私本落窪物語 |
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今は昔、中納言なる人の、女あまた持たまへるおはしき。大君、中の君には婿どりして、西の対、東の対に、はなばなとして住ませたてまつりたまふ。「三四の君、裳着せたてまつりたまはむ」とて、かしづきそしたまふ。また時々通ひたまふわかうどほり腹の君とて、母もなき御女おはす。
――「落窪物語」
第一章 落窪の君
静かな晩秋の夕暮れ、寝殿に寛ぐ貴族―――とくれば王朝文学、雅と恋の物語。いやそう早とちりなさるな。物語ならさしずめ、ここにいるのは、二十前後の若公達、水も滴るいい男……もとい、女にして見たいようななよやかさ、とくるところだが、今ここにいる方、年は五十近く、恋物語なんて齢じゃない。この方は源忠頼卿、従三位権中納言という官位にある。まさに貴族。とは言っても、この時代の貴族の中で、本当に羽振りを利かしているのは、藤原家嫡流、摂関家といわれるほんの一握りだけ。当節源氏なんていうのは、何代か前に皇室から分かれたというだけで、政界の一大勢力なんかでは全然ない。光源氏の君や狭衣大将、そういうのは物語の中の話。そんな中で忠頼卿、権中納言として公卿に名を連ねているのだから、この頃の源氏では出世頭というものだ。 さて今年は秋になってめでたい事が続く。卿はこの度、中納言に昇進と決まった。公卿の除目(人事異動)は春と決まっているのだが、次席の中納言が病を理由に辞任したため、臨時の除目があって、首席の権中納言である卿が昇進と決まったのである。権中納言に昇進してから二十余年、席次は上がるものの昇進の声はどこからも聞こえず、これで一生終わりかと半ば諦めていた卿にとって、降って湧いたような話であった。だが卿にとっては、北の方の三番目の娘、当年十七歳の綏子姫が、藤大納言の長男、蔵人兼左近少将頼実君を婿に迎えることの方が嬉しいのだ。婿君は名門の長男、前途は洋々、これで家門に光が差してきたと、子煩悩な卿は夜も寝つけぬほど喜んでいる。 「お殿様には中納言に昇進せられ、おめでとうございます。そのうえ、三の君様には、蔵人少将様を婿に迎えられ……」 相好を崩す卿の前の廂の間で挨拶しているのは、中納言家が美濃に領する荘園の預所、平時茂という者である。年に一度の荘園の運営報告に、今年は中納言家の慶事の祝いを兼ねて、美濃から上京してきたのだ。 「綏子は頼実君を婿に迎えるし、あとは末の珠子の婿取りだ。女の子にはよい婿を取ってやるのが、父親の務めというもの、なあ、時茂」 満足気な卿。時茂は口ごもる。 「はあ……某の娘などは、お殿様のお屋敷へ奉公に出すのが精一杯でございます」 時茂の娘は、中納言家に女房として奉公している。美濃の田舎にいさせるより、都へ出してやれば、もしかすると名門家の若公達の目に止まることもあるかもしれない、そんな親心だ。 忠頼卿と勝子北の方の間には、男の子が三人、女の子が四人いる。一番上の景純君は当年二四歳、越前守、二つ下の景清君は、大病をしたのを契機に出家してしまった。その一つ下に綾子姫、少納言を婿に取っている。さらに二つ下が紀子姫、左少弁を婿にしている。その下に綏子姫と、十三歳の珠子姫、この姫は今年、裳着を済ませたばかりである。そして十歳の三郎君、この子はまだ元服していない。 時茂がふと、思い出したように、 「そう言えばお殿様、もう一方の姫君はいかがなされました?」 忠頼卿は、はっと胸を衝かれた思いで、 「そうだった。あの子は……」 と言いかけた時、簾の奥から只ならぬ気配を感じた。振り返ると勝子北の方が、怖い目で睨んでいる。卿は慌てて、 「ん、ああ、もう日が暮れたな。時茂に、夕食の膳の支度を」 「先刻言いつけました!」 声から察して北の方様は御機嫌斜めだ、しかし、お殿様の様子はちょっと変だな? 時茂は怪訝に思いながらも、何も口に出さなかった。 ・ ・ ・
