春分の日……
この雪の街にも、ゆっくりとではあるが、しかし着実に春が訪れようとしている。
そう。
色々なことがあった冬も、もう終わりを告げようとしているのだった。
☆
3月も中旬から下旬にさしかかろうとしている。
今年の始めまで相沢祐一が生活していた街は、既にまばゆいばかりの緑色に包まれ、そのあちこちで淡いピンク色が目に付くようになり始めたという。
もちろん、今彼が住んでいる街ではそんなことはない。桜の花が見られるのはもう少し先の話になるだろう。
しかし、春の気配が全くないかというと、そんなことはない。
白一色だった街のあちこちでは、茶色の部分が見られるようになり始めている。雪が溶け、大地が太陽の下にようやっと顔を覗かせるようになったのである。
緑色、黄緑色も街を彩り始めている。風の中にも、微かに土の匂いを感じることができるようになった。
一歩一歩、この街も、春に向かって歩んでいるのだった。
「だいぶ、暖かくなったな……」
そんなこと思った春分の日、俺……相沢祐一はふと街へと繰り出した。
何か用事があったわけではない。ただ、雪解けの始まった商店街をぶらついてみるのもいいかと思ったのだ。
途中で会ったあゆとたい焼きを食べて、香里と連れ立って歩く栞をからかい、保育所の手伝いをしている真琴のために肉まんを何個か見繕ったあとに……今日も部活に出ている名雪にイチゴショートでも買っていってやろうかと考えていた時、
「ん?」
ふと、見覚えのある女性の姿が目に入った。
「…………?」
最初は誰だろうかと思った。
彼女の私服姿を見たのは初めてだったし、一人で歩いている姿も珍しかったからだ。
でもそれは、間違いなく佐祐理さんだった。
だが、いつも一緒にいる舞の姿は、今日はどこにも見当たらない。
どうしたんだろう。
それに、手に持っているあの花束は一体なんだろう?
思わず考え込んでしまう。
(はっ! まさか……これはひょっとして、逢い引き、俗に言う「デート」というヤツなではないのか!?)
俺は自分の行き着いた結論に思わず混乱してしまった。
(まさかそんな……あの佐祐理さんに限ってっ!)
しかし、デートでないとするとあの花束は何なのだろうかということになる……やや地味な感じの花束だが、やはりプレゼント以外には想像できない。となると、やはりデートに間違いないのか。
(……だが待てよ? デートに花束って、普通は男の方が用意するもんだよな……?)
となるとデートではないのか。
(ひょっとしたら病院にお見舞いに行くとか?)
実は舞が緊急入院してしまって、佐祐理さんはお見舞いに行く途中だとか。
(いやしかし……もし舞が入院なんかした日には、佐祐理さんは付きっ切りで看病とかしていそうな感じだし)
大体、あの舞が簡単に病気になんぞなるはずがないだろう。
ううむ、ものすごく気になる。
(ここは一つ、さり気なく訊いてみるかぁ)
俺は後ろからそっと近づいていって、
「さーゆーりーさん」
ぽんぽんと肩を叩くと、佐祐理さんはちょっとびっくりしたように振り返って、
「はい?……あ、祐一さん。お久しぶりですねーっ」
「お久しぶり。どうしたの今日は? 珍しく私服なんか着ちゃって……」
質素と言って差し支えないような服装だった。でも、それがかえって楚々とした雰囲気に合っていて、いい感じなんだけど。
すると、佐祐理さんはぱっと笑顔を浮かべて、
「あははーっ。祐一さんヘンなこと聞いてますよ? 佐祐理は、先日高校を卒業したんですから、これからはずーっと私服ですよーっ」
「いや、それはそうなんだけどさ」
相変わらず会話がずれているような感じだった。
「ところで、舞はどうしたの? 今日は一緒じゃないんだ」
ほんの一瞬だけ、佐祐理さんの笑みに影がさした……ように見えた。
「舞は、今日はアパートでお留守番です」
「ああ……二人で暮らし始めたんだっけ?」
「はい。来年からは祐一さんもご一緒ですよー」
「え? はは……何か照れるな、そう言われちゃうと」
俺はぽりぽりと頭を掻いた。三人で一緒に生活すること……それが俺たちの共通の夢であり、願いだった。
「そんなに照れなくてもいいですよー。舞の好きな祐一さんは、佐祐理だって好きなんですからー」
微妙な言い回しだった。
もし舞に嫌われたら、佐祐理さんにも捨てられることを意味しているのだろうか?
