岩倉宮物語

第五章
 物忌の明けた翌日、私は傷心の悲しみをひた隠しにして参内した。侍従局に出頭するや否や、東宮坊の六位が私を呼びに来た。
 昭陽舎に参上した私は、東宮の顔を見て息を呑んだ。日頃は陽気で、笑顔を絶やさない東宮が、見た事もない程真剣な顔をしている。私が参上したのを見ると、黙って扇で差し招いた。東宮は私を塗籠に招き入れると、塗籠の戸を閉ざし、小声で言った。
「これを見てくれ」
 東宮は左手に紙燭を持ち、右手で懐から何やら取り出した。紙燭の灯りでよく見ると、人形である。私は呟いた。
「人形ですね」
 東宮は声をひそめつつ、しかし厳しい声で言った。
「只の人形に見えるか? 呪詛に使う奴だ。それが昨日、私の寝所の床下から見つかったのだ」
 私は生唾を呑んだ。
「大体見当はついてるんだ。法成寺入道の一派が画策しての事に違いない」
 東宮は断言するように言った。
「法成寺入道?」
 私が鸚鵡返しに呟くと、東宮は、
「そなたは今の、政界の情勢に相当疎いようだな。まあ私が、その方面の話題を避けてきたからでもあるな。しかし今となっては、事は重大だ。場合によってはそなたに、私の隠密として働いて貰わねばならないかも知れない。弟として兄にこんな事は命じたくないのだが」
 東宮はすっかり、私を異母兄と信じ切っている。様々な証拠によって、私が帝の息子であり、東宮の異母兄である事は最早、疑う余地の殆どない事実となったが、それはまだ東宮には話してない。理窟でない一種の直感で、私が異母兄であると感じたのだろうか。
 東宮は紙燭の火を燭台に移し、淡々と説明を始めた。
「今の政界の派閥は、大きく分けると有力なのが三派ある。法成寺入道、前の関白太政大臣師信公を中心とする一派、近衛左大臣信憲公の一派、そして土御門右大臣家資公の一派だ。今、一番有力なのは近衛派だ。と言うのは、私の母上麗景殿中宮は故式部卿宮の御娘で、御血筋は父帝の后妃中最も優れておられる。しかし、宮家というのは血筋は良くても、有力な後見がないと非力なのは、そなたもよくわかっているだろう。それで、式部卿宮妃の兄が左大臣であることから、私が生まれてから近衛派は全面的に私を支援してくれた。弘安帝の崩御によって父帝が登極(即位)あらせられると、時をおかずに私を東宮に儲立されるよう運動し、私は東宮に儲立された。今日私がこうしてあるのは、偏に近衛派の尽力の賜物なのだ。
 しかし、法成寺派も侮り難い。そもそも弘安帝が御嗣子なく崩御された後、父帝が登極されたのは、法成寺入道の力が大きかった。父帝の御生母待賢門院は、法成寺入道の御妹に当たるのだ。また、法成寺入道の御孫が登華殿女御として入内されていたのも、父帝の登極に大きな力となった。だから父帝も、法成寺入道の勢力は無視なされないのだ。それから土御門派だが、これは今は雌伏しているが、必ずや捲土重来を図っているに違いない。と言うのは弘安帝は十六年前、御嗣子なく崩御されたのだが、その翌年、遺子一の宮高仁親王が生まれたのだ。右大臣は、この一の宮の外祖父なのだ。弘安帝の崩御がもう一年遅かったら、間違いなく一の宮が登極されていた筈だ。それだから、いつか一の宮を擁立せんと、虎視眈々と狙っているんだ。土御門派は、一の宮こそ正統、と考えているからね」
「正統、とはどういう意味ですか」
「それを説明するには、三代遡らなければならない。三代前の帝五条院は、大宮院との間に二の宮具仁親王、安嘉門院との間に三の宮治仁親王と御二人の皇子を儲けられたが、二の宮に御譲位された。受禅された二の宮、七条帝と称え奉るが、七条帝は御弟三の宮ではなく、御嗣子望仁親王に御譲位された。弘安帝であらせられる。ここまで来れば、皇統は二の宮の御血筋に当然受け嗣がれるものとなり、三の宮の御血筋は全く皇統と無縁になるところだ。だから三の宮の御嫡子俊仁親王も、登極されるとはよもや思われなかったのだ。ところが十六年前、突然弘安帝が御齢二七歳で崩御され、本当に思いもかけず、といった形で俊仁親王、他でもない父帝が、立坊を経ずに登極される事になった。何故、一の宮こそ正統と言われるか、わかったかい」
「わかりました」
「それで、だ。父帝が登極された当時、男皇子は私一人だった。そなたは勿論、いないも同然だった。しかし十年前、登華殿女御に御懐妊のないのに業を煮やした法成寺入道が、強引な事だな、登華殿女御の妹を弘徽殿女御として入内させた。狙い通りと言うか、六年前に弘徽殿女御は男皇子をお産みになった。二の宮、教仁親王だ。すると早速、法成寺入道は、私の東宮位を廃して二の宮を儲立するよう、父帝にしつこく働きかけ始めた。五年前、左大臣の孫娘の倫子が私の妃となると、目に見えて焦り始めた。何故かは言わなくてもわかるだろう。倫子が男の子を産んだら、私が登極の暁には必ずその子が東宮に立つ。そうなったら、余程の事がない限り二の宮の血筋には日は当たらない。そうなる前に二の宮を東宮にと、法成寺入道は必死なのだ。今のところ私の子供は、三年前倫子が産んだ久子が一人いるだけだが。この子が生まれる直前の、法成寺入道の慌て方はひどいものだった、『変成女子の法』というものがもしあったら、国中で修法させただろうな。
(筆者註 「変成男子の法」というのは仏教の秘法で、胎中の女児を男児に変えるという法であるが、東宮の言葉はそれをもじったものである)
 それで最近の情勢だが、法成寺入道の動きは一層激しくなってきた。父帝は近頃とみに御患い勝ちで、今年御齢四十歳になられるのを機に、御譲位の意向をお持ちらしいのだ。それと、左衛門督の娘の靖子に、懐妊の兆候が見えてきた。今度こそ男の子であって欲しいと私も思ってるが、法成寺入道にとっては重大な問題だ。靖子が男の子を産むのと、父帝が二の宮を東宮に儲立し、譲位なさるのと、どちらが早いか、法成寺派と近衛派、双方にとっての死活問題だからね(左衛門督は左大臣の息子であり、従って靖子は近衛派に属する)」
 東宮の説明を聞いて、私にも政界の情勢がようやくわかってきた。私は何遍も、深く頷いた。
 東宮は、その顔に一層強い意志を漲らせて言い切った。
「私は東宮、しかも十九歳だ。私を東宮位から追い落とそうとする者に対しては、断乎戦う」
 私は力強く頷いた。それでこそ私の弟だ、というと無礼に当たるかも知れないが。
「と言っても、私は事を表沙汰にする積りはない。今のところ法成寺入道が陰謀を企てているといった証拠がある訳ではないし、それに、事を表沙汰にすれば法成寺入道のみならず、一族郎党に累を及ぼすことは必定。私は法成寺入道に私怨がある訳ではないし、まして今の京極関白太政大臣や、その他法成寺入道の一族を、根こそぎ失脚させようなどという気は毛頭ない。そんな事をすれば、多くの人々の怨恨を集めるだろうし、それよりも何よりも、朝廷の混乱は免れ得ない。三派鼎立で何とか均衡を保っている今の政界から、一派が一掃されたら、土御門派がこの混乱に乗じて捲土重来を図るような事も起こって来よう。朝廷の混乱は都の混乱、ひいては天下の混乱につながりかねない。それは私の望む所ではないし、父帝も、皇祖皇宗も決して望まれる所ではない」
 東宮は一息入れ、私の肩に手を載せた。
「そこで、だ。私の最も親しい、最も信頼できる腹心のそなたに、頼むのだ。法成寺入道の身辺を、気付かれぬように探って貰いたい」
「は……」
「私は東宮という立場だから、表立って動くことはできない。そなたを見込んで頼むのだ。受けてくれるか」
 東宮の言葉は真摯だ。東宮に、そしてまた弟に、ここまで真摯に頼まれて、男冥利に尽きるとはこの事だ。私は決心した。東宮の為に、と同時に弟の為に、臣下として、兄として出来る限りの事はしよう。
「承知致しました」
 私が力強く頷くと、東宮は目を輝かせ、深く頷いた。
 少時して東宮は言った。
「大内は警備が厳しいから、そなたの行動拠点としては使いにくいだろう。二条北東洞院西に、私の母上の里屋敷がある。普段は姉上、女一宮の住まいだ。ここを拠点として行動し給え。ここなら、法成寺入道の京極殿にも近い。早速姉上に文を書いて、そなたの事を頼もう」
 東宮は塗籠を出た。私も続いて出る。東宮は文机に向かうと、紙と硯箱を取り出し、さらさらと文を認めた。文を畳んで包み、花押を書いて、それを私に手渡しながら、
「これを持って行って、『女一宮に』と言えばいい。では早速、行き給え。東宮坊の者に、馬を用意させるから」
 私は東宮の文を持ち、東宮坊の者が用意した馬に乗って、二条北東洞院西の邸へ向かった。馬を進めるうちに、私は心が昂ぶってきて、武者震いを止められなかった。東宮の特別な信任を得て、東宮の為に粉骨砕身できる事は、身に余る光栄でもあり、東宮の兄たる身の誇りでもあった。
 東洞院の邸に着いた。ここも宏壮な邸で、左大臣邸に些かも引けを取らない。紅白の梅や早咲きの桜が今を盛りと咲き誇るさまは、重大任務を帯びた私の心にも、一服の華やぎをもたらしてくれる。
 私は東の対に招ぜられた。簾の内には、一人の女性の姿が見える。女一宮だろうか。
「東宮の御使いの者ですね。もっと近う、お寄りなさい」
 臈たけた、雅びやかな声だ。当年二三歳という、年に相応しい華やぎのある声だ。私は、簾のすぐ前まで進み出て坐り直した。
「御簾を」
 女一宮の声で、左右に控えている女房が、するすると簾を巻き上げる。貴族の女性が、それも内親王ともあろう人が、簾を挙げて男と対面するのは、よくよくの事だ。女房達は、簾を巻き上げると、さっと退いていく。
 間近に見る女一宮は、私のような者でも思わず見とれてしまうような美人だ。顔立ちの端正な事は勿論だが、穏かで柔和で、それでいて理知的なまなざしは、女一宮の心映えの美しさを、遺憾なく表している。そのまなざしは、東宮に、……そして澄子に似通ったところがある。
「貴方の事は、かねがね伺っておりますよ、ミツオ」
 女一宮は、いきなり変な事を言う。
「は? ……私は、岩……」
 言いかけた私を、扇を挙げて制して、女一宮は小声で言った。
「私達の間では、貴方を光男と呼びます。ここに出入りする時は、光男で通しなさい。貴方がここに出入りすること、ここを足場に探ることは、私と東宮と貴方、この三人だけの秘密なのですから、何事があっても、決して素姓を明かしてはいけません。いいですね」
 口ぶりは温和だが内容は厳しい。私は頷いた。女一宮は続けた。
「世間には貴方は、三世王の侍従と見られています。その貴方が、毎日ここに出入りするのでは変に思われますから、貴方には当分の間、ここを足場にして、播磨守のお邸にも帰らず、内裏にも参らずにいて貰います」
「は。でも、邸へ帰らないとなると、邸の者が騒ぐかも知れませんし、内裏にも参らないとなると、今迄滅多に休んでいない私ですから、却って怪しまれるかも知れません」
 私が懸念を申し出ると、女一宮は、
「そこは東宮が、うまく取り繕ってくれる手筈になっています。私の邸へ招かれて、急に病気でも怪我でもした事にすれば良いでしょう。貴方、馬に乗ってきましたね。また落馬して腰を打った事にすれば、一月か二月は絶対安静、と言っても誰も怪しみませんよ」
と言って口元を隠す。私は苦笑いして、
「女一宮様もお人が悪い」
 女一宮は、にっこりと微笑んだ。
「桜宮、と呼んで下さい」
 その人懐こい笑顔は、馥郁と香る満開の桜を思わせる。
「桜宮、ですか。名は体を表す、とは良く言ったものですね」
 私は、前庭の桜が五分咲きになっているのを、振り返って見ながら言った。
「ま、お上手ですこと、ほほほほ」
 桜宮は扇で、顔を半ば隠して笑った。ちょっと下手なお世辞だったかな、と思った私も、少し気分が和んだ。
 桜宮は俄に真顔に戻った。
「と、浮かれている場合ではありませんわね。実は十二月の初め頃から、夜になると、東の小路に怪しい男が見えるのです。毎晩ではないのですが。あちらの手の者が、私の身辺を探っているのかも知れません」
 これは一気に、只ならぬ雰囲気になってきた。私は思わず身を乗り出した。
「東宮が、この邸へ足繁く出入りしているのは、あちらにもよく知られている筈ですから。光男、今夜から早速、この邸の周りを注意して見張って下さい」
「わかりました」
 私は、自慢ではないが腕力なら、そこらの貴族には負けない積りだ。だからと言って、余り性急に事を運んではまずいだろう。その男を見つけても、その場で組み伏せて吐かせるのではなくて、泳がせて尾行し、尻尾を掴むといった手順を踏んだ方が上策だ。
 夕方になって、何やら寝殿の方が騒がしいのに気付いた。桜宮も気が付いて、やや不安そうな顔をしている。そのうちに女房が入ってきて、何事か桜宮に囁いた。桜宮は、得心したように頷き、
「わかりました。お退り」
 女房が退ると、桜宮は塗籠を指して言った。
「光男、あそこへお入りなさい」
 何故塗籠に?
