岩倉宮物語

第四章
 季節は過ぎて秋になった。八月初旬になると、京洛の秋恒例の、北野祭である。私もこの祭は三度目になるが、大路に集まる見物客は大変な数で、いかに上下貴賎の別なく、この祭を楽しみにしているかが良くわかる。今年の北野祭は、私にとっても只の祭ではない。勅使として、北野社頭で宣命を朗読するという大役を仰せつかったのであった。この役は大抵、近衛の中少将の役なのだが、どういう訳でか私に回ってきた。要するに帝に贔屓されているという事なのだろうが。こういう事があると、また妬みそねむ輩が出てくるところだが、それを気にしていたら始まらない。それよりも、こうやって帝の信任を一層厚くしていく方が、将来の目的のためには大切なのだ。
 祭の華やかさ、勅使を務めた私の晴れがましさ、というような事は記すには及ぶまい。一挙手一投足に周り中の視線を感じるのも、こんな役を務めていれば当然の事である。
 祭が終わって一息ついた翌日の夕方、邸へ帰ると、いつも迎えに出る近江より先に、桔梗が出てきた。
「先程従姉から、私宛にと文が参ったのですが、それと一緒に若殿様宛の文というのが参ったのです。若殿様と従姉の間に、何かございましたのですか」
と言って立文を差し出しながら、不思議そうな顔をする。
「さあ、何だろうな、心当りはないが」
 私は空とぼけて文を受け取り、部屋へ持って行って文箱へ入れた。着替えやら夕飯やらを済ませてから、私は大弐の文を手に取った。白無地の陸奥紙で立文に包んだ文は、どう見ても恋文の体裁ではない。大弐から恋文など貰っても、始末に困るばかりだ。開いてみると、
〈大至急、ごくごく秘密に御相談申し上げなければならない事になりました。つきましては近日中に、従妹を訪ねることを口実にして参上致しとうございます。御都合の宜しい日を、急ぎお知らせ下さいませ。従妹から私への、返事としてお知らせ下さい〉
 さあてこれは、どういう事態が起こったか。ともかく、会うだけ会って、話を聞いてみよう。対策を立てるのはそれからだ。
 私は文を畳んで文箱にしまい、桔梗を呼んだ。参上した桔梗に、私はさりげなく尋ねた。
「桔梗、従姉君からの文には、何て書いてきたんだ?」
 桔梗は別段訝しがる風もなく、
「久し振りに私に会って、四方山話でもしたいと、そんな事ですわ」
 私は一層さりげなく言った。
「ふーん。先刻の文だけど、どうも従姉君は、お前が世話になってる事で、私に一言お礼が言いたいらしいんだ。そうすると、私の方の都合もあるから……明後日ってことで、返事出してくれないか」
「明後日、ですか。宜しゅうございます」
 桔梗は、それ以上何も言わず退いた。
 翌々日は、私の邸から内裏の方角が方塞りなので、私は参内できない。それで、元々大宰帥という役職柄宮中での仕事というのは何もないので、参内せず邸に引き籠っていた。
 暫くすると、車宿に車の着く音が聞こえてきた。程なく少納言が、
「若殿様にお目にかかりたいと仰言る方がお見えです」
 来たな、と内心では身構えながらも、外見は平静を装って、
「うむ。何という方だ?」
「桔梗の従姉、と仰言っています」
「よし、わかった。ここへ呼んでくれ」
「かしこまりました」
 程なく、少納言に先導されて、大弐と桔梗が部屋へ入ってきた。大弐がどんな顔で入ってくるか、それが事態を察する助けになるだろう、と私は踏んでいた。桔梗の事で私に礼を述べたいなんていうのは、あの時咄嗟に考えついた出任せだから、そういう顔ではないだろう。さりとて、先日よこした手紙の様子からして、私への恋しさ募って、というのでもない、そうであっても始末に困るが。
 入ってきた大弐の顔を見て、私は事態が容易ならぬ状況であると瞬時に察した。大弐の顔には、自分の力ではどうにもならないような重大事を背負い込んで進退極まった、という様子がありありと現れていたからだ。
 少納言が退るとすぐ、私は桔梗に目配せした。桔梗は、心得た顔で退っていく。桔梗が退ると、私は大弐ににじり寄った。
「帥宮様」
 大弐は、絞り出すような声で言った。私は顔を引き締め、低く抑えた声で、単刀直入に尋ねた。
「大弐、何が起こったんだ」
 大弐は蒼ざめた顔で、私を見つめた。その体が、小刻みに震えている。何か言おうにも、唇が震えて声にならない。
「何が起こったんだ、相談したい事とは、何なんだ」
 私が重ねて問い質すと、大弐は舌が裏返ったような声で、途切れ途切れに、
「桐壷様が……桐壷様が、帥宮様の御子を、身籠られたのですっ!」
・ ・ ・
 運命の歯車が、私の予期せぬ方向へ音を立てて回り始めたのを感じた。桐壷の寝所に侵入し、籠絡する事ができさえすればそれで充分、と考えていたのに、たった一回の実事で桐壷が懐妊したとは。私の、私の子供が、桐壷の腹に宿ったのだ。
 私は、今にも崩折れそうな大弐の肩を掴み、強く問い質した。
「間違いないのか!? 本当に、私の子か!?」
 大弐は首を強く振って答えた。
「間違いございません、帝は桐壷様を、あの前もあの後も、十日程もお召しになっておられませんもの。それに、最後に月の不浄がございましたのが、あの半月程前だったのです」
 月の不浄と懐妊と、どういう関係があるのかはわからない。しかし大弐が、そうだと言い切るからには、そうなのだろう。
「どうしたら、どうしたらいいのでしょう……」
 大弐は、今にも泣き出しそうな声で言う。そんな大弐に、それはこっちの台詞だ、とは言えない。何と言っても、私の子なのだから。
 私は、とりあえず一つの考えをまとめた。
「いいか大弐、今、お前がしなければならない事は、この事を誰にも気付かれないようにする事、それだけだ、わかるか? 帝のお妃が、御懐妊なさったという事は、上下挙げてお祝い申し上げるべき事なんだ、それだと言うのに、当の桐壷様の一番近くにいるお前が、茫然自失で泣いてたら、どんなに鈍い奴だって、何かおかしいと思うぞ。そうなったら、もし事が表沙汰になったら、桐壷様は間違いなく破滅、お前もだ。だから、どんな事があろうとも、お前がしっかりして、桐壷様をお支え申し、世間の誰からも怪しまれる事のないようにしなければならない。勿論私だって、表向きは無理だが陰でなら、出来る限りの事はしよう。だが、桐壷様の一番近くに仕えるのは、お前なんだ。お前がしっかりしなかったら、桐壷様はどうなる。お前がしっかりする事、それが桐壷様のために一番大切な事なんだ。わかるな?」