「……それで、佐祐理さんは何処かにお出かけ?」
「ええ……そうです」
頷く佐祐理さん。
「お天気もいいですし、散歩を兼ねて出掛けようと思ったんです」
「ふ〜ん……ね、俺もついていっていいかな?」
「はい?」
突然の申し出に、目を丸くする佐祐理さん。
「せっかく偶然こうやって出会ったんだからさ、一緒に散歩したいなぁって」
「……えーと」
はぇ〜、困りましたぁ、という感じである。
「でも……佐祐理なんかと一緒にお散歩しても、きっとつまらないと思いますよ」
「そんなことないって。きっと楽しいよ」
「でも……目的の場所まで、まだかなり歩かなければなりませんし」
「いいよ、今日はヒマだから」
肉まんは冷めるかも知れないが蒸し直せばいいだけの話だ。
「でも……今日はお弁当を作ってきていませんし……お腹がすいてしまいます」
「ああ、朝御飯食べたの遅かったから、まだ腹は減ってないよ」
空腹に耐えられなくなったときは冷めた肉まんを頂くまでの話だ。
「でも……やっぱり佐祐理のプライベートなことですから、祐一さんにはつまらないと思いますよ」
「……」
プライベート……。やっぱりそうなのか? デートなのかっ!?
「……佐祐理さん……俺がついてくると、やっぱり邪魔かな……」
卑怯な質問だなと思いつつも、俺はそう口にしていた。
「…………」
はぇぇ〜……完全に困りましたぁ、という表情を浮かべる佐祐理さん。
舞だったら間違いなく「邪魔」と斬って捨てるだろう。
しかし、佐祐理さんがこの質問にNOと答えられないであろうことを、俺は知っていたのだった。
案の定、
「邪魔なんてことはありませんけど……」
「うん。じゃあ決まり!」
俺は強引に押し切った。
佐祐理さんは困り果てたように暫く考えていたようだったが、
「それでは、祐一さんと佐祐理の二人で、お散歩ですよ〜」
と笑顔で言ってくれたのだった。
「じゃあ、佐祐理について来て下さいね」
「行き先は決まってるの?」
「はい……」
そう答えた佐祐理さんの声が少し沈んでいるような気がしたが、表情はいつもの笑顔だった。
☆
それから、俺と佐祐理さんは郊外へ向けて歩き続けた。
このまま歩いていくと、いずれはものみの丘まで行ってしまうのではないだろうか、そんなことを考えたときだった。
不意に佐祐理さんが立ち止まり、俺の方を振り返った。
「着きましたよ〜」
「え……あ……あれ……?」
俺は思わず怪訝そうな呟きを漏らしていた。
その場所は、俺の想像していた場所とは全然かけ離れていた……というよりは、全く想像だにしていなかった場所だった。
佐祐理さんは俺の様子に全く気付かないのか、すたすたと門をくぐってその中に入って行く。俺も若干気後れしながら、その後に続いてその門……お寺の門をくぐって中に入った。
俺は周囲を見回した。
老若男女……様々な年齢の人間が、恐らく普段であれば人影も滅多に見られないであろうそこを訪れていた。
まだ生まれたばかりの赤ん坊を抱いた母親。
わいわいと走り回る子供を窘める若い両親。
俺と同年代だろう少女と肩を並べて歩いている父親。
そして、すっかり老いさらばえた夫婦……。
(……ああ、そうか)
俺は思いだしていた。
(今はお彼岸の真っ最中なんだ)
確か今日、春分の日はお彼岸のお中日だったはずだ。
そんなことを考えつつ、俺は佐祐理さんの姿を追いかけるように参道を歩き出した。
参道の脇には小さなテーブルが出ており、お線香や卒塔婆を求める小さな列が出来ている。その向こうに、比較的小さいと表現していいだろう本堂。そして、その左手に広がるたくさんの墓石……。
