岩倉宮物語

第六章
 二月十五日、恒例の夜桜と満月を愛でる宴が催された。詩歌の吟詠、管絃の演奏に、殿上人達は腕を競う。私も新作の箏と横笛の二重奏曲を、横笛の上手宰相中将と一緒に披露した。その間承香殿がどうしていたか、それは私の関知する処ではない。
 宴は酣わ、皆のさざめく中、右近少将一人、ぽつねんと黙りこくって、幾分俯き加減で坐っている。春の朧な月光に照らされたその様子は、一種名状し難い妖しさをすら醸し出していて、つい見惚れてしまう程であった。
「いや、月下美人の名を献上したい美しさだな」
 私の隣に坐っていた上野宮が、反対側の隣に坐っている蔵人少将に言うのが聞こえる。
「御覧なさい、蔵人少将。皆も綺羅少将に見惚れていますよ。観月の宴が、妙な事になっている。正しく、綺羅少将こそ、今宵の主役の月とでも言いたいですね」
 蔵人少将は幾分毒のある声で応じる。
「貴方のような怪し気な目で見られても、綺羅は困るでしょう。『かつ見れど』の心境ですね」
(筆註「古今集」所収「かつ見れどうとくもあるかな月影の至らぬ里もあらじと思へば」)
 すると上野宮は含み笑いを浮かべ、
「では君は、月影の至らぬ里こそあらまほしけれ、と思っている訳ですか。成程……いや、独り占めしたい気持は良くわかりますよ。独占欲こそ、恋の本質ですからね」
 上野宮の指摘に、蔵人少将は妙に動揺して、
「ばっ、馬鹿な!」
 上野宮の指摘は、確かに一面の真理ではある。あの入内前夜、心を千々に乱した私を澄子が諭した言葉が、今になって漸く私にも理解できるようになってきた気がするのだ。しかし、少将を話題にしながら、独占欲こそ恋の本質、などと言う上野宮の真意は……?
「――奇しの恋は禁色の――」
 うっ、まただ! 聞くだけで虫唾が走るこの汚らわしい言葉を口にした男、それは上野宮であった。私はわざとらしく耳に手を当て、隣に坐った上野宮から体を離す身振りをした。
 ――私が、その人格の根本からして嫌い、認めようとしない人物、数少ないその一人がこの上野宮なのであった。明徳院がとある女官に産ませた(この明徳院という人も、女と見れば手当り次第に子を産ませた、という感じの拭えない人で、私は母方の祖父岩倉宮は誇りに思えても、その兄である父方の祖父明徳院を誇りに思う気持はどうしても湧いてこない)、私には叔父に当たる親王で、今年三十歳である。親王の常として、任ぜられた上野太守という官も名誉職であり、政治とは無縁なところで、学芸や「風流」を専らとしている人物である。「風流」と言っても、つまりは漁色でしかない訳で、それだけならまだしも救いのあろうものを、この宮の漁色ときた日には……いや、これ以上こんな事、考えたくない、酒が不味くなる!
「馬鹿々々しい。何が、ただに床しく、ですか。貴方の恋はいつも華々しく、終わる時はそれ以上に騒々しいではないですか」
 蔵人少将の声には、上野宮に対する不快感が浸んでいる。蔵人少将も守るべき最後の一線は守っているのであり、それだけが私にとっては救いである。
「それは、本命ではない戯れの恋です(そういうのが気に入らんのだ!)。私も本気になれば、どこ迄も忍びますよ。綺羅殿も……」
「えっ! 貴方、やっぱり、綺羅を……!?」
 上野宮の言葉をどう解釈したのか、蔵人少将は頓狂な声を上げた。周囲の者達が、冷たい視線を投げかける。上野宮はくすくす笑って、
「いかにも、私は気に入ってますねえ(少将に変な事してみろ、本当に碓氷峠の向こう迄ぶっ飛ばしてやるからな! と私は思わず拳に力が入った)。しかし、私が言いかけたのは、綺羅殿も苦しい忍び恋をしているのではないか、という事です。大層憂わし気だ。そこがまた美しくて、気が疼くのだがね」
 全く汚らわしい、男の風上にも置けぬ。私は上野宮をたしなめるのさえ触穢になるような気がして、何も言わずにむっつりしていた。
 少将一人、じっと沈み込んでいた様子は、散会後も一しきり貴族達の間で噂になった。
「綺羅姫が来月正式出仕なさるというので、色々気忙しいのでしょうか」
「あの人が沈んでいると、宴も面白味を欠きますな」
 中には変な事を言う輩もいる。
「いやいや、しかし、中々の見物ではありましたな。何と言っても身が細くてすっきりした姿だ。下手な女より、どれ程か……」
 少将が女である事を知らない者が、こんな事を言うのは何とも可笑しい。しかし、少将のあの苦悩は全てが、少将が女であるというその事から発しているのだと思うと、胸を痛めずにはいられない。と言って今の私に、何ができるだろうか。
 月末頃、蔵人少将が前触れなく中御門殿に少将を訪ねた事があった。ところが折悪しく少将は尚侍の出仕準備のために堀川殿に帰ったまま、取り込んで中御門殿に帰る事もままならず、結局堀川殿に泊ったという。月明りのない夜であったので蔵人少将も、中御門殿に泊ったが、翌日から突然、病と称して式部卿宮邸に閉じ籠ってしまった。暫く経って参内して来たのを見ると、顔面は蒼白、別人のように頬がこけ、後宮中の女房を騒がせたあの美貌はどこへやら、である。そして、丁度その頃物忌で欠勤していた少将が、明日は物忌明けで参内して来るだろうと噂されているのを聞くと、病がぶり返したと称して早退した。
 蔵人少将のこの尋常ならぬ様子は、殿上の間でも話題になった。病と言っても様々だから、どういう病なのか、という事に話題が及ぶと、偶々居合わせたあの上野宮が、