 私は低い声で、力強く大弐を励ました。
「……わかりました」
 大弐は、こくんと頷いた。
 私は、目の前に急展開した状況と、それへの対策とに考えをめぐらした。
 あの夜、私が桐壷を籠絡した結果として、桐壷は懐妊した。他ならぬ帝の妃である桐壷が、他ならぬ私の子を、だ。遠からず桐壷は、出産するだろう。生まれる子供が男か女か、それはわからない。女ならば何でもない。問題は、男だった場合だ。帝には男皇子も皇弟もいない。そこへ桐壷が男子を産めば、東宮に儲立される可能性はかなり大きい。何と言っても、帝が即位してから一年余り、東宮は未だに儲立されていないのだ。かかる上はどんな庶腹であろうとも、男子が生まれたら、東宮に儲立せざるを得ないだろう。そうなるとこれは、源氏物語の冷泉院を地で行く話だ。もし表沙汰になれば、桐壷も新東宮も、そして勿論私も、貴族社会から完全に抹殺されるであろう。勿論私は、そこらの貴族とは根性の坐り方が違う。生まれながらの貴族達は、貴族社会で通用する肩書、つまり官職位階だけが心身共に拠り所となっているから、貴族社会から追放されては一日たりとも生きていけないだろう。しかし私は、成人するまで九条の農村地帯で、土百姓さながらの生活をしてきた経験がある。その経験から得た持論は、五体満足でさえあれば、官位がなくとも食っていける、という事だ。だからもし、私と桐壷、新東宮が、石もて追われる如く貴族社会を追放されたとしても、私一人だけなら食っていける自信も覚悟もある。しかし、生まれた時から貴族社会に浸り切ってきた桐壷が、それに堪えられるかどうか、となるとこれは別問題だ。まあ、生活能力皆無の桐壷と新東宮の暮らしの面倒を、私一人で見る事になったとしても、それ位やり遂げてみせるという気概は持っている積りだが。
 もし生まれた子が男子だったとして、そして東宮に儲立されたとしても、冷泉院にならずに済む可能性はある。承香殿が、続いて男皇子を産めばよいのだ。私が黙っていても、関白太政大臣や左大臣が、桐壷の産んだ東宮を降ろして承香殿の生んだ皇子を東宮に立てるよう、躍起になって帝に働きかけてくれる事請け合いだ。藤壷でもいい。宣耀殿だと少し弱いが。そうすれば桐壷の産んだ子は、一親王として、或いは臣籍に降って一貴族として、生きてゆく事ができる。勿論それで、私と桐壷が密通して生まれた不義の子という事実(他人が知るかどうかは別として)が消える訳ではない。もし天譴という物がこの世にあれば、やはりそれを免れ得ないだろう。
「不義の子」、か……。因果は巡る、とは良く言ったものだ。私の出生の事情を尋ねてみれば、私は先代の岩倉宮の長女を母としてこの世に生まれたが、父は、その当時の母の夫たる権中納言顕光ではなかった。つまり私自身、「不義の子」なのだ。不義の子として、先代の帝の落胤として生まれた私――母は私と澄子を、どんな思いで産んだのだろうか。男女の双子が生まれた時、これはきっと不義の報いだと、怯えたかも知れない――が、当代の帝の妃との間に不義の子を儲けようとしているのだ。
 表沙汰にならなかったとして、どのような事が起こるか。桐壷の産んだ男子が東宮に儲立されれば、皇統は完全に伏見院−今上帝−東宮の血統に移り、高仁親王が皇位に即く可能性は全くなくなる。この事態を最も強く恐れているのは、他でもない高仁親王の外祖父、右大臣であろう。このところすっかり干された観のある土御門派にとって、帝に皇子が生まれてその子が東宮に立つ事は、決定的な打撃を与える。そうすると、土御門派はどういう動きに出るか、それ次第で、私の出方は変わってくる。場合によっては土御門派に与して、東宮を廃す陰謀に参画するかも知れぬ。私はともかく、桐壷の方が不義の子が帝位に即く事を恐れてそれを願ってくるかもしれない。その場合でも、東宮を廃してそれで終わり、という訳ではないから、陰謀の主役とはならず、黒幕に徹する事になるだろう。生まれるのが皇女なら? ……これは別にどうという事はない。だから私としては、生まれるのが皇女であって欲しいという気はする。桐壷の心が帝から離れ、帝がそのために悩み苦しむこと、これだけが私の目的なのだから。
「いいかね、もし桐壷様が、生まれてくる子が男子で、その子が東宮に立てられる事を恐れておいでなのだったら、こう申して安心させて差し上げるのだ。生まれてくる子は男子とは限らないし、もし男子だったとしても、そのうち必ず、桐壷様以外のお妃方、承香殿、藤壷、宣耀殿の誰かが、正真正銘の帝の皇子をお産み下さる、そうなれば私達が何もしなくとも、他のお妃方の後ろ楯の面々が、私達の子を東宮位から降ろさせるよう動いてくれる。誰にも不審に思われず、むしろ同情を集めながら東宮位を降りて、姓を賜って臣下に降るなり入道親王になるなりすれば、それで大丈夫だ、という風にね」
 私は噛んで含めるように、大弐に言い聞かせた。
「とにかく、他人に知られないようにする事、これが絶対に大切だ。それから、決して早まってはいけない、自暴自棄になってはいけない。桐壷様もお前も、私も、帝の更衣でありその乳母子であり、帥宮である前に、人間なんだ。健やかな子を産んで、大切に、立派に育て上げ、自らも子もその生を全うする事、これは人間の務めだ。それに背く事は、神仏に対する罪を重ねる事だ」
 私の方も、生半可な心構えでは事に対処できない。こんな弁舌を聞けば、きっと聞く人は、私が桐壷を深く愛するが故に、重大な秘密を負って生きねばならない桐壷を、精一杯励まそうとしているのだと思うだろう。
