私本落窪物語 |
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第十六章 三条邸
律子姫は、亡き母から三条にある邸を相続していて、その登記書は姫の唯一の財産として、忠頼卿の邸から迎え取られた時にも、文箱に入れて肌身離さず持って来たのだった。それと知らず忠頼卿は、律子姫がいなくなった今では三条邸の所有権は自分にあると思っている。このところ何かと世間体の悪い事ばかりが続くので、今いる邸は方位が悪いのかも知れない、引越してみようと思い立って、大層念入りに三条邸をしつらえさせている。それを世間の噂に聞きつけた明子は、律子姫のいない所で、道頼卿に話す。「中納言様の方では、三条のお邸を大層立派にしつらえなさって、近いうちに引っ越しなさるそうです」 「そうらしいね」 「あの三条のお邸は、姫様が亡き母上から御相続なさった、姫様の唯一の財産なのです。それなのに、中納言様にみすみす取られてしまうのは残念ですわ」 明子が、道頼卿の気を引くような口調で言うと、卿は興味津々で、 「それは知らなかった。三条邸の登記書は、確かにあるのかね」 「ええ、確かにお持ちですわ」 すると卿は意味あり気に笑って、 「ようし、それならやれるぞ。先方の引越しの日を、正確に突き止めて来なさい。そうそう、こういう事を律子に聞かれると、また何かとうるさいから、内密にね」 明子もにやりと笑って、 「かしこまりました」 「そうだ、とかく引越しというと、その折に里帰りとかをする女房が多いらしいから、それにかこつけて、あちらの女房を引き抜いて来なさい」 「かしこまりました。ただ、余り早くから引き抜きますと、その方面から先方に、こちらの思惑が漏れるかもしれませんわ」 「そうだな」 明子の内偵によって、引越しの日は六月十九日であることがわかった。六月に入る頃、明子はつてを頼って、中納言邸の女房の中で律子姫や珠子姫に心を寄せていると見た人々、大夫の君や越前などに、個別に使者を遣って交渉させた。女房というのは計算高いもので、仕えている主人に出世の見込が少なくなると、さっさと奉公替えしてしまうものである。特に珠子姫付きの女房は、兼時君が寄りつかなくなると即、奉公口を探し始めた上に、珠子姫が勘当されると邸内でも肩身が狭くなって、早くどこか、もっと羽振りのいい邸に移ろうと焦っていたので、中納言衛門督邸から引き抜きがかかると、一も二もなく承知した。皆表向きは、里帰りすると言っては、自分一人が同僚を出し抜いて、もっといい所へ奉公替えしようと思って、秘かに胸をときめかせて支度している。 一人ずつ、明子が差し向けた車に乗って、二条邸へ来る。車から降りた女房達は、同僚がいるのを見つけては、 「あら、大夫の君じゃないの!」 「おや、越前! あんたもここへ?」 と顔を見合わせて騒ぐ。そこへ女房頭と言って現れた明子は、今しも知ったという風で、 「私が女房頭の衛門でございます。あら? 皆さん方、以前どこかでお会いしませんでしたっけ?」 続いて入ってきたのは少納言である。 「あら、越前さん!」 後はもう、ああだこうだと賑やかなお喋りになってしまった。 道頼卿は律子姫には、六月十九日にさる所の邸に移るつもりだ、とだけ伝えておいた。 ・ ・ ・
六月十九日の朝、道頼卿は家司の但馬守や下野守、政所別当の衛門佐などと、大勢の雑色を集めて言った。「三条のどこそこにある邸は、私の妻の所領で、そこに近日中に引越そうと思っていたのだが、どうした訳か源中納言殿が、その邸を占有し、今度引越す積りらしいと聞いた。その邸は、私が正当に所有すべき邸だ。皆の者、すぐ出かけて行って、邸を差し押さえてしまえ」 「承知致しました!」 家司や別当、それに数十人の雑色は、大挙して三条邸に押しかけた。三条邸は、今夜引越しというので、造作はもう完成し、荷物も運び込んである。そこへどやどやと乱入したので、忠頼卿の家司達は仰天して、 「貴方達はどこの人ですか」 但馬守は威勢良く、 「中納言兼衛門督殿の家司です。