「有馬の湯でも治せはせぬ、というあれじゃないですかね」
と笑いながら言う。
「恋患いですか。しかしあの蔵人少将が、床に就く程思い患う相手とは誰です。新尚侍ですか」
 それも充分考えられる事だが、尚侍出仕の話が出たのは二月初めだが、その月の末に中御門殿を訪れる迄は、そんなに思い患っていた様子もなかったが、と思いながら私が言うと、上野宮は意味深長な笑いを浮かべ、
「女とは限りませんよ、帥宮殿」
 世間の健全な男を、お前と一緒にするな、このド腐れ倒錯野郎! と思い切り罵倒したくなったのを辛うじて抑え、
「貴重な御意見、有難うございます。何しろ私は、生憎とそういう趣味は持っておりませんので、ついぞ思い至りませんでしたよ」
と鋭い皮肉を利かせて言い返してやった。上野宮はさすがに、むっとした表情で私を見返したが、自分の男色癖は多くの貴族に顔を顰められる処、衆寡敵せずと見たのか、それ以上何も言わずに黙り込んでしまった。
 本当のところ、どうなのだろうか。蔵人少将の様子が変わったのは、二月末に中御門殿を訪ねてからだが、それ以前から何か兆候はなかっただろうか。上野宮が蔵人少将に世迷い言を言い、蔵人少将が動揺したのは、二月十五日の事だ。その前後で、もし様子が変わっていたというような事でもあれば、あの世迷い言が原因と考えられなくもない。つまり、禍々しい事だが蔵人少将は右近少将に対して奇怪な感情を持っている、と……。
・ ・ ・
 三月二十日、新尚侍が出仕した。新尚侍はあくまで、東宮の教育係と言うか遊び相手と言うか、そういう立場で出仕させるのだと、帝は口を酸っぱくして力説するが、それでもやはり他の妃達は、帝は新尚侍を妃の一人にする意図を持って出仕させたのだ、と勘ぐっている節がある。やはりそれは、帝の過去の行状から来る人徳のなさのなせる業だと、私は思ってはいるが、それを口に出す事は縦え弘徽殿女御の前であってもできない。その弘徽殿、新尚侍の出仕に一番不快の意を表しているのは間違いなくこの弘徽殿である。新尚侍出仕当日の午前中、殿舎を訪れた私に女御は、
「こうなったら私、何物に代えても若宮をお産み申し、必ず東宮の御位に即けて御覧に入れます。いいえそれだけではございません、私の命ある限り、絶対に尚侍如きに若宮は産ませません。何としても我が家門の名、再び高からしめて御覧に入れます!」
と怒気凄じい声で言い切った。私が些か閉口して、内心の思いとは裏腹に、
「ですから、主上は尚侍をお妃の一人に加えるお積りではないと、何度も仰せになっているのですよ」
と弘徽殿を宥めようとしても、弘徽殿は聞く耳を持たない。
「帥宮様。帥宮様は私が入内申し上げるより前から、主上とは随分とお親しかったのですわね。しかも主上の御兄宮でいらっしゃる。ですからそのように仰言るのは至極御尤もですわ。所詮帥宮様は、主上の御血縁の方、私とは何の血の繋がりもない御方なのですね」
 と言い募って拗ねている。私は可能な限り峻厳な声で弘徽殿を諭した。
「女御様、今何が一番大切な事か、お解りなのですか。主上に悪い印象を持たれない事、これが今一番大切な事なのですよ。主上が女御様に悪い印象をお持ちになって、一層女御様と御一門の方々を疎んじられるようになったら、どうなりますか。もし若宮がお生まれになっても東宮位に立たれず、恐らくもう二度と御一門に光の当たる事はございますまい。今は御自分の本心を偽ってでも、主上に悪い印象を持たれぬよう注意なさらねばならないのです。女御様に御不審な御振舞ありなどと、万一外部に噂されるような事があったら、それこそ承香殿様の思う壷ではありませんか」
 承香殿の名を持ち出されると、さすがの弘徽殿も鎮まった。ややあって、
「……そうですわね。今こそ大事の時、主上と近衛入道御一門の挑発に乗らないようにしなければ」
 と言う声は低く抑えられ、怒りを露わにしてはいないが、その舌鋒は一層鋭い。帝と近衛一派の挑発、とは言いも言ったりだ。右大将が尚侍の出仕をどれ程避けたかったか、知らないのだ。
 しかし、四月に入る頃には、弘徽殿も含めた後宮の女達の、新尚侍に対する心証は次第に良くなっていった。出仕した当日、早速東宮に挨拶に向かった尚侍を見に行った女達、噂では弘徽殿を除く三女御と、弘徽殿も含めてその周りに仕える女房に女官を含め、無慮百人からの女達は、尚侍がかの少将に余りにも似ているのに驚き、かつ尚侍の態度の優雅さ人懐こさに、かなり好印象を与えられたようである。それだけでなく、東宮に召されて温明殿へ赴く時以外は桐壷に閉じ籠ってさながら息を殺しており、少将が伺候しなければそこにいるのかいないのかも定かでない程、静かに、慎ましやかにしているので、さしもの承香殿も、出ない杭を打ちようがないのであった。
 そんなある日、近日中に里退りする事が決まった弘徽殿との打ち合わせのために後宮に伺候している時の事だった。日課となった桐壷伺候に行く少将が、会釈して通り過ぎて行ったのを見送ってから、
「少将も毎日欠かさずに桐壷通い、大した物ですよ。では私は、これで。光子はもう、今日明日にも、って体ですから」
と言って立ち上がった時、東北の方から只ならぬ悲鳴が聞こえた。
「あれは、何!?」
 弘徽殿が怯えた声を上げる。
「あれは宣耀殿か、それとも桐壷か、一っ走り様子を見て参ります。失礼!」
