釧路戦記 |
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第四十四章
午後五時になった。辺りはもう夜の闇に包まれてきている。いかにしてここを突破したものか。私は考え込みながら、辺りを歩き回った。時は刻々と過ぎてゆく。夜の帳が下りた。地面やトロッコの上などに、空缶の中に蝋燭を立て、上にガラス瓶を被せ、缶の横に穴を開けた即製の燭台が置かれ、その光の中で飯を喰う兵士がいる。 「それを早く言わないか」 中隊長の声がした。何の話だ? 暫くして、私の肩を叩いた者がある。大原の声がした。 「矢板、ちょっと」 私は振り返った。目に異様な物体を捉えた私は、思わず叫んだ。 「な、何だ、そりゃ!?」 腰から下と、左手に包帯を隙間なく巻いたその人物は確かに大原ではあった。 「負傷か?」 大原は首を振った。 「違う。部下に言いつけて、包帯を集めてくれないかな」 「負傷じゃないか。誰がだ?」 「わかってないな」 「当り前だ。その格好で『包帯集めろ』って言ったら、誰だって負傷だと思うに決まってる」 「説明しよう。うちの小隊のトロに、誰が積んだのか知らんがバズーカが一挺あった。弾薬もだ。それでだ、この夜陰に乗じてバズーカを射ちに行くんだ」 「ここは雪山とは違うぞ。上から下まで真っ白になって射ちに行くんじゃ、灯松持って射ちに行くようなもんじゃないか」 「敵の陣地の正面から射つとは言ってないだろうが。よく聞け。トーチカの砲は西側へは向いていないだろう。西は沼だからだ。沼から攻撃して来る可能性は余り考慮していないだろう。だから、沼から攻撃するのだ。氷の上を匍匐前進して行って、トーチカの背中に一発かます。氷の上を行くには白装束は目立たない」 「やっとわかった」 私は部下に命じて包帯を集めさせた。大原の所へ持って行くと、大原はあとは顔に巻くだけになっていた。もう一人、佐藤が白装束になっている。 「この包帯、後で返してくれるんだろうな?」 大原は言う。 「必要でなくなったらな」 私は戯れに言った。 「まるで死装束だな」 大原は笑って言った。 「多少無粋だがな。左前にしておこうか」 やがて、顔も手足も躰も包帯で巻き、包帯を巻いた鉄兜を被り、包帯を巻いた靴を履き、包帯を巻いたバズーカを背負い、包帯を巻いた小銃を担いだ二人は、氷の上に出て行った。ただ非常に困った事には、上弦の月が、南天に煌々と輝いているのである。これでは敵に見つかってしまう。私は不安になった。氷の上を二人は這ってゆく。 私達は戦闘配置に着いた。二十八門の迫撃砲が、敵陣に向けて据えられ、兵士五百が小銃を構えて突撃命令を待っている。 ふと私は、辺りが暗くなったのに気付いた。空を見上げると、見よ! 厚い雲が、今しがた月を覆い隠したところだ。月が再び姿を現す迄に、あの二人はトーチカを破壊できるであろうか。とにかく、又とない好機である。 一閃。トーチカのある辺りからだ。 爆発。と次の瞬間、猛烈な大爆発が起こった。殷々たる爆音は辺りに轟き、待機する兵士達の顔は煌々と照らされた。 「わぁ――っ!!」 「やった――!!」 五百の兵士の、興奮と歓喜の雄叫びは、爆発の轟音よりも高らかに周囲に響いた。 小さな爆発が、仕掛花火のように相次いで起こった。二十八門の迫撃砲が、一斉射撃を始めたのだ。迫撃砲が各門十発発射してから、我々が総攻撃を開始する。 第九斉射の爆発が起こった。中隊長の号令が下る。 「突撃!」 私達は、喚声を上げながら、怒涛の如く突撃した。私達を迎えるかのように、第十斉射の爆発が起こった。二車線の車道は、立錐の余地もなく兵士で埋まった。敵はぱらぱらと射かけてくるが、その音は我々の、辺りにこだまする喚声にかき消されてしまった。 