この邸は衛門督殿が正当に所有すべき邸であるのに、どうして貴方達が引越しなさるのか」 忠頼卿の家司は色を失って、中納言邸へ逃げ戻り、事の次第を報告した。 「何だと!? あの邸は、儂の娘の持ち家ではないか、それを何故、衛門督殿が!?」 忠頼卿の驚愕する様は一通りではない。すっかり動転して、急いで二条邸に車を走らせる。 忠頼卿が来たと聞いて道頼卿は、律子姫を退らせて、自分自身で応対に出る。 「衛門督殿、三条の邸に引越しなさるそうですな」 忠頼卿は半ば泣き顔である。 「ええ、その積りです」 「あの邸は、私が永年、所有しておった邸ですぞ、それを私共が引越しようとするその日になって、いきなり大勢差し向けなさるとは、穏やかでありませんな」 「そうですかね」 道頼卿は、平然としている。 「昔からの法で、宅地の所有者は、登記書を持った者とされておりますぞ。衛門督殿、登記書はお持ちですかな。もしお持ちでないのなら、然るべき所に訴え出ねばなりますまい」 「ほう、登記書ですか。そうまで仰言るからには、中納言殿、貴方はお持ちなのですか」 忠頼卿は口籠った。 「そ、それが、……以前は確かに持っておったのですが、その後、その、紛失しまして……。捜し尋ねさせてはおるのですが、一向に見当たらんのです。もしや誰かが、貴方にお売り申し上げたのではないか、と疑っておる次第でございます」 道頼卿はきっぱりと言った。 「どうぞ、お引き取り下さい。私は、盗まれた登記書を買った覚えはございません。正当な事由によって、手に入れたのです」 道頼卿は立ってゆく。忠頼卿はがっくりと落胆した気持で、道信公にかけ合う気にもならず、邸に帰るとそのまま寝込んでしまった。 律子姫は道信卿に、抗議の面持ちで言う。 「今度引越しなさるという邸は、あの三条邸だったのですね。また世間の噂になって、お父様がお嘆きなさるのが心苦しいですわ」 道頼卿は平然と、 「いいですか、三条邸の登記書は貴女の物だ。それなのに中納言殿が邸を取ろうとなさるのだから、私等には何も非はありますまい。もしどうしても心苦しくお思いなら、貴女が私の妻であると中納言殿に知らせてから、登記書も一緒に中納言殿に差し上げなさい。今はまだその時ではない」 律子姫は、いつになく物思いに沈んだ。お父様は、どれほどお嘆きなさるだろう。私はお父様を、憎いとも腹立たしいとも思っていないのに、あの人は一人で、これでもかこれでもかと、お父様を辱めなさる。私にとっては心苦しいことばかり……。 その夜、道頼卿一家は、揃って三条邸に引越した。三条邸の造作の立派な様子を見ると、忠頼卿がいかに心血を注いで造営したかが思われて、さすがの道頼卿や明子も、早くこの邸を返してやろうか、と思ったほどであった。その一方では、あの北の方がどれほど口惜しがるかを思って、秘かに愉快に思ってもいた。律子姫の方は、すっかり沈み込んでいる。 ・ ・ ・
翌日、忠頼卿の家司が三条邸へ来て、「今となっては致し方ありませんが、せめてこちらへ運びました荷物だけでもお返し下さい。荷物には登記書はありますまい」 と嘆願するので、道頼卿も、荷物まで押領する道理はないと、全部目録を添えて返してやった。その時ついでに、 「そう言えば、北の方が以前お持ちだった、大層由緒ある鏡箱があった筈だ。衛門、あの箱はどこへやったかね」 と言って明子を呼びつけると、明子は笑って、 「私が持っておりますわ」 と、自室から持ち出してくる。見れば見るほどみっともない箱である。 「姫様、何か一言お書きになって」 明子に言われて律子姫は、 「まあ嫌だ。お父様達がこんなにお気の毒な折に、私がここにいると知られるのは」 と言って書こうとしない。道頼卿は、 「いや、書きなさいよ。もう、その時ですよ」 姫は筆を取って、一枚の短冊にさらさらと書きつける。
「明け暮れは憂きこと見えし増鏡さすがに影ぞ恋しかりける」
