近江物語

第二十一章 復位
 二月のある日、雅仁は息子達を伴って雪解けの田に出た。昼下がり、街道に面した田の荒起こしを終えて、牛を犂から外して木に繋ぎ、日溜りの中で昼飯を広げている所へ、一人の僧が通りかかった。
「失礼ですが、水を一杯頂けませんかな」
 旅僧は雅仁の前に膝を突く。
「どうぞ」
 雅仁の差し出した竹筒を押し頂いた旅僧は、顔を上げて雅仁を見ると、
「やや?」
 竹筒の水を飲む事も忘れて、まじまじと雅仁を見つめる。
 雅仁は、旅僧の様子が不可解である。
 旅僧は、竹筒を置いて居ずまいを正し、
「貴方は、先帝ではあらせられぬか」
 雅仁は図星を指された。しかし、自分は追捕の宣旨を受けて潜伏している身、不用意に身分を明かすのは危険だ。旅僧と言えども、朝廷と無縁ではあるまい。雅仁は事更素っ気なく、
「先帝とは誰でしょう? 私は近江の小作農、それを先帝とは、異な事を仰言る」
 旅僧は喰い下がる。
「いや、主上、私を御覧下さい。お忘れではございますまい」
 笠を脱いで顔を上げた旅僧を見て、雅仁は、さっと顔色を変えた。
「……貴方は……帥宮ではないですか」
 旅僧は大きく頷いた。
「いかにも、五条院の第二皇子、かつては一品太宰帥親王と呼ばれた者です。世の転変の中、今はこのような法体に身をやつしておりますが。
 私が身を明かしたからには、主上、貴方も御身をお明かし下さい。四年前の冬、五条御所より身を晦まされた先帝に、相違あられますまい」
 雅仁は頷いた。
「では申しましょう。私はいかにも、小野院の第二の皇子、十六年前に帝位を践み、五年前謀られて帝位を退いた雅仁です。この者達は、私の息子共です。夫婦と子女九人、縁あってここに身を隠しておりました」
 息子達も挨拶する。帥宮は感慨深げに、
「いやはや、勿体なくも十善の主上が、近江の土民に身をやつし、田仕事に日を送られるとは、何とも浅ましい世の転変ですな」
 雅仁は笑って、
「いや何、私は好きでやってるのです。もしここへ身を潜める羽目にならなかったとしても、五条御所で田作りをしていたでしょう。それより帥宮、貴方こそ何故、そんな法体になられたのです?」
 帥宮は笠を被りながら、
「話せば長くなりますが、今日私がここへ参ったのは、当今の勅命によって貴方をお迎え申すためです」
〈さてはやはり、帥宮は私を追捕に来たのか〉
 雅仁は身構えた。
「何を身構えておられる。当今は、主上に御譲位なさるべく思召されたのです。四年前の追捕の宣旨は取り消し、主上を還幸の礼を以て迎え申しなさるべく勅を発せられました。勿論、前皇太后や、御子女方をも、旧に勝る礼を以てお迎え申しなさると」
 帥宮の話を聞いて、雅仁は目の前が光に満ちてくるような気がした。躍る胸を抑えつつ、
「こんな所では何ですから、郡司の館へ参りましょう。今日の仕事は、ここまでだ」
 雅仁達は、牛に犂を繋いで、館へ帰った。こんなに早く帰ってきたのを訝しがる郡司に、
「都から、私の知っている高僧が来られた。今夜一晩、泊めて頂けませんか」
 郡司は雅仁と違って敬虔な信者なので、喜んで旅の僧を招じ入れる。雅仁は雄仁を遣って、畑に出ている律子達も呼んだ。皆が集まると、帥宮は話し始めた。
