳には入らなかった。
(完)