岩倉宮物語 |
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第八章
翌日、いつもより少し遅れて参内すると、殿上の間は騒然としていた。入って行った私を、待ち構えていたかのように信孝が捕まえて言った。「大変な事になりましたよ、帥宮殿! 綺羅少将が、姿を消したのです」 「少将が!?」 私は扇を取り落とした。 「何でも今朝になってみたら、部屋には影も形もなく、身辺が整理され、三の君の御文が焼かれた跡があったとか。明らかに、自ら覚悟の上での失踪です」 そうか、「何かあったら」とは、こういう事だったのか。私は今更ながらに、昨夜少将が言い残していった謎めいた言葉の真意を悟って、思わず唇を噛んだ。と同時に、拭い去り難い疑問、更には怒りに似た思いまでもが、一塊りになって胸の底から湧き上がって来るのを感じた。 何故少将は、失踪したのだ。それも、少将の真実を全て知り、全面的な協力と支援を約束したこの私に、一言の相談もなく。失踪する程思い屈じていたのなら、何故それをこの私に打ち明けてくれなかったのだ。そんなに友達甲斐のない人だとは思わなかった、見損なったぞ、と声を大にして言いたい位だった。 噂は宮中を席捲し、上から下まで大騒ぎになった。内大臣も堀川権大納言も、総力を挙げて捜索に着手した。一門の長者たる関白左大臣も、全幅の協力を惜しまなかった。しかし、何日経っても、何の手掛りもなく、少将の行方は杳として知れなかった。 八月に入って暫く経った頃、追いかけるように別の事件が発生した。夜間巡邏に出ていた検非違使が、中御門殿の近くで落し文を発見し、内裏に届けた。その文に書かれていた事というのが、祐子から男に宛てて、少将の失踪は自分達のせいだ、生まれた子が少将に似ていなかったら自分達の罪が露見する、等々、祐子と誰かある男が密通し、祐子はその男の胤を宿しているという事実を、隠す余地なく露にしていたのだった。勿論、誹謗を目的とした悪質な落書という線も考えられるから、帝は宰相中将の立会いの下、藤壷女御に文を見せて検分させたが、祐子の真筆に間違いないとの事であった。 「きっと綺羅は、妻の密通を知って、あれ程迄に入れ込んでいた妻に裏切られた屈辱に耐え切れず、姿を晦ましたのだろうな」 帝は私を前に、すっかり感興を害した顔で言う。隣に坐っている宰相中将を横目でちらと見ると、すっかり恐縮し打ち萎れ、どうか自分にまで累の及ぶ事のないように、と願っているのがはっきりと顔に出ていた。宰相中将に代って何か言わねば、と思っても、言うべき言葉が出て来ない。 少将は、祐子が蔵人少将と密通していた事を知った後、どちらも責める積りは毛頭ないと私に言ったのだから、裏切られた屈辱が失踪の動機になった、という事だけは、まず考えられないのだ。と言って、他に失踪する動機など全然考えられないし、それに今私がここで、失踪の動機はそれではない、とは言えない。縦え今は失踪しているとは云え少将に、絶対に口外しないと約束したのだ。その約束を違える事は、男として潔しとしない。ただじっと黙って見守るしか、術はなかった。 確かに祐子は、夫ある身で密通したのであり、その行為を正当化する余地は全くない。しかし、本当は女である名ばかりの夫によって、名ばかりの妻の座に据えられている祐子の前に、本物の男が現れて、誠心誠意愛してくれたら――あの行為をする事が即、男が女を愛する事だとは思わないが――やはり心が動くのではないだろうか。それに祐子自身は知るまいが、少将が失踪した本当の動機は、祐子の密通とは別に、どこかにある筈なのだ。その責任までも負わされるとなると、私は祐子に、一抹の同情を禁じ得なかった。 皆に人気の高かった少将の失踪が、脇目も振らず愛し続けた祐子の裏切りによるものだ、という風評が一朝にして広まると、祐子は都中の人々から指弾される身となった。近親の者も立場を失って、内大臣は病と称して中御門殿に籠り切りだし、藤壷も元来が大人しい性格の上、少将の失踪に心を痛めていたところへこの不祥事で、それ見た事かと獅子吼する承香殿に、居たたまれなくなって里退りしてしまった。宰相中将は小さくなっているし、兵衛佐は、祐子と密通したのは自分ではないと、躍起になって言い募る。 もう一人の中心人物――蔵人少将はと言えば、これが少将の失踪以来、ずっと式部卿宮邸に籠り切りである。祐子と密通した張本人であり、祐子の腹に子を儲けた父親でもある蔵人少将が、少将の捜索に乗り出すでもなく、内大臣の前に進み出て全てを告白するでもなく、徒らに忸怩として時を過ごしているのを、私は何とも歯痒い思いで見ていた。蔵人少将としては、もし祐子が最後の最後まで口を割らないでいてくれれば、という一縷の望みに賭けていたのだろうが、それは私から見れば実に潔くない、卑怯極まりない態度でしかなかった。と言ったところで、それは所詮傍観者の綺麗事に過ぎない。私が蔵人少将の立場にあったら、どんな行動に出るだろうか、それが何とも言えない以上、蔵人少将を口先だけで非難する事はできない。 私としてはもう一つ、懸案となっている事があった。尚侍の事だ。失踪する程思い屈じていた事を、私には一言半句も洩らさなかった少将だが、少将がその将来を深く案じていて、毎日伺候を欠かさなかった尚侍になら、もしかすると何かを打ち明けていたかも知れない。失踪した当日も、その前日も、少将は病を押して参内し、淑景舎に尚侍を訪ねていたのだ。もしかすると、という気はするのだが、しかし少将の失踪で一番打撃を受けているのは、この宮中では尚侍の筈なのだ。