「……わかりました。……承香殿様、藤壷様、宣耀殿様……。帥宮様のお言葉、有難い御志、きっと桐壷様も御安心下さるでしょう」
 大弐は、ぽつぽつと呟いた。大弐はやはり、私が桐壷の為に心を砕いてくれていると思い込んでいる。本当のところはどうであるか、それは誰にも言うまい。思い込んでいる人には、思い込ませておくがいい。
 大弐を退らせる前に、一本釘を刺しておく事を忘れてはならない。
「わかってるだろうがね、大弐、このことは絶対に、誰にも話してはいけない。桔梗にもだ。だから今日は、もう帰った方がいいな」
「……はい」
 私は近江を呼び、殆ど足腰の立たなくなっている大弐を退出させた。
 夕飯の膳を運んできた桔梗が、
「従姉は折角来てくれたのに、挨拶だけで帰ってしまったんですの。残念ですわ」
と、つまらなそうに言っている。
「挨拶してる途中で、急に具合が悪くなったらしいんでね」
 私は適当に誤魔化しておいた。今後も、何かあると大弐が来るかも知れない。その都度桔梗に会うのを口実にしては、桔梗に会いもしないで帰るというような事をやると、桔梗の勘が人並みだとしても、何か変だと勘付くだろう。私が使う事のできる数少ない人間の一人である桔梗に、私の挙動に不信感を持たれるのは好ましくない。と言って、桔梗に全てを打ち明けて全面協力させるというのは、非常に危険な両刃の剣である。桐壷が私の子を懐妊したというのは、もはや私の野望の域を越えた、天下を揺るがす大事件の萌芽たりうるのだ。桔梗などに知らせたら、どこからどう漏洩するかわからぬ。……桐壷に近づく最初の契機としては桔梗は大きな役割を果たしたが、事が予想外の展開を見せてくると、却ってその扱いに困るような事態になった。何とかして、桔梗も大弐も納得するような、上手な口実を考え出さねばならない。
 桐壷の懐妊は、やがて人々の知るところとなった。帝は、今度こそ皇子をと、期待に胸躍らせているらしい。私を間近に召して、上機嫌で言った。
「三度目の正直、って言うからね。今度こそ男皇子が生まれることを期待しているよ」
 どんな些細な事でも憎悪に結びつけずにはいられない私は、又しても不快になった。帝は妃を、男皇子を産ませるための道具としか見ていないのに違いない。
「主上にとって妃とは、男皇子を産み申し上げるだけの存在ですか」
 私が醒めた声で言うと、帝は鼻白んだような顔になった。それから当惑した声で、
「なあ、何でそんなに、私に突っかかるんだ」
 私は嘯いた。
「突っかかる、とは異な事を」
 帝は躍起になる。
「私とそなたの間には、何か行き違いがあるとしか思えないが、それがもし、梅壷更衣の事だったら、それはもう、仕方がない事ではないか。過ぎた事だ」
 過ぎた事だと? だから忘れろと言うのか、澄子を殺された事を? どこからそんな台詞が出てくるのだ。忘れるものか、七度生まれ変わろうとも。お前を、悲嘆の余りの自殺か狂乱に追い込むまで、私のこの恨み、決して忘れはせぬ。必ず、復讐を果たしてみせる。
 他の公卿達の動向にも、注意しなければならない。私は秘かに大弐を呼び出し、桐壷の周辺の人脈を詳しく聞き出した。それによると桐壷の生母は三世の女王で、しかも生母もその両親も既に亡く、母方の勢力は皆無に等しい。桐壷の父は故右大将で、これまた父もその両親も既に亡い。右大将の正室は源大納言の妹に当たる人で、桐壷の生母がごく早くに亡くなった後、継母として桐壷を養育していたが、これも七年前、桐壷が東宮妃となって幾らも経たずに亡くなっている。結局、桐壷を後見しているのは、どこの派閥にも属していない源大納言唯一人ということで、政界の四大有力派閥のどれにも属しない、肩身の狭い立場に置かれているらしい。何ともはや、私の境遇に相通ずるところがある。
 有力な派閥に属していない、しかも更衣が、男皇子を産んだとしても、普通ならその皇子が東宮に儲立される見込みはない。ところが今は、東宮たるべき男皇子がどこにもいないので、もし桐壷が男皇子を産めば、東宮に儲立される可能性がある。それは高仁親王を擁する土御門派は言うに及ばず、承香殿を後宮に送り込んでいる近衛派にとっても、極めて好ましからざる事態である。こういった派閥がどのような動きに出るか、それによって私の立ち回り方も変わってくるだろう。
 十一月の末、桐壷は里退りした。ここに至って桐壷の懐妊は、動かし難い事実として誰もが認識するところとなり、近いうちに起こるであろう出産が、なべての貴族の関心事となった。産まれてくる子が男子だった場合に備えての、有力権門各派の、水面下での工作が始まった様子である。
・ ・ ・
 十一月のある日、帝は信孝と私を近く召した。いつになく嬉しそうな顔をしている。それを見ても私は、何となく斜に構えずにはいられなかった。
「信孝に、第一に知らせたかった事だ。実はな、承香殿が懐妊したらしいのだ」
 全く、どこまで人の神経を逆撫ですれば気が済むのかね。よりによって私に、そんな話をして聞かせる事はないじゃないか。懐妊した澄子が、悪阻のために亡くなってから、半年も経たないというのに。
「そ、それは、本当ですか!?」
 信孝の、頓狂な声が聞こえた。横を見ると、信孝は嬉しさに目を輝かせ、頬を上気させている。おめでたい男だ。まあ、信孝には罪はない。私と澄子がどんな仲だったか、信孝は何も知らないし、私が内心、帝にどれだけ含む所があるかも知らないのだから。
「うむ。まだ、医師の見立てを待たねばならないが、仕える女房達がそう言っているのだ。
 それにしても今年は、子宝の当たり年のようだな。桐壷が添臥に上ってから去年まで七年間に、二人しか懐妊しなかったのに、今年になってから、これで三人だからな。まず入内早々の梅壷、それから桐壷が八年目で初めて、そして承香殿が五年振り、と」
 帝は上機嫌で言う。梅壷、つまり澄子にちらりと言及した時ですら、何らの翳りも感じられなかった。それに気付くと、私の胸は一層激しく焼け爛れた。
「今度こそ、男であって欲しいな。信孝も、そう思うだろう」
