岩倉宮物語 |
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第三部あとがき
未完の作品、それもストーリーがもう少しで一区切りつくのかまだ一波乱あるのかもわからないところで中断している作品に、あとがきというのも変な話ですが、9年前に中断した作品に今さら続きを書いて完結させる暇も意欲もなくなってしまったので、このままの形で公開することにします。第三部の主な部分は、これも氷室冴子さんの王朝ライトノベル「ざ・ちぇんじ!(前・後編)」を裏側から書いたような形になっています。「ざ・ちぇんじ!」自体、平安時代後期に原型が書かれ鎌倉時代に改作されたと考えられている王朝文学「とりかへばや物語」の現代風翻案となっているので、「とりかへばや物語」の原型から数えると、四次創作ということになるでしょうか。 「源氏物語」以後、平安時代後期から鎌倉時代にかけては、今では名前しか伝わっていないものも含めるとかなりの数の物語が書かれましたが、それらがいずれも源氏物語の影響をあまりにも強く受けすぎ、ついに源氏物語を越える作品が生まれなかったといわれているのが、王朝文学の限界であったと思います。(「平家物語」は新しい形の口承文学であって、ここでいう「物語」とは違います。) しかしそれら、源氏物語の亜流と称される物語群の中では、「とりかへばや物語」は、現代風に言えば性同一性障害を主題としている点で、なかなかユニークな作品です。少し前までは文化爛熟期特有の頽廃趣味、平安版エログロナンセンスの産物として不当に低く評価されていたようですが、性同一性障害を語ることがそれほどのタブーでなくなった現代では、人の心の有り様は大昔から変わっていないことの一つの証拠と見なされるようになってきたのかもしれません。 大元の原作である「とりかへばや物語」では、性同一性障害を克服した男主人公と女主人公が入れ替わる際、髪の長さという重大な問題が発生しています。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、平安時代の貴族の髪の長さは、男性は髻を解くと肩を覆うくらいなのに対して、女性はそれこそ身長を超えます。入れ替わるまで男装していた女主人公の髪がそこまで伸びるには何年も要します。そこで原作ではなんと「髪が一日に一寸(三センチ)伸びる秘薬」なる物を持ち出しているのですが、「ざ・ちぇんじ!」ではそんな荒唐無稽に頼ることなく問題を解決しています。その手腕は、さすがプロの作家、と敬服しました。 そのこともあって、「とりかへばや物語」の翻案「ざ・ちぇんじ!」を組み込むような形で、岩倉宮物語第三部を執筆しようと思いつきました。そしてそれだけでは面白くないので、第二部の末尾で高松権大納言の娘光子と結婚した正良が、光子の従姉弘徽殿女御と通じ、またしても帝から后を奪い取る(この場合は精神的に)ことによって帝への復讐を続ける、というストーリーを「とりかへばや物語」に由来するストーリーの背後に置くことにしました。 ただ、正良は「とりかへばや物語」にも「ざ・ちぇんじ!」にも登場しない人物ですから、それから作り出したストーリーの中では完全な黒幕を演じています。そのために前半では、自ら積極的に行動することを迫られていた第二部での正良に比べると、かなり傍観者的な姿勢が目立ち、雅信少将の苦境を横から見ながら「私に何ができるだろうか(何もできない)」といった自己完結した独白を繰り返しています。作者ですら読み返してうんざりする、延々と続く心中独白に、読者はきっと辟易されたでしょう。 そのストーリーが始まる直前、第一章の末尾で、承香殿女御を出家に追いやる千載一遇の機会を正良が自ら投げ捨てた場面は、小説全体でも最も見劣りする部分だと思っています。主人公の行動が首尾一貫しないという小説作法上の大失敗を犯しただけでなく、見苦しい自己弁護を主人公に行わせた点で。 今となっては実現することなく終わりましたが、執筆当時に考えていた、第三部第九章から先の構想をご紹介します。時系列は、中断した第九章が第七年の暮れです。
・第八年 弘徽殿女御の産んだ皇子を東宮位に即ける
もしこの構想通りに完成させていたら、ウェブ上でも稀な大河小説になっていたでしょう。でも執筆当時の私の筆力では、きっと同工異曲の冗漫な文章の繰り返しになっていたと思います。
・第十〜十五年の間 尚侍の産んだ皇子を生後間もなく暗殺する。場合によっては尚侍も ・第十五年頃 教仁親王と文子内親王を偽装心中の形で暗殺する。藤壷女御は悲嘆の余り病死 ・第十九年 久子内親王の暗殺を企てて失敗し、大宰府へ流される。配流先で、かつて桐壷女御に産ませた息子と再会する ・第十九〜二十二年 法成寺一門を操作して息のかかった者を九州各国の国司に配置し、勢力を扶植する ・第二十二年 大彗星が出現。「君側の奸、承香殿女御と近衛一門を誅せよ」という宇佐八幡宮の神託を捏造する。九州各国の軍勢を集めて京へ攻め上り、近衛一門を追放し承香殿女御を出家させる。帝に迫り、弘徽殿女御の産んだ東宮に譲位させる 2001年1月11日 |
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