4月1日の出来事
制作者 夕凪様 拝領 2003年3月30日 挿絵 800


<−4月1日の出来事−>


   夢。

   夢を見ている。

   あの時から、ずっと見続けていた夢。

   目覚めるまで、途絶えることなく繰り返されてきた夢。

   七年前の夢……


   夕焼けの街。

   焼きたてのたい焼き。

   指切り。

   白く深い森。

   てっぺんが赤く霞む、大きな木。

   白く染まった街の風景。

   息を切らせて駆けてくる男の子。


   ……と。
   不意に景色は暗転する。


   強い風。
 
   流れる風景。

   目の前に広がる白い世界。

   そして…………



「……わっ!」
 自分の悲鳴で、ボクは目を覚ました。
 心臓がどきどきしていて、両手でぎゅっとシーツを握りしめていた。
「…………」
 呼吸を整えながら恐る恐る辺りを見回す。
 もう夜が明けているのか、カーテン越しの光でさえも部屋の中は明るくなっている。
 傍らにはふさふさのカエルのぬいぐるみ。そして、部屋を埋め尽くすたくさんの目覚まし時計。
 すっかりお馴染みになってしまった名雪さんの部屋だった。
「うぐぅ……」
 まだどきどきする胸を押さえて溜息をつく。
 それは現実にあった光景。二度と見たくない悪夢。だけど……。
「……もう、昔のことなのに」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながら小さく呟く。
 そう、ボクは今ここに、こうして居るんだもん。

 ボクがこの家で暮らすようになってから、もうすぐ二週間が過ぎようとしている。
 この家っていうのはもちろん、祐一君や名雪さん、秋子さんのいるこの水瀬家のこと。病院を退院してから、ボクは秋子さんや名雪さんの勧めで祐一君たちと一緒に暮らすことになったんだ。

「ということは、これから毎日碁石が食卓に並ぶんだろうか……?」
「うぐぅ……料理だってちゃんと覚えるもん」
「一生かかっても無理だな」
「うぐぅ……」
「あゆちゃん、こんな事言ってるけど、本当は祐一さん、あゆちゃんと一緒に暮らせることを喜んでいるのよ」
「あ、秋子さん、変な事言わないでください……」
「あ〜! 祐一、赤くなってる〜」
「名雪も余計なこと言うなっ!」
「うぐぅ……ほんと?」
「ま、まぁ嫌ではないということだけは認めよう」
「うぐぅ……ありがとぅ〜」
「しかし、本当に嬉しくても悲しくてもうぐぅだな……」
「うぐぅ……ほっといて……」

 それからの二週間は、本当にあっという間に過ぎていった。
 かけがえのない時間。
 家族と呼べる人たちと一緒に過ごす時間。
 本当に、心から大切と思える人と一緒に過ごす時間。
 その一つ一つが、ボクにとっては本当に夢のようだった。
 決して訪れることがなかったはずの時間……決して覚めることがない夢の中で、延々と繰り返される夢の中で、ボクがずっと夢みていた……夢でしかないと思っていた時間。
 それが、今、目の前に確かに存在していた。
 でも……
 ボクは時々不安になる。
 目の前の幸せな風景もまた、本当は夢なんじゃないかって。
 何かのふとしたきっかけで、ボクの時間は、再び覚めることのない夢の中に戻ってしまうんじゃないか、って……。
 秋子さんの美味しい料理も。
 名雪さんの暖かい笑顔も。
 そして、
 祐一君と交わす他愛ないやりとりも、全て……

「それは考え過ぎだ」
 祐一君はそう言ってボクの不安を笑い飛ばしてくれる。
 ボクのほっぺたを引っ張って、
「ほーら、痛いだろー? 痛いんだから夢じゃないんだぞー」
 って意地悪く笑ってから、
「俺は、こうやってあゆの目の前にちゃんと存在しているし、これは夢なんかじゃなくって、れっきとした現実だ」
 そう言って、ボクのことをぎゅっと抱きしめてくれた。
「もう絶対に、どこにも行かせないから。俺は、ずっとあゆの側にいるから」
「うん……」
「約束する」
「うん……約束、だよ」
 祐一君の言葉がとても嬉しかった。そして、とても幸せだった。
 でも……
 幸せであればあるほど、ボクの不安は募るばかりだった。



