祐一君の甘い一日
制作者 夕凪様 拝受 2004年11月20日

この作品は、2001年2月に「桂芳恵精神病棟」に寄贈されました。「桂芳恵精神病棟」の閉鎖に際して、管理者桂芳恵さんと作者夕凪さんのご希望により、当サイトでお預かりすることになったものです。

<祐一君の甘い一日>

 相沢祐一の甘い一日は、日付が変わってから間もなく幕を開けた。





 考えてみれば至極当然だった。
 あいつは夜襲を得意(?)としていたし、それに俺を驚かせることが大好きだから。
 しかし、俺はその日完全に油断していた。そんな手を使ってくるとは夢想だにしていなかった。
 だから、
「祐一ーっ、はい、バレンタインデーのチョコレートっ」
 という声が耳元で響いたとき、完全に虚を突かれた俺は、ベッドから飛び起きて、思わず壁際まで寄ってしまったのだった。
「どわっ! ま、真琴っ!?」
「何よぅ、幽霊でも見るような目で見ないでよぅ」
 いや、マジでビビッたんだって。
 真琴はぷーっと頬を膨らませて俺を睨んでいたが、
「ま、いいか。それより、はい、これ」
 そう笑顔で差し出したのは、1枚の板チョコだった。
 どう見ても市販品である。ラッピングも何もない。あからさますぎだ。
 一応訊ねてみる。
「何だ、これは?」
「何って、今日はバレンタインデーなのよ。祐一、もしかして知らないの?」
「そのぐらいは知っている」
「だから、はい。ホワイトチョコレート。さ、食べて食べて」
「…………」
 つーかおい、わざわざ夜中に人を起こして市販の板チョコを食えと言うか。
 俺はわざとらしく溜息をついて、
「寝るか……」
「な、何よぅっ! その態度はぁ。人がせっかくバレンタインデーのチョコレートあげたのにぃ!」
「真琴……バレンタインのチョコってのはな、普通は手作りなんだぞ」
 もちろん口から出任せである。しかし、真琴は目を丸くした。
「えっ?」
「そんな基本的なことも知らないんじゃ、真琴もまだまだだな」
「な、何よ何よぅっ! 真琴がせっかく祐一のために買ってきたのにぃっ!」
 真琴は顔を真っ赤にしてぱたぱたと出て行ってしまった。
「チョコレート代、損したーっ!」
 ぱたぱたぱた……。
(勝った……)
 密かな勝利の余韻に浸りながら、俺は再び眠りに落ちていった……





「朝〜、朝だよ〜」
 カチッ。
 あれからぐっすりと眠った俺は、速攻で睡眠誘導目覚ましをオフにすると、着替えを始めた。うん、久々にいい目覚めだ。
「おはようございます、祐一さん」
 一階に降りると、例によって秋子さんが笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます」
 挨拶しながら席に着く俺に、秋子さんが小首を傾げながら、
「名雪は今日はダメでしたか?」
「一応声はかけてきたんですが……そう言えば、真琴の部屋も反応ナシでしたけど」
「あら、真琴はもう出掛けましたよ」
 秋子さんが言った。「保育所のお手伝いも、だいぶ慣れてきたみたいですから」
「そうですか」
 案外、俺と顔を合わせるのが嫌だったのかもしれないな。俺は夜中のことを思い出しながら、そう思った。
「それにしても、今日は遅いですね」
 秋子さんが頬に手を当てながら困ったように言う。
 いつもならそろそろ現れてもいい名雪なのだが、今日に限って降りてくる様子はない。夜更かしでもしたのだろうか。
(こりゃ先に行くしかないか……)
 トーストをはぐはぐとかじりながらそんなことを考えていると、ようやく、寝惚け眼の名雪がパジャマ姿のまま現れた。
「おはようございまふぁ〜」
(うーん、こりゃダメだな……)
 ちらりと時計に目をやる。8時10分。今から歩けば充分に間に合いそうだ。俺は珈琲を飲み干すとおもむろに立ち上がった。
「名雪、先に行くぞっ!」
「え〜。そんな、酷いよ〜」
 名雪の半分寝ているような声を無視しながら、俺は玄関を後にした。





 昼休み…。
「うー。祐一、ひどいよ……」
 名雪が俺の席まで抗議にやってきた。
「私のこと置いていくなんて……」
「仕方ないだろ。俺は今日は歩いて学校に行きたい気分だったんだ」
 走りたくなかったと言うべきだろうか。
 ちなみに名雪は滑り込みセーフでなんとか遅刻を免れていた。さすがは陸上部主将だけはある。
「明日はもっと早起きすることだな」
「うー……今日は仕方がなかったんだよ……」
 名雪が困ったように眉を寄せる。
「じゃ、俺は昼飯を食べに行くから」
「あれ? 学食じゃないの?」
「ちょっと、な」
 今日は佐祐理さんに久々に呼ばれているのだった。

