「加奈」雑感 〜後世への最大遺物〜

久しぶりの雑文です。いつもにまして内容散漫、文章が右往左往しているかと思います。

副題の『後世への最大遺物』は、内村鑑三が明治27年の夏に箱根で行なった講演で、明治44年に東京で行なった講演「デンマルク(デンマーク)国の話」とともに、岩波文庫に収録されています。ただし今は絶版かもしれません。
講演の要旨は、解説に以下のようにまとめられています。
我々が五十年の生命を托した此の美しい地球、此の美しい国、此の我々を育ててくれた山や河、我々は之に何も遺さずに死んでしまいたくない、何か此の世に記念物を遺して逝きたい、それならば我々は何を此の世に遺して逝こうか、金か、事業か、思想か、これ何れも遺すに価値あるものである。併しこれは何人にも遺すことの出来るものではない、またこれは本当の最大なる遺物ではない、それならば何人にも遺すことの出来る本当の最大遺物は何であるか、それは勇ましい高尚なる生涯である、
(昭和21年発行の版に基づく。太字部分は原文では傍点)
内村鑑三はこの講演をした頃、既にキリスト教の思想家として有名でしたが、キリスト教の教義というのは徹底して金銭を卑しめている節があります。しかし教会がどんなに高邁な理念をかかげ、どんなに社会に役立つ事業をしようとしても、それにはまず資金が必要なのは言うまでもありません。1月に東京で開かれたアフガン復興支援会議に際して、アフガン暫定行政機構のカルザイ議長が、各国代表に対して「約束ではなく現金をくれ」と繰り返していたというように。そして富というものはどこにでも存在しているように見えるけれども、それをひとところにまとめ、後世の人が使うことができるようにして遺していくのは、非常な幸運と才能を必要とするし、あるいは金を貯めることを知っていても使うことを知らない人が金を遺していこうとすると、むしろ大変な害悪を後世に遺す場合もある、と述べています。
では金を貯める才能のない人は何を遺すかというと、事業、それも土木事業がよい。その例として、江戸時代に人力で掘り抜いた箱根用水を挙げていますが、今では土木事業をするにも何をするにも巨額の金が要りますから、「金を遺せないから事業を遺す」とは言えなくなっているでしょう。それに事業を遺すには社会的な位地が必要でもあり、これは誰でもその位地を占められるものではないとしています。
それでは金も事業も遺せない人が遺せる物は。それは思想だと続けます。自分が志した事業を自分の生きている間に実現できないなら、一つにはそれを実現する精神を紙に書き表して遺す、もう一つには若い人を薫陶して自分の思想を受け継がせ、次の世代において事業を実現させる。すなわち著述と教育が思想を遺す手段だとしています。教育についてはあまり論じていませんが、著述については「文学」という言葉で、私たちがその言葉を聞いてすぐに想像するような意味、つまり源氏物語のような美文名文ではなく、「我々がこの世界に戦争する時の道具」「我々の心のありのまま」「何でもない我々の心情に訴えるもの」とし、これを後世に遺すことを説いています。それを説いた段落は、こう締めくくられています。
若し我々が事業をのこすことが出来なければ、我々に神様が言葉と云うものを下さいましたからして、我々人間に文学と云うものを下さいましたから、我々は文学を以て我々の考を後世にのこして逝くことが出来ます。
(同じく昭和21年発行の版に基づく)
ここからさらに、文学を遺すこともできない人でも遺していける「勇ましい高尚なる生涯」とはどんなものであるかを、私が「下級生リレーSS」で引用したトーマス・カーライルの逸話を例に挙げて説いていくのですが、それは本題から外れるのでおいておきます。