少将も度々言っていたように繊細な尚侍なら、恐らく今頃は打撃の余り寝込んでいるに違いない。そこへ、少将から尚侍の後事を託されたとは云え、尚侍にとっては極めて気のおける人物であるに違いない私が押しかけるのは、どうも憚られる。今日にしようか明日にしようか、と逡巡する間に、少将の失踪からは早くも一月が経ってしまった。 八月も晦日に近いある夜、時ならぬ激しい雷雨があった。雷鳴の陣を布くべき近衛次将が、二人も欠けているさ中の事であったが、翌朝になってみると、またしても大変な噂が宮中を席捲していた。内大臣に勘当されていた祐子が、切羽詰まって、夜来の嵐に乗じて単身中御門殿を脱出し、蔵人少将の許へ走った、というのであった。私は既に少将の口から、祐子の密通の相手は蔵人少将だと聞かされていたから、それを聞いても別段驚きもしなかったが、他の貴族達は寝耳に水で、 「あの蔵人少将が、綺羅にそんな事を」 と驚く者もいれば、 「そう言えばこの春から、あの華やかな方にしては、山籠りをしたり病気と言って籠ったり、妙に鬱屈した様子ではあったが……」 と今更のように納得する者もいる。私などは少将に打ち明けられる前から、蔵人少将の様子がおかしいと睨んでいたのだから、今頃気付いた貴族達の観察眼の鈍さに呆れ返っているが。 「蔵人少将の殿上を削れ!」 事情を知った帝は、即座に断じた。今度という今度ばかりは、私は蔵人少将のために、一言の弁護もする気はなかった。少将の愛妻を寝盗るという、弁解の余地の全くない背信行為もさる事ながら、いよいよ切羽詰まった祐子が転がり込んで来る迄、忸怩として責任回避に腐心していたような、その態度が気に入らなかったのだ。身重の女が夜闇に乗じて単身邸を抜け出し、身一つで男の許に転がり込む、そこ迄祐子を追いつめた責任は、一にかかって蔵人少将にある。もし蔵人少将が、この期に及んでまだ責任逃れをしようとするのなら、天に代って私が成敗してくれる、一生、否、七度生まれ変わる後まで生き地獄にのた打ち回らせてくれる、とまで決心していた。 帝の逆鱗に触れて殿上を差し止められた蔵人少将は、父の式部卿宮からも勘当された。私が参内した直後に、珍しく式部卿宮が参内して来て、居合わせた者達全員にはっきりと、蔵人少将を勘当すると宣言したのだ。更に追いかけて、帝は蔵人少将を免官した。ここに至って蔵人少将も、漸く覚悟を固めたのか、一切弁解も嘆願もせず、二三日のうちに洛外の小さな別荘に祐子共々移り、謹慎の意を表した。蔵人少将がこうして、遅ればせながら責任を取る意向を見せたことで、二人に対する世間の風当りは幾らかは和らいだ。それには、一月以上経っても少将の消息が杳として知れず、これ以上二人を非難しても仕方がない、という雰囲気が生まれてきた事も与っていたようだ。 「今更蔵人少将を責めても、綺羅が帰って来る訳でもない。むしろ綺羅は、こういう醜聞が表沙汰になるのを望まなかったから、自ら姿を晦ましたのかも知れぬ」 九月四日、帝は私に言ったことがある。そんな理由だけで、言わば現実逃避のような形で、私にも告げずに身を隠したのだろうか、それにしても帝は、もう少将を諦めてしまっているのだろうか、と口には出さずに訝る私に、帝は、 「帥宮、実はこんな事があったのだ。些細な事かも知れないが、聞いてくれるか」 「は。恐れながら拝聴仕ります」 平伏した私に、帝は独りごつように言った。 「うむ。実は少将が失踪する前の夜、私は南庭を一人で歩いていて、少将に会ったのだ。一人で出歩いては危いと少将が言うから、微行した事があると言い、嵯峨野へ微行した折に、美しい姫に会った、と言った。その姫が誰かは、もう知っているが、時々、あの姫は綺羅だったのではないか、と埒もない事を思う時がある、とも……。思えばつまらぬ事を言ったものだが」 あれあれ、帝、あの事の真相に気付いていたのか? 気付いていないとしても、それこそ正鵠を得ているぞ。私が眉を上げたのに気付いたかどうか、 「すると少将は、『私は男ですから、姫にはなれません』と言った。それからだ、こう言ったのだ、『でも、時々、姫として育ちたかったと思います。今となっては、それも夢ですが……』とな。何を言いたいのかわからなくて、問い返せないでいるうちに、少将は走り去ったのだ。それが、私が少将を見た最後だ……」 その時の事を思い出してか、帝は少時黙り込んだ。それから、幾分身を乗り出して、 「帥宮、どう思う? そなたの持前の勘の鋭さで、少将の真意を探ってみてくれないか」 勘の鋭さも何も、少将が本当は女であるという一点を付け加えれば、それでもう答は明らかだ。少将は、女として、帝に恋をしていた、それ以外に何があろう。ただその結論を、少将が本当は女である事を帝に悟らせずに述べるのは不可能だ。少将が男である(という事を帝は当然の事としている)という前提で言ったら、それこそ……だ。 「恐れながら……少将は、もし自分が女であったなら、主上を愛し奉りたい、主上の御寵愛を賜りたいと、そう秘かに願っていたのではないでしょうか。姫として生まれたかった、と言わなかったのは、どうも解せませんが……」 恋は理窟で律せぬものとは言っても、あれだけ悪意を持たれた帝、しかもこの好色で我侭で偏狭で不誠実で破廉恥な帝に、あの少将が恋をしたというのが、私には信じられないと言うよりもやり切れない気がして、適当な事を言っておいた。 「そうか……まあ、そうかも知れないとは思ったが。