 帝は信孝に同意を求める。
「御意にございます」
 妃というものを、男皇子を産ませる道具としてしか考えていない帝も帝なら、それに同調する信孝も信孝だ。私はわざと斜に構えた顔で、黙って坐っていた。
「岩倉宮殿は、どうお思いですか」
 信孝の声がした。ここで、余り素っ気なく返事したり当てこすったりするのも帝の心証を害するだろうから、そこは適当にやるが良かろう。
「若宮なら、文句なしに東宮儲立でしょう。もし姫宮だったとしても、まだ帝も妃の方々もお若い、次には若宮が生まれる望みは充分あります。焦らず気長に、若宮が何人も生まれるのを待って、一番器量の大きい宮を東宮に儲立しても、宜しいのではないでしょうか」
 帝は、やはり少し気分を害したようで、
「どうも正良は、素直でないな。この前の事、まだ根に持っているのか?」
 私は平然と答えた。
「根に持つとは恐れがましい。ただ、梅壷更衣の事が一向に忘れられないのです」
 帝は諭すように、
「私だって忘れてはいない。ただ、それとこれとは別だ。梅壷の事は措いておいて、めでたい事は素直に喜ぶ、そういうものではないのかな」
「は」
 自分が殺した女の事を、措いておいて、だと!? と内心では腸が煮えくり返っていたが、外面は大人しく拝聴したように装っておいた。
「過去の事は過去の事として、現在起こっている事を真っすぐ見つめる、という事ですね」
 私が空々しく言ってのけると、帝も我が意を得たりとばかり、
「そうだ。若者は未来を夢見、年寄りは過去を夢見る、とも言う。私達若者は、将来に思いを馳せる特権があるのだ。今度生まれる私の子供達の事とか、な」
 それから数日後、いつものように参内して殿上の間に屯していると、何やら後宮の方が騒がしくなった。何が起こったのかはわからない。私達殿上人は、互いに顔を見合わせるばかりだった。
 程なく、内侍所の女官や蔵人が慌しく清涼殿に出入りを始めた。帝も蒼惶として清涼殿を出て行った。そのまま、夜になっても帝は清涼殿へ戻らなかった。夕方からは僧侶も呼び集められて、後宮中に読経の声が響き渡り始めた。
 翌日になると、騒ぎの真相はかなり知れ渡っていた。つい先頃から懐妊の徴候が見えていた承香殿女御が昨日の昼間、激しい腹痛に襲われて気絶したというのであった。かなり血も出て、そして帝にとっては残念極まりない事に、腹の子は流れてしまったらしい。女御の方は一命は取り止めた様子だが、再び子を産めるかどうかはわからないというのが医師の見立てであった。
 帝はただ、落ち込んで残念がっているだけだが、それだけではない人々もいる。第一に近衛派である。桐壷懐妊と知った当初は、まだ承香殿にも皇子誕生の望みがある、男皇子さえ生まれれば後見の勢力関係で、桐壷の産むかもしれない皇子など、一たまりもなく東宮位を降ろされる、と思っていたであろう。そして現実に、承香殿は懐妊した。ところが、この事件である。承香殿は流産したのみならず、今後の懐妊は見込めない体になってしまった。こうなると近衛派、就中承香殿の父である左大臣の一分派にとっては、東宮の母方に連なる望みが潰えたに等しい訳で、黙って見ている訳にはいかない。と言うのは、帝の妃は承香殿と桐壷だけではない、もう三人いるからである。それぞれ後見に派閥がついているが、有力なのは関白太政大臣の次男、中御門大納言兼左大将信康の娘藤壷女御である。この一派は近衛派の一分派と言うのが正しいが、分派同士ではやはり勢力拡大を競い合っている節がある。もし承香殿に皇子が生まれないままに藤壷に皇子が生まれたら、母方の勢力から言って東宮儲立は間違いないところだ。この九月に入内したばかりの、故内大臣の娘である弘徽殿女御も有力だ。親代りとなって後見している高松権中納言は京極前関白太政大臣の息子、故内大臣の弟であり、法成寺派が全面的に支援している。法成寺入道が罪を蒙り、京極関白が辞職したと言っても、この派は伏見院との関係もあって依然有力である。それから今一人、権中納言兼弾正尹家儀の娘、宣耀殿女御も無視できない。尹大納言は右大臣の甥で、言うなれば土御門派が二股かけているのだが、ここに皇子でも生まれた日には土御門派の捲土重来は間違いなく、政界を真二つに割る事態となるであろう。
 その土御門派、承香殿の事件に内心胸を撫で下ろす思いをしている者と言えば、この者達を第一に挙げねばなるまい。高仁親王を掌中の珠とし、雌伏十六年捲土重来の時を待ち続けている土御門派としては、宣耀殿以外が皇子を産む事だけは、何としても避けたいところだ。これでまた危機が遠のいた、というのが偽らざる胸の内であろう。
 ここに二人、承香殿の事件に深く恐れをなしている者がいる。事件の数日後、帰邸した私が部屋で休んでいると、桔梗が来た。
「昼間従姉から、また若殿様宛の文が参りました。若殿様と従姉の間には、本当に何もございませんのですか」
 先日大弐が文をよこし、邸に来て、桐壷の懐妊を私に打ち明けてから、一月も経っていない。近江と違って桔梗のような若い女は、案外勘の鋭い所があるようだから、桔梗が私と大弐の関係を疑り始めたとしてもおかしくない。現に桔梗の顔には、好奇心、というのとも少し違うような表情が出ている。
 ここは思案のし所だ。文は受け取っておくとして、桔梗をどう扱うか。これが近江だったら、全てを打ち明けて全面協力させる事もできるのだが――近江なら口は固いし、女房としての一頭地を抜いた有能さは、味方に付ける価値が充分ある――、桔梗となると……。「どういう契機でか大弐が私に一目惚れした」というごまかし案も、近江や少納言になら通用するかも知れないが、桔梗となると大弐の従妹である、桔梗の方から大弐に探りを入れられたら、下手な弥縫策は逆効果だ。……そうか、桔梗から大弐に探りを入れられた時、うまく隠しおおせられるか、そこが問題な訳だ。だとしたらこの際、桔梗に下手に動かれないように、こちらから先手を打って桔梗を味方に引き入れておくか。法成寺入道の陰謀を探った時、晴子を牽制して味方に引き入れたように――あの時とは事情が違うが。桐壷の側に大弐がいるように、私の側にも、この邸内に、手下として使いうる者がいる方が、何かと好都合だろう。とは言っても、やはり、直接の当事者でない人間に秘密を知らせる事は、私をして躊躇させる程の危険な賭けである。事情を全て打ち明けるのは止した方がいい。「全面的に協力せよ」とだけ言って、その事情は適当にごまかす位にしておこう。