「四年前の冬、皆さん方が竹生島へ行幸なさった留守に、あの浅ましい事件が起こりました。正当なる帝であらせられた主上を廃し奉り、当時式部卿宮と呼ばれていた小野院の四の宮を帝位に即け奉った。あの陰謀の首謀者は、小野院と、摂政でした。小野院は、一つには式部卿宮を鍾愛する余り、一つには主上から権柄を奪わんとする野望を抱いて、かの陰謀を率先して立案されたのです。それに、これまた権勢を手に入れようと野望を逞しくした摂政一派が結託したのです。皆さん方が京を出発した翌日、陰謀は実行されました。私は兵衛佐を急ぎ近江へ参らせましたが、それ以前から私は主上寄りと見られていたのでしょう、それを口実に拘束されて、追い詰められてこの通り、落飾しました。
 さらに翌年、播磨の土豪が団結して、主上を奉じて挙兵しました。もしかするとこれも、当今の一派が煽動したのかも知れません。その結果として、皆さん方は京から姿を消され、皆さん方の地位は全て剥奪されたのですから。
 しかし当今は、既に定まった東宮を廃して御自身が即位された事を、大層心苦しく思召されたようです。そうなると人の心とは不思議な物で、諸国の風水害、疫癘、旱天、はたまた御自身に御子が生まれない事まで、何もかもが主上を廃された罰だと思い込まれて、すっかり思い屈じておいででした。独り小野院ばかりは、五条院も亡い事とて、ひたすら権柄を恣になさり、一時は与した摂政派とも、次第に疎ましくなってゆく一方でした。
 昨年の冬、疱瘡が都を席捲しました。そのために、摂政、長子の右大臣、弟の内大臣、大納言、それから小野院、太皇太后(小野院の妃、雅仁の兄の母)と、摂政派小野院派の主だった方々が、悉く亡くなりました。当今はこれを、主上の祟りと深く怖れなさって、南都北嶺に祈祷をさせなさったのですが全く効き目なく、遂に当今御自身も疱瘡に罹られ、今しも絶え入りなさろうとする時に、御夢に主上が鬼神の如き忿怒の相でお現れになって、
『汝我を廃せる逆賊の首なり、我汝を斃すべし』
と仰言った、と仰せられました」
 これを聞いて、内心苦笑を禁じ得ない雅仁である。
〈夢なんて、本人の思い込み以外の何でもないな。私はここ四年、式部卿宮を呪った事なんか全くないのに〉
「ようやく平癒された当今は、かかる上は一刻も早く主上か東宮を見つけ出して、帝位を譲るべしと仰せになり、私を召し出して、主上を探し出すよう仰せつけられたのです。占わせましたところが、主上は紀伊国におわしますと出たのですが、私は、主上の妃、貴女です(と言って帥宮は律子を見た)、貴女の実家は近江高島ですから、その辺りを当たってみようと思って、まず近江へと足を向けたのです。いや、大当りでしたよ、占いというのも、たまには外れるのですね」
 占いなどという代物より、帥宮の合理的な推定の方が正しいに決まっている、という考え方をこの時代に期待するのは無理だ。
「さて、皆さん方には、京へお帰り頂く事、異議はございませんでしょうな、如何ですか」
 帥宮は皆を見回す。雅仁は、
「本当に私を重祚せしめ、妻や子供達の地位を旧に復すと、保証してくれるのでしょうね? もし私達を罪人扱いになどしたら、当今は勿論の事、貴方をも呪い殺しますよ」
 勿論雅仁は、呪詛などという事を本気にしてはいない。帥宮は気色ばむ様子もなく、
「私の命にかけて保証します。主上を阻む者は、最早京には一人もいないのです」
 こうなっては、誰も帰京に反対する者はない。ただ幼い子供達、三歳の四女温子や、五歳の五男唯仁は、京と言われてもよく分からないので、賛成とも反対とも言わない。雄仁は、隣に坐っている千鳥に、
「貴女も京へ行くね?」
 千鳥は、はきはきした声で、
「貴方の行く処なら、どこへでも参りますわ」
「その御方は」
 千鳥を見て言う帥宮に、雄仁は、
「申し遅れました。私の妻です」
