番外日記 |
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主人公 比良坂初音 は、数百年にわたって生きてきた巨大なジョロウグモ(1)。銀(しろがね)との闘いで受けた傷を癒し力を蓄えるために、乙女の姿をとって人間界に潜り込んでいます。その力の源となるのが人間の精気、特に若く純潔な人間のそれがよい。ということで、県立八重坂学園(2)の一角に巣を営み、学園の生徒を取り込んで、初音に精気を差し出す「贄(3)」にしようと企てるところから始まります。
人間よりずっと強大な力を持つ者である初音が人間を罠にかけて獲物にし、その一方では、ストーリーの途中(つぐみの章)から姿を現すのは、初音を討ち果たそうとする僧形の銀。ここまで見ただけでは、いかにも「初音=悪、銀=善」の単純な二元論的世界に見えますが、善玉に見える銀が、初音に対する手兵として、誰がどう見ても悪玉にしか見えない猪口を取り込むくだりで、「ん?」と感じるのです。一般的な先入観として、目的のためなら手段を選ばないのが悪玉、目的がいくら正義に適っていても後ろ暗さを感じるような手段は使わないのが善玉、というのがあるとすると。 結末が近づくにつれて明らかにされる、銀と初音の関係は、上のような予想を完全に覆します。ずっと昔からこの土地には蜘蛛神(それが銀)に人身御供として乙女を捧げる風習があり、約400年前に捧げられた初音を、銀が自分と同じような蜘蛛に変えたのがそもそもの始まり。約200年前に銀が別の人間に心を寄せた時、初音は銀に対して憎しみを抱き、以後初音と銀は闘い続ける間柄になりますが、それも200年も続いてしまうと、初音には憎しみもなくなって、一種の退屈しのぎになってしまっています。それでも初音はまだ、銀との闘いには本気になって情熱を燃やして(変な言い方ですが)いますが、銀にとってはそれも戯れにすぎず(初音よりさらに圧倒的な力を持っていることを意識しているからでしょうし)、そもそも銀にとってはかつて初音を蜘蛛に変えたことすら、悠久の時を生きる間の、一時の気まぐれだったようです。太古の昔から、永遠と言うにふさわしい時間を生き続けている銀に比べ、かつては人間だった初音には、数百年という時間は退屈せずに生き続けるには長すぎたのでしょう。それが最もはっきり現れるのは、バッドエンド直前で初音が銀に「人間を殺しながら生き続けることに飽きた」と告げる場面だと思います。 「月姫」のシナリオにも、不老不死の真祖や、自ら不老不死になろうと望んで人間から変じた一部の死徒は、永遠に続く生を手に入れたとたんに、永遠に続く恐るべき退屈に苛まれることになった、というような叙述があったと思います。真祖ともなるともう退屈に感じる心すら摩滅してしまっているかもしれませんが、真祖に比べればまだ娑婆っ気の残っている死徒は、退屈に耐えきれずに気晴らしを始める、それが吸血種の勢力拡大競争だ、とシエルが説明していたような……。 善悪二元論では割り切れないと思ったのは、初音は生きるために人間の精気あるいは血肉を必要としているのだから、それを摂る行為を“悪”と決めつけることができるのか、と感じたことです。もしそれを、人間の側からの視点で”悪”と決めつけるとしたら、それはあまりにも不当でしょう、私たち人間だって生きるために数多の動植物を殺さないわけにはいかないのですから。 旧版をプレイした時(2000年11月)にも、同じようなことを考えていました。その頃コンプリートしていたノベルゲームは「雫」と「痕」だけだったのですが、両ゲームで主人公に敵対する登場人物についても、同じように単純に“悪”とは決めつけられないのではないか、と思ったものです。 雫で言えば、不幸な家庭環境の中でたった一つの心のよすがだった兄妹愛を、近親相姦という最も歪められた形で暴発させた月島拓也。痕で言えば、狩猟者たるエルクゥの本能を人間としての理性で抑え切れなかった柳川。彼らを“悪”と決めつけることができるでしょうか? 