 私は太刀の鍔に手をかけながら弘徽殿を飛び出すと、悲鳴の聞こえた方角を見定め、長い渡廊を走った。温明殿から、昭陽舎から、続々と女官や女房が出て来て、震源地と覚しき淑景舎へ向かう。黒山の人だかりをかき分けて淑景舎に踏み込むと、
「お約束と違うではありませんか!」
 一足先に駆けつけたらしい少将の、激しく抗議する声が聞こえた。更にもう一歩踏み出すと、几帳の前に立ち尽くす帝を、几帳の向こうから少将が、怒りに燃えた顔で見上げている。
「決して、決して綺羅姫と会わぬと仰せられたのに、それを信じて、人並外れた恥しがりの妹を、宥めすかして、無理矢理出仕させましたのに、このような無体な事をなさるとは。主上はお約束を反故になさいました。妹姫は驚きの余り、心の臓が早鐘を打っております。羞恥の余り、死んでしまうかも知れません。妹姫を退出させます! もう一刻も、後宮に置いておけません。縦え主上の逆鱗に触れましても、どのようなお咎めを受けましても、妹姫を退出させます!」
 今にも泣き出さんばかりに激しく抗議する少将に、私も冷厳な声で加勢した。
「主上、この騒ぎの原因は、主上の御食言にあらせられますか。もし誠ならば、何たる御軽率な御振舞、岩倉宮正良、お諌め奉る言葉を知りませぬ!」
 更に私の後を追って、帝の前に飛び込んで来た女がある。東宮だ。
「尚侍は、退出なんてしないわよ、どうして退出するの? 私は許しません! 主上がお約束を破ったから、退出すると言うの? どうして主上は、お約束をお破りになったの? 尚侍が退出するなんて、嫌! 主上がお悪いのだわっ!……」
 烈火の如く怒り狂って帝に喰ってかかり、しまいには声を限りと泣き喚く。どうやら東宮は、尚侍に相当馴染んでいるようで、それはそれで一安心なのだが、それはさておき帝は、東宮には泣かれる、少将には責め立てられる、剰え私にまで責められて、身の置き所がないといった様子で立ち竦んでいる。それも全て、帝自身のせいなのだが。
 結局帝が、約束を破った事を少将に手を突いて詫び、以後決して先触れなしに淑景舎には来ない、東宮か少将が一緒でなければ尚侍とは会わない、同席する時も几帳越し以上は望まないと、東宮と私を証人にして約束することで、騒ぎは一件落着となった。ほうほうの体で引き揚げる帝を清涼殿まで送ってから、私は弘徽殿へ戻り、女御に事の顛末を報告した。すると女御は一転して穏かに言った。
「主上の御姿を御覧になっただけで失神なさるような、それ程迄に内気な御方でしたら、主上の御寵愛を盗む事もございませんわね」
 自分の敵たり得ると思っている間はあれ程迄に敵愾心を剥き出しにしていながら、敵たり得ないとわかった途端のこの様変りぶり、つくづく女というのは私には理解できない。私だったらむしろ、こう考えるところだ。尚侍が人一倍気丈な人であれば、帝が恋心に盲いて少将との約束を破って尚侍に慮外の振舞を仕掛けたとしても、逆鱗覚悟で峻拒することもできるが、帝に限らず男の顔を見ただけで失神するような人では、失神したところをこれ幸いとそこらの物陰にでも担ぎ込まれ、そのまま取り返しのつかぬ事になってしまわないだろうか、という不安が新たに生ずる。私がそう考えるのも、あの帝の事だ、本当に恋心に狂ったら、少将が欠勤している隙を突いて淑景舎に乱入し、尚侍が失神したところでそれに乗じて尚侍を手籠めにする位の事はやってのけそうだ、と思うからだ。日頃の行いが悪いから、実の兄にそんな風に思われるんだ、少しは反省しないか、というのはさて置き、万一そんな事が起こったら、私がほぼ確信している通り尚侍が本当は男であるなら、あの一家は破滅だ。それは何としても避けたいのだ、私は。右大将はともかく、少将がその名を地に堕す事になるのだけは。空前絶後の不祥事が続くのが帝の不徳のせいだとされ、帝が退位させられるのは一向に構わない。後釜が私になろうが、あの幼稚な東宮になろうが、血統外の高仁親王になろうが、それもどうでもいい。これだけ大きな官僚組織によって動かされている国政というものは、その頂点に誰が坐ろうが大して差はないのだ。
・ ・ ・
 弘徽殿を後にしようとした時、式部少輔(元の式部丞)が清涼殿の方から足早にやって来た。肩で息をしながら、
「義兄上、やはり、ここにおいででしたか」
「何です、そんなに慌てて」
 私が怪訝に思って訪ねると、少輔は息を整え、女御や女房達にも聞こえるような声で言った。
「今すぐ、お帰り下さい。姉が、産気付いたそうです」
「何!? 光子が!?」
 私は弾かれたように立ち上がった。簾際まで出て来た弘徽殿を私は振り返り、
「では私は、今すぐ失礼致します。事が済み次第、首尾をお知らせします」
 弘徽殿は私を見上げ、力強く言った。
「帥宮様、光子にお伝え下さい。私も精一杯、御安産をお祈りしていますと」
「承知致しました」
 私は少輔と車を並べて、高松殿へと急行した。着替えもそこそこに光子の部屋へ行こうとすると、産室には男は入れないと女房達が制する。已むなく隣の部屋で待機する事にした。
 夕から宵になるにつれて、陰陽師が来て祭文を読んだり、僧侶が来て祭壇を造ったりし始める。光子の父高松権大納言や、兄右衛門佐(元の右馬頭)も勿論来て、右衛門佐は武官らしく、侍達の先頭に立って慣れた手付きで弦打ちをやる。白装束の女房達は、安産の咀いに使う甑を用意する。私は産室の入り口迄行って、幾度となく光子を励ました。白装束で産室の真中に坐っている光子は、ここ迄来て不安が頭を抬げて来たのか、助けを求めるような目で私を見ては、哀れっぽく私を呼ぶ。