 溜息を一つついて、改めて隣のベッドに目をやる。今の悲鳴で、名雪さん起きちゃったかもしれない……。
「……あれ?」
 名雪さんの姿が見えない。
 いつもはまだ寝ているはずなのに……?
 特に今はまだ春休みで、部活も休みが多いはずだから、いつもお昼ぐらいまで寝ているはずなのに。どうしたんだろう?
 首を傾げながら、窓に近づいてカーテンを開ける。途端に、春独特の柔らかい太陽の光が飛び込んできた。
 窓の外では、桜の花こそまだ咲いていないけれど、徐々に雪が溶け始め、ちらほらとではあるが新緑も芽吹き始めている。街は、見慣れた冬の景色ではなくて、遅い春の景色に変わり始めようとしていた。
 時刻は九時前。
 く〜、と小さくお腹が鳴った。頬が少し赤くなる。
「今日の朝御飯なんだろう?」
 着替えながらそんなことを考える。昨日がパンとコーヒーだったから、今日はご飯とお味噌汁かもしれない。秋子さんの料理だったら(特定の一品を除いて)どれも美味しいからどっちでもいいんだけどねっ。
 着替え終わって、ボクは部屋のドアを開けて廊下に出た。
 と同時に、隣の部屋のドアが開いて、まだ寝惚けた表情の祐一君が顔を覗かせた。
「あっ、おはよう、祐一君!」
 元気一杯の笑顔で挨拶する。
「…………」
 祐一君がゆっくりとボクの方を向いた。
「名雪さん、先に起きてるみたいだよ。もう朝ご飯食べてるのかな?」
 そう話しかけると、でも、祐一君は不思議そうな表情で首を傾げた。
「……誰だ、お前?」
「ひょっとして、まだまだ寝惚けてる? ボクだよ」
「俺には自分のことを『ボク』なんて一人称で呼ぶ知り合いはいないぞ」
「うぐぅ……いじわる」
 今までさんざん言われてきた言葉だった。
「ましてや、人の家に無断で上がり込む知り合いもいない」
「祐一君、変な事言ってるよ?」
 本当に不思議そうな……ううん、なんとなく不審人物を目の当たりにしたような表情を浮かべる祐一君に向かって、
「ボクだってこの家の一員なんだから、無断で上がり込んでるんじゃないよ」
「家族の一員だって? そんな馬鹿な」
 祐一君はそう言って眉を顰めた。
「だいたいお前は誰なんだ?」
 うぐぅ〜…今日の祐一君、本当に意地悪だよ〜。
「もう、本当に怒るよっ。ボクのこと忘れちゃったの?」
「忘れるも何も」
 祐一君はそう言って肩を竦めて見せた。
「俺はお前のことなんか、全然知らないぜ」
「…………祐一君?」
 ボクは祐一君の様子がおかしいことに気がついた。
 ボクのことを、勝手に人の家に上がり込んだ家出少女でも見るような目で見て警戒しているし、口調もなんだか余所余所しい気がする。
 いい知れない不安感が襲いかかってくる。
「本当にボクのこと……忘れちゃったの?」
「だから、誰だよって訊いているだろ?」
「ボクだよ、月宮あゆ……」
 それを聞いた瞬間、祐一君の表情が微妙に変化した。
「……月宮、あゆ?」
 そうボクの名前を繰り返すように呟いた後、
「はは……そんなことあるわけないだろ?」
 祐一君は乾いた笑い声を上げた。
「……祐一君?」
「だって、あいつは七年も昔に大木から落ちて……この俺の目の前で」
「……」
 不意に、さっき見た夢の断片が脳裏に甦る。
 森の真ん中に立っていた、大きな木。
 その太い枝に登っていたボクは、白い息を吐きながら走ってきた祐一君に手を振ろうとして……突然の強風に煽られてバランスを崩して……。
「でも、でもボクは今ここに……祐一君の目の前にいるよ……」
「それじゃあ、俺は夢を見てるってことか?」
 祐一君は面白い冗談でも聞いたかのような表情を浮かべた。
 七年前に死んだはずの人間が、目の前にいるはずがない。もしいるとしたら、それは俺が夢を見ているだけに過ぎないってことだ。そう言わんばかりの表情だった。
「…………そんな…………」
 足元が無くなるような感覚が襲いかかってくる。
 やっぱりこれは夢なの? ボクはあの繰り返される夢の中で、幸せな夢を見続けていただけなの?
 今までの……ほんの二週間の間の幸せな生活と、七年間繰り返されていた夢の情景がぐるぐると頭の中で回転した。
 どれも現実のようで現実ではない気がした。
 ずっと……
 ずっと待っていた。
 明けない夜が明けるのを。
 でも……
 夜が明けたと思ったら、やっぱりそれは夢の風景。
 ボクはまだ夢の中をさまよい続けている……明けることのない夜の中で。
 そういうことなの……祐一君……?