さていきなり話題が変わりますが、「利己的な遺伝子」という学説が提唱されていることはご存じでしょうか。学説として提唱されたのは1976年だそうですが、最近広く知られるようになって、ベストセラーにもなったようです。
私自身、少し前に新聞のコラムで紹介されているのを読んだ覚えがあるのと、この雑文を書くためにインターネットを検索してみた程度なので、充分に理解しているとは言えないのですが、きわめて大雑把にまとめてしまうと、こんな学説です。
人間も含めた地球上の生命体は、自己を複製し増殖しようとする本能をもった遺伝子が、その目的のために作り出して利用している乗り物にすぎない。
遺伝子は非常に利己的である。利己的でない遺伝子は、生き残ってこられなかったから。
遺伝子が「利己的」であると定義することによって、人間が取る一見「利他的」な行動、例えば親が自分を犠牲にして子供を守ることも、実は全て「自分と共通する遺伝子を生存させるための利己的な行動」として説明できるのだそうです。ことわざに「情けは人の為ならず」と言いますが、それに科学の衣を着せた、とでも言えましょうか。
情けは人の為ならず なさけを人にかけておけば、めぐりめぐって自分によい報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある。(広辞苑第四版)
しかしこれって、生物学における一つの学説として聞く分にはまだいいのですが、「思想」としてはあまりにも寒々しい物の考え方だと思いますね、私は。そうだということにすれば人間の行動規範は何でも説明できると言われても、感情的にそれで納得したいとは思いません。
ダーウィンが進化論を提唱(1859年)して1世紀以上経っても、キリスト教圏ではいまだに、学校の科学の授業で進化論を教えることに執拗に反対する人たちが多いと聞いているのは、いくら科学的な証拠(類人猿の化石のような)を示されても、「人間が猿から進化してきた」と言われることに感情的に納得できないからだろうと思いますが、それと似たような感じがします。進化論と違って科学的な証拠がないだけになおさら。
そもそも「自分と共通する遺伝子を後世に遺したいと思う遺伝子」が、そうでない遺伝子を駆逐して生き残ってきたのなら、なぜ人間だけでなく猿のような動物においても、近親結婚を避ける遺伝子が生き残ってきたのでしょうか? その説によれば異性の兄弟と自分とで遺伝子が共通する度合は4分の1、それに対して赤の他人と自分とで遺伝子が共通する度合は限りなく0に近いはずですから、自分と共通する遺伝子を後世に遺したいのが遺伝子の本能なら、赤の他人と結婚するより兄弟姉妹と結婚した方が確実に有利なはずです。
もう一つの反対例を挙げます。自分の持っている遺伝子になるべく似ている遺伝子を、なるべくたくさんの複製を作って遺すことが遺伝子の唯一最大の意志にして全ての目的であるなら、自分の持つ全ての遺伝子を完璧に複製する「クローン」こそ、その目的に最も適した究極の方法だと思いませんか? しかるに人間の心理は、クローン人間作りを歓呼をもって迎え入れるどころか、クローン人間作りはあたかも現代の黒魔術であるかのように忌避しているではありませんか。人類の圧倒的多数が、クローン人間作りを忌避する遺伝子を持っていることを、どうやって説明するのでしょうか。たしかにこの説が提唱された当時、クローン人間作りが実現の可能性を帯びた技術になることは予想されていなかったでしょうけれど。
「加奈」のネタバレになりますが、主人公藤堂隆道が活発ルート(加奈が危篤になるまで、隆道と加奈に血縁がないことを隆道は知らない)では加奈に自分の腎臓を提供しようとしたのに、知的ルート(隆道と加奈に血縁がないことを、もっと早い時期に隆道は知っている)では加奈に自分の腎臓を提供しようとは全く考えないばかりか、加奈の死後その肝臓を他の患者に提供する(=隆道以外の人間が持っている遺伝子が生き残る可能性を増やす)ことに頑強に反対し、そして肝臓移植を受けるのが隆道と血縁である(=隆道と共通する遺伝子をいくらかは持っている)霧原香奈であることを聞かされると提供に同意するという分裂した行動をとる動機は、なるほど、「利己的な遺伝子」説を持ち出せば完璧に説明できますね、プレイヤーが納得するかどうかは別として。

