< 真夜中の逃走 >
襲撃は昇降口付近で起こった。
一瞬の浮遊感と、それに続く衝撃が突如襲いかかってきたのだった。
「……う……っ」
相沢祐一は薄れ行く意識を何とか繋ぎ止めようとした。
咄嗟には状況が把握できない。
一個上の先輩に当たる3年生の川澄舞といつも通りの夜食タイムを済ませたあと、先に帰ろうと昇降口までやってきて……不意に身体が持ち上げられたかと思うと、次の瞬間には廊下の壁に背中から叩き付けられていたのだ。
「……なんなんだ……?」
壁に背中をもたせかけた状態で座り込み、呟く。掠れたような声になっていた。
叩き付けられた背中が酷く痛み、全身に力が入らない。
(一体……何が起こったんだ……?)
朦朧とした意識の中でそう考えた時、唐突にギチッ……という耳慣れない音が祐一の耳に飛び込んできた。
祐一は瞬時に状況を理解した。意識が急速に覚醒してゆく。
(……魔物だ……!)
そう、家に帰ろうとしていた祐一は、夜の校舎から出ようとするまさにその寸前で、魔物の襲撃を受けたのだった。
思わず身を固くする。
何か武器はないだろうかと反射的に考える。寸鉄帯びていないことをいたく自覚した。もちろん、近くに武器になりそうなものは何一つ見当たらない。
ここは学校なのだから。
(まずいな……)
見えない魔物相手に、素手で勝てるはずなんかある訳がない。
(そうだ、舞に助けを……)
そう考えて立ち上がろうとした祐一の耳に、新校舎の方角……突き当たりの角を曲がった廊下の向こうから、金属音が聞こえてきた。
祐一はさぁっと血の気が引いていくのが分かった。
舞は魔物と戦闘中なのだ……いま俺を襲っている魔物とは別の魔物と。
(どうする?)
舞と合流すべきか?
それが俺にとってはベターな選択の筈だ。舞なら魔物を討つための武器……剣を携えている。魔物に勝てる可能性は高い。
しかし、俺が舞のもとへ向かうということは、必然的にいま俺の側に居るであろう魔物を一緒に連れてゆくことになる。二対一では舞も分が悪いはずだ。
ではこのまま、舞とは違う方向に逃げるべきか?
あまり考えたくはない選択肢だ。見えない魔物から到底逃げ切れるとは思えない。
もちろん、逃げている間に舞が対峙している一体を撃退し、俺を追っているもう一体を討ってくれるという可能性もなきにしもあらずだが……本当に俺がそれまで生き伸びられるかどうか、微妙なところだ。
魔物の襲撃に神経を集中させながら、祐一の苦悩は続いた。どうすればいい、どうすれば、どうすれば……?
苦悩が頂点に達しかけたとき、不意に祐一の視界の端を、白い人影のようなものがすっと掠めた。舞が戦っている方とは反対……旧校舎へ続く廊下の方だった。
(なんだ?……って、まさか)
白い人影に引っかかるものを感じ……なんとなく見覚えのある感じがした……祐一は思わずそちらの方へ顔を向けてしまった。
その一瞬のスキを、魔物は見逃さなかった。
祐一に向かって何かの『気配』が急速に近づいてくる。
(しまったっ!)