「なーんて、びっくりしたか、あゆ?」

 からかうような声。
 その声にふと我に返ると、
「ウソだよ、じょーだん」
 祐一君が、いつも通りの悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
「ほら、今日って4月1日だろ? エイプリル・フール。だから、お前をビックリさせてやろうと思ってさ……驚いたか? あ、ひょっとして信じちゃったとか? 俺って演技派だよなぁ」
 少し早口にそう説明した。
「あ…………」
 エイプリル・フール。
 一年に一度、罪のない冗談で、相手を担いでもいい、と言われている日。
「……嘘、だったんだ」
 祐一君のさっきの言葉は。
「あったり前だろ?」
 祐一君が笑顔で言う。
 その笑顔を見て、ボクはホッと、安堵の溜息をつこうとした。
 でも……
 それさえも……その祐一君の言葉さえも、本当はボクの願望なのかもしれなくて。
 本当は……ボクはまだ、あの夢の中に……いるのかもしれなくて……
「……いじわるだよ。祐一君……」
 そう言って笑おうとしたけど、笑えなかった。代わりに視界が滲んできて……
「ボク……もう分からなくなっちゃったよ……」
 何が現実で、何がそうでないのか。
 目の前の全てが、現実なのかそれとも幸せな夢に過ぎないのか……。
 ただ、目の前にいる祐一君に涙を見られるのが嫌で……
 ボクは、思わず駆けだしていた。



「お、おい、どうしたんだよ! あゆ!」
 俺は慌てて大声を上げていた。突然、あゆが階段を駆け下りていったからだ。
 咄嗟に追いかけようとする。
 階下でドアが開く音。
 と同時に小さな悲鳴が上がった。名雪の声だ。買い物に行っていた秋子さんと名雪が戻ってきたらしい。
 急いで階段を駆け下りると、玄関でしりもちをついている名雪と、買い物袋を下げたまま不思議そうな表情でドアの外を見つめている秋子さんが目に入った。
 あゆの姿はない。
「大丈夫か、名雪」
 取り敢えず名雪に声をかける。
「うん。わたしは大丈夫だけど……」
「あら、おはようございます、祐一さん」
 相変わらずのマイペースで俺に挨拶をした秋子さんが、いつもと変わらぬ口調でこう続けた。
「なにか、あったんですか?」
「いえ……大したことじゃないと思うんですが」
 俺は答えた。
「ちょっとした、エイプリル・フールの冗談のつもりだったんですけど……」
「……そう」
 その一言で全てを察したらしい秋子さんは頷いて、
「でもね、祐一さん。ちょっとした冗談のつもりでも、相手を傷つけてしまうことだってあるのよ」
 諭すようにそう言った。
「あゆちゃん、泣いてたよ……」
 心配そうな表情で、名雪が言い、俺の方をじっと見つめる。
「祐一……」
 名雪の視線には非難の色はなかったのに、俺はそれから逃れるように顔を背けた。と、玄関の脇に、すっかりお馴染みになったダッフルコートが掛かったままであることに気が付いた。
(あゆ……)
 いくら春が近づいているとは言え、コートなしではまだ寒いはずだ。
「……」
 駆け出す前のあゆの表情は……俯いていたのでよくは分からなかった。
 でも……。
 俺の冗談を聞いたときのあゆの表情だけはよく覚えていた。
 それは、あの森で見せた……どうしようもない悪夢を目の当たりにしたような、絶望的な表情によく似ていたから。
「……俺、ちょっと行ってきます!」
「祐一さん」
 駆け出そうとした俺に、秋子さんが優しく声をかけた。
「お昼御飯、少し遅めに用意しますから、みんなで食べましょうね」
「……はい」
 頷いて、俺は外に飛び出した。
「いってらっしゃい〜」
 名雪ののんびりした声が、閉まりかけたドアの向こうから聞こえてきた。