私達は、幕舎やら何やらが燃え上がっている敵陣地に突入した。トーチカは消し飛んで跡形もない。瀕死の敵兵は、私達の靴に踏みにじられて息絶えてゆく。燃え上がる幕舎からは、日達磨になった敵兵が飛び出して来ては、一人ずつ射倒されてゆく。私と何人かの兵は、敵の中尉を一人捕虜にした。 敵は敗走を始めた。私達は追撃に移ろうとした。その時、陣地のすぐ北側でシラルトロ沼に流れ込む川に架かる橋の北詰にいた敵がハンドマイクを手に取って怒鳴り始めた。 「討伐隊の指揮官に告げる。速やかにここを放棄して退却せよ。もし一人たりとも橋を渡ろうとすれば、我々は橋を爆破する」 陣地はしんとなった。私は捕虜の中尉に訊いた。 「あいつの言っている事は本当か?」 中尉は不敵な笑いを浮かべて言った。 「そうだ。橋には、五十キロのTNTが仕掛けてある。橋を落とすには充分な量だ」 私は中尉を中隊長の所へ連行して行くと、事の次第を報告した。中隊長は歯がみした。 「敵は我が軍の弱点を衝いてきたな。我が軍は非戦闘員に一切の損害を与えない主義だということを」 私は中尉に訊いた。 「五十キロのTNTはどのように仕掛けてある?」 中尉は横柄に言った。 「そんな事を訊いて、工兵部隊に撤去でもさせる気か? 無駄だ。工兵が爆薬に手を触れた時点で工兵諸共橋を爆破するよう命令してある。コードを切ろうったって無駄だ。リモコンで爆発させるようになっている」 中隊長は言った。 「それなら考えがある。工兵が爆薬を撤去する前に、爆薬の真上の欄干にお前を縛り付けるよう命令しよう」 すると、この中尉、実はからっきし意気地のない男であるらしく、急に顔色が変わった。 「爆薬の仕掛け方を教えたら考え直してもいいがな」 中隊長が言うと、中尉は早口にまくし立てた。 「教える、教える。川の真ん中の橋脚の、上から一メートルほどの所の外側に、二十五キロずつ両側に着けてある。針金で巻き付けてある」 聞き終わると中隊長は言った。 「よし、矢板。部下数人を連れて行って爆薬を撤去させろ。こいつを連れて行って欄干に縛り付けておけ」 「行きましょう」 中尉は震え上がった。私は彼を先に立たせ、後ろから銃をつきつけて、橋へ歩かせた。橋の南詰に来た時、近くにいた兵に訊いた。 「縄か針金は無いか?」 一人の兵が言った。 「針金ならあります」 「じゃ、それを持ってついて来い」 橋の上に来た。ハンドマイクの敵は怒鳴る。 「中尉殿をどうする気だ」 私は怒鳴り返した。 「弾丸よけ兼人質だ。爆破させられるものならしてみろ、中尉はお前に殺された事になるんだぞ」 私は橋の上に中尉を坐らせ、欄干に針金で、中尉の手を後ろ手に縛りつけた。ハンドマイクの敵は黙っている。何人もの敵兵が、私達に向けて銃を構えている。 私は橋から川を見下ろした。橋脚の外側に、黒い箱のような物が見える。 「足を押えていてくれ」 私は兵に言うと、銃剣を持って橋の上に腹這いになり、手を伸ばした。ちょっと手が届かない。ハンドマイクの敵は言う。 「お前の手が爆薬に触れたら爆破するぞ。それに、その時にはお前は蜂の巣だ。こっちを見ろ」 ハンドマイクの敵は声を上げる。中尉が喚く。 「お前、俺を、俺を殺す気か――!? 上官を殺したら、只じゃ済まんぞ!!」 ハンドマイクの敵は応える。 「如何なる場合でも、利敵行為は重罰ですよ」 「自分さえ、自分さえ軍法会議に送られなけりゃいいと思って!!」 「敵に打撃を与えるために自分を犠牲にすることを厭がってるのはどこの誰です?」 「今の言い分、軍法会議だ!!」 醜いものだ。敵はこんなに浅ましいとは知らなかった。それはさておき、手が届かぬ。 と、敵同士で騒いでいる隙を狙ったか、一人の男が東側の橋脚を登ってきた。