「悪い、佐祐理さん、舞。ちょっと遅くなっちまった」
 食堂で買ってきたパンをひらひらさせながら、俺はいつもの場所に座っていた二人にそう呼びかけた。
「……祐一、遅い」
 舞が珍しく先に発言した。
「あははーっ。舞ったら、ずーっと祐一さんが来るのを待ってたんですよーっ」
 佐祐理さんがいつもの笑顔でそんなことを言った。そして、いつも通りに舞のチョップをぽこっと食らっていた。
「今日のお昼は特別メニューなんですよ」
「……特別?」
「これです」
 そう言って、佐祐理さんはいつものようにお重を取り出して……
「……は?」
 お重の中身を見た俺は、思わず目が点になってしまっていた。
「何ですか……これ?」
「今朝、舞と一緒に早起きして作ったんですよー」
 笑顔で説明する佐祐理さんの隣で、舞がこくこくと頷いた。
「今日は、バレンタインデーですから」
 立派なチョコレートケーキだった。大きさ的には4人分ぐらいはありそうだった。
「す、すごいチョコケーキだな……」
「……祐一」
 舞がぽつりと言い、俺の顔をじっと見た。
「……チョコレートケーキ、嫌いか?」
「い、いやその」
 俺は返答に困った。というかハッキリ言って嬉しい。舞や佐祐理さんから、しかも手作りのチョコレートケーキをご馳走して貰えるなんて。
 でも……これがお昼御飯となると……などと考えているうちに、佐祐理さんがてきぱきとケーキを切り分けてしまっていた。
「はい、どうぞ」
 小皿に乗せて、佐祐理さんが俺にケーキを差し出していた。俺はそれを受け取ったものの、内心では苦笑しっぱなしだった。
 うーん、お昼御飯がケーキってのはやっぱりちょっとなぁ……。
 と、舞がじっと俺の顔を見つめていることに気付いた。
「……食べないの?」
 ああ、何か舞の表情が暗くなってるし。佐祐理さんも少し心配そうな表情になってる。そのことに気付いて、
「もちろん、喜んで戴くぜ。舞、佐祐理さん、ありがと」
 反射的にそう答えて、ケーキをぱくつく俺だった。
 ……うん、美味しい。甘いものが苦手な俺はケーキなどはあまり食べない方だが、このケーキは素直に美味しいと思った。
「どう?」
「うん、すごく美味しいよ」
 佐祐理さんの表情がぱっと輝いた。
「あははーっ。良かったねぇ、舞っ。祐一さん、喜んでくれて」
「はちみつくまさん」
 かくして本日の昼飯はコロッケパンとチョコレートケーキと相成ったのである。





「う゛ー」
 教室に戻ってくるなり、俺は机に突っ伏した。
 結局4人前はありそうなチョコレートケーキの半分を食べさせられて、完全に食い過ぎモードに入っている。俺はもともと甘いものは苦手な方なのだ。
 しかし、舞の無言の(だが嬉しそうな)視線と、佐祐理さんの明るい笑顔を前に、逃げるとか残すことなど許されなかったりする。
「苦しぃ……」
 その時、五時限目の開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

 五限、六限と死ぬような思いで授業を受け、俺は再び机に突っ伏した。
「うー…」
「どうしたの、祐一?」
 名雪が心配そうな表情で立っていた。「お腹でも痛いの?」
「つーより、昼食い過ぎなんだ……胸焼けもするし」
「もっと加減して食べればいいのに」
「そんなこと言ってもな……」
 俺が名雪に一言言おうとしたとき、
「相沢君」
「……ん?」
 不意に名前を呼ばれ、俺は振り返った。
 そこには香里が立っていた。いつになく真剣な表情である。
「ちょっと……大事な用事があるの。ついて来てくれない?」
「え?」
「どうしたの、香里?」
「ごめんね名雪、相沢君のこと、ちょっと借りるわよ」
 そう言うと、香里はこちらの返事も待たずにすたすたと歩き始めた。
 俺は物じゃないぞ、そう思いながら香里の後を付いていくことにした。
 教室を出る寸前、誰かの突き刺すような視線を背中に感じた。
 つーか殺気に近いぞこれは。
(……う)
 視線の主は、誰あろう、北川だった。