 さて大弐の文を開いてみると、
〈先頃の承香殿様の御流産以来、桐壷様は前にも増して心細い御有様でいらっしゃいます。もし生まれてくる御子が若君だったとしても、承香殿様が若宮をお産みになれば、東宮に立てられても東宮位を降りられると仰せられましたが、今やその望みは断たれてしまいました……〉
 後は蜿蜒と繰り言ばかり書かれている。私は首を傾げ、文を畳んだ。
 大弐も桐壷も、よくよく思い込みの激しい女だ。女というのは大体こうなのかね。生まれてもいない子が男か女かなど、誰がわかるものでもないのに、男子が生まれると思い込んでいるとしか考えられない。それとも、懐妊した女だけには、腹の子が男か女かわかるのだろうか。そうでないとしたら、今から取り越し苦労をする事はない。女子が生まれれば何も問題はないと言っていいのだ。勿論私だって、男子が生まれた場合の対策については等閑にしている訳ではないが、それへの対策を講ずる事と、それを苦にして要らざる心患いをする事とは別だ。要らざる心患いをして体を損っては元も子もないし、体を損わなくとも周囲の者に不審に思われてはいけないと、あれ程言ったのにまだわからないのか。
 ともあれここは、何とかして桐壷と大弐を励ますしかあるまい。あの二人が自暴自棄になって身を誤ったら、私に災難が降りかかる。私には、一生をかけてもやり遂げると決心した大事があり、それはまだ緒に着いたばかりなのだ。こんな所で、目先の事しか見えていない女のために挫折させられてたまるか。
 私は桐壷と大弐に宛てて、考え考え文を書いた。二人のために力になってやれる人間は私一人だ、だから私の力で、できる限りの事はして差し上げよう、だから決して、自暴自棄になったり身を誤ったりしないように、気を強く持って生きるのだ、それが貴女達の為だ、云々。但し、一番の本音だけは、書かずにおいた。つまらぬ女に関わったために、遠大な望みを潰されてたまるか、とは。実際のところ、私の気持としては、桐壷や大弐を破滅から救うためにという気は毛頭なく、予想に反して出来した事態を収拾するために、不本意ながら仕方なく、という気が全てであった。
 さて問題は、この文をどうやって届けるか、という事である。相手は淑景舎(桐壷の正式名称)という、後宮の最奥を住処とする者である。私がのこのこ出かけて行って届けてくるというのはやりにくい。だが他に、使者の役を務められる者はいない。夜陰に乗じて隠密裡に、といくしかあるまい。
 翌日午後から参内した私は、日が暮れるのを見計らって、秘かに淑景舎へ向かった。丁度具合の良いのは、昭陽舎が目下無人である事だ。宣耀殿に気付かれないよう、気を付ければよい。
 東面の妻戸から、光が洩れている。私は妻戸に忍び寄り、コツコツと叩いた。
「どなた?」
 大弐の声だ。答える代りに今度は三つ、軽く妻戸を叩いた。
 微かな軋みと共に妻戸が僅かに開いた。女の顔は逆光で見えないが、背格好は大弐だ。
「……帥宮様……」
 大弐の唇から、微かな声が洩れた。私は懐から二通の文を取り出し、妻戸の間から差し込んだ。大弐が文を手に取ると、私は小声で言った。
「読み終わったらすぐ、細かく破って焼いてくれ。私が文を書いた、証拠が残らないように」
 大弐が何か言いたそうなのを無視して、私は足早に淑景舎を後にした。
 これで大弐が少しは落ち着いて、要らざる泣き言を言ってこなくなるだろうか。そうなれば、私の方も安心して対策にかかれる。
 私は邸に帰ると、桔梗を呼んだ。辺りに誰もいないのを確かめると、私は小声で言った。
「一度ならず二度迄も、従姉君が私宛にと言って文をよこしたんで、何かあるんだろうと思っているだろう」
 主人を疑っているだろう、と問い質されて、はいそうです、と答えられる使用人がいるとは思わないが。桔梗は、どう答えたものかという顔で黙っている。
 私は切り出した。
「それには実は、深い訳があるのだ。今迄お前にも黙っていたが、今後も文が来るかも知れないから、お前にだけは話す。近江や少納言には、決して話してはいけない」
「はい」
 桔梗は頷いた。
「桐壷様の御後見は、源大納言様がなさっているが、宮中での勢力は弱くて、それで後宮でも肩身の狭い思いをなさっているらしい。それで、このところ急に脚光を浴びてきた私に、内々に後見をお願いしたいと、そういう事らしいのだ。かなり遠いとは言え血縁だし」
 私なりに苦心して練り上げた嘘であった。桔梗は、意外な事を聞かされて驚いた様子である。
「それで今後も、時々文が来たり、従姉君自身でこちらへ来たりすると思うが、何も詮索しないで、全面的に協力して欲しい。一つには桐壷様のため、一つには従姉君のためだ。わかったかね」
「承知致しました」
 私は念を押した。
「何と言ってもごく内々の事だから、決して他人に口外してはいけない。いいね」
「はい」
 桔梗を退らせると、私は溜息をついた。桔梗を協力させるのは、かなり危険な賭ではある。だが、文を受け取る窓口としてだけの役なら、秘密が漏泄する危険は少ないだろう。
・ ・ ・
 一月初めのある日、宮中から退出しようとした私を呼び止める者があった。
「帥宮殿」
 振り返ると、余り見かけない男である。年は三十過ぎだが、顔を見ても名前が思い出せない。
「……失礼ですが、どなたでしたか」
 私の不躾な問いにも、男は気を悪くする様子もなく、やや卑屈な笑いを浮かべて、
「帥宮殿が御存じでなくとも、致し方ありませぬ。前参議家治と申します」
 名前を聞いて私はピンときた。家という字を名の一字とするのは、右大臣の一族に多い。