内心でそう叫びながら、しかし、祐一は振り返らずにそのまま前へ……旧校舎の方へ向かって走り出していた。
ずうぅんっ、という鈍い音が後方で響いた。目標を失った魔物の攻撃が壁を直撃したのだろう。
祐一は委細構わず、走り続けた。
旧校舎へ一階への廊下を曲がろうとしたその時、
「ばぁぁぁぁぁ〜っ!」
そんな間抜けな掛け声と共に、白い何かが角の向こうから飛び出してきた。
「…………」
祐一は思わず舌打ちしていた。
まさかもまさか、そのまさかってヤツだ、そう思いながら、その白い何か(恐らくカーテンだろう)を勢い任せに剥ぎ取る。
「あ……あぅ〜っ」
案の定、白いカーテンの下から出てきたのは、祐一の家(正確には、祐一の住んでいる水瀬家)に居候している自称記憶喪失の少女、沢渡真琴だった。
「やっぱり真琴かっ! どうしてお前がこんな時間にこんな所にいるんだ!?」
「な、何よぅっ! せっかく祐一をまたまたショック死させようと思ったのにぃ!」
「バカ! それどころじゃねぇっての!」
祐一は頬を膨らます真琴の手を掴むと、そのまま廊下を走りだした。急に引っ張られた真琴が、被っていたカーテンをその場に放り出してしまう。
「あっ、カーテンが……」
「そんなのは後でいい!」
祐一は気が狂いそうだった。最悪の状況だ。見えない敵に悪戯少女。俺は真琴を連れた状態で魔物から逃げなければならなくなった。
「ちょ、ちょっと、痛いよ祐一、引っ張らないでよ! 手、放してよぅ!」
「うるさい! いいから、走れっ」
「もう! 一体何なの……」
言いかけた真琴が不意に口を噤んだ。
不思議に思った祐一が後ろを振り返ると、さっき放り出したカーテンが、空中に持ち上げられ、滅茶苦茶に引き裂かれる光景が視界に飛び込んできた。
「な………」
突然の非現実的な光景に、真琴が言葉を失う。
「マズイなー、あれ弁償とか言われたらどーしよ……」
思わずとぼけたような口調で言う祐一に、
「ゆ、祐一……い、いまの……何……?」
真琴が震える声で訊いてきた。本能的に危険を感じているのか、それとも目の前で起こった不可解な現象に恐怖しているのか……あるいはその両方か。
「だから、魔物なんだって。名雪に言っといたはずだけどな。魔物と対決するって」
実際対決するのは俺じゃないんだけど。
「ま、魔物って……ええ〜ッ!?」
「後で話してやるから、いまは逃げるのが先決だ!」
怒鳴るように言いながら、祐一は階段を駆け上がった。もちろん、手を引っ張られている真琴もそれに続いた。
まだまだ夜は更けてゆく。
長い長い逃走劇の、それが始まりであった。
☆
旧校舎は家庭科室や美術室などの、いわゆる特別教室が多く存在する校舎である。
祐一が最初に飛び込んだのは、二階の一番奥にある教室、図書室だった。
真琴と一緒に閲覧机の下に潜り込み、魔物が追ってきていないことを確認すると、祐一はフーと安堵の溜息をもらした。
「ねぇ、祐一っ……」
「ば、バカ。もうちょっと小さな声で喋れよっ」
いつものように訊いてくる真琴を小声で窘める祐一。
「魔物に気付かれたらどうするんだ」
「あ、ゴメン……それで、その『魔物』ってなんなのよぅ?」
真琴が囁くような声で訊いてきた。
「実は……」
言いかけて、祐一はふと、魔物の正体について全く知らないことに気が付いた。
「……俺にもよくは分からないんだ」
「なっ!……」
思わず大声を上げそうになった真琴が、慌てて自分の口を塞いで辺りを見回してから、「……何よ、ソレ……」と小声で抗議した。
「俺にも正体はよく分からない。ただ、この学校……夜の校舎に現れて……」
そして舞と戦いを繰り広げている……筈だったんだけどなぁ……どうして俺が襲われてるんだろう? まぁ、囮だから仕方ないっていえば仕方ないんだけど。
「夜の校舎に現れて、何なのよぅ」
真琴が先を促す。
「うーん……夜の校舎に忍び込む生徒を夜な夜な襲撃してるみたいだな」
「ええええーっ!!」
大声を上げた真琴の口を反射的に手で塞ぐ祐一である。
「バカ! 魔物に気付かれるだろうが!」
魔物、という言葉にハッとなる真琴。
「ご、ゴメン祐一……」
溜息をつく。まったく、どうしてこいつはこう次から次へと厄介事を抱えてくるのだろうか。
「大体、どうしてお前がここにいるんだよ」
「え?」
と目を丸くした真琴が説明を始める。
「だって祐一が出ていくのが見えたから、こっそりと後を付けて……」
「驚かそうと思ったんだな?」
「ううん、違うよ。コンビニに肉まんでも買いに行くのかなぁー、って」
……こいつの肉まんへの想いには感服する。俺はこの寒空のもと、夜食に肉まんを買いに行こうだなんて思わないんだが……。
「そしたら、コンビニでおにぎり買って学校へ入っていくのが見えたから……」
「いつぞやみたいにどっかの教室からカーテンを分捕ってきて、俺が来るのを待っていたと?」
祐一の言葉にこくり、と真琴が頷く。
「あの女の人と別れて、一人になるのを待ってたの」
「……」
そう言えば、前回は舞に見つかって阻止されたんだったな。
「今度こそ、祐一への復讐、上手く行くはずだったのぃ!」
「はぁー」
大きな溜息が出た。復讐どころじゃないんだぞ真琴? もしかしたら、俺たち二人はここで魔物に襲われてジ・エンドになるかもしれないんだぜ?