「貴方……!」
 光子がそんな声を上げるのが、私には何とも耐え難くて、私は何度も二条を捕まえては喰い下がった。
「光子はあんなに不安がってるじゃないか、私がお前達に代って腰を抱いてやれば、光子だってもっと安心して、楽に産めるに違いない。腰を抱くのが駄目なら、せめて手を握るのは、それも駄目か、どうしてなんだ? 光子の子であると同時に、私の子じゃないか、生まれる子は」
 しかし何度言っても、二条は首を縦に振らない。
「御産の穢れに、殿方がお触れになってはいけません。どうか御無体な事は、仰言らないで下さいませ」
 夜になっても事が済まないのと、私自身の手で光子の介添えができないのとで、いつになく苛立って部屋の中をうろついていると、近江が来て言った。
「若殿様、お夕食はまだでございましょう。こちらへ」
 近江のこの落着き払った態度すら、私には癇に触って、私は近江を頭ごなしに怒鳴りつけた。
「光子が子を産もうってのに、暢気に飯なんか喰ってられるか!」
 近江は些かも気分を害した風もなく、私を諭すように言った。
「初めての御産は、時間がかかるものです。姫様の御産がお済みになるのは、早くて三更(深夜零時頃)、もしかすると明日の朝でしょう。お夕食をお上がりになって、ゆっくりお待ち下さい」
 近江自身の経験から来るのであろう。私は渋々、近江に従って自室へ行き、夕飯を済ませた。
 夜通し産室からは、苦痛に喘ぐ光子の声、それを励ます女房達の声、光子が身悶えするらしい物音、甑を割る音などが途切れ途切れに聞こえてきた。私達男衆の待機する隣の部屋では、僧侶の加持祈祷の声が已む事なく、縁側では衛門佐や侍達が、代る代る鳴らす弓弦の音が響く。日頃聞き慣れぬ音声の渦に巻き込まれた私は、知らず知らず精神状態が平常時のそれと異なっていくのを感じていた。時の過ぎるのがこれ程遅いとは、今迄の人生に感じた事はなかった。
 とうとう夜が明けた。雲一つない東の空はすっかり明るみ、東山の峰の上から一条の朝日の射し初めた将にその時、はっきりと私の耳に聞こえてきた泣声があった。
 生まれた!!
 その瞬間、私はその時迄自分自身を辛うじて繋ぎ止めていた一縷の理性が千切れ飛ぶのを感じた。私は雄叫びを上げながら、産室の戸へ向かって突進し、少輔が制する間もあらばこそ、産室の戸を体当りで打ち倒して、産室に躍り込んだ。突入した私を制しようとする女房達を突きのけて、私は無我夢中で光子に駆け寄った。私の声を聞きつけて振り返った光子以外、何者も私の目には入らなかった。私は満身の力を込めて、光子を抱きしめた。光子は、一晩中かかった産みの苦しみに精根尽き果てたのか、私の双腕に抱きすくめられても身動き一つせず、ぐったりしている。汗と涙で白粉が斑らに流れたその顔には、心身を極限まで絞り上げた深い疲労の色に交じって、安らかな至福と言おうか、恍惚と言おうか、そんな感情が次第に濃く浮かんできた。その顔を見下ろしている今この時程に、この一種名状し難い深い感情を、誰に対しても覚えた事はなかった。これが、愛情という物なのだろうか。きっと、そうなのだろう。……これ迄感じた事のなかったような、一種の幸福感とでも言うのだろうか、そのような感情が、じわじわと私の胸を満たしてくるのを感じた。私はその感情に、我を忘れて身も心も浸り切っていた。間断なく聞こえてくる赤児の泣声、忙しく立ち働いているらしい女房達の声、諸々の物音、それらの全てが、別の世界の事どものように感じられた。私と光子は、今しも生まれた赤児すら属していない、たった二人だけの世界に浸り切っていた。
 不意に光子が、またあの苦しそうな呻き声を上げたのを聞いて、私は我に返った。汗に塗れた顔を歪める光子に、私は一抹の不安に苛まれて、
「どうしたの、光子!? もしかして、もう一人生まれるんじゃ……」
 もしもう一人生まれたら、そしてそれが男女の双子だったら、という不吉な予感が、私の脳裡を去らなかったのだ。
「違いますよ宮様、御胞衣ですよ」
 老女房の声がする。私は振り返って尋ねた。
「エナって何だ?」
「何だと仰言られても……御胞衣は御胞衣、としか申せませんわ。でも、御覧にならないで下さいまし、御穢れになりますから」
 今更何を、という気はするのだが。横目でちらちら見ていると、何やら赤い紐のような物が見える。
「宮様、御覧下さいまし」
 別の女房の声が聞こえた。顔を上げると、跪いた女房の腕には、白い襁褓にくるまれた赤児が抱かれて、力強い泣声を上げている。
「お健やかな、若君でございますわ」
 女房は嬉しそうに言うのだが、女房が差し出した赤児の顔を覗き込んだ時の第一印象は、正直言って違和感であった。私と光子の子なのに、ちょっと人間の子供の顔には見えなかったのだ。桐壷が産んだ子とも、全く似ても似つかない。危うく、何だこれは、と口走るところであった。
 私が興醒めな顔をしているのに気付いたか、もう一人の老女房が横から口を出す。
「生まれたばかりの子は、皆こういう顔なのですよ」
 そういう物なのだとしても……何か一抹の違和感は拭い去れなかった。こんな顔のまま大人になってしまったら……?