私としても、女に恋されるのは嫌ではないな、女に恋されるのは男の勲章だから」 帝は満更でもない顔で、いい気な事を言う。帝に近づくような女の中には、恋愛など全くの仮面で、本音は帝の子を産みたいという野心が全て、という手合がざらにいる、なんて事は考えつかないのだろうか。まあ、少将がそうだったとは思わないが。 そうすると……少将が失踪した動機、と断定するには根拠もないし、動機としても弱すぎる気がするが、そのような物が一つ、急速に浮上してきた。他に考えつかないからと言っても、こんなのが失踪の動機だとは、やはり信じたくないのだが――少将は、帝への恋が実る見込のない事に絶望して、失踪したのではないか、という事だ。全く、宮中に老若取り交ぜて男はごまんといる中で、よりによって帝に恋しなくたっていいじゃないか。もし私が独身だったとしたら、私に恋した方が余程幸せになれるものを、何もあんな男を選ばなくたって……なんて事、うっかり言ったら命が危い。 ・ ・ ・
やり切れなさを感じながら高松殿へ帰ると、邸内は騒然としている。誰に訊かなくとも、事情はわかる。東の対にいる弘徽殿女御が、いよいよ出産の時を迎えんとしているのだ。「ああ、私、どうしようかな」 夕飯時、光子はふと箸を持つ手を止めて、何やら逡巡しているような声で呟いた。 「どうしようって?」 私が聞き返すと、 「お姉様の御産の事よ。初めての御産だから、お姉様はきっと、怖がってらっしゃると思うの。私、この事だけはお姉様よりも先輩だから、ずっとお側に付き添って、安心させて差し上げたいのよ」 「それはそうだね」 すると光子は太郎を見やって、 「でも、いつ迄かかるかわからないのに、その間太郎を放っておくなんて、出来ないわ」 と言って困ったような顔をする。それも尤もだ、とは思ったが、私は笑って言った。 「女御様のお側へ、行って上げたがいいよ。何と言っても御産なんて、そう何度もある事じゃない。特に今度は、初めての御産、生涯に一回きりの事だよ。行って差し上げるべきだと思う。太郎の事は、私が引き受けるから、乳以外はね」 「おしめの替え方、わかる?」 「何とかやってみるよ。いざとなったら、女房がいるし」 そんな訳で夜になると、光子は白装束に着替え、太郎に充分乳を飲ませて寝かしつけ、意気揚々と東の対へ向かった。一晩子守をする事になった私だが、太郎が黙って寝ていれば、する事は何もない。所在なさに自室から書物を取り寄せ、斜め読みしていても、心はてんで上の空であった。東の対からは、鳴弦や読経や、女房の声や甑を割る音など、光子の出産の時と同じような物音が遠く聞こえて来るし、西の対の女房達も落ち着かない様子で、そんな状況で何かに没頭するなど、到底出来る事ではない。本音を言えば私の方が、弘徽殿の出産に立ち会って、その一部始終を見届けたい位なのだ。何しろ弘徽殿の産む子は、十中八九私の子でもあるのだから……! 子の刻をとうに過ぎた頃、ざわめきの中から、ばたばたと人が走ってくる音が聞こえた。私は素早く、燭台の火を手燭に移し、それを手に取って簀子へ出た。渡廊を、たった一人で手燭も持たずに渡って来る女がいる。近寄って来たのを見れば、光子であった。光子は私の前で立ち止まると、肩で息をしながら口走った。 「お生まれになったわ、若宮様よ!」 私は、危く飛び上がるところだった。辛うじて怺えて、手燭を持っていない右手を、光子の肩に載せた。 「それは良かった」 口を開けば絶叫しそうになるのを、ぐっと抑えて小声で言うと、光子は私を見上げて、 「ね、貴方も、東の対へ行って来たら? 太郎は私が見てるから」 「うん、そうしよう」 私は手燭を持って、東の対へ行った。東の対に近づくと、様々な物音は一層喧しくなり、その中でも高松権大納言の声が一際大きく聞こえてくる。権大納言達の待機している部屋の前では、右衛門佐達が鳴弦をやっている。衛門佐に会釈して部屋へ入って行くと、権大納言は狂喜乱舞、手の舞い足の踏む処を知らぬはしゃぎようである。私を見るなりむしゃぶりついてきて、 「帥宮殿、帥宮殿、喜んで下され、とうとう我が一門に若宮を頂きましたぞ! これで我が一門の将来は安泰、いやめでたい、めでたい、万々歳!」 と声高に言い募る。顔は緩みっ放しで、嬉し涙を拭おうともしない。その余りのはしゃぎように幾分閉口しつつも、私も全身に激る勝利の快感に酔い痴れていた。 帝の妃が、男皇子を産んだのだ。今の状況からして、東宮儲立は間違いない。そうなれば高松権大納言一派が一挙に脚光を浴び、私にもいよいよ洋々たる前途が開けてくる、という事もさる事ながら、この男皇子は、私と弘徽殿だけが知っている事だが、私の子である可能性が高いのだ。この子が本当に私の子であるならば、そして次の帝位に即くならば、私は帝から、帝に知られる事なく、皇統を奪い取る事ができるのだ。復讐された本人に、復讐されたと知られる事なく成就する復讐、これ程優れた復讐があろうか。 皇子誕生の報は、翌朝宮中へもたらされ、瞬く間に洛中を席捲した。少将の失踪以来沈み込んでいた宮中も、これで少しは明るくなるかと思ったが、どうもそうではないようだ。何と言ってもこの皇子は、近衛一門の外に生まれたのであり、このまま成人して帝位に即けば、近衛一門の地位を確実に暗転せしめる存在である。表向きはどうあれ、内心では快く思っている筈がない。桐壷が産んだ前東宮のように、後見の勢力が皆無に等しければ、近衛一門から妃を差し出して、それによって自派内に取り込む事もできるが、なまじそこそこに有力な京極一門、かつては伏見院の外戚として最大の権勢を誇った一門が後見している以上、妃を差し出して手を組む訳にもゆかない。