(馬鹿野郎……!)
 走りながら、俺は自分自身を罵っていた。
 秋子さんに言われるまでもなかった。
 あゆのあの表情。
 それだけで俺は全てを理解していた。
 俺の、ちょっとしたジョークのつもりだった言葉が、あゆをどれだけ不安にさせたか。あゆをどれだけ傷つけたのか。
 七年間、眠り続けたあゆ。
 同じ夢を繰り返し見ていたあゆ。
 あいつにとって、今の俺たちとの生活は、正しく夢にまで光景に違いないのだ。
 夢にまで見た現実……。
 それを俺の一言が、再び夢の光景に戻しかけてしまった。
 目の前の光景は、実は全て夢に過ぎないかもしれない……俺はあゆにそんな恐怖を味わせてしまった。
(あゆに謝らなくちゃいけない。一刻も早く……)
 俺はそう強く思いながら、仄かな白化粧を施された街を走り続けた。
(しかし……)
 探すと言っても、一体どこに行ったのだろう?
 何ヶ所かあてはある。
 しかし、そのうちの何処に行っているか、までは分からない。
(片っ端から当たってみるしか無さそうだな……)
 まずはいつもの待ち合わせ場所へ急ぐ。
 信号が赤から青へと変わるその時間さえももどかしく、俺は駅前に急いだ。

 果たして……
 駅前に、あゆの姿はなかった。
「…………」
『遅刻だよっ、祐一君』
 そう言って笑顔で駆け寄ってくる少女の姿は、いつものベンチには見られなかった。
 無人のベンチが、俺の焦りを誘った。
(……次だ)
 今度は商店街へ向かって走り出していた。
 あゆと出逢って。
 一緒にたい焼きを食べて。
 他愛のない会話を交わしながら歩いた商店街へ……七年ぶりに再会した商店街へ。

 しかし……
 そこにも、あゆの姿はなかった。
「おう、今日は一人かい? 兄ちゃん」
 唐突に声をかけられ、振り返る。
 そこには、いつものたい焼きの屋台が出ていた。
「いつもの女の子はどうした? 一緒じゃないのか?」
 人の良さそうな屋台のオヤジが、少しからかうように訊いてきた。
「えっ、と……今日は……ちょっと訳アリで……」
 歯切れの悪い口調に、屋台のオヤジは察したような表情になって、
「ひょっとして、ケンカか?」
「ええ、まぁ……そんな感じです」
「ダメだぞ、女の子を泣かせちゃあ」
 オヤジはそう言った。
「まぁ、ケンカするほど仲が良いって言うから、少しはケンカぐらいしてもいいのかもしれないがねぇ」
「……」
 ケンカではない。俺が一方的にあゆを傷つけたのだ。しかし、そのことまで口にする気にはなれなかった。
「それで、今日はどうする? たい焼き、買ってくかい?」
 焼きたてのたい焼き……。
『やっぱりたい焼きは焼きたてが一番だよねっ』
 そう言って、嬉しそうにたい焼きを頬張る少女の姿は、しかし、ここにはない。
「どうした? 今日は買わないのかい」
「あ……えーと……」
 俺は少し迷った末、買いますと答えた。
「いくつ入れようか?」
 大きめの紙袋を取り出すオヤジに向かって、俺は個数を告げた。
 オヤジは一瞬怪訝そうな表情になったが、すぐに焼きたてのたい焼きを頼んだ個数だけ紙袋に放り込み、俺に差し出した。
「へい毎度」
 代金を渡して紙袋を受け取る。
「早く謝った方が良いぞ、兄ちゃん」
 屋台のオヤジの声を背に受けながら、俺は最後の心当たりに向かって走り出した。