「何をしているのです。早く」
 桜宮の声が、少し気色ばんだ。私は素早く立ち上がり、何もそこに残さぬように確かめて、塗籠に入った。
 程なく、ドスドスという足音が聞こえてきた。誰だ。内親王の部屋に足音荒く踏み込むとは、只者ではない。
「桜宮様、正良はどこにおるのです!?」
 これは、継父の声ではないか! そうか、東宮は私が、この邸で急病を発したか何かしたと、継父に知らせたのだ。それで継父は、一大事とばかりすっ飛んで来たのだ。
 桜宮の声は聞こえない。本来貴族の女性は、来客には直接応対せず女房に伝言させるのだ。だから、簀子縁にいるに違いない継父に聞こえるような声は出さない。
「動かせないというのはわかり申した、しかし、落馬しただけで対面もできぬとは、どういう事です、説明して下され」
 継父の声ばかりが聞こえる。どうやら東宮は、私がまた落馬して、打ち所が悪かったという事にしたらしい。東宮と桜宮と、同じ事を考えていたのか。それ程私の落馬は、印象に残る大事件だったのだろうか。
「頭を!? ……全く正良も、落馬も二度目なら、もっと上手に落ちればよいものを!
 わかり申した。そう仰せられては、無理は申せませぬ。失礼仕り申した」
 継父が出てゆく足音がする。こうまであっさりと瞞されてしまう継父が、何だか哀れに思えてきた。
 日が暮れると私は、狩衣に烏帽子という軽装で、馬に乗って邸の周りの巡回を始めた。東西の門から出つ入りつ、庭にも不審な者はないかと目を光らせる。東の門を出て、南へ向かって馬を進めてゆくと、突然、
「何者!?」
 叫びながら馬の前に立ちはだかった者がある。すわ、と私は腰の太刀に手をかけた。
「何者だ、名を名乗れ!」
 その男は、叫びながら抜刀した。何者だ、とはこっちの台詞だ。男が太刀を振り上げた。私は無我夢中で太刀を抜き、男の太刀を叩き落とそうとした、その時、馬が怯えたのか、私は姿勢を崩し、私の太刀は男の太刀の鍔を打つ筈が、男の肘に当たった。
「わぁ! 痛ぁい!」
 男は頓狂な叫び声を上げ、太刀を取り落として尻餅をついた。立ち上がって太刀を拾い上げたものの、再び向かって来る勇気も失せたのか、肩を震わせながら、
「おっおっ覚えてろ、いつか、いつか」
 何とも締まらぬ捨て台詞を吐きながら、後も見ずに走り去っていく。
 思ったより意気地のない男だ。法成寺入道の手下にしては、余りにも腰抜けすぎる。東宮や桜宮を害せんとする刺客なら、もう少し腰が坐っていようし、太刀の腕も立つ筈だ。もしかすると、全然無関係な人間だったか? だとしたらまずい事をしたものだ。手傷を負わせたのは失敗だった。でも本当は、太刀を叩き落とす積りだったのだ。
 翌日、東宮から文が来た。
〈昨夜そなたは、かなりまずい事をしてしまったのではないか? 昨夜公晴が夜歩き中に、騎馬の男に腕を斬られたと言って烏丸殿(公晴の本邸)へ帰ったところ、信孝が何故か烏丸殿に居合わせたのだ。信孝は職務上放って置けなくて急いで参内し、すっかり事を大きくしてしまった。左右衛門府、兵衛府、検非違使庁総出で、夜盗辻斬り一斉取締り運動が始まった。私達の、と言うよりそなたの任務にも、かなり支障があるだろう。向こうがこれで用心深くなって、尻尾を出さなくなる恐れがある。一番心配なのは、そなたを見知っている公晴が、下手人はそなただと訴え出る事だが、公晴がそうしなくとも、もし信孝がそなたを嗅ぎつけたら、彼の事だから事をどこまで大きくするかわからない。そこで私は、倫子が世情不安で怯えているという口実を設けて、信孝を梨壷(昭陽舎の別名)に足止めすることにした。向こうは信孝を、私の一番の懐刀と思っているから、その信孝が動かなければ少しは油断するかも知れない。そなたの方も、何とか人目に付かぬように、任務に精を出してくれ。太刀はせいぜい、脅すだけにしておいてくれ。
敦仁〉
 どうやら、かなりまずい事態になっている。斬ったのが公晴だったというのは、私としては余りにも心外だ。あの時の状況をよく思い出してみれば、東宮や桜宮を狙った刺客にしては余りにも弱すぎ、腰が坐らなさすぎたから、どこぞの若公達が夜歩きしていたのと出喰わしたと考えるのが妥当とは思うが、それにしても公晴となると大問題だ。彼は私を見知っているのだから、もし彼が、下手人は私だと言ったら、私は落馬して桜宮邸で絶対安静の筈なのに、何故公晴を斬れる位元気なのか、と詮議されるだろう。そうなったら窮地に立たされるのは桜宮だ。世間に嘘を言って私を匿い、私に何をさせようとしていたのか、と大問題になる。ひいては東宮に累が及び、これを口実に東宮位を廃し……そ、そんな事になったら、私はどうすれば良いのだ!?
