釧路戦記 |
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第七章
無線機が鳴った。「こちらTYY」 〈TMHだ。敵は逃げている。追撃にかかるが、その前に一旦集合する。集合場所は、十七線道路の、三十五番川の北岸だ。集合時刻は○六○○。以上〉 「○六○○ですね、了解」 私は周りの仲間を集めて告げた。 「追撃に入る前に一旦集合するという事だ」 現在位置は五五・一メートルの丘の近くだ。四時間余り前、迫り来る敵から必死の脱出を決行した開南集落は、ここから二キロと離れていない。さらに、私達がこれから行こうとしている集合地点は、私の率いる遊撃隊が左翼本隊と合流して総攻撃に出た三十八番川の東僅か一キロの所である。八時間かかって戻ってきた訳だ。 四時四十分頃、集合地点に着いた。もう日はかなり昇ってきている。東へ来たことを実感する。もう百人以上の兵士が集まっている。四方から三々五々、兵士が集まってくる。私は中隊長を探した。 「矢板班長、戻りました」 やっと中隊長を見つけた私は報告した。 「戻ったか。余り走り過ぎないよう注意しろ」 中隊長の小言を受け流して私は仲間の到着を待った。やがて、吉川小隊の仲間達が三々五々戻ってきた。 午前六時迄に集まった、小隊の仲間は十九人であった。私達を見て上村小隊長が言った。 「吉川小隊の消耗はひどいな。半分しかいないんだな」 私は言った。 「ここへ来る前にも一偏戦ってますからね」 小隊長として人員を把握しておかねばならない。確認してみると、戦闘可能なのが浅野、酒井、谷口、西川、河村、小笠原、貝塚、片山、林、宮川、岸本、桐野、三木、荒木、五十嵐、君塚、古川、細谷、それに私。戦闘不能なのが石田。この戦闘が始まってからの戦死者は八人である。 トラックが数台やって来て、物資を卸し始めた。これは有難い。私の銃にはもう弾丸が殆ど無くなっていたのだ。配られた物資は、重機弾が一個小隊当り二百発弾帯四○本、迫撃砲弾五十発、小銃弾が一人当り弾倉十五個、手榴弾が一人当り五個。それに食糧が三食分。これだけあればもう一日戦える。私達は喜び勇んで弾薬を身に着けた。 吉川小隊の武器は、迫撃砲一門が破損して放棄されたという事で、重機は無事だし、トロッコも二台残っている。戦闘では迫撃砲よりも重機の方が大切だと考えている私は、重機を一挺放棄した太刀川小隊に交渉に行った。 「だから、迫撃砲の弾丸を半分譲る代りに、重機の弾帯を十本ばかり貰いたい訳です」 私がせがむと、小隊長は答えた。 「そっちの重機は三挺だな。うちは二挺だ。すると、十本やったら五十本の三十本だ。八本やろう」 妙な処で数にうるさい人だ。私はとにかく迫撃砲弾二十五発と引き換えに、弾帯八本を貰った。 物資をトロッコに積み終えると、中隊長が言った。 「我々の中隊は西別川流域、高丘付近が担当地域だ。すぐに出発する」 「了解、すぐ出発します」 私はトロッコを出発させた。先頭に私、酒井・谷口・浅野・西川のトロッコが次、小笠原・貝塚・片山・宮川のトロッコがその次、河村・林・岸本・桐野・三木・荒木・五十嵐・君塚・古川・細谷の十人が周りに付く。総勢十九人、昨日の午後基地を出発した時より十人も少ない、見すぼらしい隊列であった。 徹夜の戦闘の疲れだろうか、進みが遅い。のろのろと走るトロッコを見やる私も疲れていた。 風蓮川の北岸の丘の上に登った頃だった。 「疲れたな、本当に。休みたいよ」 誰かが漏らした。昨日の昼から走り、歩き通しの身体の疲れより、むしろ夜戦での精神の疲れの方が大きいだろう。いつどこから敵の弾丸が飛んでくるとも知れぬ状況に置かれれば、誰だって緊張する。一晩中、極度の緊張を強いられれば、誰だって疲労困憊する。 「俺だって寝たい。ここで停止して半日寝たい。しかしだ、それをやる訳にはいかん。上からの命令だからな」 私は言った。 「中隊長だって寝たいんだろうに」 荒木が言う。 「中隊長だって、もっと上から命令されて動いてるだけだよ」 古川が言う。 「じゃその、もっと上ってのは誰だ?」 河村が答える。 「討伐隊の隊長が一番上だ」 すると不穏な声が上がった。 「その隊長とか言うのは、この戦場で銃を担いで走り回ってなんかいないのさ。