近衛一門から見れば、「生まれて来ない方が良かった」皇子なのだ。 さすがに帝は、「弘徽殿から男子が生まれなければ良かった」などとは言わず、報告に参上した私にも喜びを隠そうとしない。 「早く、顔を見たいものだな」 上機嫌で言う帝に、私も内心深く思う所あって、深く頷きながら応じた。 「御意にございます」 早くあの子の顔を見たい。見て、あの子が誰の子か、しかと確かめたいのだ。と言っても、生まれたばかりの子供の顔というものは、私も太郎が生まれた時に見て、余りにも人間らしくなさに鼻白んだくらいで、それを見ただけで誰の子か判断できるものではないが。帰ってから、太郎を抱いた光子と一緒に東の対を訪れて、弘徽殿に抱かれている二の宮を見た。光子は、さすがに太郎の生みの母だけあって観察眼が鋭い。 「若宮様のお顔、太郎が生まれたばかりの頃に、よく似てらっしゃるわ」 ここで動揺してなるものか。私は笑いながら言った。 「そりゃ、似ていて当然だよ。父親が兄弟同士で、似ているんだもの。母親も従姉妹同士で、血の繋がりは濃いんだし」 弘徽殿は黙って、私の顔を見て意味深長な微笑を浮かべている。この場にいる大人三人のうち、光子だけが知らない秘密を、二人で共有している者同士、一種の連帯感を感じていた。 五日目の産養を、権大納言達に伍して私も主催した。準備の差配は、やってみると中々大変で、近江以下の女房達だけでは手が足りず、弘徽殿付きの女房達の協力を得て、どうにか準備を整えた。 「産養ってのも、大変な物ですね」 参列客が帰ってから権大納言に言うと、 「若宮を頂いた産養なら、何度やっても苦にはなりませんよ」 権大納言は至極上機嫌で答える。それは帝の外戚に列する事が叶いそうな者として、当然の実感であろう。 ・ ・ ・
七日目の産養の日、太郎が突然熱を出した。光子はすっかり動転して、太郎を抱いて興奮している。私も気が気でなくなって、参内を休んで一日、ずっと太郎に付き添っていた。苦しそうにぜいぜい言ってはぐずる太郎を見ていると、昔、私が風邪を引いて寝込んだ時や、落馬して担ぎ込まれた時の事を思い出した。母や継父が大袈裟に心配するのを、あの時は鬱陶しく思ったものだが、今になってあの時の両親の気持が良くわかる。本当に、子供の病気の事で頭が一杯になり、何も手に付かなくなってしまうのだ。「子を持って知る親の心」とは、けだし名言である。宵の頃、光子と二人、全く熱の引かない太郎を前におろおろしているところへ、近江が来た。 「若殿様、宜しゅうございますか」 「何だ近江、何か用事か」 「はい、ちょっとこちらへ」 この非常時に、と思いながら不承々々部屋を出ると、近江は言った。 「尚侍様の御名代と申される方が、若殿様にお目通りを願い出ておられます」 尚侍、だと? そうだ、少将の失踪以来、いつか尚侍と連絡を取ろうと考えてはいたのだが、ここ数日は弘徽殿の出産で、つい忘れていた。先方から来たのは好都合。 「わかった。私の部屋へ通してくれ」 私の部屋へ行くと、若い女が平伏している。近江を退らせてから、私は歩み寄って言った。 「尚侍様の御名代の方か。面を上げられよ」 女は顔を上げた。年の頃は二十になるかならずかというところだ。私を見上げた顔に、僅かな緊張の色が浮かんだ。 「五月と申します。突然お目通りを願い出でました御無礼、恐れ入ります」 「いや、苦しゅうない。して、用件は如何に」 私が尋ねると、五月は一層緊張した面持ちで答えた。 「尚侍様の御入内が決定致しました。この件に就きまして、帥宮様の御知恵を拝借致したく、誠に恐れ入りますが、早急に淑景舎へ御光来を賜りとう存じます」 ちょっと、今、何て言った!? 尚侍の入内、と言ったのか!? 私は激しい動揺を辛うじて抑え、聞き返した。 「尚侍様の御入内、と申されたな」 「はい」 とうとう、やりおったか。言語道断の食言、少将の失踪を待っていたとしか思えぬ。私は震えが来る程の怒りをひた隠しに隠して、低い声で言った。 「わかった。すぐ参上する、と申し上げてくれ。夜分御苦労」 「はい、かしこまりました」 五月が退ってから、近江を呼んだ。 「今から参内する。緊急の用件だ。権大納言殿にも、そう申し上げてくれ」 「かしこまりました」 尚侍が何故私に、と思っているのだろうが、そんな様子はおくびにも出さない。私は手早く着替えて、牛車で内裏へ向かった。 一足先に内裏へ帰り着いていた五月に案内されて、私は淑景舎へ赴いた。 「これからおいで頂く桐壷には、東宮様もお成りになっていらっしゃいます」 五月は小声で言った。 「東宮も、ですか」 「はい。東宮様は既に、尚侍様が本当は殿方でいらっしゃる事を御存じです。勿論、綺羅様が本当は姫君でいらっしゃった事も。私如きの口から申し上げるのは恐れ多うございますが、東宮様は、もし事情が許すならば尚侍様に男姿に戻って頂き、その上で尚侍様に御降嫁なさる事を、強く望んでいらっしゃいます。尚侍様も、乗り気でいらっしゃるのですが、そこへ来てこの次第。帥宮様には、御事情を良くお酌み頂きますよう、重ねてお願い申し上げます」 私は力強く頷いた。 「わかりました。お二人の幸せのために、且は少将のために、尽力致しましょう」 東宮と尚侍が、いつの間にそんな仲になっていたのか、しかしこれは、私にとって千載一遇の好機である。尚侍と東宮を首尾良くくっ付ければ、必然的に東宮は東宮位を降りる。そうなれば弘徽殿の産んだ皇子の、東宮儲立を妨げる物は何もない。