 血の気が引く思いで、部屋で茫然と坐り込んでいると、桜宮の呼び出しがかかった。重い足取りで参上してみると、桜宮も困惑し切った様子で、
「暫くは、動かない方が良いでしょうね」
 桜宮にも、東宮から文が行っているらしい。
「私も東宮も一番心配しているのは、斬られた公晴侍従が、斬ったのは貴方だと言わないか、それなのです」
 私は、沈痛な声で言った。
「それは私も同じです。何せ、公晴とは顔見知りですから。もし私が下手人だと公晴が訴え出たら、必ず桜宮様、貴女が窮地に立たされます。さらに東宮に累が及ぶような事になったら、東宮に向ける顔がありません。そうなったらもう、一命を捨てるしか……」
 悲壮な覚悟を胸にした私を慰めるかのように、桜宮は優しく、
「光男、貴方がそこまで思いつめるには及びませんよ。今はじっとして、東宮の指図を待つのです」
 私は黙って、深々と頭を下げた。
「門の外は検非違使がうるさくなっています、けれど門の中は、検非違使も来ません。当分は、門の中に不審な者がないか、注意して巡回しなさいな」
 そこで私は、暫くは門より外へは出ず、邸内だけの巡回にとどめる事にした。
 それから数日間というもの、本当に生きた心地もしなかった。どうか公晴が、下手人を私だと気付かないでいてくれと、それだけを寝ても覚めても切に願っていた。
 七日の朝、東宮から文が来た。
〈信孝が公晴を見舞いがてら事情聴取したところ、公晴は下手人の人相について、何も見ていない、何も知らないの一点張りだということだ。当夜は月のない夜だったから、何も見えなかったと言うらしい。しかも斬られた場所も、右京の方だなどと、全然違う場所を言ったそうだ。信孝は疑っているようだが、とりあえず下手人がそなただと公けになる心配はなくなったようだ。その事は安心してくれ。
敦仁〉
 やっと私も、愁眉を開いた思いだった。よく思い出してみれば、あの日は朔日だった。月明かりのない闇の中で、下手人の人相を見極められなかったとしても無理はない。しかし、……幾ら月明かりがなくとも、この京洛の中で、自分のいる場所か右京か左京か(この邸は朱雀大路より東、左京にある)わからないという事はなかろう。公晴は確かに、年の割に幼くて、抜けている所はあるが、右京と左京を間違える程ではない。そうすると、公晴は斬られた場所が左京二条北東洞院西と知っていて、わざと右京だと嘘を言ったのだろうか。そうだとしたら何故? 確かに公晴が信孝に嘘を言った事で、私や桜宮に嫌疑がかかる危惧は減ったと言えるだろう。そうすると、もしかすると公晴も、東宮に協力してくれているのか? しかし、もし公晴が東宮に協力して、私の任務に手を貸してくれているとしたら、あんな同士討ちのような事はやるまい。公晴が斬られず、黙って何もしないでいる事が、私にとっては一番の助力となるのだが。事実としては、公晴が斬られた場所について嘘を言う前から、公晴が斬られたということで、信孝が事を大きくして、市中で検非違使や衛府がうるさくなったのだから。それにしても、何故あの晩、信孝が烏丸殿にいたのか。信孝の本邸は大炊御門室町の室町殿の筈だが。
 ここらへんで、今の状況について一通り考えてみよう。邸のまわりに、夜になると出没していた男というのは、あの夜からは一度も見かけない。とすると、あれは公晴一人の仕業だったという事にほぼ間違いなさそうだ。しかし、そうしてみるとまた、別の疑問が出てくる。あの公晴が、夜な夜なこの邸の周りに出没していたのは、何の目的あっての事なのか。一夜だけなら、偶然通りがかりという事もあろうが、十二月の初め頃からとなると二ヵ月だ。冬から早春にかけて、二ヵ月間毎晩のように邸の周囲に出没するとなると、何か特別な目的があると考えた方が正当だろう。では何の目的でか。……もしも公晴が、法成寺入道の意を受けているとしたら? 法成寺入道の意を受けて、桜宮の身辺を探っているとすれば、その最中に何者か(公晴は私だと知らないようだから)に斬られて、それを信孝が表沙汰にして事を大きくした今、どこで斬られたかという事に関して嘘を言うのは、十分に考えられることだ。夜な夜な桜宮邸の周りを徘徊していて斬られた、などと信孝に言えば、何故桜宮の縁故でもない公晴が、そんな不審な行動を取ったのか詮議されるだろう。そうなると、あの公晴の事だから、法成寺入道の意を受けて内偵していたと、すぐ白状してしまいそうだ。そうなったら入道は破滅だ。公晴も、その父権大納言公通卿も連座だろう。
 私は桜宮に会って、自分の推理を述べた。
「実際私としては、あの公晴が法成寺入道に協力しているとは思いたくないんですがね。彼は私が見る限り、法成寺入道に買収、いや、官位を陞らせてやるからというような甘言に釣り込まれて、そういう打算と衛門佐との友情を天秤にかけて打算の方を択るには子供すぎるんです」
 桜宮は、どうも今一つ納得がゆかないといった顔で、
「でもそれなら、何故公晴侍従は、私の邸の目の前で斬られたと、衛門佐に言わなかったのでしょう」
 私は語気を強めた。
「そう、そこがわからないのです。ですから公晴の身辺を、もっとよく洗ってみる必要があります」
 桜宮は、慎重に言葉を選ぶ。
「身辺を探る、となると、……そう、烏丸殿の、公晴侍従付きの女房に渡りをつけて、中から探ってみましょうか。私達貴族に一番身近な人というのは、お側仕えの女房ですからね」
「それがいいでしょう。では私は、そろそろ本格的に、あちらを探ることにします」
「わかりました。お退りなさい」
 十三日、夜になると、私は一人馬に乗って、法成寺入道の邸を偵察すべく東門を出た。今夜は月が出ているので、顔を見られないように黒布の覆面をしていく。
 門を出て南へ馬首を向けた時、
「止まれ、止まれぇ!」
 この前と同じ声だ。声のした方を見ると、間違いなく公晴が、抜刀しながら道を横切り、こちらへ走って来る。
「やい、この前は、よくもやったな!」
 そりゃ斬られた公晴にしてみれば、一太刀報復したいのは山々だろうが、私としては無闇な刃傷沙汰は避けたいし、大体今日は公晴にかかずらう積りはない。しかもよく見ると、道の向こうに一台の牛車があり、人影が見える。ここで公晴ともめたら、非常にまずい事態になる。私は素早く馬首を転じた。
「待てえ…ぎゃっ!」
 公晴の奇声に続いて、人が倒れる音がした。私は後も見ず、一目散に馬を走らせた。
 中御門大路あたりまで来た時、牛飼童の掛け声と、牛車の音に気が付いた。振り返ると、先刻道の向こうにいた牛車が、私を追ってくる。
 ようし、こうなったら競走だ。あの牛車を巻いてやる。私は馬に一鞭くれて、東へ西へ、南へ北へと走り回った。
 そのうちに私は、四条辺りまで来ていた。牛車は巻いたようだが、少し遠くまで走りすぎた。ここから京極殿までは相当ある。
 四条? ふと私は、法成寺入道の別邸の一つが、綾小路南壬生西にあったのを思い出した。そうだ、そこならすぐ近くだ。考えようによっては、私達に目をつけられやすい本邸より、余り気に留められない別邸の方が、陰謀の拠点としては適している。よし、乗りかかった舟だ、別邸を探ってみるか。ここ数日間本邸を探っているが、毎晩空振りで、そろそろ目先を変えてみようと考えていた矢先だ。
 私は坊城小路に馬を繋ぎ、生垣の隙間から邸内に侵入した。植え込みの中から、そっと周囲の状況を窺うと、……寝殿に灯が点いている。寝殿の周囲に、ちらちらと見える灯は、侍の松灯だろうか。大当たりだ。私は胸が高鳴るのを感じた。ここは一刻も早く、寝殿の床下にでも侵入しよう。とは言っても侍が多いから、見つからないように気をつけて……。
 寝殿の床下へは、難なく侵入できた。入道がいるとしたら、当然母屋(建物の中心、柱にして二面五間の部分を母屋と言い、その外側に廂、孫廂、簀子縁がある)にいる筈だから、その辺に見当をつけて行こう。
 と、いきなり老人の大声、
「誰だっ!? そこに誰かいる!?」
 ま、まさか、床下の私に気付いたとは思えないが、それでも一瞬、心臓が停まりそうになった。
 ドスドスと音がして、老人が簀子へ出ていく気配がする。大勢の人が、駈足で庭に集まってきた様子だ。いやはや、危かった!
「入道様、何か!?」
 間違いない、あの老人が法成寺入道だ。
「人の気配がしたのだ。お前等、見なかったか」
 侍は口々に、
「さあ、我々は何も……」
「そう言えば、東門の近くにどこかの車が停まっておりましたが……」
 車、だと!? もしかして、私を追ってきたあの車か!? あの車に乗っていたのが、公晴と共に法成寺入道に協力している者で、公晴が桜宮邸の門前で私の馬に蹴られた――あの状況は、そう考えるのが理に叶っていよう――のを見て、私を追跡してきたが見失って、とりあえず通報のために、ここへ来たのか!?
「多分、近くの女の許に隠れて通う者でしょう。この邸を探ろうとする者が、あんな所に堂々と車を停めておく筈がない」
 別の侍の声だ。入道の、やや安心した声が、
「そうだな」
 そうだろうな。同志の一人が私の車に蹴られたと通報に来たのなら、門の外に車を停めておく事はないだろう。
「しかし、心配だ。お前等何人か、ここで見張ってろ。他の者は元の場所に戻れ。しっかり見張るんだぞ」
 入道は尊大に言い、妻戸を閉めて母屋へ戻って来る。やがて私のすぐ頭の上で、入道が坐り込む気配がした。
「空耳だったようだ」
「気のしすぎですよ、入道様」
 やや若い男の声だ。
「幾ら気をつけても、足りない位だぞ。それでなくても、今京中には検非違使が出動していて、いろいろ動きにくいのだ」
 別の男の声がする。
「全く左衛門佐の奴め、夜盗や辻斬りの一匹や二匹、放って置いてもいいものを、馬鹿正直に報告したばかりに」
 信孝には申訳ないが、これは私も同感だ。
「烏丸権大納言の子息が斬られたというが、どれ程の傷なのか調べる必要はないのかな。夜盗とやらは、本当にいたのかどうか」
「本当に夜盗がいたかと仰せられますと」
 入道が、やや苛立ったような声で、
「そなた、疑ってみた事はないのか。夜盗辻斬り狩りは只の口実で、我々の動きを封ずるために、夜間巡回を強化したのかも知れんぞ」
「まさか。帝が我々の動きに気付かれておられるとは思えません」
「誰が帝の話をしておる。東宮御自身が気付かれて、そのような手を打ったのではないかと言っておるのだ」
 すると若い声が笑って、
「それこそ考え過ぎというものですよ。もし東宮が気付かれているなら、事を荒立てず密偵を放って調べさせるが上策。それを夜盗辻斬りにかこつけて京中巡回をさせるなど、我々を警戒させるだけではないですか」
 ドンピシャリの読みだ。ここまで深く読まれているとなると、少々問題があるぞ。
「しかも東宮は、今回の件で怯えられて、あの左衛門佐を梨壷に宿直させておられる。もし本当に我々を封じ込める積りなら、そんな事はなさらないでしょう。左衛門佐はいずれ東宮の片腕となる者、しかも東宮の後見をしている近衛家の息子、我々の計画を知って真先に動き出すのは近衛家の筈です。その近衛家の左衛門佐が、呑気に宿直をしている以上、案ずる事はありません」
 東宮の読み勝ちだな。東宮はとうに気付いていて、気付いたことを悟られないために、信孝を梨壷に足止めしているのだ。東宮の一番の懐刀は、実は信孝ではなくてこの私、岩倉宮正良だという事に、法成寺入道は気付いていないのだろう。
「近衛家か」
 入道の吐き捨てるような声だ。
「そのうち、目に物見せてくれようぞ。わが二の宮がめでたく立坊遊ばされた時こそ……」
 とうとう言ったな。教仁親王を東宮に儲立する気だということ、この私が耳に入れたからには、東宮に知らさでおくものか。よし、ここまで聞き届けたら、長居は無用、さっさと……!?