上の方ってのは、自分は安全な所にいて、下っ端の俺達に、こんな所で死ぬ思いをさせてるんだ」 三木が声を上げる。 「おい、五十嵐、止めろ」 五十嵐は続ける。 「上の方は気楽なもんだよ。自分は弾丸の飛んでこない所にいて、『どこどこではどれだけの戦果を上げた』ってのを楽しみにしてりゃいいんだから。俺達が仲間を何人も死なせて、自分自身も死ぬ思いをして、夜中じゅう戦っている間に、上の方は平気で寝てるのさ。朝になって、戦果がどれだけでこちらの損害が何人と、その報告を聞いても、何人も死んだ俺達の事なんか気にもしないのさ。 昨日の夜、和田が、俺の目の前で敵に撃たれた。即死だよ。二年も前から一緒に訓練してきた仲間が、あっと言う間に死んじまったんだ。その和田だって、上の方への報告にゃ『戦死者 和田道雄』て一行書かれて終わりさ。上の方はそれをちらっと見て『ああ、そうか』……こんなの有りか?」 いつかは誰かがこう言うと思っていた。 「和田は何のために死んだんだ? 自分じゃ戦場に出もしない奴の、自己満足の為にか?」 私は驚いて振り返った。 「自己満足!?」 五十嵐は言い返した。 「そうです! 俺達はこの戦いで、何一つ得てなんかいない、どころか仲間は死なすし、怪我はするし、こんな割に合わない事をさせられるのはもう懲り懲りです!」 私は言った。 「昨日の石塚と同じ事を言ってるな」 五十嵐は隊列から飛び出すと、隊列の前に坐り込んだ。私は隊列を停めた。 「矢板班長、俺は全員の為に言います。今すぐ引き返しなさい」 私はむっとして言った。 「誰がお前に、俺に命令する権限を与えた?」 五十嵐は答えた。 「なら言い直します。今すぐ引き返して下さい」 「それは、俺に頼んでいるのか?」 「その積りです」 「とすれば、俺はそれを聞き入れる義務は無いんだな」 「そうなるんですか。ならそうします」 「よしわかった。お前の頼みを断る。そこをどけ」 「厭です」 「これは命令だ」 「命令に従う義務は……」 「大ありだ。どけ」 「厭です。よく考えて下さい。全員の為を思って言っているのです。これ以上戦死者を出さない為に」 「まだ言うか。それでは仕方無いな」 私は銃を構えた。 「止めろ!!」 突然三木の怒号が聞こえた。振り返ると、三木は凄まじい形相で、私に銃を向けている。 「五十嵐は俺の部下だ! 矢板の部下じゃない! 勝手な真似はするな! 五十嵐を殺すなら、俺を殺してからにしろ! ただその時は、矢板も道連れだ!」 三木の剣幕に、河村も手を出しかねている。 私は、左手の人差指を曲げることができなかった。私は銃を下ろして言った。 「どかなくてもいい。 五十嵐、一つ訊くぞ。お前は、戦闘を続ける気はあるか」 「ありません」 「そうか。なら、武器は持っていても無意味だな。武器をよこせ」 五十嵐は何も言わずに、武器を私の前に投げ出した。私はそれを拾って、トロッコに積み上げた。それから私は言った。 「これでお前は、俺の命令に従う義務は無くなった訳だ。好きなようにするがいい」 三木が叫ぶ。 「おい、五十嵐、本当に抜ける気か!?」 五十嵐は答える。 「止めないで下さい」 走り出そうとした五十嵐に、私は言った。 「おっと忘れた。食糧を置いて行け」 五十嵐は聞き入れず走っていく。 河村が言った。 「これで二人目か。中隊長にどう言訳するんだ?」 私は答えた。 「事実をそのまま申し立てるだけだ」 三木は叫ぶ。 「五十嵐! 戻れ! 俺の命令だ! 戻れ!」 五十嵐が立ち止まりもしないのを見て、三木は私に向き直った。 「見ろ! お前に、五十嵐を追放する権限があるとでも思ってるのか!?」 激しく私を詰る三木に、私は言い返した。 「誰も追放してなんかいない。出て行ってもいいと言っただけだ」 「もういい! 俺が連れ戻す!」 三木は叫ぶと、五十嵐の後を追って走り出した。 五十嵐の姿が、南の方へ遠ざかって行ったと思ううちに、不意に五十嵐の姿は見えなくなった。 「おい、何か変だぞ」 河村が訝る。私は頷いた。 「河村、ここで待機させろ。二、三人、一緒に来い」 私は言い残して走り出した。 五十嵐の姿が消えた辺りで、私は立ち止まった。丘がすっぱりと切れて、高い崖となっていたのだ。 荒木と古川が、後を追ってきた。私は崖の上から、下を覗き込んだ。