 香里が向かった先は、中庭だった。寒風吹き荒ぶこの極寒の場所に、他に人の姿は見当たらない。当たり前だが。
「……香里、わざわざこんなところまで来ることはなかったんじゃないか?」
 ようやく歩みを止めた香里に向かって、俺は言った。こんな日に、香里が俺を人気のない場所に呼びだした理由は、一つしか考えられない。
「わざわざチョコレートを渡すだけに、さ」
「何か勘違いしているようね。相沢君」
 そう言うと香里は何やら意味ありげな笑みを浮かべた。
「私は、今年は北川君に義理チョコをあげる予定だけど、それ以外のチョコは買っていないわ」
「……それって、どういう……?」
「つまりね、相沢君」
 香里の笑みに、何となく意地悪いものが混じったような気がした。
「あなたにチョコレートを渡すのは、私じゃないのよ」
「何だって?」
「祐一さーん!」
 背後から聞こえてきた声に、俺はぎょっとなって振り返った。こちらに向かって走ってくる一年生の制服を着た少女……と言っても天野ではない。
「……栞……ま、まさか!?」
 俺は香里の方を振り返る。香里は申し訳なさそうに俯いて、
「ごめんなさいね。大切な妹の願いをどうしても断り切れなくて……」
「祐一さん、来てくれたんですねっ。嬉しいですー」
 戦慄する俺をよそに、栞は満面の笑みを浮かべて、そう言った。
「それじゃ、私は教室に戻るわね。頑張ってね、相沢君」
「待てっ! 何だその頑張ってねってのは……!」
 自分の役目は終わった、とばかりに笑顔で去る香里を、しかし俺は追いかけられなかった。
「祐一さん」
 栞の声が俺を押しとどめる。
「今日は、バレンタインデーですねっ」
 なんだかえらく気合いの入った声だ。
「あ、ああ、そうだな」
 昼休みに舞と佐祐理さんの手作りチョコケーキをたらふく食わされた……もとい、食ってきたところだ。
「私……バレンタインデーに男の人にチョコレートをプレゼントするの、生まれて初めてなんです……」
 栞はそう言って笑った。病弱だった栞は、恐らく、こんな寒い時期は外出なぞ許されなかったに違いない。
「だからとっても嬉しくって……」
 そう言って涙ぐむ栞を見ていると、
『いやぁ、俺さっき鼻血が出そうなほどチョコケーキ食ったから、もういらねー』
 なんて鬼畜なセリフは言えそうになかった。
「祐一さん、私のチョコレート……受け取って貰えますか?」
 まだ瞳を潤ませながら、栞がじっと俺を見つめる。
「ああ、もちろん、ありがたく受け取らせて貰うよ」
 俺は笑みを浮かべながら、そう頷いて見せた。
「わー、嬉しいですーっ」
 途端に栞ははしゃいだような声になって、
「じゃあ、これ、全部食べてくださいねっ」
 そう言って、後ろに隠していた箱のようなものを取り出した。
「ああ、分かった……っておいっ! 何だそのクーラーボックスわっ!?」
「せっかくですから、チョコレート系のアイスクリームを集めてみたんです」
「あ、アイスクリームっ?」
「はい」
 にっこりと微笑む栞。クーラーボックスを開けて、
「これがチョコバニラです。あとこっちがチョコチップで……これがチョコミント。一番下のが普通のチョコアイスです。ぜーんぶ、祐一さんのために作ってきたんですよっ」
 完全に凍りついている俺に向かって、栞は更に微笑みながら言った。
「ぜーんぶ、食べてくださいねっ」
「……全部」
「はいっ」
「……ちょっとだけじゃダメか?」
「うー。そんな事言う人、嫌いですー」
「やっぱり」





「やばい……」
 太陽はとうに西に傾いていた。
 俺は震えが止まらない身体を無理矢理動かしながら、ようやく学校を出た。
 栞のアイスクリーム攻勢を次々と撃破し、最後に残ったチョコチップを平らげたときには、下校合図のチャイムが鳴り響いていたのだった。
「祐一さん……全部残さず食べてくれて、私……本当に嬉しいですーっ」
 栞はそう言って、ぽろぽろと涙を流した。でも、溢れる涙を拭ったその表情は、本当に満面の笑顔で、俺はそれが見られただけでも嬉しかった。
(……いや、確かに嬉しかったんだけど……)
「つーか、マジで死にそうなんすけど……」
 商店街にでも寄って、暖かい珈琲でも飲まないとマジで凍え死ぬかもしれない。
『男子高校生、通学路で謎の凍死!?』
 などとゆー新聞の見出しが脳裏を過ぎる。冗談じゃない。新聞の社会面なんぞに乗るのはごめんである。
 俺は頑張って商店街まで歩いていった。今の俺には、腹ぺこで行き倒れ寸前の少女にすら倒されるだろうという自信があった。

