近江物語

第一章 兄妹
 春爛漫の三月初旬、洛中二条の宏壮な邸、これは正二位右大臣藤原雅信の邸である。その東の対では、朝から喧しいまでに加持祈祷の僧侶の声が響き渡り、香の煙鉦鼓の音、物々しい雰囲気が周囲を圧している。右大臣の娘、麗景殿女御貴子は、昨年末から出産のため里退りしていたが、この朝から産気づいたのだった。兄の右近中将蔵人頭雅経は、三条の本妻通子の邸にいて報せを聞き、二条邸へ参上していた。
 もう夜になっただろうか。貴子は、ようやく出産を終えた。男児であった。今上帝には、二人目の男皇子である。報は素早く洛中を駈け巡った。雅経は早くも、通子との間に儲けた、六歳の長女か四歳の次女を入内させようと、遠い将来に思いをめぐらすのであった。その子は、雅仁と名付けられた。
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 逢坂の関を越えて、琵琶湖を見はるかすこの地は、近江の国である。麦の穂が色づき始めたある日の夜、今にも倒れそうな苫屋から産声が上がった。この赤児、男児であったが、この児の父母の名は、今日伝わっていない。ただ僅かに知られるところでは、この児の父は、ごく貧しい一小作農にすぎなかったということである。この児は大黒丸と名付けられた。
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 さらにその日の夜更け、高島郡司三尾武麿の娘千代も、女児を出産した。この児の母は、采女として選ばれて最近まで内裏に仕えていた女性で、近郷でも知られた美貌の女性であった。桜と名付けられたこの娘も、母の血を享けて、三歳になる頃には早くも、並の女児と違うものがあると、乳母や屋敷の老女に噂されるようになっていた。
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 大黒丸が二歳の時、父が亡くなった。父は滋賀郡司志賀野足の田を耕す小作農であったが、父亡き後母は、小作に堪え得ないと言って、郡司の館に奉公に出ることになった。無論、大黒丸も一緒であった。ところが郡司は、永年連れ添った奥方を前年に亡くしたのであったが、奉公に出て幾らも経たない大黒丸の母を、お手付きの一人にしてしまった。決して珍しい事ではなく、不道徳とか何とかと謂われるような事とはされなかったものである。
 翌年郡司は、高島郡司の娘千代と正式に再婚した。三歳の桜、父は誰とも知れぬこの娘も、母と一緒に郡司の館へ来た。郡司は、千代の美貌に惚れ込んで、私生児の連れ子がいても構わぬと言って再婚したのだが、既に長じた郡司の息子達や、館の老女達の、この母娘を見る目は冷たかった。
「いいわね桜、貴女は本当は、こんな所にいる身じゃないんだよ」
 折々に母が、低く秘めた声で、しかし何か思いつめたような声で言うのに、桜はあどけない顔で、言葉の意味はわからないままに頷くのだった。
 桜と大黒丸とは、不思議にも気が合って、終日よく遊んでいた。父のない子という境遇のなせる業であろうか、それとも人智を越えた不可思議な因縁であろうか。それぞれの母も、館内で肩身の狭い思いをする者同士、何か共有するものがあったのかもしれない。子供達が、実の兄妹でもこれ程にはと思うほど仲良く遊ぶのを、微笑ましく思っているのだった。
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 そんなある日、さる高名な人相見が、越前から上洛する折に郡司の館に宿を求めた。郡司は人相見を歓待し、宴のさ中に、
「御辺は都でもつとに知られた人相見と承っております。勝手なお頼みながら、儂の子の人相を見て下さらぬか」
 桜を連れて来させた。人相見は、あどけない顔で見上げている桜をまじまじと見て言った。
「なかなか珍しい相にござる。大層優れた運勢をお持ちと見られますな」
 郡司は興味をそそられた。
「優れた運と申されると、国司の北の方になるとか?」
 田舎の土豪としては、この程度しか思いつかない。国司といえば、任国では第一等の権勢を持つ、半ば雲の上の存在である。
「左様かも知れぬし、左様でないかも知れませぬ。何しろ、極めて珍しい相にござる」
 人相見が言うと、郡司は笑って、
「いやはや、この志賀家から国司の北の方がのう!」
と得意然として言う。それを冷ややかな目で見ているのは、先妻腹の息子達である。
〈父上もどうかしたんじゃないのか? 実の父が誰とも知れぬ連れ子が、国司の北の方だなどと、笑止な事を!〉
 物蔭で聞いている母は、ふと不安にかられた。
〈はて、どうした事かしら? あの子の本当の父は、公達なんかじゃない、只の下っ端の武士だったのに〉
 だがすぐ、決然と呟いた。
「そうなのよ、例えあの子の父が誰であろうとも、私はあの子を、妃にもするわ!」
 誰もこの呟きを耳にする事はなかった。
 翌朝、人相見が館を出ようとする時、庭で遊んでいる数人の男児に目を止めた。振り返った一人の男児と目が合ったその時、人相見は雷火に撃たれたように立ち竦んだ。
〈信じられん! 似ている、いや、生き写しだ! あの宮に……〉
「客人、いかがなされた?」
 郡司が不思議がって声をかけ、やっと人相見は我に返った。瞬きも忘れてその男児に見入っていた人相見は、目をしばたたきながら振り返り、動揺を押し隠すようにあれこれと笠や藁靴の紐を直したりして、
「い、いや、何でもござらん。ただ、その、あの童べとよく似た童を、見たような気がし申したのです」
 その男児の方はと言えば、人相見が驚愕するのにも気付かず、走り回る仔犬を追って、母屋の裏へと走り去って行った。