・ ・ ・
 男の身で産室に入った私は、穢に触れたという事になり、七日間外出できない事になってしまった。各方面への連絡には光子の兄弟二人が当たり、三日目からの産養は専ら高松権大納言と、弟の権中納言兼左兵衛督が主宰した。その間私は西の対から一歩も出ず、前代未聞の事と言われながら産室に寝起きしていた。穢に触れた以上その場所から動かなければいい、と私が強弁し、光子もそうしてくれとせがむので、女房達も匙を投げた格好であった。正式な名付けは七日目にするのだが、長男だからということで、光子は赤児を、太郎と呼んでいる。本当の私の長男は、と思いを馳せると、不意に胸の底に微かな痛みが走るのだった。
 太郎の世話は、光子と数人の女房、それに乳母が専らにしていた。乳母は衛門佐の下役右衛門尉の妻だという女で、三日目に乳呑み児を抱いて高松殿へ来た。この乳呑み児が、私の太郎の乳母子として、一生を共に送る事になるのだろう。襁褓を替えるにしても乳を飲ませるにしても、さすがに乳母は手慣れたもので、万事そつなくこなし、不慣れな光子にあれこれと教えてやっている。私は何も手出しできず、横から見ているだけである。
 太郎は毎日、何度か目を覚まして乳を飲む他は、殆ど一日中眠り続けている。不思議なもので、赤児の扱いには手慣れている筈の乳母や女房がどれ程抱いても、中々寝付かないで泣いてばかりいるのに、光子が抱くとたちどころに泣き止んで、いつの間にと思う程すぐに寝付いてしまう。
「こんな赤ちゃんでも、誰が本当の、お腹を痛めた母なのかがわかるのね」
 太郎を寝かしつけてから光子は、母親となった実感をしみじみと噛みしめるように言う。
「それじゃ、誰が光子に腹を痛めさせた父なのかは、わかるかな」
 私が尋ねると光子は首を傾げて、
「さあ、どうかしらね。今度太郎が目を覚ましたら、試してみる?」
 暫くして目を覚まし、何やらむずかり始めた太郎を、光子は膝の上に抱き上げた。それからやおら胸元を広げ、太郎に乳首を哺ませる。太郎は無心に母の乳を貪り、その有様を見下ろす光子の顔には、どんな腕利きの仏師でもこれを彫り出す事はできまいと思わせる程の、優しさと慈しみに満ちた微笑みが浮かんでいる。両の胸乳を露わにしたその姿にも、男の欲情をそそるような淫猥さは微塵もなく、神々しい気高ささえ漂わせていた。
 太郎に充分乳を飲ませると、光子は太郎の背中をさすってゲップを出させた。それから太郎を抱き上げて私に差し出す。私は太郎を光子の腕から抱き取った。太郎の体の重さは五斤(一斤は六七五グラム)ばかりだったろうが、双腕に受け止めた私には突然、万鈞の重さに感じられた。私は、私は只の一度も、私の本当の長男をこの腕に抱いた事はなかったのだ。私は胸が詰まり、溢れ出した涙を止める事ができなかった。
「貴方が泣いてどうするのよ。太郎も怖がってるわよ。ほら、貸して」
 光子は私の腕から太郎を半ば奪うように抱き取った。そのまま私など眼中にないように、太郎をあやしたり揺すったりしている。涙を拭ってその様子を見ていると、何とはなしに胸の中が薄ら寒くなるような、索漠とした感情に虜われた。今迄私は、光子と二人だけの世界を共有していた、私にとっても光子にとっても、二人だけの甘やかな愉しみに満ちた世界が、その生きる世界の大半だったのだ、それが太郎の誕生を境に、光子の世界の注進は太郎に移り、私は光子の世界から弾き出されてしまったような、そんな感じであった。私がこんな風に感じるというのは、どういう事なのだろうか。もし太郎に嫉妬しているのだとしたら、これ程愚かしい事はないのだが。
 七日目の産養の折、命名の儀が行われた。太郎が生まれたのは、産屋に朝日が射し初めた丁度その時だったのだからという事で、私は太郎に朝日君と命名した。その日は丁度弘徽殿の着帯の儀の日でもあり、高松殿は終日、大勢の客人で賑わっていた。弘徽殿の着帯を祝いに来た大勢の客人のうち、本当に心からそれを祝っている者は、どれだけいただろうか、それが少し、気にならないと言えば嘘になった。
・ ・ ・
 七日の物忌が漸く明けて、私は久し振りに参内した。会う人会う人、誰もが私に祝いの言葉を述べ、中には私が産室に入った事を幾分冷やかす者もいる。多少冷やかされたって、私は全然気にしてはいないが。
「何事も経験ですよ」
 とだけ言って、平然としているだけだ。
 内大臣も私に祝いの言葉を述べた者の一人だが、その様子を見るに、私が長男を儲けた事よりも何か自分自身の事で、嬉しさを隠し切れないといった様子である。私がそう言うと、内大臣は照れ笑いして、
「いや、さすがに帥宮殿は御目が高い。誠にもってその通りなんですよ」
と得々として言う。
「何なのですか」
 私が尋ねると内大臣は、一層声高に答えた。
「祐子に、御子ができたんですよ!」
 私は、すうっと顔から血の気が引くのを感じた。
「……は、はあ、そ、それは実に、めでたい事ですね」
 辛うじてそれだけは言ったものの、舌は縺れ、声は裏返って、みっともない程の動揺をさらけ出してしまった。ところがこのどうしようもなく観察力の鈍い内大臣は、私の動揺に全く気付かないのか、
「この間婿取りを済ませたと思ったら、もう孫が生まれる。高松殿のお喜びよう、私にもよくわかりますよ。いやもう、嬉しくて嬉しくて、年甲斐もなく」
とすっかり上っ調子になって喋りまくる。その内大臣の言葉も、私の耳に留まる余裕はなかった。