 すっかり赤く染まった商店街の入り口。
 そこに立っていた自動販売機が、祐一の目にはこの上なく頼もしい存在に映った。
 震える手で硬貨を取り出し、投入口に滑り込ませる。
 そして、『HOT』の表示がされている(というか全部ホットなんだけど)缶珈琲のボタンを押すと……ガコン!という心地よい音と共に、取り出し口に暖かい缶珈琲が転がり落ちてくる。
 完全に冷え切った手に、熱いくらいに暖まった缶がとても心地よかった。
 両手でそれ転がし、凍えきった手が暖まってきたところで口を開けて、飲み始める。
 ごくごくごく。
「…………ふぅ」
 暖かい液体が、冷え切った身体全体に染みてゆくようで、とても心地よかった。
(助かった……)
 これほどまでに缶珈琲が美味しく……いや、ありがたく思えたことが今までにあっただろうか? いや、ない!
 などと反語を使いながら、珈琲の残りを全部飲み干す。
「うっしゃ!」
 空になった缶をゴミ箱に放り込む。よし、復活!
(さて……と。せっかく商店街に来たんだから、少し彷徨いて帰るか……)
 そんなことを考えながら、夕暮れの商店街を歩き出す。
 暫く歩くと、何かの匂いが俺の脳を刺激した。反射的に、匂いの漂ってくる方向に顔を向ける。そこでは、肉まんの街頭販売をやっていた。
「…………あ」
 そして、今まさに肉まんの入った紙袋を店員から受け取ろうとしていた少女と、思わず目が合ってしまったのだった。
「ゆ、祐一っ!?」
 恐らく保育所の手伝いの帰りなのだろうその少女が目を丸くして驚く。 
「よっ、真琴。また肉まん買いにきたのか。飽きないヤツだなぁ」
 と穏やかに話しかけたのだが、真琴は何を思ったのか、ぱっと身を翻して駆け出してしまっていた。
「お、おい、何処行くんだよ!」
「フ〜ンッだ! 祐一なんかと、口も利きたくないんだからっ!」
 いーっ、と顔を顰めてみせると、そのままだーっと走り去ってしまった。
「はぁ……相変わらず行動の極端なヤツ」
 と呟く俺の横では、若い店員が、肉まんの袋を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。
「……いくつ買ったんですか? あいつ」
 客に逃げられてしまった哀れな店員に俺は話しかけた。
「え? いや、もうお金は戴いちゃってるんですけれど……」
 そう困った表情で答える。金だけもらって商品を渡せなくて困るとは、何ともはや。
「はぁ……分かりました。俺が届けておきますよ」
「お知り合いなんですか?」
「家族です」
 納得した表情の店員から肉まんの入った袋を受け取ると、俺はそれが冷めないうちに家に帰ろうと歩き出した。
 夕日で赤く染まった商店街を、ブツブツと文句を言いながら歩いて行く。
(まったく……真琴のやつめ)
 どうせ走って逃げるなら、肉まん受け取ってからでも遅くないだろうに……そんなに気に入らないのかな。俺のことが。
 やっぱり、チョコのことが原因なんだろうか……?
「うぐぅ〜! どいてどいて〜!」
 ……うぐぅ?
「……はっ!」
 聞き覚えのある声に我に返ると、目の前に、背中に羽の生えた少女がいた……と言うかこっちに向かって現在進行形で走っている最中だった。
「うぐぅ〜、どいて〜」
「とぉっ!」
 言われたとおりに身を躱す。俺を掠めるように走り去ったあゆは、数メートル後方で急停止した。
「ふぅ……危なかったぁ」
「……あゆ、今日も食い逃げか?」
 肩で息をするダッフルコートに羽リュックの少女、あゆに向かって俺はそう訊ねた。途端に、あゆが頬を膨らませ、
「今日は違うよっ」
 今日は、と付くあたりがあゆらしかった。しかし紙袋を大事そうに抱えているという点はいつもと同じようだが。
「じゃあなんで走ってたんだよ」
「それが……祐一君を見かけて走ってきたのは良かったんだけど、雪で滑っちゃって止まれなくなっちゃって……」
 相変わらずだった。
「別に逃げたりしないから、ゆっくり歩いて来いよ」
「うぐ……今度からそうする」
「……ところで、あゆ」
「なに?」
「お前さぁ、頭に輪っかを付けたい、とか思ったことないか?」
「ううん、ないよ……どうして?」
「いや、背中の羽を見ているとな、俺はどうしてもそう思わずにはいられないんだ。やっぱり天使の輪っかは必要だろう」
「祐一君、言っていることが意味不明だよ?」
「ま、それはさておき。……で? 俺になんの用事があったんだ?」
「え? えっとね……」
 あゆが顔を赤くして下を向く。「祐一君、今日が何の日だか知ってる?」
 俺はすました顔で即答した。
「水曜日」
「そうじゃなくて……」
「それから、確か大安だったな、うん」
「うぐぅ……祐一君、意地悪だよ……」
「はぁ……」
 俺は溜息をついた。
「今日は2月14日。バレンタインデーだよ。これでいいか?」
「うん!」
 あゆがぱっと笑顔を浮かべる。
「それでね、祐一君に食べて貰おうと思って、ボク一生懸命作ったんだよっ」
「……また黒焦げクッキーか?」
「うぐぅ〜、違うよ〜」
 あゆが涙目になる。
「冗談だって」
「今度は大丈夫だよっ。はい」
 そう言ってあゆが笑顔で差し出したのは……たい焼きだった。
「……まさか」
 色が黒い。
 ということは……たい焼き型チョコレートかっ!?
「食べてくれるよね」
 にこにこ。
「うっ……いや、その」
 顔は笑っていた。
「食べてくれるよね、ボクの手作り」
 しかし目はマジだった。
 逃げよう……と思ったのだが、逃げても家まで追いかけてきそうな雰囲気だった。
 仕方ない。一口だけ食べて、
『いやぁ、これは美味しい。家に帰ってゆっくり食べさせて貰うよ』
 とか言ってこの場を去ることにしよう……但し、例えどんな味がしようとも、美味しいと言わなければならないのがこの作戦の最大の難点だが。
 そうと決まれば話は早い。このたい焼き型チョコレートをかぷっと一口食ってしまえばいいのだ。……食べ過ぎでこの上なく拒絶反応を示す胃を何とかなだめつつ、
「じゃ、遠慮なくいただくな、あゆ」
 俺は大口を開けて、たい焼きの頭にかぶりついた。