その頃、寝殿の北の対の、さらに北側に建て増した、床もない小さな部屋、家の者はここを落窪と呼んでいるが、ここに一人の姫君が、針仕事に精を出している。この姫君こそ、「もう一方の姫君」と時茂が口に出した、律子姫である。当年十八歳。律子姫の母君は、二代前の帝の弟宮で式部卿宮と呼ばれた宮の姫君であったが、律子姫が七歳の時に亡くなった。式部卿宮も、その北の方も既に亡く、姫は忠頼卿の邸に迎え取られたのだった。が、当節は皇族と言えども、藤原氏の前には力なく、零落した宮家があちこちで貧乏暮らしをする時世。藤原出の勝子北の方は、式部卿宮の姫君を生前から軽んじて相手にせず、律子姫が邸に引き取られてくると、継子憎さに何かにつけていじめるのであった。 住む部屋からして、日当りの悪い、床もない土間である。貴族の姫君が寝起きする御帳台などあらばこそだ。着物も皆の着古しで、袖のすり切れたみすぼらしい袿に、継ぎを当てて着ている有様。かしずく女房も、乳母の子の明子一人で、北の方の姫君達とは比べ物にならない。 北の方は姫君を馬鹿にして、落窪の君と呼んでいる。落窪に住んでいる姫君だから、というのだ。乳母子の明子も、どういう意味か阿漕と呼ばせている。 こんな姫君でも、父の忠頼卿にとっては他ならぬ自分の娘なのに、卿は情けないほどの恐妻家で、北の方に全然頭が上がらない。邸内は一切北の方に取り仕切られて、律子姫の事で何か口出しするなど思いもよらぬといった有様で、姫が北の方にいじめられる様子をうすうすは知りながらも、北の方には何も言えないのだった。 今日も北の方は、洗い張りをさせると言って、山のように着物を持ってきた。他の姫君が着る衣で、綾や擣絹といった、律子姫の着物よりずっと上等な衣ばかり。毎日毎日、針仕事に明け暮れる姫には、他の姫君達のように、箏や琴を嗜む暇はなかった。箏はあった――亡き母君の形見の箏が。しかし、切れた絃を張り直すこともままならず、今では五本しか絃がない。塗りも剥げたその箏は、土間の隅に立てかけたまま、もう何年も埃を被っている。 「姫様、開けて下さいな」 すっかり日の暮れた頃、部屋の外から明子の声がした。姫は縫いかけの衣を籠に載せ、立ち上がると戸を開けた。 お膳を持った明子が、膝をついている。 「姫様、お夕食を持って参りました」 「有難う。すぐ片付けるから、ちょっと待っててね」 姫は、そこら中に広げてある衣を手早く集めて籠に盛り、土間を片付けると、明子からお膳を受け取った。その間明子はずっと、平伏せんばかりに頭を下げている。 明子は辺りを憚るような小声で、しかし深く憤慨した調子で言った。 「北の方様もひどいですわ。姫様には、客人の食べ残しで充分、ですって」 姫は落ち着いた声で、 「お義母様を悪く言うのは止しなさいよ。それより明子、貴女お夕食は?」 「私ですか? 私はまだですけど……」 すると姫は明子を手招きして、 「じゃ貴女、先にお食べなさいよ。朝からお仕事ばかりで、お腹が空いてるでしょう?」 私にこんなに優しくしてくれる人は、姫様の他に誰もいない! 明子は感激の余り涙ぐんだ。 その時、 「阿漕ーい! どこにいるんだい!?」 北の方の野太い声。明子は素早く、 「やはり姫様、お上がりになって。私はまだ用事がありますから」 言うが早いか、さっと戸を閉めた。 「はーい、すぐ参りまーす!」 足早に去っていく気配がする。廊下は姫の部屋の床よりも三尺も高いから、明子が膝をついたくらいでは姫を見下ろすことになってしまうので、それを明子は心苦しく思うのだった。律子姫にも、それがわかる。 律子姫が一人で、客人の食べ残しの夕食を食べ始めると、音をたてて戸を開ける者があった。明子はこういう開け方はしない。姫が顔を上げると、北の方が睨んでいる。 「今朝預けた衣は縫い終わったかい?」 