 千鳥は、ぺこりと頭を下げた。帥宮から見て、千鳥は確かに美女ではないが、いかにも村の娘らしい純朴な明るさがあって、好感の持てる女性である。帥宮は和やかな気分になって、微笑ましく若夫婦を見ている。
 翌日、郡司の家来を一騎、京へ帥宮の使者として派遣し、高島郡司の館に先帝の一家がいる事を報告させた。使者は、先帝の一家を迎える行列は三月一日に出発する旨の返事を持って、高島へ帰ってきた。
・ ・ ・
「ねえ、京へ帰る前に、竹生島へお詣りしましょうよ。私達が晴れて京へ帰れるのも、きっと神仏の御加護の賜物だと思うわ、それに、京へ帰ってしまったら、そう易々と竹生島へは行けないわ」
 律子は雅仁に言った。
「そうだね。何かと因縁浅からぬ処だからな。皆で出かけよう、早いうちに」
 雅仁も同意する。ずっと館に居続けていた帥宮も、千鳥も、竹生島へは行った事がないと言うので、皆で打ち揃って出かけた。海津の港まで車で行き、海津から船で島へ渡る。春の竹生島の風情も優れたものだ。
 雅仁は、小野院の冥福を祈る祈祷をさせた。自分とは血の繋がりの全くない他人であり、剰え自分を退位せしめた首謀者であるとは言っても、名目上は父である。決して供養するのに吝かではない。二月の下旬に、一行は高島へ帰ってきた。
 慌だしい帰京の支度が済んだ三月三日の夕方、京から迎えの行列が来た。行幸に用いる豪勢な車を連ね、公卿や武官が大勢随行する。その行列を見て、千鳥はすっかり上せてしまった。雅仁達は、庶民そのものの装束しかないが、迎える側で正装を整えて持って来た。四日の朝、束帯や唐衣の正装を四年振りに着込んだ皆は、異口同音に言った。
「こんな重い衣を着ていたとは」
 特に、東宮妃たるに相応しい唐衣の正装を今迄着た事もない千鳥は、肩にのしかかる装束の重さに、すっかり参ってしまった。雄仁に支えられて、やっとの事で車に乗り込むと、もうきちんと坐ってはいられない。
「大丈夫、すぐ慣れるよ」
 衣に押し潰されんばかりに車の床に倒れ込む千鳥を雄仁は励ます。律子が重い衣を着込んだまま、唯仁の手を引いて足早に歩いているのを横目で見て、やはり鍛え方が違うと感心する千鳥であった。
 いざ出発となると、雅仁や子供達にとっても、三年余り暮らした高島の館は、懐しく去り難いものがある。ましてここで生まれ育った律子や、長年ここに奉公してきた千鳥にとっては、高島を後にする事はなかなか辛い事である。車に乗り込んでからも、律子は度々館を振り返る。春霞みの琵琶湖、雪の残る比良の山々、どれを取っても、律子には馴れ親しんだ別れ難い景色である。だがしかし、そのような物々への愛着と憧憬を振り切って、再び目の前に開けてきた世界に身を投ずるに堪えるだけの気丈さを、律子は持ち合わせていた。
 六日の夕方、一行は入洛した。真っすぐ内裏へ入ると、時を移さず譲位の儀式が行われた。
 紫宸殿で雅仁は、初めて当今と対面した。今年十八歳の当今は、元々蒲柳の質であったのだが、病と心労のために一層やつれ衰えている。体が弱いのみならず、心も弱気になっているのが、初対面の雅仁にもよくわかる。ただ、永らく苦にしていた負い目をきれいに清算し得たことから来る、一筋の光明のような爽々しさだけが救いであった。
〈恨むまい、憎むまい。この男は、他人に担ぎ出されただけなのだから〉
 雅仁、復位した帝は、心に固く誓った。
・ ・ ・
 譲位した先帝に対し、帝は心に誓った通り、太上天皇の尊号を贈って厚遇した。律子は皇后に冊立せられたが、先帝の妃の晴子には、皇太后の尊号を贈った。仇に対して恩を以て報いることは、勝ち誇った倨傲と取られるかも知れないが、世人は決してそのような事を口にしない。