 ごきっ!!

「…………」
「どう? 美味しい?」
「……お前には進歩というものがないのか?」
 そういう自分にも無さそうだなと思いつつ俺はそう訊かずにはいられなかった。
 あゆの表情が曇る。
「ひょっとして……美味しくなかった?」
「だから、さっきの効果音を聞いて真っ先に訊ねることが味なのかっ!?」
 結論から言うと、そのたい焼き状の黒い物体はチョコレートではなかった。恐らく黒焦げを通り越してほぼ炭化したたい焼きのなれの果てだった。
 まさしく、歯が立たないとはこのことだ。
 人間の食えるレベルを遥かに超越している。
「うぐぅ……ボク一人で一生懸命作ったのに……」
 あゆがうなだれる。
「いや一生懸命作っても食えないんじゃどうしようもないってば……大体、お前たい焼きなんかどこで作ってきたんだよ」
「屋台のおじさんに頼んで作り方教わってきたの」
「あのおやじ……」
 どうしてこの黒焦げ状の物体が出来上がったときに止めてくれなかったんだ!
「ちょっと黒いけど、きっと喜んでくれるだろうって」
 ちょっと? 今ちょっとって言ったのか?
「でもねっ」
 不意にあゆがぱっと笑顔に戻る。
「こんなこともあろうかと、実はもう一種類作ってきたんだよっ」
「……な、何だって?」
「屋台のおじさんに手伝って貰って、特製のたい焼きを作ってきたんだよっ」
 そう言ってあゆは紙袋の中から、別の焼きたてのたい焼きを取り出してみせた。
「はい。ボクが考えたチョコたい焼きだよっ」
「…………」
「餡の代わりに、チョコクリームが入ってるんだよっ」
「…………」
「食べてくれるよね、祐一君」
「ああ……」
 俺は呆然と頷くだけだった。さっきあの黒焦げにかぶりついてしまった以上、これを避けて通れそうにはなかった。
 困ったことに、紙袋の中にはもう何匹かたい焼きが入っているような感じだった。