女房を呼びつけるような野太い声で、北の方は問い質した。姫は口に含んだ飯を飲み込んで、 「もうすぐ、縫い終わります」 たちまち北の方は嫌味な顔で、 「あたしが言いつけた仕事も済まさないで、お召し上がりかい!? 何様のつもりかね! 朝からやってて、まだ終わらないのかい、ほんっとにのろまなんだから!」 実のところ、北の方の言いつけた仕事というのは、慣れた女房でも二日はかかるような仕事なのだ。 「いいかい、明日の朝までにやっとくんだよ! 終わらすまで、朝飯はやらないからね!」 言い捨てると北の方は、乱暴に戸を閉めて去って行った。姫は、不覚にも滲んできた涙を押し拭い、夕食もそこそこに、北の方に言いつけられた針仕事にかかるのだった。 ・ ・ ・
夜更け、律子姫は部屋で、針仕事を何とか朝までに終わらそうと懸命になっていた。単調な仕事を薄暗い灯の下で続けると、目は疲れるし肩は凝る、睡気も忍び寄ってくる。明子がいれば話相手にもなるものを、明子は北の方に呼びつけられて行ったきり戻ってこない。そうしているうちに、燭台の油が切れて暗くなってきた。普通の女房なら、これ幸いと仕事を止めて寝てしまうところだが、姫は、 「油を取りに行かなくちゃ」 と、油入れを取りに廊下へ登った。 油の樽は、西北の雑舎の物置にある。薄暗い廊下を、一人歩いていると、出会い頭にぶつかった者がある。尻餅をついた姫の耳に、若い男の声が聞こえた。 「これは失礼。大丈夫ですか」 この時代の女性は、程度の差こそあれ大層重ね着しているから、ちょっと転んだくらいで怪我などすることはないのだが。それはさておき、この邸内にいる若い男といえば、綾子姫の婿の少納言か、紀子姫の婿の左少弁だけだ。姫君たるもの、義理の兄とたやすく口をきくようなことは慎まなければならない。 「いえ、御免なさい」 姫は袖で――扇は持たせてもらえないので――顔を隠し、男の横をすり抜けて、物置へ向かっていった。 「あの物腰、そこらの女房風情とは違うな。でも義姉上や義妹御が、夜中に歩き回ってる筈がないし、誰だろう?」 後に残された男、この男は紀子姫の婿君、左少弁藤原仲基である。君の心の中で、この謎めいた姫君への興味が、俄かに湧き上がってきた。 物置へはあと少しというところで、律子姫の耳に、繊細な箏の音が聞こえてきた。姫はふと耳を澄ました。 この箏の音は、紀子お姉様に違いない。たまに聞くけど、上手な方だわ。いつか、教えていただきたいな……。 角を曲がったところに、月の光が差し込んでいる。きっとお姉様は、今頃、月明りの中で箏を弾いているに違いない。それだというのに私は、月の光も差さない部屋で縫い物…。同じお父様の子なのに……。 ・ ・ ・
西の対の、紀子姫の部屋では、簾を通して差してくる月明りの中で、紀子姫が箏を弾いている。仲基君が入ってきたのを聞きつけると、ふと弾く手を止めた。仲基君が入ってきて、几帳を隔てて坐った。 「貴女はいつも、もう少し聴いていたいなと思う時に止めてしまう。つまらないな」 「私の拙い箏を、もう少し聴いていたい、なんて……」 小声で答えるさまは、これこそ公卿の姫君というものだ。 「ところで」 君は几帳の中ににじり入り、小声で切り出した。 「先程ここへ来る途中で、女房とは思えない上品な感じの人に行き合ったんだ。誰だか、貴女に心当りはありませんか」 普通若公達というものは、こういう事があると何とかしてモノにしようと企てるもので、妻に尋ねるようなことはまずしないし、尋ねられた方もお決まりの嫉妬とくるものだが、この君は実直そのものの堅物で、屋敷に奉公する女房を思い人にしようなどと考えることは全くなく、そういう心の持ち主だとわかっているので、紀子姫も決して嫉妬したりしないのだった。 尋ねられた紀子姫は、はっと思い当たった。こんな夜中に、一人で歩き回っている、女房でない人と言えば、落窪の君しかいないではないか。 