 ふっと吹き込んだ一陣の微風に、薫衣香の匂いが運ばれてきた。私の右手方向、至近距離に、人の気配がある。私は腰に手をやった。狭い床下では太刀は使えないが、短刀がある。私は短刀を抜き、右手にしっかと握った。
 人の気配は、ゆっくりと近づいてくる。女だ。何故こんな所に、女が? そう言えば先刻、桜宮邸の近くにいた牛車の傍らにいた人影は、しかとは見なかったが女だったような気がする。もしやその女が、私達とは別の意図で、法成寺入道を探っていたのか? その女の背後には、誰がいるのか。もし右大臣だったとしたら、三つ巴の戦いだ。
 女は、私の目の前まで来て動かなくなった。逃げ出そうともしない。懐剣を抜く構えでもない。しかし、迂闊に近づくと危険だ。油断させておいて思わぬ兇器を放つ、というのは考えられる。こんな所へ忍び込んで来るからには、只者ではない。逃げるか、向かってくるか、相手の出方は二つに一つだ。向かって来たら勿論の事だが、もし逃げたとしても、私の存在に気付かれた以上、黙って逃がす訳には行かない。場合によってはこの短刀で、口を封じなければならぬ。と思うと、短刀を握りしめた右手が、急に震え始めた。
 突然女は、地面に倒れ込んだ。いや待て、これも罠かも知れぬ。だが、よく見ると、両手とも手ぶらのまま前へ投げ出している。この姿勢では、懐剣を抜く事はできない。私は慎重に、女の左側へ回り込んだ。もし演技だったとしても、右利きなら左側にいる私を攻撃はできない。
 近くへ寄ってみると、かなり香を焚きしめている。何故もっと早く、気付かなかったのだろう。本当に右大臣あたりの手下が忍び込んでいるのだとしたら、こんなに強い香を焚きしめる筈がない。現に私など、極力香の染みていない衣を選んで着、しかも毎日湯を使って、体臭をも消そうと努めているのだ。何しろ嗅覚の鋭い人の場合、数十歩風上にいる人間を、薫衣香の匂いだけで識別できるという程、匂いは重要な印となるのである。という事は、右大臣の手下などではなさそうだ、という事だ。
 少し安心して私は女ににじり寄り、腕に触れた。女の体は、ぴくりとも動かない。これは本当に、気を失ったのだろう。私は覆面をずらして短刀を口に銜え、両手で女の体を抱え込んだ。女の五体は全く力を失って、何の反応も示さない。私は女を抱えて、寝殿の床下から出た。気絶した女を抱えて運ぼうとすると、厄介なのはこの髪である。身丈に余る垂髪を、引きずったり引っかけたりしないように担ぎ出すのは難しい。
 どうにか侍にも見つからずに、西北の生垣の隙間から脱出し、馬を繋いだ所へ戻った。この間、女は気を失ったまま、身動き一つしなかった。最悪の場合は、女の喉笛を掻き切って放り出し、私一人だけでも逃げる覚悟でいたが、それはやらずに済んだ。女を抱えて馬に乗り、月灯りでよく見ると、まだ若い女だ。薫衣香といい、装束といい、化粧といい、そこそこの貴族の姫のようではある。しかしそんな女が、何故法成寺入道の別邸の床下に忍び込んでいたのか。
 邸の東、壬生大路へ出てみると、門の近くに牛車が停まっている。間違いない、桜宮邸からずっと私を追ってきた車だ。この女が乗ってきた車だとすると、どうしたら良いか。
 牛飼童が、私を見つけて走って来る。私は咄嗟に太刀を抜いた。牛飼童は立ちすくむ。私は小声で言った。
「この女は、お前の車に乗って来たのか?」
 牛飼童は、黙ってがくがくと頷く。
「よし、それならこの女を車に乗せて、私が指図する所へ行け。早くしろ」
 牛飼童は、震えながら後ずさりする。
「早くしろ!」
 私が、気を失ったままの女の喉元に太刀を向けると、牛飼童は慌てて、牛車の方へと走っていく。牛飼童が牛車を牽いて戻ってくると、私は馬を車の後ろへ寄せ、車の中へ女を降ろした。女は相変わらず、身動き一つしない。
 それから私は、牛飼童に牛の左側へ立たせ、その左側に馬を立たせた。太刀を牛飼童の頚筋に当てて、
「車を出せ」
 車は、ゆるゆると動き出した。
 桜宮邸へ戻って来ると、邸の周りには怪しい人影はない。公晴は大方、自分の牛車で烏丸殿へ帰ったのだろう。私は東門から牛車を入れさせた。出てきた女房に、
「光男が戻ったと、桜宮様にお伝えしてくれ。大切な御方をお連れしたと」
 程なく数人の女房が出てきて、依然気を失ったままの女を、牛車から降ろす。牛飼童は何か言いたそうだが、私に太刀を頚筋に当てられたままなので、何も言えず黙っている。
「この者は、雑舎にでも入れておいてくれ」
 二三人の屈強な下人に、私は言い渡した。下人達は牛飼童を引っ立ててゆく。私は厩へ行き、馬を休ませた。
 桜宮の部屋へ行くと、部屋を壁代で仕切って、女を寝かせている。仕切ったもう一方に、桜宮が待っていた。私は小声で話し始めた。
「只今、戻りました。あの女は、綾小路南壬生西の別邸の床下で、……」
 一通り話を聞き終わって、桜宮は言った。
「それで、あの姫の身元に、心当りは?」
 私は首を振った。
「いいえ。ただ、私が公晴を馬で蹴っ飛ばしたのを見て、四条辺りまで追っかけてきたのですから、もしかすると公晴の縁続きかも知れません」
 そう言えば公晴には、晴子とかいう姉がいると、信孝が言っていた。もしあの女が晴子だとしたら、これは一層、入り組んだ事になってくる。
「姫様、お気がつかれましたか」
 壁代の向こうから、女房の声がする。どうやら女が、目を覚ましたらしい。
「お粥、どこっ!?」
 頓狂な声が聞こえた。あの女の声か。やや甲高いキンキンした声だ。それから続いて、粥を啜り込む音。どうも余り、良く躾けられた姫ではなさそうだ。そうだとしても、法成寺入道の別邸の床下に侵入するという常識外れの奇行と、すぐには結びつかない。
 そこへ女房が入って来て、桜宮に何やら耳打ちする。桜宮は私の注意を促して、私の耳に口を寄せて囁いた。
「あの姫は、烏丸権大納言の御息女の晴姫だと、牛飼童が申したそうです」
「やはり、そうでしたか」
 私は呟いた。
「あのう、ここ、どちらですの」
 晴子の声がする。ややあって、
「ここは畏れ多くも今上の第一皇女であらせられる女一の宮、桜宮様とも呼ばれておられる御方の御邸です」
「桜宮様のお邸!? じゃ、二条北東洞院西なの?」
「左様でございます」
「え……?」
 晴子の言葉が途切れた。無理もないだろうな、綾小路南壬生西の邸の床下で気を失って、目が覚めたら二条北東洞院西にいるのだから。
「私、どうして桜宮様のお邸にいるの」
「光男が姫様をお連れしたのですわ。私共もびっくりしてしまいました」
「光男って?」
「桜宮様が、さる御方よりお預りになった雑色にございます」
 晴子と女房のやりとりが聞こえる。
「そろそろ、私の出番のようですね」
 桜宮は腰を上げた。私は壁代の陰に控えたまま、桜宮の指図を待つ。
「お気がつかれたそうですね。御気分は?」
「はあ……、元気です」
 晴子の声は、妙にどぎまぎしている。
「お前達、お退りなさい。私は姫とお二人切りで、お話があるのです」
 桜宮の声に続いて、女房達が立ち上がる気配がしたと思うと、ぞろぞろと退っていく。私は壁代ににじり寄り、聞き耳を立てた。
「姫様、貴女の牛飼童が、貴女は烏丸大納言の晴姫だと申しておりますのよ。その通りですの」
「ええ。一郎はどこにいるんですか」
「姫様を返せと騒ぐので、雑舎に押し込んでありますの。お気を悪くなさらないでね。私達、全てを極秘に運んでおりますから、騒がれたくないのです」
 桜宮の声は、私に指図を与える時のような真剣な声だ。
「ね、晴姫様。どうして貴女が、あのお邸の床下にいたのか、そこを説明して下さいません? 幾ら何でも突飛すぎますわ、烏丸大納言家の姫君ともあろう方が、夜盗のように床下に潜んでいたなど」
 暫く沈黙が流れた。晴子は、桜宮があの邸の陰謀に参画しているとでも考えたのだろうか。しかし、程なく、
「ええ、実は、あの……朔日の夜、弟の公晴が、夜歩きをしていて、馬に乗った男に腕を斬りつけられて帰ってきたのです。たまたまその日が、私の信孝の……その、初夜だったので……」
 ヘェー、こりゃまた、意外な話だ。信孝と晴子が、あの日が初日だったとは。
「で、居合わせた信孝が、これは夜盗か辻斬りの仕業に違いないと、急いで参内して、……でも弟は、右京で斬りつけられたと言うだけで、詳しい場所や、犯人の面相などを、信孝にも私にも、何も言わないのです。犯人の面相は、闇夜でしたからわからないとしても、詳しい場所がわからないのはおかしいと思って、だからきっと、どこかの姫に恋をして、それを隠したいために嘘を言ったのだろうと、弟に迫ったんですけど、頑として白状しなかったんです。それで、日が暮れて弟が出かけると、すぐ後を追ったんです。どこの姫か、弟とは不釣り合いな身分の低い女か、じゃなかったら身分が高すぎる御方か、とくと見極めてやろうと思って。そうしたら弟は、ここのお邸の近くに車を停めて、お邸の様子を伺っていたので、すぐとっ捕まえて問い質したのです。『お前の恋人は、本当に桜宮様なの』って。そうしたら何と弟は、『そうだ』と言ったんです!『僕が好きなのは桜宮様だけだ、他の女なんか目に入らない』とも言いました。でも、どうやって弟が、桜宮様とお知り合いになったのか納得が行かなくて、問い質したら、『知り合ってない、僕が勝手に懸想してるだけだ、去年の賀茂臨時祭の時、桜宮様の乗った御車が見物にいらしていて、控えめな目立たない車なのに妙に華やいでたから、どなたの車だろうと思って見てたら、すこしだけ簾がまくれ上がって、美しい御方の横顔が見えて、その途端、その御方の顔しか見えなくなったんだ』と言いました。『あんな美しい御方は見た事がない、美人と名高い兵部卿宮の中の姫も、あの御方に比べたら、桜の傍らの深山木だ』と……。要するに片思いだったんです。それで私も、一安心しました。弟のような子供が、桜宮様と浮名を流されたら、何よりも桜宮様がお気の毒ですもの」
 何だ、そんな事だったのか。賀茂臨時祭と言えば十一月の末だから、十二月初めからというのと、時期的にもよく合う。しかしあの公晴が桜宮に、ねえ……。
「私が帰ろうと言っても、弟は、『桜宮様には通ってる男がいて、そいつが僕を斬ったんだ、そいつをとっちめてやる』と言って、帰ろうとしませんでした」
 何と、私を恋敵と思い込んでいたのか!