人間という存在がもし、遺伝子──情報としての遺伝子を保持する物質を指すDNAという言葉を、遺伝子の代わりに使う人が時折いるのですが、DNAそのものは単なる物質であり、生命現象の一つとして新陳代謝されていきますから、私たちが両親から受け継いだ、物質としてのDNAそのものは、おそらく母胎にあるうちに私たちの体から消失しているでしょう。細胞分裂のたびに複製されていき、新陳代謝にもかかわらず保持されているのは、物質ではなくて情報です──を数十年間保持し、それを増殖して次の世代に遺すための入れ物にすぎない存在であるとしたら、藤堂加奈の生涯は、生き延びて誰かと結婚して子供を遺すことを示唆するあのエンディングだけが、言うなれば遺伝子にとっての「成功」、それ以外のエンディングは全て「失敗」、無意味だったということになってしまいます。
人間以外の生物なら、そうかもしれません。しかし人間は、不謹慎かつ乱暴な表現をすれば「自分の遺伝子と他人のそれをまぜこぜにした不完全な複製品」である子供以外にも、後世に遺せる物があります。それが、内村鑑三が説いたところの「思想」だと思うのです。
人類が自分の思想を遺すことが可能になったのに功績が大きかったのは、言語と文字でしょう。そもそも体系的な思想を生むための思考は、言語がなかったらまず不可能だと思いますが、そうやって自分の脳裏に生まれた思想を他人に伝達するのにも、言語は必要不可欠だからです。なるほど、絵画や音楽といった非言語的な表現手段も思想を表現する手段にはなり得ますが、絵画はまだしも音楽を、時間的・空間的な制約を超えて記録に残し、伝達しようと思ったら、言語における文字と同じような、記号化された記述手段(すなわち楽譜)が必要になるからで、これは広い意味での言語に含まれると考えられます。
そうやって作り出した思想を伝達するとして、口から発する言葉だけでは、伝達できる時間的・空間的範囲は限られています。本人の口から直接聞けるのは、その人が生きている間だけですし、本人に直接会って聞けるのは、今のような放送手段・交通手段がないとすれば、その人のすぐ近くに住んでいる人だけです。
しかしここに文字があれば、その思想を「紙に書き表して遺す」ことができます。たとえただ1部の自筆原稿しか遺さなかったとしても、本人の死後にそれを誰かが読めば(そのためには誰にでも読めるように書く必要がありますが──自他共に認める悪筆の私みたいに、自分が大学ノートに書いた日記を、数ヶ月後に自分が解読に苦しんでいるようでは駄目ですね(苦笑))、その人が生前に持っていた思想を知ることができます。
文字情報は複製が容易ですから、印刷して大量に発行する、あるいは今私がやっているように電子化して頒布することが簡単にできます。そうして文字化された思想は(私の雑文が「思想」と呼ぶに値するとも思えませんが)、口から発する言葉が持っている時間的・空間的制約を軽々と飛び越えて、後世に遺ることができます。今から約2000年前のパレスチナに生きていた人の言葉と行動の記録が、今、世界で最も多くの言語に翻訳され、最も多くの部数発行され、最も多くの人に読まれている書物になっているように。
ゲームの中の話ですが加奈がノートに書いた日記は、隆道の手を経て上梓されてから1年に満たないうちに5回重刷されたということですから、数千部は発行されたでしょう。数千人が読み、数百人が臓器提供意思表示カードで「移植の為に臓器を提供します」と意思表示し、何十人かは臓器移植ネットワークに浄財を寄付し、何人かは臓器移植コーディネータになることを志し、何人かは医師になることを志し、そういったことの結果として、霧原香奈の他にも何人、何十人もの患者が、臓器移植によって生を全うする機会を得られたとしたら……日記を書くことをせずに生き延びた加奈が2人か3人の子供を遺すより、はるかに大きな物を後世に遺したことになるのではないでしょうか。
(2002.2.17)

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