佐祐理さんはそちらの方へとどんどん歩いて行く。いつの間にか、その手には花束だけでなくお線香と水の入った桶も握られていた。
やがて、佐祐理さんがぴたりと歩みを止める。
そこには、他のものと対して変わらない、ごく普通の墓石が立っていた。
「佐祐理さん……」
「ここは、我が家のご先祖様が眠っているお墓です」
いつになく冷たい感じがする佐祐理さんの声。
「そして……この世でたった一人、佐祐理が名前を呼び捨てで呼んでいた男の子も、ここに眠っています」
「……!」
言われるまで気が付かなかった。
完全に忘却していたのだ。
佐祐理さんの弟……一弥のことを。
つまり……。
佐祐理さんは今日、お墓参りのために、花束を持ってここに向かっていたのだ。
(…………)
俺は自分のバカさ加減にほとほと呆れ返る思いだった。
デートだなんてとんでもない。
それに、誰かと一緒に訪れても楽しい道理がなかった。いや、むしろ一人で静かに訪れたい場所であろう。舞がいなかったのはそういう理由だったのだ。
「…………」
思わず硬直してしまった俺を顧みることなく、佐祐理さんはてきぱきと動き始める。
桶の水で墓石の汚れを洗い流し、お線香と花束を添えると……静かに黙祷を捧げた。
「…………」
俺もそれに倣い、黙祷した。
暫くの沈黙。
聞こえてくるのは、木々のざわめきと、子供達のはしゃぎ回る声だけだった。
どのぐらい経っただろうか。
「……祐一さん、前にお話ししましたよね。一弥のこと」
黙祷を終えた佐祐理さんが俺の方を振り返って、唐突にそう訊いてきた。
「ああ。……病気で亡くなった弟さん、だよな?」
俺はほんの僅かに躊躇しながらそう答えていた。
佐祐理さんはこくりと頷いた。
「一弥はいつも独りぼっちで……最後の方は病室のベッドで寝ているだけでした。誰とお喋りすることもなく、誰と遊ぶこともなく、ただそこで衰えていくだけだったんです。
そして、一弥は息を引き取りました」
その声は奇妙に冷たくて、俺は普段と全く異なる佐祐理さんの様子に、ただ黙って話を聞くことしか出来なかった。
というか、言葉を挟むことが、何故か許されないような気がしていた。
それ程までに、淡々と語る佐祐理さんには何かしらの『迫力』が感じられた。
「佐祐理が自分の犯してしまった過ちに耐えきれずに……手首を切ったこともお話ししましたよね?」
俺は黙って頷く。佐祐理さんの左手首には、その傷がまだ残っているはずだった。
「あの時、もう少し深く切っていれば、今頃は佐祐理もここに眠っていたかも知れませんね」
「…………」
「退院したあと、佐祐理は年に二回、一弥の眠るこの場所を訪れるようになりました。お父様とお母様は『先祖のお墓参りに行くのは良いことだ』と言ってくれていますが、佐祐理にしてみればただ、一弥に会いに来ているだけに過ぎません」
「……会いに来てくれるだけでも、弟さんは嬉しいんじゃないか?」
ようやっとの事で、俺はそう言葉を挟んだ。
しかし、佐祐理さんは少し考えた後に、
「そうでしょうか?」
そう言い、俺の方を見た。全く感情の篭もっていない瞳で見つめられ、俺は思わず息を飲んだ。
「……毎年、春と秋にここにやってくるのも、本当は佐祐理の自己満足に過ぎないのかも知れません」
全くの無表情だった。
普段は明るい佐祐理さんだけに、その無表情さ加減が非常に恐い。
「こうやって、一弥が死んだ後まで、良い姉を演じようとしているだけです。……こんなことをしても、あの子はきっと喜んではくれないのに」