「これはお見それしました。それで、私に何の御用でしょう」
 私が一礼して尋ねると、前参議は、
「明後日、私の邸で観梅の宴を催したいと思います。もし宜しければ帥宮殿にも、御来臨頂ければ幸いです」
と、ちょっと引っかかるような慇懃さで言った。言い方だけでなく、内容も少し引っかかるところがある。今年は一月に入っても寒さが厳しく、そのせいで梅の咲くのが例年より遅れている。明後日では、梅はまだ咲き始めたばかりだろう。そんな時機に、観梅というのも変な話だ。だがまあ、知らぬ人とは云え誘ってくれたのを断るのはどんなものだろう。明後日なら物忌でもないし、先約もない。受けておこう。
「承知致しました。明後日ですね。して、お邸はどちらでしたでしょうか」
「大炊御門南油小路西です」
「大炊御門南油小路西、ですか。わかりました」
 翌々日の夕方、内裏を退出した私は、郁芳門を出て真っすぐ前参議の邸へ向かった。門を入った私は、邸の様子を見回した。建物も庭も結構凝った造りだが、邸全体に人気が乏しく、庭の手入れも十分に行き届いているとは言えない。そして宴の名目となっている梅も、まだまるっきり蕾のままだ。こういった様子を見て、私は自分の推理が裏づけられたと思った。
 前参議、というのは取りも直さず、現在は散位であることを表す。これは、一時期ほど権勢が盛んでない事の端的な表れだ。邸内の様子も、この広さの邸にしては使用人が少ないことを感じさせ、これもまた現在この男が落ち目であることを思わせる。そして家治という名前。これは、皇統が伏見院−今上の流れに移ってしまったために勢力を失った、土御門右大臣一族の者であることを思わせる。落ち目の土御門派が、何らかの巻き返しを図ってきて、そのために私を味方に引き入れるべく、何やら口実を設けて私を呼んだのだ、と私は確信していた。
「お待ちしておりました。ささ、どうぞこちらへ」
 私を迎えに出た前参議は、相変わらず卑屈な態度で、私を寝殿に招じ入れた。宴と言うからには、私と前参議が差しで飲む訳ではあり得ない。必ず他に、参加者がいる筈だ。誰が来ているか、しかと見極めておこう。
 寝殿の南庭に面した大部屋に、前参議の先導で入っていくと、先客がいた。私と目が合った途端、私は自分の確信の正しさを知った。
 先客は四人。右大臣、その長男の白川大納言、右大臣の甥で尹中納言の弟の高倉権中納言、右大臣派の大物揃いである。それに、白川大納言の息子の権少将もいる。この顔触れを見れば、土御門派の今後の戦略会議というのが本来の目的であることは容易に察しがつく。
 宴が始まったが、固より咲いてもいない梅を見るのが目的ではないから、三献ほども盃が巡ったところで、もう宴の雰囲気はなくなった。前参議は、給仕に控えていた女房を退らせると、右大臣の方を向いて言った。
「父上(すると前参議は、右大臣の息子に当たる訳だ、と私は思った)、そろそろ本題に入りましょう」
「うむ。帥宮殿、もう少しこちらへ」
 上座に坐っていた右大臣は、末席の私を扇で招き寄せた。私は盃を置いて、右大臣の前へ進み出た。
「本題とは」
 私が尋ねると、右大臣は扇で、もっと声を低く、という仕草をした。私は僅かに頷き、更に少し膝を進めた。左右を見ると、大納言と権中納言、権少将も進み出て、六人が膝を突き合わせるような格好になっている。将にこれから、重大謀議が始まるという雰囲気である。
 右大臣が口を切った。
「帥宮殿、目下我々の置かれている状況は、貴卿にはおわかりであろう」
「幾分かは存じております」
「うむ」
 それから右大臣は、高仁親王こそ正統な皇位継承者であるという事を、蜿蜒と喋り始めた。大半は二年前、当時の東宮に教わった通りの話だ。私は退屈していた。しかしここで退屈そうな様子を見せて、土御門派の心証を害するのは得策ではない。私は内心では大欠伸をしながら、熱心に聞き入っている風を装い、時々深く頷いたり相の手を入れたりしてみせた。
「ところで、だ。現在政界で最も有力なのは近衛殿(関白太政大臣)の一派だが、烏丸殿(内大臣)の一派も侮り難いものがある。今のところ烏丸殿は、后妃を差し出してはいないから、直接一の宮を立坊せしめる障害とはならないかも知れぬ。しかし、烏丸殿の姫君、何と言ったかな」
 新しい話題が出てきて、興味津々で聞き入っていた私は、間髪を入れず口を挟んだ。
「晴姫ですか」
 右大臣は扇で掌を叩き、
「そうそう、晴姫だ。晴姫と蔵人少将が結婚すると、両派が手を組む事は充分考えられる」
 そう言えば、そんな話もあったっけ。あの話は、どうなっていたんだろう。
「今迄朝廷は、法成寺殿と近衛殿、烏丸殿、それに我々、この四派で成り立っていたのだ。二年前法成寺殿が失脚し、三派鼎立となったものの、近衛派の勢力は日増しに強く、我々の勢力は衰える一方だ。烏丸殿が晴姫を蔵人少将と結婚させたがっているのは、近衛殿が宮中の勢力を独占し、他派を排除する前に、近衛派にすり寄っておこうという下心に違いない。烏丸殿はあれで、なかなか抜け目がないからな」
 信孝と晴子の結婚というのは、そんな政略結婚だったのだろうか。私はふと、二年前の春の夜、桜宮邸で晴子と対面した時の事を思い出した。あの時晴子は、「私達の新婚生活のために!」と力み返っていたのだ。本人の意志に関係なく、親同士、一族の有力者同士の思惑で政略結婚させられる、という感じではなかった。右大臣はどうも危機感の余り、少々深読みしているのではないだろうか。
 右大臣は続けた。
「桐壷更衣は近いうちに御産がある。もし若宮がお生まれになったとしても、今のままでは里方の勢力が皆無であるから東宮には立たれまい。しかしもし、蔵人少将と晴姫の間に姫君が生まれたらどうなるか。誕生即、若宮と婚約成立となるであろう。その姫君には近衛殿と烏丸殿が後見に付いているのだ。若宮を東宮に儲立致すのに不足はない。
 そうなってしまうと我々はもう立つ瀬がない。そこで、どうしたものか、と……」