近衛一門の大物はさて置き、私も弘徽殿も高松権大納言も、東宮も尚侍も、皆が満足する結果を導けそうである。 導かれるままに塗籠へ入って行くと、薄暗い灯火の中、二人の女が坐っている。 「帥宮様のお越しにございます」 五月の声に、一人の女は平伏した。私を見上げたもう一人は、間違いない、東宮郁子だ。私は円座に坐ると、まず東宮に、続いて平伏した女に頭を下げた。 「尚侍にございます。帥宮様には私共の急な願いをお聞き入れ頂き、有難うございます」 尚侍の声は、これは男だぞ、と意識して聞かない限り、女の声の低い部類としか取れない程高い声だ。 「いや、私の方こそ、少将から貴方の事を宜しく頼む、と言われていたものを、今日まで等閑にしていた事、お詫びしなければなりません」 そう言って尚侍に再び頭を下げながら、尚侍の顔をよく見ると、これがまあ本物の男だろうか、と驚く程の女ぶりだ。しかも、あの少将に生き写しときている。ただ、男だと知っていて見るからだろうか、少将からは感じられなかった「男の匂い」を、僅かながら感じる。 「挨拶はその辺にして、話を始めましょうよ」 東宮の声がする。私は顔を上げた。東宮は私を見ながら言った。 「帥宮はもう知ってると思うけど、今日、尚侍の女御入内が決まったのね」 「は。承っております」 私が答えると東宮は鼻を鳴らした。 「全く、主上もどうかしておられるわよ。決して会わないとまで仰言っておきながら、いきなり入内だなんて」 「仰言る通り、言語道断の御食言。されど如何に御食言とて、綸言汗の如し、とも……」 やにわに東宮は声を上げた。 「ちょっと、黙ってて!」 確かにこれは、君主の器じゃないな。しかし、こういう東宮を怒らせると厄介だ。私は黙って、ほんの僅か肩を竦めた。 「大体主上は、綺羅がお好きだったんでしょう(それは初耳だぞ!)。それがどうして、尚侍に関心を持つのよ」 東宮は意外な事を言い出す。すると尚侍は、先刻よりは男らしい声で、 「だから、嵯峨野で会ったとかいう姫を、私だと勘違いしてるんだって」 五月も口を挟む。 「嵯峨野でしたら、間違いなく綺羅様ですわ。裸で水浴びしてらして、私、叱りつけましたもの」 東宮が反駁する。 「水浴び? それじゃ違うんじゃない? 主上は清らかな姫だと仰言ってたわよ」 帝や、或いは少将自身から聞いた事を、次々に思い出しているうちに、尚侍が苛立った声を上げた。 「ああもう、今は姉上の事じゃなくて、私の問題だよ、私の! 枝葉を取っ払うと、物事は簡単なんだ。主上は姉上がお好きだった。だけど姉上はいない、だから姉上に瓜二つの私に目を付けた、これだよ」 「で、どうするのよ、尚侍。女御になるの? 女冥利に尽きるわねえ」 とんでもない戯言を言う東宮を、尚侍は真顔でたしなめる。 「馬鹿言うなって。姉上と三の君の結婚とは訳が違う。一発で男とばれて、身の破滅だよ。いよいよとなったら、姉上の後を追って、失踪するしかない」 確かにその通りだ。しかし、失踪して解決できるものでもないぞ。 「この際、そうなさいませ、尚侍、いえ、若君。そうして綺羅様をお捜し下さいませ。私もお供しますわ。ね、綺羅様を捜しましょう」 言い募る五月に、私は言った。 「それは駄目ですよ。尚侍まで失踪して、どうやって事を収めますか。女御入内が決まりながら失踪なんて事になったら、下手すれば右大将殿の失脚ですよ」 尚侍も肯じた。 「それはそうです。しかし、父上の失脚を恐れて、ぼんやり入内の日を待っていても、入内即破滅だし……」 私は三人を見回して言った。 「前門の虎、後門の狼、という事態ですね。この際、尚侍には、駄目もとで勝負に出て頂くしかないのではありませんか」 「どうするの、帥宮」 「それを聞くために、私をここへお呼びになったのではありませんか。少し、考えさせて下さい」 尚侍がこのまま淑景舎にいては、坐して死を待つに等しい。それを避けるための妙案を、私は実に今、思いついた。草の根を分けても少将を探し出し、二人を入れ替らせるのだ。少将は帝に恋していたらしいのだから、少将にとってもそれがいいし、尚侍は望み通り男になれる。ただ、入れ替らせると言っても少将の髪は短く、そのままでは到底女姿になり得ないが、しかしそれ以外の手は考えつかない。とすれば、何としてでも少将を発見しなければならない。その捜索に当たる最適任の人物は、やはり尚侍を措いて他にないだろう。遅かれ早かれ尚侍は、男姿に戻らねばならないし、本人もその気なのだから、それを考えても尚侍を早くから男姿にして、それに馴染ませた方がいいだろう。そのためには……。 「考えがまとまりました。申しましょう」 三人が身を乗り出した。 「まず尚侍に、退出して頂きます。東宮から主上に、尚侍の退出を認めるよう、働きかけて頂きます」 「退出してどうするの。失踪するの?」 東宮が言う。私は首を振った。 「いや、尚侍には、写経をして頂きます」 「写経!?」 三人異口同音に叫んで、顔を見合わせた。私は構わず続けた。 「兄の雅信少将の無事を祈るための写経二十巻で、願掛けをするとの名目で、堀川殿の一室に引き籠って頂きます。潔斎しての写経なので、俗世との接触は一切断ち、人にも会わず、文もやりとりしない。尚侍の身の回りのお世話、食事を運び込むこと、灯の点け消し、それは五月、貴女の役目です」 「一体、何なのよ!? こんな時に、写経なんかして何になるっての!?」 東宮が堪りかねて、怒って喰ってかかる。私は東宮を手で制した。 「だからそれは、名目ですよ。空蝉の術です。衣はあれども中身はなし。