「つまり、夜盗など初めからいなかった、と言うのです。朔日の夜、馬に乗って門から出て来る男を見て、あんな男が桜宮様に通ってるなんて信じられなくて、馬の前に立って『何者だ!?』とやったら、いきなり斬りつけられたんだ、と口惜しがってました。でも、信孝が夜盗か辻斬りかと早呑み込みして大騒ぎして、そのせいで私と信孝との、えっと、結婚までお預けになってるのに、実はこんな痴話喧嘩の末の刃傷沙汰だったなんて、馬鹿らしいやら情けないやら……」
 私だって、桜宮の恋人と勘違いされた挙句に手元が狂って公晴に斬りつけて、公晴が下手人は私だと訴え出ないかと、生きた心地もしないで過ごした数日間を思えば、馬鹿らしくて溜息も出ない。
「そのうちに弟が、『あいつだ』と言って、馬に乗って門を出てきた男に走り寄って、太刀を抜いて脅したら、その男は馬を出し、追い縋ろうとした弟は、無様にも馬に蹴られて気絶。私は弟を、弟が乗ってきた牛車に乗せて自邸へ帰し、私は私の牛車で、馬を追っかけたんです。四条あたりまで来て馬を見失ったので、そのへんのお邸に入ったんじゃないかと思って、近くのお邸に入り込んだんです。そうしたらそこの人に気付かれそうになって、床下へ潜ったんです。そのうち、出ようとしたら、男が床下に忍び込んでて、私に短刀を向けたんで、怖さの余り気を失ったんです」
 晴子は口をつぐんだ。私の方は、幾分肩すかし気味でもあった。私を追ってきたのも弟を斬った男をとっちめるため、法成寺入道の別邸の床下にいたのは偶然、という事なら、私は少々深読みしすぎたようだ。
「何とも、まあ、何という偶然の重なり合いなんでしょう。まさか、貴女の弟君が、その……」
 桜宮の声を遮るように、
「桜宮様に懸想していて、全てはそこから始まったようなものですわ。私だって、他所様のお邸に忍び込んで床下で盗み聞きする趣味なんかありませんもの。弟の事や、それで迷惑を蒙っている信孝の事さえなけりゃ、今頃家でゆっくり寝てますわ」
「盗み聞き……」
 桜宮の声が変わった。私も、俄に緊張した。
「では晴姫様、あのお邸での話、皆聞かれたんですか」
「え、あ……」
 口籠る晴子に、桜宮は一層強い口調で、
「全て聞かれたんですのね!?」
 もしそうなら、此方としても相応の処置を考えねばならない。晴子が黙っていると、桜宮は溜息をつき、静かに、
「そうですか。晴姫様が何も聞かれていなければ、そのままお帰しする事もできたのですが、今となってはそれもできません」
「できません、て……」
 桜宮は声を上げた。
「光男、聞いているのでしょう。おいでなさい」
 やっと私の出番だ。私は腰を上げ、壁代をくぐった。桜宮の横に坐る。明るい灯の下で見る晴子は、いかにも弟の夜歩きを尾けたり、他所の邸の床下に潜り込んだりしそうな、しとやかさとは縁の薄いお転婆姫という感じである。どうも私の好みではない。しかし、その瞳は天真爛漫で、狡猾さや腹黒さとは無縁そうだ。今年十七歳だと、公晴や信孝から聞いた事がある。
「晴姫様、この者は光男と言います。さる御方からお預りしている者です。晴姫様の弟君を斬りつけ、今夜はまた、馬で蹴ったのはこの光男ですわ。光男に代って、お詫びします。申訳ない事をしました」
 桜宮は手を突いた。晴子はどぎまぎしながら、それでも私を観察している。やがて、
「光男って人、本名は何て言うんですか。なかなかの身分の者のようですけど」
 結構、人を見る目はありそうだ。しかしここで度を失っては、具合が悪い。私はわざと感心したように、
「成程、邸の床下に逃げ込んで、しっかり盗み聞きをする姫君は目の付け所が違う。邸の奥に引き籠って、日がな一日のらくらしている貴族の姫君とは一味違いますね」
と言っておいてから身を乗り出し、声をひそめた。
「何も説明せずにこのまま帰しては、貴女の事だ、あれこれ調べ回りますね」
「そりゃそうですわ。私、好奇心は人一倍だもん」
 貴族の姫が、こんな事を言うかね、普通。
「そうされては、私達も困ります。宜しいですか、姫、これから話すことは他言無用ですよ。左衛門佐と云えども、言ってはなりません」
 ここが大切なところだ。私は腹に力を入れた。晴子は不思議そうに、
「信孝にも……?」
 私は一通り考えをまとめた。
「姫は東宮をめぐる情勢について、何か御存じですか」
「信孝が教えてくれたわ。東宮が次代の帝になられるのを不満に思っている一派がいるって」
 信孝は、新妻にそんな事を言ったのか。
「そうなんです。そもそも、……」
 私は東宮から聞いた事を、聞いたまま晴子に教えた。
「それで私は、東宮より直々の命を拝し奉り、入道の周辺を探り、証拠固めをしているのです。人に怪しまれぬよう、東宮の御里邸、桜宮様の御邸を拠点にして、動いております」
 晴子は、私の話に驚いたのか、言葉もなく目を瞠っている。私は続けた。
「そういう訳で、確かに弟君を斬ったのは私だが、お察し願いたい。私も弟君の事は、昨年から気付いていて、もしや入道の手下が探っているのではないかと怪しんでいたのです。それがあの夜、いきなり飛び出してきて太刀を振りかざして『何者だ!?』ですからね。てっきり入道方の刺客と思って抜いた太刀の、手元が狂ってしまったのです。それが烏丸権大納言家の若君と知って、びっくりしましたよ。また運悪く、左衛門佐殿が夜盗が現れたなどと報告したために、夜の京中巡回がうるさくなって、私も動きにくかった」
 晴子は抗議するような口調で、
「信孝はお役目熱心なだけですわ。だからこそ、東宮の御信頼も厚く、宿直を仰せつかっているんだわ」
 晴子も真相には気付いていない。東宮の韜晦策は大したものだ。つい笑みが洩れた。
「それはね、確かに衛門佐殿は仕事熱心ですから、放っておいたら先頭に立って夜盗狩りに出るかも知れない。そんな事になったら私も動きにくいですからね。東宮の御考えで、衛門佐殿を足止めなさっているのですよ」
 晴子は、ぎょっとしたような声を上げた。
「何ですって!? じゃ、信孝が梨壷の警護に当たってるのは、何も東宮に特別の信頼をされてるからって訳じゃなくて……」
 晴子の、東宮への心証を害するのは下策だ。
「いや、信頼なさっていますよ。東宮は衛門佐殿の有能さを、誰よりもお認めになっておられます。衛門佐殿が本気になって捜索すれば、私の存在を突き止めるに違いないと東宮はお考えになっています。それは困るというので、梨壷に足止めなさっている訳ですよ」
 だが晴子は、当然と言えば当然ながら信孝にすっかり入れ上げているらしく、今すぐ帰って信孝に洗いざらい話そうという様子が、ありありと出ている。こうなったら一発脅しをかますか。
「姫、この事は他言無用と申し上げた筈ですが」
 うんとドスを利かせた声で言うと、晴子はびくっとして、
「あら、私は別に……」
「衛門佐殿にも話してはならぬと申し上げた筈ですよ」
「私はまだ、何も……」
 あと一息だ。
「このままお帰しするのは危険だな。それならそれで、こちらも考えねばなりません」
 晴子はすっかり恐れをなして、
「か、考えって……どうする積りなの」
 東宮には事後承諾を取ろう。
「事件が解決するまで、こちらのお邸にいて頂くとか」
「そんなの、やだ!」
「では、どなたにも口外しませんね。衛門佐殿にも話しませんね。お約束してくれますか」
 晴子は尚も喰い下がる。
「どうして信孝に話しちゃ駄目なの。信孝は勇敢で、仕事熱心よ。きっと、光男の役に立つわ」
 私は穏やかに諭した。
「衛門佐殿は左大臣様の御孫です。衛門佐殿がこの事を知れば、当然、話は左大臣様の御耳にも入る。彼は真面目と言えば真面目、融通が利かないと言えば利かない人ですからね。そうなれば、全て極秘にという東宮のお志も無になってしまうのです。おわかりですか」
「わかるけど……」
 晴子は考え込んだ。まだゴネる積りなら、こちらも策を講じなければならない。
 やがて、晴子は言った。
「いいわ、わかった」
 私は、思わず肩の力が抜けた。
「わかったというと、他言はしないとお約束なさるのですね」
「ええ、誰にも言わないわ。その代り、私にも手伝わせること、それが条件よ」
 いきなり、何を言い出すかと思ったら! やっぱり、こういう姫は好みじゃない。というのはさておき、こういう無鉄砲な姫を仲間に加えたら、却って足手まといにならないか。ここは何としても断念させなければ。
「晴姫は事の重大さがおわかりでないのですね。これは、鬼ごっことは違うのですよ」
 うんと真剣な顔で言った積りなのだが、晴子は動ずる風もなく、
「そう。なら、いいもんね。勿論、私は信孝にも誰にも言わないわ。でも、私一人で勝手に調べるのは、自由よね」
 そんな事をやってみろ、命が幾つ要ると思ってるんだ。一人で勝手に、と言って、調べている事が向こうにバレたら、私達だって大迷惑だ。
「晴姫、どうしてそう、駄々をこねられるんですか」
 晴子はいよいよ意気盛んで、
「だって、入道一派が捕まらないうちは、信孝は東宮の嘘に瞞くらかされて、梨壷から一歩も動けないのよ。私達の新婚生活のためにも、この事件は早く解決して貰わなくっちゃ。光男一人に任せとけるもんか」
 新婚生活、か。どうして女ってのは、こんな事がこれ程の推進力になるのかね。それはさておいて、女が足手まといにならずに果たせるような任務、となると……そうか、敵の身辺を探るには、女房に渡りをつけるのが好都合だと、先日桜宮が言っていたっけ。敵地に潜入させるには、女房というのは有力だ。
「わかりました。手伝って頂きましょう」
 私は、はっきり言い切った。その後、
「こんな姫を妻にとは、衛門佐も奇特な……」
と洩らした呟きを、別に晴子は聞き咎めた様子もなかった。
 私は熟考し、桜宮とも話し合ってから、
「とりあえず、今日は烏丸殿へお帰りなさい。それで姫、貴女の第一の仕事は、弟君をこの邸の周りにうろつかせない事です」
「ええ」
「そこで今日帰ったら、弟君に、このようにお言いなさい。『桜宮様付きの女房に聞いたら、例の男はある女房の恋人だそうだ、凄く嫉妬深い男で、弟君を恋敵だと思って斬ってしまったんだろうって。相手が烏丸大納言の子息と聞いて、凄く慌ててたって。それから、桜宮様は、お邸の周りをうろうろするような腑甲斐ない男はお嫌いらしい、それよりも、縦え下手でも真情の籠った歌など頂くと、嬉しいものです、と。だから習字の練習でもしてなさい』という風にね」
 晴子は何度も頷いた。