「あのなぁ……」
と祐一が言いかけたとき、不意にガラガラッと図書室の扉が開け放たれた。
二人は思わず身を固くした。
ひょっとしたら、騒ぎに気付いた当直の先生が見回りに来たのかもしれない……あるいは、対峙していた魔物を撃破した舞が俺たちを助けにきてくれたのかも……祐一はそういう希望的観測を抱きつつドアの方に注目した。
残念なことに、そこには誰の姿もなかった。
しかし、祐一は聞き逃さなかった。
微かに、ミリッ……という音が聞こえたのを。
警備員などではない。
魔物だ。
「真琴……逃げるぞ」
「えっ? どーして……」
真琴が言い終えるよりも先に、本棚の本が空中に舞い始めた。目に見えない何かに、放り出されているような感じだった。
どうやら魔物は、まだこちらには気付いていないようだ。
「行くぞっ!」
「あぅーっ」
魔物に気付かれるよりも早く、祐一と真琴は図書室を飛び出していた。
☆
次に祐一たちが飛び込んだのは、二階の中で階段に一番近い教室……音楽室だった。
ピアノの下に潜り込み、息を潜める。
魔物が追っかけてくる気配はない。
「祐一……」
「何だよ」
「あの魔物って……やっぱりあたしたちを狙ってるの?」
「まぁ、この状況から推測して間違いないだろうな」
少なくとも、俺が狙われているのは間違いない。何しろあの舞をして「囮」と言わしめるほどなのだ。きっと魔物を引き寄せる何かを俺が持っているのだろう。迷惑な話だ。
そして俺と一緒にいる以上、真琴も狙われる可能性が高い。……ならば、真琴単独なら魔物は真琴を襲わないだろうか?
試してみるにはリスクが大きすぎるような気がした。
祐一の言葉に、真琴の顔色が青ざめる。
「ど、どうして? 真琴、なんにも悪いことしてないのに……」
「別にお前のせいじゃない」
まぁ、強いて言えばお前が俺に復讐しようとしたのが悪かったんだが。
「魔物なんかがいるこの学校の方がオカシイんだよ」
「でもでもっ、どうして……それに真琴、この学校の生徒じゃないよ……」
「生徒じゃなくても襲うのかもしれないなぁ……」
魔物についての情報見積もりを訂正しようと祐一は思った。あの魔物は、夜の校舎の中にいる人間なら誰でも襲う可能性有り……と。
舞にもそう言っておかなきゃ。
「あぅー……」
真琴が俺の腕をぎゅっと掴んできた。震えている。
まるで怯える子猫のようだ。
「大丈夫だ。俺がなんとかしてやるから」
祐一は真琴を安心させようと思い、そんなことを口にしていた。
もちろん嘘ではない。
ここで真琴に万が一のことがあれば、秋子さんや名雪が悲しむことは分かっている。
秋子さんは真琴を自分の本当の子供のように可愛がっているし……名雪も実のところは妹が出来たみたいで喜んでいる。
それに、目の前で真琴が襲われでもしたら、俺は自分を許せないだろう、と祐一は思った。真琴は既に、家族の一員なのだから……例え俺に悪戯ばかりしていても、だ。
「だから、いいか、真琴。絶対に俺から離れるなよ」
祐一は真琴の目を見ながら言った。
「分かったな?」
「……ど、どうしてよぅ」
しかし、真琴は何故か反発するような態度を見せた。
「どうしてって……危ないからに決まってるだろ」
「ゆ、祐一なんかに助けて貰わなくっても、真琴は一人で大丈夫だもん」
「あのなぁ……」
祐一は呆れてしまった。こんな時に、何を意地張ってるんだ、こいつは?