その時、初めて佐祐理さんに表情が現れた。
それはまったく自虐的な微笑みで、俺は一瞬背筋がぞくりとするのを感じた。
「そう。佐祐理はこうすることで、一弥に許してもらおうとしているんです。
これは、佐祐理の、一弥に対する懺悔なんです……でも、佐祐理は知っているんです。こんなことで、一弥が許してくれるはずがないことを」
それはつまり、永遠に許されることはないということなのだろうか。
一生かけても許されることがないような大罪を犯してしまったということだろうか。
一弥の死に対して、佐祐理さんは一生償っていかなければいけないということなのだろうか。
佐祐理さんは、噛みしめるように繰り返した。
「あんなに酷い仕打ちをした佐祐理を、絶対に許してくれるはずがありません」
「……それは、違うと思うな」
はっ、と気が付いたときには、その言葉が口をついて出てしまっていた。
佐祐理さんが、不思議なものを見るような目で俺の方を見ていた。
「何が違うんですか、祐一さん」
「あ……えっと……」
俺は言葉に詰まった。
俺の個人的な見解を述べてしまっていいものだろうか。
都合の良い思い込みに過ぎない幻想を、口にしてしまっていいのだろうか。
でも……。
ここで俺は言うべきなのかも知れない。
もし本当に、佐祐理さんが懺悔のためだけに、ここに訪れているのだとしたら。
そんなことは佐祐理さんと一弥の二人にとって不幸なだけだ。
佐祐理さんが幸せにしてみたいと言っていた舞は、もう充分幸せになれたはずだ。佐祐理さんという無二の親友、そして俺という戦友を得ることができたのだから。かけがえのない存在を得ることができたのだから。
そうであるならば。
次は佐祐理さんが幸せになるべきなのだ。
佐祐理さんはもう充分罪を償っただろうし、自分の死によって姉が縛られているということは、弟の一弥にとってもきっと好ましくはないはずだ。
それに……。
俺は佐祐理さんを幸せにする手助けがしたい。俺が佐祐理さんを幸せにできるとは思っていない。そこまで自惚れてはいない。
ただ、その手助けぐらいはできる、そう思うのだ。
だから、
「佐祐理さんは何か勘違いしてるよ」
俺は意を決して口を開いた。
「一弥は佐祐理さんのことを恨んでなんかいない。もちろん憎んでもないさ」
「どうしてそんなことが言えるんですか?」
佐祐理さんの口調が、珍しく硬く感じられた。
「厳しく躾るためにあんなに酷い仕打ちをして、そのせいで言葉を失い、皆に虐められ、ただ病院のベッドで過ごすだけの人生を与えてしまった佐祐理のことを、一弥が憎んでいないはずがないじゃないですか?」
「確かに、佐祐理さんが一弥のためを思ってやった行為は裏目に出たと思う。幼い子供には、躾が将来のためになるっていうことは分からなかったと思う」
「それなら……」
「でもさ」
俺は佐祐理さんの言葉を遮るようにして続けた。
「一弥は分かってたと思うんだ。佐祐理さんがいいお姉さんだったってことを。本当は、とっても優しくて、明るくて、素敵なお姉さんだってことを」
「いい加減な事言わないで下さい!」
突然、佐祐理さんの大声が聞こえた。
「どうしてそんなことが言えるんですかっ?」
「あ……」
俺は、予想だにしない反応に思わず言葉を失ってしまった。
あの佐祐理さんが、感情を剥き出しにするなんて、考えてもいなかったのだ。
「どうして祐一さんにそんなことが分かるんですか? 他人の祐一さんに、一弥の気持ちが、分かるわけがないじゃないですか!?」
普段とはまったく別人のように、佐祐理さんは感情的になっていた。