尚侍は堀川殿で、誰にも会わずに写経していると表向きは装っておいて、その実はお望み通り男姿に返って、存分に少将を探して頂くのです」 「成程!」 尚侍が、感に堪えぬような声を上げた。東宮も漸く私の作戦を理解したようだが、まだ少し納得のいかない様子で、 「帥宮、それじゃ私は何なの。私には何もしないでいろって言うの」 「いいえ滅相もない。東宮は内裏の情報を、こまめに私と五月にお送り下さい。と言っても、東宮の集められる情報は、内向きが主でしょうから、表向きの情報は、私が積極的に集め、東宮と五月とに送ります。五月はそれを、尚侍にお送りするように。何と言っても私は公の立場もありますし、そうそう表立って貴方達のために動ける立場でもないですから、頼りになるのは貴方達三人の連係だけです。本当は私とて、率先して少将を捜しに出たい位ですよ、でも私は少将の縁の者でもないし、それに所帯持ちですから、そうも出来ないのです」 「わかったわ。帥宮、先刻は御免なさいね、やっぱり貴方、綺羅が見込んだだけの事はあるわ」 東宮が、妙にしおらしい事を言う。 「お褒めに与り、恐縮です。で、細かい打ち合わせは、近いうちにまた。今夜は、少し遅くなりましたから」 尚侍が平伏する。 「今日は本当に、どうも有難うございました」 「いいえこちらこそ、貴方達の為にお役に立てて幸いです」 翌朝参内すると、殿上の間はざわついている。専らの話題は勿論、尚侍の入内の事だ。 「いずれこんな話が出るとは思っていましたが、それにしても唐突な話でしたな」 「右大将殿も、これで気を取り直して下さればいいが」 当の堀川権大納言は、参内どころではないらしい。少将の失踪で、心身共にぼろぼろになっていたところへ、尚侍の入内、即ち一家の破滅に直結する事態の出来である。縁起でもないが、いつ死んでもおかしくない状態に違いない。 一日に一度は私を召す帝が、今日に限って音沙汰もない。帝としてはやはり、私を証人として約束した事に対する、重大な食言行為をした事で、私に対して後ろめたく思っているのだろう。もし昨日、尚侍の入内を帝が言い出した時、その場に私が居合わせたなら、どうしていたであろうか。以前の私なら、身命を賭して諌めたかも知れない。それを考えると、もしかして帝は、私が参内していないのを見計らって尚侍の入内を持ち出したのではないか、と勘ぐる事さえできる。何はともあれ、私はもうあんな帝のために、身命を賭して諌言しようとは思わない。子供達がまだ小さいのに、あんな者のために身命を擲つなんて愚かな事はしたくない。理性を失い恋に盲いた愚か者に、何を言っても無駄だ。権力を持った愚か者ほど、始末に負えない者はない。今となっては二の宮を立派に育て上げ、早く譲位させるだけだ。それはともかく、尚侍の破滅を防ぐための作戦に、私は昨夜既に着手している。帝になど構わず、私は私の作戦の成功を期し、三人のために尽力するだけだ。 弘徽殿の参内は、もう少し先の事になりそうだ。その日まで、尚侍の入内の話が出た事は伏せておこうと、私と高松権大納言は意見が一致した。皇子の誕生に符節を合わせたような入内話は、弘徽殿を逆上させかねないからだ。 二日後、私は秘かに淑景舎を訪れ、尚侍に会った。 「いよいよ明日、退出だそうですね。男姿に戻った貴方を、早く拝見したいですよ」 尚侍は頷きながら、 「私も早く、そうしたいです。この鬱陶しい髪と装束を捨てて、本来の格好に戻れるんですから」 「そうそう、御髪ですよ。明日御髪を下ろされたら、それは捨てないで、丁寧に巻いて大切に取っておいて下さい。首尾良く少将が見つかったとしても、少将の御髪は女姿になるには短すぎます。そこで、貴方の切った御髪で、うまく行くかどうかわかりませんが、髢を作るのです。髢で主上の目を欺けるようなら、はっきり言って誰も苦労しませんがね。今度の作戦、基本的に駄目もとですから」 実際、私にとって、これ程成算の少ない作戦は初めてであった。まあ、仮に不首尾に終わったとしても、私が失脚する事はないと思うが、少将と尚侍の一族が、その名誉を地に堕すのが避けられず、しかもそれを手を拱いて見ていなければならないのは、私にとって余りにも辛すぎる。 翌日尚侍は、五月を伴って退出した。帝は深い事情を知る由もなく、 「少将の無事を祈るための写経、だそうだ。さすが信心深い者は違うな」 と暢気な事を言っている。 尚侍の入内が発表されてからというもの、一度も私を召さず、あからさまに私を避けていた帝が、久し振りに私を召した。 「帥宮はもう知っていると思うが、尚侍の女御入内が決定した」 極めて事務的な、冷淡な口調だ。私も同じように、 「存じております」 帝は何とも居づらそうにもじもじと、わざと私から目を外しながら、 「偶々そなたが、珍しく前触れもなく休んだ日だったから、そなたのいない隙を突いて強行突破したと思っているかも知れないが、そんな積りは毛頭なかったんだからな」 などと、言わずもがなの弁解じみた事を言う。私が黙っていると、帝は焦ったのか、 「どうした、帥宮、何か言いたい事はないのか? そなたの事だから、発表の翌朝にでも駆け込んで来て、ああだこうだと諌言するとばかり思っていたのだ、それなのに四日も、何も言いに来ないから、却って不気味だ、そなたが何を考えているかわからなくて」 帝はこれ程迄に、私に対して負目を感じているのだ。私は顔には出さず、にやりと笑って応酬した。 「では主上は、私が諌言奉る事をお望みなのですか。それでは、お尋ね申し上げます。