 少将は女だ。それは私が既に確信し、弘徽殿も支持するところだ。男ならざる身の少将が、祐子を身籠らせるなどという事は、天地自然の摂理において起こりうべからざる事だ。となれば考えられる事は唯一つ。何者かが中御門殿に侵入し、祐子を寝盗った、それ以外には考えられぬ。
 私はすぐに、事態を察する事ができたが――何となれば私は、一度ならず二度迄も、帝の妃を寝盗った事があるから!――当の少将はどうであろうか。絶対に起こり得ない事態が起こったことを、どう受け止め、どう考えているだろうか。恐らく少将の事だから、内心どれ程動揺していようとも、それをひた隠しに隠し続けるであろうが……。それよりも、この事態を祐子がどう受け止めたか、その方が問題だ。と言うのも……少将は男ならざるが故に、祐子に対して然るべき「行為」は行い得なかった事は間違いない。少将にとっては幸いな事に、相手の祐子は常軌を逸したネンネであったから、結婚してから暫くは、その行為がなされなかった事に何らの不審を抱かれる事もなかったのであろう、当の少将にとっては却ってそれが、一層の負い目となっていたかも知れないが。ところがここに至って、祐子は懐妊した。という事は即ち、誰かある男、正真正銘の男が、祐子に対して然るべき行為を行った、という事である。祐子が白痴でなかったら、その男が自分に対してしたその行為を、天下に認められた本物の夫であるところの少将が、結婚以来只の一度もしていなかった事に気付く筈である。この、祐子にとっては驚愕に値する事実を、祐子がどう受け止めたか。自分は少将の名ばかりの妻に仕立て上げられていた、少将は自分をこれっぽっちも愛していなかったのだ、多分こんな風に思っただろう。こうなっては祐子は少将を、なまじ少将が脇目も振らずに祐子を誠心誠意愛しているかのように振舞っているだけに却って、隔意と憎悪を以てしか見られなくなるであろう。しかし、だからと言って祐子が、少将の不実を一方的に詰れるか、と言えば全く否である。何と言っても祐子は、夫ある身で別の男と通じたのであるから、客観的に見れば非は祐子にある。祐子にしてみれば、少将の不実を責めたい思いと、少将を裏切った負い目とに、真っ二つに引き裂かれる思いであろう。少将もまた少将で、祐子を欺き続けてきた事から来る負い目と、祐子に裏切られた思いとに、心身を引き裂かれる思いであろう、少将の場合は、前者の方がずっと大きいであろうが。何にしてもあの二人の仲が、本来ならば周囲からは最も祝福され、本人同士はその仲の深さを確かめ合う絶好の機会であるべき、祐子の懐妊という事態によって、逆に大破局のどん底へと転がり落ちてゆくに違いないのが、私にはどう仕様もなく残念だった。そして私自身には、何の手助けも出来ない事も。
・ ・ ・
 日々は流れるように過ぎて、季夏の六月となった。五十日の祝いを迎えた太郎は、毎日光子の乳を心ゆくまで飲んで、ころころと肥って、目方は八斤程にもなっている。生まれた時、何とも言えぬ違和感を感じた顔立ちも、生まれて一月を過ぎる頃には整ってきて、見覚えのある赤児の顔になってきた。それだけでなく、この頃では頻りと目を動かして私を見、話しかけると何やら意味不明の声を発したり、あやすと声を上げて笑ったりする。牛馬や犬猫ですら、私からの呼びかけに応えてくれるのは嬉しいもの、まして私の息子だもの、嬉しくない筈がない。そうなると急に愛着が湧いてきて、毎日朝から晩まで一緒にいても飽きないような気がしてくる。夜中に眠りを破る泣き声も、行事で丸一日外出していて一日中一度も聞かないと、何となく落ち着かない。朝は太郎が目を覚ます迄は参内する気にならないし、夜は夜で太郎が起きているうちに帰ろうと、「一目散に」帰邸する。「付き合いが悪くなった」と言われるのだけは避けたいと思っているが、周りの方でも気を遣ってくれて、余り遅くまで引き止めようとはしない。五月には、晴子の懐妊が明らかになった。帯解寺の御利益が今頃現れたのかどうか、これで晴子もきっと大人になるだろうし、信孝も子供の父親となれば、きっともう一皮剥けて、より人格の備わった人間になるだろう。
「どうだ帥宮、やはり子供はいいものだろう」
 帝は私を召すと、決まってこう言う。帝の気持が、漸く私にも少しはわかるようになった気がする。
「しかしなあ……そなたでさえ子供が生まれたら子供べったりになってしまったのだ、綺羅はどうなるだろうな。新婚当時にも増して、中御門殿に入り浸りになってしまうだろうか」
 帝は変な事を言う。
「少将が生まれた子供を愛しく思うのは、大いに結構ではありませんか。それによって著しく公務を疎かにする、というのでしたら少々問題ですが」
 私はありきたりの事を言いながら、内心では深い憂慮に捕われていた。祐子が産むであろう子は、その夫たる少将の子では天地神明に誓ってあり得ない、その事は少将自身が誰よりも良く知っているのだ。自分の子である可能性が万に一つもあり得ない子を、自分の子として、父親としての愛情を注いで育てる事が、年端も行かぬ(と言っても十八歳だが)少将にできるだろうか。もし少将にそれができなかったら、一番の犠牲者は何の罪もない子供だ。どんな仕打を、実の父ならぬ少将から受けるだろうか。私は生まれてすぐ、故あって母に捨てられ、実の両親の顔を知らぬまま十八歳まで時を過ごした。私がそのような子供時代を送ったのは、私が不義の子だったからでは決してないのだが、理由は何であれ父に顧みられず、母にさえ捨てられるような子を、私の近くに見たくない。