 商店街を出る頃には、太陽は西の地平線上に没しようとしていた。
 結局、五匹のたい焼きを腹に収めることとなった。
「うぐぅ……祐一君全部食べてくれて、ボクとっても嬉しいよ〜」
 そう言って腕にしがみつくあゆと途中で別れ、水瀬家の門をくぐる頃には完全に日が暮れてしまっていた。ちなみに肉まんは完全に冷め切っている。
「ただいま……」
 もういい加減、チョコ関連の食い物は見飽きた食い飽きた……と思いながら家に戻った俺を待ちかまえていたのは。
「お帰り、祐一〜」
「お帰りなさい、祐一さん」
 という名雪と秋子さんの出迎えと、
「…………う゛」
 家中に漂う甘い香りだった。
「あのね、今日バレンタインデーでしょ? だからね、お母さんと一緒に、腕によりをかけて作ったんだよ」
「せっかくなら、手作りの方が宜しいかと思いまして」
「…………」
「はい、特製のチョコレートクッキーだよ〜」
「いっぱいありますから、遠慮なく食べて下さいね」
 名雪と秋子さんが笑顔で言った。
 キッチンに行くと、出来たてのクッキーが皿の上に山盛りになっていた。
「名雪が昨日、夜更かししてまで作り方を覚えたんですよ」
 秋子さんが微笑みながら言うと、
「お母さん、そんな事言わなくてもいいよっ」
 と名雪が顔を真っ赤にした。
 なるほど。それで今朝起きてこなかったんだな。
「祐一、食べて食べて」
 名雪がにっこりと微笑んでそう急かした。
 これまた、食わずに部屋に戻るなどという行動を取れそうにない雰囲気だった。
「……そうだ、こんなにたくさんあるんだから、真琴も呼んできて、みんなで一緒に食べようぜ」
 窮余の策として、俺はそう提案した。真琴なら遠慮会釈無しにぱくぱくとクッキーを平らげてくれるだろう。
「真琴なら、あまり食欲がないって、部屋に篭もっちゃってるよ」
 作戦失敗。
「ほらぁ、祐一、食べて食べて」
 名雪に促されるまま、俺は取り敢えずテーブルについた。名雪が真向かいに座って、期待と不安に満ちた眼差しで俺をじっと見つめている。
 どうやら俺がこれを食べて感想を言うのを待っているらしい。
 俺はいい加減にしろコラという胃の抗議を黙殺しながら、ほかほかのクッキーに手を伸ばし、一枚を手に取った。
 それをゆっくりと口に運ぶ……。
 もぐもぐ。
「……どう?」
「うん、美味しい」
 その感想を口にした途端、名雪の表情がぱあっと輝いた。
「ホント? ホントに美味しい?」
「俺は不味かったら不味いって言うからな。本当に美味いよ」
 そう言いながら、もう何枚かを口に放り込む。うん、美味しい。美味しいけど、胃はかなり悲鳴を上げてるよな。
「良かった……」
 喜ぶ名雪の目に光るものが微かに見えたのは、俺の気のせいではなかったはずだ。
 ……そんなに喜ばれると、いよいよこのクッキーを残すわけには行かないような気がしてきた。
「珈琲、淹れますね」
 秋子さんがそう言ってキッチンに向かおうとしたとき、不意に、電話が鳴りだした。
「いいわよ、私が出るから」
 立ち上がりかけた名雪を制して、秋子さんが受話器を取り上げた。
「はい、水瀬です……」
 ああ、はい、ちょっと待ってね……と秋子さんは受話器に向かって告げたあと、
「祐一さん、お電話ですよ」
 俺の方を振り返って、そう言ったのだった。
「美汐さんからです」