大体、人の腕をぎゅっと掴んでおいて……強がりにも何にもなってないぞ、それ。
「お前、魔物に襲われたらどうすんだよ?」
「走って逃げられるわよぅ」
まぁ、確かに逃げ足だけは早そうであるが……。
「あのなぁ、いまは意地張ってる場合じゃないんだっての。ったく子供じゃあるまいし、俺の言うことを聞けよ」
「何よぅ! 子供子供ってバカにしてぇ! 祐一の言うことなんか、ぜーったいに聞かないんだからっ!」
言うなり、真琴はピアノの下から抜け出て、音楽室を出て行こうとした。例によって、頭に血が上ると周囲の状況が全く見えなくなるようだった。
「ば、バカ! 本当に危な……」
「べーっ、だ!」
舌を出して勢いよくドアを開ける真琴。
夜の闇に包まれた薄暗い廊下がドアの向こうに見渡せる……
「……っ!」
瞬間、祐一は冗談でなく全身の血が凍り付くような感覚を覚えた。
ドアの向こうの風景が一瞬、揺らいだような気がしたのだ。
「じゃーね、バイバイ、祐一!」
忍び寄る魔物の気配と祐一の表情の変化に気付かず、ぶっきらぼうに真琴が言った。
「待て! 真琴っ!!」
咄嗟にそんな言葉が口をついて出た。
「何よぅ……」
不満げに振り返る真琴。その背後の空間が、陽炎のように揺らいで見えた。
(危ない!)
思考するより先に身体が動いていた。ピアノの下から飛び出し、真琴の腕を引っ張るようにして廊下に飛び出す。
「わっ……」
急に引っ張られた真琴が驚きの声を上げるのと、ほんの一瞬前まで真琴が立っていた所が、ずんっと音を立てて震えた。
「走れ!」
祐一は真琴の腕を掴んだまま走った。また違う教室に隠れる必要がある。
背後からはどういうことかピアノの鍵盤を滅茶苦茶に叩く音が聞こえてきた。魔物なりに悔しさでも表現しているのだろうか?
(壊れなきゃいいが……)
祐一は階段を駆け上がりながら、そんなことをふと思った。
さて、今度は何処に隠れよう。
「ゆ……祐一……さっきの……」
震える声で真琴がそう訊いてきたのは、三階の踊り場まで来たときのことだった。
「ん?」
足を止めて振り返る。
「さっきのって……ひょっとして……」
「ああ、魔物みたいだな。まったく、本当に危ないところ……」
だったんだぞ、そう言いかけた祐一の耳に、出し抜けにミシッという耳障りな音が聞こえてきた。
……真上から。
「!」
反射的に祐一は天井を見上げた。
何も見えなかった。蛍光灯が頼りなさげな光を放っているだけだった。
(しまったっ! フェイントか?)
違う方向から魔物の気配が急速に近づいてくる。回避する余裕はなさそうだった。
(逃げられない……!)