白装束。大原だ。彼は言った。 「矢板、聞け。俺が、こいつを片付ける。ここは俺に任せろ」 「お、おい……」 「静かにしろ! 敵が俺に気付いたら一巻の終わりだ」 「……」 「ごたごた言わずに、俺に任せろ」 大原は手早く、爆薬を外すと、それを氷の上へ投げ落とした。鈍い音がして氷が割れ、爆薬の塊は沈んでいく。敵陣にどよめきが起こった。 「橋脚を狙え! 敵がいる筈だ!」 ハンドマイクの敵が喚く。一斉に銃火が起こった。大原は、弾丸を避けながら、西側の橋脚に移ってきた。 弾丸が橋脚に、橋桁に撥ねる。私は中尉を弾よけにしているからいいが、大原はそうもいかない。しかも今では、白装束が逆に目立ってしまう。 ようやく大原は、爆薬を外した。外すが早いか、爆薬を氷の上へ投げ落とした。その時何故、私は頭を引っ込めたのだろうか。 轟音が起こった。敵は逆上の余り、起爆装置を作動させてしまったようだ。大原は大丈夫か? 爆音が消えた。私は、大原の姿を求めた。大原は、肋材にしがみついている。白装束は、煤で真っ黒だ。私は思わず叫んだ。 「でかしたぞ! さあ、早く! 登ってくるんだ!」 大原は、辛うじて聞き取れるような声で答えた。 「だ、駄目だ……腕が……」 よく見ると、大原の白装束は血塗れだ。その大原を狙って、敵は尚も射かけてくる。 「これに掴まれ!」 私は銃を持ち替え、大原に差し伸べた。しかし大原は、もはや手を伸ばすこともできない。 「もう駄目だ! 俺の分も、戦い抜いて、くれ……」 大原は、悲愴な顔で、私を見上げた。私は息を呑んだ。頷くのがやっとだった。 不意に大原は身をのけ反らすと、仰向けに落ちて行った。先般の爆発で氷は割れ、沼の水が口を開けている。その中へ、大原は落ちた。黒々とした水の中に、大原の体は沈んでいった。 橋の向こうの我が軍では、一斉に悲嘆の声が上がった。私は呟いた。 「あの白装束が、本当の死装束になっちまったな……」 妙な悪臭が漂ってきた。私は顔を上げた。欄干に縛られていた中尉は、呆けたような顔で、空を眺めていた。激しく打ち震えている。そして、腿の間からは、止めどなく小便が流れている。私は腹立たしくなった。 「肝っ玉の小せえ野郎め! 戦場で小便たれやがって」 伏せている兵に私は言った。 「援護するから走って逃げろ。後から行く」 兵は跳ね上がって走り出した。私は中尉の陰から敵を射る。少時援護射撃してから、私は銃を射ながら後ずさって友軍の許へ戻った。 大原の部下達が、佐藤の包帯をほどいていた。佐藤は目を押さえていた。 上村はしんみりと言った。 「また一人、俺の同僚がいなくなった」 太刀川は黙って頷いた。 佐藤が呟く。 「俺みたいな死に損ないが生き残って、小隊長みたいな人が……俺が行けば良かった…」 中隊長が私に訊いた。 「捕虜はどうした?」 「欄干に縛られて小便たれてます」 中隊長は顔を顰めた。 「橋は渡れるようになったな。攻撃に出よう」 別の中隊の中隊長が言った。 「じゃ、お前の中隊は攻撃をかけろ。うちの中隊は武器弾薬の押収をやる」 三個中隊が橋の向こうへ進撃してゆく中、私達は敵の残した武器弾薬の押収にかかった。しかし、迫撃砲弾二百八十発を叩き込まれた後では、破損されていない物資など殆ど無かった。特に弾薬は、トーチカに仕舞われていたらしいのだが、バズーカの一発で誘爆して殆ど煙となってしまった。無傷で押収できた物は小銃三十挺、軽機四挺、挿弾子数十個、弾倉約十個に過ぎなかった。兵士は二人だけ残し、ジープを呼んでから、私達は出発した。午後七時半であった。 (2001.2.12) |
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