「それはきっと、妹でしょう」 断言しないのがいかにも姫君らしい。 「貴女の妹君? 今度蔵人少将殿を婿に迎えられる、三の君ですか、それとも四の君?」 仲基君が知っているのは、三の君即ち綏子姫と、四の君即ち珠子姫だけである。まさかもう一人いるとは思うよしもない。 「いえ、実は……私とは異腹の妹が、もう一人いるのです」 仲基君が紀子姫の婿となって二年になるが、これは初耳であった。驚くのも無理はない。 「異腹の妹君!? それは初耳。何故今まで、話してくれなかったのです」 紀子姫は心優しい姫君であった。落窪の君(実は紀子姫は、落窪の君の本当の名を知らないのだった)が、継母にいじめられているというような事は話さず――話せば落窪の君の印象を悪くするに違いないと思って――ごく最近、この邸に迎え取られたばかりなのだと仲基君には話した。 ・ ・ ・
翌朝、まだ鶏も鳴かない頃、やっと律子姫は、北の方に言いつけられた縫い物を終えた。部屋の壁に凭れかかり、うとうとしていると、戸を静かに叩く音が聞こえた。「誰?」 立って開けに行く気力もなく、呟くように答えると、戸は静かに開いた。部屋へ降りてきたのは、明子であった。 「まあ姫様、眼が赤いですわ。昨夜はずっとお仕事で?」 姫は答える代りに頷いた。 「北の方様もあんまりですわ! こんな縫物を、一日で仕上げろ、仕上げなかったら朝ご飯は抜きだなんて」 明子は衣を手に取って憤慨する。昨夜北の方が怒鳴り散らしていったのを、明子も聞いたのだろう。 姫は落着いた様子で、と言うより、睡くて明子に調子を合わせる元気もなかったのだろうか、 「そうお義母様を悪く言わないで。それより明子、昨夜はどこにいたの?」 明子にとって、姫が徹夜で働かされている時、その傍にいて手伝ったり話相手になったりしてあげられなかったのが、堪らなく不本意な事なのだった。明子は悲しげに、 「三の君様と四の君様に、一晩中お話相手をさせられてましたわ」 「貴女、綏子姫のお気に入りだからね。珠子姫も、貴女が好きみたいだし」 律子姫が慰めるように言うと、明子は却って泣き出さんばかりに、 「いいえ、三の君様と四の君様は、私を姫様から遠ざけておきたくて、それでいつも私をお呼びつけになるんですわ! でも、でも、私の御主人は、私を『貴女』とも『明子』とも呼んで下さる、姫様ただ一人だけです! 私の他に誰も、姫様にお仕えする人はいない、乳母子の私は、姫様がお生まれになってからずっと、偏に姫様だけをお頼りし、お守りしてきたんです! 世の辛い事、悲しい事も皆、姫様と分かち合って今日まで生きてきた私が、どうして今更、他の方にお仕えできましょうか!?……」 しまいには顔を袖で覆って泣き出した。 「泣かないで。他の人にと言ったって、別に他所の邸にお仕えする訳じゃないでしょ? 綏子姫のお部屋に行くようになって、貴女、前より着物もいい物を頂いて、一層綺麗になったわよ。私も嬉しいわ」 姫に慰められて、明子は一層感極まって、おいおいと泣くばかりだった。 「阿漕! まーたここにいた!」 不意に現れたのは、綏子姫付きの上臈女房、典侍の君である。 「姫様がお呼びだよ! 全く、落窪にばかり入り浸ってからに! さっさと来なさい!」 律子姫は明子の髪を撫でて、優しく、 「貴女が叱られるのは、私も嫌だわ。早く、行きなさい」 明子はのろのろと立ち上がり、典侍の君の後について、綏子姫の住む東の対に向かっていった。律子姫は夜着を被り、横になった。 ・ ・ ・
ある日の夕方、紀子姫付きの女房である大夫の君が、明子を呼び止めて言った。「阿漕、姫様がね、あんたの御主人にお渡しして下さいと」 大夫の君は律子姫にやや同情的なので、敢て落窪の君とは呼ばなかったのだ。言いながら渡したのは手紙の包みである。 「きっとお会いしたいってお手紙でしょう。今日は北の方様も方違えでいらっしゃらないし」 とかく女房というのは詮索好きである。明子は礼を言って、手紙を持って律子姫の部屋へ来た。 「姫様、中の君様からのお手紙です」 滅多にないことで、律子姫も珍しがって、いそいそと包みを開く。