私がもし、尚侍の入内を撤回なさるべきだと諌言奉ったら、主上は尚侍の入内を撤回なさいますか」 「うー……」 返答に窮している帝に、私は畳みかけた。 「事この事に関しては、臣下の諌言は無用でありましょう。人の心を律する事は、その人にしか出来ない事です。他人に制せられて止むような恋心は、本物ではありません。私にも最近、漸くそのような事がわかって参りました」 言い方は穏かだが、内容は限りなく冷たい。私は帝を、恋に盲いて好きなようにするがいい、と突き放していたのだ。帝もそれを感じ取ったか、僅かに眉を寄せた。 「何だそれでは、私を見放したような言い方だな」 今頃気付いたのか、と私は内心呆れ返った。しかしそう言っていいものではないから、 「他の事では私は、遠慮なく諌言奉りますよ」 と言ってやると、 「天下の御意見番未だ健在なり、かな」 帝も笑った。 五月からの連絡では、退出したその日のうちに尚侍は、髪を切って男姿に改め、供人を二人だけ連れて邸を出たという。空蝉の術、それは私の頭脳を以てすれば、容易に考え出せた作戦であった。弘徽殿を内裏の外へ連れ出したあの時の方が、もっと手が込んでいただろう。写経という口実を持ち出したのは、帝や承香殿、或いは他の貴族達も信じ込んでいる、堀川殿にいた時分は念仏三昧だったという尚侍の信心深さ――それが本当かどうかは別として――を逆手に取った結果だ。案の定帝は、いとも簡単に瞞されてしまった。 尚侍との連絡には、清行を使うことにした。清行は相変わらず左京少進といううだつの上がらない職で、大して仕事もないため、私が高松殿に移った後も私に扈従している。一昨年の大作戦以来、私とはすっかり以心伝心の仲で、今回尚侍と私達との連絡役として、口が堅くて余り各方面に面の割れていない者をと思った時、清行を選ぶ事に躊躇しなかった。 尚侍を送り出してから五日ばかり後の時雨がちな日、私は秘かに東宮に会った。 「尚侍、今頃、どうしているかしら」 東宮は、私が少し意外に思った程しおらしい事を言う。私自身はそれ程良く知っている訳でもないのだが、少し前までは本当に我侭一杯の子供だった東宮が、こんな心配をする程に変わったのだ、やはり女子も三日会わなければ刮目して見なければならない。 「尚侍の事が、お気に懸りますか」 私が尋ねると東宮は、 「そうよ、それに尚侍は、男だとは言っても、今までここと桐壷の間しか歩いた事がないような人でしょ、それが毎日、こんな雨の中でも馬に乗ってるんだから、大変だろうな、って」 尚侍は東宮の言った通り、騎馬で各地を巡り歩いているのだ。十八の年迄農村で育ち、裸足で蛭に喰い付かれながら田圃の草取りをやった私にしてみれば、騎馬で巡っている尚侍など、大変の数にも入らない位だが、淑景舎と昭陽舎を往復するだけだった尚侍にしてみれば大変な労苦だろう。 「尚侍に御同情なさるのは尤もですし、尚侍がおられなくてお寂しい思いでおられるのは充分承知しておりますが、しかし東宮、尚侍がおられなくてお寂しいという御様子をお見せになってはいけませんよ。何となれば主上が、東宮が寂しがっておられるからというのを絶好の口実にして、大喜びで尚侍を宮中へ呼び戻そうとなさるのが目に見えているからです。尚侍が並々ならぬ決意の程をお見せになって籠居された以上、東宮もそれをじっと黙ってお見守りになる、そのような御様子をお見せにならないと」 私が諭すと、東宮は顔を曇らせた。 「それはわかるわ。でもやっぱり、ね……」 ここで自分の感情を徹底的に殺せるかどうか、それが人間の真価を決めるのだ。 「もし主上が尚侍を呼び戻そうと仰せになったら、その時こそ私が、体を張ってでもお止めして見せます。主上は尚侍の入内の事では、私の顔を直視できない程の負目を感じておいでですから、きっと効きますよ。それから尚侍の事ですが、確かに尚侍には難行苦行の毎日でしょうが、これも本物の男に生まれ変わる為の試練です。難行苦行を経た尚侍は、きっと以前の少将よりももっと、真の男らしさを備えた立派な男になっていると思いますよ」 本当に人間を鍛錬、陶冶しようと思ったら、十日や二十日騎馬で田舎を歩き回るだけでは全然不足で、二年や三年は百姓や海人山賎の暮らしを体験してみる位の事は必要だと思う。様々な艱難辛苦に満ちた庶民の生活を、物心つく頃に二三年も経験すれば、貴族特有の甘ったれた意識など霧消して、本当に苦労を知る人間になる。それで萎縮したりひねくれたりするような人間なら、これはもう見込みなし、どうにでもなれ、だ。 「あの尚侍が日に焼けて逞しくなって、帥宮みたいになるのって、何か想像できないわ」 そう言って東宮は笑う。確かに私は、日々弛まぬ武術の鍛錬と庭の畑仕事とで、顔は日焼けして黒いし体は筋骨隆々の逞しさだが、私の言いたいのはそういう外面的な事ではなく、内面的な事だったのだ。まあ、当年十五歳の東宮には、まだわからないのだろうが。 出産から二十一日目、九月二十四の宵刻に弘徽殿は参内した。生まれたばかりの子を残し、光子とも離れて四面楚歌の内裏へ行かねばならぬ弘徽殿は、さぞかし後ろ髪を引かれる思いだったろう。しかも参内した弘徽殿は、遅かれ早かれあの事を知る。その時の事を思うと、出来る事なら弘徽殿を参内させず、ずっと高松殿で二の宮の養育に専念させたい、と思う事も屡々あった。 翌日帝は、私を召して言った。 「これから弘徽殿に行こうと思う。そなたも来ないか」 拒否する理由はない。もしもの時には私がいた方が、弘徽殿に対して抑えが利くだろう。 「お供仕ります」 帝に続いて弘徽殿へ赴き、いつものように一段下った廂の間に伺候した。 