祐一は真琴の身体を庇うようにぎゅっと抱きしめた。次の瞬間、祐一は見えない何かの体当たりを食らって、数メートル宙を飛んだ挙げ句に壁に叩き付けられた。
今宵二度目である。
背中から叩き付けられ……さっきとは違って、真琴を庇っていた為二人分の衝撃だった……祐一は一瞬呼吸が出来なかった。
「ぐっ……」
歯を食いしばって痛みを堪える。
「真琴……大丈夫か……?」
祐一の腕の中で、真琴がこくりと頷いた。びっくりしたような表情だ。
「ゆ……ゆういち……」
「だから言っただろ? 危ないって……」
情けなくも声が掠れてしまっていた。
「……ごめん……祐一……」
真琴が素直に謝った。
「ああ……頼むからさ、今日だけは俺の言うことを聞いてくれよ……絶対に、俺がお前のことを守ってやるからさ」
「え……?」
「絶対に、みんなのところに帰してやるからさ、だから……な?」
暫くしてから、真琴はほんの少しだけ、頷いた。少し頬が赤くなっている。
「……うん……分かった……じゃあ、いまだけ休戦」
「出来ればずっと休戦の方がいいんだけどな……」
そんな軽口が出るほど、ようやく回復してきた。実は、背中の痛みが酷くて、話すのもやっとだったのだ。
未だに奇妙な……恐らく魔物だろう気配がする。例の音が聞こえてくる。
まだ危機は脱していないのだ。
そして困ったことに、助けると真琴に宣言してみせたものの、祐一には何一つ良いアイデアなどないのだった。
(まず第一の問題は、どうやってこの場を逃げ出すかなんだけどな……)
祐一は辺りを見回した。踊り場の壁の、赤い光が目に止まる。
『火災報知器』
そこにはそう書かれていた。
なるほど。ここでボタンを押せば非常ベルが鳴り響いて近所の消防署から消防車が駆けつけてくるだろう。大勢の人間が駆けつければ、魔物も多勢に無勢を悟って逃げ出すかもしれない。
しかし……そんなことをしたら大変なことになるだろう。実際に火災が起こっていない以上、バレてケーサツ沙汰とか新聞沙汰になると厄介だ。
(ボツだな)
そう思った祐一の目に、今度は違う文字が飛び込んできた。
その赤い光の直下だった。
『消火器』
(……これだ!)
祐一は真琴の身体を放すと……不安そうな表情の真琴に階段の方へ行くように指示をして……ゆっくりと、周囲に気を配りながら消火器の方へ近づいていった。
廊下の方からミシミシと音が聞こえてくる。魔物は廊下の方にいるらしい。よし、好都合だ。
祐一は粉末消火器を掴むと、安全ピンを引っこ抜いて、ホースを構えた。
「真琴、一階まで走れ!」
叫ぶや否や、祐一は取っ手をぎゅっと握りしめた、ホースから勢いよく消火剤が吹き出し、三階の廊下を白く覆った。
「あ、あぅーっ!」
真琴が階段を駆け下りてゆく。祐一はホースを上下に左右にと振り回し……視界は完全に白一色になっている。
予想通りだ。
祐一は内心でほくそ笑んだ。魔物を煙に巻いたという自信があった。彼は、消火器を煙幕代わりに使ったのだった。
祐一は空になった消火器をその場に放り出して、自らも階段を駆け下り始めた。
背後に全神経を集中しながら、真琴の後を追う。魔物の気配はない。
よしっ、このまま逃げられそうだ……。
そんなことを思った次の瞬間、階段を駆け下りた真琴が体勢を崩したのが見えた。
「あぅ〜〜〜っ……」
なんか間抜けな悲鳴が聞こえたなと考えるより先に祐一は叫んでいた。
「真琴!」
一階の踊り場に、真琴は倒れていた。慌てて足でも縺れてしまったのだろう。見た感じでは二、三段分ぐらい落っこちたようだったが。
「大丈夫か、真琴……?」
返事がない。
真琴は気を失っていた。頭を打ったようではないのでひとまず安心する。外傷があるようでもないので、もう一つ安心する。
単に恐怖の連続で気を失ってしまっただけらしい。