程なく、崖の下に五十嵐が倒れているのが見えた。そこへ向かって、三木が崖を降りてゆく。 「ここから落ちたらしい。降りてみよう」 私は、崖の右側へ回って、風蓮川の川原へ降りた。はやる心を抑えつつ崖下へ行き、五十嵐の許へ歩み寄った。 凄じい形相で側に立っていたのは三木だった。三木は私を見るなり喚いた。 「見ろ! お前が五分前に追放した男が、このざまだ! お前は五十嵐に、冥土へ行けと命令したのか!?」 全く運の悪い事に、五十嵐が落ちたのは露岩の上だった。五十嵐の頭蓋骨は砕け、脳漿が流れ出ていた。既に死んでいた。 私達は崖の下に穴を掘り、五十嵐の遺体を埋めた。醜く歪んだ五十嵐の顔は、私への精一杯の抗議を表しているかのようだった。 私達は隊列へ戻った。河村が訊いた。 「どうだった?」 私は答えた。 「崖から落ちて、死んでた」 河村は溜息をついた。 「これで九人目か」 私の後から戻ってきた三木が、突然喚いた。 「お前が殺したんだ!!」 三木は銃を振り上げた。荒木と君塚、それに河村が、三木を抑えつけようとする。河村が、三木の銃を奪い取った。三木は三人の腕を振りほどき、銃剣を抜いて、私を目がけて突進してきた。 「殺してやる!」 私は三木の、昨日負った銃創の上に手刀を打ち下ろした。これは効いた。三木は全身を硬直させて立ち止まった。河村が三木を羽交い絞めにした。 私は言った。 「出発だ。これ以上遅れる訳にはいかん」 私達の隊列は、いつの間にか友軍に抜かれ、かなり遅れていたのだった。 それにしても気になる。こんなに遅い進軍で、追撃としての意味があるのだろうか。追撃というものは、可能な限り速やかに行い、敵を追い抜いて退路を断つくらいでなければ意味がない。それなのに、物資補給のために出発がかなり遅れた。敵歩兵部隊が、午前三時に円朱別から逃げ始めたとして、今午前九時には、北方遥か中標津辺りまで逃げている計算になる。私達が今の速さで追ったとして、中標津まではあと四時間はかかる。その間に敵は充分態勢を立て直すであろう。そうなれば、長駆追撃する我が軍の方が不利である。 午前十時頃、私達は、中西別へ通ずる道と中矢臼別へ通ずる道との丁字路に差しかかった。西別川まではあと五キロの道程だ。 無線機が鳴った。 「こちらTYH」 〈こちらTOH。敵の残党が現れた。援軍頼む。どうぞ〉 「了解。場所は? どうぞ」 〈上矢臼別丁字路北方一キロの沢だ。以上〉 「上矢臼別丁字路北方一キロの沢ですね、了解」 敵の残党がいた。ここから北一キロの所に。私は仲間を見回して言った。 「このすぐ北に敵が現れて、大原小隊が足止めを食ってるらしい。大急ぎだ」 私達は北へ走った。低い丘を越えると、前方の沢に人影が散らばっているのが見えた。双眼鏡で見ると、道の近くに比較的固まっているのは味方、左手の疎林の中に散らばっているのは敵である。 「どう考えても敵が有利だな。こっちは迫撃砲は使えないし、重機も使いにくい。どうしたものか」 西側から背面攻撃をかけるのが一般的だ。しかし西側は見通しの利く草地、敵がいるのは見通しの悪い林地である。もっと北の方には林がある。迂回して北側の林から攻撃することにしよう。私は大原小隊長に伝えた。 「西側から北西へ、林の中を通って行きます。多少時間がかかりますが。以上」 〈了解。早くしてくれ〉 私は隊列を率いて、まず南へ退いた。それから、牧草地と林を分ける小径に入り、西へ進む。やがて道が一軒の農家に行き当ると、農家の北側を通ってヤウシュベツ川の支流の谷に降りる。 小川に沿って谷を上る。緩やかな丘陵地とは言え道のない山林をトロッコで走るのは困難だ。トロッコが難渋しているのを見て私は言った。 「仕方無いな。どうせ林の中の敵に対して重機は余り役に立たんから、トロはここに置いて行こう。岸本と桐野、ここに残れ」 岸本と桐野を残し、私達十五人は小川に沿って尚も北へ進んだ。やがて川が無くなる辺りで、谷は二つに分れた。私は地図を見極めて、右側の谷に入った。 丘へ登り、今度は南東へ進む。敵陣の背後に静かに接近し、 「突撃――!」 私達は銃を乱射しながら敵陣に突入した。たちまち敵は蹴散らされた。私達は大原小隊のもとへ集まり、人員の確認をした。林が戦死し、数人の負傷者が出ていた。 