「この箱は、中納言様の北の方様が大層大切になさっていた箱ですから、必ず北の方様に差し上げて下さい」明子が短冊を入れた箱を色紙に包んで、家司に持たせると、道頼卿は家司に言う。 「中納言殿に辛く当たったお詫びを、私自ら申し上げねばなりません。登記書についても、中納言殿にはっきりと申す次第がございます。ですから中納言殿に、近いうちに必ず、こちらへお越し下さるよう、申し上げて下さい」 家司は、急に道頼卿が愛想良くなったのに合点がゆかぬまま、中納言邸へ帰った。北の方は相変わらず立腹しているので、どうも近寄りにくいのだが、勇気を出して北の方に差し出す。 「何だろうね、お邸を取り上げた代りがこれかい?」 などと言いながら包みを開けると、墨塗りの大きな鏡箱、これは昔、石山詣から帰ってきた時、落窪の君にくれてやった箱ではないか、どうしてこれが、と思いつつ蓋を開けてみれば、そこに入っている短冊の文、まごう方なく落窪の君の筆蹟であった! 「あいつだったのか!」 北の方は驚愕と、続いて湧き起こった憤怒の余り、梁を揺るがすほどの大声をあげて、七転八倒して狂乱する。一方忠頼卿の方は、邸を取られて落胆しきっていたのに、これを聞くと俄に元気になって、 「あの子が衛門督殿に縁づいていたのか。それならあの邸も、取られて当然だったのだ。それほど優れた運を持っていたあの子を、どうして儂は今迄、ないがしろにしていたろう? よし、今からすぐ、会って来よう!」 と言っているのを聞いて、北の方は一層立腹して、とうとう血圧が上がりすぎて昏倒した。綏子姫や紀子姫は、 「結局は、衛門督様と結婚していると私達に知られる筈だったのに、どうしてあんなに私達にまで恥をかかせなさったんでしょう」 「長い間お母様が、落窪の君をひどく扱いなさったから、きっと君は、口惜しいと思っているんでしょうね」 綾子姫はしんみりと、 「私達もあの子に、心からお詫びしないとね」 ・ ・ ・
忠頼卿が意気込んで三条邸へやって来ると、道頼卿は忠頼卿を寝殿の南廂に通して、相対して坐った。几帳の陰に、律子姫も坐る。「まずこの邸についてですが。登記書は確かにこちらにございますが、貴方が私共に、何の御連絡もないまま引越しされると伺いまして、貴方はこちらの方を、訳もなく軽蔑しておられるのではと思いまして、このように急に引越したのでございます。やはり登記書の件、何も申し上げなかったのは御無礼を致しました。こちらの方も、貴方が大層念入りに造作なさったのを、横盗り同然に引越ししたのは大層不都合です、どうかこのお邸は、貴方に差し上げて下さいますよう申しておりますので、この際登記書も、差し上げようと思います」 道頼卿が文箱から登記書を取り出し、忠頼卿の前に進めて平伏するので、忠頼卿は、 「衛門督殿、お顔をお上げ下され。甚だ畏れ多いお言葉、忝う存じます。先年不思議にも、娘が邸からいなくなり申した折には、世間の口にも上らず、所在もわかりませんで、娘はもうこの世にいないものと思い込み申して、この邸は私が所有するのも当然と、思い込んで造作させておったのです。衛門督殿のお許に、娘がおろうとは、全く存じませなんだ。今まで娘が、衛門督殿と結婚していると、私に知らせないでおりましたのは、この私を怪しからんと思い決めておったのでしょうか、それとも私の子だと知られるのを不面目だと思っておったのでしょうか、どちらにしても恥しい限りにございます。登記書を頂くなどとは畏れ多い、今の邸をも差し上げたく存じます。今迄私が、恥を忍びながら生き永らえておったのも、娘に再び会わせようと思って、神仏の思召すところだったのでございましょう…」 と言いつつ涙ぐむ。 「こちらの方は、私が迎え取り申した当初から、貴方の事を思っては、いつか再び会いたいと願っておりましたが、私に思う所存がありまして、今しばらくと止めておいたのでございます。と言いますのも、この君が北の対の放出に住んでおりました時から、貴方も、貴方の奥方も、この君には殊の他疎略になさっておいででしたのを、私は以前から忍んで通っては、見たり聞いたりしておりました。