「いい加減なことばかり言って、これ以上佐祐理を惑わすのはやめて下さい!」
「いい加減なことじゃない! だって、佐祐理さんは俺に話してくれたじゃないか!」
俺もついつい、声を荒げてしまっていた。
「病院で一緒に遊んだとき、言葉を失った弟が、声にならない声を上げて、満面の笑みを浮かべていたって!」
「!」
佐祐理さんがハッと息を飲んだ。
そう。
佐祐理さんは前に俺に話してくれたことがあった。
病室のベッドの上で、佐祐理さんと一緒にお菓子を食べて、水の入っていない水鉄砲で遊んで、一弥は楽しそうに笑ったって。
「憎んでいる人の前で……恨んでいる人の前で、笑ったりすると思う?」
「そ……それは……」
「一弥はその時に分かったんだよ。本当の佐祐理さんのことを」
「……」
「本当は、自分と一緒に遊んで、一緒にお菓子を食べて、一緒に笑いあって……そして、自分のことを大切に思ってくれている、大好きな、お姉さんなんだって」
佐祐理さんは胸を衝かれたような表情で、俺の言葉を聞いていた。
「だから、佐祐理さんは悪いお姉さんなんかじゃない。一弥にとって、唯一の、家族であり、大切なお姉さんだったんだよ」
「佐祐理が……大切な……?」
呆然と呟く佐祐理さんに向かって、俺は大きく頷いた。
「……そう。だからさ、きっと一弥は……もし言葉が話せていたら……最後に佐祐理さんにこう言いたかったんじゃないかな……そう、」
言葉を続けようとした俺は、次の瞬間、耳を疑った。
それはひょっとしたら空耳だったのかも知れない。
いや、その辺を走り回っていた子供が、誰かに言った、他愛のない言葉だったのかも知れない。
しかし……
それは確かに、二人の耳に届いた。
まだ小さな男の子に特有の、少し甲高いような声で……
『ありがとう』
……と。
その言葉を耳にした瞬間……
「……一弥……!」
いつも笑顔を絶やさなかった佐祐理さんが……堰を切ったように泣き始めていた。
嗚咽を漏らし、止め処なく涙を流しながら。
「ごめん……ごめんね……っ……」
その言葉だけを繰り返しながら……。
俺はそんな佐祐理さんを……ただじっと見つめることしかできなかった。
☆
「はぇ〜……すっかり、日が暮れちゃいましたねー」
お墓参りの帰り道。
佐祐理さんが、夕焼け色を通り越して紺色がかってきた空を見上げながら、いつもの調子で呟いた。
「うーん。やっぱり日が暮れるのも早いんだなぁ」
俺もそんなのんびりした返事を返していた。北国だけあって、日の出は早いが日の入りも早かった。
ついでに日が暮れると気温がぐっと下がる。
既に袋の中の肉まんは冷めた状態を通り越して冷凍肉まん一歩手前という状態にまで達している。
「祐一さん、今日は本当にありがとうございました」
佐祐理さんが突然ぺこりと頭を下げて、
「佐祐理は……勘違いしていたのかも知れません」
「えっ?」
「一弥が佐祐理のことを恨んでいるだなんて思いこむのは、一弥にとっても失礼だったんですね。佐祐理の思い込みを、勝手にあの子に押しつけていただけだったんですね」
佐祐理さんは清々しい表情でそう言った。
「……そうかもしれないな。次に墓参りに行くときは、また遊びに来たよ、っていう感じでもいいんじゃないかな」
「じゃあ、今度は水鉄砲とお菓子を沢山持って行きましょう」
あははーっ、といつもの笑顔で佐祐理さんは笑った。
「はは……」
俺は思わず苦笑した。
あまりそれを前面に打ち出しても、他の人から見ると不謹慎に見えるから程ほどにしておいた方がいいんじゃないかとおもうんですけど。