「まったく、本当に次から次へと厄介事を……」
苦笑しながら、祐一はどうしようかと思案した。もうちょっとで、無事に夜の校舎から脱出できるのだ。真琴を抱えてでも逃げなければならない。
気を失った少女の小柄な身体を抱き上げようと、祐一がしゃがみ込んだ、その瞬間だった。
目に見えない魔物の一撃が、彼に襲いかかったのは。
☆
一瞬、あるいは数秒間、気を失っていたらしい。
気が付いたとき、祐一は俯せの状態で真琴の横に倒れていた。
咄嗟に起きあがろうとした祐一の全身に激痛が走る。
「ぐぁ……」
情けない声が上がる。腕さえ上がらない。
冷たい、凍りつくような廊下に這いつくばったまま、祐一は周囲を見回そうとした。
見回すまでもなかった。
すぐ目の前に、魔物の気配が感じられたのだ。
風景が揺らいでいる。陽炎のように見えるそれは、しかし、この極寒の地ではまさしく異常な現象と言えた。
(ダメだ……今度こそ逃げられない)
痛みと絶望のためか、意識が朦朧としてくる。
その朦朧とする意識の中で、祐一の心に湧き起こったのは、死に対する恐怖ではなく、自分の隣で気を失っている少女を助けられそうにないことに対する悔しさだった。
(……くそ……俺は……真琴を…守れないのか……っ?)
薄れてゆく意識の中で……誰かのか細い声が聞こえてきた……ような気がした。
『……違う……』
幼い女の子の声だった。
『……まいは、こんなことを望んでるんじゃないのに……』
声は寂しそうな、悲しそうな響きを帯びて祐一の脳裏に響き渡った。
(誰……だ……?)
祐一がその声に対して意識を集中しようとした、その時だった。
不意に、目の前を一条の光が真横に流れた。
瞬間。
ずうぅん! と目の前の空間が歪んだ。
「な……!」
驚く暇もあらばこそ。
光は次いで縦に流れ……しかし、今度はなんの衝撃もなく、空を切っただけだった。
祐一は光の正体に気付いた。
と同時に、眼前で繰り広げられた光景を理解した。
「…………大丈夫か?」
案の定、聞き慣れた声が掛けられた。
祐一は顔を上げて、声の主……一撃目は目標を捉え、二撃目は空振りに終わった剣を下ろした舞に向かって言った。
「ああ、見ての通りだが、何とか生きてはいるみたいだな」
「…………祐一じゃない」
舞は気を失っている女の子……真琴の方を見ていた。
「ああ、こいつは大丈夫だよ。多分、ちょっと気を失ってるだけだから」
「…………そう」
相変わらずの無表情。しかし、舞が二人を心配していることだけは分かった。
ようやっと、痛みが取れてきた祐一はゆっくりと……時々呻き声を漏らしながら……立ち上がった。外傷はないようだった。
「…………ピアノの音がしたから」
不意に舞がそう言った。
「だから旧校舎に来た。最初に音楽室へ行って……二階から降りてきたら、祐一とこの子が倒れていた」
「ああ、そうだったのか」
祐一は頷こうとして、
「ところで、そっちはどうなったんだ?」
と訊ねた。舞が不思議そうな表情を浮かべる。
「そっちも魔物と交戦中だったんだろ?」
「…………」
舞は一瞬考えるような表情を見せ、
「…………取り敢えず撃退した」
そう答えた。
「今のヤツは?」
「…………手負いにした」
「そっか……魔物2体を撃退と、まぁ、大戦果だな」
祐一はそう頷いてから、
「ところで、魔物って、俺とか舞を狙ってるんじゃなかったのか?」
「……狙われてた」
舞が祐一と自分を指差しながら答える。
「違う、こいつも一緒に狙われたんだ」
祐一は未だに気を失ったままの真琴を指差した。
「ひょっとしたら魔物にとっては、俺たち以外にも、夜の校舎を訪れる人間はみんな標的……なんてことはないだろうな?」
舞は暫く考えてから首を横に振った。
「…………分からない。ただ……」
「ただ?」