 俺は焦っていた。
 もう絶対にいなくならない。どこにも行かせない。そう思っていたあゆがいま、俺の目の前からいなくなってしまっていた。
 あの時に似ている、そう思った。
 だから……
 いまあゆを見つけられなければ、今度こそ、永遠にあゆは俺の前から姿を消してしまうのではないか……そんな不安に駆られるのだった。
 その不安が俺の焦燥を更に掻き立てる。
(ひょっとしたら、あそこにもいないかもしれない……)
 そんな不吉な考えが何度も脳裏をよぎる。
 俺は矢も楯もたまらず、森の小径に足を踏み入れた。



 大きな木。
 正確には、大きな木の切り株は、変わらぬ姿をそこに晒していた。
 すっかり春めいて来たこの街で、未だに木々が白い雪を湛え、地面もその白化粧を落としていないこの森の、かつてはシンボルだった大きな木の切り株に腰掛けるようにして、一人の少女が寂しげに佇んでいた。
 後ろ姿だったが、間違いなかった。
 見間違えるはずがなかった。
「…………あゆっ!」
 俺は思わず叫んでいた。
「えっ!?……あ……祐一君……?」
 急に背後から大声で名前を呼ばれたあゆは一瞬びっくりしたように振り返り、しかし、俺である事に気付くと微かに安心したような表情を浮かべた。
「どうしたの? こんな所に……」
「ばかっ! どうしたのじゃないだろっ」
 思わず大声を上げてしまう。
「急にいなくなったりして……本当に心配したんだぞっ!」
「うん……ごめんね、祐一君」
「ばかっ! どうしてお前が謝るんだよっ!」
 俺がつまらないことを思いついて、お前を傷つけたっていうのに。
「だって、祐一君を心配させちゃったんだもん。ボク悪い子だよね」
「だったら俺は極悪人だ。……本当にごめんな、あゆ」
「ううん。ボク全然気にしてないよ」
 あゆはそう言って、
「ただ……ここに来れば、全部ハッキリするんじゃないかと思って」
「それに、やっぱり祐一君が来てくれたから」  大きな木の切り株を見つめた。
「これが夢なのか現実なのか……でも」
 あゆは切り株を優しく撫でながら、
「うん、これでハッキリしたよ。やっぱり、これは夢じゃないんだって」
「……」
「だって……ボクが登っていた樹は、やっぱり切られちゃってたし」
 あゆは哀しげな表情でそう言ってから、
「それに、やっぱり祐一君が来てくれたから」
 そう精一杯の笑顔を浮かべた。
「どうして……そんなに笑うことができるんだよ……?」
 俺は、お前を傷つけたっていうのに。
「そんなの決まってるよ」
 あゆは笑顔のままで言った。
「だってボク、祐一君のこと好きなんだもん」
「……あゆ……」
 俺は思わず、あゆを抱きしめていた。
「悪かった……ホントに悪かった」
「ゆ、祐一君……?」
「俺は二度と、お前を悲しませたりしない。今度こそ、絶対にずっとお前の側にいる」
「ホントに……?」
「…………ああ」
「本当に本当にほんと?」
「本当に本当にほんとだ」
 俺は更にぎゅっと、力強く、あゆの身体を抱き締めた。
「絶対に、俺はあゆの側から離れない。ずっと一緒にいる。……約束するよ」
「うん……約束、だよっ」
 俺の顔を見上げ、あゆが涙ぐみながら、にっこりと微笑みながらそう言ってくれた。
 それでようやく、俺も安心することができたのだった。

「あ、そうだそうだ」
 俺はポケットに、たい焼きの入った紙袋を入れておいたことを思い出した。
「たい焼き買って来たんだけど、食べるか?」
「うん、食べる!」
「じゃあ……」
 俺は袋からたい焼きを取り出し……半分に分けた。
「はい、半分こだ」
「え……?」
 あゆは目を丸くする。「全部くれるんじゃないの?」
 ぼかっ。
「うぐぅ……どうして叩くの?」
「今日はたい焼きは一個だけしかないの! だから、半分だけ」
「そうなの?」
 あゆは一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべたが、
「でも……一個のたい焼きを二人で分け合って食べるっていうのも、いいかな?」
 と言って恥ずかしそうに笑った。
「な、何恥ずかしい事言ってんだよ」
 俺は思わず赤くなる。狙っていたとはいえ、口に出されると赤面してしまう。
「……冷めちまったな」
「冷めてても美味しいよっ」
 あゆはにっこりと微笑んで、
「だって、祐一君と一緒に食べるたい焼きだもん」
 完熟トマトのように真っ赤になったのは俺の方だった。