「落窪の君様
「まあ嬉しい。一度お姉様に箏を教わりたいと思ってたのよ」山鳥の尾の(「秋の夜」の意味)徒然を箏に紛らしたく存じます。貴女の箏の嗜みはかねてより聞き及んでございます。今宵いかが。 紀子」 姫は頬を紅く染めて言った。だがしかし、部屋の隅に立てかけてある箏を見ると、たちまち失望の色が取って代った。塗りは剥げて絃は切れ、埃に埋もれたような箏を、どうして姉君の前へ持ち出せよう。 「……お受けするにしても、お断りするにしても、返事は書かなくちゃ」 と言って筆を取ったものの、絃が五本しか残ってないと書くのは、実物を持って行くより恥かしい。と云って、気分が悪いの、言いつけられた仕事があるのと偽って断るのは、姉君の好意に背くことだからしたくない。やはり事実は事実だ、仕方がない。 律子姫の書いた返事は、明子と大夫の君を通じて紀子姫に届けられた。返事を開いて、 「なかなか字の趣味もいいわね。貧すれば鈍す、とも限らないものね。 『箏の緒も絶え』、てどういうこと?」 そこで明子が参上し、律子姫の母君の形身の箏が、どういう有様かを恥ずかしながら申し上げる。紀子姫は笑って、 「絃の張り替えがない、てことなの? 箏の絃は切れるもの、そんな事で恥ずかしがらなくてもいいのに。 大夫、箏の絃と柱を一揃い、阿漕に持たせてやりなさい」 明子が絃と柱、それに爪の一式を頂いて戻ってくると、律子姫は感激して、 「紀子お姉様、何て優しい方なんだろう! 上手く弾けるかなあ。もう長いこと弾いていないから……」 母君の形身の箏を出して、いそいそと埃を拭い、絃を張り替える。 夜になって、律子姫と明子は、箏を二人で担いで(!)西の対へやって来た。来る道すがら、綾子姫付きの女房美濃と出会って、 「まああきれた! 御主人に箏を担がせる女房が、京の都にいるとは思わなんだ!」 などと言われても、何とも答えようがない。こんな噂が広がるのは早いもので、律子姫と明子が、紀子姫の部屋へ来るや否や、ばたばたと足音をたてて、末っ子の三郎君がやって来た。かん高い声で、 「あ、落窪のお姉ちゃんだ!」 これを聞いて明子は、内心唇を噛む思いであった。律子姫は平静に、紀子姫に丁寧に礼を述べる。紀子姫は上品に微笑んで、 「貴女のお祖父様は、箏の上手と世に聞こえておいででしたね。貴女もさぞかし、上手に弾けるでしょうね」 式部卿宮の箏は、その頃並ぶ者なしと讃えられたものであった。そこまで上手に弾ける自信は、正直言って全くない。 「もう長らく弾いておりませんので……」 と言いつつ、母君に教わった曲を一曲、思い出しながら弾いた。弾く間ずっと、目を輝かせて聞いていた紀子姫は、弾き終わると、 「聴き覚えのない曲ですね?」 と言って身を乗り出してきた。聴き覚えのないのも尤もだ、 「この曲は祖父が自身で作って、母だけに伝えたと、母が生前申しておりました」 この曲を弾ける人は、今では律子姫一人なのである。紀子姫は大いに驚きかつ喜んで、その曲をぜひとも教えてくれと、熱心に懇願するのだった。 「すごいなあ。僕も弾きたいな」 三郎君も、音楽に興味を持っていて、時々紀子姫に箏を教わりに来るのだった。早速箏を持って来させて、夜更けるまで三人、合奏を楽しみ、かつ交誼を深めたのだった。 この合奏を聴いていた人が、もう一人いた。他でもない、忠頼卿である。 「可哀そうに律子は、これほど上手に箏を弾ける手で、針仕事ばかりさせられて……」 卿は西の対の簀子縁に立って、箏の音を聴きながら呟くのだった。 (2000.6.16) |
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