「夜分遅くに申し訳ありません、相沢さん」
 駅前まで駆けてきた俺に向かって、開口一番、天野はそう言った。
「どうしても今日中にお渡ししたいものがありまして」
「ひょっとしてチョコレートか? だったら遠慮させてくれ。今日はもう食傷気味だ」
 天野は黙って俺の顔をじっと見詰めた。
「そのようですね。ですからこれを用意してきました」
 そう言って天野が差し出したのは、胃腸薬だった。
「……ありがとう」
 俺は苦笑を浮かべながらそれを受け取った。それから、大きく溜息をついて、
「まったく、今日初めてだな。チョコ以外のものを受け取ったのは」
「……そうでしょうか?」
 天野はいつもと同じ口調で言った。。
「相沢さんは、今日、目には見えないものをたくさんの人たちから受け取ったのではないのですか?」
「……?」
 首を傾げる俺をよそに、天野は俺から視線を逸らし、夜の空に目を向けた。
「相沢さん……相沢さんは、初めてチョコレートを貰ったとき、どう思いました?」
「は?」
「やっぱり、嬉しかったですか?」
「……ああ。そりゃ、嬉しかったよ」
 天野が何を言いたいのかを量りかねながら、俺はそう答えた。
「そうでしょうね」
 天野は言った。「チョコレートをプレゼントした相手も、相沢さんが喜んでくれてとても嬉しかったと思います」
「……」
 天野が何を言いたいのか分からない俺は、ただ黙って次の言葉を待つしかなかった。
「その子は、チョコレートに自分の心を託して、相沢さんに渡した筈ですから」
「……?」
「相沢さん」
 天野が再び俺の方に目を向けた。
「バレンタインデーに贈られるものは、チョコレートだけではないのですよ。そのチョコには、目には見えませんが、その人の気持ちが込められているんです」
「……!」
 天野の言葉に、俺は強い衝撃を受けた。
 すっかり忘れていた。
 いま天野に言われるまで、そのことが頭からすっかり抜け落ちてしまっていたのだ。
 バレンタインデーに本当に贈られるものは、チョコという「もの」ではなく、その人の「心」だということが。
 今日、俺が色々なチョコレート(及びそれに類するもの)を食べていたときの皆の顔を思い出してみる……みんな、とても嬉しそうな表情だった。
 それは、単に俺がチョコを食べたことが嬉しかっただけじゃない。チョコに託した自分の気持ちを俺が受け取ってくれた、ということが嬉しかったからなんだ。
 それなのに俺は……そんなことに気づきもしないで、もうこれ以上食いたくないとか、いい加減勘弁してくれとか、そんなことばかり考えていた。
 あまつさえ、天野に対しては遠慮するだのもう食傷気味だのと口にしてしまった。もし天野が、俺にチョコを渡そうとしていたら……俺はその一言で、天野の気持ちさえも否定してしまうことになっていたのだろう。
 もっとも、天野は俺にチョコを渡す気はなかったようだけど……。
「相沢さんは今日、彼女たちの想いを、たくさん受け取ったのではないのですか?」
 天野の口調は、俺を責め立てるものではなかった。
 ただ俺のことを心配しているような、そんな優しさに満ちた口調だった。
「……ああ。俺はたくさん受け取ったよ。みんなの気持ちを」
 答えてから、真琴のことを思いだして、俺は自分の愚かさを呪った。
 今日一番に俺にチョコレートを持ってきてくれた真琴の想いを、俺は何も考えずにあっさりと踏みにじってしまったことになるのだから。
「まだ間に合いますよ」
 俺の微かな表情の変化から、天野は何かを察したようだった。俺はぎょっとなって天野を見つめた。
 天野は真剣な口調で続けた。
「今なら、まだ間に合います。相沢さんの、本当の気持ちを、その子に伝えてあげて下さい」
「ああ」
 俺は大きく頷いて、
「ありがとう、天野。おかげで目が覚めたよ」
 心からの笑顔を浮かべてそう言った。
「それから……さっきは悪かった」
 天野が微かに怪訝そうな表情になった。
「何も考えないで、遠慮させてくれとか言っちまってさ。ごめんな。
 ……でも、天野の気持ちも、ちゃんと受け取ったから」
 そう言って、薬の入った瓶を掲げて見せた。
「……はい」
 頷いて、天野は微かに微笑んでくれた。