 半分ずつのたい焼きを腹に収めた俺たちは、日が傾き始めた森の小径を、ゆっくりと歩き始めた。
 俺たちの帰りを待っている秋子さんや名雪のいる水瀬家へ向かって。



 その夜……
 そろそろ、風呂にでも入ろうかと思い立ったとき、不意にこんこんとドアがノックされた。
 このノックの間隔からすると……
「名雪か? 借りてたノートなら学校だぞ」
「うぐぅ……ボクだよ……」
「冗談だ」
 分かってるのに思わずからかってしまうのはいつものことである。つい数時間前、その悪戯心が大変な事態を引き起こしたことは既に忘却の彼方……というわけではないが、まぁこのぐらいはいいだろう、うん。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「入ってもいい?」
「ああ、別に構わないぞ」
 ドアを開けてあゆが入ってくる。両手を後ろに回して……何かを隠しているように見える。まさか凶器?……それはないか。
「あのね……祐一君」
「何だ?」
 更に気が付く。頬を赤くしてもじもじしているあゆの方から、なにやら香ばしい匂いが漂ってくることに。
「これ……食べてもらえるかな?」
 そう言って、あゆが手にしたモノを俺の前に突きつけた。
 小さなお皿に載せられたそれは、どこからどう見てもたい焼きだった。
 しかも、一口サイズの小さなたい焼きだった。
「……きんぎょ焼きか?」
「うぐぅ。これでも立派なたい焼きだもん」
「冗談だって」
 祐一は更に冗談のつもりでこう聞いてみた。
「……ひょっとして、お前が焼いたのか?」
 あゆはにっこりと笑みを浮かべて、元気良く頷いた。
「うんっ」
「風呂に入ってくる」
「うぐぅ〜、祐一君、本当に意地悪だよ〜」
 あゆが拗ねる。
「せっかく秋子さんに何度も教わって焼いたのに〜」
「焼かなくていいって」
「祐一君のために、頑張って作ったのに……」
「……」
 さすがに「作らなくていいって」とまでは言えなかった。
 夕食の後から今までずっと作っていたのだとしたら、大変な苦労であっただろう。秋子さんも。
 取り敢えず皿の上のたい焼き状の物体に目をやる。いつもの碁石ではなくて、きつね色に香ばしく焼き上がっていた。……ひょっとしたら、最終的には秋子さんが焼いたのかもしれない。
「しゃーない、今日は特別に食べてやろう」
「……ほんと?」
「取り敢えず見た目が食えそうだからな」
 あゆの料理にしては珍しく黒くないのが決め手だ。
「……外見に反して、まさか中の方が真っ黒、というオチだったりはしないだろう」
「祐一君、おかしな事言ってるよ?」
 あゆが笑った。
「中はこしあんだから、きっと黒いよ」
 ぼかっ。
「うぐぅ〜、どうして叩くの……」
「なんとなくだ」
「うぐぅ……」
「じゃ、いっただきまーす」
 一口サイズのたい焼きを、ぽいっと口に放り込む。
 もぐもぐもぐもぐ……。
「どう? 美味しい?」
「…………」
「祐一君?」
「…………う」
「う?」
「う、美味いっ! すっごく美味しいぞ、このたい焼き!」
「本当?」
「ああ、これだったら何個でも食えるぞ」
 俺は言いながら皿の上に残っていたたい焼きに手を伸ばした。
「良かった……」
 あゆが微笑む。目の端に光るものが浮かんでいるように見えたのは、俺の気のせいではないだろう。
 しかし……この一口たい焼きは美味い。何故か美味い。
「なあ、あゆ」
「うん? なに?」
「これさぁ、すごく美味しいけど……こしあん以外にも何か入ってないか?」
「ううん、ただのこしあんだよ」
「う〜む、ただのこしあんじゃこの味は出せないと思うけどなあ」
 ぱく。
 もぐもぐ……。
 うん、やっぱり、あの屋台のたい焼きより美味しい。
 なにか、水瀬家秘伝の調味料とか、そんなのが入ってるんじゃないだろうか? あるいは秋子さん特製の……いや、そっちの可能性について考えるのはやめよう。
 ああ、ひょっとしたら、やっぱり秋子さんが焼いたのかも知れないな。
「これ、本当にあゆが焼いたのか?」
「ホントだよ」
「本当に本当か?」
「ホントにホントだよ」
「本当に本当に本当か?」
「ホントにホントにほんとだよっ」
 しつこく訊ねる俺に、あゆは機嫌を損ねるどころか、逆ににっこりと微笑んで、
「そんなに美味しかったの?」
「ああ、あゆが作った料理の中では最上級に美味かった」
 俺は、本心からそう答えた。
「そう言ってもらえると、本当に嬉しいよっ」
 こぼれるような笑みを浮かべたあゆだったが、
「あっ、ボク、後片付けしなきゃいけなかったんだ」
 思い出したようにそう言うと、部屋を出ていこうとした。
 が、その足がドアのところで止まる。
「あの……ごめんね、祐一君」
 不意にあゆが振り返って、そう謝った。
「何がだ?」
「ボクも、祐一君にウソついちゃったんだ」
 その言葉に、俺は意地の悪い笑みを浮かべた。
「やっぱり、実は秋子さんが焼いたヤツだったとか?」
「違うよっ」
 あゆはそう否定してから、
「……たい焼きの中身、こしあんだけだって言ったでしょ?」
「ああ」
「実は、それ以外にも入ってたんだよ」
 やっぱり、と俺は思った。
「水瀬家直伝のダシか?……まさか例のジャムだとか言わないよな?」
 ううん、とあゆは頭を振ってから、
「……ボクの『祐一君のことが大好き』っていう気持ちが、い〜っぱい、こもってたんだよっ」
 恥ずかしそうに頬を真っ赤に染めて、そう微笑むと、今度こそあゆは廊下をぱたぱたと駆けていった。
「…………」
 一人、部屋に残された俺も、頬が赤くなっているのがよく分かった。
(俺のことが大好きだって気持ちが詰まってる、って……)
 皿の上の小さなたい焼きを、口に運ぶ。
 もぐもぐ。
(……誰だよ、愛情は一番の調味料だ、なんて言った奴……)
 本当にその通りじゃないかよ。
 でも、いくら俺でも、いきなりあんな事言われたら照れるよなぁ……。
 ぱく。
 照れ隠しにたい焼きを頬張る。
 美味しかった。
 小さなたい焼きなのに……腹だけじゃなくて、心まで満たされていくような……そんな感じがした。
(ああ……これが幸せをかみしめる、ということなのかもなぁ)
 ガラでもないことを考えながら……4月1日の夜は更けていった。