 右大臣の言葉が途切れたところで、私は尋ねた。
「蔵人少将と晴姫は、既に結婚しているのですか。少将とはよく会いますが、そのような話はついぞ耳に致した事がございません」
 すると白川大納言が答えて、
「それはまだです。性覚の事件の折に起こった怪異のために、あのような姫とは結婚させられぬと、室町殿(左大臣)の方から婚約を白紙に戻すと告げた、という事です」
 私は頷いて言った。
「それなら好都合です。こちらが先に、少将を婿に取ってしまえば良いのです。何年前から婚約があろうとなかろうと、こちらが先に婿に迎えて、こちらが先に姫君を儲けて、こちらが先に桐壷腹の若宮と御婚約申し上げれば良いのではないですか。白川大納言殿には、一昨年の大嘗祭の、五節の舞姫に出られる筈だった姫君がおいでの筈、お幾つでしたかね」
 白川大納言には内心、大いに含む所があるので、ほんの少し語気を荒げて言ってから、じろりと睨んでやった。何も知らない大納言は、平然として言う。
「ほう、憶えておいででしたか。しかしそれはもう手遅れですよ。紀子はもう、高仁親王と婚約申し上げた仲」
 そんなこったろうと思った。あの時誰かが言っていた通り、いずれは入内させる気だったのだ。
「では、紀子様の妹君とか、或いは権中納言殿や前参議殿にも、姫君はおられませんか」
 私が左右を見ながら言うと、右大臣は、
「そういう露骨な政略結婚は駄目だ。近衛殿や室町殿が承知する筈がない。双方の利害が一致しないと、政略結婚はできないのだ、今は双方の利害が、喰い違いすぎている」
と頭ごなしに否定した。私は首をすくめて、
「わかりました。独り者が政略結婚云々とは、見当違いを申しました」
 それから私は、真顔に戻って尋ねた。
「一つお伺いしたいのですが」
「何かな」
 私は右大臣を真っ向から見据えた。
「右大臣様は何故私を、観梅の宴との口実を設けてここへお誘いになったのですか。咲いてもいない梅を見せる為ではございますまい。昨今の情勢についての勉強会、というにしても雰囲気が些か妙です。先刻から拝聴していれば、東宮儲立がどうの、近衛殿と烏丸殿がどうのと、妙に腥い話ばかりです。そんな話を私に聞かせて、どうなさるお積りなのですか」
 すると右大臣は唇を歪めた。
「貴卿は思ったより察しが悪いな。その位の事は承知済みと思っておったが」
 大納言が引き取って、
「貴方は親王、臣下のどの派閥にも属しておられない。しかも帝とは、個人的にかなりお親しい仲。そのような方を味方に引き入れる事がどんな事か、お分かりになりませんか」
 言いたい事はわかった。私はゆっくりと言った。
「つまり、こういう事ですか。貴方達の巻き返し作戦には、帝と個人的に親しくて、貴方達の口からでは申し上げにくい事でも帝に申し上げられるような、しかもそこそこに身分のある者が必要だと。そこで無派閥で個人的に帝と親しく、かつ大宰帥である私に白羽の矢を立てた、という事ですね」
 右大臣は深く頷いた。
「その通り」
「それで私に、新東宮に一の宮を儲立して下さるよう帝に働きかけ、もう一方で蔵人少将と晴姫の結婚を妨害するように工作してくれと、そういう事ですね」
 私が水を向けると、右大臣はにやりと笑って言った。
「無論、只でとは言わぬ。成功の暁には、相応の礼はする積りだ」
 今の私には、金銭欲もなければ名誉欲、権勢欲もない。そんな人間にこういう事を言って、それで釣れると思っているのが甘い。
 私は嘯いた。
「もし私が、断ると言ったら? 近衛殿には恩があるし、少将とは個人的に親しい。どちらを取っても、この話には……」
 右大臣と大納言の顔が歪んだ。と思う間もなく、権少将の声が聞こえた。
「いいんですか、そんな事を仰言って」
 見ると権少将は、不敵な微笑を浮かべている。私と同年輩なのに生意気な男だ。私が向き直ると権少将は言った。
「私から帥宮殿に、申し上げたい事がございますので、少し席を外させて頂きます」
 権少将は、ついと立って出てゆく。私は後に続いた。
 簀子へ出ると、権少将は低い声で切り出した。
「帥宮殿は、桜宮様とは個人的にお親しいそうですね」
 それがどうした。私は桜宮の、手を握った事もないぞ。
「一昨年の今頃、帥宮殿は桜宮様のお邸へ馬で参って、落馬して絶対安静になっておいでだったと思いました」
 だからそれがどうした。絶対安静と見せかけて、夜な夜な桜宮と、とでも思っているのか。天地神明に誓ってそんな事はないぞ。
「私はあの頃、二条北高倉西、桜宮様のお邸の向かいにある権中納言殿のお邸によく出入りしていたのですがね、邸の前の道を、覆面をした狩衣の者が、騎馬で通り過ぎる事があったのですよ、桜宮様のお邸の門から出てきて。一度その男を、月明りで間近に見た事があるのですが、背格好といい、まなざしといい、誰かに似ていたような気が……」
 私は、さあっと血の気が引くのを感じた。権少将は、勝ち誇ったような含み笑いをしている。
「帥宮殿が黙って、私達に協力して下されば、それでいいんですよ。父上にも、祖父上にも、私は黙っていますから」
 権少将は囁いた。私は力なく頷いた。
「……わかりました」
 私達は部屋へ戻った。
「家忠、何の話だったのだ」
 右大臣が尋ねると、権少将はにこやかに笑って答えた。
「帥宮殿には、考え直して頂けました」
 私は、胸に湧き上がってくる激しい憤怒を、ぐっと抑え込んだ。私の弱味を握るとは、大した奴だ。しかし、この岩倉宮正良を甘く見るなよ。私はお前等とは根性の坐り方が違う、そんな奴を敵に回して、無事で済むと思うな。
 大納言が、左右を見て言う。
「それでは、約束の印に、帥宮殿に一筆入れて頂きましょうか」
 漸く態勢を立て直した私は、少し抗議の色を見せて言った。
「一筆入れて頂く、とは、それでは私が下手に出たような格好ではありませんか。協力を持ちかけて来られたのは、貴方達の方ではないですか」