 あれ以来少将の様子はどうかと見るに、不思議な程落ち着いている。妻の不貞に怒って中御門殿に寄り付かなくなる、というような事はなく、また打撃の大きさに寝込む事もなく、従前の通りに中御門殿へ通い、堀川殿へ帰っている。桐壷伺候も欠かした事はないし、どうしてこれ程迄に平然としていられるのか、私には解せなかった。それよりもむしろ、蔵人少将の様子の方がおかしい。二月の末からずっと、物忌や病と言を左右にして、殆ど参内もしない。元来蔵人少将は、私程ではないが壮健な方で、三月も四月も寝たり起きたりを繰り返すような病気に罹っているとは、どうも考えにくいのだ。さりとて有馬の湯でも治せないあの病に罹っているというのも、今一つ信じ難い。大体が万事気楽に構えると言えば聞こえはいいが、悪く言えば何事にも真摯にならない男で、就中恋愛沙汰に関しては全くの暇潰し程度にしか考えていないような男が、寝込む程恋患いするとは笑止な話だ。
「帥宮、随分、蔵人少将に厳しいな」
 帝と雑談中、話題が欠勤続きの蔵人少将に及んだ時、私が所感を述べると帝は言った。
「私は蔵人少将は、嫌いではないのですが、あの漁色癖だけは、どうしても気に入れないのです。本当に女を愛してなどいず、肉欲のはけ口としか女を見ていないような漁色漢は」
 私が口調厳しく言うと、帝は苦笑して、
「そなたは夕霧だな。律義者の子沢山で、高松家の財政を傾けないようにな」
(筆註「源氏物語」夕霧は正室雲居雁との間に七人以上の子女を儲けている)
などと戯れ言を言う。夕霧と言われるのは大いに結構、称賛の言葉だと思っている。手当り次第に漁色した挙句、末摘花のようなゲテ物を掴まされ、須磨くんだりへ流謫になり、それだけやった結果恵まれた子供は僅かに三人、それも一番愛した紫上からは生まれず、しかも老境に入ってから悪業の報いを受けて、兄朱雀院に押し付けられた女三宮を柏木に寝盗られて満天下に恥を曝した光源氏よりも、幼馴染の雲居雁を真摯に愛し抜いて大願を成就せしめ、正妻となった雲居雁ともう一人藤典侍とによって、合せて十二人もの子宝に恵まれた夕霧の方が遥かに、人間としての本当の幸福をかち得たと、私は固く信じている。
「私が夕霧ですか。女性関係が謹厳な事では、確かに今の宮廷では私と頭中将、それに右近少将が三傑でしょうね。就中少将は、奥方との仲が良すぎて宮中ではいつも誰やらに皮肉を言われ通しだった程で」
 私が平然と言ってのけると、帝は私の言葉に込められた自分への皮肉に気付いて、あからさまに顔を歪めたが、やはり自分に弱味のある事なので、何も言わなかった。
「頭中将は三年目にして漸く子宝に恵まれましたし、私と少将は結婚した途端に子宝に恵まれました。夫婦仲が良すぎると子宝に恵まれないというのは、必ずしもその通りとも言えないようですね」
 当り障りのない事を言うと、帝も少し表情を和げて、
「夫婦仲どうこうとは、直接関係ないだろう。……そうか、女性関係の謹厳さで行ったら綺羅も夕霧の資格はあるな。するとその親友の蔵人少将は、柏木か?」
「蔵人少将が、柏木ですか……」
 何気なく相槌を打ったその瞬間、私の脳裏に閃いたものがあった。私は自分の思いつきに、もう少しで扇を取り落とすところだった。
 御前を退ってから、私は自分の思いつきを、ゆっくりと整理した。蔵人少将の様子がおかしくなり、病と称して出仕しない日が多くなったのは、二月の末からだ。その直前、蔵人少将は、前触れもなく中御門殿を訪れ、少将には会えないまま一泊して帰った。その晩、蔵人少将は中御門殿で、何をしたのか。その答を与える重要な鍵は、祐子が懐妊し、今五ヶ月目の半ばだ、と内大臣が吹聴して回っている事だ。今は六月の末、六月の末に五ヶ月の半ばという事は、逆算すれば二月の末に、祐子の懐妊の直接の契機となる出来事があったという事だ。蔵人少将が中御門殿に泊った晩、少将の不在に乗じて祐子の寝所に侵入し、言語道断の振舞に及んだとすれば――邸の奥深くに傳かれている姫の寝所に侵入するなどという事は、そう誰にでもできる事ではない――そしてその慮外の暴挙によって、祐子が懐妊したのだとすれば――時間的関係は実に整然と一致する。それから蔵人少将の異変だ。蔵人少将は確かに、女をモノにする事など飯を食べる事ほどにも特別な事と思っていないような、破廉恥かつ無節操な漁色漢だが、相手が少将の愛妻であってみれば話は別だろう。男というもの、やはりそれをやって平気ではいられない事というものが存在するのだ(と言う私はどうかと言われると、一度ならず二度までも義理の妹を懐妊させて、それでいて平気の平左、剰え何も知らずに喜んでいるおめでたい弟を心の底から冷笑するという、人間の所業とも思えない事をやってのけているのだが……。そればかりか、純然たる自己保身の為だけに、親友の愛妻を暗殺せんと企てた事すらある!)。しかもこの場合、祐子に対し慮外の暴挙に及んだ蔵人少将は、あの重大な事実、結婚から四ヶ月を経た祐子が、実はまだ生娘だったという事に、気が付かなかった筈はない。それを蔵人少将は、どう解釈したか。もしかすると少将は女なのではないか、という突拍子もない、しかし私から見れば見事に正鵠を得た疑念を抱くに至った、とは少し考えにくいところがある。悪意に解釈するならば、少将は昨年冬、縁談が独り歩きしたために已むに已まれず祐子との結婚に踏み切ったものの、それは両家の体面だけを考えた、全く形式的なものに過ぎなかったのだ、と考えたか。