(終)

 <あとがき>

 こっ恥ずかし〜です〜(笑)

 今回は祐一とあゆのお話です。
 祐一の何気ない(?)4月バカによって引き起こされる出来事のお話でした。
 ちなみに、あゆは病院を退院して水瀬家にお世話になっているという設定です。
 一応ほのぼの系のつもり……なんですけどね。いかがだったでしょうか?
 それでは〜。

 2003.3.28 夕凪


800のコメント
 毎度おなじみのKanonSS作家、夕凪さんから頂きました。当サイトの開設3周年に合わせて、エイプリルフールというちょうど時宜を得た題材による作品を頂けたことに、改めて感謝します。
 誰しも一度は、何気ない冗談や嘘が、言った本人が全く予想しなかった形で、他の人を傷つける結果になってしまった、という苦い経験をしていると思います。それを思うと、祐一の立場がちょっと身につまされる話です。
 途中は波乱を見せていても、最後は丸く収まって、結末は読者もお腹いっぱい(失礼)。夕凪さんのSSの中でも“甘さ”が際立っている作品であると思いますが、これも氏の作風のうちです。私には、なかなか書けそうにない文章です。

(2003.4.1)
補足
 SSを頂いてから丸2年も経ちましたが、この作品にも挿絵を描きました。
(2005.4.9)

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