 馬に揺られながら人相見は、先刻見た男児の顔の、禍々しいまでに今上帝の二の若宮に似ていたのを思い出し、その度に身の震えるのを禁じ得なかった。
〈何なのだろう、あの童は? 私も永年、大勢の人間を見てきたが、あそこまで瓜二つというのは初めてだ。それにしても一体、この震えは何だ? 何故こんなに、胸騒ぎがするのだろう?〉
 もう一人、人相見の驚愕のさまを見ていた人がいた。水汲みをしていた、大黒丸の母である。母は、人相見が大黒丸を見て世の常ならず驚倒する様子を見、一体どうしたことかと、ふと訝しく思うのだった。
 人のいない折、大黒丸の母は、千代にそれとなく打ち明けた。
「御台様、実は……」
 話を聞くと千代は、小声で言った。
「それはきっと、大黒丸が素晴らしい運勢を持つ相を持っていると見たのでしょう、私達の思いも寄らぬような」
「大黒丸が、ですか」
「そうですとも。郡司の下人で終わらないような運勢をね」
「……」
 大黒丸の母には、まだ納得がいかない。
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 大黒丸が五歳の年の冬、近江一帯に疱瘡が流行した。九州から発生した疫病は、急速に東漸し、洛中洛外でもかなり猖獗していた。
 この館も疫病を免れることはできなかった。十月末のある日、大黒丸の母が倒れた。それを知って、千代は自ら、病床へやって来た。
 大黒丸の母は、自分はもう余命幾ばくもないと悟ったのか、苦しい息の下から、
「御台様……だ、大黒丸を、……頼みます…」
と言いもあえず、はらはらと涙を流す。
「何を言うのです。元気を出しなさい」
 千代が励ますのにも、大黒丸の母は答えない。微かに首を振るだけである。
「……わかりました」
 深い溜息と共に千代が呟くのを聞いて、大黒丸の母は、微かに表情を和らげたように見えた。
 翌日、大黒丸の母は不帰の客となった。大黒丸も病床に臥したが、千代の、周囲の目を構わぬ献身的な看病によって、一命を取りとめた。ただ、顔には沢山のあばたが残った。
 疫病は尚も猛威を振るい、十一月の末には郡司が斃れた。この頃を峠に、疫病は次第に勢いを弱めていき、年末には終熄した。が、郡司の死は千代の立場を、俄に暗転させることになった。元々この館内では、千代の立場を保っていたのは、郡司の後妻であるという一点だけであったのだ。郡司がいなくなると、先妻の息子達は、事毎にこの後妻に邪慳にするようになった。辛いのは千代である。夜毎夜毎に、大黒丸と桜に語って聞かせるのだった。
「いい、桜、大黒丸。貴方達はきっと、素晴らしい運勢を持っているんだよ。いつまでも、こんな片田舎にいるべき身じゃないんだ。都へ出て、うんと立派になる運勢に違いないよ。都っていうのはね、……」
 千代は、自分が采女として仕えていた内裏の華やかなさまを、あれこれと二人に語る。二人とも、まだ見ぬ都への、仄かな憧憬をかき立てられる年頃になっていた。大黒丸は、比叡山に沈む夕日を眺めながら、子供らしい情熱をもって言うのだった。
「あの山の向こうに、都があるんだね」
「そうですよ」
「僕、いつかきっと都へ行って、偉くなるんだ」
 無邪気に意気込んで言う大黒丸に、千代はそっと微笑み、肩に手を載せる。
「あたしも、行きたいな、都へ」
 縁側へ出てきた桜にも微笑みかける千代だったが、その顔には微かな翳りが差していた。
〈この子にも、掴める限りの幸運を掴ませてやりたい、でも私は、今更都へ出られる身ではない。この子と別れるのは……〉
・ ・ ・
 年が明けて一月、千代は、郡司の四十九日が過ぎるのを待つかのように、追われるが如く郡司の館を後にした。一行は、母娘と大黒丸、それに桜の乳母、四人だけである。
 館が見えなくなった辺りで、千代は、乳母と大黒丸に言った。
「さあ、ここで別れましょう」
 乳母は黙って頷いた。
 ――郡司の四十九日を機に館を出ようと思い定めた千代は、その暫く前から乳母と語らって、大黒丸を都へ連れて行ってくれるよう手筈を整えておいたのだった。乳母の姉が都に永年いて、二条の右大臣邸に女房として永らく奉公しているので、そのつてを頼って、二条邸にでも入れて貰えないものかと思案していたのだったが、承諾を得た旨の手紙が先日、乳母の許に届いたのだった。当の大黒丸の方は、都へ行ける嬉しさと、桜と別れる辛さの板挟みになって暫く悩んだが、前日になってようやく上京する決心がついたのだった。
 大黒丸は桜の手を握り、真摯な声で言った。
「桜ちゃん、いつかきっと偉くなって、一緒に都で暮らそうね」
 桜は簪を抜き、大黒丸の手に握らせると、目に涙を溜めて、
「きっと、ね。約束よ。いつまでも、待ってるから」
 震える声で言いながら涙を押し拭った。
「うん、約束する」
 大黒丸は強いて元気に言うと、簪を袂に入れ、今一度桜の手を握った。恋と呼ぶには余りにも幼い、淡い感情に二人は包まれた。見守る千代も、思わず涙ぐんだ。
 千代と桜は、高島郡司の館、千代にとっては実家にあたる館を目指して、北へ歩む。乳母と大黒丸は、比叡山の向こうの都を目指して、南へ歩む。大黒丸の前には、光り輝く未知の都が待っている。これから行く世界は、大黒丸にとっては大洋であった。輝かしい、憧れに満ちた、しかし未知の、何か不安なものを感じさせる世界である。だが大黒丸にとって、未知なるものへの不安は、憧れに比べて余りにも弱すぎた。大黒丸は歩みを停める事なく、都へ向かって歩みを進める。
(2000.8.20)

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