「ただいまー」
 家に戻るや否や、ちょうど二階から降りてきた真琴と鉢合わせすることとなった。
「あ……」
 踵を返して階段を駆け上がろうとする真琴の腕を、俺はぐいと掴んだ。
「待てよ」
「イヤーっ、放してよーっ!」
 じたばたと暴れる真琴に向かって、
「真琴……今朝は、その……悪かったな」
 俺は深々と頭を下げてみせた。
「……え?」
 真琴がきょとんっ、とした表情で俺の顔を見る。その時、俺は自分のカバンの中に肉まんの紙袋が入っていたことを思い出した。
「そうだ、お前今日、商店街で金だけ払って肉まん貰うの忘れて逃げただろ」
「あ、あぅ〜」
 真琴が涙目になる。
「俺が代わりに貰ってきてやったからさ。一緒に食おうぜ」
「……えっ? ほんとう?」
「いま温めてくるからさ、部屋でちょっと待ってろよ」
「う、うん……」
 冷め切った肉まんを蒸し器に放り込んで温める。
 それを皿に移すと、俺は二階へと上がった。
「おーし、できたぞー」
 真琴の部屋に入る……と、誰もいなかった。いつものようにマンガ本が部屋のあちこちに散らかっているだけだった。
「俺の部屋かな……?」
 自分の部屋に戻ると、真琴が所在なげにぼーっと立っていた。
「なに突っ立ってんだよ。座れよ」
 そう言うと、真琴はおずおずとベッドに腰掛けた。
「ほれ、肉まん」
 俺は真琴に皿ごと手渡した。目を輝かせて、ほかほかの肉まんに手を伸ばす真琴。
「あれ……? 祐一は食べないの?」
「俺か? 俺にはこれがあるんだ」
 そう言って俺は、机の上に無造作に放り出してあったホワイトチョコレートを手に取った。今朝方(と言っても真夜中だったが)に真琴がプレゼントしてくれたものだ。
 真琴がムッとした表情になる。
「祐一、そんなものいらないって言ったじゃない」
「いや、いらないとまでは言っていないはずだが……」
「だって祐一、名雪さんとかからもチョコ貰ったんでしょ? 真琴のなんかいらないんでしょ?」
「なんだよ、そんなにムキになって。あ、もしかして妬いてるとか?」
「ち、違うわよっ! ただ、祐一が美味しそうにチョコ食べてるのを想像すると、なんか悲しくなって、もの凄く腹が立ってくるだけなんだからっ!」
「……はいはい」
 俺は適当に返事をしながら、板チョコの包装紙を剥がしてゆく。
「なによぅっ、その生返事はっ。大体、朝食べなかったチョコをどうして今頃食べようとするのよぅ!」
「どうしてって、本命は最後までとっておくっていうのが常識なんだぞ?」
 俺はさらりと言ってのけた。もちろん口から出任せである。
「ほっ……」
 一瞬絶句した真琴が、カァッと顔を真っ赤にして、
「本命って何よぅ……真琴は別に、祐一のことが好きでチョコあげたんじゃなくってっ、その、伝統的な日本の行事っていうか……」
 しどろもどろに言い訳をするあたりが微笑ましいなぁ。
「ああ、分かったから肉まん食えよ。冷めるぞ」
「あ、あぅ……」
 慌てて肉まんをぱくつく真琴。
「美味しい……」
「ああ、こっちも美味しいぞ」
 俺は板チョコをかじりながらそう言った。
 うん、ホワイトチョコっていうのも悪くないな。
「当たり前でしょ。真琴が選んだんだから」
 真琴がさも当然のように言った。
「はいはい」
 思わず苦笑を浮かべる俺である。さっきの微笑ましさはどこへやら、すっかりいつもの真琴であった。
「……あ、そうだ。ホワイトデー、楽しみにしてろよ」
 俺がそう言うと、途端に、また真琴の顔が赤くなる。
「べ、別に祐一のお返しなんか欲しくないけどっ、でも、くれるって言うんなら貰ってあげるわよっ」
 真琴は真っ赤になりながらそう言った。
(相変わらず素直じゃないよなぁ、真琴は)
 そんなことを考えながら俺は、そういや皆にもお返しをしなきゃいけないんだなということを思い出した。そうだ、天野にも何かお返しをしなきゃな……そこまで考えて、俺は思わず苦笑した。
(今年のホワイトデーは、大変なことになりそうだ……)





 こうして、相沢祐一の甘い一日は、その幕を閉じたのであった。
  <終>



あとがき?

どうも、夕凪です〜。
相変わらずへっぽこなSSばかり書いていますが…。
今回はバレンタインデーです。まぁ祐一君のバレンタインはこんな感じかな、と。
いいですね、たくさん貰えちゃって(笑)
でもお返しが大変そうです。

……そうそう、今回はほのぼの系(?)SSなので、例のジャムは出てきませんのであしからず(ぉ

それでは〜。

2001.2.28  夕凪


800のコメント
 Kanonのゲーム本編として設定されている時期(1月7日から1月末まで)が過ぎるとすぐ、バレンタインデーです。由来はともかく、今の日本ではチョコレートが贈答される日とされています。
 三十代半ばに至るまで義理チョコしかもらったことのない私から見れば、食傷するほど本命チョコをもらっている祐一は恨めしい羨ましい限りですが、もらえる者にはもらえる者なりの苦労がある、といったところでしょうか。
 そんな「チョコ責め」状態になって食傷気味の祐一が冗談めかして言った言葉に対して、美汐から語られた言葉は、このSSだけでなく夕凪さんのSS全作品の中でも、文句なしに圧巻だと思います。
 Kanonの女性キャラの中では地味な美汐ですが、祐一と同年配のキャラにこういう言葉を語らせるには、美汐以上の適役は見つけられないでしょう。その役を美汐に与えた夕凪さんの慧眼には、素直に脱帽します。
 そして、祐一に対する真琴の、屈折した振舞と心理の描写にも、Kanonの女性キャラの中では真琴が一番のお気に入りだという夕凪さんの本領が、遺憾なく発揮されていると思います。

(2004.11.22)

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