就中貴方の奥方は、この君には大層辛くお当たりになったのを、私自身何度も見ました。ですから、どうかこの君を疎んじなさる方々を、いつか見返し申し上げようと思ったのでございます」 道信卿が言うのに、忠頼卿は途切れがちに、 「何とも恥ずかしい限りにございます。私は、決してあの子を疎略に思う積りもござらなかったのですが、やはり子等の母が、まずこの子等にと申すままに、ついついあの子には不本意な事もしたと思っております。貴方が、そしてあの子が、私を恨む気持になりなさるのも全く御尤もです。弁解のし様もございません。今となってはもう、この忠頼、命の続く限り、あの子に尽くすのみにございます……」 涙にむせぶ忠頼卿に、道頼卿は明るく、 「過ぎた事を悔いても始まりますまい。今からは私、道頼も、貴方を誠の父ともお思い申し上げて、今迄の無礼の償いをさせて頂きましょう」 「ではどうか、娘に会わせて下され」 「承知致しました。さあ、お出でなさい」 今迄のやりとりを聞いて、父の言葉に感無量になっていた律子姫は、しずしずと出てきた。 「お父様……」 忠頼卿の目に映る律子姫の姿は、以前あの落窪に押し込めて、みすぼらしい格好をさせていた時とは打って変って、立派な装束に身を包み、優雅な美しさと気品を兼ね備え、他のどの娘よりも優れて立派な様子である。これほどの姫を、どうしてあんな扱いをしたのだろう、と今更ながら自責の念が湧いて、 「律子、儂を無情な者と思い込んで、今迄儂に知られまいとしてきたのだね。儂が悪かった、許してくれ」 と深々と頭を下げる。姫は、 「いいえ、お父様、私は決して、そんな風には思っておりませんわ。私は、一日も早くお父様にお会いしたいと、それだけを思っておりましたのに、この夫が、何をどう思い込んだのか、お父様も私に辛い仕打ちをなさると思い込んで、どうかしてお父様達に仕返ししてやろうと、そればかりを思って、私には、決してお父様に私がここにいますことを知られないようにと言いますので、今迄遠慮しておりましたのです。夫が、全く私の意に沿わぬ無礼を働きました折々には、お父様がどうお思いなさるかと、そればかりが心配でした。私こそ、お許しを願いたい気持ですわ」 「いやいや、道頼殿には色々な事もあり申したが、その時は、何故こんな事をなさるのかとばかり思っておったが、今その訳を聞いて、儂がお前を疎略に思っていたと言って儂を罰しなさるのだとわかったら、却って嬉しくなったよ、そこまでお前のためを思って下さる方に、お前が巡り合えたのだからな」 と言って、涙を拭きながら笑う忠頼卿に、律子姫は、やはりお父様は、私を本当に大切に思って下さるのだと思って、心から嬉しく思うのだった。 「さて、この際だ、もうお一人、忠頼殿とお会わせせねばならぬ方にもお出で頂きましょう」 道頼卿は朗らかな口調で言う。はて、と首を傾げる忠頼卿の前に、几帳の陰から恥ずかしそうに出てきたのは、珠子姫であった。 「珠子! お前も、ここにいたのか!」 驚いて叫ぶ忠頼卿。 「全く、私一人の不始末のために、お父様の御勘気を蒙った私が、どうしてお父様の前に出られましょう」 恥かし気に小声で言う珠子姫に、忠頼卿は、 「いや、お前が邸からいなくなってから毎日、お前の事を思わない日はなかった。お前達が無事でいてさえくれれば、儂はもう何も要らぬと、ただもう神にも仏にも縋りたい気持だった! お前を勘当したのは、全く儂の短気のせいだ。律子を勘当した時もそうだったが。今この場限り、お前の勘当は許す! いや全く、いなくなったと思っていた娘二人に、一度に会えるとはなあ! 十は若返った気分だ!」 と言って高笑いするので、道頼卿、律子姫、珠子姫も、晴れ晴れとした気分で、一緒に笑うのであった。 (平成三年三月二二日 完)
(2000.7.30) |
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