私本落窪物語

第十一章 救出
 昼頃になると、一家揃って賀茂祭の行列を見物に出かけるというので、慌しく支度して騒ぐ中に、北の方は塗籠の鍵を、
「留守中に不埒者が開けたりしないように」
と言って、しっかり携えているので、明子は憎らしく思う。出発間際のどさくさに紛れて明子は邸を飛び出し、大納言邸へと走った。
「何、一行はもうすぐ出発なさるか。わかった。すぐ出よう。
 帯刀は居るか!」
 明子から連絡を受けた道頼君は、素早く立ち上がりながら言った。
「はっ」
 惟成が馳せ参ずる。
「馬を出せ。妻と一緒に、中納言邸へ戻って、姫をお出しする用意をしろ」
「承知致しました!」
 惟成と明子が出てゆくと、君は、
「将曹は居るか!」
「はっ!」
「いつも使ってない女房車を用意しろ。二両だ」
「承知仕りました!」
「下人や雑色を集めよ」
「承知仕りました!」
・ ・ ・
 中納言邸は、皆出かけてしまって、留守番の者は殆どいない。惟成と明子は、土塀の崩れから邸に忍び込んだ。惟成は北側の勝手口を開けて、道頼君の車を入れる態勢をとり、明子は自室や律子姫の部屋へ行って、荷物をまとめて雑舎の近くの廊下へ運び出す。
 そこへ車が入ってきた。留守番の老女房が見咎めて、
「あれ、どちら様で? お邸の方は、皆出かけていらっしゃるのに」
 道頼君は平然と、
「怪しい者ではありません。新しい女房が今日参ると、前から言ってあったのです」
と言って車を着ける。君は車から降りると、
「姫様はこちらです!」
 明子に導かれて、塗籠の前へ来た。頑丈な錠が下りている。この中に、姫は閉じ込められていると思うと感無量で、素早く寄って錠を外そうとするが、全く動かない。
「帯刀、ここへ参れ! 姫、今すぐ、お開けしますぞ!」
 君は腰の佩刀を抜き、戸を押える板の下へねじ込み、惟成と二人で、渾身の力を込めて引き剥がした。錠の座金も、佩刀をねじ込んで引き剥がし、勢いよく戸を開けた。
「姫!」
「貴方!」
 姫は驚きと嬉しさの余り、弾かれたように立ち上がり、道頼君に抱きついた。
「貴方……来て下さったのね!」
 君の胸に顔を埋める姫に、君は、
「さあ、早く、こちらへおいでなさい」
 姫をかき抱いて、車に乗せる。この間に明子は、姫の持ち物、箏や鏡やらを、車に運び込んでいた。
 そうだ、あの爺とは何もなかったこと、皆に知らせてやろう。明子は先刻の手紙を、姫が押し込められていた塗籠の中に、人目に着くように落としておいて、最後に車に乗った。
「さあ、出発だ」
 車は中納言邸を後に、軽やかに走る。一台には道頼君と姫、明子、もう一台には荷物を積み、惟成は馬で先導する。
・ ・ ・
 そんな事とはつゆ知らず、北の方達は賀茂祭の見物を終えて、邸へ帰ってくる。帰るが早いか北の方は、律子姫を閉じ込めておいた雑舎の塗籠へ来た。見れば何と、錠は壊され戸は外され、そして姫はいない。
 北の方は驚愕と憤怒の余り、頭に血が昇って昏倒した。たちまち邸中、上を下への大騒ぎになった。盗賊が入ったという急報を受けて、宮中での酒宴に列席が決まっていた忠頼卿も、急遽列席を取り止めて、笏を忘れたまま邸へ帰ってきた。卿は、姫が攫われたことよりも、邸の一番奥まで賊が侵入して、建物を壊していったことにひどく立腹して、
「留守番は、何をしておったのだ!」
と大声で罵る。ようやく正気に返った北の方は、阿漕はどこへ行った、と邸中探させるが、影も形も見えない。律子姫の部屋や、明子の部屋を開けてみると、几帳も屏風も、何もない。北の方はまたもや激怒して、
「あの阿漕のガキが! あいつがグルになってやったに違いない! ええい、いまいましい!」
と髪を振り乱して怒鳴り散らし、廊下を踏み鳴らして東の対へ突進すると、綏子姫の部屋に乱入し、典侍の君などが止めるのも聞かず、几帳を引き破らんばかりに綏子姫に詰め寄り、
「あんたのせいだよ! あたしが昨日、阿漕のガキに暇をやった時に、そのまま追い出してりゃ良かったものを、あんたが駄々こねて引き止めるから、あんたに任せといたらこのざまだ! どうしてくれるんだい!? ええ、何か言ったらどうなの!?」
 綏子姫は、猛り狂う北の方を前に、なす術もなく茫然として坐っている。その様子が北の方には一層癪に触って、
「大体あんたが、あたしの言う通りにしないから、こうなったんだよ! あの手紙を材料にでっち上げて、落窪を陥れる、その際帯刀と阿漕を巻き添えにするのも已むを得ないと、約束したろうが?」