「それから、貴女が近いうちにまたここへ来るための算段です。いいですか。馬を追っかけたけれど、すぐ見失ってしまって桜宮様のお邸へ戻ってみた。そうしたら桜宮様付きの女房が出てきて、何やら外が騒がしいので桜宮様が怯えていらっしゃる、何があったのか、と聞いた。それで桜宮様のお邸に招き入れられて、桜宮様にお目通りして、すっかり仲良くなった、と。とても貴女を気に入って下さったらしくて、近いうちにゆっくり遊びにいらっしゃいと仰言った、とね。数日のうちに、何か口実を設けて、桜宮様が貴女をお呼びになります。その時は、いいですか、何となく病気になりそうな気がする、という様子を、父君や母君に、わざとらしくなくお見せするのです。そして勿論、誰一人お伴をつけず、貴女一人でおいでなさい。そのためには、桜宮様からお迎えの車をよこし、女房を三人よこします。そして、すっかり意気投合してしまったから泊めて頂く、と烏丸殿へお使いを出してから、今度は桜宮様の方から、夜中がいいですね、貴女が急に重病を発し、動かすことも、面会もできないという使いを送ります。桜宮様が信奉しておられる占術師によると、当分の間この邸から動かしてはならないと出た、それ故暫く、貴女をお預りする、と伝えます。これで当分の間、貴女は父君母君に知られる事なく、自由に動けます」
 何を隠そう、私がこの邸に入ったまま出てこられなくなったというのと同じ口実である。
「わかったわ」
 晴子は、異様に目を輝かせ、来たるべき重大任務に腕が疼いて仕方がない、という顔をしている。どういう神経をしているんだろう。
 帰り際に晴子は、
「光男、本名でも身分でもどっちでもいいから、どっちか一つ教えて」
 私は、ふっと笑って言った。
「五位、とだけ言っておきましょうか」
・ ・ ・
 翌日、東宮から文が来た。
〈お転婆姫の協力が得られるのは、渡りに舟だ。実は先方が、新しい女房を一人捜していると聞き込んで、先方へ潜入させる女房に相応しい女性がいないかと考えていたのだ。内偵するには女房を潜入させるのが、一番好都合だから。それで、近いうちに例のお転婆姫を桜宮邸に呼ぶ日には、私も行く。その時は私を、岑男と呼んでくれ。間違ってもお転婆姫の前で、東宮、とだけは呼んでくれるな。
敦仁〉
 読み終わって私は苦笑した。もしかして東宮は、「お転婆姫」と三回も書いた晴子に、何やら興味を持っているのでは? そりゃ十九の男が、十七の姫に興味を持つなと言っても無理があるが、今はそんな事をしている時ではないだろう。恋愛沙汰は、もっと平和な時に(今は外見上は平和だが)やって欲しい。
 十七日の昼、晴子が来た。私がいる隣の部屋で、桜宮と貝合せや双六をしたり、絵巻物を見たりしている。呑気なものだ。そうやって呑気に遊んでいられるのも今日限りだ、と言ってやりたい気がする。
 夜になった頃、東宮が入って来た。
「や、光男、うまく行ってるかい」
「はい。岑男の方は?」
「これからだよ。そろそろ行こうか」
 私と東宮は、連れ立って隣の部屋へ行った。桜宮と晴子は、何やら話し込んでいた様子だ。振り向いた晴子に、私は言った。
「この男は岑男といいます。私と同様、東宮の特命を拝し奉っている者で、主に事務的な方面の任務に就いています」
 私は東宮に目配せした。東宮は話し始めた。
「私が晴姫にお頼みしたいのは、あの綾小路南壬生西の邸に入り込んで頂きたいのです」
「入り込む?」
「そうです。あの邸は法成寺入道の別邸です。小さくて目立たぬせいか、あそこを陰謀の根城にしているのですよ。ですから、どうしても中に入り込んで、探る人が欲しかった。床下で盗み聞きするにも、限度がありますからね。私か光男が、侍か何かになって潜り込もうかとも思いましたが、男というのは用心されます。向こうも、東宮を廃しようという天下の一大事を企んでいる連中で、疑い深くなっています。でも女なら、入道も怪しまないのではないかと思うのです。そういう女性が欲しいと、実は以前から思っていたのですよ。だから、貴女が手伝うと聞いて、とても嬉しかったのです。しかし、いいのですか。何と言っても、これは危険な仕事ですよ」
 お転婆の晴子も、黙って聞き入っている。東宮は真剣な表情で、
「どうですか、晴姫、嫌なら断っていいのですよ。今なら、まだ間に合います」
「間に合うって、どういうこと?」
「例の邸で、女房を一人、捜していると聞き込みましてね。何人もの紹介者を間に入れて、姫が入り込めるようにしてあるのです」
「私、女房になって入り込むの?」
 晴子の言葉には、少し逡巡がある。
「お嫌なら、この件はなかった事にしてもいいのですよ。別口の条件のいい勤め先に乗り換えたと言って断ることも……」
 東宮の言葉を遮って、晴子は、
「でも本当は、私に協力して欲しいんでしょ」
 東宮の方が口籠った。
「……何度も言いますが、内偵者は是非とも欲しいのです。しかし、仮にも烏丸殿の姫君に、無理なお願いをする訳にも……」
 晴子は、迷いを吹っ切ったように言った。
「いいわよ、やるわ、で、私は何を探ればいいの」
「あの邸に来る客人に、気をつけて下さい。陰謀に加担している人間がどれ程いるのか、今一つはっきりしないのです。もしかしたら、思わぬ人が入道の企みに参画しているかも知れない」
「客人かあ」
「それと、邸に運び込まれた珍しい物に注意して下さい」
「何で?」
「唐土伝来の毒薬とか、そういう物があるかも知れない」
「ど、毒!?」
 晴子は顔色を変えた。私は頷いた。
「連中がどういう方法で、東宮を廃位に追い込もうとしているのか、それもわかっていません。以前、床下から呪いの人形が出てきましたが、そんな曖昧な線で満足しているとは思えない。確実な線を狙うなら、毒殺でしょう、刺客は使いにくいですから」
 その夜のうちに東宮は、晴子に紹介状などを渡し、帰って行った。翌朝、晴子は女房車で、綾小路南壬生西の邸へ向かった。入れ替りに晴子の父、大納言公通が駈けつけて一しきり騒いでいったが、桜宮が毅然と拒否したため面会できずに帰ったということだ。私は私で、毎日毎晩、邸の近くに張り込んでいた。
 二十七日の夕刻、目立たない牛車が一両、僅かな伴人を連れて、邸の門を入っていった。張り込みを始めてから、初めての訪問者だ。更に夜になって、もう一両の車が来た。これは僧だ。何か重要な謀議が行われる可能性がある。私は夜陰に乗じて邸に侵入し、晴子が文をよこして知らせてくれてあった、晴子の部屋に潜り込んだ。寝殿の方では、酒宴が続いているらしい。恐らく晴子は給仕しながら、入道達の話をしかと耳に入れているのだろう。酒宴の給仕という役は、男には勤まらない。この一点だけでも、晴子が加わった価値は大きい。
 そのうち、寝殿の方から只ならぬ騒ぎ声が起こった。耳を澄まして聞いていると、どうやら火事が起こったらしい。木と布だけで出来ている家屋で、火事は大事故だ。急に、晴子の安否が心配になった。しかし、ここで私が飛び出してゆく訳にはいかない。はらはらしながら待っている者には、時の過ぎるのは牛歩のように遅い。
 やがて、火事は鎮まったようだ。まだ何やら騒ぎは収まっていないようだが、じりじりしながら待つうちに、晴子が戻ってきた気配がした。几帳の隙間から覗いてみると、晴子は無事だ。顔は煤けているし、多少衣の裾が焦げているが、火傷はしていないようだ。晴子は私にも気付かぬ様子で、盥に湯を汲んできて、顔や手を洗い終わると、胸元から何やら巻紙のような物を取り出した。あれは何だ。
「何を読んでるんです」
 私は低い声で言いながら、几帳からにじり出た。晴子は、びくっとしたように肩を震わせ、ゆっくり振り返った。
「光男……! いつ来たの」
「つい先刻ですよ。寝殿の方で騒ぎが起こってるようなので、見つかるとまずいと思って、ここに隠れてました」
 晴子は肩をすくめて、
「びっくりしたわよ、声がわからなくて。左馬頭かと思ったわ」
「左馬頭?」
 左馬頭時仲と言えば、私や信孝とも親しい、東宮側近の一人である。
「左馬頭が、どうかしたのですか」
 晴子は、私の疑念に気付いてか気付かずか、
「あいつ、妙な目で私を見ていたし、もしかしたら疑ってて、探りに来たのかと思っちゃったの」
「……という事は、左馬頭が来ているのですか、今日この邸に」
「そうよ」
「本当に?」
「本当だってば」
 そうか。あの時仲が、法成寺入道に与していたのか。東宮も信孝も、信頼していたのに。私も、裏切られた気分だ。我知らず、顔が強張るのがわかった。
「参ったな。あいつがか……」
「知ってるの?」
「勿論ですよ。貴女の許婚の衛門佐殿と同じように、東宮に忠実な者だと思っていたのだが……」
 晴子は私の変化に気がついたのか、私の顔色を伺うように、
「あの、右大弁って知ってる?」
 右大弁源康頼。信孝の義理の叔父にあたる、近衛派にごく近い有能な壮年殿上人だ。遠からず台閣に列するといわれ、今上、東宮の信任も厚い者だ。その右大弁が……。
「勿論……。彼も、なのか……」
 沈黙が流れた。晴子が恐る恐る、
「あのう、光男……」
 私は、漸く気を奮い立たせた。
「……いや、仲間の中に裏切り者がいるというのは、嫌な気持ちのものでね」
 晴子は私を励まそうとするかのように、明るい声で言った。
「元気出してよ。そりゃ裏切る人もいるけど、私の信孝みたいに東宮にコロっと瞞されて、それでも律義に梨壷を警護してる正直者もいるわ。信孝は、上に馬鹿がつくけど」
 私は、ふっと笑って、
「そうですね」
「そうよ。それに、あんたみたいに、命を賭けて東宮にお仕えしてる人もいるじゃない。世の中、悪い人ばかりじゃないわよ。良い人ばかりでもないけど」
 私は黙って頷いた。それから話題を変えて、
「ところで、寝殿で何があったんですか。こうしてみると、姫の衣もあちこち、焦げているようだが」
 晴子は、待ってましたとばかり、
「あ、それなのよ。実はね、この巻紙、見て」
と言いながら、件の巻紙を広げてみせた。
「入道が文箱に入れて持ってたの。酔って上機嫌の入道が、見せてくれたんだけど、春を待つ歌ばかりじゃない。これ、教仁親王を新しい東宮に待つ、って意味にとれるでしょ? つまり、入道の陰謀に加わってる連中の、連判状みたいなものよ。それでね、これを何とかして手に入れようと、一芝居やったのよ。お酒を催促に行ったふりをして寝殿を抜け出し、似たような巻紙に適当な歌を書いたのをこしらえて、それを寝殿へ持ってってね、お酌の女房が私一人になったのを見計らって、燭台を蹴っ飛ばして火事を起こしたのよ。騒ぎのどさくさに紛れて、本物の連書を盗み出して、偽物の方を燃やして、火事が収まってから、『例の連署は燃えてしまいました』って。入道の残念そうな顔、見物だったわ」
 全く、無鉄砲にも程がある。どうしてもう少し、穏便な方法を考えつかないのだ。こんな人間が一人、歩調を乱すと、他の者も要らざる迷惑を蒙ることになりかねない。私は呆れ果てて、怒る気にもなれない。
 晴子は、私が褒めてくれるのを期待していたのか、私が巻紙を見つめたまま顔を顰めて黙っているのを見ると、急に不機嫌になって、
「何よ。そのお歌の連書じゃ証拠にならないの」
 私は強い口調で言い切った。