「ま、まぁ、その方が弟さんも嬉しいんじゃないかな。沈んだ表情より、笑顔の佐祐理さんの方が絶対いいって」
「そうですね。……今日は祐一さんに色々教えてもらって、本当に感謝してます」
再びぺこりと頭を下げられて、俺は逆に恐縮してしまう。
「いやお礼を言われるほどのことはないし……むしろ佐祐理さんを泣かせちゃって、俺が謝らなきゃいけないぐらいだし……」
「あ……」
佐祐理さんが微かに赤面する。
「あれは、ついつい佐祐理が感情的になってしまっただけですから、祐一さんは気になさらないで下さい」
「そう?」
「ええ……」
そう言って佐祐理さんは恥ずかしそうに俯いた。
「そんなに恥ずかしかった?」
「はい……男の人の前で声を上げて泣いたのは、実は今日が初めてなんです」
「ふーん。佐祐理さんの(ある意味)『初めて』が俺だなんて、何となく光栄だなぁ」
「お父様に知られたら祐一さん、抹殺されるかも知れませんねー」
「……マジっすか!?」
「あははーっ。冗談ですよ」
冗談でも抹殺なんて言葉をお嬢様が口にするのはどうかと思いますが。
……いや、その前に、もしこのことが舞にバレたら一刀両断されそうだな。「佐祐理を泣かせた祐一は魔物も同然」とか言って。うわ、マジでやばい。
と一人で戦慄していると、
「ところで祐一さん、明日はお暇ですか?」
「え……ああ。昨日が終業式だったから、もうヒマだけど」
「じゃあ、今日からもう春休みだったんですね」
「そうなるな」
「じゃあ明日、ぜひ舞と佐祐理の部屋へ遊びに来て下さい」
佐祐理さんはとても楽しそうな笑顔で言った。
「引越祝いのパーティを開こうと思うんです」
「パーティか……」
また佐祐理さんの手料理が食べられるんだろうな、そう思うと俺まで嬉しくなってきてしまう。
「もちろん参加するよ」
「じゃあ、明日のお昼、部屋に来て下さいね」
「ああ」
返事をしながら、俺はふと思った。
(やっぱり佐祐理さん、いつまでたっても敬語で俺に話しかけてくるよな)
心の傷が癒されたとき、佐祐理さんは俺のことを普通に呼んでくれると前に言った。
(ま、そんな簡単には癒されないし……俺に癒す力もないか)
三人で一緒に生活する。その中で、きっと佐祐理さんの心の傷も癒されて、佐祐理さんにとっての幸せが見つかるのだろう。
俺と舞でその手助けが出きるといいな……。
「着きましたよ〜」
佐祐理さんの声が聞こえた。
見れば、佐祐理さんと舞が共同生活をしているアパート(いや、佐祐理さんはアパートと言ったが、俺の目にはマンションとしか映らないのは錯覚だろうか?)の前まで来てしまっていた。
「今日はここでお別れですね〜」
「ああ。それじゃあ、さようなら佐祐理さん」
「はい。また明日です」
佐祐理さんはぺこりと頭を下げて、舞の待つアパートへと歩き始めた。
俺もそれを見届けて、名雪と秋子さんのためにイチゴショートを買っていこうと商店街へと歩き出そうとした。
「……あの……」
「ん?」
背後から微かに佐祐理さんの声が聞こえ、俺は歩みを止めて振り返った。
アパートの入り口で、佐祐理さんが立ち止まって、ためらいがちに何かを口にしようとしていた。
「どうしたの、佐祐理さん?」
「えっと……」
佐祐理さんは少し逡巡したあと、俺に向かって満面の笑顔を見せてくれた。
その笑顔は本当に初めて見る、微かにはにかんだような笑顔で……
冷たく長い冬を堪え忍び、暖かな春を迎えてようやく咲いた花のような……そんな笑顔だった。
そして佐祐理さんは、大きな声で、こう言ってくれたのだった。
「また明日会おうね……祐一くん!」
(終)