丘の向こうの谷へ戻って、トロッコと共に道へ戻り、北へ向けて進撃を始めたのは正午頃であった。 午後一時頃、中西別の町に近づいた頃、無線機が鳴った。 「こちらTYH」 〈TMHだ。作戦終了だ。音根内付近の敵は完全に撃破された。速やかに基地へ戻れ。以上〉 「了解」 拍子抜けしてしまった。多分、三股基地の友軍が先回りして敵を叩いたのだろう。 私達は、一休みして昼飯を食べると、踵を返して南へ向かった。先刻通ってきた道より西にある小径を辿り、風蓮川の谷に建設された基地に帰り着いたのは午後五時過ぎだった。昨日出撃してから、一昼夜余り経っていた。 三木は帰還する道すがら、私を散々に罵り続けた。 「大体矢板、昨日の晩、俺達を放っぽり出してどこをうろついてたんだ」 「昨日の晩か? 敵の残党を追って開南へ言って、そこから東円朱別へ出て」 すると三木は鼻で嗤って言った。 「体のいい戦線離脱じゃないか」 「戦線離脱だって!?」 「誰がそんな所へ行けと命令したんだ」 私は平静を取り戻して言った。 「実戦は図上演習とは違う。その場その場で、最善の判断を下さねばならないのだ」 「それで矢板の下した最善の判断は、戦線離脱だったと」 「何を言いがかりをつけてるんだ。俺は、敵の残党を追って行ったのだ」 「それは誰の命令だ?」 「……」 「矢板は、吉川小隊長が重病で戦場に出られないから、その代理として小隊の指揮を執ることを命令されている筈だ。だから俺も、丸一昼夜黙ってついて来たんだ。それだのに俺達を指揮する任務を放り出して、自分一人の功名を挙げるためにうろつき回っている。河村、どう思う?」 河村は答える。 「そりゃ三木の思い違いだ。敵が敗走を始めたら追撃する、それは陸戦、いや海戦でも、作戦の常識だ。矢板はそれをやっただけなんだから」 三木の鉾先は変わった。 「河村、お前、いつも矢板の肩持つのな。俺が何か言うとすぐ年長者面して説教する。矢板が何か言うとすぐ弁護する。一昨日もそうだ」 「それは、矢板の言い分の方が理にかなっているから……」 「言い分がどうだろうと、昨日の晩、矢板が俺達を放り出してどこかへ行ったことは事実だろうが。もし追撃が正当だったら、中隊長が命令している筈だ。俺はそんな命令を聞いてないぞ」 「中隊長の事を言うのはよそう」 「何だ河村、お前は何かと言うとすぐ上の者に追従するんだな。一昨日だってそうだ。大体河村、矢板がああ言ってるのも、どこまで正しいんだか。矢板は中隊長から指名されてるもんだから、お前は矢板に追従して、矢板の言う事を真に受けてるが」 私は拳を固めた。河村は三木を説得する。 「そりゃ言いがかりだ。矢板が嘘を言ってるなんて証拠がどこにある」 「嘘を言ってない証拠はあるのか?」 私と一緒に開南へ行った小林はもういない。 三木は宣言するように言った。 「俺は、自分で見た事以外は信用しないぜ」 河村は三木に言う。 「なあ三木、部下が戦死して頭に来ているのはわかる。だからって矢板を責めるのは止せよ。矢板だって昨日、部下を二人戦死させているんだ」 三木はいきり立って叫ぶ。 「五十嵐は戦死じゃない! 矢板が殺したんだ」 河村は説得に努める。 「それが言いがかりだと言ってるんだ。五十嵐は自分の意志で抜けたんだから」 「抜けさせたのは矢板だ」 「矢板は、抜けるよう命令したんじゃない。抜けたければ抜けてもいいと言ったんだ。抜けさせた、と言うのは間違ってる」 三木はすっかり取り乱して喚き散らす。 「黙れ!! 誰がお前に、矢板の偽小隊長を弁護しろと言った!?」 偽小隊長、だと!? 河村は三木を説得する。 「余り興奮するなよ。傷が痛むぞ」 三木は相手にしない。 「俺には石塚の気持がよくわかる。上官気取りの野郎に、部下を犬死にさせられた奴のよ」 私は振り返って怒鳴った。 「勝手にしろ! 俺と一緒にいるのがそんなに嫌なら、さっさと失せろ! 今すぐ隊から出て行け! 五十嵐の後を追っかけて、地獄へでも行っちまえ!」 私だって、寺田と橋口を死なせて、平気な訳は決してない。ただ、その思いを同僚にぶつける事はしないようにと心がけているのだ。 (2001.1.30) |
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