「いや、なりますよ。姫の睨んだ通り、この歌はどれも、新東宮を待ち望む歌です。動かぬ証拠になります。歌を詠んだ連中に突き付ければ、一言も弁解できないでしょう」
「なら何を怒ってるのよ。ぶすっとしてさ。頑張った私も、気が抜けるわ」
 晴子は相変わらずむくれている。本当に、自分のした事がわかっているのだろうか。私は連書の巻紙を懐に収め、じっと晴子を見据えた。
「晴姫。どうして、そんな危険な事をなさったのですか。一歩間違えば、焼け死んだのですよ」
 突然晴子は、自分のした事を悟ったらしい。
「え、だって……」
「うまく行ったからいいようなものの、入道か左馬頭に見咎められていたら、貴女の身も危うかったのに」
 晴子は一層しどろもどろになった。
「そ、そりゃ、そうかもしれないけど……」
「お約束して下さい。もう、こういう無茶な事はしない、と。でなければ、私も安心できない。姫にもしもの事があったら、衛門佐殿に合わす顔がない。私は辛い思いをしなければなりません」
 これはあくまで、歩調を乱されたくない、という気で言っただけなのだが、晴子は何を錯覚したのか、妙に赤くなっている。
「あ、あら、責任を感じてくれなくてもいいのよ」
 一体何を考えてるんだろうね、本当。
 晴子は、俄かにきびきびした口調になった。
「あ、あの、光男、円覚って知ってる? 円空って坊さんが来てて、やたら円覚って人の事を話してるの」
「円覚、円空、共に知っていますよ。円覚僧正は、東宮が御信心なさっておられる高僧です。僧正のために、法尊寺という寺を建立なさった位です。円空は円覚僧正の一番弟子で、同じく法尊寺の高僧です」
「そうよ、それだ。法尊寺がどうのこうのって言ってたもん。あれ……」
 晴子は、ふと閃いたように、
「法尊寺の円覚僧正って、もしかして、有験の僧じゃない?」
「そうですよ」
 円覚僧正の霊験は当代一流と称せられ、加持祈祷、物怪退散、雨乞い、どの方面でも超人的な神通力を持つと言われている。その円覚上人が、東宮を呪詛するなどという事があるのだろうか。
「その坊さんまで、今回の陰謀に加わってるのかしら」
「円覚僧正に限って、まさか……」
 俄かには信じ難い。
「わかんないわよ。お金積まれて、東宮を呪い殺すのを承知したのかも知れないわ。何たって、霊験あらたかなお坊様だし」
「しかし……ともかく、円覚僧正の名が出たのですね。調べてみます。他には何か?」
「左馬頭が入道に書状を渡してたのよね」
「書状?」
「うん。その連判状と一緒に文箱に入ってた位だから、重要なものなんだわ」
「書状か。何だろう」
「幾ら私でも、二日続けて火事を出して盗み取るって訳にもいかないしさ」
 まだわかってないのか、この女は!? 私は思わず声を上げた。
「そんな事しては駄目ですよ!」
 晴子は首をすくめた。
「そんな事をしなくても、書状は何とかして、私が手に入れます。晴姫は、もう何もしなくてよいのです。充分な事をして下さいましたよ。証拠も手に入ったし、新しい情報もある。出来る事なら、姫をこのまま連れて帰りたい位ですよ。この邸に置いといたら、どんな危険な事をしでかすかわかりませんからね。しかし、火事が出たその晩に、新参の女房がいなくなったとなれば、入道等も用心するようになる。もう少し、そ知らぬ振りをして、ここにいて下さい」
「そりゃ、いるけど」
「私も、一刻も早く、この件を片付けたい。姫をこれ以上、危い目に会わせないためにも……」
と言いさして晴子を見ると、妙に顔を赤くしている。何を勘違いしているのだ。これだから女の考える事はわからん。
「晴姫、もう一度、お約束してくれますね。決して危険な事はしないと」
「約束するけどさぁ……」
「貴女にもしもの事があったら、私は自分を責めなきゃなりません。貴女をこの事件に引っ張り込んだのは、この私なんですから」
「そういう訳でもないわよ。私も好奇心が強いし、信孝に放って置かれて寂しかったんだしさ」
 ふと悪戯っ気を出して私は言った。
「……衛門佐殿が羨ましい。貴女のような姫を妻にされて」
 こんなのは勿論お世辞だ。どう考えたって晴子は私の好みではない。それなのに晴子ときた日には、
「まだ、妻って訳でもないけど……」
などと訳のわからん事を言っている。何を一人で盛り上がってるんだろ。
「と、今はこんな事を言ってる時ではない。私はすぐ、東宮に知らせます」
 私は事務的に言って、さっと立った。晴子が何か言いたそうなのを尻目に、素早く部屋を抜け出して邸を脱出し、一路桜宮邸へ馬を走らせた。
 桜宮邸では既に、東宮が待ち構えていた。私が例の連書を出し、一部始終を説明すると、東宮は暫く黙って考え込んでいたが、
「……よし、明朝早く、この者共を梨壷に召し出して、そのまま拘束しよう。それから円覚を召して、事情聴取だ。その書状というのは、何かありそうだな。どうやって手に入れるか」
 私は、ふと思い当たった。
「円覚と円空の関係っていうのは、どうなんですか。私は何も知らないのですが」
 東宮は深く考え込みながら、ゆっくりと言った。
「円覚はかなりの齢だから……円空は、早く別当になりたがっていたような感じもする。どうだろうな、外部からはよくわからない」
 東宮は立ち上がった。
「とにかく、明日だ。明日、はっきりさせる」
 翌日昼頃、風もないのに、私の部屋の東面の簾が鳴った。何事か、と簀子縁へ出てみると、紙を丸めた小さな包みが落ちている。拾って開いてみると、かなり乱れてはいるが東宮の字で、
〈法尊寺へ急ぎ向かう。そなたも来てくれ。岑男〉
 事態は急展開したようだ。私は桜宮の部屋へ足早に駆け込み、
「岑男から投げ文がありました。今すぐ、法尊寺へ行きます」
 私は桜宮の返事も聞かず、大股に部屋を出ると、弓箭と太刀を帯び、厩へ走った。いつも乗り慣れた馬に飛び乗り、門から駈け出すと、一目散に東山の法尊寺を目指して突っ走った。程なく前方に、弓箭を背負い、これも大急ぎで馬を走らせている東宮が見えた。私は一鞭くれて馬を一層速く走らせ、東宮に並んだ。
「岑男、どういう事になったのです!?」
 私の叫び声に、東宮は怒鳴り返す。
「私が女房を密使として送るから、必ず円覚自身で会えと、円空が言ってたと言うんだ! 勿論私は、そんな話は知らん、円空が円覚を陥れようと図ったんだ、きっと入道が、私を陥れようというのと相乗りしたに違いない!」
 やがて、法尊寺の門が見えてきた。馬を並べて突入すると、見よ、庭の一角に追い詰められた女に、円空が弓を向けている! 東宮は素早く弓を執り、円空を狙って矢を放った。狙いは過たず、円空は喉を射抜かれて仰向けに倒れる。振り返った女は私達を見て、
「岑男! 光男!」
 この声は間違いない、晴子だ。東宮は僧や寺男を蹴散らしながら晴子に駈け寄り、さっと晴子を馬上に抱え上げた。晴子は東宮にしがみ付き、声をあげて泣きじゃくる。
「岑男、来てくれたのね、もう、やだ、怖かったよぉ、もうやだ、もうやだ、死ぬかと思った。わぁぁ――」
 左馬頭時仲や、多勢の僧侶が飛び出してくる。時仲が喚く。
「東宮が建立なされた法尊寺に、馬で乱入するとは不埒な奴、その女の仲間かっ」
「痴れ者!」
 東宮の、威厳に満ちた一喝に、時仲も僧侶も、雷火に撃たれたように立ち縮んだ。
「左馬頭時仲、私を見忘れたのか」
 東宮は時仲に歩み寄り、傲然と見下ろす。東宮を見上げた時仲は、見る間に顔の血の気が失せ、地面にへたり込んだ。そこへ私も馬を歩ませ、時仲を睨み据えた。時仲は口をあんぐりと開いたまま、声も出ない。
「僧侶共、私の顔をよく見よ。度重なる法会に、私の顔を見覚えている者もおろう」
 東宮の凛とした声が響く。その声を合図のように、僧侶共が、ばたばたと地面にひれ伏した。
「と、東宮、敦仁親王様……!」
 僧侶の間から、呻くような声が洩れた。
・ ・ ・
 やがて駈け付けた検非違使に後を任せて、私達は法尊寺を後にした。桜宮邸に戻るとすぐ東宮は、晴子から今日の事情を聞き出そうとしたが、晴子は取り乱して泣き騒ぐばかりで、何も聞き出せない。
「暫く、そっとしておいてあげなさい」
 桜宮は晴子を労る。東宮と私は別室に行った。東宮は重苦しい声で、
「それにしても、あの男が、という者まで入道に加担していたとは思わなかった……」
と言って唇を噛んだ。東宮の思いは、私にもよくわかった。左馬頭時仲、中務少輔資行、右大弁康頼、前相模守経朝、彼等は皆、連書に名を連ねていた者達である。時仲、資行、彼等は東宮の側近であり、私の友人でもあった。そんな彼等迄もが、東宮を廃せんとする陰謀に与していたのだ。東宮にしてみれば、信じていた者に裏切られたという思いで一杯であろう。私達は向かい合ったまま、言葉もなかった。
 やがて桜宮が、一通の書状を持って現れた。
「晴姫様は、やっと落ち着きました。これが、入道が晴姫様に、円覚僧正に渡すようにと事づけた書状です」
 東宮は、桜宮の手から書状を受け取った。広げて読む東宮の顔は、見る見るうちに険しくなった。やがて東宮は顔を上げ、書状を畳みながら言った。
「極めて悪質、としか言いようがない! この私が、父帝の呪殺を円覚に依頼すると、私の筆蹟に似せて書いてあるんだ」
 私は耳を疑った。そんな無茶な事があるか。もしこの書状が朝廷に渡れば、東宮も円覚も下手すれば死罪である。私が余りの衝撃に、何も言えずに黙っていると、東宮は重い口を開いた。
「きっと、こういう段取りだったのだな。私の使者と名乗る女房が、この書状を円覚に直に手渡す、そこへ検非違使が踏み込む。私からの使者が、私が父帝の呪殺を依頼する書状を円覚に渡した現場を押さえれば、私と円覚の、謀叛の罪は疑う余地がない。そうすれば入道は私を廃することができるし、円空は円覚を陥れることができる」
 私は頷いた。
「確かに、悪質極まりないとしか、言いようがありませんね。しかし……」
 確かに巧妙な策略だが、一ヵ所だけ大きな穴があるのではないか。
「もしその女房が、検非違使に捕まった時、自分は法成寺入道の使いだと言ったら、それで全て潰えるのではないでしょうか」
 すると東宮は、
「そこなんだ。それは私も思い当たったよ。だが、もし現場を押さえる検非違使の中に入道の手下がいたらどうだ? 現場に踏み込んだら、円覚を放っといてまず女房を斬る、という段取りで。東宮を廃する位の大陰謀を決行してる最中なら、女房の一人や二人、捨て駒にするよ、もし私が入道だとしても。……そうか、あんな寂れた邸で、急に女房を雇うことになったというのも、初めからその積りだったんだな。永年使ってる女房だと、捨て駒にするには具合悪い。これは別に捨て駒にするに忍びないなんて仏心じゃなくて、入道に永年仕えてた事を知られると入道に火の粉が掛かるから、だよ。全く、何という悪智恵だろう!」
「……」
 本当に、驚愕に値する程の悪智恵の働く人間というのはいるものだ。