「お久し振りでございます。主上にはお変りもなく、祝着至極に存じ上げます」 紋切り型の口上を述べる弘徽殿の声には、一抹の寂しさがあった。やはり、産んだばかりの子と別れて来たことが、弘徽殿の心に影を落としているのだろう。ところが帝はそれをどう誤解したのか、 「里住まいは寂しかったろう。これからはいつも、私の近くにいられるのだから」 自惚れんのもたいがいにせい、と私は内心毒づいた。弘徽殿の、と言うより母の心を、全然わかっていないじゃないか。これでも二女の父か、それで良く、子供を持ったら人間が円くなる、などと吐けたものだ。先刻弘徽殿が見せた感情の翳りは、こんな愚劣な男と今後も付き合い、体を許し続けなければならないやり切れなさが吐露したのかも知れない。 私や弘徽殿がどう思っているかなど知る由もない帝は、何気なく言った。 「そなたはもう知っているかも知れないが」 「何でございますか」 不思議そうに聞き返した弘徽殿に、帝は、 「近いうちに尚侍を、女御として入内させたいと思っている」 ああああ、言ってしまった、弘徽殿の耳にだけは入れたくなかったのに……。がっくりしながら耳を澄ますと、 「……お、主上、今、何と仰せられました」 弘徽殿の震える声が聞こえる。帝は全く意に介した様子もなく繰り返した。 「近いうちに尚侍を、女御として入内させたいと思っている、と言ったのだが……?」 もし弘徽殿が逆上して暴れ出すような事でもあったら、何としてでも抑えねば、と腰を浮かしかけた時、 「主上のお考えは、良くわかりました。私如きから申し上げる事は、何もございません」 弘徽殿の、取り澄ました声が聞こえた。しかしその声の、全身の血も凍るかと思われた程の冷たさに、私は息を呑んだ。まして帝は、本当に全身が凍りついてしまったのか、暫くの間奥からは誰の声も聞こえなかった。やがて、 「……な、なあ、何でそんなに、怒っているんだ?」 すっかり度を失った、帝の声が聞こえた。それに対しても弘徽殿は極めて冷淡に、 「怒ってなどおりませんわ」 と素っ気なくあしらう。帝の方が居たたまれなくなったらしくて、暫く黙っていた後、 「……うーん、そ、そういう訳だ、じゃ、私は、帰るから」 と早口で言い置いて、転げるように奥から出て来ると、後をも見ずに逃げ去った。私はその後ろ姿には一瞥もくれず、簾ににじり寄った。すると奥から女房が出て来て、 「帥宮様、こちらへおいで下さいませ」 立ち上がって女房に続いてゆくと、簾の中、几帳のすぐ前まで招ぜられて、円座を勧められた。几帳一枚隔てて弘徽殿がいると思うと、円座に腰を下ろしながらも胸が高鳴るのを抑え切れなかった。 私に席を勧めた女房は、さっと退っていく。他の女房達も退ったらしく、気が付くと弘徽殿の他には人の気配がしない。これから何が起こるのか、と漠たる不安と微かな期待が胸をよぎった時、几帳の間から弘徽殿が手を差し出した。指は僅かに、私を招くような動きを見せている。私は意を決して、円座を外し、几帳ににじり寄った。その間弘徽殿は、一言も発しなかった。何か言わねば、と、 「女御様……」 と低く呼びかけた時、弘徽殿は几帳を撥ね上げ、がばと私の膝に突っ伏した。 「帥宮様、私、私、悔しいわぁ……!」 胃の腑を揉み絞るような声を上げて、わあわあと泣く。私は言葉を失って、弘徽殿の髪をそっと撫でてやるのが精一杯だった。 「私が何人若宮を産んでも、誰一人御位に即けたくない、そんなに私がお嫌いなら、面と向かってそう仰言ればいいんだわ、それを何よ、近衛御一門から若宮欲しさに、三の君に色目をお使いになったり、少将がいなくなるのを待って尚侍に手を伸ばしなさったり、やり方が嫌らしいのよ! そう思わない?」 怒りに任せて言い募る弘徽殿に、私は皮肉な笑いを浮かべて言った。 「女御様の仰言る通りですよ、しかし、あれは御持病の一種ですよ、それも悪性中の悪性、有馬の湯でも治せない程の。そうとでも思って諦めなさるより手立てはありませんよ」 「御病なら、さっさと譲位なさればいいんだわっ!」 私は弘徽殿の耳に口を寄せて囁いた。 「今御譲位遊ばされては困りますよ。もう少しお待ちになって下さい、そうすれば必ず、二の宮を東宮の御位に据えて御覧に入れますから」 すると弘徽殿は、驚いて顔を上げた。血走った目を見開き、私を見上げて鋭く聞き返す。 「必ず、あの子を?」 私は頷いた。 「ええ、必ず。仮に明日尚侍が入内しても、三の宮が生まれるより先に、郁宮は東宮の御位を降ります。そうすれば二の宮は間違いなく、東宮の御位に即かれます」 もし尚侍が少将を発見できなかったとしても、そうなったら尚侍を少将として復帰させ、その上で東宮を降嫁させることは不可能ではないだろう。もしいよいよ駄目になったら、東宮を唆して出奔させるという裏技もある。何にせよ東宮自身が東宮位を降りたがっているのだから、それにうまく便乗し、うまく東宮を操って行けば、東宮位が転がり込んで来るという寸法だ。その目算があったからこそ、こんな成算も旨味もない作戦に深く関与したのだ。 弘徽殿は、涙に濡れた頬に微笑を浮かべた。 「私はきっと、うまくやって御覧に入れます。ですから女御様も、挫けずに頑張って下さい、あの子のために」 「ええ、頑張りますわ、あの子のために……」 抱き合った弘徽殿と私は、どちらからともなく唇を重ねていた。 (2001.1.11) |
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