しかし幾ら両家の体面だけを考えた形式上の結婚だとしても、十七八の男が女に対して然るべき行為を一度もしないというのはちょっと考えにくいのではないか。とすれば残るは一つ、これは随分善意に解釈することになるが、少将は紫上を迎え取った光源氏のように、祐子が心身共に成長した大人となるのをじっと待ち続け、それ迄は男女の間柄にはなるまいと考えていたのではないか、と考えたのであろうか。祐子は現在十六歳、本当の意味での結婚生活を営むのに早過ぎる齢ではないと思うが、精神年齢というのはまた別の問題だ。精神的に余りにも晩生な姫に対しては、いきなり然るべき行為を仕掛けないで、ゆっくりと時期を待とう、と考えるものだろう、もし少将が本当の男だったとしても(そう考えると、光源氏が十四歳の紫上を女にしたのは、些か早きに失した嫌いがなきにしもあらずだが、それはどうでもいい)。実際少将は、本当は男ではないのだから、然るべき行為に走ろうにも走れないのだが、蔵人少将はそれには気付いていないだろう事を前提にすると、このような推測は案外当を得ているのではないだろうか。そうだ、こんな事もあった。以前承香殿が少将に祐子を、世間にもない程の子供っぽい姫だというではないか、と言った時少将は、そこが可愛らしいのだ、人形のように清らかな姫だ、大切にして差し上げたいと、そればかりを願っている、とはっきり言明したではないか。あれは、少将が本当は女であるという事を除外しても、強ち少将の本心でないとは言えないだろう。
 さて、そこで、蔵人少将の心中を臆測してみよう。中御門殿に泊った夜、まさかこれ程の事になるとはつゆ思わず、ちょっと興が乗れば相手構わずやっているいつもの悪業を、祐子に対して仕掛けた。ところが見よ、祐子にとって自分は初めての男だったのだ。この驚倒すべき事実をいかに解釈すべきか、考える程に思い当った事、それは今迄、私が考えていた通りだ。少将がそうやって、心身共に大人になる日をじっと待ち侘びていた祐子を、自分は一夜の悪業によって散らしてしまったのだ。蔵人少将がどれ程に勁い心の持主だったとしても、晴子の手足を縛り首に縄をかけ桂川に放り込んで、それで平然としていた私程の心は持っているまい。いや私だって、晴子を葬り去るか自分が貴族社会から抹殺されるか、のるか反るかの大作戦の決行中でなければ、あんな事はできなかった。そんなだから蔵人少将は、自責の念と、いつ少将に気付かれるかの恐怖とに心身を苛まれ、一挙に病床に臥してしまったのだ。これこそかの柏木の有様そのものではないか。それでも、四月に祐子の懐妊が明らかになる迄はまだ、一縷の望みはあった。このまま何事もなく、一年も二年も経てば、自分もあの一夜の出来事は悪夢と思って忘れ去る事もできようし、祐子も少将との濃やかな愛情に満ちた生活の中で、あの一夜の逢瀬は忘れてしまえる(ものかな? 女にとって初めての男というものが、そう簡単に忘れられるものだろうか? 女は彼岸へ行く時、初めての男に負われて三途の川を渡ると言われているのだ、つまり女にとって、初めての男というものは一生忘れられぬものだという事ではないのかな?)だろう、それだけが救いだった。ところが見よ、天譴恐るべし、祐子は懐妊してしまった、他ならぬ蔵人少将の子を。蔵人少将がどれ程楽天的であろうとも、自分が祐子を女にした直後に少将が、俄に考えを改めて祐子と本当の結婚生活を始めた、とは考えるまい。事実それは、客観的な事情を察知している私から見れば、絶対に起こり得ない事なのだから。とすれば蔵人少将の思いは、愛する妻を寝盗られた少将の上に及ばずにはいるまい。少将が、どれ程か愛し、慈しんできた祐子を、何者かある男(それが蔵人少将である事に少将は気付いていないとしても)に寝盗られ、剰えその胎に胤をすら残されて、どれ程の衝撃を受け、悲しみに沈み、どれ程かその男を憎み、怒りに燃えているか、それを思うと、いかな蔵人少将とて、身も心も消え入らんばかりであろう。いつ祐子の口から自分の名前が出、少将の耳に入るかと思うと、その時憤怒に狂った少将が自分を叩っ斬りに来る事を思うと、本当に生きた心地もしないだろう。そんなに苦しむ位なら、いっその事少将に全てを打ち明けて、「一切弁解しようとは思わない、今すぐその太刀で私を斬ってくれ、煮るなと焼くなと好きにしてくれ」とでも言えばいいものを、というのは傍観者の意見だ。蔵人少将にしてみれば、やはり自分は一番可愛いい、それにまだ十九歳、現世に未練はあり過ぎる程ある。柏木は結局心労の余り病死したが、死なずに済むものなら生き延びたい、それが蔵人少将の本音だろう。生き延びるにしたって、柏木の場合なら、なにあと十年もすれば光源氏は死ぬ、そうすれば後は自分の世、それ迄の辛抱だ、と思う事も出来ただろうが、今の少将に限ってはあと十年で死んでくれそうにない。共に四十五十の坂を越えるまで、一緒に生き続けなければなるまい、その間ずっと少将に対し、消そうとて消し得ぬ後ろ暗さを負い続けるというのは、これはもう生きるも地獄、である、自業自得だ、己が悪業の報われるところ、生き地獄を存分に味わい尽くすがいい、と突き放すのは一番簡単だ。しかし私は蔵人少将を、幾分かの欠点はあるがその人格をそこそこには認めているのであり、前途有望な若手公達として、かつ又年下の友人の一人として、やはり何とかして生き地獄にのた打ち回らせたくはないと思うのだ。
(2001.1.3)

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