 そりゃ確かに、私にとってもこの提案は渡りに船ではある訳だ。と言うのはもし桐壷が男子を産んで、その子が東宮に儲立せられた場合、あの桐壷の様子では、東宮位を降ろさせて落飾でもさせる以外に、私も桐壷も安心できる手段はないからだ。私の息子が東宮に儲立せられたとしても、私自身どうという事はないが、桐壷がいつ真相を漏洩するか、その方が不安なのだ。だから、もし桐壷の産んだ男子を東宮位から降ろす陰謀が起こったとしたら、私はそれに加担する肚であった。幸いな事に、もし桐壷腹の男子が東宮に儲立せられた場合、この東宮を降ろさせる陰謀となれば、最終目的は別として途中経過では、大派閥全部が一致する。従って私は、対立派閥の動きを気にする事なく、悠々と大派閥の驥尾に乗っていけばよいのだ。現に土御門派が、私を取り込みに来た。私を取り込みに来た筈なのに、弱味を握って脅すとは見当違いも甚しいが、それはともかくとしても私に一筆入れろとは、立場が逆ではないのか。
 大納言は笑って、手を振った。
「いえいえ、私共の方から帥宮殿にご約束する、という文面で書きます。帥宮殿はその後ろに、以上承知した、と一筆添えて頂けば宜しいのです」
 女房に硯箱を持って来させると、右大臣は筆を取り、文を認めた。右大臣に続いて、大納言、権中納言、前参議が署名する。私は文を受け取り、じっと読んだ。
〈一の宮立坊の暁には、我が土御門一門の威勢を以て、帥宮殿を御後見申し上げる事をここに約束する。いずれは一品に陞せしめ、准三宮となし、弘安帝の御猶子としての待遇を以て、その御誠意にお報いする所存である。
家資(右大臣) 
家浩(大納言) 
家修(権中納言)
家治(前参議)〉
 私は筆を取り、少時考えてから書いた。
〈右の事、承知致しました。
(花押)〉
 用心には用心を重ねて、普段の書体と意図的に少し違えて書き、署名はせずに判断困難な花押、それも普段使っているのとはかなり違うのを書いた。もし事が露見して、この書面が証拠として出されても、字が違う、と言ってシラを切るためであった。
 私が書いている間に、右大臣はもう一通、文を書いていた。それにも四人が連署して、私によこした。見ると、同じ文面である。
「これは、同じ文面ですか」
 私が尋ねると大納言は、
「そうです。対等な約束の印として、両方で一部ずつ、同じ物を持つのです」
「わかりました」
 私は同じように一行書き、花押を書いた。それにしても、普段と違う書体で、寸分違わずに書くというのは中々大変な事だ。しかし、この書体が私の書体だと右大臣に信じ込ませるには、そうするしかない。
 私が一筆入れた二部の書状を、右大臣はじっと見ていたが、やがて頷いた。
「これでよし。帥宮殿、貴卿の御活躍を、期待しておりますぞ」
 私は書状を一部受け取り、畳んで包み、懐に入れた。退出する私を、車宿まで送ってきた権少将は、にやりと笑って囁いた。
「くれぐれも、変な気を起こさぬように」
 吐かしてろ。私はな、帝を狂い死にさせる覚悟で生きているのだ。貴族の一人や二人、私の邪魔をする者は排除するのを厭わないぞ。
 一月二十五日の昼前、私の部屋へ桔梗が来た。
「今しがた従姉から、若殿様にと言って文が参りました」
 桔梗には真赤な嘘ながら事情を話し、協力するよう申し渡してあるので、余計な詮索はせず、文を差し出すと心得顔で控えている。私は文を開いた。
〈今朝辰の刻(午前八時)、桐壷様は御産なさいました。若君でございます〉
 とうとう、私達の最も危惧していた事態が起こってしまった。桐壷と大弐は、恐らく生きた心地もしないだろう。私としても、こうなったからには本気で行動に着手しなければならぬ。とりあえず今は、情勢の動きを見極める事が第一だ。
 私は急いで参内した。皇子の誕生という噂の広まるのは早い。既に殿上の間は、この噂で持ち切りであった。公卿殿上人達がざわついている殿上の間に腰を落ち着ける間もなく、帝は私を召した。
 御前に進み出て帝の顔を見ると、何とも嬉しそうな顔である。実に素直に、初めての男子を儲けた喜びを表している。そういう事ができる人間は、つくづく幸せ者だ。知らぬが仏、とはよく言ったものである。
「三度目の正直、だよ。とうとう私にも、皇統を嗣がすべき皇子が生まれたんだ。子供は三人目だが、皇嗣となると格別だな」
 帝の言う事に一々腹を立てていては始まらないが、それにしても、どんなものだろうね。
「若宮の御誕生、祝着至極に存じ上げます」
 素直に喜びを表明できない時は、こういう紋切り型の台詞が適している。気のない言い方をしても、それ程角が立たずに済む。
 私は、言わずもがなとは思いながらも尋ねた。
「皇統を嗣がすべき、と仰せられますと、此度御誕生の若宮を、東宮に御儲立になるのですか」
 帝は、何を今更、という口振りで、
「当然ではないか。私が践祚してから二年近くになるのに、東宮がいなかったのだ。いつまでも東宮を、空位にしておく訳にもゆくまいが。だからこそ今迄、これ程迄に皇子の誕生を待ち焦がれていたのだ」
 私は嘯いた。
「私としましては、桐壷更衣のお産みになった若宮を東宮に御儲立なさる事には反対は申しませんが、公卿方の中には、それを快からず思っておられる方々もいますね」
 すると帝は幾分感興を害したような顔で、
「土御門派か? 頼むから、あんな連中の事など話題に出さないでくれ、折角いい気分になっていたのに」
 帝がこれでは、土御門派が干される訳だ。
「いつ迄も高仁親王を担いで、我々が正統、と負け犬の遠吠えをしているがいい。今の世の中、帝の私がその気になれば、高仁親王には永久に日が当たらぬ。東宮は、私の皇子だ。私がそうと決めれば、誰にも口出しはできぬ」
 いいのかね、そんなに自信満々で。ここに一人、獅子身中の虫がいるのだぞ。うっかりしていると、足元を攫われるぞ。帝に最も親しい私、帝の異母兄でもある私が、土御門派と手を組んでいるとは、よもや気付くまい、この勘の鈍い帝が!
(2000.11.25)

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