雫のエンディングで主人公が独白するように、誰も悪くないのに、運命の歯車がわずかに狂い始めたことから、みんなが不幸になった、彼らも被害者だったのではないでしょうか。 アトラク=ナクアというゲームは今のところ、アリスソフト唯一のノベルゲームといわれていますが、旧版が発売された(1997年12月)頃にはパソコン用のノベルゲームを名乗っていたのはLeafの三部作(雫・痕・ToHeart)くらいだったようで、そんな時期に、しかも単独ではなく「アリスの館4.5.6」の1本として発売されたアトラク=ナクアは、多分に実験作的な目的があったと思います。 その実験作的な点は、例えばシナリオの分岐が極端に少なくて事実上ハッピーエンドへの一本道であるとか、シナリオの分量も月姫に比べたら少ない(というか月姫のシナリオが、同人ソフトとしては異例なほど多いのですが)といったところに現れている気もしますが、その中でこれは斬新な着想だと思ったのは、シナリオで読ませるゲームとしては非常に珍しい三人称のゲームであることです。この日記を書く前に、インターネットでアトラク=ナクアのレビューをいくつか見たのですが、この点に触れていたレビューはあまり多くなかった気がします。 三人称であることによって、たいていの場面は初音のすぐ近くからその行動を見ている形で叙述が進むのですが、初音に見えない所で銀が動き出すというような場面では、ごく自然に場面転換ができるようになっています。つぐみの章から先は場面転換がかなり頻繁なので、三人称を採用したのは正解だったと思います。 それから最近の再プレイの際に思い当たったのは、初音が一見“悪”の側に属しているかに見えるこのゲームは、もし初音に感情移入できなかったら、到底プレイするに耐えない恐れがありますが、初音の一人称を避けて三人称にしたことで、プレイヤーは初音から一歩離れた所に立つことになり、「感情移入できなくなる恐れ」を軽減することになったのではないか、ということです。 私はアトラク=ナクアの他にもアリスソフトのゲームはいくつか持っていますが、まともにプレイしたゲームは実は一本もありません。アリスの館4.5.6を買った後、同梱されていた「零式」と「ランス3」に手を着けてみたことがありますが、たちまち放り出しました。その理由は一にかかって、主人公(零式では鳳姉妹、ランス3ではランス)に全く感情移入できなかったからです。
(1) ちなみにアトラク=ナクア(Atlach=Nacha)とは、クトゥルフ神話に登場する、蜘蛛の形をした生物だそうですが、このゲームはクトゥルフ神話とは関係ないそうです。でも、それでよかったと思います。神話の方でのアトラク=ナクアの描写は
蜘蛛の神。
アトラナートとも。ツァトゥグアと共に幽閉された蜘蛛の王は、黒く輝くンカイの中、もしくは下に住み、広大な深淵に巨大な巣を張りつつ、無限の幽閉期間を送っている。人間ほどの大きさの蜘蛛の体を持ち、昆虫の器官を多数有する。狡猾さをたたえた小さな目は、黒炭色の体に生える毛に包まれていて、甲高い声を出す。 ……なんか全然、美しくないですもの。[戻る]
出典:「クトゥルー辞書(1)」http://www6.gateway.ne.jp/~himukai/cthulhu/cthulhu0.html
(「GeistGruppe」http://www6.gateway.ne.jp/~himukai/ 内) (3) 初音と贄の関係は、「月姫」で言うところの真祖(人間とは異なる、不老不死の吸血種)と死徒(真祖に血を吸われて吸血種になった、もとは人間であった者で、真祖に血を吸わせるために生き永らえている)の関係に似ています。正確には、蜘蛛神と呼ばれる存在である銀が真祖、もとは人間であって銀の力によって今は不老不死になった初音が上位の死徒、初音によって人間ならざる者に変えられた贄は下位の死徒あるいは死徒になり切れていない死者(月姫用語の)となるでしょうか。[戻る]
(3月11日アップ) |
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