 北の方は興奮の余り、自分の口から奸計の内幕をばらしているのに気が付かない。綏子姫の方が、それと気付いて、他人に聞かれたらどうしようと気が気でない。
「それを何だい、落窪を陥れるのに成功した途端に! あんた、あたしを裏切ったんだよ! あたしの腹を痛めた子でなかったら、落窪と同じ目に遭わしてやるのに! あ……頭が……」
 北の方は、また血圧が上がりすぎて倒れた。綏子姫は、内心ほっとしながら、典侍の君や近江を呼んで看病させる。北の方の後から珠子姫も来て、口を尖らす。
「だから言ったでしょ」
 綏子姫は、苦虫を噛み潰したような顔で黙っている。
 忠頼卿は、留守番をしていた老女房を呼び出して厳しく詰問する。
「子童でも構わん、留守中に入ってきた者はいなかったか!?」
 老女房は、
「ええ、そう言えば……立派な女房車が二両、皆様がお出かけになってすぐ入って参りまして、……」
「その車に、誰が乗っていた!?」
「存じません。若い男の声で、『新しい女房が今日参ると言ってあった』と……」
「そんな話は聞いとらん! その男が賊に違いない! 全く役に立たん留守番だ! もういい、退れ!」
 明日参内したら、この噂が内裏中に広がっているだろうと思うと、卿は苦々しい思いであった。
・ ・ ・
 ようやく正気に返った北の方の枕元に、女房の一人が、塗籠に落ちていたと言って、不細工な結び文を持ってきた。北の方が広げてみると、典薬助の後朝の文である。読んでみると、結局典薬助は落窪をモノにできなかったとわかって、またまた腹立たしくなり、
「典薬助をここへ呼びなさい!」
と喚く。典薬助がひょこひょこと来ると、北の方は起き上がって居丈高に、
「これは貴方の文でしょう? どういう事なんです。貴方に任せた甲斐もなく、落窪の君には逃げられるし、貴方は君と親しくなれなかったようですし」
 典薬助は悪びれた風もなく、
「これは御無理な事を仰せられる。昨夜は姫は大層お苦しみなさるし、阿漕もずっと傍にいて、『御慎みの日です』と言うたので、それでも無理に添い臥そうと致したところが、儂に温石を取りに行かせた隙に、内から戸を閉めて、儂を締め出してしもうたのですじゃ。何とかして戸を開けようとしておるうちに、何とも情ないことに腹が冷えて、尾籠なことが起こりおったので、袴を洗うておるうちに朝になってしもうたのですじゃ。儂の怠慢ではありませぬぞ」
と真面目くさって言い訳するので、北の方は腹立ちながらも可笑しくなってしまった。まして少納言などは、扇で顔を覆い、腹を捩って笑い転げている。
「い、いや、もうよい。お退りなさい。本当に頼り甲斐のない。他の人に預けておけば良かったよ」
 北の方が苦笑しながら言うと、典薬助は腹を立てて、生真面目に、
「無理なことを仰言る。儂も何とかして姫と通じたいと思っておったのですぞ。それじゃのに、急に腹をこわしてしもうたのは、こりゃ年寄りの性ですわい。年を取ると尻の穴が緩むのは仕方のないことでござろう。儂じゃからこそ、無理しても開けようとしたのですじゃ」
と言って立ってゆくので、女房連中は一層笑い転げる。
 三郎君が北の方の傍へ来て言う。
「みんなお母ちゃんが悪くするからいけないんだよ。なんでお姉ちゃんを閉じ込めて、あんな年寄りにあげようとなんかしたの。他のお姉ちゃん達もいるし、僕達にも将来があるから、皆で仲良くしていけばいいのに、ひどいよ」
 北の方は素っ気なく、
「ませた子だね。あんな奴、どこへ行ってもいい事なんかあるものか。後々会ったとして、あたし等に何ができるというんだい」
・ ・ ・
 首尾良く律子姫を救い出した道頼君は、二条にある、君の母が相続していた別邸に、姫と一緒に住むことにした。二条邸に着いた日の夜、君は明子を呼んで、今迄の一部始終を話させる。
「どうも姫は、ここ数日のことについてよく話してくれないんでね」
 君に言われて明子は、自分の知っている限りの一部始終を、幾分誇張を交じえて言い立て、北の方の意図をも、憶測を交じえて言うと、君は、内心深く思いをめぐらすところがあったが、表面は平静を装って、笑いながら、
「まあとにかく、ここまで来てしまえば安心だ。だがここは、いつも留守にしているから人が少なくて何かと不便だ。人を捜して雇おう。本邸で使っている人を呼んでもいいんだが、それじゃ面白くないんでね。お前は若いけどしっかりしてるから、この邸の女房頭にしよう」
「恐れ入りますわ」
(2000.7.19)

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