 帝は、四年余の反動政治の遺風を一掃すべく、積極的な政治刷新に乗り出した。と言っても、以前の十一年の親政時代の継続という方が正しいが。かつて腹心の臣下であり、今迄不遇を託っていた有能な貴族達を、再び次々に登用した。帥宮も、小野院派に迫られて渋々落飾した事とて、本人から進んで還俗したので、帝は相談役として重用した。四十歳になった帥宮は、一層学識を深め、優れた識見と高潔な人格を以て、帝をよく輔佐し、帝の信任はいや増しに増した。
 帝はまた、息子達も将来の国政を担う人物とするため、その教育を怠らなかった。東宮に復した雄仁には、御前会議にも列席せしめ、政策の勉強をさせる。他の息子達も長ずるに従い、その才能を見て、適した官職に就かせた。決して中務卿や式部卿といった名誉職ではない。
 勿論、皇族と云えども人間であるというのが帝の信条であったから、子供達に良縁を持たせる事も疎ろにしてはいない。良縁を得た子供達は、大勢の子孫に恵まれ、孫達も次々に才能を表わして、朝廷の要職に連なった。帝が六十歳に達した時の子孫は次の通り。――東宮雄仁四四歳、長男二七歳大納言、次男二五歳中納言、三男二十歳右近少将、他に娘四人。崔仁四二歳太宰帥(現地赴任)、その長男二四歳参議、次男二一歳参議、三男一八歳蔵人頭兼右中弁、他に娘三人。浩子四一歳左大臣の妻、長男二四歳参議兼右大弁、次男二三歳蔵人兼右兵衛佐、三男二一歳皇后宮亮、四男一九歳蔵人、五男一七歳右衛門佐兼検非違使佐、他に娘二人。惟仁三九歳大納言兼大蔵卿、長男二十歳大内記、他に娘四人。清子三七歳陸奥守の妻、長男二十歳右兵衛尉、次男一八歳検非違使大尉、三男一五歳非官で陸奥在住、他に娘三人。涼子三五歳。この子は十六歳の時、伊勢斎宮が母の死によって退職し、後任に選ばれたのだが、本人も帝も気乗りがせず、いかに帝でも斎宮制度は廃止できないので已むなく送り出したところ、五年後に在地の者と駈け落ちして行方不明になった。皇后は、それでこそ私の娘、と嘯いていたが。維仁三四歳権大納言兼右大将、長男十六歳左衛門尉、他に息子三人。唯仁三二歳中納言兼左衛門督兼検非違使別当、十歳の長女を頭に二男三女がいる。温子三十歳大納言の妻、十一歳の長女を頭に三男一女がいる。都合、子供九人、孫四四人、曾孫二九人(雄仁の長男四人、次男三人、長女四人、次女二人、崔仁の長男三人、長女二人、次男一人、浩子の長男三人、次男二人、三男一人、惟仁の長女二人、次女一人、清子の長男一人)、八二人の子孫に恵まれた。さらに、次々と孫、曾孫が生まれている。
 帝は、年老いてからも田畑の仕事に精を出し、適度な運動と摂生が幸いして、当時の皇族としては異例の長寿を保った。最後まで矍鑠として政務を執り続け、病に臥す事もなく、八十歳で大往生を遂げた。通算在位年数は五十八年、歴代皇統の初めの方を除くと最長といわれた。この間一貫して、国利民福を重んじた善政を布き、国は富み民は安らぎ、国内周く善政の行き渡らざる所はなく、平安時代中興の英君と後世の史家に讃えられている。その次の帝の代は僅か三年であったが、その次の帝、雄仁の長男の代は二十五年にわたり、先々代の築き上げた国家の基盤の上に、絢爛たる文化の開花した時代であった。この三代の帝は、在来の皇族とも、藤原氏とも全く無縁であったということは、正史には記されていない、秘められた真実である。
(平成三年五月十六日 完)
(2000.9.24)

←第二十章へ ↑目次へ戻る あとがきへ→