 東宮は、怒りを邀らせた声で呟いた。
「……晴姫を、殺す気だったのか……」
 私は、おや、と思った。何か少し、引っかかる物言いだ。何故名指しで、晴姫を、と言ったのだろう。
・ ・ ・
 陰謀が全て片付いたところで、私の特別任務も終了した。翌日私は、桜宮邸を辞去し、三条南東堀川西の邸に帰った。約一ヵ月振りの帰宅であった。桜宮邸の庭の桜は、すっかり散り果てていた。私の乗った牛車が車寄せに着くと、私が車を降りるより先に継父が、転げるように迎えに出て来て、私を一目見るなり、
「おお、正良、よく帰って来た! もう怪我は治ったのか! 良かった、良かった……!」
と、人目も憚らず男泣きに泣き騒ぐ。血の繋がらない私の身をも、これ程気遣ってくれる継父には感謝の言葉もない。それと同時に、私の身を気遣って桜宮邸へ飛んできた継父を、一月近くも瞞し続けてきた事の後ろめたさが急にこみ上げてきた。
 邸中を包む異様な雰囲気の原因は、言う迄もない事だった。私が落馬して頭を打ち、絶対安静面会謝絶の状態に陥ったと知らされて、母も澄子も、近江や桔梗までもが寝込んだのであった。私は早速、母を見舞いに行った。
 母は床に臥したきりで、すっかりやつれて顔色も悪くなっていた。東宮の為とは言え生みの母を欺き、しかもこんなにやつれる程の深い心労を負わせた事に、私は胸が詰まって何も言えなかった。母は私を見ると、弱々しい、しかしぞっとする程冷たい声で言った。
「もうこれからは、好きなようになさい。私がどれ程、馬に乗るなと言っても、聞く耳を持たないのでしょう」
 しかしそれが、本当に私を憎み、突き放すのでない事は、私にはわかった。言葉とは裏腹に、母の頬には微かな紅味が差し、目尻から一筋の涙が流れていた。
 私は、澄子の見舞には行かなかった。去年の私だったら、行ったかも知れない。しかし今の私の心は、澄子に会うには屈折し過ぎていた。澄子に会えば、永遠に成就し得ぬ恋の苦しみは一層増すに違いない。私の為に病床に臥した澄子を、そんな心を抱いて見舞に行く事に耐える自信は、今の私にはなかった。それだけではない。もし澄子が、私が偽った怪我の報に、母のように心痛を抱いているとしたら、そんな澄子に会った私は、きっと本当の事を洗いざらい喋ってしまうであろう。桜宮邸にあって、身を偽っての特別任務については、一切誰にも喋らぬと、東宮、桜宮に固く誓った事だ。その誓いに背くことは、東宮、桜宮との信義に悖る事である。しかし澄子に会ったら、東宮、桜宮との誓いを守り通せるか、私には自信がなかった。
 翌日、何事もなかったように私は参内した。侍従局に入っていく時、もし公晴が、あの夜の下手人を私だと知っていたら――信孝が事情聴取した時、何も知らないと言った、と聞いた時には、闇夜だったからそうだろうと思ったのだが、晴子の話を聞いてみると、強ちそうとも言い切れない、と思うようになった。私が下手人だと知っていて、それでいながら何も知らないと信孝には偽った、という事も考えられる。二度目の晩に、私が馬で門を出たのを見て「あいつだ」と言ったという事は、一度目の夜の下手人に何らかの見覚えがあったという事ではないのか。そうでなかったら、「あいつだ」という言葉は出てこない筈だ。だとすれば公晴は、下手人に何らかの見覚えがあり、それが私である事に気付いていると考えなければなるまい。しかしそれなら、何故私が下手人だと訴え出ないのだろうか。
 少し遅れて、公晴は参内してきた。私を見ると、相変わらず幼さの抜け切らない顔で、
「あれ、岩倉宮殿、もう怪我は大丈夫なんですか?」
 私は下腹に力を入れながら、上べはさりげなく、
「ええ、もう大丈夫です」
 公晴は嬉しそうに駈け寄ってくると、
「そうですか、それは良かった。また馬から落ちたと聞いて、心配してました」
と、私の手を取りながら大声で言う。その公晴の前歯が、一本欠けているのに気が付いた。恐らくあの夜、私の馬に蹴られた時に欠けたのだろう。つくづく、公晴には悪い事をしたな、とは思うが、それを口に出して言う訳にはいかない。
 公晴は、本当に下手人が私だと知らないのだろうか。知っている可能性の方が大きいと、私は睨んでいる。一度目の夜は闇夜だったし、二度目の夜は私は覆面をしていたから、公晴に顔を見られてはいないと思うのだが、顔だけではない。背格好、体つき、そういった要素は覆面で隠せる物ではない。では、私だと知っているとして、何故私が下手人だと訴え出ないのだろうか。第一に考えられるのは、私の貴族生命に関わる弱味を握った事で、それを徹底的に利用しようと企んでいるという線だ。要するに、自分を斬ったのが私だと表沙汰にされたくなかったら、自分の言う通りにしろ、という事だ。あの公晴がそんな事を、という気はしないでもないが、いやいや、人は見掛けによらぬもの、腹の底では何を考えているか知れた物ではない、という気の方が強い。何しろ、東宮を取り巻く側近であり、私や信孝とも親しかった時仲や資行が、事もあろうに東宮を謀叛の罪に陥れようとする、傾国の大陰謀に与していた事が、動かぬ証拠を以て私達に突き付けられたのだから。
 もう一つ考えられるとしたら、それは、公晴が斬られた事と桜宮との関係を、ひたすら隠しおおせようとしての事だ、という線だ。公晴は、桜宮に懸想している事を(あの公晴が!?)信孝にも、姉の晴子にも知られまいとして、斬られた場所が二条東洞院と知っていながら、右京のどこかなどと嘘を言ったのだ。しかし、例え右京のどこかだとしても、そこで斬ったのが私だと言えば、私は桜宮邸で絶対安静の筈なのだから、桜宮に必ず嫌疑がかかる。そういう事態が起こる事を、公晴は避けたいのか。……こんな考え方をするようになったのは、どうしてだろう。
 あと一つ、これは今ではほぼ確実に否定されるが、公晴が入道の意を受けて桜宮邸を探っていたという線もあり得た。しかし、ここで考えを改めてみれば、もし桜宮邸で絶対安静になっている筈の私がピンシャンしているという事を大々的に表沙汰にすれば、それだけで桜宮を窮地に立たせられる訳である。私が大怪我をしたと偽って、私を自邸に匿って何をやらせていたのか、と詰問すれば。そうすれば桜宮を貶め、引いては東宮に一大失点を与えられる。それだけで東宮を廃するのは少々難しいとしても、世論を東宮から幾分なりとも離れさせる事ができるのは間違いない。陰謀の遂行中はともかく、陰謀が潰え去った今となっては、死なば諸共とばかり、東宮側の失点を大々的に暴き立てるという捨て身技に出る可能性は捨て切れない。
 それにしても、ここ暫く色々な事に関わっているうちに、物の見方考え方がかなり変わってきたと自分でも思う。去年迄の私だったら、公晴が私の弱味を握るとか、自分の秘めた恋を隠しおおせようとするとか、「死なば諸共」とか、そんな事には考え至らなかっただろう。
 ここは一つ、賭けに出てみよう。私は公晴を差し招き、さりげなく切り出した。
「二月朔日の夜に、貴方が夜盗に斬りつけられたという噂を、耳に挟んだのですが」
 公晴は、聞きたくない事を聞かされた、と言いたげな顔で、
「ああ、あの事ですか」
 私は、さも同情しているという様子を装って尋ねた。
「斬りつけた輩に、見覚えとかそういうのはないんですか」
 公晴はぶっきら棒に、
「ある訳ないでしょう、夜盗に!」
 そのままぷいと横を向きそうになるのを、私は、今しも気付いたという風で、
「あれ、歯、どうしたのですか? ここの歯が欠けてますけど」
と、自分の前歯を指して言った。公晴は、
「あ、これ? いや実は、この前ちょっと酔っ払って、庭で石に躓いて転んだ時に、勾欄にぶつけたんです」
 妙にわざとらしく笑いながら答えた。真相を知っている私から見れば、随分下手な芝居だ。この感じだと、案外、本当に知らないのかも知れない。知らないなら、それに越した事はない。私も公晴も、あんな事はさっさと忘れてしまうが良いのだ。
 やがて、陰謀の加担者に対する処分が発表された。東宮から円覚への偽書状に、今上を呪詛する云々と書いてあったため、謀叛と見倣される事になって、処分は峻厳を極めた。
 首謀者法成寺入道は、准三宮を廃し、本来死罪に処すべきところ、七十五歳の高齢でもあり、出家の身でもあるので罪一等を減じて薩摩へ遠流。他の者も、土佐、隠岐、佐渡、陸奥などへ遠流となった。全て官位剥奪、除名である。帝は永らく病床にあり、こういった事どもの陣頭指揮は、東宮が一手に執り行っている。多忙な東宮ではあるが、いつ見てもその顔には、深い苦悩の色が浮かんでいる。陰謀が表沙汰になってから、日に日にやつれて行くようだ。
 ある夜東宮は、様々な事務の経過報告に清涼殿へ行き、かなり遅くなって戻ってきた。翌朝私が参内し、朝から昭陽舎に参上していると、私の見知らぬ僧が入って来て、東宮に拝謁を乞うた。その時そこにいたのは、東宮の他には私と信孝だけであった。
 東宮はいつになく憔悴した様子であったが、ほんの僅か安堵したような色が見えていた。拝謁を乞うた僧は、低い声で言った。
「二の宮様、無事御落飾遊ばされました」
 不意に東宮は、目頭を押さえた。私が見ているのに気付かないのか、悲痛極まりない顔で瞑目していたが、やがて、
「大儀であった」
 横を見ると、信孝も目を押えている。
 こうなる事は、陰謀が表沙汰になった時から私には予期された事であった。教仁親王は当年七歳、自分で陰謀を企てられる歳ではないが、それでも傾国の大陰謀に担ぎ出された以上、事顕れたからには罪せられるか、或いは落飾するか、どちらかは避け得ないところであった。ここ数日間の東宮の苦悩は、言ってみれば全てがそれに帰していたのだ。齢の離れた弟宮である教仁親王を、罪せられる事からだけは何としても救いたかったのだ。今迄東宮は、教仁親王を殊の外愛しんでいたと聞いている。門閥の違いこそあれ、東宮にとっては唯一人の弟であり、数少ない兄弟の一人であったのだ。
 やがて東宮は、沈痛な声で言った。
「左衛門佐、岩倉侍従、こちらへ」
 私と信孝が東宮の前へ進み出ると、東宮は呟くように言った。
「昨夜私は、二の宮を内裏より脱出させ、落飾させた。これで、二の宮は、流罪にはならずに済むだろう。今の私には、それ以上の事はしてやれぬ。導師は、性覚だ」
 私は、恐る恐る口を開いた。
「性覚と仰せられますと、覚海僧正の弟子の」
「そうだ。……他に、あの大事を託せる僧はいなかった」
 初めて昭陽舎に参上した日、この近くで見た若い学僧の、深淵のような静かな哀しみを湛えた目を、私はまざまざと思い出した。あの僧が性覚だったという確証はないものの、何故か私は、あの僧が性覚ではないかという思いを、振り捨てる事ができなかった。
(2000.11.4)

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