「最近の魔物の活動はとても活発だ」
「……」
「祐一も、覚悟しておいた方がいい」
「囮としてか?」
「囮として」
あっさりと頷いた舞が、思わす落ち込んだ祐一の顔をじっと見る。
「どうした?」
「…………時間はいいの」
「時間?」
祐一は近くの教室の時計に目をやって、ぎょっとなった。
「やっべ! もう日付が変わる時間じゃないか……」
秋子さん、まだ起きてるんだろうか? 絶対に怒られそうだ……。
「じゃあ、舞。俺たちもう帰るわ。助けてくれて、ありがとな」
こくり、と頷くかと思えば、舞はちょっと考えるような表情になったあと、
「……正門まで送る」
そんなことを言った。
「護衛してくれるのか?」
「心配だから」
舞は真琴の方を見て言った。
「それって、俺が魔物に襲われるのはいいけど、こいつが襲われるのは見捨てておけないってことか?」
「……そうじゃない。二人とも心配だ」
「分かってるよ」
頷いた祐一は、恐縮したような表情をつくって、頭を下げた。
「それでは、護衛よろしくお願いします、川澄先輩」
ぽかっ。
チョップが炸裂した。
「……舞でいい」
「はいはい。分かってますよ」
目を覚まさない真琴をおんぶしながら、祐一は舞に護衛され校舎から出た。
「今日はもう帰るんだろ?」
こくり、と舞が頷く。
「お疲れさん」
そう言うと、
「祐一も、頑張った」
舞はぽつりとそう言った。
誉めてくれたのだろうか……俺が真琴を守りきったことを。
「ああ……じゃ、また明日な」
祐一は正門の所で舞と別れ、夜の学校を後にした。
そして、大慌てで家路を急いだのだった。
☆
「まったく……ヒドイ目に遭ったぜ」
おんぶするより抱っこした方が楽だということに気が付いた祐一は、真琴の身体を抱きかかえながら歩いていた。
「こんなところを警察に見つかったら、即補導だろうな」
しかもこいつは身元不明の家出少女だしな……今は俺たちの家族だけど。
「ホント、良かったよ、無事で」
眠ったままの真琴の頬にそう呟く。
「ったく。お前にもしもの事があったら、秋子さんや名雪……俺たちみんなが悲しむんだからな」
「……ゆういち……」
「ん? 目が覚めたか?」
しかし真琴はまだ眠ったままだった。どうやら寝言らしい。
「…………助けてくれて……ありがと……」
どうせなら寝言じゃなくて面と向かって聞きたいセリフだよなと祐一は苦笑した。
「………………二度目だね……真琴を助けてくれたの……ゆういち……」
「ああ?」
二度目ぇ? どういう夢を見ているんだ、こいつは……?
そう思いながら、祐一は、くーくー寝息を立てる真琴を抱えて足早に彼らの帰るべき場所……水瀬家への道のりを進んでいった。
驚いたことに、水瀬家のダイニングにはまだ明かりが灯っていた。
「お帰りなさい、祐一さん、それに真琴……」
秋子さんに、ごく普通に暖かい笑顔で迎えられて……祐一は一瞬、何と答えたらいいのか分からなかった。
そして、ごく当たり前の返答を返したのだった。
「ただいま、秋子さん……遅くなりました」
そう答えながら、祐一は、ようやく自分の日常に戻ってきたのだと、長い夜を振り返りながら心の中で呟いた。
(終)
(あとがきらしいもの)
どうもです。夕凪です。
一応1000HIT記念SSなんですが、内容は1000HITとは全然関係ありませんのであしからず(ぉ
まぁ何と言いますか、最初は祐一が一人で校舎の中を逃げ回る予定だったんですが、ふと気が付いたら真琴が祐一の後を付けておりまして、まぁこんな話になった次第でございます。
舞が恐いので、祐一が帰ろうとするまで待っているあたり、彼女にも進歩がうかがえると言ったところでしょうか(笑)
例によって拙作ですが、読んでいただければそれだけでも嬉しいです。
でわでわ。
2001.09.30. 夕凪